宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

ブログ内容の紹介

謎の多い宮沢賢治の作品をそこに登場する植物を丁寧に調べることによって読み解いています。本ブログの内容は,ブログ名について,作品論,エッセイの3項目から構成されています。作品論とエッセイにあるカテゴリー名末尾の括弧内の数字は各カテゴリーの記事数を表します。例えば,「やまなし(41)」は童話『やまなし』に関して41つの記事があることを表しています。各カテゴリー名をクリックすると記事名が表記され,さらに記事名をクリックすると本文を読むことができます。『銀河鉄道の夜』に関しては記事数が多いので「銀河鉄道の夜(総集編) (5)」を最初に読んでいただければと思います。

 

1.ブログ名について

橄欖の森とは

 

2.作品論

小岩井農場(5)

敗れし少年の歌へる(7)

芥川龍之介(13)

業の花びら(21)

蠕虫舞手(5)

二十六夜(3)

サガレンと八月(2)

四又の百合(4)

ガドルフの百合(6)

土神ときつね(6)

氷河鼠の毛皮(4)

シグナルとシグナレス(3)

ビヂテリアン大祭 (1)

やまなし (41)

若い木霊 (8)

水仙月の四日 (1)

どんぐりと山猫 (2)

春と修羅 (20)

風野又三郎 (1)

十力の金剛石 (2)

花壇工作 (1)

鹿踊りのはじまり (1)

北守将軍と三人兄弟の医者 (1)

毒もみの好きな署長さん (1)

マグノリアの木 (1)

銀河鉄道の夜(目次) (1)

銀河鉄道の夜(種々) (7)

銀河鉄道の夜(心理と出自)(5)

銀河鉄道の夜(三角標) (11)

銀河鉄道の夜(宗教) (6)

銀河鉄道の夜(リンゴ) (7)

銀河鉄道の夜(発想の原点) (12)

銀河鉄道の夜(総集編) (5)

ひのきとひなげし (1)

なめとこ山の熊 (1)

烏の北斗七星 (6)

よく利く薬とえらい薬 (4)

 

3.エッセイ

賢治と化学(1)

宮沢賢治の母(3)

鬼滅の刃(2)

烏瓜のあかり (3)

賢治作品に登場する謎の植物 (5)

希少植物 (1)

湘南四季の花 (4)

 

 

個人よりも皆の幸いが優先されるとする詩「小岩井農場」(パート九)の理念は正しいのか(試論 5)-出版を通して世に問うた-

 

5.詩集『春と修羅 第一集』を出版して理念と命題の正しさを世に問うたが成功しなかった。

 

賢治は恋愛から宗教情操へ戻ることが正しいという自分の考えを第三者から支持してもらおうとしたと思われる。その一つの手段が「小岩井農場」(パート九)のある著書の出版である。つまり,賢治は詩集『春と修羅 第一集』の出版(1924.4.20)を通して,詩の出来映えを評価してもらうだけでなく恋愛から宗教情操へ戻る妥当性を他人,とくに宗教家に問うことにしたと思われる。これは恋人との別れを正当化するものにほかならない。つまり,賢治は恋人との別れには必然性があったとしたかったと思われる。「瓔珞をつけた素足の子」を感じ,あるいは「白い大きな手」を幻視し慢心になった賢治は詩集『春と修羅』が多くの人たちに受け入れられなくても,宗教家や知識人からの支持は得られるもの思った。あるいはそう信じようとしたと思われる。賢治は大正13年(1924)1月20日に「序」を書き,「この序文は相当自信がある。後で識者に見られても恥ずかしいものではない」と上機嫌で弟たちに読んできかせたという(堀尾,1991)。贈呈した人の記録が残っていないので,どのような宗教家に贈ったのかは定かでない。

 

この「序」には「これらは二十二箇月の/過去とかんずる方角から/紙と鉱質インクをつらね/(すべてわたくしと明滅し/みんなが同時に感ずるもの)/ここまでたもちつゞけられた/かげとひかりのひとくさりづつ/そのとほりの心象スケツチです」と記されている。「二十二箇月の/過去とかんずる方角から」とは恋愛から宗教情操に戻ると決意した日を1924年1月20日とすれば,この日から22か月前の詩「恋と病熱」(1922.3.20)「けふはぼくのたましひは疾み/烏さへ正視ができない・・・」を書いた日からという意味である。つまり『春と修羅 第一集』には恋に落ちてから1年後に恋を諦め,再び「みんなの幸い」を願うことを決意した日までのことが書かれている。そして,それが正しいことだったかどうかが問われている。

 

しかし,結果は賢治の予想とはかけ離れたものになった。

 

詩集を出版して10か月後,大正14年(1925)2月9日の森佐一宛書簡(200)には「私はあの無謀な「春と修羅」に於て,序文の考を主張し,歴史や宗教の位置を全く変換しやうと企画し,それを基骨としたさまざまの生活を発表して,誰かに見て貰ひたいと,愚かにも考へたのです。あの篇々がいゝも悪いもあったものではないのです。私はあれを宗教家やいろいろの人たちに贈りました。その人たちはどこも見てくれませんでした。「春と修養」をありがとうといふ葉書も来てゐます。・・・・辻潤氏,尾山氏,佐藤惣之助氏らが批評して呉れましたが,私はまだ挨拶も礼状も書けないほど,恐れ入ってゐます。私はとても文芸だなんといふことはできません。・・・」(宮沢,1985)と記されている。この書簡でも解るように贈った先を「宗教家やいろいろな人たち・・・」としているように宗教家を重視している。 

 

つまり,賢治は『春と修羅 第一集』で,これまでの歴史書や宗教書に書かれてあることとは全く異なることを主張したが,辻氏,尾山氏,佐藤氏ら一部の文学者に詩の出来具合を褒めてもらえたものの,宗教家たちには自分の宗教に対する考え方をまったく評価されなかったと嘆いているのである。また,書店などに出されたものもほとんど売れなかったという。堀尾青史(1991)は自著で「『春と修羅』は,我が国の詩史の中でも,最もユニイクな立場を主張する優れたものであるが,このときは著者からどんどん寄贈され,100部も売れたかどうかわからない。贈られたある女学校の先生は折しも気候が春であったから,「時節柄,春と修養をありがたう」と礼状をよこしたほどで,どれだけの人が正しく認識しえたか疑問だ」と記している。

 

『春と修羅 第一集』が宗教家に賛同されなかったということは,「歴史や宗教の位置を全く変換しやうと企画したもの」が空論だった可能性があり,恋人との別れに正当性を持たせることができなくなったことを意味する。賢治はかなり動揺したと思われる。

 

詩「業の花びら」(1924.10.5)に「ああ誰か来てわたくしに云へ/億の巨匠が並んで生れ/しかも互ひに相犯さない/明るい世界はかならず来ると」とあるが,『春と修羅 第一集』が認められなかったことに対する賢治の嘆きであろう。賢治の「歴史や宗教の位置を全く変換しやうと企画したもの」を理解できる天才が億人も同時に生まれてくるなどは普通に考えにくい。詩「業の花びら」は文語詩「敗れし少年の歌へる」の基になった詩「暁穹への嫉妬」と関連深い詩でもある(木村,1994)。詩「暁穹の嫉妬」は三陸旅行で詠んだものである。

 

これは憶測だが,私は『春と修羅 第一集』出版の失敗で賢治がとった行動の1つが元恋人に謝罪するための三陸旅行だったと思っている(石井,2024a)。そして,三陸旅行後の賢治の信仰と生活に対する態度は一変してしまう。

 

詩「小岩井農場」が収録されている詩集『春と修羅 第一集』と三陸旅行のときの詩を含む『春と修羅 第二集』では信仰と生活に対する賢治の態度が逆転している。吉本隆明(2012)は「第一集は仏教世界観を感覚的につかまえなおして,人間を含めて,すべての存在は,ただの現象として光と影を他者に放射しているだけだが,第二集ではこの仏教的世界観は失われてしまい,生活の影が色濃く滲透している。第二集は第一集に比べて,空想が遠くまで行けなくなっている。宮沢賢治の青春は終わったとか,仏教の世界観の中に自分を入れ込むことができなくなって,いわば生活現実に目覚めさせられたといえる。第三集ではさらに生活の影が色濃くなっている。また,畑仕事や肥料設計をしていることで逆に農民から反感や嫉妬を受けることがあることも承知していて,それらに対してどのように対応すべきかどうかということも詩のテーマにするようになった。」と述べている。

 

賢治が死の直前に教え子である柳原昌悦へだした手紙(1933.9.11)には,「私のかういふ惨めな失敗はたゞもう今日の時代一般の巨きな病,「慢」といふものの一支流に過って身を加へたことに原因します。・・・空想をのみ生活して却って完全な現在の生活をば味ふこともせず,幾年かゞ空しく過ぎて漸く自分の築いてゐた蜃気楼の消えるのを見ては,たゞもう人を怒り世間を憤り従って師友を失ひ憂悶病を得るといったやうな順序です・・・」(宮沢,1985)と記載されている。「慢」に陥ったのは農学校時代の後半である。つまり,『春と修羅 第一集』を出版したころであり,賢治は晩年人生の「春」とも言える活力みなぎる時期を「空想をのみ生活」することによって「修羅」にしてしまったことに後悔している。恋人にとって賢治の「空想」はどのように見えていたのであろうか。五輪真弓(いつわまゆみ)の歌(※)にある「・・・宵の流れ星/光っては消える 無情の夢よ・・・」だったのであろうか。

 

父・政次郎は,農学校時代の賢治の空想のみで邁進している姿を心配し,「賢治,お前の生活はただ理想をいってばかりのものだ。宙に浮かんで足が地に着いておらないではないか。ここは娑婆だから,お前のようなそんなきれい事ばかりで済むものではない。それ相応に汚い浮世と妥協して,足を地に着けて進まなくてはならないのではないだろうか」と教えたり,頼んだりしていたという。しかし,賢治は「はあ」と返事をするぐらいで全く意に返さなかったという(佐藤,1994)。

 

賢治の悲劇は青春期になっても「みんなの幸い」を願う母イチの子守歌の呪縛から逃れられなかったことである。

 

本稿の目的は賢治が恋愛中になぜ「みんなの幸い」を優先させたのかを,そして破局後になぜそれを止めようとしたのかを詩「小岩井農場」詩(パート九)などを読み説くことで明らかにすることであった。検討した結果を,ただあくまでも私の妄想にすぎないが以下に要約する。

 

