宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

ブログ内容の紹介

謎の多い宮沢賢治の作品をそこに登場する植物を丁寧に調べることによって読み解いています。本ブログの内容は,ブログ名について,作品論,エッセイの3項目から構成されています。作品論とエッセイにあるカテゴリー名末尾の括弧内の数字は各カテゴリーの記事数を表します。例えば,「やまなし(39)」は童話『やまなし』に関して39つの記事があることを表しています。各カテゴリー名をクリックすると記事名が表記され,さらに記事名をクリックすると本文を読むことができます。『銀河鉄道の夜』に関しては記事数が多いので「銀河鉄道の夜(総集編) (5)」を最初に読んでいただければと思います。

 

1.ブログ名について

橄欖の森とは

 

2.作品論

業の花びら(4)

蠕虫舞手(5)

二十六夜(3)

サガレンと八月(2)

四又の百合(4)

ガドルフの百合(6)

土神ときつね(6)

氷河鼠の毛皮(4)

シグナルとシグナレス(3)

ビヂテリアン大祭 (1)

やまなし (39)

若い木霊 (8)

水仙月の四日 (1)

どんぐりと山猫 (2)

春と修羅 (8)

風野又三郎 (1)

十力の金剛石 (2)

花壇工作 (1)

鹿踊りのはじまり (1)

北守将軍と三人兄弟の医者 (1)

毒もみの好きな署長さん (1)

マグノリアの木 (1)

銀河鉄道の夜(目次) (1)

銀河鉄道の夜(種々) (7)

銀河鉄道の夜(心理と出自)(5)

銀河鉄道の夜(三角標) (11)

銀河鉄道の夜(宗教) (6)

銀河鉄道の夜(リンゴ) (7)

銀河鉄道の夜(発想の原点) (12)

銀河鉄道の夜(総集編) (5)

ひのきとひなげし (1)

なめとこ山の熊 (1)

烏の北斗七星 (6)

よく利く薬とえらい薬 (4)

 

3.エッセイ

賢治と化学(1)

宮沢賢治の母(3)

鬼滅の刃(2)

烏瓜のあかり (3)

賢治作品に登場する謎の植物 (5)

希少植物 (1)

湘南四季の花 (4)

 

 

賢治の詩「業の花びら」に登場する赤い眼をした鷺は怒っているのか (12)

 

賢治の詩「三一四〔夜の湿気と風がさびしくいりまじり〕」(1924.10.5)の下書稿に「業の花びら」という詩がある。その中に赤い眼をした「鷺」(さぎ)が登場する。本稿ではこの「鷺」の赤い眼が何を意味しているのか考察する。

 

「夜の湿気が風とさびしくいりまじり/松ややなぎの林はくろく/そらには暗い業の花びらがいっぱいで/わたくしは神々の名を録したことから/はげしく寒くふるえてゐる/ああ誰か来てわたくしに云へ/億の巨匠が並んで生れ/しかも互ひに相犯さない明るい世界はかならず来ると/……遠くでさぎがないてゐる/夜どほし赤い眼を燃して/つめたい沼に立ち通すのか……」(宮沢,1985)とある。

 

「……」と「……」の間の言葉は内語と言われている。言葉にはならないけれど,心の中でそう思った言葉が入るのだと言われている(吉本,2012)。だから,実際には見ていないのだと思われる。ただ,賢治は赤い眼をした誰かに見つめられている。と思っている。「沼」から見つめられているということを詠った詩が5ヶ月前に書かれてある。詩「〔日はトパースのかけらをそゝぎ〕」(1924.5.18)である。この詩には「雲は酸敗してつめたくこごえ/ひばりの群はそらいちめんに浮沈する/(おまへはなぜ立ってゐるか/立ってゐてはいけない/「沼の面にはひとりのアイヌものぞいてゐる・・・」(下線は引用者 以下同じ)とある。

 

詩「業の花びら」の「つめたい沼に立ち通すのか」にある「沼」は 詩「〔日はトパースのかけらをそゝぎ〕」に登場する「沼の面にはひとりのアイヌものぞいてゐる」の「沼」と関係しているように思える。詩「〔日はトパースのかけらをそゝぎ〕」は推敲が重ねられ,一旦書かれて削除された詩句に「沼はむかしのアイヌのもので/岸では鍬や石斧もとれる」というのもある。つまり,「沼」は東北の先住民である「アイヌ」と関係する。賢治は東北の先住民である「蝦夷(エミシ)」をアイヌと考えていた。また,賢治は先住民を意味する「蝦夷」という言葉を作品の中では決して使わない。「蝦夷(エミシ)」という言葉は朝廷側の人間が東北の先住民に使う侮蔑用語だからと思われる。

 

「鷺」は「シラサギ」と思われる。「シラサギ」と呼ばれるものはダイサギ,コサギ,チョウサギ,アマサギで白い体と長い首や足を持つ鳥である(国松・藪内,1996)。この詩の「鷺」は渡り鳥がイメージされていると思う。

 

詩「業の花びら」に登場する「鷺」に対して賢治研究家の見田宗介(2012)は「詩人を遠方からおびやかす〈他者〉であると同時に,まさしくこのような他者として,深くこの詩人自身でもあった。それは詩人が,〈自己自身よりもいっそう本質的な自己として感受せざるを得ない他者〉として,外にありまた内にある声であった。」という見解を示している。賢治は乖離性障害の気質があることが知られているので(芝山,2007),賢治がもう1人の自分と批判し合う会話しても不思議ではないが,私は別の解釈をしてみたい。

 

私は,「夜どほし赤い眼を燃して」鳴いている「鷺」,つまり遠方から賢治を脅かす「鷺」は賢治から去っていった先住民の末裔である恋人がイメージされているものと思っている。恋人は破局後の大正13年(1924)6月14日に別の家庭を営むため,渡り鳥の「サギ」のようにアメリカに渡っている。渡米の日は詩「〔日はトパースのかけらをそゝぎ〕」の日付と詩「業の花びら」の日付の中間である。恋人は「赤い眼」をして鳴いていることから激しく怒っており,そして悲しんでいたと思う。あるいは賢治がそう思っていた。賢治作品で「赤い眼」は「怒り」を意味していることが多い(石井,2022)。ちなみに,ネットでシラサギの眼を見たが赤くはない。「怒り」を強調しているのであろう。

 

怒り悲しんでいる原因が詩「業の花びら」の5ヶ月後に書かれた詩「〔はつれて軋る手袋と〕」(1925.4.2)に記載されているように思える。この詩には「空気の沼」が登場する。「空気」は空想ということだろうか。

 

「丘いちめんに風がごうごう吹いてゐる/ところがこゝは黄いろな芝がぼんやり敷いて/笹がすこうしさやぐきりたとへばねむたい空気の沼だ/かういふひそかな空気の沼を/板やわづかの漆喰から/正方体にこしらえあげて/ふたりだまって座ったり/うすい緑茶をのんだりする/どうしてさういふやさしいことを卑しむこともなかったのだ/……眼に象って/かなしいあの眼に象って……/あらゆる好意や戒めを/それが安易であるばかりにことさら嘲けり払ったあと/ここには乱れる憤りと/病に移化する困憊ばかり」とある。(宮沢,1985)

 

この詩では,恋人が小さな家で2人黙ってお茶を飲んだりするという些細な生活を望んでいた,つまり空想していたことが書かれている。2人の結婚は家族や親戚から反対されていたらしく,2人には当時の家制度や恋人の願いから推測するに駆け落ちするぐらいしか残されていなかったと思える。これは私の単なる憶測だが,恋人は駆け落ちを望んでいたように思える。なぜなら,恋人の親友が結婚を反対されていたのに勇敢にも函館へ駆け落ちしているからである(佐藤,1984)。恋人の親友も賢治の主宰した音楽鑑賞会に参加していて,そこで同じ教員である青年と恋をしたが反対されていた。しかし,賢治は恋人の願う生活を「安易であるばかり」にと嘲り払ってしまった。賢治には恋人の言うことが理解できなかったように思える。詩「〔わたくしどもは〕(1927.6.1)〕には「その女はやさしく蒼白く/その眼はいつでも何かわたくしのわからない夢を見てゐるやうでした」とある。賢治は当時「慢心」があり,「みんなの幸い」を実現する理想に燃えていたように思える。文語詩「〔きみにならびて野にたてば〕」の下書稿に恋人の言葉と思われるものが残されている。「さびしや風のさなかにも/鳥はその巣を繕(つぐ)はんに/ひとはつれなく瞳(まみ)澄みて山のみ見る」である。「山」は賢治の理想を言っている。賢治は詩「業の花びら」で「夜どほし赤い眼を燃して」鳴いている「鷺」を描いていた。恋人の肉体は米国へ飛び去ったが「こころ」は「生き霊」となって日本に残り「鷺」に取り憑いていたのかもしれない。

 

ちなみに詩「〔はつれて軋る手袋と〕」の「眼に象って」は花壇設計図にあるtearful eye につながる。賢治にとって詩「〔はつれて軋る手袋と〕」は思い入れがあったようである。賢治の亡くなる5ヶ月前に改稿篇「移化する雲」として「日本詩壇」創刊号に投稿している。変更した主な箇所は「ここには乱れる憤りと」を「ここに蒼々うまれるものは/不信な群への憤(いきどお)りと」にしたことである。賢治を「病に移化する困憊ばかり」にしたものが「不信な群」だと言っている。「不信」とは「うそ」ばっかり言っている人たちと思われる。賢治が恐怖と感じている「まっくらな巨きなもの」なのであろうか。(続く)

 

参考・引用文献

石井竹夫.2022.童話『やまなし』の第一章「五月」に登場する〈カワセミ〉の眼は黒いはずなのになぜ赤いと言うのか.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2022/12/24/083020

国松俊英・藪内正幸.1996.宮沢賢治 鳥の世界.小学館.

宮沢賢治.1985.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.

見田宗介.2012.宮沢賢治 存在の祭りの中へ.岩波書店.

佐藤勝治.1984.宮沢賢治青春の秘唱「冬のスケッチ」研究.十字屋書店.

芝山雅俊.2007.解離性障害-「うしろに誰かいる」の精神病理.筑摩書房.

