宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

ブログ内容の紹介

謎の多い宮沢賢治の作品をそこに登場する植物を丁寧に調べることによって読み解いています。本ブログの内容は,ブログ名について,作品論,エッセイの3項目から構成されています。作品論とエッセイにあるカテゴリー名末尾の括弧内の数字は各カテゴリーの記事数を表します。例えば,「やまなし(5)」は童話『やまなし』に関して5つの記事があることを表しています。各カテゴリー名をクリックすると記事名が表記され,さらに記事名をクリックすると本文を読むことができます。『銀河鉄道の夜』に関しては記事数が多いので「銀河鉄道の夜(総集編) (5)」を最初に読んでいただければと思います。

 

1.ブログ名について

橄欖の森とは

 

2.作品論

ガドルフの百合(6)

土神ときつね(6)

氷河鼠の毛皮(4)

シグナルとシグナレス(3)

ビヂテリアン大祭 (1)

やまなし (6)

若い木霊 (8)

水仙月の四日 (1)

どんぐりと山猫 (2)

春と修羅 (2)

風野又三郎 (1)

十力の金剛石 (2)

花壇工作 (1)

鹿踊りのはじまり (1)

北守将軍と三人兄弟の医者 (1)

毒もみの好きな署長さん (1)

マグノリアの木 (1)

銀河鉄道の夜(目次) (1)

銀河鉄道の夜(種々) (7)

銀河鉄道の夜(心理と出自)(5)

銀河鉄道の夜(三角標) (11)

銀河鉄道の夜(宗教) (6)

銀河鉄道の夜(リンゴ) (7)

銀河鉄道の夜(発想の原点) (12)

銀河鉄道の夜(総集編) (5)

ひのきとひなげし (1)

なめとこ山の熊 (1)

烏の北斗七星 (6)

よく利く薬とえらい薬 (4)

 

3.エッセイ

宮沢賢治の母(3)

鬼滅の刃(2)

烏瓜のあかり (3)

賢治作品に登場する謎の植物 (5)

希少植物 (1)

湘南四季の花 (4)

 

 

宮沢賢治の詩に登場するジュグランダーやフサランダーとは何か

宮沢賢治の詩集『春と修羅』(第二集)の「四〇三 岩手軽便鉄道の一月」(1926,1,17)には「ジュグランダー」,「サリックスランダー」,「アルヌスランダー」,「ラリクスランダー」,「モルスランダー」,「フサランダー」と耳慣れない言葉が立て続けに出てくる。賢治が「クルミ」,「カワヤナギ」,「ハンノキ」などの樹木や電柱に対して作った愛称だと言われている。賢治はどのようにしてこれらの愛称を付けたのであろうか。「四〇三 岩手軽便鉄道の一月」は以下のような詩句が並ぶ。

 

ぴかぴかぴかぴか田圃の雪がひかってくる

河岸の樹がみなまっ白に凍ってゐる

うしろは河がうららかな火や氷を載せて

ぼんやり南へすべってゐる

よう くるみの木 ジュグランダー 鏡を吊し

よう かはやなぎ サリックスランダー 鏡を吊し

はんのき アルヌスランダー [鏡鏡鏡鏡]をつるし

からまつ ラリクスランダー 鏡をつるし

グランド電柱 フサランダー 鏡をつるし

さはぐるみ ジュグランダー 鏡を吊し

桑の木 モルスランダー   鏡を……

ははは 汽車(こっち)がたうたうなゝめに列をよこぎったので

桑の氷華はふさふさ風にひかって落ちる

         (宮沢,1985) 下線は引用者 以下同じ

 

「よう くるみの木 ジュグランダー 鏡を吊し」や「さはぐるみ ジュグランダー 鏡を吊し」の「ジュグランダー」は,『新宮澤賢治語彙辞典』の力丸光雄の説明によれば,「クルミ科の学名Juglandaceae(イウーグランドアケアエ)の英語読み・ジュグランダシエア」からの賢治の思いつきであろう」という。(原,1999)多分,「くるみの木」の科名である「ジュグランダシエア」の「ジュグランダ」が関係している。私も力丸の解釈に同意する。

 

学名はラテン語あるいはギリシャ語をラテン語風綴りにして表記するとされる。各樹木の科名と属名の関係は第1表に示す。

 

 

学名の作り方には規則がある。植物の科名の場合,模式属(type genus;その科を代表する属)の属名の属格活用形の語幹に“~aceae”という語尾を付けて作る(横川,2022)。単純に属名の語幹だけをとる場合や属名にはない文字が現れる場合など様々であるらしい。例えば,「くるみの木」としては「オニグルミ」(Juglans mandshurica Maxim. var. sachalinensis (Komatsu) Kitam.),「サワグルミ」(Pterocarya rhoifolia Siebold et Zucc.),「ノグルミ」(Platycarya strobilacea Siebold et Zucc)など様々な種があるが,クルミ科を代表する属はクルミ属(Juglans)なので科名はJuglansの語幹に“~aceae”という語尾を付ける。このとき,Juglansの語尾の「s」は「d」に変化する。すなわちJuglandaceaeとなる。アヤメ科(Iridaceae)もアヤメ属Irisの語幹に“~aceae”という語尾を付けるがIrisの「s」は「d」に変化している。属名の学名の語尾に「s」が付くと「d」に変化するらしい。学名を作るときの決まりのようだ。

 

また,属名JuglansはJovis glansから作られているとされる。ラテン語のJovisはローマ神話の主神Juppiterの属格で「ジュピターの」という意味ある。ラテン語のglansは「堅果」あるいは「どんぐり」という意味である。すなわち,属名Juglansはジュピターの「堅果」(堅い果実)という意味である。

 

「サワグルミ」の愛称も「ジュグランダー」である。それゆえ,「ジュグランダー」と言う愛称は,力丸が指摘しているように「クルミ科」の学名に由来していると思われる。しかし,なぜ賢治は科名を参考にしたのであろうか。この点に関して,力丸は『新宮澤賢治語彙辞典』で説明していない。また,後述するがクルミ科以外の樹木の愛称ではその樹木の科名は採用していない。私の単なる推測だが,賢治は「くるみの木」の科名Juglandaceaeの「glanda (グランダ)」あるいは「landa(ランダ)」という音の響きと,「glanda」が堅い果実(glans)に由来していることが気に入ったのかもしれない。

 

クルミ科以外の樹木の愛称に関しては,その樹木の属名に「ランダー」という語尾を付けている命名しているように思える。例えば,「かはやなぎ(カワヤナギ)」の属名はSalix(サリックス)なので「サリックスランダー」,また「はんのき(ハンノキ)」の属名はAlnus(アルヌス)なので「アルヌスランダー」である。「ランダー」をドイツ語のLander(垣根の杭)の意味と解釈する研究者もいるが(原,1999),私はクルミ科以外の植物の愛称の語尾に付く「ランダー」もクルミ科の学名Juglandaceaeの「landa(ランダ)」に由来していると思っている。また,「ランダー」を繰り返し,韻を踏むことにより,リズム感が生じ詩を読みやすくしている。

 

冬の「くるみの木」や他の樹木に果実がたくさんぶら下がっているとは思えない。鏡のような氷華が冬に落ちないで残った果実の凍ったものだけとは思えない。多分,氷華の多くは果実のない枝に付いている氷の塊だと思われる。すなわち,多くの樹木の氷華は枝に付いた(あるいはぶら下がった)氷の塊(鏡)を果実に見立てたのかも知れない。

 

すなわち,「ジュグランダー」は氷の堅い鏡のような塊(氷華)すなわち堅い果実(glans)のようなものが付いた「くるみの木」がイメージされているように思える。また,「サリックスランダー」は氷華の付いた「カワヤナギ」であり,「アルヌスランダー」は氷華の付いた「ハンノキ」であり,そして「モルスランダー」は氷華の付いた「マグワ」や「ヤマグワ」であろう。

 

「フサランダー」の「フサ」の命名に関しても,不明なところが多い。上記辞典によれば,「これのみ植物ではなくグランド電柱の列の言い換えとして賢治は用いる。電柱の列をフザーHusar=軽騎兵の列に見立て,Sの濁点を省いてフサとしたか」(原,1999)とある。「Sの濁点を省いてフサとした」を正当化することもできる。学名で「s」 は「常に清音の発音で,ドイツ語のように濁音にはならない」(横川,2022)からである。賢治は,学名の付け方を知っていたと思われるので,Husar(軽騎兵)を学名のような愛称に採用するときフサ-と発音していたのかもしれない。Saurus(サウルス)を学名でザウルスとは発音しない。また,「フサランダー」の「フサ」は電柱そのものを意味しているとする研究者もいるらしい。これについては賢治研究家の浜垣のブログに詳しい(浜垣,2009)。

 