賢治が恋愛中にもかかわらず「みんなの幸い」を優先できたのは自分の性格も考慮する必要があると思われるが,自分と伴歩・伴走する観世音菩薩の存在を感じることができたこと,あるいは実際にその菩薩を幻視し,その菩薩の声を幻聴できたことで法華経信仰に自身がもてるようになったことによると思われる。また観世音菩薩を感じることができた賢治に慢心が生じ,自分も『漢和対照妙法蓮華経』と『化学本論』から得られた「知識」に「直感力」が加われば菩薩になれると思ったからかもしれない。「法華経」は菩薩になるために修行する者のための経典であり,その「法華経」には修行者は女性に近づいてはいけないと記載されている。菩薩になれると思った賢治には恋人が修行を妨害するものに感じるようになったのかもしれない。そして,「万象」はすべて光っては消える現象にすぎないとか,恋愛から宗教情操にもどるのは正しいことであるとかの新しい考えを創出するにいたった。

 

しかし,賢治は自分が創出した新しい考えが正しいものであるという確信が持てなかった。そこで,新しい宗教観や恋愛から宗教情操への遷移は正しいという賢治独自の考えを含む『春と修羅 第一集』を出版して第三者にその正しさを検証してもらうことにした。しかし,詩集はほとんど売れず,宗教家からの反響もまったくなかった。自分の信仰に対する考えが世間,とくに宗教家に受け入れてもらえないことを知った賢治は,「みんなの幸い」を優先して生きていくことは「空想」にすぎなかったのではないかと疑うようになった。賢治は,「みんなの幸い」を優先したことが恋人との決別の主たる原因でもあることから,三陸で恋人に謝罪するとともに,今後は足を地にしっかりと着け現実生活の中で「みんなの幸い」と「個人の幸い」を優劣つけずに生きて行こうと決意した。と思われる。

 

実際に『春と修羅 第二集』に収められた「暁穹の嫉妬」や童話『銀河鉄道の夜』では「みんなの幸い」を優先しなくなっている(石井,2,024b)。

 

参考・引用文献

堀尾青史.1991.年譜宮澤賢治伝.中央公論社.

石井竹夫.2024a.文語詩「敗れし少年の歌へる」考 -賢治は三陸で恋人に向かって謝罪したのか(試論)-.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2024/05/06/100443

石井竹夫.2024b.詩「暁穹への嫉妬」に登場するハイビャクシンには賢治の恋人が重ねられている.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2024/05/05/094032

木村東吉.1994.旅の果てに見るものは : 《春と修羅 第二集》三陸旅行詩群考.国文学攷.144:19-32.

宮沢賢治.1985.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.

森荘已池.1983.宮沢賢治の肖像.津軽書房.

佐藤隆房.1994.宮沢賢治-素顔のわが友-.桜地人館.

吉本隆明.2012.宮沢賢治の世界.筑摩書房.

 

※五輪真弓の作詞・作曲した「恋人よ」(1980)の後半は「恋人よ さようなら/季節はめぐってくるけど/あの日の二人 宵の流れ星/光っては消える 無情の夢よ/恋人よ そばにいて/こごえる私のそばにいてよ/そしてひとこと この別れ話が/冗談だよと 笑ってほしい」というものである。

Sony music(Japan).2021.五輪真弓「恋人よ」.https://www.youtube.com/watch?v=qhsEV3SAT4w

 

個人よりも皆の幸いが優先されるとする詩「小岩井農場」(パート九)の理念は正しいのか(試論 4)-表紙にあるアザミの紋様が意味するもの-

 

4.『春と修羅』の表紙にある「アザミ」の紋様は何を意味しているのか

 

詩「小岩井農場」は大正1922年5月21日の日付が付いているが,パート九の本稿(試論1)での引用部部分がその日に創作されたとは限らない。賢治研究家の杉浦静(1976,1998)によれば,詩「小岩井農場」(パート九)の本稿(試論1)での引用箇所は,「詩集編纂過程の最終段階,つまり「序」(1924.1.20)の日付からそう遠くない時期に・・・詩集全体の構想にからんで,改めて差し替えられたものである」とした。賢治が原稿を出版社に持ち込んだのは大正13年(1924)1月と言われている。つまり,賢治が「みんなの幸い」を最優先して生きていくと決意したのは,恋人が渡米(1924.6.14)した半年から1年前である。

 

恋人との出会いから破局までの動向は賢治と同郷の佐藤勝治(1984)によって調べられて著書になって公開されている。佐藤は,恋人の家族から直接聞いた話として,大正11年(1922)から大正13年(1924)初にかけて「それまで健康で非常に明るかったY子さんは,急にすっかりふさぎ込み,無口になり,衰弱していった。そしてある休暇に,(大正12年の冬らしい・・・)二三日山の温泉に行って来たいと家族に言った。常は勤めから帰るとすぐ母を手伝ったり,弟妹の世話をしてすべてにやさしく勤勉であったその姉は,その頃は何かを思いつめているようになっていた。山の温泉から帰ったあと,弟妹たちの驚いたことに,あっという間に,まるで不似合いな結婚を承諾して,アメリカへ行ってしまった」と記している。アメリカ行は何かしらの「罰」ともとれる。つまり,恋人が衰弱し思いつめていた時期と賢治が「みんなの幸い」を最優先にして生きていくと決意していった時期が重なる。Yは背が高かった大畠ヤスである。

 

〈恋人との幸い〉か〈みんなの幸い〉かの選択を主要なモチーフにしているものに童話『ガドルフの百合』(1923頃)がある。この童話は旅人であるガドルフが嵐に遭遇して黒い大きな家で雨宿りする物語である。ガドルフには賢治が投影されている。ガドルフはその日の晩に激しい風雨と雷で折れて「しのぶぐさ」の上に横たわる背の高い百合の花を見ることになるが,雨が止んだあと窓の外の一本の木に宿る雫に「南の蝎(さそり)の赤い光」が映っているのも見てしまう。まだ夜が明けていないので,「明け方の薔薇いろ」が映るはずはない。この科学的に説明つかない「南の空の蝎の赤い光」が雫に映っていると認識したとき,ガドルフは再び折れた百合の花を残して旅に出かけてしまう。「しのぶぐさ」の上に横たわる「百合」には,結婚を反対されても賢治について行こうとする恋人がイメージされている。また,雫に映る「南の空の蝎の赤い光」は童話『銀河鉄道の夜』で登場する「蝎の火」と同じであり焼身自己犠牲を象徴する薬王菩薩がイメージされている(石井,2022)。つまり,菩薩を感じることができたガドルフは傷ついた百合の花をそのままにしてでも,或いは自分達を犠牲にしてでも「みんなの幸い」を最優先にしてしまう。

 

ここで疑問が生じる,賢治は恋人が衰弱していっても,あるいは傷ついても何も感じなかったのだろうかという疑問である。たとえ,仏教そのものが男尊女卑の傾向の強い宗教であるにせよ,封建制度が残存している土地柄だったにせよ,賢治が何も感じていないというのは考えにくい。この疑問に答えるヒントのようなものが『春と修羅 第一集』の表紙にある「アザミ」の紋様にあるように思える(第1図)。

 

この「アザミ」には東北に自生する背の高い「ナンブアザミ」(Cirsium nipponicum (Maxim.) Makino),あるいは葉に鋭い棘のある「ノアザミ」(第2図,Cirsium japonicum Fisch. ex DC.)がイメージされているように思える。「アザミ」はキリスト教では旧約聖書の創世記3章17-18章に書かれてあるように「罪」を象徴している。賢治の犯した「罪」と関係しているかもしれない。童話『ひかりの素足』(最終形態は1923年頃)に地獄のような風景の中で鬼に追われ苦しめられている一郎と泣いてばかりいる弟の楢夫と植物の「あざみ」が登場する。賢治はこの童話の草稿用紙に赤インクで《凝集を要す/恐らくは不可》《余りに/センチメンタル/迎意(げいい)的なり》と記している(宮沢,1985)。

 

物語で少年たちは前世と現世で罪を犯したということが暗示されている。一郎は「楢夫はなんにも悪いことはない」,「楢夫は許してください」と言って,何度も泣きじゃくる楢夫を抱きしめ,罰を与える鬼から一生懸命に守っていた。あるとき,「にょらいじゅりょうぼん第十六」という言葉を感じる。兄の一郎が「にょらいじゅりょうぼん」とつぶやくと大きな「まっ白なすあし」の「立派な大きな人」が現れ,一郎に「こはいことはない。おまへたちの罪はこの世界を包む大きな徳の力にくらべれば太陽の光とあざみの棘のさきの小さな露のやうなもんだ。なんにもこはいことはない」(下線は引用者)と説いて聞かせる。賢治は,この童話で自分が犯した罪が前世のものも含めて,この世界を包む大きな徳に比べれば「あざみ」の棘のさきの小さな露のようなものだったと主張したかったのであろうか。いや,それは違うと思う。賢治はこの童話を「センチメンタル/迎意的なり」と自己評価しているので,自分も一郎のように「恋人はなんにも悪いことはない」,「恋人は許してください」と言って,何度も泣きじゃくる恋人を抱きしめ,罰を与えるものたちから恋人を一生懸命に守っていたのであろう。

 

『ひかりの素足』に登場する「まっ白なすあしの人」は立派な瓔珞もかけているので,詩「小岩井農場」(パート九)に登場する「瓔珞をつけた素足の子」と類似している。

 

第1図.『春と修羅』の表紙に描かれているアザミ.

 

第2図.ノアザミ(神奈川県大磯町で撮影)葉は羽状に切れ込み,ふちに鋭い棘がある.

 

童話『ひかりの素足』の楢夫に恋人が投影されているとしたら,恋人の犯した罪とは何であろうか。『ひかりの素足』と同じ年に創作されたらしい童話『サガレンと八月』で,主人公のタネリは母の言いつけを守らず「くらげの眼鏡」(望遠鏡?)で内地の華やかな都会風景を見てしまう(石井,2023)。そして,「罰」を受け蟹の姿にされたのちにチョウザメの下男にされてしまう。チョウザメは北米にも棲息する。恋人は母が禁止した賢治の話す西洋文明に憧れてしまったのかも知れない。寓話『土神ときつね』(1923)で南から来た〈狐〉は恋人が投影されている〈樺の木〉に自分の書斎には顕微鏡,美学の本,ロンドンタイムス,大理石のシイザアが転がっていると話していた。(続く)

 

参考・引用文献

石井竹夫.2022.童話『ガドルフの百合』考(第3稿)-「俺の百合は勝ったのだ」の「百合」とは何か.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2022/05/05/091434

石井竹夫.2023.童話『やまなし』考-蟹の母が子の行動に対して禁止したもの(試論 第1稿)-.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2023/03/11/103423

佐藤勝治.1984.宮沢賢治青春の秘唱「冬のスケッチ」研究.十字屋書店.