吉本隆明.2012.宮沢賢治の世界.筑摩書房.

賢治が「業の花びら」を幻視した時期に生じていた慢心について (11)

 

賢治の詩「三一四〔夜の湿気と風がさびしくいりまじり〕」(1924.10.5)で幻視した「業の花びら」は「慢心」の「罰」によるものであることを述べてきた。本稿では賢治の「慢心」がどのようなものであったのかについて考察する。

 

「慢」を生む原因の1つに成功体験がある。賢治は大正10年(1921)に国柱会の髙知尾智耀の勧めによって法華文学の制作を志した。そして,全てが法華文学とは言わないまでも,生涯に渡って詩を約800,童話を約100書いた。童話に限ればその大半は農学校時代に作られている。特に大正10年には30ほどの童話を制作している。賢治は弟の清六に「一カ月に三千枚も書いたときには,原稿用紙から字が飛び出して,そこらあたりを飛びまわったもんだ」と話している(宮沢,2009)。沢山の童話作品を短期間に書けたことは賢治にとって成功体験の1つであろう。賢治はそれによって自分の創作力を「すごい」と思ったと思われる。

 

また,「慢」について,賢治は教え子の柳原昌悦への手紙(1933.9.11)の中で「僅かばかりの才能とか,器量とか,身分とか財産とかいふものが何かじぶんのからだについたものででもあるかと」思っていたと説明している。

 

才能とは物事を巧みになしうる生まれつきの能力のことである。賢治には「慢」に結びつくどのような「生まれつきの能力」があったのであろうか。賢治の詩「雨ニモマケズ」(1931.11.3)には「サウイフモノニ/ワタシハナリタイ」ものが書かれてある。賢治は「東ニ病気ノコドモアレバ/行ッテ看病シテヤリ/西ニツカレタ母アレバ/行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ/南ニ死ニサウナ人アレバ/行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ/北ニケンクヮヤソショウガアレバ/ツマラナイカラヤメロトイヒ」と詠っている。「死にそうな人に怖がらなくてもいい」と言える人は凡人ではないと考える人もいるが,私にはどれも「生まれつきの能力」が関与しているとは思えない。だだ,「アラユルコトヲ/ジブンヲカンジョウニ入レズニ/ヨクミキキシワカリ/ソシテワスレズ」はいくら凡人が努力に努力を重ねてもできないように思える。特に,「ヨクミキキシワカリ」(よく見き聞し解り)は〈菩薩〉である〈観世音菩薩〉の領域である。観世音菩薩とはサンスクリット語では「あらゆる方角に顔を向けたほとけ」という意味である。『法華経』の「観世音菩薩普門品第二十五」には,観音の力を念じれば菩薩はどんなところでも一瞬のうちに現れて,念じた者の苦しみを無くしてくれるということが記載されている。多分,賢治は「慢心」であった時期には自分が〈菩薩〉になれると信じたのではないだろうか。

 

私は,賢治が自ら言う「僅かばかりの才能」とは「察知能力」のことを言っているのではないかと思っている。賢治の友人で医師でもあった佐藤(2000)の著書には,次のような嗅覚過敏あるいは察知を伴った幻覚体験を思わせるエピソードが記載されている。例えば「生徒を伴って山に行きます。賢治さんは「炭を焼いている臭いがする。」と言う。しかし何の香りも生徒には感じられません。「そうですか。」と答えていくうちに山の中の炭焼窯に到着します。野路を行く。「杏の花の香りがすると言う。」しばらくすると白い杏の花を見る。生徒は宮沢先生の感覚の鋭敏さのなみなみでないのに驚きます。」とある。これが事実なら凡人にはない特殊な才能である。

 

賢治はこの「察知能力」を「直観」と呼んでいるように思える。『農民芸術概論綱要』(1926年頃)で「近代科学の実証と求道者たちの実験とわれらの直観の一致に於いて論じたい/世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」と言っている。

 

「法華経」に帰依していた賢治は島地大等の『漢和対照妙法蓮華経』を座右の書としていた。しかし,賢治は「科学」も信頼しており片山正夫の『化学本論』も大切にしていた。多分,賢治は『漢和対照妙法蓮華経』と『化学本論』から得られた「知識」に「直感力」が加われば〈菩薩〉になれると信じたと思う。

 

〈菩薩〉になれると信じた賢治は,農学校を退職し菩薩行を始める。賢治の肥料設計の様子を佐藤隆房は自著で「賢治さんはまず田畑の所在,去年の作の出来具合,田畑の形状,日当たりの状況などを聞きますと,直ちに所定の用紙に肥料の設計をしたためて渡すのです。実にすばらしい早さです。」と語っている。佐藤は賢治の親友でもあるので話半分に聞くとして,賢治の農民から話しを聞いて設計書を渡すまでの時間が短いというのは本当であると思う。なにせ2000枚も肥料設計書を書いたとされるわけで,よく考えてから設計するのでは間に合わない。賢治は稗貫郡の地質・土壌調査をしており,また盛岡高等農林学校で学んだ土壌学や地質学の知識も豊富にあるけれども,農民から話しを聞いてその場で設計書を渡すのは常人ならできそうにない。多分,直観が働いたのだと思う。賢治も当時自分を「すごい」と思っていたと思う。賢治の具体的な問診の仕方は詩「〔それでは計算いたしませう〕」に記載されている。

 

器量とは「ヤフー知恵袋」で「器が大きいと沢山の物を入れられる,という事で,『どんな物事も受け入れ,万事そつなくこなす能力がある』人をさして,『器量が良い』と言うようになった。」とある。賢治は当時農学校の教師の身分だったが,私は賢治の教師としての器量は良かったと思う。教え子の手紙にも器量のことを書いているので賢治もそれを自覚していたと思う。

 

賢治には財産はないが,生家は古くから質屋と古着商を営む商家であり,同時に自ら農作業を行なわない小作米を取るだけの寄生地主であった。水田・畑約10町歩,山林原野10町という中層地主であった(並松,2019)。つまり,賢治は財閥の子である。寓話『シグナルとシグナレス』(1923)は〈本線シグナル〉と〈軽便鉄道シグナレス〉の悲恋物語である。この物語で賢治が投影されている〈本線シグナル〉は〈本線シグナル付きの電信柱〉に若さまと呼ばれている。賢治は,自分が家長になったら土地を無償で農民(小作人)へ返す決意をしていたとも言われている(吉見,1982)。例えば,吉見の著書には当時(昭和二年頃),賢治が家に出入りする小作人たちに接触して,「おれの代になったら土地を全部ただでける(やる?)から,無理に借金などして土地を買う気おこすな。ただ,このことは親には内緒にしてけろ」と言ったとある。これも,教え子の手紙にあるように「身分とか財産とかいふものが何かじぶんのからだについたものででもあるかのように」振る舞おうとする賢治の「慢心」の一例であろう。

 

ただ,賢治は自分が財閥の子であることを激しく嫌っていた。昭和7年(1932),詩人である母木光に送った手紙(『書簡421』)には「何分にも私はこの郷里では財ばつと云はれるもの,社会的被告のつながりにはひってゐるので,目立ったことがあるといつでも反感の方が多く,じつにいやなのです。じつにいやな目にたくさんあって来てゐるのです。財ばつに属してさっぱり財でないくらゐたまらないことは今日ありません」と記載している。

 

〈菩薩〉になれると思った者には,「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」とあるように,恋人との幸福はあり得なかった。(続く)

 

参考・引用文献

宮沢清六.2009.兄のトランク.筑摩書房.

宮沢賢治.1985.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.

並松信久.2019.宮沢賢治の科学と農村活動―農業をめぐる知識人の葛藤―.京都産業大学論集.人文科学系列.52 :69-101.

佐藤隆房.2000.宮沢賢治-素顔のわが友-.桜地人館.

吉見正信.1982.宮沢賢治の道程.八重岳書房.

賢治の「業の花びら」が出てくる詩〔夜の湿気と風がさびしくいりまじり〕の題名の意味 (10)

 

文語詩「水部の線」(すいぶのせん)の題名である「水部の線」は北上川を指すものだが,農事講話で聴衆に資料として渡したのは石灰岩層が記入された岩手県の地図と思われる。北上川を挟んで「西」にカルシウムの溶脱した酸性不良土のある平野部を「東」に石灰岩層のある北上山地を描いたはずである。「西」の平野部には宮沢家がそうであるように南からの移住者(商人や農民)や元々先住民であったが同化して農民になった者が,そして「東」には先住の狩猟民や農民が多く住んでいると思われる。賢治にとって「西」は詩「雨ニモマケズ」の「西ニツカレタ母アレバ行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ」とあるように豊かな平野部が,また「東」は「東ニ病気ノコドモアレバ行ッテ看病シテヤリ」とあるように病気が蔓延する貧しい山地部がイメージされている。青く光る「水部の線」はその境界線を意味している。

 

なぜ,境界線なのか。それは,「西」の平野部の人たちにとって「東」は先住民たちとともに,「鬼」のような何か恐ろしいものが棲む「異界」の地だからである。「鬼」を退治するのは東北では毘沙門天である。北上山地西縁の西側,つまり「水部の線」のあたりには北から,昆沙門天像を安置するお堂が西方寺毘沙門堂,正音寺,成島毘沙門堂,立花毘沙門堂,小名丸毘沙門堂,藤里毘沙門堂,正法寺,最明寺と並んでいる(石井,2022b)。つまり,毘沙門天像は「山」にいる「鬼」の平野部へ侵入するのを防いでいる。

 

柳田国男も『遠野物語』で「山」にいる山男,山女,山の神などの山人と,平地で稲作を営む農民とを全く別の系譜としてとらえている。ただ,『遠野物語』には「鬼」は出てこない。なぜなら,遠野郷に住む人たちが朝廷に対する「まつろわぬ民」すなわち「鬼」(=普通の人たちだが)だからである。「まつろわぬ民」が自分たちを「鬼」と呼ぶはずがない。つまり,賢治が言う「鬼神」も「平野」に住む人たちが恐怖を隠すために作った言葉である。

 