しかし,「フサランダー」が軽騎兵や電柱の愛称だとは思えないところがある。理由は二つある。一つに,賢治が軽騎兵を知っていたかということである。童話『月夜のでんしんばしら』では,配電線用の電柱の列を二本腕木の工兵隊に,通信線用の電柱の列を六本腕木の竜騎兵に,高圧送電線を支える「大きな電柱」の列を三本腕木の赤いエボレットを付けた擲弾兵(てきだんへい)に喩えていた(石井,2021)。擲弾兵は,17世紀~19世紀の擲弾(手榴弾)の投擲を主な任務とする兵士である。当時の擲弾は鋳鉄で出来ていて重量が重かった。遠くに投擲する擲弾兵には体格および身体能力に優れる勇猛果敢な兵士が選ばれた(Wikipedia)。

 

後述するが,この詩に登場する「グランド電柱」とは高圧送電線を支える「大きな電柱」のことを言っているようだ。多分,「グランド電柱」の「グランド」は英語の「grand(大きい)」のことであろう。すなわち,「フサランダー」を電柱の列とするなら,古い時代の軽騎兵よりも近代戦で活躍した擲弾兵とした方がよいように思える。しかし,擲弾兵はGrenadierであり,「フサ」ではない。

 

もう一つは,「フサランダー」が電柱の愛称なら「クリプトメリアランダー」あるいは短縮して「クリプトランダー」と呼んだほうがいいような気がするからである。実際に,「岩手軽便鉄道の一月(下書稿)」には「グランド電柱 クリプトランダア鏡を吊し」とある。電柱の柱が「スギ」(Cryptomeria japonica (Thunb. Ex L.f.) D.Don)の丸太で作られているからと思われる。「Cryptomeria」が「スギ」の属名である。

 

賢治は,最初「グランド電柱 クリプトランダア鏡を吊し」と記したが,後に「グランド電柱 フサランダー 鏡をつるし」と訂正した。なぜ,「グランド電柱」だけを訂正したのであろうか。私は,氷華をたくさん付けていたのが電柱ではなく電線だったからだと思っている。賢治がそれに気づいたとき「クリプトランダア」を「フサランダー」に訂正したのだろう。すなわち,「フサランダー」とは賢治が軽便鉄道を横切る氷華の付いた電線に付けた愛称と思われる。電柱を樹木の幹とすれば,腕木や電線は樹木の枝に相当する。

 

この詩に登場する「グランド電柱」がある場所は,賢治研究家の伊藤光弥によれば「花巻の小舟渡付近で軽便鉄道の線路が電信柱の列と交叉するところ」とある(括弧内は賢治研究家の浜垣(2007)のブログから引用)。さらに,伊藤が指摘した電信柱を浜垣(2007)は,「普通に町で見かける電柱ではなくて,もっと大規模な高圧線」を支える「大きな電柱」と推測している。

 

すなわち,「フサランダー」は発電所と需要地近傍の変電所を結ぶ高圧送電線のことであろう。国語事典では,「房(ふさ)」とは①「細い糸を束ねて垂らした状態のもの」。あるいは②「小さな花や実が群がりまた一塊となって垂れ下がっているさま」を言う。「フサランダー」の「フサ」は①の意味かもしれない。

 

詩集『春と修羅』の「グランド電柱」(1922.9.7)には,「花巻グランド電柱の/百の碍子(がいし)にあつまる雀/掠奪のために田にはいり/うるうるうるうると飛び/雲と雨とのひかりのなかを/すばやく花巻大三叉路の/百の碍子にもどる雀」とある。花巻に100の碍子を付く巨大な電柱が存在していたかどうかは定かではない。ちなみ,高圧送電線を支える電柱をヒントにして書いたとされる賢治の「月夜のでんしんばしら」の碍子の数は12個である(第1図,石井,1921)。1本の「大きな電柱」に12個の碍子あるいは100の碍子があったとすれば送電線は12本あるいは100本ということになる。この木の枝に相当する12本あるいは100本の送電線を「フサ」と呼び,氷華を付けた送電線を「フサランダー」と呼んだのかもしれない。

 

第1図.宮沢賢治が自ら書いた「月夜のでんしんばしら」(彩色は弟の宮沢清六)と推定された当時の高圧送電線を支える電柱の形.

 

また,賢治は1本の送電線がたくさんの電線をよって作られていることも知っていたかもしれない。1907年に送電線の電線に断面積が100mm2の国内初の「硬銅より線」が使用された。続いて1920年には150mm2の「鋼心アルミより線」が使われ始めた。「より線」の電線とは細い線をより集めて1本の電線にしたもので可撓性(柔軟性)を増したものである。例えば,日本工業規格(JIS)で100mm2の断面積のものなら,直径2.6mmの細い銅線が「房」のように19本束ねてある(赤木,2002)。すなわち,太い高圧送電線はたくさんの電線の束である「フサ」であり,氷華を付けた房状の電線が「フサランダー」だと思われる。

 

引用文献

赤木康之.2002.架空送電用電線の変遷.電学誌.122(3):172-175.

浜垣誠司.2007.宮澤賢治の詩の世界-「岩手軽便鉄道の一月」の舞台-.https://ihatov.cc/blog/archives/2007/07/post_483.htm

浜垣誠司.2009.宮澤賢治の詩の世界-「フサランダー」-.https://ihatov.cc/blog/archives/2009/02/post_602.htm

原 子郎.1999.新宮澤賢治語彙辞典.東京書籍.東京.

石井竹夫.2021.宮澤賢治の『銀河鉄道の夜』-赤い腕木の電信柱が意味するもの(1)-.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/07/09/090146

宮沢賢治.1985.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.東京.

横川浩治.2022(調べた年).生物の名前と分類.http://www.kanpira.com/iriomote_museum/scientific_name.htm

賢治は実際にセンホインという植物を見たのか

「センホイン」という植物は,詩集『春と修羅 第二集』の 329〔野馬がかってにこさえたみちと〕(1924.10.26)に登場する。どんな植物なのだろうか。『新宮澤賢治語彙辞典』によれば,「センホイン(sainfoin)」は「イガマメ属の総称で南欧から中央アジア,コーカサスの丘陵や高山の岩の多い草地に生育し,牧草として干草にされるマメ科の多年草」とある(原,1999)。代表的なものとしては,属の名でもある「イガマメ」(Onobrychis viciifolia Scop.)がある。「イガマメ」の草丈は30~70cmで,葉は奇数羽状複葉である。花は蝶形で6~8月頃に茎頂に総状花序につける。花の色は青紫色である。別名はホーリークローバーである。果実は円盤状の莢果で刺状突起がある(GKZ植物事典,2022)。「イガマメ」の果実には刺があるので,人の衣服や動物の毛にくっついて運ばれる。

 

ただ,「センホイン」,「イガマメ」,「ホーリークローバー」ともほとんど聞いたことのない言葉である。平成に発刊された手元の植物図鑑(山渓ポケット図鑑,1999)にも載っていない。我が国には自生していないと思われるので,賢治が実際に見たかどうか気になる。詩〔野馬がかってにこさえたみちと〕は,賢治が小岩井農場北方の御料地のどこかで道に迷った体験をもとにしたものとされている(伊藤,1998)。詩は以下の詩句からなる。

 

野馬がかってにこさえたみちと

ほんとのみちとわかるかね?

なるほどおほばこセンホイン

その実物もたしかかね?

おんなじ型の黄いろな丘を

ずんずん数へて来れるかね?

その地図にある防火線とさ

あとからできた防火線とがどうしてわかる?

泥炭層の伏流が

どういふものか承知かね?

それで結局迷ってしまふ

そのとき磁石の方角だけで

まっ赤に枯れた柏のなかや

うつぎやばらの大きな藪を

どんどん走って来れるかね?

そしてたうたう日が暮れて

みぞれが降るかもしれないが

どうだそれでもでかけるか?

はあ さうか

             (宮沢,1985)下線は引用者

 

この詩で明らかなように,賢治は道に迷ったとき「オオバコ」や「センホイン」を探している。「おおばこ」はオオバコ科の「オオバコ」(Plantago asiatica L.)のことで,踏みつけに強く,人などがよく踏む道端などによく生える野草で,地面から葉を放射状に出して,真ん中から花穂をつけた茎が立つ。踏みつけが弱い場所では,高くのびる性質を持たないので,他の草に負けてしまう(Wikipedia)。また,「オオバコ」は人里植物としても知られる植物で,その種子には粘性があって人や車にくっついて運ばれる。

 

道らしきところで「オオバコ」が見つかれば,そこは「獣道」ではなく人が良く通るところということである。また,「センホイン」が見つかればその道は牧場に通じる道である可能性が高くなる。すなわち,道に迷ったとき「オオバコ」や牧草としての「センホイン」を見つけることができれば人里に戻ることができるのである。

 