杉浦 静.1976.「小岩井農場」の成立-推敲過程をふまえつつ-.日本文学.25(10~:24-44.

杉浦 静.1998.奥山文幸著『宮沢賢治『春と修羅』論-言語と映像』.昭和文学研究.37:136-138.

宮沢賢治.1985.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.

個人よりも皆の幸いが優先されるとする詩「小岩井農場」(パート九)の理念は正しいのか(試論 3)-万人に適応できるかどうか-

 

3.賢治の理念と命題は万人に適応できるものかどうかもわからない。

 

詩「小岩井農場」(パート九)で,賢治は宗教者としての分身の主張を受け入れて「宗教情操→恋愛→性欲という命題は可逆的にもまた正しい」と判断していたが,この命題は物理学的法則のように本当に正しいのか。

 

詩人で思想家の吉本隆明(2010)は賢治の命題が正しいかどうか論ずる前に,そもそも「宗教情操→恋愛→性欲」への漸移はないと言っている。吉本は自著でこの命題に対して,「宗教から恋愛へ,そして性慾へと連続して流れてゆく情操と願望のうつりかわり(変態)という理念は,宮沢賢治の生涯の理念であるとともに,生涯によってじっさいに演じられたドラマだった。この考え方はふつう倒さだ。人間の身体の生理的なうつりゆきの必然的な過程で,性慾がきざし,さかんになり,思春期にはいって,ひとりの異性をもとめる願望に結晶してゆく。この願望がうまく遂げられず,そのあげく宗教的な自己救済や人間救済の願いを持つようになる。そんな過程はありうる。だがこの逆はない。宮沢賢治がスケッチャーとしてここで展開している考え方は,逆だった。これはただの詩的修辞とみなさないとすれば,宮沢賢治の生涯の謎を理念化したものだといえる。」(下線は引用者)と述べている。

 

つまり,賢治の宗教情操に関わる命題「宗教情操→恋愛→性欲」の可逆的漸移は「生涯の謎を理念化したもの」であり,本来は「性欲→恋愛→宗教情操」の方向のみであるとした。吉本にとっては宗教情操の願望が砕け疲れたりすることによって恋愛に変化していくというのは「謎」なのである。正しいかどうかを論ずる前の問題で,「宗教情操→恋愛」は最初からないと言っている。例えば,「宗教情操」の願望に燃える僧侶が,修行に耐えきれず砕け疲れてしまったとき「恋愛」の対象を求めていくのであろうか。ということである。「宗教情操→恋愛→性欲」という命題は賢治のみが体験できるものなのかもしれないのである。

 

例えば,「宗教情操→恋愛」を賢治自身に当てはめてみたい。賢治は大正10年(1921)1月23日に「頭の上の棚から御書(おんふみ)が二冊共ばったり背中に落ち」(書簡185)たのを機に,無断で上京して国柱会でアルバイトをしながら布教活動の下働きをするようになる。しかし,8月中旬には妹トシの病気の電報を受け帰郷する。そして,1922年春頃ある女性に出会い恋をするようになる。賢治が帰郷したのは妹の病気以外に賢治が国柱会活動に違和感を持ったからだともされている(吉本,2012)。国柱会は純正日蓮主義を奉じる法華宗系在家仏教団体である。日蓮宗は個人を救済するというよりは国家宗教的な面が強い宗教である。つまり,賢治は国柱会の国家宗教的な思想に基づく布教活動に違和感を持った,あるいは砕け疲れてしまった。そして,布教活動に疲れたことが賢治を恋愛に向かわせたとも解釈できる。宗教情操から恋愛への漸移は賢治にとっては真実なのかもしれない。しかし,これが国柱会や他の宗教団体の信徒すべてにも当てはまるかどうかは解らない。あるいは当てはまらないと言った方がよいのかもしれない。

 

この賢治の命題は,杉浦静(1976)によれば法華経の十界互具思想に基づくものであるとし,浜垣誠司(2021)によれば仏教学者で作家である加藤咄堂(1870~1949)の『心の研究』(1908)を引用したものであるとしている。十界互具とは地獄の衆生 も仏となりうるし,仏も迷界の衆生となりうるという天台宗の説である。『心の研究』では仏教の『大乗起信論』に基づく理念が述べられている。しかし,それらは十界互具思想を唱えた者あるいは『大乗起信論』に基づく加藤咄堂の仮説にすぎないものかもしれない。賢治がそれらを引用したにせよ,賢治の生涯によって実際に演じられたドラマだったにせよ,ほんとうにこの「命題」が賢治以外の万人にも演じられていたのかどうかは疑問のままである。科学的にみれば「万人」に通用しないものは真実とは言えない。賢治は「さあはつきり眼をあいてたれにも見え/明確に物理学の法則にしたがふ/これら実在の現象のなかから/あたらしくまつすぐに起て」と「物理的法則」まで持ち出しているが,「万人」あるいは賢治の言葉を借りれば「万象」に通用しなければ賢治の独りよがりの空論でしかない。と思える。また,これが一番重要なことなのだが,十界互具も大乗起信論も「恋愛→宗教情操」が正しいとは言っていないと思える。

 

賢治と同じ岩手県出身の大谷翔平という野球選手がいる。大谷はすでに結婚もしているが世界中の野球ファンからも愛され,またファンの多くを幸せにしている。また,大谷は「子どもたちが野球というスポーツに触れ,興味を持つきっかけになってほしい」と全国の小学校にグローブを贈呈したりもしている。大谷は野球をしながらゴミを拾う。少年にサインを求められればいやな顔もせずに応じる。大谷はMLBの野球に憧れてアメリカに渡ったが,恋愛に挫折して野球を始めたのでもなく,野球に挫折したから恋愛をしたのでもないと思う。大谷にとって「野球ファンを楽しませること」と「恋人(妻)を幸せにすること」は両立している。少なくても現在まで。それぞれ事情はあると思うが,大谷は恋人(妻)を全世界に公開したが,賢治は恋人を隠した。『農民芸術概論綱要』にある有名な一文「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」も「謎」である。記録に残された人類の歴史で世界全体が幸福になったときなどあったのであろうか。あるいは未来にそれが約束されているのであろうか。私には一人の女性をも幸せにできないのに世界全体を幸せにできるのであろうかとさえ思ってしまう。

 

明治5年(1872),明治政府により「今より僧侶の肉食・妻帯・蓄髪は勝手たるべき事」という内容の太政官布告がだされた。この布告は仏教の特権を廃止し僧侶をも俗人同様に待遇するという意図があったとも言われているが,以後日本の僧侶の妻帯は広がったとされる(赤堀,2024)。つまり,賢治の時代に,仏教修行者の妻帯は法的にも倫理的にも許容されていた。浄土真宗の親鸞は生涯にわたって2人の妻と7人の子どもをもうけたとされている。つまり,賢治の妻帯は肉食と同様で賢治自身の心の持ちようで決まると思われる。

 

賢治も自分が考えた命題に疑問を持つことがあったはずである。賢治は小岩井農場で「瓔珞をつけた素足の子」の存在を「幻想」の中で感じていたが,パート九には「《幻想が向こうから迫ってくるときは/もうにんげんの壊れるときだ》」あるいは「《あんまりひどい幻想だ》」と「幻想」そのものを科学者である賢治の分身の声で感じ取っている。賢治が「瓔珞をつけた素足の子」を感じるのは結婚を反対され「恋愛」に挫折したという現実から逃れるためにそう感じたにすぎなかったのではないのか。

 

つまり,「宗教情操から恋愛への遷移」は正しくなく,その逆である「恋愛から宗教情操への遷移」を正しいとする根拠はないと思われる。賢治は明確な根拠もないままに「もう決定した。そつちへ行くな/これらはみんなただしくない/いま疲れてかたちを更(か)へたおまへの信仰から/発散して酸へたひかりの澱だ」と結論したと思われる。あるいは,前述したように,賢治の理念と命題は万人に適応できるかどうかもわからない。

 

参考・引用文献

赤堀正明.2024(調べた年).日蓮宗を中心とした『肉食妻帯令』の考察.https://genshu.nichiren.or.jp/genshu-web-tools/media.php?file=/media/shoho26-10.pdf&type=G&prt=3842

浜垣誠司.2021.加藤咄堂『心の研究』と「小岩井農場」.https://ihatov.cc/blog/archives/2021/10/post_1010.htm

杉浦 静.1976.「小岩井農場」の成立-推敲過程をふまえつつ-.日本文学.25(10~:24-44.

宮沢賢治.1985.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.

吉本隆明.2010.宮沢賢治.筑摩書房.

吉本隆明.2012.宮沢賢治の世界.筑摩書房.

個人よりも皆の幸いが優先されるとする詩「小岩井農場」(パート九)の理念は正しいのか(試論 2)-正しいと思う賢治の根拠-

 

2.「宗教情操」と「恋愛から宗教情操への漸移」は正しく「宗教情操から恋愛への漸移」は正しくないとしている根拠はあるのか

 

賢治が「宗教情操」は正しく,「宗教情操から恋愛への漸移」を正しくないとしているのは「法華経」の教えによるところが大きいと思われる。「法華経」の梵語(サンスクリット)の原題は『サッダルマ・プンダリーカ・スートラ』である。直訳は「正しい・法・白蓮・経」で,意味は「正しい教えの白蓮」である(坂本・岩本,1994)。「法華経」の「方便品第二」では「如来がこの世に登場したのは煩悩に縛られている衆生を救うためである」と説かれている。また,「法華経」の「安楽行品第十四」には法華経の修行者は女性に近づいてはならないと記載されている(石井,2021ab)。「安楽行品」は「法華経」を広めるために心がけるべき4つの行法(四楽案行)が説かれている。その第1が行動と交際の範囲厳守(人々の集まる娯楽の場所や色街あるいは女性に近づくな)である。例えば,「若入他家。不与少女。処女寡女等共語。」(若し他の家に入らんには,小女・処女・寡女等と共に語らざれ。),「若為女人説法。不露歯笑。不現胸臆。」(若し女人の為に法を説かんには,歯を露わにして笑まざれ,胸臆を現わさざれ。)である。つまり,法華経的には「宗教情操」は正しく,「宗教情操から恋愛への漸移」は正しくないのである。法華経に帰依する賢治にとって,正しくない「恋愛」をしてしまったのは「宗教情操にくだけ疲れてしまった」からだということなのだろう。また,自分の幸せよりも他人の幸せを優先する賢治の性格も関与していると思われる。これは,母イチの影響によるものだということはこれまでに何度も述べてきた(石井,1922ab)。ただ,「法華経」に書かれてあるから正しいというのは疑問である。