「業の花びら」が出てくる詩「「三一四〔夜の湿気と風がさびしくいりまじり〕」の題名も「水部の線」と関係がある。「〔夜の湿気と風がさびしくいりまじり〕」は「東」の海側からなだらかな北上山地を超えてくる湿った風(やませ)と「西」から吹いてくる風が「種山ヶ原」あるいは「水部の線」のあたりで混じり合うという意味である。霧や雨雲が多い。賢治はよく恋人をNimbus(ニンバス)と形容することがある。ニムバスは雨雲(乱層雲)で「東」の人であることを意味する。ただ,「さびしく」入り交じりとある。つまり,「東」の女性と「西」の男性の「悲恋」の物語だというのを暗に示している。

 

賢治は,文語詩「〔川しろじろとまじはりて〕」(下書き稿)では,「川しろじろと/峡(かい)より入りて/二つの水はまじはらず・・・きみ待つことの/むなしきを知りて/なほわが瞳のうち惑ふ・・・尖れるくるみ/巨獣の痕・・・たしかにこゝは修羅の渚」と詠んでいる。「山」を流れる猿ヶ石川が「平野」を流れる北上川にそそぐ合流地点(花巻市の郊外)近くの「イギリス海岸」の川岸がイメージされている。「二つの水はまじはらず」も「夜の湿気と風がさびしくいりまじり」も同じ意味である。「西」の人たちと「東」の人たちはなかなか分かり合えない。

 

恋人は賢治と同じ「西」の平野部の町に住んでいるが,出自は前述したように「東」である。いわば,賢治の恋は「西」と「東」の間で行なわれたもので,その境界である「水部の線」で青い「火花」になったものと思われる。「東」の者,あるいは「西」に住んでいても出自が「東」にある者にとって賢治の恋は,石灰岩抹が略奪されるように「西」の者が「東」の者を略奪するのと同じ事だったのかもしれない。

 

「東」の者と「西」の者がわかり合えない様子が詩「〔土も堀るだらう〕」(1927.3.16)に表現されているように思える。この詩には「土も堀るだらう/ときどきは食はないこともあるだらう/それだからといって/やっぱりおまへらはおまへらだし/われわれはわれわれだと/……山は吹雪のうす明り……/なんべんもきき/いまもきゝ/やがてはまったくその通り/まったくさうしかできないと/……林は淡い吹雪のコロナ……/あらゆる失意や病気の底で/わたくしもまたうなづくことだ」とある。「山は吹雪のうす明かり」と「林は淡い吹雪のコロナ」が対比されている。この詩の「おまえら」は「林」のある「平野」の町に住む宮沢家を含む寄生地主や商人たちで,「われわれ」は小作農の農民たちであろう。ただ農民の多くは東北に先住していた人たちと思われる。つまり,元々は狩猟を行なう「山」の民であった人たちである。賢治は「東」からの反発や反感を繰り返し経験している。

 

「西」の者が「東」の土地を開拓したり樹木や女性を略奪したりするとどうなるかが詩集『春と修羅』「晴天恣意」(水沢緯度観測所にて)(1924.3.25)に記載されている。賢治は水沢から北上山地内にある種山ヶ原の方角を見ながら先住民の女性を「イリスの花」に譬え,「古生山地の谷々は/おのおのにみな由緒ある樹や石塚をもち/もしもみだりにその樹を伐り/あるひは塚をはたけにひらき/乃至はそこらであんまりひどくイリスの花をとりますと/かういふ青く無風の日なか/見掛けはしづかに盛りあげられた/あの玉髄の八雲のなかに/夢幻に人は連れ行かれ/見えない数個の手によって/かゞやくそらにまっさかさまにつるされて/槍でづぶづぶ刺されたり/頭や胸を圧(お)し潰されて/醒めてははげしい病気になると/さうひとびとはいまも信じて恐れます」と記している。水沢から種山ヶ原のあたりは古代には「蝦夷(エミシ)」のリーダーである〈アテルイ〉が支配していた地域である。

 

「イリスの花」は,植物の「アイリス」のことでアヤメ科アヤメ属の学名である。賢治の詩に登場する「カキツバタ」(Iris laevigata Fisch.)や「シャガ」(Iris japonica Thunb.)を指す。いずれも「日本固有種」(その土地に先住しているもの)である。「カキツバタ」の花の色は青紫,つまりインクの色である。下線部にあるように賢治は「イリスの花」を取ると胸を押しつぶされて病気になると予言しているが,4年後に現実のものとなる。

 

賢治は,詩「「三一四〔夜の湿気と風がさびしくいりまじり〕」で恋人のことを詠わなかった。芥川が『歯車』の中で自分に纏わり付く「マルクスの亡霊」を隠したように,賢治も去って行く恋人の存在を隠したのであろう。芥川が「マルクスの亡霊」を隠したのは科学的社会主義思想に恐怖するのを恥としたからかもしれない。また,賢治が恋人を隠すのは罪悪感によるものかもしれない。

 

つまり,賢治は先住民の神々を冒涜しただけでなく,先住民の末裔である女性を苦しませることもしていた。そして,先住民の「神」である〈土神〉に崖から落とされそうになったり,アイヌの〈鬼神〉に沼で威嚇されたりの「罰」を受けることになったのだと思う。賢治も「罰」を受けたと思っている。

 

ただ,賢治は薄々気づいていたと思われるが「罰」はこれだけで終わらなかった。東北は大正13年(1924)から3年以上続く干魃(かんばつ)に見舞われることになる。1924年7月に日照りが40日余日続き,各地で水喧嘩が起き,畑作が5割減収になっている(原,1999)。詩「早池峰山巓」(1924.8.17)に「九旬にあまる旱天(ひでり)つゞきの焦燥や/夏蚕飼育の辛苦を了へて」とある。その翌年も旱魃が起きて賢治の親友である佐藤隆房(2000)は,「大正14年,岩手県は特記すべき大干魃であった。何しろ,今生きている人たちが一度も経験したこともない大干魃だけに,村という村,家という家,人という人,一人として心配しない者はありません・・・農学校の水田を受け持っていた賢治が暇さえあれば生徒を連れて行って,低い堰(せき)の水を桶で田に掻入れる作業をしていた」と語っている。

 

賢治の童話『或農学生の日誌』の1926年6月14日の日誌にも,これを裏付けるように「何せ去年からの巨(おほ)きなひゞもあると見えて水はなかなかたまらなかった」とか「あんな旱魃の二年続いた記録が無いと測候所が云ったのにこれで三年続くわけでないか。」とある。菅原道真の怨霊伝説のように,ある天災が1個人の「怨霊」(おんりょう)によるものだと信じられた時代もあった。菅原道真は忠臣として名高く,当時の天皇に重用されて右大臣にまで上り詰めたが,藤原時平の讒言(ざんげん)により,大宰府へ左遷され現地で没した。死後は「怨霊」になったとされる(Wikipedia)。

 

賢治は,恋人が米国で亡くなって1ヶ月半後に「〔わたくしどもは〕」(1927.6.1)とい詩を書いている。その詩は「わたくしどもは/ちょうど一年いっしょに暮らしました・・・・そしてその冬/妻は何の苦しみといふのでもなく/萎れるように崩れるやうに一日病んで没くなりました」と書かれてある。1年一緒にいた恋人は大畠ヤスである。

 

2週間後に「囈語(げいご)」(1927.6.13)という詩を2つ作っている(囈語とはうわごとのこと)。1つは「わたくしは今日死ぬのであるか/東にうかぶ黒と白との積雲製の冠を/わたくしはとっていいのであるか」である。「黒と白」は「東」を象徴する恋人の死を暗示しているように思える。もう1つは「罪はいま疾(やまひ)にかはり/わたくしはたよりなく騰(のぼ)って/河谷のそらにねむってゐる/せめてもせめても/この身熱に/今年の青い槍(やり)の葉よ活着(つ)け/この湿気から/雨ようまれて/ひでりのつちをうるおほせ」と記載されている。この詩で「罪はいま疾にかはり」と言っている。実際に,翌年1928年8月にも発熱して40日間床に臥せっている。花巻病院で両側肺浸潤と診断されている。肺浸潤は昔肺結核の初期の状態を意味していた。つまり,死の影がこのときすでに忍び寄っていた。「罪」は下書稿では「瞋(しん)」あるいは「憤懣(ふんまん)」となっている。「瞋」とは仏教用語で「怒り」とか「恨み」を指す。「瞋」とか「憤懣」とかは自分のものなのか,それとも恋人のものなのだろうかは定かではない。「怒り」が自分のものだとしても,「怒り」は感情の蓋と言う言葉もあるように,自分の罪悪感を隠すものともとれる。賢治は死んだ恋人に対してまるで自分を犠牲にしてでも「罪」を償うから,雨を降らせてくれと願っているようにも思える。つまり,真意は解らないが,賢治は3年続いた旱魃が自分の犯した「罪」によるものだと信じているように思える。

 

「疾中」(1928.8~1930)にある詩「〔風がおもてで呼んでゐる〕」で,賢治は熱にうなされて幻聴を聞いている。「風が交々叫んでゐる/「おれたちはみな/おまへの出るのを迎へるために/おまへのすきなみぞれの粒を/横ぞっぽうに飛ばしてゐる/おまへも早く飛びだして来て/あすこの稜ある巌の上/葉のない黒い林のなかで/うつくしいソプラノをもった/おれたちのなかのひとりと/約束通り結婚しろ」と/繰り返し繰り返し/風がおもてで叫んでゐる」とある。これは,賢治の恋人のことだろうか。

 

では,芥川に取り憑く「シルクハットをかぶった天使」が〈マルクス〉の亡霊なら,賢治に取り憑く〈土神〉の正体は何か。多分,それは東北の大地を繰り返し侵略し略奪し続けた大和朝廷の大軍勢と戦った「蝦夷(エミシ)」のリーダー〈アテルイ〉の亡霊であろう(石井竹夫,2022a)。宮沢家の始祖は坂上田村麻呂と同じ京都の出身である(堀尾,1991)。〈アテルイ〉の亡霊は南から侵略し,略奪していくものに対して「復讐の鬼」と化している。(続く)

 

参考・引用文献

堀尾青史.1991.年譜 宮澤賢治伝.中央公論社.

原 子朗.1999.新.宮澤賢治語彙辞典.東京書院.