賢治は,本当に小岩井農場付近で「センホイン」を見たのであろうか。賢治研究家の伊藤(1998)は,岩手植物の会編『岩手県植物誌』(1970)に「センホイン」の記載があるかどうか調べたが,その名を見つけられなかったという。さらにL.ディーズの著書『花精伝説』(八坂書房)に「昔イガマメSaint-Foinの名がムラサキウマゴヤシ(アルファルファMedicago sayiva L.)につけられ,ムラサキウマゴヤシLuserneの名が現在のイガマメにつけられていた」という記載を発見して,「かつてムラサキウマゴヤシが日本に導入された頃,その名をアルファルファともセンホインとも呼ばれていたこともあったのではなかろうか」と推測している。ムラサキウマゴヤシは牧草として明治時代に導入された。マメ科ウマゴヤシ属の多年草。中央アジア原産。アルファルファ,ルーサンとも呼ばれる。草丈は0.6~1m程になり,茎は直立し葉は3出葉である。夏に紫色の蝶形の花を総状花序につける。今でも牧場や道ばたで普通に見られる牧草である。

 

このように,伊藤によれば,賢治は実際には「イガマメ属」の牧草ではなく「センホイン」と呼ばれることもあるウマゴヤシ属の「ムラサキウマゴヤシ」を見た可能性が高いと述べている。賢治からすれば人里に通じる道を見つけるには「イガマメ」でも「ムラサキウマゴヤシ」のどちらでもよかったわけだが,賢治が見たものが「イガマメ」ではなかったと断定もできない。1970年の『岩手県植物誌』には「イガマメ」は記載されていないが,1924年に詩〔野馬がかってにこさえたみちと〕を創作した頃は牧草として「イガマメ属」の牧草は小岩井農場辺りに生えていた可能性を否定できない。

 

実際に,私は山形県立博物館の収蔵データベース(山形県立博物館,2022)に葉が奇数羽状複葉の「イガマメ」(Onobrychis viciifolia Scop.)の植物標本を見つけた。採集年は1907年で採集地は盛岡市となっている。小岩井農場は岩手県雫石町と滝沢市にまたがって所在する農場で,盛岡市は滝沢市に隣接する。賢治は,1924年に小岩井農場付近で道に迷ったときムラサキウマゴヤシではなく「イガマメ属」の牧草すなわち本物の「センホイン」を見た可能性はある。

 

参考文献

原 子郎.1999.新宮澤賢治語彙辞典.東京書籍.

伊藤光弥.1998.宮沢賢治と植物-植物学で読む賢治の詩と童話-.砂書房.

宮沢賢治.1985.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.

GKZ植物事典.2022(調べた日付).イガマメ.https://gkzplant.sakura.ne.jp/souhon2/shousai2/a-gyou/I1/igamame/igamame.html      

山形県立博物館.2022(調べた日付).植物.http://db.yamagata museum.jp/muse/plant/search.php?-max=25&-skip=56550

童話『やまなし』の舞台となった谷川は実在するか-イサドとの関係-

童話『やまなし』(1923.4.8)が賢治の悲恋体験に基づくものであることについてはすでに報告した(石井,2021,2022)。本稿では,『やまなし』の舞台となった谷川のモデルが実在するかどうか検証する。

 

童話『やまなし』の舞台は,冒頭に「小さな谷川の底を写した二枚の青い幻燈です」とあるように,小さな谷川あるいは渓谷である。では,この谷川(渓谷)のモデルとなった川は存在するのであろうか。このモデルとなった谷川を推定するヒントになるものとして,『やまなし』に登場する「イサド」という地名がある。

 

 蟹の子供らは,あんまり月が明るく水がきれいなので睡ねむらないで外に出て,しばらくだまって泡をはいて天上の方を見ていました。

『やっぱり僕ぼくの泡は大きいね。』

『兄さん,わざと大きく吐いてるんだい。僕だってわざとならもっと大きく吐けるよ。』

『吐いてごらん。おや,たったそれきりだろう。いいかい,兄さんが吐くから見ておいで。そら,ね,大きいだろう。』

『大きかないや,おんなじだい。』

『近くだから自分のが大きく見えるんだよ。そんなら一緒に吐いてみよう。いいかい,そら。』

『やっぱり僕の方大きいよ。』

『本当かい。じゃ,も一つはくよ。』

『だめだい,そんなにのびあがっては。』

 またお父さんの蟹が出て来ました。

『もうねろねろ。遅おそいぞ,あしたイサドへ連れて行かんぞ。』

                 (宮沢賢治,1986)下線は引用者 以下同じ

 

この物語で,子供(兄弟)の蟹が泡の大きさを競うことに夢中になっているとき,父蟹は「もうねろねろ。遅おそいぞ,あしたイサドへ連れて行かんぞ。」という言葉で止めさせようとする。兄弟にとって泡の大きさを競うのは遊びの一種と思われるが,「イサド」はこの遊びと同じくらい魅力的な場所と言える。子供の欲しいものや見たい物がたくさんあるあるか,あるいは病気の母がいて,そこで療養中なのかもしれない。

 

また,「イサド」は『やまなし』以外では童話『種山ヶ原』(1921)に「伊佐戸(いさど)の町の,電気工夫の童(わらす)ぁ」とか,「伊佐戸の町で燃す火が,赤くゆらいでゐます。」という表現で登場する。どうも「イサド」は「種山ヶ原」近くの町の名前と関係しているらしい。

 

「イサド」の語源に関して,原(1999)は賢治の造語であり,旧江刺郡の中心,「岩谷堂」を念頭においたものと推定している。「岩谷堂」は岩手県江刺郡岩谷堂町(現在の奥州市江刺)のことである。江刺郡は1町12村(岩谷堂町,愛宕村,羽田村,黒石村,田原村,藤里村,伊手村,米里村,玉里村,簗川村,福岡村,広瀬村,稲瀬村)からなる。すなわち,「岩谷堂」は江刺郡にある唯一の町である。「岩谷堂」は歴史的には奥州藤原氏と関係深い土地である。かつて奥州藤原氏による平泉の栄華を築いた藤原清衡は,岩谷堂餅田(もちた)の豊田館(とよたのたち)で生まれ,平泉に移るまで青年期を過ごしたという(国土交通省 東北地方整備局,2022)。また,岩谷堂町は古くから北上川と人首川(ひとかべがわ)による舟運や,三陸沿岸部と内陸部を結ぶ交通の要所として賑わった町でもあった。同町には明治8年(1875)に開院した岩谷堂共立病院という西洋医学における総合病院もあった。「岩谷堂」は,子供にとって一度は行ってみたい魅力的な町であったと思われるが,病気の母が入院している場所というイメージもある。

 

「イワヤドウ」は石屋・岩屋・窟に洞・堂が結合した言葉とされる(相原,2022)。また,「イワ・iwa」はアイヌ語で岩山のことだが,もとは祖先の祭場のある神聖な山を指したらしい(知里,1992)。

 

「岩谷堂」の近くに谷川あるいは渓谷のような場所はあるのだろうか。地図で見てみると人首川がある。人首川は「種山ヶ原」の山頂付近に端を発し,江刺郡の中心市街地の岩谷堂あたりを通過し,伊手川と合流し北上川へと流れ出る,流路延長30kmほどの河川である。人首川のほとんどは緩やかな里川だが,玉里村の白山橋付近は岩が多く川幅も狭く渓谷となっている。「白山渓」と呼ばれている。このように,童話『やまなし』の舞台が江刺郡の「岩谷堂」と関係するなら,この「白山渓」が候補にあがる。

 

ただ,「岩谷堂」→「イサド」だとしっくりしないものがある。イサドは江刺(えさし)の「サ」と岩谷堂(いわやどう)の「イ」と「ド」を組み合わせたものかもしれない。

 

賢治は,この「白山渓」を訪れたことがあったのだろうか。賢治は農学校時代(3年生)の夏期休業中, 関豊太郎教授指導による江刺郡土性調査 (1917年8月28日~9月8日)に親友2人 (高橋秀松と佐々木又治)と参加していた。賢治は 8月28日に岩谷堂町の菅野旅館に泊まっている。その後,10日間の予定で江刺郡一帯の地質調査に出かけた。賢治の江刺郡地質調査における足跡を検証した若尾(2022)によれば,賢治は9月2日から9月3日の間に玉里村に立ち寄っている。この玉里村近くに「白山渓」がある。賢治が「白山渓」を訪れた可能性は高い。

 

童話『やまなし』に登場する谷川のモデルとなったものがあるとすれば,江刺郡の人首川にある渓谷が一つの候補になり得ると思われる。

 

参考文献

相原康二.2022.旧江刺郡は「仏教の聖地」.https://www.esashi-iwate.gr.jp/bunka/column/005/

原 子郎.1999.新宮澤賢治語彙辞典.東京書籍.

石井竹夫.2021.童話『やまなし』は魚とクラムボンの悲恋物語である.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/09/20/090540

石井竹夫.2022.童話『やまなし』考-クラムボンは笑った,そして恋は終わった-.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2022/02/01/101846

国土交通省 東北地方整備局.2022(調べた日付).【特集】近ごろ江刺市岩谷堂周辺がおもしろい!https://www.thr.mlit.go.jp/isawa/sasala/vol_16/vol16_2a.htm

宮沢賢治.1986.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.

知里真志保.1992.地名アイヌ語小辞典.北海道出版企画センター.