 

また,「法華経」には「恋愛から宗教情操への漸移」が正しいとは記載されていないようにも思える。

 

賢治が「恋愛から宗教情操への漸移」を正しいとしているのには,恋に落ちたときでも「瓔珞をつけた素足の子」(後述するが観世音菩薩)を感じられるということが関係しているのかもしれない。検証してみたい。「瓔珞(ようらく)」は珠玉や貴金属を編んで,頭・首・胸にかける装身具。仏菩薩などの身を飾るものとして用いられるものである。

 

これは詩「小岩井農場」(パート九)の命題が書かれてある箇所の直前,つまり前稿引用文の「どこの子どもらですかあの瓔珞をつけた子は」から「底の平らな巨きなすあしにふむのでせう」に記載されているように思える。賢治が小岩井農場の耕耘部(こううんぶ)から本部を歩きながら体験した「幻想」,つまり「瓔珞をつけた素足の子」について語られている。この場所は,der heilige Punkt(The holy place)(※)と賢治が言っているように神聖な場所でもある。賢治はパート四でもこの場所で「瓔珞をつけた子」を感じているが,下書稿では「透明なたましひの一列」と表現している。賢治はこの場所で体験した「幻想」を「感官の外の幻想」と表現している(感官は感覚器官のこと)。感官で見えるはずのないものが見えるのを「幻視」といい,聞えるはずのないものが聞えるのを「幻聴」という。「感官の外の幻想」とは幻視や幻聴では説明できないが,確かにそこにあると感じられるものである。別の言葉で表現すれば現実にないものを想像することであると言ってもいいかもしれない。統合失調症の人が本当は実在しない屋根裏の人を,確かにそこに実在していると認識してしまう「実体的意識性」とは異なるように思える。多分,気配のようなものと思われるが,賢治はこれも確かに実在する「現象」の1つとして考えているようだ。

 

賢治はパート九で「幻想」した「瓔珞をつけた素足の子」に対して自分の分身と思われる二人に対話させ,その対話の内容を心象スケッチしている。ここでは2人を科学者としての賢治の分身(A)と宗教者としての賢治の分身(B)とする。Aは「瓔珞をつけた素足の子」の存在を信じているが,Bはその存在を疑っている。BはAの宗教的な言動に対して激しく反駁することもある。 

 

Aが「どこの子どもらですかあの瓔珞をつけた子は」と呟くと,Bは「そんなことでだまされてはいけない,ちがつた空間にはいろいろちがつたものがゐる,それにだいいちさつきからの考へやうが/まるで銅版のやうなのに気がつかないか」と呟く。また,Aが「雨のなかでひばりが鳴いてゐるのです/あなたがたは赤い瑪瑙の棘でいつぱいな野はらも/その貝殻のやうに白くひかり/底の平らな巨きなすあしにふむのでせう」と呟く。

 

下書稿でも同じで,Aが「古い壁画に私はあなたに似た人を見ました。」と呟くと,Bが「おいおい。幻想にだまされてはいけない。」と答え,またAが「幻想だと,幻想なら幻想をおれが,感ずるといふことが実在だ。かまうものか。なんといふ立派なすあしです。」というような対話になっている。

 

つまり,「みんなの幸い」を主張する宗教者としての賢治の分身は賢治に伴歩する「瓔珞をつけた素足の子」の存在を信じているが,科学者としての賢治の分身は「瓔珞をつけた素足の子」を現実には存在しない想像上の生き物だとしている。宗教者としての賢治の分身は「幻想なら幻想をおれが,感ずるといふことが実在だ。かまうものか。」と開き直ってしまうこともある。つまり,宗教者としての賢治の分身は『春と修羅』も「序」にあるように,感ずるものも「現象」なのだから「実在」するのだと主張する。 

 

この「瓔珞をつけた素足の子」は,杉浦(1976)によれば「仏道に精進し,修行する人たち」となっている。私は観世音菩薩の化身と思っている。パート四で賢治は「瓔珞をつけた素足の子」を「天の鼓手(こしゆ),緊那羅(きんなら)のこどもら」とも言っている。「法華経」の「観世音菩薩普門品第二十五」(観音経)には,「観世音菩薩」(あらゆる方角に顔を向けたほとけ)はあまねく衆生を救うために相手に応じて「仏身」「声聞身」「梵王身」など,33の姿に変身すると説かれている。その中に「緊那羅 」もある。つまり,賢治が幻想した「瓔珞をつけた素足の子」は「観世音菩薩」であろう。「みんなの幸い」と「恋人との幸い」との間に揺れていた賢治にとって,反駁してくる分身の自分もいるが,「瓔珞をつけた素足の子」を感じ取れたこと,あるいは自分と一緒に伴歩してくれるということは,砕け疲れて恋に落ちたという思いもあって,賢治の宗教に対する態度をもう一度「みんなの幸い」に向けさせるきっかけとなったとも思われる。

 

さらに,賢治のこの決意を固めることになったかもしれないのが賢治の菩薩を幻視したというもう1つの体験である。この体験は『春と修羅』刊行の大正末年の頃とされている。具体的な日付は解っていない。森荘已池(1983)の証言によれば,賢治が盛岡から宮古へ通じる閉伊(へい)街道を通って帰途中に雨に降られ,あわててトラックの荷台に乗せてもらったが,高熱を出してしまう。このとき,うなされて夢うつつになった賢治は「小さな真赤な肌のいろをした鬼の子のような小人のような奴らが,わいわい口々に何か云いながら,さかんにトラックを谷間に落とそうとしている」幻影を見たというのである。トラックは実際に谷に落とされてしまうのだが,幸いに賢治と運転手,そして助手は事前にトラックから飛び降りていて無事だったという。なぜ無事だったかというと,賢治は鬼の子がトラックを谷に落とそうとしたとき,2間もあるような「白い大きな手」を幻視していて,その「白い大きな手」が谷間の空に出て,トラックが走る通りついて来てくれていてトラックが暫くの間落ちないようにしてくれたからだという。賢治はこの「白い大きな手」を森荘已池に「観音さま」の有り難い手だったと話した。この話は盛岡高等農林学校時代の知人である小森彦太郎も賢治から聞いているので確かなものと思われる(板谷,1992)。

 

また,小森は賢治に「観音さまが美しい声で呼びかけて,ありがたいことを教えてくださった」ということも話している。これは幻聴であろう。

 

つまり,賢治が恋愛中にもかかわらず「みんなの幸い」を優先できたのは自分と伴歩・伴走する「観世音菩薩」の存在を感じることができたこと,あるいは神聖な場所でなくても実際にその菩薩を幻視し,またその菩薩の声を幻聴できたことで法華経信仰に自信がもてるようになったことによると思われる。また「観世音菩薩」を感じることができた賢治に「慢心」が生じ,自分も菩薩になれると思ったからかもしれない。「法華経」は菩薩になるために修行する者のための経典であり,その「法華経」には修行者は女性に近づいてはいけないと記載されている。菩薩になれると思った賢治には恋人が修行を妨害するものに感じるようになったのかもしれない。ちなみに,「雨ニモマケズ」(1931.11.3)で「サウイフモノニ/ワタシハナリタイ」と言って「東ニ病気ノコドモアレバ/行ッテ看病シテヤリ/西ニツカレタ母アレバ/行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ/南ニ死ニサウナ人アレバ/行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ/北ニケンクヮヤソショウガアレバ/ツマラナイカラヤメロトイヒ」を実行しようとする賢治は「観世音菩薩」そのものであろう。

 

しかし,賢治が「観世音菩薩」を感じ,自分もなれると思っても,そのことが一緒になりたいという恋人の願いを退けて「みんなを幸い」にする道に進もうとする賢治の決断を正しいということにするとはならない。つまり,下線①の「もう決定した/そつちへ行くな/これらはみんなただしくない/いま疲れてかたちを更(か)へたおまへの信仰から/発散して酸へたひかりの澱(おり)だ」という結論にはならない。(続く)

 

参考・引用文献

原 子朗.1999.新宮澤賢治語彙辞典.東京書籍.

石井竹夫.2021a.宮沢賢治の『若い木霊』(2) -鴾の火と法華経・方便品の関係について-.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/09/14/065127

石井竹夫.2021b.宮沢賢治の『若い木霊』(5) -鴾の火と法華経(安楽行品)の関係について-.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/09/17/130043

石井竹夫.2022a.自分よりも他人の幸せを優先する宮沢賢治 (1)-性格形成に影響を及ぼした母の言葉-.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2022/01/01/125039

杉浦 静.1976.「小岩井農場」の成立-推敲過程をふまえつつ-.日本文学.25(10~:24-44.

宮沢賢治.1985.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.

森荘已池.1983.宮沢賢治の肖像.津軽書房.

坂本幸男・岩本裕.1994.法華経中.岩波書店.

 

※der heilige Punkt:農場からくらかけ山のあたり一帯にかけての岩手山南麓を賢治はそう呼んでいた(原,1999)。

 

 

個人よりも皆の幸いが優先されるとする詩「小岩井農場」(パート九)の理念は正しいのか(試論 1)-賢治は正しいと思っている-

 

賢治のように菩薩になりたかった人においては修行の初めに必ず起こす4つの誓いがある。「四弘誓願(しぐせいがん)」と言われているものである。仏教における「純粋な心」での「強い信仰心」は,大乗仏教的には「菩提心」と呼ばれている。さとり(菩提,bodhi)を求めて世の中の人を救おうとする心のことである。賢治は,島地大等編纂の『漢和対照妙法蓮華経』に出会って2年後の大正5年(1916)にこの誓願を立てたと言われている。『新校本宮澤賢治全集十六(下)補遺・資料 年譜篇』(2001)に「大正5年7月5日(木)保阪嘉内と岩手山登山 神社参拝 誓願」とある。

 