石井竹夫.2022a.寓話『土神ときつね』に登場する土神とはどんな神なのか(第4稿)-蝦夷との関係-.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2022/04/19/065300

石井竹夫.2022b.寓話『土神ときつね』に登場する土神とはどんな神なのか (第5稿)-東北の祭りとの関係-.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2022/04/20/104157

佐藤隆房.2000.宮沢賢治-素顔のわが友-.桜地人館.

賢治が幻視した「業の花びら」の正体は慢心の罰で失ってしまった一番大事なもの (9)

 

賢治は,「業の花びら」を幻視した5か月前に「アイヌ」の〈鬼神〉も幻視している。詩集『春と修羅 第二集』の「〔日はトパースのかけらをそゝぎ〕」(1924.5.18)に登場する。

 

詩は「日はトパースのかけらをそゝぎ/雲は酸敗してつめたくこごえ/ひばりの群はそらいちめんに浮沈する/(おまへはなぜ立ってゐるか/立ってゐてはいけない/沼の面にはひとりのアイヌものぞいてゐる)/一本の緑天蚕絨の杉の古木が/南の風にこごった枝をゆすぶれば/ほのかに白い昼の蛾は/そのたよリない気岸の線を/さびしくぐらぐら漂流する/(水は水銀で/風はかんばしいかほりを持ってくると/さういふ型の考へ方も/やっぱり鬼神の範疇である)/アイヌはいつか向ふへうつり/蛾はいま岸の水ばせうの芽をわたってゐる」(宮沢,1985,下線は引用者,以下同じ)である。

 

この詩は花巻のアイヌ塚にある沼の情景を詠ったものである。花巻あたりに先住していた人たちの墳墓が石器と一緒に沢山見つかっている。下書稿には「たたりをもったアイヌの沼は/・・・沼はむかしのアイヌのもので/岸では鍬(やじり)や石斧もとれる」とある。賢治は東北の先住民である「蝦夷(エミシ)を「アイヌ」と考えていた。

 

賢治が沼から覗く「アイヌ」の〈鬼神〉を幻視したのは,土着の「神」への冒涜が原因というよりも,賢治が恋人を苦しめた「罪」と関係しているように思われる。賢治は大正11年(1922)から12年にかけて1年間だけだが先住民の末裔と思われる女性と相思相愛の恋をしていた。賢治と同じ町に住む4歳年下で蕎麦屋の娘である大畠ヤスである(当時22歳)。しかし,1924年に終止符が打たれ,6月に恋人は渡米してしまった。出会いから破局までの恋人の動向は賢治と同郷の佐藤勝治(1984)によって調べられて著書になって公開されている。佐藤は,恋人の家族から直接聞いた話として,大正11年(1922)から大正13年(1924)初にかけて「それまで健康で非常に明るかったY子さんは,急にすっかりふさぎ込み,無口になり,衰弱していった。」と記している。

 

賢治は恋人が生粋の東北人(「先住民」)の血を引く女性であることと,自分が京都からきた移住者の末裔であることを信じている。このことは,賢治が1931年頃に文語詩を作るにあたって作成した自身の年譜(「文語詩篇ノート」)に記載されている(石井,2022c)。

 

詩「〔日はトパースのかけらをそゝぎ〕〕は恋人がかなり衰弱している頃に書かれた詩である。詩にある「杉の古木」は衰弱している賢治の恋人を象徴していると思われる(石井,2021a)。恋人は「杉」のように背の高い女性であった。また「杉」(Cryptomeria japonica)は学名にjaponicaとあるように日本固有種で恋人が「先住民」の末裔であることを暗に示している。「アイヌ」の〈鬼神〉は賢治に「杉の古木」に並んで立つなと威嚇している。賢治は沼から覗く「アイヌ」の〈鬼神〉に恋人を重ねている。これは,また賢治の有名な詩「きみにならびて野にたてば」を連想させる。この「きみ」も恋人のことであろう。賢治は去って行く恋人を思いながら,白い蛾になって「たよリない気岸の線を/さびしくぐらぐら漂流」するだけである。

 

賢治は土着の神々を冒涜しただけでなく,ある先住民の末裔と思われる女性を苦しませることもしていた。封建制度が残存する東北の田舎町の若い娘が単身でアメリカにいる年の離れた移民者に嫁ぐというのは非常に考えにくい。清水寺の舞台から飛び降りるよりもハードルが高いのではないか。私は恋人の苦しみが,トラックの落下事故という「神罰」にも関係していると思っている。むしろ,私はある女性を苦しませた「罪」の方が土着の神を冒涜した「罪」よりも大きいと考える。なぜなら,賢治が詩「「三一四〔夜の湿気と風がさびしくいりまじり〕」(1924.10.5)で幻視したと記録したのが「暗い業の花びら」だからである。

 

『歯車』の主人公〈僕〉が幻視したものは「1つ」の「銀の翼」であった。「2つ」ではない。「銀の翼」の「1つ」とはもぎ取られたものであろう。〈僕〉は高く飛べなくなった。〈僕〉にとって幻視された「1つ」のもぎ取られた「銀の翼」は「銀貨」と交換できる「翼(=知識)」であり,これを失うことは,これから起る経済的破綻を意味する。つまりもぎ取られた「銀の翼」の幻視→経済的破綻の予兆→恐怖である。つまり,〈僕〉が幻視したものは慢心の罰で「失ってしまった一番大事なもの」を象徴している。

 

では賢治にとって慢心の罰で「失ってしまった一番大事なもの」を象徴する「暗い業の花びら」とはなにか。賢治にとって幻視された「花びら」は花が散ったときにできるものである。ではこの「花びら」を散らせた木はどんな木であったのか。そしてその木を失うとはどのような意味があるのか。賢治は詩「〔日はトパースのかけらをそゝぎ〕」や「「三一四〔夜の湿気と風がさびしくいりまじり〕」を書いた前年に寓話『土神ときつね』(1923)を書いている。この寓話では〈樺の木〉を恋人に見立てている。賢治が投影されている「南」からやってきたハイカラな〈狐〉と〈樺の木〉の悲恋物語である。多分,「花びら」は「樺の木」から散ったものであり,失恋した恋人を意味するものと思われる。詩「〔日はトパースのかけらをそゝぎ〕〕(1924.5.18)に登場する「いつか向ふへうつり」の「アイヌ」は恋の終止符を打って6月14日に渡米した恋人を指していると思われる。渡米した日付は賢治と同郷の研究者によって調べられたものである(布臺,2019)。ちなみに,渡米した女性は3年後の1927年4月13日に27歳という若さで亡くなっている。また,2児を得たが夭折した(佐藤,1984)。

 

「樺の木」は東北ということを考慮すれば,日本固有種の「オオヤマザクラ」(Cerasus sargentii (Rehder) H.Ohba)や「カスミザクラ」(Cerasus leveilleana ( Koehne ) H.Ohba,2001)などのバラ科植物が候補にあがる。「山桜」の樹皮はアイヌ語(あるいは「奥州エゾ語」)で「karimpa・カリンパ」と呼ぶ。「樺(カバ)」はこの「カリンパ」が転訛したという説もある(石井,2021b)。

 

RCサクセションの忌野清志郎(1951~2009)は自ら作詞した『三番目に大事なもの』で昭和の若い娘たちの気持を「一番大事なものは自分なのよ/その次に大事なものが勉強で/三番目に大事なものが恋人よ・・・」と歌った。大正を生きた賢治にとって「一番大事なもの」は恋人だった。だが,このことを賢治は恋人を失ってみて気づいたと思われる。また,芥川にとっては「勉強」して得られた「知識」が「一番大事なもの」だった。 

 

2月25日(日)NHKおはよう日本(7:00~)で慈陽院なごみ庵・浦上哲也住職の「死の疑似体験」というワークショップが紹介されていた。このワークショップでは参加者に自分の大事な「物」,「人」,「風景」,「記憶」,「場所」を20枚のカードに書いてもらう。次に照明が消され住職が病にかかり,病気が進行し,やがて命を終えていくという架空の物語をかたり,参加者にその物語に合わせ20枚の中から1枚ずつカードを棄てさせる。このワークショップに参加したアナウンサーの三宅民夫は最後の方で家族である妻と3人子供を残していたが,命を終える所では妻だけを残した。賢治もこのワークショップに参加していたら恋人の名を残したと思われる。そして,芥川は人工の翼であったろう。

 

賢治の詩「「三一四〔夜の湿気と風がさびしくいりまじり〕」(1924.10.5)には,4つある下書稿も含め恋人の存在をうかがわせる詩句は存在しない。同日に書いた「三一三 産業組合青年会」(1924.10.5)にも下書稿を含め恋人の存在を認めるものはない。しかし,「三一三 産業組合青年会」の「草稿的紙葉群」と呼ばれる稿には確かにその存在を認めることができる詩句がある。例えば,「・・・頬うつくしいひとびとの/なにか無心に語ってゐる/明るいことばのきれぎれを/狂気のやうに恋ひながら・・・」という激しい恋心を詠った詩句が入っている。この恋歌は浜垣(2024)によれば後年になって「水部の線(すいぶのせん)」という非定稿文語詩に結晶化するのだという。つまり,賢治は1924年10月5日に2つの詩以外に恋人に関する詩を作る予定があったと思われる。この「草稿的紙葉群」にある詩句の「頬うつくしいひとびと」は詩集『春と修羅』の詩「春光呪詛(1922.4.10」の「頬がうすあかく瞳の茶いろ」の女性のことであろう。つまり,賢治が「狂気のやうに恋ひながら」と詠った相手は大畠ヤスである。 

 