若尾紀夫.2022(調べた日付). (盛岡高等農林学校と関豊太郎教授と営澤賢治 江刺郡土性調査と賢治「得業論文」.https://iwate-u.repo.nii.ac.jp

 

賢治の文語詩「民間薬」(第3稿)-ネプウメリてふ草の葉とは何か-

「ネプウメリという草の葉」とは,疲労回復の草の葉ではなく,「禍」を引き起こす「怨霊」を鎮魂する草の葉と思われる。この効能を有する「ネプウメリ」という名の薬草を探してみる。

 

本稿では,「ネプウメリ」の「ネプ」と同音の発音を含む「ねぷた」という「東北」で行われる「祭り」とそこで使われる植物に注目してみる。この祭りは弘前市では「ねぷた」だが,青森市では「ねぶた」と呼ばれるものである。いずれも大勢の市民が笛や太鼓の囃子にのせて,武者絵の描かれた燈籠型の山車を引いて市内を練り歩くものである。華やかな祭りだが,怨霊封じの祭りとしても知られている。「ねぷた(ねぶた)」の起源はよく分かっていないが,「眠り流し起源説」や「アイヌ語起源説」などが知られている。

 

2.「ネプウメリという草の葉」とは何か

1)「ねぷた」の眠り流し起源説と使用される植物(柳田,1976,1979)

「眠り流し起源説」は,民俗学者の柳田国男が大正3(1914)年に雑誌『郷土研究』に「ネプタ流し」というタイトルで発表しているものである。東北の行事でもあることから,賢治も読んだかもしれない。柳田は,最初に「ねぷた祭り」を秋田などで伝えられている「眠り流し」という風俗の変化形と考えた。江戸時代後期の『秋田風俗問状答』を引用して,「眠り流し」とは,「7月6日の夜は麻稈(おがら)を己が年の数折りて,草の葛(かずら)でからげ,枕の下に敷き,七日の朝早く川へ流す」ものであると説明している。「ねぷた」も旧暦の7月7日の七夕の最終日に川や海に流すものであるので類似している。さらに,菅江真澄の『遊覧記』を引用して,寛政五年7月6日下北郡大畑の状に,「里の童六七尺一丈の竿の先に彩畫したる方形の燈籠を掲げ此に七夕祭と書し,ネブタも流れよ豆の葉もとどまれ芋がら芋がらとはやしつゝ,鼓笛にてどよむばかり云々」という記事も紹介している。柳田によれば,下北郡大畑の囃子詞である「・・・芋がら芋がら」が秋田の「眠り流し」のときに使う「麻稈」に由来すると考えている。

 

柳田は,「ねぷた」の起源を考察する中で,祭りの最後に川で燈籠や「麻稈」などの植物を流す行動に注目する。なぜ「流す」ということに注目したかというと,流すものは,その昔は「人形」あるいは「生きた人間そのもの」であったと考えているからである。津軽の「ネブタ」は以前から「侫武太(ねいぶた)とも「侫夫太」と書き,あるいは「侫人」という漢字を宛てたものもあるという。「侫人」は「ネイビト」と読んだらしい。柳田は,流すものを「人」として見ていた。

 

柳田は,「ネプタ」の起源を「眠り流し」からさらに遡って「人形祭り」の一種である「実盛送り」と同種の行事と見なすようになる。「実朝送り」とは,害虫や疫病を追い払うとめに依り代となる人形を村落の境で燃やしたり,川へ流したりする行事である。害虫や疫病は不本意に亡くなった者の死霊(怨霊)による「祟り」と見なされることもあるので御霊信仰とも関係している。「実盛送り」は害虫や疫病が生じたときだけに行われる行事であるが,怨霊を鎮めるために夏と秋の境に定期的に行われるのが「御霊祭」である。すなわち,柳田は「ねぷた」を「御霊祭」の一種として捉えるようになった。

 

怨霊封じに川に流したのが.昔は燈籠,人形,植物ではなく眠り状態(昏睡状態)の「生きた人間」という推論は驚くべきことではあるが,童話『銀河鉄道の夜』でも眠り状態の生きた人間が川に流されている。カムパネルラは,銀河の祭りで「烏瓜の灯り」(燈籠)を川へ流そうとして川へ落ちた友達を助けるが,自らは溺れてしまう。溺れた時間は45分以上だが,瀕死状態のカムパネルラは川に流され,同時に入眠したジョバンニと共に北十字から南十字に向かって銀河を旅する夢を見る。なぜ,カムパネルラが自分を犠牲にして友達を助けたかについては拙著ですでに考察している(石井)。

 

柳田は,「眠り流し」で流すものを「麻稈」としているが,22年後の昭和11(1936)年に雑誌『俳句研究』に「眠り流し考」というタイトルで発表したときには,流すものとして「合歓木」を付け加えている。「合歓木」の詳細は後述するが,夜に葉を閉じるということで「眠り」を象徴するものと見なされている。「眠り流し考」にある秋田県平鹿郡横手の「ネブリ流し」では,「旧暦7月6日の夜,藁で作った二間ばかりの舟に,満舟蝋燭を点したのを各町から出し,それにこの土地ではネブタの木という合歓木かまたは竹へ,短冊形の色紙と蝋燭とを付けたのを持った青年が多く付き添うて,川へ流す」とある。

 

2)眠り流しに使用される植物

「ネムノキ(合歓木)」(Albizia julibrissin Durazz.(1772))は,マメ科の落葉高木で,北海道を除く日本全土の原野に自生する。「ネムノキ」にはネム,ネブノキ,ネブタノキなどの別名がある。一般に,水辺を好む木で,東北では海沿いの平野部に多い。「ネムノキ」は薬になる。日本の薬用植物学の本では,「ネムノキ」の樹皮を合歓皮と呼び,鎮咳・鎮痛・利尿・駆虫薬にするとある(野呂ら,1999)。日本では,医療用(処方箋薬)としては使わない。いわゆる民間薬である。中国では,呪術的医療が行われていた古い時代から知られていた植物で,中国最古の薬物書である漢の『神農本草経』にもこの名があり,「合歓,味甘平,生川谷,安五臓,和心志,令人歓楽無憂」とある。「令人歓楽無憂」は人を楽しませ,憂いを取り除くと言う意味である。また宋の時代の『図経本草』には,「欲蠲人之忿,則贈以青裳,合歓也,植之庭除,使人不忿」と記載れていている。これは,「人の忿(怒り)を除こうと思ったら青裳(合歓)を贈るのがよい,これを庭に植えておくと人の怒りを鎮めることができる」という意味である(栗田,2003)。

 

賢治は,「眠り流し」に「ネムノキ」が使われていることを知らなかったかもしれないが,「ネムノキ」に人の怒りを鎮める作用があることは知っていたように思える。さらに,「ネムノキ」が「鬼神」の怒りも鎮めると考えたのかもしれない。童話に『風の又三郎』(1930年以降)という作品がある。この童話では,転校生の高田三郎と村童らが「さいかち淵」で「鬼っこ遊び」(鬼ごっこのようなもの)をしている。三郎が村童の一人に馬鹿にされたのをきっかけに喧嘩になる。黒い雲も垂れ込めてきたので子供たちは「ねむの木」の下に逃げ込む。そのとき烈しい雨の中から「雨はざっこざっこ雨三郎,風はどっこどっこ又三郎」という不思議な声が聞こえてくる。この声で子供らの争いは収まるのであるが誰が叫んだのであろうか。多分,「さいかち淵」の「サイカチ」に棲む土着の神が「サイカチ」の棘(角)を付けて「鬼神」となって転校生の三郎と村童を喧嘩させた。しかし,「ネムノキ」の「樹霊」がこれを鎮めたのかもしれない。

 

「ネプウメリ」の「ネプ」が「ネムノキ」とか「眠り」を意味するならば,「ウメリ」は何を意味しているのだろうか。「流す」のではなく「埋める」ということだろうか。マ行下二段活用の動詞「埋める」の連用形「埋め」に,完了の助動詞「けり」が付いた「埋めけり」という言葉もある。「ウメリ」は,この「埋めけり」の変化したものとしてもおかしくはない。この詩は七五調になっているので,「ネプウメケリ」では字余りになり,「ケ」を取って「ネプウメリ」にしたのかもしれない。「眠り」を「流す」のも「埋める」のも「眠り」を消し去るということでは同じとも思える。

 

このように「ネムノキ」は,「怨霊封じ」を基に考えれば「ネプウメリ」の候補になるかもしれない。ただ,「ネムノキ」は「草」ではないし,日本では,葉を民間薬として内服することもない。もしも「ネムノキ」を「ネプウメリ」とすれば,詩「民間薬」の最後の行は,「ネプウメリてふ草の葉を,薬に食めとをしへけり」ではなく,「ネプウメリてふ木を,薬として流せとをしへけり」としなければならない。多分,賢治にとって「ネムノキ」は「ネプウメリ」ではない。

 