賢治は「みんなを幸い」にすることあるいはその道を探すことで「誓願」を立てたが,大正11年(1922)の早春,ある女性と出会い相思相愛の恋に落ちてしまう。この女性は詩集『春と修羅 第一集』にも登場してくる。詩「恋と病熱」(1922.3.20)に「けふはぼくのたましひは疾み/烏さへ正視ができない・・・」,詩「春と修羅(mental sketch modified)」(1922.4.8)に「心象のはひいろはがねから/あけびのつるはくもにからまり・・・」,詩「春光呪詛」(1922.4.10)には「髪が黒くてながく/しんと口をつぐむ・・・/頬がうすあかく瞳の茶いろ・・・」(宮沢,1985)とある。「あけびのつるはくもにからまり」は,あけびの蔓のように自分の愛欲が1人の女性に絡まってしまい解(ほど)けなくなってしまったという意味である(石井,2023)。しかし,この恋は約1年で破局したと言われている。破局の理由については諸説があり,親を含む近親者(特に恋人の母親)による反対,結核の疑い,それぞれの出自,妹トシの死(1922.11.27)などが挙げられている。だが,それらは結婚を反対する者たちの反対する理由あるいは延期する理由にはなり得ても,賢治が恋人を諦める理由とはならない。厳格な父親を改宗させようとするぐらいの賢治がそんなことで諦めるとはとうてい思えない。自分たちを犠牲にしなくても「みんなを幸い」にすることはできるはずだし,駆け落ち(※)などの選択肢もあったはずである。私は最終的には賢治自身が「みんなを幸い」にすることあるいはその道を探すことを「恋人との幸せ」よりも優先させて恋人との恋に終止符を打ったと思っている。恋人は信仰の妨害になると思ったのかも知れない。

 

しかし,賢治は恋人と別れた後に自分の決断が間違いだったことに気づかされることになる。つまり,『春と修羅 第二集』の詩「〔はつれて軋る手袋と〕」(1925.4.2)に「かういふひそかな空気の沼を/板やわづかの漆喰から/正方体にこしらえあげて/ふたりだまって座ったり/うすい緑茶をのんだりする/どうしてさういふやさしいことを/卑しむこともなかったのだ/……眼に象って/かなしいあの眼に象って……」とあるように,「恋人との幸い」よりも「みんなの幸い」を優先したことを後悔することになる。

 

本稿では賢治がなぜ恋愛中に「みんなの幸い」を優先させたのかを,そして破局後になぜそれを止めようとしたのかを詩「小岩井農場」(パート九)の発表形(詩集原稿)と下書稿を読み説くことで明らかにしたい。本稿は(1)詩「小岩井農場」(パート九)の理念を賢治は正しいと思っている,(2)正しいと思う賢治の根拠,(3)万人に適応できるかどうか,(4)『春と修羅』の表紙にあるアザミの紋様が意味するもの,(5)『春と修羅』の出版を通して世に問うた,の5稿で構成されている。

 

1.恋愛中にもかかわらず「みんなの幸い」を優先させたのは「小岩井農場」(パート九)に書かれてあるようにそれが正しいと思ったからである。以下に説明する。

 

「個人の幸い」よりも「みんなの幸い」を優先するのは「正しい」ことだというのが大正13年(1924)4月20日に出版された詩集『春と修羅』の詩集原稿の「小岩井農場」のパート九に記載されている。ある賢治研究家に,「「小岩井農場」の長詩のおわりの,思想的な結語のごとき箇所である」と言わせているところである(見田,2012)。ちなみに,パート九は本部から耕耘部(こううんぶ)あたりを散策している場面である。

 

その箇所とは

「さうです,農場のこのへんは/まつたく不思議におもはれます/どうしてかわたくしはここらを/der heilige Punktと/呼びたいやうな気がします/この冬だつて耕耘部まで用事で来て/こゝいらの匂のいゝふぶきのなかで/なにとはなしに聖いこころもちがして/凍えさうになりながらいつまでもいつまでも/いつたり来たりしてゐました/さつきもさうです/どこの子どもらですかあの瓔珞(ようらく)をつけた子は/《そんなことでだまされてはいけない/ちがつた空間にはいろいろちがつたものがゐる/それにだいいちさつきからの考へやうが/まるで銅版のやうなのに気がつかないか》/雨のなかでひばりが鳴いてゐるのです/あなたがたは赤い瑪瑙の棘でいつぱいな野はらも/その貝殻のやうに白くひかり/底の平らな巨(おほ)きなすあしにふむのでせう/

 

①もう決定した。そつちへ行くな/これらはみんなただしくない/いま疲れてかたちを更(か)へたおまへの信仰から/発散して酸へたひかりの澱だ/ちいさな自分を劃ることのできない/この不可思議な大きな心象宙宇のなかで/②もしも正しいねがひに燃えて/じぶんとひとと万象といつしよに/至上福しにいたらうとする/それをある宗教情操とするならば/そのねがひから砕けまたは疲れ/じぶんとそれからたつたもひとつのたましひと/完全そして永久にどこまでもいつしよに行かうとする/この変態を恋愛といふ/そしてどこまでもその方向では/決して求め得られないその恋愛の本質的な部分を/むりにもごまかし求め得やうとする/この傾向を性慾といふ/すべてこれら漸移のなかのさまざまな過程に従つて/さまざまな眼に見えまた見えない生物の種類がある/③この命題は可逆的にもまた正しく/わたくしにはあんまり恐ろしいことだ/けれどもいくら恐ろしいといつても/それがほんたうならしかたない/さあはつきり眼をあいてたれにも見え/明確に物理学の法則にしたがふ/これら実在の現象のなかから/あたらしくまつすぐに起て」である。  宮沢(1985) ①と②と③と下線は引用者

 

引用文の前半は詩集『春と修羅』の目次にある日付1922年5月21日に心象スケッチしたものを基に推敲されたものであるが,後半部分(もう決定した・・・)は『春と修羅』の「序」(1924.1.20)の日付からそう遠くないところで新たに加えられたものとされている(杉浦,1976,1998)。

 

引用文の下線部①の,「これらはみんなただしくない」の「これら」を「恋愛」のこととし,「おまへの信仰」を賢治の「みんなの幸い」を願う気持とすれば,下線部①は「いま疲れてかたちを更へたおまへ(賢治)の信仰から/発散して酸へたひかりの澱」が「恋愛」だということになる。つまり,賢治は「みんなの幸い」を願うことから「恋愛」へ行くのは正しくないとしている。なお,「これら」には国柱会活動も含まれている可能性が考えられるが,活動を止めて2年以上経過しているのでここでは「恋愛」とした。

 

②③を読んでみる。

賢治は,あらゆる情操とか愛とかのなかで一番大切なのを仏教的に考えた場合,自分と自分以外の人たちと「万象」と一緒に至上の幸福(宗教情操)のところへ行こうというのが,人間の情としては最も根本的で正しいことである。しかし,その願いが砕け疲れたりすると恋愛に,さらに性愛にまで落ちてしまうことがある。また,この「宗教情操→恋愛→性欲」という命題は可逆的で宗教情操から恋愛に落ちても,また宗教情操に戻ることも可能であるし正しいことと考えているように思える。

 

「万象」とは,すべての「現象」という意味である。『春と修羅 第一集』の「序」で人間も風景も物象も,初めから存在しているというのではなく,光っては消える交流電燈あるいは透明で幽霊のようなもので,すべて仮定された「現象」,つまり他の人たちと共通に感じているだけにすぎないと言っている。

 

ただ,③にある「この命題は可逆的にもまた正しく」の「また」は解りにくく読み手に誤解を与えるかもしれない。この書き方だと「宗教情操→恋愛→性欲」も「性欲→恋愛→宗教情操」も正しいとなってしまうからだ。「この命題は可逆的にもまた正しく」は「この命題は可逆的にも漸移(ぜんい)するが恋愛から宗教情操に戻ることは正しい漸移である」という意味と思われる。賢治は前述したように「宗教情操→恋愛→性欲」という漸移を正しいとは思っていない。また,ここでイメージされている「恋愛」の対象を妹トシとする研究者もいるが大畠ヤスのことである。注:漸移はだんだん移ってゆくこと(地質学用語)。

 

つまり,詩「小岩井農場」(パート九)には「みんなの幸い」(すべての現象の幸い)を願うのは正しいが,「みんなの幸い」を願っていた者が一個人である「現象」としての恋人の幸いを願うのは,砕け(堕落)あるいは疲れたからであり正しくない。また,「恋人との幸い」に落ちても「みんなの幸い」に戻ることは正しいことだということが述べられていると思われる。

 

また,賢治は詩「小岩井農場」で1人になる「寂しさ」についても語っている。詩集原稿のパート四に④「さあいまこそおれはさびしくない/たったひとりでもう大びらに生きて行く/こんなきままなたましひと/たれがいっしょに行けやうか」とある。「きままなたましひ」に恋人も含まれるとすれば,賢治は恋人と別れても寂しくないと言いたかったのかも知れない。これは前述したパート九で主張した「みんなの幸い」に戻ることの「正しさ」と表裏一体をなすものであろう。

 

ただ,寂しくないと言ったり,「恋人との幸い」から「みんなの幸い」に戻る決意をしたりした日は杉浦(1976)が述べているように「小岩井農場」に付いている日付,つまり大正11年(1922)5月21日ではなく詩集原稿を書いた大正12年(1923)秋頃から大正13年(1924)1月の間であるということは強調しておきたい(第1表)。詩集原稿パート四の引用詩句④は1922年5月21日から11月頃の間に書かれた下書稿では「もう寂しくないぞ。/誰も私の心もちを見て呉れなくても/私は一人で生きて行くぞ。/こんなわがまゝな魂をだれだって/なぐさめることができるもんか。/けれどもやっぱり寂しいぞ。」(下線は引用者)となっている。つまり,1人になればやっぱり寂しいと言っている。賢治が下書稿を書いていた頃は賢治の気持が「みんなの幸い」と「恋人との幸い」の間を多少の揺れはあったにせよどちらかに大きく傾くことはなかったと思われる。つまり,どちらも大切だと思っていた。しかし,下書稿を書き終わってから,別の言葉で言えば妹トシが亡くなってから賢治の気持は「みんなの幸い」の方へ大きく傾いていくことになる。

 

 

賢治の気持の変化は「雨ニモマケズ手帳」に書かれた文語詩「〔きみにならびて野にたてば〕〕の下書稿にある恋人の言葉にも現れている。この詩には「きみにならびて野にたてば/風きらゝかに吹ききたり/柏ばやしをとゞろかし/枯葉を雪にまろばしぬ/峯の火口にたゞなびき/北面に藍の影置ける/雪のけぶりはひとひらの/人も雲とも見ゆるなれ/「さびしや風のさなかにも/鳥はその巣を繕(つぐ)はんに/ひとはつれなく瞳(まみ)澄みて山のみ見る」ときみは云ふ・・・」(宮沢,1985)とある。

 

下線部分の「 」内が恋人の言葉と思われる。詩「〔きみにならびて野にたてば〕」の「きみ」が恋人だとする根拠を,賢治研究家の佐藤勝治(1984)は,恋人が渡米したのちに妹に手紙を送っているが,その中にこの詩に符号する1行があるからだとした。その1行を含む数行は,「前後の文面とは隔絶したもので,悲痛な叫びが書き込まれていた」という。ただ,この恋人の手紙は公表されていないので,この1行が詩のどの部分にあたるのかは定かではない。