この文語詩「水部の線」には賢治が幻視した「業の花びら」がどのような形のものだったかを示唆するヒントが隠されている。「水部の線」は「きみがおもかげうかべんと/夜を仰げばこのまひる/蝋紙に描きし北上の/水線青くひかるなれ/竜や棲みしと伝へたる/このこもりぬの辺を来れば/夜ぞらに泛(うか)ぶ水線の/火花となりて青々と散る」である。私なりに解釈してみれば「恋人のことを思い浮かべながら夜空を眺めたら,昼間蠟紙に鉄筆で北上川のつもりで引いた線が青く光ったように幻視された。竜が棲むという伝えのある沼までくると夜空に幻視された青い線が火花となって散っていった」である。今の紫波郡日詰にある五郎沼あたりで詠んだ詩と思われる。青年会で農事講話をした後に沼のあたりを散策していたのであろう。昼間は資料作りのためのガリ版刷りをしていたと思われる。「三一三 産業組合青年会」の「草稿的紙葉群」に「……今日のひるまごりごり鉄筆で引いた/北上川の水部の線が いままっ青にひかってうかぶ……」とあり,その後に「……水部の線の花紺青は火花になってぼろぼろに散る……」とある。「花紺青」は紫色を帯びた暗い青色である。インクの色である。詩「春光呪詛」の「(おおこのにがさ青さつめたさ)」の「青」である。多分,「暗い業の花びら」の「暗い業」も「暗い青」であろう。

 

つまり,詩「「三一四〔夜の湿気と風がさびしくいりまじり〕」に登場する「暗い業の花びら」も実際には「花びら」の形ではなく,北上川を一筆書きで書いたような青く光っている曲線だったのかもしれない。ただ,暗い夜空に青く光っていた曲線は,そのあと火花のようなものになりバラバラに散っていったと思われる。賢治はこの幻視された「火花」を詩「「三一四〔夜の湿気と風がさびしくいりまじり〕」では恋人になぞらえて「花びら」としたのかもしれない。賢治は,農学校でレコード鑑賞をしばしば行っているが,そのときにベートーヴェンの「月光」の曲をかけながら,生徒に「円や直線や山形などの様々な図形が見える」と説明したという(板谷,1992)。賢治には.様々な形の「線」が幻視できるようだ。(続く)

 

参考・引用文献

浜垣誠司.2024(調べた年).業の花びら 詩群.https://ihatov.cc/series/karma.htm

布臺一郎.2019.ある花巻出身者たちの渡米記録について.花巻市博物館研究紀要14:27-33.

板谷栄城.1992.素顔の宮澤賢治.平凡社.東京.

石井竹夫.2021a.宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』-カンパネルラの恋(1)-.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/06/11/162705

石井竹夫.2021b.宮沢賢治の『やまなし』-登場する植物が暗示する隠された悲恋物語(3)-.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/08/10/122017

石井竹夫.2022c.童話『ガドルフの百合』考(第5稿)-朝廷と東北先住民の歴史的対立.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2022/05/07/075640

佐藤勝治.1984.宮沢賢治青春の秘唱「冬のスケッチ」研究.十字屋書店.

 

賢治が「業の花びら」を幻視したときの罪と罰 (8)

 

次に,賢治の「罪」と「罰」について再度考えてみたい。

賢治は詩「「三一四〔夜の湿気と風がさびしくいりまじり〕」(1924.10.5)で「業の花びら」を幻視し,「わたくしは神々の名を録したことから/はげしく寒くふるえている」(下線部は引用者,以下同じ)と記載しているが,この恐怖体験は詩を書いた日に会合に招かれて話をした内容と,3か月前に農学校で上演した劇の内容と深く関係している。ちなみに,下書稿には下線部が〔山地の神々を舞台の上にうつしたために〕と変えるようなことも書かれてある。 

 

前者は賢治が青年会に招かれて石灰岩抹を利用した農業について話をしたときに,聴衆の老いた権威者(組合のリーダー格)から「祀られざるも神には神の身土がある」と批判されてしまったことである。後者は農学校の『種山ヶ原の夜』という劇で,楢の樹霊,樺の樹霊,柏の樹霊,雷神,権現という「先住民」が信仰する土着の神々を「卑賤の神」のつもりで「滑稽」に,あるいは「笑い」の対象として舞台に移し登場させたことである。共通しているのは,「山」のものを「平野」へ移すということである。乱暴な言い方をすれば「山」のものが「平野」に奪われたことである。

 

前者についてさらに詳しく述べたい。大正7年(1918)に研究室に残った賢治は関富太郎教授の指導のもとに稗貫郡の地質・土壌調査を行なっていた。この調査を通して,賢治は北上川中流の花巻を含む洪積台地がカルシウムの溶脱した酸性不良土(腐植の集積した黒ボク土)で,石灰岩抹による改良が必要であると強く感じていた(井上,1996)。花巻市付近の北上低地は標高70~150m程度で洪積台地,丘陵を主体とする「平野」である。詩「「三一四〔夜の湿気と風がさびしくいりまじり〕」の下書稿にも「北上山地の一つの稜を砕き/まっしろな石灰岩抹の億噸(おくとん)を得て/幾万年の脱滷(だつるー)から異常にあせたこの洪積の台地に与へ」とある。「滷」(注1)は海水に含まれていた塩化カルシウムのことだと思う。つまり,「山」のものを「平野」へ移すとある。ただ,酸性土壌が石灰岩抹で改良できるという理論は関教授がすでに岩手日報に「石灰岩抹新利用」(大正6年11月)と題して発表されているものである。(注1:北上山地にある早池峰山の南は昔海の底であった。)

 

賢治は詩の日付では1924年10月5日に稗貫郡に接する紫波郡の日詰あたりを訪れてある青年会の会合に参加している。多分,賢治はここで北上山地の一つの稜を砕き石灰岩抹にしてから酸性不良土の平野部の田や畑に肥料として蒔くという話をしたと思われる。科学的知識を持っていた賢治は,関教授も認めている理論でもあるので自分の農事講話には自信があったと思われる。しかし,会合に出席していたリーダー格の聴衆に,調子に乗るなと言わんばかりに「あざけるやうなうつろな声で」,「祀られざるも神には神の身土がある」と批判されてしまうのである。批判した聴衆にとって,賢治の行なう行為は祀られていないが石灰岩を埋蔵する「山」の「神」を粉々にして,奪い取り,その粉々にした「神」を「平野」の田畑にばらまくということを意味している。賢治を批判したのは「平野」ではなく「山」の人間と思われる。

 

「平野」の民である農民も同じである。時期的には2~3年後になるが,賢治は農民のために石灰岩抹も使用する無料肥料設計事務所を開設している。賢治から設計して貰った農民は「今までの施肥よりは,ずっと多くの肥料を使うものだな,高價なものだな」,あるいは「化學肥料というものを(農藥も)耳新しく聞いた人たちが,その場では多かったのです。折角教えていただいても,高價な肥料代と,それにくっついている様々の危惧感から,すぐについていけない人も相當あったのが事實です」と言っていたという(鈴木,2018)。賢治は耐冷性に増収が見込める陸羽132号を勧めたが大量の金肥も必要であった。例えば,従来の農家の小肥に油粕,大豆粕を硫安,石灰尾窒素,加里肥料に置換する費用のかかるものである。つまり,賢治の肥料設計は岩手県農会のそれよりも多肥多収を特徴とし,短期間で増収を図ろうとするもので,性急すぎて設計を作成して貰った農家には取っ付きにくいものだったようだ(並松,2019)。つまり,農民にとっても反応は冷ややかであった。

 

賢治の無料の肥料設計事務所には,農民が沢山集まったものの肥料設計を受け取ったまま,指導されたことを何ひとつ実行しない農民もあった。賢治は怒り,悲しんだという。また,実際に実行したが失敗し弁償した事例も存在した(吉見,1982,佐藤,2000)。佐藤の話だと,凶作の年,賢治の設計通りの肥料を施しても凶作を免れなかったことがあり,賢治は減収した農家の作柄を尋ねて,損害を賠償したというのである。佐藤は天候不順が原因で賢治には「責任」はないと記載しているが,農民が憤慨したことは事実であろう。賢治は,このような体験を後に童話『グスコーブドリの伝記』(1932)で主人公ブドリに自分を重ね,ブドリを「この野郎,きさまの電気のお陰で,おいらのオリザ,みんな倒れてしまったぞ。何してあんなまねしたんだ。」と批判する農民を登場させている。オリザは稲の学名である。ブドリは農民に殴られたり,踏んづけられたりするが,それは後日肥料の扱いを間違った農業技師によるものだったということで決着する。その真意は分らない。

 

後者の農学校で上演した劇『種山ヶ原の夜』も同様である。例えば,この劇で,北上山地の「山」の神々を「平野」にある農学校の舞台に移してしまった。さらに,「山」の神々を嘲笑ってしまった。楢樹霊と樺樹霊が権現(権現さん)について語る場面がある。楢樹霊が「だあれあ,誰(だ)っても折角きてで,勝手次第なごとばかり祈ってぐんだもな。権現さんも踊るどこだないがべじゃ。」と言うと,樺樹霊が「権現さん悦(よろこ)ぶづどほんとに面白いな。口あんぎあんぎど開いて,風だの木っ葉だのぐるぐるど廻してはね歩ぐもな。」と答える。

 

劇の「権現さん」は花巻丹内山神社に伝わる神楽(かぐら)の権現舞で使われる獅子頭のことだと思われる。有名な権現舞は早池峰神社のもので,獅子は早池峰神社に祀られている神の化身とされる。早池峰神社の神は,記紀神話には登場しない「瀬織津姫(せおりつひめ)」で土着の神と思われる。樺樹霊が「口あんぎあんぎど開いて」と言っているが,これは獅子頭の歯を打合せてならす「歯打ち」のことで,「厄払い」や「火伏せの呪い」を意味している。「権現」が喜んでいるのではない。聴衆の中で権現を信仰する者がいれば笑ってなどいられない。苦虫を噛んでいたであろう。また,旧友の阿部孝には好評だったが,信仰心のない聴衆には「随分変てこな芝居でしたね。後先の筋道が全然なっていないで変わってますね」という評価だったらしい(佐藤,2000)。

 

また,「お雷神(なりがみ)さん」と呼ばれている神(雷神)が劇の最後に登場する。雷神は赤い着物を着て舞台の上で寝そべっている。そこに主人公の伊藤という人物が近づいてくる。樹霊たちは伊藤に「かむやないんぞ,かむやないんぞ」(手を出すなと言う意味の訛り)といって制止する。しかし,伊藤は走ってきて間違って雷神の足を踏んでしまう。踏まれた雷神は怒って立ち上がり「誰だ,ひとの手をふんづけたな。畜生,ぶっつぶすぞ」と叫ぶ。樹霊たちは震えて立ちすくんでしまい,伊藤は雷神に捕まってしまう。