3)アイヌ語との関係 

柳田の「ねぷた」に対する「眠り流し起源説」は定説になっているようだが,異論もある(梅原,1994;横山,2016)。「ねぷた」をアイヌ語起源とするものである。梅原はアイヌ語で「ネプタ」は「それはなんじゃ」(What is it?)であり,なにか予想外のものを見た驚きの言葉であるという。横山も「ネプ」(nep)はアイヌ語で「何」(what)の意味で,忌み言葉を「何」と置き換えたものとしている。「アイヌ」は,言霊信仰があり忌み言葉を具体的に表現することを嫌う。怨霊流しとは言わない。「怨霊」という言葉を出してしまうと,「怨霊」が呼ばれたと勘違いして,「怨霊」という言葉を発した者に取り憑いてしまうからである。

 

横田によれば「ネプ流し」とは,アイヌ語と大和言葉を合体させた「何流し」で,病魔や穢れを流すという意味になる。流した形代は,豆の葉,合歓木,野生の藤で,全てマメ科の植物である。体に豆のような水腫ができる疾患,痘瘡の病魔を流し去る願いであったという。

 

ではこのアイヌ語説を基にすると「ネプウメリ」はどのように解釈されるのだろうか。「ネプウメリ」の「ネプ」をアイヌ語の「何(=怨霊)」として,「ウメリ」を大和言葉の「埋めり」とすれば,「ネプウメリ」は「怨霊埋メリ」となる。賢治にとって「怨霊」になった者が身近な人であれば,賢治は「祟り」の霊を「流す」というよりは,これを留めて,手厚く地に鎮める(埋める)ことによって「御霊」になることを望んだかもしれない。「雨ニモマケズ」が記されている手帳には「経埋ムベキ山」と題された岩手県内の32の山が記載されている。埋経とは,「法華経」などの経典を書写し,これを土中に埋納するまでの一連の行為で成り立つ経供養とされているが,中世以後では現世利益や追善供養の意味が加えられた。賢治は,なぜイーハトヴの山に「法華経」を埋めようとしたのだろうか。経供養なら1カ所で十分とも思われる。賢治にまとわりつく「怨霊」を地に鎮める鎮魂の意味もあったのではないだろうか。

 

4)アイヌの薬草

次に,「怨霊」の怒りを埋める薬効を持つ薬草を「ネプ」という発音に拘らずに探してみたい。「アイヌ」が用いていた薬草で,この魔除けの候補になるのが前述した「ギョウジャニンニク」と「エゾヨモギ」(Artemisia vulgaris L.var.yazoana Kudo)である。「ギヨウジャニンニク」は,強烈な臭気を有するので,病魔が近づかぬと「アイヌ」には信じられていた。伝染病流行の際は,家の戸口や窓口に吊したり,枕の中に詰めたりしたという。「エゾヨモギ」(アイヌ語でnoyaノヤ)も臭気があり,重病人のある時,「エゾヨモギ」で人形を作って着物を着せ,病人の病気を全部それに移したことにして戸外に捨てた。また伝染病が村へ入らないように,村境や川口に,「エゾヨモギ」で草人形を作って立てることもあったという(アイヌ民俗博物館,2022)。しかしながら,賢治は「アイヌ」の神である「羆熊の毛皮」を着ても退治できない相手を,これら植物で退治できるとは思わなかったのではないだろうか。

 

5)ネプウメリは蕗の薹

賢治の作品の中にも候補になる薬草がある。『春と修羅 第三集』1040〔日に暈ができ〕(1927.4.19)という作品がある。

   

日に暈ができ

風はつめたい西にまはった

ああ レーキ

あんまり睡い

 (巨きな黄いろな芽のなかを

  たゞぼうぼうと泳ぐのさ)

杉みな昏(くら)く

かげらふ白い湯気にかはる

         (宮沢,1986)

 

この詩の「日の暈ができ/風はつめたい西にまはった」という詩句は,詩「善鬼呪禁」の「十字になった白い暈」と同様に何か不吉な前兆を表現している。ちなみにこの詩が書かれたのは賢治の恋人が異国の地で亡くなって1週間後である。この詩の大意は,何か不吉なことが起こることを察すると同時に眠くなってしまった人物,多分賢治と思われるが,「巨きな黄いろな芽のなかをたゞぼうぼうと泳ぐのさ」とつぶやくものである。このつぶやきは,下書き稿(一)の〔光環ができ〕という作品では「ヒアシンスの花の形した/巨きな黄いろな芽をたべてこい」という幻聴を聞くことになっている。不吉なことが起こりそうになったら,その中を「泳いだり」あるいは「食べたり」する「巨きな黄いろな芽」とは何か。

          

下書稿(二)では下書稿(一)の「ヒアシンスの花の形した/巨きな黄いろな芽をたべてこい」が「蕗の薹だの/巨きな黄いろな芽のなかを/羽虫になって泳ぐかな」になっている。多分,「巨きな黄いろな芽」とは「蕗の薹」のことである。「フキ」(Petasites japonicas (Siebold et Zucc.) Maxim.)は,キク科雌雄異株の多年草で,早春に伸び出す若芽(花茎)を「蕗の薹」と呼ぶ。「蕗の薹」の花茎は,鱗状の包葉で包まれている。山菜として食することもあるが,民間ではこの若芽を鎮咳・解毒・健胃に使うことがある。

第1図.フキノトウ

 

6)蕗の薹は法華経の比喩

「蕗の薹」は「ネプウメリ」の候補になるが,巷で怨霊(鬼神)封じや魔除けとして使われているようには思われない。「蕗の薹」には別の意味が隠されている。「フキ」の花が『春と修羅』の「林と思想」(1922.6.4)に登場する。

 

そら,ね,ごらん

むかふに霧にぬれてゐる

蕈(きのこ)のかたちのちいさな林があるだらう

あすこのとこへ

わたしのかんがへが

ずゐぶんはやく流れて行つて

みんな

溶け込んでゐるのだよ

  こゝいらはふきの花でいつぱいだ

          (宮沢,1986)下線は引用者

 

ここで記載されている「林」はタイトルにあるように「思想」と関係がありそうだ。「学林」といえば僧侶が仏教思想を学ぶ場である。「談林」とか「壇林」」ともいう。賢治は,1920年に,「学林」である田中智学が主催する国中会に入会している。田中智学は法華経を重視する日蓮主義を主張しているので,その影響を受けているとすれば「林」は「思想」あるいは「法華経思想」の比喩である可能性がある。すなわち,詩の意味は「法華経思想に私(賢治)の考えが早い時期から融合していく」である。これは詩の最後に「フキ」が登場することからも伺える。

 

「フキ」は岩手県では「ばっけ」と呼ばれている(八坂書房,2001)。『法華経』の「妙法蓮華経方便品第二」に3000年に1度しか咲かない「優曇鉢華(うどんばつげ)」という植物が登場してくる。「フキ」の方言名である「ばっけ」は,この「優曇鉢華」の「鉢華(ばつげ」と発音が類似している。「ばっけ」の語源としてアイヌ語説などいくつか紹介されている。以前,ネットのブログ「神州の泉」(主宰者は高橋博彦)で,「ばっけ」の語源がこの「優曇鉢華」によるとする新しい説が紹介されていた(石井,2014)。現在,このブログは閉鎖されている。

 

「フキ」は,雪深い地ではやっと5月に顔を出す。雪の間から春の知らせをいち早く知らせてくれる「フキ」は,その地方の人にとっては貴重な野菜でもあり,「法華経」のようにありがたいものだったのかもしれない。 

 

日蓮が述べたことを書き留めた書物『御義口伝』には,「優鉢華(うばつげ)之香とは法華経なり,末法の今は題目なり,方便品に如優曇鉢華の事を一念三千と云えり之を案ず可し」とある。「ばっけ」の語源がどうであれ,賢治は日蓮主義を主張する国柱会に入会していたわけだから,『御義口伝』は読んでいたはずである。すなわち,耳に入ってくる「フキ」の方言「ばっけ」から容易に「法華経」をイメージ出来たはずである。また,「フキノトウ」を食べろという幻聴を聞いたとき,すぐさま「法華経」を読誦することがイメージされたはずである。

 

7)古き巨人とは誰か

賢治と交流のあった森荘已池(1979)は,第1稿で述べたが,詩集『春と修羅』刊行(1924)の頃に賢治から「小さな真赤な肌のいろをした鬼の子のような小人のような奴ら」に山道を走るトラックから谷間に落とされそうになった話を直接聞いている。このとき,「谷間に落ちるに違いないと思ったら二間もあるような白い大きな手が谷間の空に出て,トラックが落ちないように守ってくれた」という幻覚を見たというのである。賢治は,森荘已池にこの「白い大きな手」は観音様の有り難い手だと話したという。多分,「民間薬」の「古の巨人」とは石匙を持った「先住民」(縄文人)に化身した観世音菩薩かもしれない。 ちなみに,童話『ひかりの素足』では主人公の一郎も鬼のいる地獄で「にょらいじゅりょうぼん第十六」と呟くと「貝殻のやうに白くひかる大きなすあし」の人が現れ救済されている。この白く大きな素足の人は手も大きく真っ白なので如来というよりは観世音菩薩なのかもしれない。 