 

また,佐藤勝治(1984)によればこの逢瀬の日は妹トシが亡くなった大正11年(1922)初冬(12月)から翌年(1923)の早春で,場所は「峯の火口にたゞなびき」が岩手山で,「北面に藍の影置ける」でその北面を見ることのできる盛岡以北,例えば東北本線の好摩駅か沼宮内(ぬまくない)駅を降りたあたりと推測している。この逢瀬の日を1923年早春とすれば,この日は賢治が恋に落ちて1年後にあたるので,佐藤が指摘するように最後の話し合いのための逢い引きだった可能性が高い。このとき恋人が賢治に「さびしや風のさなかにも/鳥はその巣を繕はんに/ひとはつれなく瞳澄みて山のみ見る」と言ったとすれば,このとき賢治の気持は「瞳澄みて山のみ見る」とあるように「みんなの幸い」に大きく傾いていたと思われる。この頃は詩ノート「〔古びた水いろの薄明穹のなかに〕」にあるように恋人が「雪の夜何べんも/黒いマントをかついで男のふう」をして賢治のいる農学校の寄宿舎を訪れていたりもした(石井,2024)。最後の逢瀬を詩「有明」の日付である1924年4月20日と推測する研究者もいるが,賢治が「みんなを幸い」にすると決意した日時に近いこともあり,その可能性がほとんどないと思われる。(続く)

 

参考・引用文献

石井竹夫.2023.詩「春と修羅」の「あけびのつるはくもにからまり」とはどういう意味か.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2023/07/29/135524

石井竹夫.2024.詩「暁穹への嫉妬」に登場するハイビャクシンには賢治の恋人が重ねられている.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2024/05/05/094032

佐藤勝治.1984.宮沢賢治青春の秘唱「冬のスケッチ」研究.十字屋書店.

杉浦 静.1976.「小岩井農場」の成立-推敲過程をふまえつつ-.日本文学.25(10~:24-44.

杉浦 静.1998.奥山文幸著『宮沢賢治『春と修羅』論-言語と映像』.昭和文学研究.37:136-138.

見田宗介.2012.宮沢賢治 存在の祭りの中へ.岩波書店.

宮沢賢治.1985.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.

吉見正信.1982.宮沢賢治の道程.八重岳書房.

 

(※)賢治は大正14年(1925)2月9日の森佐一あて封書で「どうせ家を飛び出したからだですから,どこへ行ってもいゝ訳ですがいろいろの事情がもうしばらく,或いは永久に,私をこゝへ縛りつけます。」と記している。家を飛び出したとは花巻町下根子桜の別宅へ移ったということであろうか。賢治には当時,家を飛び出しても岩手県を離れられない事情があったように思える。その一つと思われるものが農民との約束である。年代的にすこし後になるが,賢治は,自分が家長になったら土地を無償で農民(小作人)へ返す決意をしていたとも言われている(吉見,1982)。例えば,吉見の著書には当時(昭和2年頃),賢治が家に出入りする小作人たちに接触して,「おれの代になったら土地を全部ただでける(やる?)から,無理に借金などして土地を買う気おこすな。ただ,このことは親には内緒にしてけろ」と言ったとある。賢治には駆け落ちすることも難しかったのかもしれない。

 

文語詩「敗れし少年の歌へる」考 -賢治は三陸で恋人に向かって謝罪したのか(試論)-

 

前稿で賢治が大正14年(1925)1月5日から9日にわたって三陸地方に旅行したのは,新しいことを始めるためなどの諸説はあるものの,恋人のいるアメリカにできるだけ近づき,アメリカに渡った恋人と重なる「ハイビャクシン」の前で謝罪するためだった可能性もあり得るのではないかと述べた。本稿では,三陸旅行をしたときに書き留めた心象スケッチの中に謝罪を伺わせるものがあるのかどうか検討する。

 

賢治が三陸旅行で詠った詩は,『春と修羅 第二集』(未出版)に収録されている「異途への出発」(1925.1.5),「暁穹への嫉妬」(1925.1.6),「水平線と夕日を浴びた雲」(1925.1.7),「発動機船」〔断片〕(1925.1.8),「旅程幻想」(1925.1.8),「峠」(1925.1.9)と,『春と修羅 詩稿補遺』に収録されている「発動機船 一」,「発動機船 二」,「発動機船 三」である。

 

しかし,これら詩を読んでみたが謝罪と思われる文言を見つけることはできなかった。読み方が不十分だったのかもしれない。そこで,恋歌と思われる詩「暁穹への嫉妬」だけでもと思い,この詩を再度読み返してみることにした。

 

詩「暁穹への嫉妬」(下書稿手入形,1925.1.6)は「薔薇輝石や雪のエッセンスを集めて,/ひかりけだかくかゞやきながら/その清麗なサファイア風の惑星を/溶かさうとするあけがたのそら/さっきはみちは渚をつたひ/波もねむたくゆれてゐたとき/星はあやしく澄みわたり/過冷な天の水そこで/青い合図(wink)をいくたびいくつも投げてゐた/それなのにいま/(ところがあいつはまん円なもんで/リングもあれば月も七っつもってゐる/第一あんなもの生きてもゐないし/まあ行って見ろごそごそだぞ)と/草刈が云ったとしても/ぼくがあいつを恋するために/このうつくしいあけぞらを/変な顔して 見てゐることは変らない/変らないどこかそんなことなど云はれると/いよいよぼくはどうしていゝかわからなくなる/……雪をかぶったはひびゃくしんと/百の岬がいま明ける/万葉風の青海原よ……/滅びる鳥の種族のやうに/星はもいちどひるがへる」(宮沢,1986,下線は引用者)である。これがこの詩の全詩句である。 

 

この詩に登場する清麗なサファイア風の惑星は「土星」とされている。木村東吉(1994)の調査によれば,「1925年1月の土星の等級はプラス0.8中央標準時の南中時は7時42分で,詩「暁穹の嫉妬」における「薔薇輝石や雪のエッセンスを集めて,/ひかりけだかくかゞやきながら/その清麗なサファイア風の惑星を/溶かさうとするあけがたのそら」はそっくり作者の顔面に確かにあった」という。つまり,賢治は三陸海岸で空に輝く「土星」が消えてゆくのをずっと眺めていたことになる。「土星」にはリングがある。多分,賢治は明け方の光の中で消えゆく「土星」に「ハイビャクシン」と同じように別れて別の人に嫁いで結婚指輪をつけている元恋人を重ねているのであろう。賢治にとって「土星」は現在の元恋人で,黒い「マント」を被ったように見える「ハイビャクシン」は思い出の中にある過去の恋人である。

 

前述したように何度読んでも謝罪の文言は見つからない。しかし,この詩をよく見てみると,詩句の中にではなく賢治が三陸海岸で元恋人のいるアメリカに向かって謝罪しているととれる箇所のあることに気づかされた。それは,詩句の配置の仕方の中に隠されていた。詩の後半に位置する破線(……)と破線(……)の間の詩句「雪をかぶったはひびゃくしんと/百の岬がいま明ける/万葉風の青海原よ」である。この詩句は頭を下げてなければ詠めない内容である。つまり,破線内以外の詩句はすべて明け方の空の惑星を見ながら詠っているが,破線内は頭を下げなければ「ハイビャクシン」も「岬」も見ることはできない。賢治はこの詩句の配置を意図的にしたとしか思えない。破線内の詩句は「七七/七五/七七」の40字で,読み上げると10秒くらいを要する。つまり,少なくとも10秒間は頭を下げている。

 

『春と修羅 第二集』は同一作品でも3種の清書稿があることから三度に渡って編集し直されたとされている(木村,1994)。本稿で引用した詩「暁穹の嫉妬」(下書稿手入形)は二次清書の段階で『春と修羅 第二集』に追加されたものであるとされている。詩集は出版されなかったこともあってこの詩に定型稿はない。つまり,この詩は1925年1月6日にスケッチされたものであるが,推敲が重ねられ引用文の詩(下書稿手入形)になったのは1930年から1932年の間となっている。また,詩「暁穹の嫉妬」(下書稿手入形)の下書稿(一)が草稿的で,筆跡・字体・文字の大きさ,鉛筆の色と太さ,その他全体の印象で「〔夜の湿気と風がさびしくいりまじり〕」(1924.10.5)の下書稿(二)と類似していることも指摘されている。多分,詩「暁穹への嫉妬」と「〔夜の湿気と風がさびしくいりまじり〕」は同時期に推敲がなされたようだ。両者には内容的にも密接な繋がりがあると思われる。

 

「〔夜の湿気と風がさびしくいりまじり〕」の下書稿(二)は「業の花びら」というタイトルが付いている作品である。内容は「夜の湿気が風とさびしくいりまじり/松ややなぎの林はくろく/そらには暗い業の花びらがいっぱいで/わたくしは神々の名を録したことから/はげしく寒くふるえてゐる/ああ誰か来てわたくしに云へ/億の巨匠が並んで生れ/しかも互ひに相犯さない明るい世界はかならず来ると/……遠くでさぎがないてゐる/夜どほし赤い眼を燃して/つめたい沼に立ち通すのか……」(宮沢,1985)というものである。

 

「……」と「……」の間の言葉は内語と言われている。だから,実際には見ていないかもしれない。ただ,賢治は赤い眼をした誰かに見つめられている。と感じている。「鷺」は渡り鳥である「シラサギ」であろう。

 

私は以前「夜どほし赤い眼を燃して」鳴いている「鷺」,つまり遠方から賢治を脅かす「鷺」は渡り鳥のように賢治から去っていった恋人がイメージされていると解釈していた(石井,2024a)。恋人は「赤い眼」をして鳴いていることから激しく怒っている。そして悲しんでいたと思う。あるいは賢治がそう感じていただけかもしれないが。賢治作品で「赤い眼」は「怒り」を意味していることが多い(石井,2022)。

 

「業の花びら」とは賢治が慢心の罰で失ってしまった一番大事なもの,つまり恋人のことである(石井,2024b)。恋人は生粋の東北人(先住民)と思われるので,「花びら」は「樺の木」から散ったものであろう。「樺の木」は東北ということを考慮すれば,日本固有種の「オオヤマザクラ」(Cerasus sargentii (Rehder) H.Ohba)や「カスミザクラ」(Cerasus leveilleana ( Koehne ) H.Ohba,2001)などのバラ科植物が候補にあがる。「山桜」の樹皮はアイヌ語(あるいは「奥州エゾ語」)で「karimpa・カリンパ」と呼ぶ。「樺(カバ)」はこの「カリンパ」が転訛したという説もある。