 

「山」の樹霊たちは,雷神を「お雷神(なりがみ)さん」と呼んで恐れていた。これは,「山」の多い岩手県内各地に広まっていたナリガミサマ,オライサンと呼ばれる雷神信仰に基づくものである。種山ヶ原に落雷のあった箇所に雷神と彫った石の供養塔がたくさんあるという(原,1999)。

 

つまり,賢治の犯した「罪」とは「神」がお座(あ)す石灰岩の「山」を切り崩し「平野」の方へ移したり,「先住民」が信仰する樹霊などの「山」の神々を「平野」にある農学校の舞台に移し笑いの対象にしたり,踏みつけるようなことまでしたことである。これらは「山」の神々を信じるものにとっては「山」にお座す神々が軽んじられることでもあった。

 

賢治がなぜ土着の「神」を軽んじたのかは賢治の作品からは分からない。しかし,賢治の教え子である沢里武治への手紙(1930.4.4)によれば「慢心」だという。この手紙には,4年間すごした農学校時代の終わり頃「わずかばかりの自分の才能に慢じてじつに倨慢(きょまん)な態度になってしまった」とある(宮沢,1985)。農学校時代とは1922年~1925までである。すなわち,賢治が「慢心」であたった時期と「花びら」を幻視した時期(1924.10.5)は一致する。

 

賢治は父・政次郎が信仰している浄土真宗を激しく嫌っていた。父を日蓮宗に改宗しようとしていた。多分,先住民が信仰する「神」も認めていなかった可能性がある。法華経の第27章「妙荘厳王本事品」には外道であるバラモン教を信受している父・妙荘厳王を2人の王子が仏教に改宗させる話が出てくる。バラモン教は『ヴェーダ』を聖典とし,天・地・太陽・風・火などの自然神を崇拝し,司祭階級が行う祭式を中心とする多神教の宗教である。東北の先住民の自然信仰と似ている。賢治も先住民の自然信仰は改宗の対象としてしか見ていなかったのかもしれない。当時,賢治に「慢心」があったとすれば「山」の神々も全て卑賤の神と見做していた可能性がある。また,科学的な知識もあったから石灰岩の「山」を切り崩し酸性不良土の「平野」へ蒔くことにも違和感がなかったものと思われる。

 

賢治が「はげしく寒くふるえている」と恐怖する事態になったのは,「山」の神々から「神罰」を受けた,あるいはこのあとに恐ろしい「神罰」を受けるかも知れないと思ったからである。実際に,学校劇で雷神を演じた生徒が翌日に他の生徒のスパイクで負傷している。その様子を賢治は親交のある森荘已池に「私もぎょっとしましたよ。偶然とはどうしても考えられませんし,こんなに早く仇をかえさなくともよかろうになと,呆れましたね。」と話している。賢治はこの事故を偶然の出来事とは思っていない。

 

賢治は,「業の花びら」を幻視した同じ年1924年頃に,土着の神の中でもタチのよくない「神」を幻視している。そして,賢治には,その「神」から罰を受けているという自覚もある。

 

タチのよくないと言ったのは賢治である。賢治は土着の「神」である〈土神〉や〈鬼神〉のことを批判的に言う。森荘已池(1983)が大正14年秋頃農学校の宿舎で向こうの森林を指さす賢治から「鬼神の中にも非常にたちのよくない〈土神〉がありましてね。よく村の人などに仇(悪戯とか復讐とかをひっくるめていうことば)をして困りますよ。まるで下等なのがあるんですね」(括弧内も森が記したもの)と言ったのを聞いている。賢治は作品では人間も動物も平等に扱っているが,自然崇拝の対象になる神々には上等や下等が存在する。このタチのよくない〈土神〉は寓話『土神ときつね』に登場してくる。〈土神〉は「乱暴で髪もぼろぼろの木綿糸の束のよう眼も赤くきものだってまるでわかめに似,いつもはだしで爪も黒く長いのでした」という性格と姿をしていると紹介されている。賢治は〈土神〉が村の人に仇(復讐)をすると言っている。つまり,賢治は「復讐の神」である〈土神〉の「神罰」を信じざるを得なくなっている。

 

賢治の言う「よく村の人などに仇をして困りますよ。」とは具体的にはどういうことか。賢治の寓話『土神ときつね』で木樵が〈土神〉の祀られている「祠」近くにやってきたとき谷地の周りをぐるぐると歩かされたり,向こうの野原の方へぽんと投げ出されたりなどの恐怖体験をする。また,童話『種山ヶ原』では達治という少年が牛を連れて種山ヶ原の兄に弁当を届けに行くとき,道に迷い夢うつつの中で「伊佐戸(いさど)の町の,電気工夫の童(わらす)ぁ,山男に手足ぃ縛らへてたふうだ。」といういつか誰かの話した語(ことば)を,はっきり耳に聞えてくるという体験する。幻聴である。このあと,達治は夢の中で実際に山男に出会い格闘して山男を殺してしまう恐怖体験をする。

 

賢治はタチのよくない〈土神〉と思われるものを実際に幻視している。森荘已池(1983)の証言(注1)によれば,賢治が近隣の町から山道(盛岡から宮古へ通じる閉伊街道)を通って帰途中に雨に降られ,あわててトラックの荷台に乗せてもらったが,高熱を出してしまう。このとき,うなされて夢うつつになった賢治は「小さな真赤な肌のいろをした鬼の子のような小人のような奴らが,わいわい口々に何か云いながら,さかんにトラックを谷間に落とそうとしている」幻影(鬼神)を見たというのである。トラックは実際に谷に落とされてしまうのだが,幸いに賢治と運転手,そして助手は事前にトラックから飛び降りていて無事だった。賢治が幻視した「小さな真赤な肌のいろをした鬼の子のような小人」が〈土神〉であろう。

(注1:賢治からこの話を聞いた森はこの年が『春と修羅』刊行の大正末年の頃と自著に書いている)

 

賢治は〈土神〉に命を狙われたが生還している。これには別の幻視体験が関係している。賢治は〈土神〉がトラックを谷に落とそうとしたとき,2間もあるような「白い大きな手」も幻視している。森に「白い大きな手が谷間の空に出て,トラックが走る通りついて来てくれるんですよ,いくら小鬼どもが騒いで,落とそうとしても,トラックは落ちないで,どんどんあぶない閉伊街道を進むんですね,私はこれはたしかに観音さまの有り難い手だと思い,ぼおっとして,眠っているのか,起きているのか,夢なのか・・・・突然異様な声がして,ハッと思ったとたん白い手は見えなくなったんです。私はもう夢中でトラックから飛び降り,その瞬間トラックはごろごろともの凄い勢いで墜落してしまったんです。」と話している。できすぎた話だが,真実なら,賢治には何か見えない大きな力が働いたのかも知れない。

 

賢治の「白い大きな手」を幻視した体験は地獄の中で少年が「にょらいじゅりょうほん第十六」と呟くと「大きなまっ白なすあし」が現れる童話『ひかりの素足』(制作年は不明)の内容と似ている。賢治はこのような体験ができる人なのかも知れない。逆に,芥川はこのような奇跡的な体験を持つことが生涯なかった人だということかもしれない。

 

つまり,賢治は土着の「神」の「神罰」を信じるようになった。そして,賢治はいつか負傷した生徒と同じように自分も土着の「神」から「神罰」を受けることを予想したと思われる。多分,賢治は自分の乗ったトラックの谷底への落下事故が石灰岩を埋蔵する「山」を削り取ったり,劇『種山ヶ原の夜』で土着の神々を冒涜したりしたことの「罰」だと信じたと思う。ただ,賢治の犯した重大な「罪」と「罰」はこれだけではなかった。(続く)

 

参考・引用文献

原 子朗.1999.新.宮澤賢治語彙辞典.東京書院.

井上克弘.1996.土壌肥料と宮沢賢治1 ペドロジスト,エダフォロジストとしての賢治.日本土壌肥料学雑誌.67 (2):206-212.

宮沢賢治.1985.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.

森荘已池.1983.宮沢賢治の肖像.津軽書房.

鈴木 守.2018.二 イーハトーヴの土地、賢治の土地(鬱屈).みちのくの山野草.https://blog.goo.ne.jp/suzukishuhoku/e/f74baef6a082863929ad11c4356cc65d

佐藤隆房.2000.宮沢賢治-素顔のわが友-.桜地人館.

並松信久.2019.宮沢賢治の科学と農村活動―農業をめぐる知識人の葛藤―.京都産業大学論集.人文科学系列.52 :69-101.

吉見正信.1982.宮沢賢治の道程.八重岳書房.

晩年の芥川のぼんやりとした不安-敗北の文学-(7)

 

芥川は自死する2か月前に書いた『或旧友へ送る手記』(1927.7)で,「僕はこの二年ばかりの間は死ぬことばかり考へつづけた」ことと,その理由が「何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」であったことを記していた。

 

後に共産党の指導者になる宮本顕治は,学生だった頃に,芥川の文学を自著『『敗北』の文学』(1929)で日本プロレタリアートの全線的展開の時代の中で「敗北した文学」と規定した。その宮本が後に『網走の覚え書き』(1949)で『『敗北』の文学』を書いた頃のことを述懐して,「この時代,プロレタリア芸術運動は,若々しい情熱でふるい文学の批判に向かっていた。晩年の芥川龍之介が,プロレタリア芸術への好意的理解をもとうとしていたが,新しい歴史的方向への芥川の理解の程度は,その文章に現われたところでは,まだ漠然としていた。しかし,その関心は小市民インテリゲンチアとしての自分の位置に安住できないほどには切実なものであったといえよう。・・・『或旧友へ送る手記』にある「漠然とした不安」はこれらとつながり,生理的な病弱にあって一層ふかめられたのだろう。」(下線は引用者,以下同じ))と記している。つまり,1929年ごろ,宮本は芥川の自死に導いた「ぼんやりとした不安」が科学的社会主義思想(マルクス主義)を恐れたことによるものと推論していた。

 

ネットでも複数の人が,この「ぼんやりとした不安」が当時,急激に広まりつつあった共産主義を指していると指摘している。

 