 

3.まとめ

1)文語詩「民間薬」は東北に大正13年から3年あるいはそれ以上続いた旱魃(禍)を題材にしている。東北で旱魃が2年続くことはなかったので,賢治はこの旱魃を自然現象ではなく「禍」あるいは「祟り」と見做した。

2)詩の大意は,旱魃という「禍」をもたらしたのは怒りを持った「怨霊」による「祟り」であるから,たけしき耕の具である三本鍬を手に魔除けとしての「羆熊の毛皮」も着て硬くなった干泥(乾いた土)を耕していた。しかし,今年も旱魃が1ヵ月も続き,田植えも思うようにならずにすっかり気落ちしてしまった。スギナの生えている畦でうとうとしていると,額の上の雲が形を変えはじめてきて,村人が「禍」に対して噂する声も聞こえてきた。やがて,雲は「匙(ナイフ)」を持った古の巨人の姿になり,その巨人が「ネプウメリ」という草の葉を「匙」で切り取って薬として食べなさいと教えてくれた。である。

3)「ネプウメリ」という草の葉とは「禍」あるいは「祟り」の原因となる怨霊となった魂を地に鎮めるものである。

4)「ネプウメリ」の「ネプ」はアイヌ語で「何」(what)を意味する言葉で,「ウメリ」は大和言葉の「埋めけり」が変化した「埋めり」であろう。「ネプ」を「何」とするのは「怨霊」や「祟り」などの忌み言葉を隠すためである。すなわち,「ネプウメリ」とは,アイヌ語と大和言葉の合成語で,「何(怨霊)埋めり」という意味である。

5)「ネプウメリという草の葉」は,民間薬としても使われる「蕗の薹(フキノトウ)」のことであり,「法華経」(観世音菩薩普門品第二十五)の暗喩でもある。「フキノトウ」は花茎であるが,包葉に包まれているので,葉と言えないこともない。「食べなさい」とは,「祟り」をもたらす「怨霊(鬼神)」を丁重に埋葬(鎮魂)するために「法華経」を「読誦しなさい」という意味である。

6)古の巨人とは「観世音菩薩」のことと思われる。賢治は大正13年(あるいは大正元年)頃熱にうなされ幻影としての「小鬼」にトラックから谷間に落とされそうになったことがあったが,観音様が幻影として現れ助けてもらっている。

7)「フキ」は岩手県では「ばっけ」と呼ばれている。『法華経』の「妙法蓮華経方便品第二」に「優曇鉢華(うどんばつげ)」という植物が登場してくる。日蓮の『御義口伝』には,「優鉢華(うばつげ)之香とは法華経なり」ともある。賢治は「フキノトウ」を食べろという幻聴を聞いたとき,すぐさま「法華経」を読誦することをイメージできたはずである。すなわち,フキノトウ→ばっけ→法華経→怨霊の鎮魂であるが,その逆である怨霊→それを鎮魂する観音様(法華経)→ばっけ→フキノトウという連想も可能と思われる。

8)「怨霊(鬼神)」による「禍」が生じるようなことがあれば,それを鎮魂する「フキノトウ(ばっけ)」を食べ,優鉢華(うばつげ)之香」である「法華経」を読誦するというのが,「民間薬」という詩の本当の意味である。民間で使う薬は,科学的エビデンスに基づく効果において医薬品に劣るが,地元に伝わる伝統や文化を背景にしているので,それによるプラセーボ効果が加味されるため思いがけない効果が得られる場合もある。民間薬の「ほんたうの精神」が語られていると思われる。

9)この詩は昭和2年4月13日に異国の地で亡くなった賢治の恋人と無縁ではなかろう。

 

参考文献

アイヌ民俗博物館.2022(調べた日付).アイヌと自然デジタル図鑑.https://ainugo.nam.go.jp/siror/dictionary/detail_sp.php?page=book&book_id=P0001

石井竹夫.2014.宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に登場する聖なる植物(後編).人植関係学誌.13(2):35-38.

栗田子朗.2003.折節の花.静岡新聞社.

宮沢賢治.1986.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.

森荘已池.1979.宮沢賢治の肖像.津軽書房.青森.

野呂征男・水野瑞夫・木村孟淳.1999.薬用植物学.南江堂.

梅原 猛.1994.日本の深層 縄文・蝦夷文化を探る.集英社.153-156頁.

柳田国男.1976.定本柳田国男集9巻.筑摩書房.東京.355-362頁.

柳田国男.1979.定本柳田国男集13巻.筑摩書房.東京.76-94頁.

八坂書房(編).2001.日本植物方言集成.八坂書房.東京.481頁.

横山 武.2016.地方史研究発表会 ねぷたの由来について.東奥文化 87:40-49.

賢治の文語詩「民間薬」(第2稿)-羆熊の皮は魔除けか-

前稿で文語詩「民間薬」の「干泥のわざ」は,農作業という意味ではなく,旱魃の「禍」,すなわち「旱魃禍」であるということを述べた。本稿では「羆熊の皮」について考察する。

 

2)「たけしき耕の具を帯びて,羆熊の皮は着たれども」とは

「たけしき耕の具」とは,柄の先に刃が3本ある「三本鍬」や「レーキ」のことであろう。「羆熊の皮を着たれども」とあるが,農民あるいは賢治が通常の農作業に毛皮を着ることはないと思われる。熊の皮を着るとすれば「マタギ」などの狩猟民である。また,「ヒグマ」は北海道に生息する動物である。この詩が東北地方を意識して書かれていたとすれば,かなり特殊な場合が予想される。前述したように「わざ」を「禍(あるいは祟り)」と解釈すれば,「三本鍬」や「レーキ」と「ヒグマ」の毛皮は何を意味しているのであろうか。

 

2つのことが考えられる。1つは魔除けに使ったのではないかということである。「アイヌ」の男は熊送りなどの儀礼時に装身具としてサパウシペ(Sapaumpe;礼冠)をかぶるが,これには熊の彫刻が施される。またマキリ(Makiri;小刀)の鞘の根付けとして熊などの獣の身体の一部(歯や牙が付いた顎の骨や爪)を使用する。欠ヶ端(2018)は,「アイヌ」にとって動物の身体の一部を「お守り」として身につけるということは,そこにはカムイ kamuy の力(巫力)や魂そのものが宿っていると考えられ,それに守ってもらうという 意義があるのだろう。と考えている。「アイヌ」にとって熊は最も強い動物であるとともに「神」でもある。大正十五年の災害の復旧作業の様子を描写している詩「休息」(1926.8.27)に「羆熊」が登場する。詩「休息」には/あかつめくさと/きむぽうげ/おれは羆熊だ 観念しろよ/遠くの雲が幾ローフかの/麺麭にかはって売られるころだ/あはは 憂陀那よ/冗談はよせ/ひとの肋を/抜身でもってくすぐるなんて」とある。

 

この詩で「アイヌ」の神を宿した人物が「おれは羆熊だ 観念しろよ」と言っているが,「観念しろよ」とは誰に言っているのだろうか。「アカツメクサ」や「キンポウゲ」ではない。一週間前の「ジシバリ」を除去しているときの詩〔黄いろな花もさき〕下書稿(1926.8.20)では,「畦いっぱいの地しばりを/レーキでがりがり掻いてとる/(どうしてですか うらむことなどない)・・・(たゞ済まないと 思ふだけです)」とあり,すくなくとも植物を除去することには罪悪感をもっている。羆熊になりきっている人物が「観念しろよ」と言っている対象は,災害をもたらした「怨霊(鬼神)」に対してであろう。「憂陀那(うだな)」は,『新宮澤賢治語彙辞典』(原,1999)によれば,南風のことだという。すなわち,羆熊になりきっている人物が「鬼神」を威嚇しても,南風に姿を変えた「鬼神」から逆に抜き身で脅されているのかもしれない。

 

詩「休息」と同じ日付である〔青いけむりで唐黍を焼き〕(1926.8.27)の下書稿(二)に「祟り」をもたらすもののヒントが隠されているように思える。

 

〔青いけむりで唐黍を焼き〕

たのしく豊かな朝餐な筈であるのに

こんなにもわたくしの落ち着かないのは

昨日馬車から崖のふもとに投げ出して

今日北上の岸まで運ぶ

廐肥(きゅうひ)のことが胸いっぱいにあるためだ

エナメルの雲鳥の声

熱く苦しいその仕事が

一つの情事のやうでもある

 ……川もおそらく今日は暗い……

  (宮沢,1986)下線は引用者 以下同じ

 