 

つまり,〔夜の湿気と風がさびしくいりまじり〕」の下書稿(二)「業の花びら」は恋人の「怒り」や「悲しみ」が詠われていて,詩「暁穹への嫉妬」はそれに対する賢治の「謝罪」となっているように思える。

 

多分,賢治が三陸海岸へ行った理由の1つは,アメリカの方角に向かって,破局させたことを反省し,頭を下げて元恋人・及川ヤス(旧姓大畠)に謝罪するためだったと考えられる。あるいは,そう信じたい。

 

賢治は晩年に詩「暁穹への嫉妬」を文語詩化して「敗れし少年の歌へる」を創っている。この詩は以前(石井,2024c)にも述べたが「みんなを幸いにする」という「理想」ばかり追い求めすぎて現実を顧みることなく恋人を失ってしまった敗北の詩(うた)でもある。

 

参考・引用文献

石井竹夫.2022.童話『やまなし』の第一章「五月」に登場する〈カワセミ〉の眼は黒いはずなのになぜ赤いと言うのか.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2022/12/24/083020

石井竹夫.2024a.賢治の詩「業の花びら」に登場する赤い眼をした鷺は怒っているのか (12).https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2024/02/29/085518

石井竹夫.2024b.賢治が幻視した「業の花びら」の正体は慢心の罰で失ってしまった一番大事なもの (9).https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2024/02/25/103603

石井竹夫.2024c.宮沢賢治の文学は芥川と同じように敗北したか -「敗れし少年の歌へる」から-(13).https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2024/03/01/070152

宮沢賢治.1985.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.

木村東吉.1994.旅の果てに見るものは : 《春と修羅 第二集》三陸旅行詩群考.国文学攷.144:19-32.

詩「暁穹への嫉妬」に登場するハイビャクシンには賢治の恋人が重ねられている

 

前稿で賢治が詩「暁穹への嫉妬」(1925.1.6)を創作するときに「ハイビャクシン」に似た「ハマハイビャクシン」を見たということを述べた(石井,2024a)。しかし,「ハイビャクシン」にせよ,あるいは「ハマハイビャクシン」だったにせよ,なぜこのような地味で目立たない,名の知られていない植物を詩に入れなければならなかったのか疑問も生じていた。三陸海岸には当時アカマツ,クロマツ,タブノキなどたくさんの樹木があったはずである。賢治の好きなスギの林だってあったであろう。賢治は詩や童話を沢山書いたが「ビャクシン」と名が付く植物が登場するのは私が調べた限りでは文語詩「敗れし少年の歌へる」と詩「暁穹への嫉妬」の中だけである。本稿では,賢治がなぜ詩「暁穹への嫉妬」に「ハイビャクシン」という名の植物を入れたのかと,なぜ旅行が三陸海岸でなければならなかったのかを考察する。

 

ちなみに,詩「暁穹への嫉妬」(1925.1.6)の後半部は「ぼくがあいつを恋するために/このうつくしいあけぞらを/変な顔して 見てゐることは変らない/変らないどこかそんなことなど云はれると/いよいよぼくはどうしていゝかわからなくなる/……雪をかぶったはひびゃくしんと/百の岬がいま明ける/万葉風の青海原よ……/滅びる鳥の種族のやうに/星はもいちどひるがへる」(宮沢,1985,下線は引用者)である。 

 

最初の疑問の答えを先に言えば,「ハイビャクシン」は詩「暁穹への嫉妬」の内容に相応しい植物だったからだと思う。つまり,「ハイビャクシン」でなければならないのである。賢治は植物を単なる風景描写としては入れない。風景描写なら詩「暁穹への嫉妬」は「雪をかぶったあかまつと」でもいいような気がするからである。

 

賢治は大正14年(1925)1月5日から三陸地方に旅だった。5日の日付で詩「異途への出発」を書いている。旅行の目的は不明とされているが,堀尾青史(1991)は『年譜宮澤賢治伝』で5日の詩に対して「農学校教諭の限界にあきたらず,農民対象の指導助言と自身が農民たらんと考える」,あるいは木村東吉(1994)は「微温的な学校社会から,凍てつく農民社会に下り立つこと」と記していた。両者とも学校生活を締めくくる卒業旅行のようなものを考えているのであろうか。私もこれ以上にこの場で言うことは何もないが,6日の日付のある詩「暁穹への嫉妬」が,半年前の恋人・大畠ヤスの渡米(1924年6月14日)と深く関わっているということは以前に述べたことがある(石井,2024b)。多分,「ハイビャクシン」も破局して渡米した賢治の恋人と関係があると思われる。

 

上原敬二の『樹木大図説』(1959)で「ハイビャクシン」の説明欄に「1862年にアメリカに入る。同地ではSonare(ソナレ;磯馴)と呼ばれ庭樹に重用されている。英国のヘンリー氏もこの樹の造園的価値を激賞している」と記載されている。英国のヘンリー氏がどういう人物なのかは『樹木大図説』に説明がないので解らない。アイルランドの園芸家であるオーガスティン・ヘンリー(Augustine Henry,1857~1930)のことであろうか。それはともあれ,日本の植物を意図的に海外に持ち込んだというのも興味深い。セイタカアワダチソウやナガミヒナゲシなど海外から日本に荷物などに紛れて恣意的に持ち込まれた植物はよく知られているが,「ハイビャクシン」はその逆だからである。「ハイビャクシン」は乾燥に強く,刈込みにも耐え,地面を這うように覆うのが特徴なので,海外ではグランドカバーとして利用されているのだと思われる。

 

「ハイビャクシン」が別れてアメリカに渡った恋人と関係するように,詩「異途への出発」(1925.1.5)に登場する「アカシヤ」もアメリカと関係する。詩「異途への出発」に「……ああアカシヤの黒い列……/みんなに義理をかいてまで/こんや旅だつこのみちも」(下線は引用者)という詩句の中に出てくる。破線内の言葉は前稿で述べたように内語である。『新宮澤賢治語彙辞典』によれば,「アカシヤ」(acacia)は「ニセアカシヤ」(あるいはニセアカシア)と呼ばれる「ハリエンジュ」のことだという(原,1999)。「ニセアカシヤ」(Robinia pseudo acacia L.)は北米原産のマメ科ハイエンジュ属の高木である。日本には1873年に渡来した。属名のRobiniaはフランスの植物学者ロビン(Jean Robin;1550~1629)の名に由来し,フランスではこのロビニエの名の方が通っている。賢治もロビンのことはよく承知していて,童話『イーハトーボ農学校の春』(1923)でその知識を披露している。童話の中に楽譜とともに「おゝこまどり,鳴いて行く鳴いて行く,音譜のやうに飛んで行きます。」という言葉と,「かへれ,こまどり,アカシヤづくり。」という詩句(下線部)のような言葉があるが,小沢俊郎によれば後者の「こまどり,アカシヤ」はコマドリ(robin)→(Robinia)=ニセアカシヤの連想だという(原,1999)。また,「こまどり」は「音譜のやうに飛んで行きます」とあるようにおたまじゃくしの音譜がイメージされている。「アカシヤ」は賢治の「〔アカシヤの木の洋燈(ラムプ)から〕」という詩のタイトルが示すように西洋風のイメージでもある。原産地は北米と記したが,具体的にはペンシルバニア,オハイオ,イリノイ,バージニア州を中心とした一帯である(Wikipedia)。イリノイ州には賢治の元恋人の嫁ぎ先であるシカゴがある。ちなみに,詩「異途への出発」に出てくる「アカシヤ」は木村(1994)が指摘するように県立花巻農学校のものと思われる。また,これは賢治が植えたものとされている(原,1999)。

 

つまり,賢治は花巻の農学校を出発するときは,アメリカから渡来した「アカシヤ」を見て詩「異途への出発」を創作し,また翌日三陸の種市に到着したときはアメリカに渡った「ハイビャクシン」を思い浮かべて詩「暁穹への嫉妬」を創作したことになる。また3日目の詩「発動機船 一」に「カヤ(榧)」(Torreya nucifera L. Siebold et Zucc.)という植物が登場するが,この植物の属の学名 Torreya はアメリカの植物学者John Torrey(1796〜1873年)に因んでいる。アメリカに因んだものが3つ続く。単なる偶然とは思えない。はひびゃくしん(這柏槇)→百(ひゃく)の岬,コマドリ(robin)→(Robinia)=ニセアカシヤの連想もそうだが,賢治はこのような言葉遊びが好きである。

 

アメリカに渡った賢治の元恋人について知り得た情報を記してみる。元恋人の夫はイリノイ州シカゴで宿泊業を営む人で,大正13年(1924)5月末ごろに来日したとされている。また,これは証明されていることだが,6月14日に賢治の元恋人をつれて横浜港からKAGAMARUという船でアメリカへ渡った(布臺,2019)。渡来した「アカシヤ」と渡米した「ハイビャクシン」がこのことと重なる。「こまどり」が「音譜」の「おたまじゃくし」に見えるなら,移民船の煙突やマストは「アカシヤ」の「黒い列」に見えたのであろう。つまり,「ハイビャクシン」には賢治の恋人だった女性が投影されている。

 

さらに,「ハイビャクシン」=「恋人」を決定づけるものがある。それは,「……雪をかぶったはひびゃくしんと/百の岬がいま明ける/万葉風の青海原よ……」とあるように「はひびゃくしん」が雪を被っていることである。この光景は賢治にある昔の記憶を呼び起こさせたと思われる。

 

昔の思い出とは,賢治の詩ノート「〔古びた水いろの薄明穹のなかに〕」にある「・・・そしてまもなくこの学校がたち/わたくしはそのがらんとした巨きな寄宿舎の/舎監に任命されました恋人が雪の夜何べんも/黒いマントをかついで男のふうをして/わたくしをたづねてまゐりました/そしてもう何もかもすぎてしまったのです・・・」である。この詩は,昭和2年(1927)5月7日の日付のある作品だが,大正11年(1922)冬あるいは翌年の2月ごろまでのことを回想したものとされている。この詩に登場する寄宿舎とは新しくなる農学校の校舎で,大正11年(1922)8月から建築を開始し翌年3月30日に落成式を行った県立花巻農学校のことである。三陸旅行の出発点になった場所でもある。恋人はこの時期に黒いマントをかついで「男のふう」をして寄宿舎の舎監である賢治を訪ねていたのだと思われる。「かついで」は古い言葉の「被いで」で「頭からかぶって」という意味である。女性であることを隠すためと思われる。この恋人は女性で背の高い大畠ヤスであろう。