芥川がキリスト教を嘲るようになったのは,前述した『一 ある鞭』に記載されているように1922年以降である。

 

1922年当時の芥川について海老井英次(1994)は,「1921年3月から7月にかけての,大阪毎日新聞社海外視察員としての中国旅行から帰国後,健康の衰えが著しく,懐疑的,厭世(えんせい)的態度を強めて,『藪(やぶ)の中』(1922.1),『神々の微笑』(1922.1)などを発表したものの,創作上の行き詰まりを自覚するに至り,私小説隆盛の当時の時流のなかでかたくなに拒否していた私小説的作品にまで手を染めたが,結局打開しきれなかった」(海老井,1994)と言っている。

 

また,1920 年代は日本においてマルクス主義が興隆してきた時代でもあった.特に 1920 年代の後半から 1930 年代の前半は,戦前の日本でマルクス主義が隆盛を極めた 時期であった(深澤,2020)。深澤の論文には1929 年 4 月の四・一六事件などで検挙,収監された76名の学生,生徒の手記が載せられている。キリスト教関係で3事例あげると,1)「39–1. 関心が教会から無産党へと次第に転じていった.文明に生きよう,科学を捉えよう,欲望を肯定しよう,積極に生きよう,そして無産者のために働こう。こう考えて再び世間へ出た.それから無産党の講演会などたびたび行った。」,2)「42-1.キリスト教信者であったが,山川均『資本主義のからくり』を読んで,資本家と労働者が闘争して資本家は労働者を搾取するもので,宗教などはただ資本家の精神的な武器であり,民衆を欺瞞することを知り,当時の私にとっては実に晴天の霹靂であった。その頃より学友よりマルクス主義の理論を教えられ,社会科学研究会に加入し,以後マルクス主義を研究してきた」,3)「79–1. 家庭が両親死亡後一家分散し,家庭的温情に浸り得ず,かつまた人生・宗教なるものを考えては煩悶していた。教会へ行ったが何ら得る所なく,人生社会に対する疑惑は益々深まり,キリストの正義感が実行力のないことをはっきり意識させられた.そして正義感は社会問題に向かって動くようになった」とある。

 

つまり,芥川は1922年以降,創作で行き詰まっていたように思われる。そんなときに科学的社会主義が興隆してきて,学生や知識人たちがその思想に近づいていった。キリスト教を批判するものも少なくなかった。

 

創作上の行き詰まりは芥川自身も自覚している。『歯車』5章(赤光)で〈僕〉は聖書会社の屋根裏に住んでいる老人に会う。そして,老人から勧められた林檎の黄ばんだ皮に一角獣の麒麟(きりん)の姿を発見する。〈僕〉はある敵意のある批評家の〈僕〉を「九百十年代の麒麟児」と呼んだのを思い出し,ここが安全なところではないと感じる。批評家の言う「九百十年代の麒麟児」とは,1910年代は芥川を将来性のある作家として認めるが1920年代はそうではないという意味である。

 

創作上の行き詰まりを感じている芥川にとって,プロレタリア文学が今後民衆に広く浸透していくことは,民衆の生活基盤から離れて空中で「知識」の火花を燃やす自分の作家生命そのものを脅かすことになった。芥川は『或旧友へ送る手記』の中で,自分の資産を計算しながら自分が死んだ後の残された家族の生活をしきりに心配していた。Wikipediaにも,芥川は晩年「台頭するプロレタリア文壇にブルジョア作家と攻撃されることとなる」と記載されている。

 

『歯車』の主人公〈僕〉が幻視した「銀の翼」は「1つ」である。「2つ」ではない。多分,もぎ取られた「翼」であろう。〈僕〉にとっての「神罰」とは「銀の翼」をもぎ取られて落下すること,つまり「理性」を失い,そして生活の糧でもある「知識」を得られなくなり小説を書けなくなることである。芥川の『歯車』最終章の最後は「僕はもうこの先を書きつづける力をもっていない」である。また,『或阿呆の一生』の最後の51(敗北)には,「彼はペンを執(と)る手も震へ出した。のみならず涎(よだれ)さへ流れ出した。彼の頭は〇・八のヴエロナアルを用ひて覚めた後の外は一度もはっきりしたことはなかった。しかもはっきりしてゐるのはやっと半時間か一時間だった。彼は唯薄暗い中にその日暮らしの生活をしてゐた。言はば刃のこぼれてしまった,細い剣を杖にしながら」(芥川,2004)とある。

 

ヴェロナアルは長期間作用型の催眠薬であるジエチルマロニル尿素の商品名である。芥川は『歯車』を執筆した年の7月24日に自死している。この睡眠薬の致死量を使用したという説もある。

 

つまり,『歯車』の主人公〈僕〉(=芥川)を罰したのは,別の言葉で言い換えれば「銀色の翼」をもぎ取ったのはシルクハットを被った天使,つまり天使の姿をした〈マルクス〉の亡霊であり,また「復讐の神」が憑依した〈ある女性〉である。文壇で〈僕〉を批判するプロレタリア作家たちはそれを援護した。芥川がキリスト教の「神」を軽んじたのは「神」を否定する〈マルクス〉の科学的社会主義思想の影響が大きい。芥川は「神」を批判するシルクハットを被った天使(悪魔)の「ささやき」を聞いたのかもしれない。

 

「僕」が幻視した「歯車」は偏頭痛の前兆として現れるものであった。それは病理学で言うところの閃輝暗点である。閃輝暗点は偏頭痛が生じているときには現れない。だから,偏頭痛中に,〈僕〉が瞼の裏に幻視したものは閃輝暗点とは言えない。理知的な〈僕〉がこのもぎ取られた「1つ」の「銀の翼」を幻視したとき,〈僕〉はさらにひどい偏頭痛が訪れるとは決して思わなかったはずだ。「銀色の翼」は「銀貨」と交換可能な「知識」のことである。だから,〈僕〉は「歯車」の幻視で偏頭痛を予兆できたように,もぎ取られた「銀色の翼」の幻視で作品が書けなくなること,つまり人生の終焉が近づいてきたことを悟ったはずだ。作品が書けなくなることを予兆させる「銀色の翼」の幻視は〈僕〉にとって「一生の中でも最も恐しい経験」だった。つまり,〈僕〉は今まで「ぼんやりとした不安」を感じていただけであったが,「銀色の翼」を幻視したとき,その「ぼんやりとした不安」の正体がはっきりと理解できたのである。

 

芥川は『或阿呆の一生』19(人工の翼)で「人工の翼」(=銀色の翼)をヴォルテェルから供給されたと言っていたが,晩年の『侏儒の言葉』(1923~1927)の「理性」では「わたしはヴォルテェルを軽蔑している。」,「理性のわたしに教えたものは畢竟(ひっきょう)理性の無力だった。」となっている。

 

芥川は,『或旧友へ送る手記』の最後にエンペドクレスの伝記に言及し過去に「みずからを神としたい欲望」があったと記している。

 

THE BLUE HEARTSの甲本ヒロトは『リンダリンダ』(1987)で「ドブネズミみたいに美しくなりたい/写真には写らない美しさがあるから・・・」,『終わらない歌』(1987)で「終わらない歌を歌おうクソッタレの世界のため/終わらない歌を歌おう全てのクズどものため・・・」と歌った。ドブ川の匂いがする中流下層階級の人たちの住む世界から高く飛翔した芥川には「終わらない作品」は書けなかった。(続く)

 

参考・引用文献

芥川龍之介.2004.歯車 他二編.岩波書店.

海老井英次.1994.芥川龍之介.日本大百科全書(ニッポニカ).小学館.

学習通信〟070719.『「敗北」の文学』を書いたころ.http://kyoto-gakusyuu.jp/tusin07/070719.htm

深澤竜人.2020.日本における 1920 年代のマルクス主義興隆の要因(日本マルクス経済学史Ⅳ)―『左傾学生生徒の手記』を中心として.経済学季報 70 (1);37-80.

人工の翼を付けた『歯車』の主人公を落下させたのは誰か,シルクハットを被った天使か (6)続き

 

また,「白」は空を飛んでくる〈天使〉の「白い翼」を〈僕〉に連想させているように思える。なぜ〈天使〉の「白い翼」なのか,また,それが〈僕〉に恐怖なのかというと,『歯車』と同時期に書かれた『或阿呆の一生』(40 問答)(1927 遺稿)に登場する「誰にも恥ずる所のないシルクハットをかぶった天使」を連想させるからである。〈天使〉は普通「翼」を「白」にしている。『或阿呆の一生』の主人公の〈彼〉は〈天使〉と問答をしている。〈彼〉にとって〈天使〉が見えているかどうかは定かでないが,〈天使〉の声は聞いている。幻聴と思われる。〈天使〉は,〈彼〉の「なぜお前は現代の社会制度を攻撃するか?」と言う問に「資本主義の生んだ悪を見ているから」と答える。この「白」から連想された〈天使〉は「資本主義が生んだ悪」に執着していること,また「白」が書き込まれた手紙が『資本論』の第1巻が印刷された「ライプツイッヒ」から届いていることから,ブルジョアを憎む〈マルクス〉がイメージされているように思える。ちなみに,2017年に公開された歴史・伝記映画の『マルクス・エンゲルス』はマルクスが26歳だった頃の活動の様子が描かれていた。〈マルクス〉も「シルクハット」を被っていた。

 

ただ,この〈マルクス〉にも「復讐の神」が憑依している可能性がある。ある美術愛好家(2007)のブログに「学生のときに読んだ「資本論」で,マルクスは,経済学の分野で,自由な科学的研究に抗う,最も激しく狭小で悪意ある感情を,「私的利害のフリアイ」,なんて表現している。・・・フリアイを知らなければ,科学に抗うイデオロギーに対する,マルクスの憎悪は,感じ取れまい。が,私は,フリアイに憑かれていたのは,逆にマルクスのほうだったかも,と思う。彼を夢に見たとき,彼は私に,「妻イェニーを通して貴族に,友エンゲルスを通して資本家に復讐した」と言った。そして学説を残すことで,労働者にも復讐した。 ……ま,私の勝手な解釈。」(下線は引用者)とある。ちなみに,フリアイは「復讐の女神」であるエリーニュスのことである。

 