この詩を基に創作された文語詩〔厩肥をになひていくそたび〕にも「熱く苦しきその業に,遠き情事のおもひあり」と「情事」の記載がある。ある女性の影が見え隠れする。「廐肥」とは,厩の家畜などの糞尿と藁などを混ぜて腐らせ,堆肥にしたものである。この厩肥を運ぶ「熱く苦しいその仕事が/一つの情事のやうでもある(あるいは遠き情事のおもひ」とするのは,農業経験もある儀府(1972)によれば,情事そのものが「熱く苦しい」身を焼くようなものであり,また賢治が鼻を刺すような厩肥の強い臭いの中にわずかに混ざっているかもしれないスペルマの臭いを敏感に感じとっているからだという。すなわち,厩肥を運ぶ熱く苦しい仕事→スペルマの臭い→遠き情事の思いとなるようである。

 

もう1つ考えられる。それは,以下に示す口語詩稿「地主」にあるように,「たけしき耕の具を帯びて,羆熊の皮」を着た人物が狩猟と農作業を掛け持ちしていたのかもしれないということである。

 

詩「地主」には「・・・この山ぎはの狭い部落で/三町歩の田をもってゐるばかりに/殿さまのやうにみんなにおもはれ/じぶんでも首まで借金につかりながら/やっぱりりんとした地主気取り・・・一ぺん入った小作米は/もう全くたべるものがないからと/かはるがはるみんなに泣きつかれ/秋までにはみんな借りられてしまふので/そんならおれは男らしく/じぶんの腕で食ってみせると/古いスナイドルをかつぎだして/首尾よく熊をとってくれば/山の神様を殺したから/ことしはお蔭で作も悪いと云はれる/その苗代はいま朝ごとに緑金を増し/畔では羊歯の芽もひらき/すぎなも青く冴えれば/あっちでもこっちでも/つかれた腕をふりあげて/三本鍬をぴかぴかさせ/乾田を起してゐるときに/もう熊をうてばいゝか/何をうてばいゝかわからず/うるんで赤いまなこして/怨霊のやうにあるきまはる」とある。

 

この詩「地主」のモデルは,賢治と小学校時代同級であった笹間村横志田の高橋耕一で,大正13年(1924)の大干魃のときに水不足の打開のために賢治の指導を受けていたのだという(吉見,1982)。高橋の家は小規模な地主であったが,三町地主など小作農民とたいした差はなく貧しいままであった。この詩には,1ヵ月続いた旱魃で不作に見舞われ高橋自らも農作業だけでなく古いスナイドル銃を担ぎ出して狩猟で身銭を稼がなくてはならなかった。しかし,熊を仕留めれば農民から不作なのはそれが原因だと悪く言われ,「もう熊をうてばいゝか/何をうてばいゝかわからず」途方に暮れ「怨霊」のように歩き回っている。ということが記載されている。

 

この詩「地主」は,文語詩「民間薬」の前半部「たけしき耕の具を帯びて,・・・すぎなの畔にまどろめば」の内容に似ている。しかし,「民間薬」に登場する羆熊の皮を着ている者は横志田の高橋がモデルとは思えない。多分,詩「休息」(1926.8.27)に登場する「羆熊」になりきっているのは賢治自身であろう。なぜなら,この頃,賢治自身も水不足で辛酸を強いられていたからである。賢治は教職員時代に農学校の水田管理をしていたときがあった。教え子の小原(1971)によれば,「水源は遠く豊沢川の上流から分岐する水で,田は灌漑路の末端にあるため水の切れることが屢々(しばしば)あった。水田担当の賢治は昼も夜も上流に出かけて水引に苦労した」とのことであった。

 

3)「石の匙」とは

「石の匙(さじ)」とは,つまみ部と刃部を持つ打製石器の「石匙」のことであろう。弥生時代にもあったが,主に縄文時代草創期から晩期にいたるまで存在した縄文時代を代表する石器である。東北地方の縄文遺跡に多く出土する。「匙」とあるがスプーンとして使ったのではない。発見当初は,何に使用したのか分からず,明治の初め頃までは天狗の飯匙(めしがい)の俗称が与えられていた。この飯匙を多少修正したのが「石匙」である。「石匙」と言う名称は,その後修正されずに学術用語となってしまった。実際の用途として,賢治が生きた時代の考古学の書物には,鳥獣の皮を剥ぐための「ナイフ」とされている(高橋,1913)。賢治も「石匙」を「ナイフ」として認識していたはずである。現在の研究では,さらに刃部が詳細に分析されていて,「石匙」の用途の多くは草本植物の切断・鋸引きであるとされている。いわゆる携帯型の万能ナイフである。

 

詩集『春と修羅 第三集』の1048〔レアカーを引きナイフをもって〕(1927.4.26)には,ナイフを持参して災害後の畑の「雪菜」を収穫に行く情景が描かれている。「雪菜」が米沢特産の「ユキナ」であるなら,学名はBrassica Campestris L. var. Chinensis L.であろう。アブラナ科の耐寒性の野菜で花茎(薹)が立ってから収穫する。多分,「ネプウメリという草の葉」も花茎が立つような植物であり,ナイフで切り取れるようなものかもしれない。

 

4)東北イーハトヴに「禍」をもたらしているものは

賢治は,大正11年頃に1年間だが地元の女性と恋愛を経験している(佐藤,1984;澤口,2018)。相思相愛の熱烈な恋であったらしい。しかし,大正13年夏賢治の恋に終止符が打たれ恋人は渡米(6.14)し,そして3年後に異国の地で亡くなっている(1927.4.13)。この女性は賢治の家の近くの飲食業を営む家の娘だという。東北の20代半ばの一女性が家族や一族と一緒ならまだしも単身で異国(米国)の地へ嫁ぐとはとても考えにくいことである。東北の旱魃は恋人が渡米した年を入れて3年あるいはそれ以上続いた。賢治が生きた時代には,東北の旱魃は2年続くことはないとされていた。だから,3年続いた旱魃も自然現象としてほとんど起こりえないことである。これは,私の単なる推測にすぎないが,賢治は大正13年から3年続いた旱魃(禍)と破局に終わった恋が関係していると感じていたのではないだろうか。すなわち,賢治は旱魃が起こったのは自分が原因の「禍」あるいは「祟り」だと思っているのではないだろうか。

 

賢治は,恋人が亡くなって2ヵ月後に「囈語(げいご)」(1927.6.13)という詩を作っているが,そこには「罪はいま疾(やまひ)にかはり/わたくしはたよりなく騰(のぼ)って/河谷のそらにねむってゐる/せめてもせめても/この身熱に/今年の青い槍(やり)の葉よ活着(つ)け/この湿気から/雨ようまれて/ひでりのつちをうるおほせ」(囈語とはうわごとのこと)と記載されている。実際に,翌年8月に発熱して40日間床に臥せっている。両側肺浸潤と診断されている。12月にも急性肺炎を患っている。「罪はいま疾にかはり」の「罪」は下書稿では「瞋い」あるいは「憤懣(ふんまん)」となっている。「瞋(しん)」とは仏教用語で「怒り」とか「恨み」を指す。「瞋」とか「憤懣」とかは自分のものなのか,それとも恋人のものなのだろうか。賢治はまるで自分を犠牲にしてでも罪を償うから,雨を降らせてくれと願っているようにも思える。 

 

賢治は,健康が回復しつつあった昭和4~5年(1929 -~1930)年に,偶然にも北上山系の南にある一関市東山町にある東北砕石工場の鈴木東蔵に出会うことになる。鈴木は「石灰岩」とカリ肥料を加えた安価な合成肥料の販売を計画していて,「東北」の酸性土壌の大地を「石灰岩末」で中和することを夢みていた賢治はそれに賛同する。翌(1931)年の2月には,東北砕石工場の嘱託技師になり,製品の改良,広告文の作成,製品の注文取りと販売など東奔西走する。すなわち,捨て身の菩薩行である。しかし,この仕事も賢治の病弱な体には荷が重すぎていて,また高熱で倒れ病臥生活に戻ってしまう。

 

賢治の未定稿の文語詩の中に「製炭小屋」というのがある。製作時は不明であるが文語詩なので賢治の晩年の作であろう。自分自身を林業従事者の「そま(杣)」に投影させて,肺結核に病み死に直面した晩年の心境を吐露しているように思える。この詩は,歌稿〔B〕第七葉,短歌34の下部余白に「岩手山麓の谷の炭焼き小屋,その老人,カラフトの話・・・・」という題材メモを基にしている。「製炭小屋」の下書稿(一)の「谷」と表題がついている作品には「・・・ぜんまいの茂みの群も/いま黒くうち昏れにつゝ/焼石の峯をかすむる/いくひらのしろがねの雲/「いま妻も子もかれがれに/サガレンや 夷ぞ(えぞ)にさまよひ/われはかも この谷にして/いたつきと 死を待つのみ」(宮沢,1986)とある。

 

賢治は,詩の後半部の括弧内で「いま妻も子もかれがれに/サガレンや 夷ぞ(えぞ)にさまよひ」と独白している。賢治は,米国で亡くなった恋人の「魂」と,ありえたかもしれない結婚とその結果生まれたであろう子供の「魂」が成仏できずに「サガレン(樺太)」や「蝦夷(エゾ)」に彷徨っている姿を岩手山麓の谷に住む「杣(そま)」(林業従事者)に重ねて想像しているように思える。

 

「わざ」を「禍」あるいは「祟り」とし,「わびて」を「侘びて」とすれば,文語詩「民間薬」の大意は次のようになる。

 

旱魃という「禍」をもたらしたのは怒りを持った「怨霊(鬼神)」による「祟り」であるから,三本鍬を手に魔除けとしての「羆熊の毛皮」も着て硬くなった干泥を耕していた。しかし,今年も旱魃が1ヵ月も続き,田植えも思うようにならずにすっかり気落ちしてしまった。スギナの生えている畦でうとうとしていると,額の上の雲が形を変えはじめてきて,村人が「禍」に対して噂する声も聞こえてきた。やがて,雲は「ナイフ」を持った古の巨人の姿になり,その巨人が「ネプウメリ」という草の葉を「ナイフ」で切り取って薬として食べなさいと教えてくれた。

 

では,「ネプウメリ」とは何であろうか。次稿ではこの「ネプウメリ」について考察する。

 

参考文献

儀府誠一.1972.宮沢賢治・その愛と性.芸術生活社.