 

「ハイビャクシン」は横に這うことを特徴とする低木なので,地表に生えるときはマット状に,崖などの岩の間に生えると岩を覆う形になり「マント状」になる。つまり,岩の場合はマントを被っているように見えるのである(前稿の第1図を参照)。多分,賢治は海岸の崖や岩に垂れている「雪をかぶったはひびゃくしん」に,雪の夜何べんもマントをかついで尋ねてきた恋人を重ねているように思える。大正11年(1922)の冬あるいは翌年の初冬は,賢治の恋が破局へと向かっていた時期である。多分,そのとき賢治と恋人は最後の話し合いをしていたと思われる(石井,2023)。

 

「百の岬がいま明ける」の「百の岬」は三陸海岸にある岬のことと思われる。しかし,三陸海岸に「岬」が100もあるとは思えない。あるブログで東北の東海岸にある「岬」の数を国土地理院の2018年版地図を使って調べた人がいた(Dendenmushi,2018)。「岬」と名が付くのは12であったという。賢治も地図で調べたかも知れないがさすがに100ではなかったろう。「百の岬」には別の意味がありそうである。「岬」は知里真志保(1992)によれば,アイヌ語で「エサシ(esasi)」,「エサウシ」(esausi),あるいは「エンルム(enrum,-i)などと呼ばれている。面白いことに,「岬」を意味する「エンルム」は発音がネズミのアイヌ語である「エルム」と似ている。襟裳岬の「エリモ」はアイヌ語の「オンネエンルム」に由来するとされている。「オンネ」は「大老の・大きい」,「エンルム」は「突き出たところ=岬」を意味している。しかし,襟裳岬をねずみ岬と呼ぶこともある。つまり,賢治は「百の岬」に「百の鼠」(あるいは百万疋の鼠)という意味も含まれると言いたかったのかもしれない。

 

詩「暁穹の嫉妬」は出版を予定していた詩集『春と修羅 第二集』に収められているものである。その「序」に「北上川が一ぺん氾濫しますると/百万疋の鼠が死ぬのでございますが/その鼠らがみんなやっぱりわたくしみたいな云ひ方を/生きているうちは毎日いたして居りまするのでございます」とある。北上川周辺にネズミが百万疋いるかどうかなど解るはずもない。この百万とは当時の岩手県の人口と思われる。1925年で90万人,1930年で97.6万人である。おおよそ100万人である。つまり,「百の岬」はほとんどが農民と思われるがイーハトーヴに住む人たちという意味も含んでいる。「万」の桁はどこから持ってきたのかという疑問をもつ方もいるかもしれないが,「万」の桁は次の詩句「葉風の青海原よ」の「万葉」の中にある。

 

つまり,最初に述べたように,恋歌である詩「暁穹への嫉妬」に「ハイビャクシン」が登場するのは,この植物が詩の内容に相応しい植物だったからだと思う。「……雪をかぶったはひびゃくしんと/百の岬がいま明ける/万葉風の青海原よ……」の意味は,「明ける」を「幸いにする」という意味もあるとすれば,日の出が「ハイビャクシン」が生える三陸の海岸を明るくさせるという意味と,賢治が「恋人とイーハトーヴの人たちを同時に幸いにする」という2つの意味があると思われる。「万葉風の青海原よ」は前稿でも述べたように「蝦夷(エミシ)の血を受け継ぐ恋人や農民たちのいる大地よ」という意味と思われる。つまり,賢治に疑いと反感を示すだろう農民たちの中に入って農民(みんな)のために働くとともに,恋人の願いも受け入れるという決意表明であろう。恋人はもう日本にいないけど,賢治は恋人の願いを詩「暁穹への嫉妬」とほぼ同じ時期に創作した童話『銀河鉄道の夜』で実現させている。

 

例えば,童話『銀河鉄道の夜』(第一次稿;1924.12)で主人公のジョバンニが親友のカムパネルラに「カムパネルラ,また僕たち二人きりになったねえ,どこまでもどこまでも一緒に行かう,僕はもうあのさそりのやうにほんたうにみんなの幸のためならばそしておまへのためならば僕のからだなんか百ぺん灼(や)いてもかまわない」と問いかける場面がある。カムパネルラは「うん。僕だってさうだ。」と答える。「みんなの幸のため」と「おまへのため」が「そして」(and)を挟んで並んでいる。

 

さらに童話には「あゝアジェランの星雲だ。さあもうきっと僕は僕のために,僕のお母さんのために,カムパネルラのためにみんなのためにほんたうのほんたうの幸福をさがすぞ」というジョバンニの言葉もある。ここでは「僕のため」,「お母さんのため」,「カムパネルラのため」,「みんなのため」とあるが「みんなのため」は4番目,つまり最後である。これは,「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」と謳った『農民芸術概論綱要』の理念とは真逆である。

 

私は,『銀河鉄道の夜』のジョバンニには恋人がカムパネルラには賢治が投影されていると思っている(石井,2021)。ジョバンニとカムパネルラは同じように「相手の幸せ」と「みんなの幸せ」を同時に願っているし,どこまでも一緒にいようと誓っている。童話『銀河鉄道の夜』は第一次稿から第四次稿まであるが,どれを読んでも「みんなの幸い」が「個人の幸い」よりも優先するとは記載されていない。

 

「恋人とイーハトーヴの人たちを同時に幸いにする」と言う願いは,詩「異途への出発」に記載されている「……楽手たちは蒼ざめて死に/嬰児は水いろのもやにうまれた……」の「嬰児」とも関係する。「雪をかぶったはひびゃくしん」は賢治と一緒になりたいと願った〈恋人〉のことであり,「百の岬」はみんなの幸いを願った〈賢治〉のことである。その2つを「と」(and)で結んだということは結婚させたと言うことである。賢治と恋人は結ばれなかったが詩や童話の中では結ばれているのである。つまり,2人のそれぞれの願いを合体させて生まれたのが「恋人とイーハトーヴの人たちを同時に幸いにする」という賢治の願いになったのである。つまり2人の「嬰児」である。また,『銀河鉄道の夜』という作品も2人の「嬰児」である。

 

賢治の恋の破局は賢治が周囲から反対されたとき「恋人との幸い」よりも「みんなの幸い」を優先させたからである。と思っている。しかし,恋人が渡米してから7か月後の三陸旅行の頃になると「みんなの幸い」を優先したことを後悔しているのである。つまり,賢治は「みんなの幸い」を優先するという考えを止(や)めようとしているのである。「楽士たち」とは「みんなの幸い」を優先するという賢治を応援した人たちであろう。

 

前稿でも述べたが「ハイビャクシン」は東北の内陸部では蛇紋岩が露出しているところに自生しているとされている。蛇紋岩は賢治が好きな岩石でもある。なぜなら,賢治の好きな種山ヶ原が連想されるからである。種山ヶ原には恋人との思い出もあるようだ。多分,賢治は東北に古くから自生していると思っている「ハイビャクシン」がアメリカに渡ったという事実を植物図鑑などで知って,それを生粋の東北人で渡米した恋人と重ね,さらに興味をもつようになっていたのだと思われる。そして,旅行先で海岸の岩を覆う「ハイビャクシン」と思われる植物を見たとき,この植物を詩句に入れて詩を創作したのだと思われる。

 

もう一つ疑問があった。それは,なぜ,賢治は「異途への出発」とあるように,新しいことを始めようとしたとき,あるいは他の人へ嫁いだ元恋人に嫉妬したとき海が見える三陸地方へ行こうとしたのか。である。前者はよく解らないが,後者をシンガー・ソングライターである井上陽水の「ジェラシー」(1999)という歌を土台にして考察してみたい。揚水は「君によせる愛はジェラシー/春風吹き 秋風が吹き さみしいと言いながら/君によせる愛はジェラシー/はまゆりが咲いているところをみると/どうやら僕等は海に来ているらしい/ハンドバッグのとめがねが/はずれて化粧が散らばる/波がそれを海の底へ引き込む/ジェラシー/愛の言葉は/愛の裏側/ジェラシー」と歌う。詩人である揚水は他人に心が傾いてしまう恋人(妻)に対してジェラシーを感じると海へ行きたくなるようである。嫉妬で心が不安定になると海,つまり母の羊水で満たされた子宮の中に帰りたくなるのであろうか。もし,そうだとしても賢治の場合はそれだけでは説明できないように思える。

 

賢治は詩集『春と修羅 第一集』の「小岩井農場」(パート九)にあるように「みんなの幸い」を願う気持を「恋人との幸い」よりも優先させていたが,第一集が出版されて半年後の『春と修羅 第二集』に収められた「暁穹の嫉妬」や童話『銀河鉄道の夜』では「みんなの幸い」を優先しなくなっている。つまり,「みんなの幸い」を優先して恋を破局させたことを反省し,恋人のいるアメリカにできるだけ近づき,アメリカに渡った恋人と重なる「ハイビャクシン」の前で謝罪したと考えた方が私には理解しやすい。ちなみに,本州最東端は三陸である宮古市のトドヶ崎である。

 

参考・引用文献

Dendenmushi.2018.でんでんむしの岬めぐり.2018.https://dendenmushimushi.blog.ss-blog.jp/2018-08-20

原 子朗.1999.新宮澤賢治語彙辞典.東京書籍.

堀尾青史.1991.年譜宮澤賢治伝.中央公論社.

布臺一郎.2019.ある花巻出身者たちの渡米記録について.花巻市博物館研究紀要.14:27-33.

石井竹夫.2021.植物から『銀河鉄道の夜』の謎を読み解く(総集編Ⅳ)-橄欖の森とカムパネルラの恋-.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/06/07/084943

石井竹夫.2023.童話の「やまなし」の実が「横になって木の枝にひっかかってとまる」とは何を意味しているのか.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2023/01/22/092226

石井竹夫.2024a.賢治は文語詩「敗れし少年の歌へる」に登場するビャクシンを実際に見たのか(2).https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2024/05/04/100238

石井竹夫.2024b.賢治の詩「敗れし少年の歌へる」の原稿に書き込まれた落書き絵-翼を広げた鳥と魚-(試論 1).https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2024/04/03/063925

木村東吉.1994.旅の果てに見るものは : 《春と修羅 第二集》三陸旅行詩群考.国文学攷.144:19-32.

宮沢賢治.1985.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.

知里真志保.1992.地名アイヌ語辞典.北海道出版企画センター.

上原敬二.1959.樹木大図説.有明書房.