〈僕〉と〈或声〉の主が問答する芥川の類似作品『闇中問答』(1927)(遺稿)にも〈天使〉が登場する。〈或声〉の主も〈マルクス〉がイメージされているように思える。問答中に〈僕〉が「絶えず僕に問ひかけるお前は,目に見えないお前は何ものだ?」と問いかけると,〈或声〉の主が「俺か?俺は世界の夜明けにヤコブと力を争った天使だ」と答える。この〈天使〉は旧約聖書創世記28章にある「ヤコブの梯子」と呼ばれる場面で登場する〈天使〉と関係があると思われる。ヤコブ(別名イスラエル)は夢の中で天に昇る梯子と〈天使〉を見ている。「神」はヤコブに今いる土地を与え,子孫を偉大な民族にするという約束をする。〈天使〉はそれを助ける役割を果たしていた。この場面で重要なのは,ヤコブが梯子の夢を見たことと,「神」と思われるものの言葉を聞いたことで「神」の存在を信じることができるようになったということである。『闇中問答』の〈天使〉がこのヤコブと争ったということは,この〈天使〉は「神」に反逆している。つまり,ヤコブの信仰心を妨害している。この〈天使〉も偽物である。つまり,キリスト教の〈堕天使〉(=悪魔)であると思われる。〈堕天使〉は「神」の被造物でありながら,「高慢」や嫉妬がために神に反逆し,罰せられて天界を追放された〈天使〉である。芥川は〈マルクス〉を〈天使〉(=堕天使)と譬喩しているように思える。〈堕天使〉については芥川の切支丹物『るしへる』(1918)に詳しく書かれてある。

 

「シルクハット」はマジシャンが小道具として使うものでもある。マジックは Make-believe(偽物)である。中世の時代,欧州では「マジックは黒魔術」,「マジシャンは悪魔の手先」とされていた。

 

つまり,「シルクハットをかぶった天使」とは〈天使〉の姿をした〈マルクス〉の亡霊であり,キリスト教における〈堕天使〉あるいは〈悪魔〉である。『歯車』の〈僕〉は〈天使〉の姿をした〈マルクス〉の亡霊〈堕天使〉に付きまとわれている。そして恐れている。〈マルクス〉の亡霊は,現実的には,この亡霊が取り憑いたマルクス主義者やプロレタリア作家たちと言っても良いのかも知れないが。

 

ただ,芥川は〈堕天使〉を悪徳非道な〈悪魔〉とは思っていない。『歯車』6章(飛行機)で「丁度反面だけ黒い犬」,つまりキメラのような犬が登場し,「Black and White」を連想させる場面がある。芥川が描く〈堕天使〉は,切支丹物である『悪魔』(1918)に記載されているように,清いものを堕落させるが,そうさせたくない〈天使〉の心をも持ち合わせている。ただ,それは人間に希望や期待を持たせてしまうので「罰」を受けたことの苦しみは倍増する。〈堕天使〉は吾峠呼世晴の『鬼滅の刃』に登場する十二鬼月の一人である〈魘夢〉(えんむ)のようなものである。〈魘夢〉の得意技は対戦相手の望む偽りの「楽しい夢」を見せたあと,悪夢を見せて殺すというもの。

 

「シルクハットをかぶった天使」は同じ『或阿呆の一生』(50俘)(とりこ)にも登場する。発狂した友人(宇野浩二)が〈彼〉(=芥川)に「君や僕は悪鬼につかれているんだね。世紀末の悪鬼というやつにねえ。」と言っている。この宇野が言う「世紀末の悪鬼」とは19世紀末に科学的社会主義思想を築き上げたマルクスとエンゲルスのことと思われる。『或阿呆の一生』の50(俘)の次は最終章51(敗北)である。40(問答)では〈マルクス〉を〈天使〉と譬喩していたが死の直前には「世紀末の悪鬼」に変えている。50(俘)で,すっかり疲れ切った〈彼〉は「神の兵卒たちは己(おのれ)をつかまえに来る」というラディゲの臨終の言葉を読むと,もう一度「神々の笑い声」を感じる。〈彼〉は「世紀末の悪鬼と戦うにも肉体的に不可能だった。神を信じることは――神の愛を信じることは到底彼にはできなかった。」としている。

 

この「神々の笑い声」は,「ライプツイッヒ」から送られてきた手紙を読んだ〈僕〉が感じた「何ものかの冷笑」を彷彿させる。下線部の次の「神の兵卒」が「何ものか」であり,その「何ものか」が「シルクハットをかぶった天使」なのだと思われる。また,『歯車』2章(復讐)で〈僕〉はコック部屋を通過するとき「白い帽をかぶったコックたちの冷ややかに僕を見ている」のを感じて,堕ちた地獄を感じている。〈僕〉にとって,この「白い帽をかぶったコック」も恐ろしい「シルクハットをかぶった天使」に見えてしまうのだ。

 

『歯車』の〈僕〉(芥川)は『罪と罰』を読もうとしたが製本屋の綴じ違いで,あるいは運命の悪戯か,偶然開いた頁が『カラマゾフ兄弟』の一節であった。やむを得ず読むのだが,1頁も読まないうちに全身の震えるのを感じ出す。そこは〈悪魔〉に苦しめられるイヴァンを描いた一節だった。イヴァンは無神論者である。つまり,「神」を信じない〈僕〉はいずれ「翼」を持つ「シルクハットをかぶった天使」(=世紀末の悪鬼)にイヴァンと同じように苦しめられると思っている。

 

『歯車』5章(赤光)で〈僕〉は煙草を吸うために給仕を呼び「スター」を求めるが,ホテル側は品切れで「エエア・シップ」を勧める。しかし,〈僕〉はそれを拒否する。なぜ拒否したのだろうか。それは,「エエア・シップ」の外箱に飛行船や飛行機が描かれてあるからだ。〈僕〉は犬と同様に「人工の翼」を付けて空を飛ぶものが嫌いなのだ。あるいは恐怖を感じるのだと思われる。

 

『歯車』の「冷笑する何ものか」は〈マルクス〉の亡霊である。〈僕〉は見えざる影,つまり「科学的社会主義思想」を築き上げた〈マルクス〉の亡霊や「復讐の神」が憑依した〈ある女性〉あるいはその「生き霊」に常に付け狙われているのである。〈僕〉は,「ライプツイッヒ」からの手紙を書かせたのも,ホテルのロビーで〈僕〉を見つめている「赤」のワン・ピースを着た女も,バーの戸の前の赤いランタンを揺らしているのも,〈僕〉を付け狙っている〈天使〉の姿をした〈マルクス〉の亡霊の仕業であると思っている。また,〈僕〉は本屋に置いてあった『希臘神話』の偶然明けた頁の1行「一番偉いツオイスの神でも復讐の神にはかないません。・・・」に恐怖するのも,〈僕〉を付け狙っている「復讐の神」が憑依した〈ある女性〉の仕業だと思っている。ちなみに,ツオイスは最高神ゼウスのドイツ語読みである。

 

また,『歯車』2章(復讐)で金鈕(きんぼたん)の青年から「先生,A先生」と呼ばれることに不快になり,僕を「嘲る何ものか」を感じてしまう。この「何ものか」も〈マルクス〉の亡霊である。なぜなら,〈僕〉は「あらゆる罪悪を犯している」と信じているのに「シルクハットをかぶった天使」は『或阿呆の一生』(40問答)で説明されているように「誰にも恥ずる所」がないからである。

 

『歯車』の〈僕〉はウイスキー「Black and White」を飲んだ後,対価を1枚の「銀貨」で支払う。これが最後の1枚だという。この「銀貨」も意味がある。「銀貨」の「銀」は次の最終章(飛行機)で現れる「銀の翼」に繋がるからである。〈僕〉にとって「銀の翼」は「理性」や「知識」であり,またそれによって書かれた作品は,「銀貨」と交換され,主人公の〈僕〉やその家族あるいは夫を亡くした姉の生活費にするためのものでもあった。その大切な「銀貨」(=銀の翼)が無くなってしまうかもしれないのだ。

 

芥川は『歯車』を執筆し始める3ヶ月前に『彼』(1926.11.13脱稿)という作品を書いている。彼のモデルになったのは平塚逸郎とされている。芥川はこの作品で彼をマルクスやエンゲルスの本に熱中している学生として描いている。この作品に登場する〈僕〉は「勿論社会科学に何の知識も持っていなかった。が,資本だの搾取だのと云う言葉にある尊敬――と云うよりもある恐怖を感じていた。彼はその恐怖を利用し,度たび僕を論難した。ヴェルレエン,ラムボオ,ヴオドレエル,――それ等の詩人は当時の僕には偶像以上の偶像だった。が,彼にはハッシッシュや鴉片(あへん)の製造者にほかならなかった。」(下線は引用者)と記している。ここで初めて芥川は科学的社会主義(マルクス主義)の思想に「恐怖」を感じると言った。

 

つまり,芥川は死の直前に科学的社会主義の思想に「恐怖」していたのだと思う。科学的社会主義を信奉する〈彼〉(=マルクス主義者)にとって,〈僕〉(=芥川)が崇拝する「ヴェルレエン,ラムボオ,ヴオドレエル」の作家たちは覚醒剤や阿片の製造者にすぎなかったからである。〈彼〉は〈僕〉にヴオドレエル(ボードレール)の詩の100行は人生の1コマに若(し)かない。君は君の憎んだ中流下層階級の民衆が資本家から搾取され苦しむ姿を作品に描くべきだと言っているように思える。作品の行間からはそう読める。芥川自身も〈マルクス〉の亡霊に脅かされた晩年には自分が「知識」という麻薬を切り売りして生活費を稼いでいる小ブルジョアに過ぎないと自覚するようになってしまったのかもしれない。さらに,その麻薬さえも失うことになるかもしれない。(続く)

 

参考・引用文献

ある美術愛好家.2007.ギリシャ神話あれこれ:復讐の女神たち.魔法の絨毯 -美術館めぐりとスケッチ旅行-.https://blog.goo.ne.jp/chimaltov/e/57e99b803892232f986df65d8377cdef

芥川龍之介.2004.歯車 他二編.岩波書店.

芥川龍之介.1978.芥川龍之介全集12巻.岩波書店.