原 子郎.1999.新宮澤賢治語彙辞典.東京書籍.

欠ヶ端和也.2018.アイヌの器物の具体的な表象・形象 1 ―アイヌが用いる動物・植物意匠―.千葉大学大学院人文公共学府 研究プロジェクト報告書 第326集.11-42.

宮沢賢治.1986.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.

小原 忠.1971.『女性岩手』と賢治作品.賢治研究 8.1-5.

佐藤勝治.1984.宮沢賢治 青春の秘唱“冬のスケッチ”研究.十字屋書店.

澤口たまみ.2018.新版 宮澤賢治愛のうた.夕書房.茨城.195-215頁.

高橋健自.1913.考古学.聚精堂.

吉見正信.1982.宮沢賢治の道程.八重岳書房.

賢治の文語詩「民間薬」(第1稿)-干泥のわざとは旱魃禍のことである-

はじめに

文語詩「民間薬」は,賢治が最初に発表した2つの文語詩のうちの1つである(もう1つは後述する「選挙」)。「民間薬」には,多田保子編集発行「女性岩手」創刊号(1932.8.15)への発表形,黄罫詩稿用紙に書かれた下書き稿と定稿の3つがある。定稿の下書き稿には「ネプウメリてふ草の[?]葉」となっていて,[?]の箇所は何が書かれてあったのかは分からないが定稿では削除されている。「ネプウメリ」という草を葉にするかどうか迷ったらしい。また,定稿の「干泥」は下書き稿では「水田(みずた)」,発表形では「卑泥」になっている。下記引用文は定稿である。

 

49 民間薬

たけしき耕の具を帯びて,  羆熊の皮は着たれども,

夜に日をつげる一月の,   干泥のわざに身をわびて,

しばしましろの露置ける,  すぎなの畔にまどろめば,

はじめは額の雲ぬるみ,   鳴きかひめぐるむらひばり,

やがては古き巨人の,    石の匙もて出できたり,

ネプウメリてふ草の葉を,  薬に食めとをしへけり。

       (宮沢賢治,1986)下線は引用者 以下同じ

 

「民間薬」は難解な詩の1つであり,研究者によって様々な解釈がなされてきた。この詩の大まかな意味は,1ヶ月続いた「干泥のわざ」に「身をわびて」うとうとしていると夢に「巨人」が現れて「ネプウメリという葉」を薬に食べなさいと教えてくれた。というものである。しかし,これでは何をいっているのか分からない。そこで,多くの研究者は「干泥」を水田あるいは湿田とし,「わざ」を「作業」,「わびて」を「疲れて」と解釈して詩の意味を補足している。例えば,賢治の教え子である小原(1971)は,「ネプウメリ」の薬効には言及していないが,詩の意味を「激しい水田労働に疲れて畔にまどろむと巨人が夢に現れて薬草の名を示す」としている。田口(1993)も,「農作業で疲れてうとうとしていると東北の先住民(縄文人)が夢の中にでてきて疲労回復の薬を教えてくれた」と解釈している。そして,この薬の候補として古代ギリシャ人の用いたネペンテス(nepenthes)という憂(う)さを忘れさせる薬をあげている。多分,「ネプ・nepu」と「ネペ・nepe」の発音の類似性に基づくものと思われる。

 

伊藤(1999)も,「干泥」を氾濫川が残した汚泥や残滓とする以外には,小原や田口とほぼ同じ解釈をしている。さらに田口の発見したネペンテスを「怒りや悲しみ」を癒す「ポリジ」という薬草であるとした。「ポリジ」(和名ルリジサ; Borago officinalis L.)は,地中海沿岸に生育するムラサキ科の1年草で,ハーブとしても知られるものであるという。また,赤田秀子は「ネプウメリ」を「アイヌ」のヌペ草と呼ばれる「ギョウジャニンニク」(ヒガンバナ科:Allium victorialis  subsp.platyphyllum)であろうとしている。賢治が生きていた時代に,日本で「ルリジサ」が使われていた可能性は少ないと思われるが,「ギョウジャニンニク」は「アイヌ」が風邪薬などに民間的に使用していたものである(アイヌ民族博物館,2022)。現在,日本では「ルリジサ」や「ギョウジャニンニク」は医薬品ではなく「健康食品」に分類されている。しかし,国立研究開発法人医薬基盤・健康・栄養研究所がネットで公開している「健康食品」の安全性・有効性情報のデータベースには,「ルリジサ」と「ギョウジャニンニク」が疲労回復に使用されたという記載はない。

 

一方,信時(2007)は,先行研究に敬意を払いつつも,夢の中の話に必ずしもリアリティは必要としないとして,「ネプウメリ」の薬効について言及していない。代わりに,「農作業に疲れ果てた農夫の夢の中に,民間薬のほんたうの精神が語られた」という新しい解釈をしている。ただ,「ほんたうの精神」が何を意味しているのかについては答えていない。

 

このように,薬効を不問にする研究者もいるが,多くは,「ネプウメリ」を農作業の疲労を回復させる薬あるいは疲労を増強するかもしれない「憂(う)さ」や「怒りや悲しみ」の心身状態を癒す民間薬と考えている。しかし,疲労回復や「憂さ」を癒やすのに有効な具体的な薬草を言い当てることができないでいる。

 

本ブログでは,薬効を不問にはしない。第1稿と第2稿では,特に「干泥のわざに身をわびて」と「羆熊の皮は着たれども」という詩句の意味について再検討して,詩の大意を明らかにする。第3稿では「ネプウメリ」の正体とその薬効(あるいは効能)を明らかにする。

 

1.文語詩「民間薬」の大意

1)「干泥のわざに身をわびて」とは。

「わびる」(侘びる・詫びる)は,岩波の広辞苑(七版)によれば①気落ちした様子を外に示す。がっかりする。②困り切る。迷惑がる。という意味である。また,特に「詫びる」は,(困惑のさまを示して)過失の許しを求める。謝罪する。という意味である。いずれも身体が「疲れる」という意味を含んではいない。多分,「わびて」を「疲れて」と解釈するのは「干泥のわざ」を「農作業」と解釈するからではないのか。本当に「干泥のわざ」は「農作業」のことを意味しているのだろうか。

 

伊藤(1999)のみが「干泥のわざ」を北上川の氾濫で水田のように冠水した畑の「復旧作業」とし,また「わびて」を「辛酸を強いられた」と解釈している。伊藤によれば,この気象災害は,堀尾青史編『宮沢賢治年譜』に記載されている昭和元(1926)年7月の「18日から雨降り出し1月以上も降り止まらぬ」,「8月5日,豪雨のため被害多し」,また,昭和2(1927)年にも,「4月4日,豪雨,河川大氾濫し,釜石町浸水数百戸,東北本線不通となる」などの記事と関係があると推測している。詩集『春と修羅』(第三集)の「増水」(1926.8.15)には「古川あとの田はもうみんな沼になり/豆のはたけもかくれてしまひ/桑のはたけももう半分はやられてゐる」とある。

 

伊藤が「干泥のわざ」を単なる農作業ではなく,水害によって冠水した畑の復旧作業と見なしていることに注目したい。伊藤は,「干泥のわざ」を水害が原因と見做しているが,私は旱魃を考えている。「干泥」は賢治の造語とも思われる。「干」は文字通り解釈すれば「かわく」とか「ほす」である。すなわち,乾いた泥である。

 

実際に,賢治は農学校・羅須地人協会時代に3年あるいはそれ以上続いた旱魃を経験している(卜蔵,1991;原,1999;佐藤,2000)。大正13年(1924)7月に東北で干魃が起きた。この年,日照りが40日余日続き,各地で水喧嘩が起き,畑作が5割減収になっている(原,1999)。詩「早池峰山巓」(1924.8.17)に「九旬にあまる旱天(ひでり)つゞきの焦燥や/夏蚕飼育の辛苦を了へて」とある。その翌年も旱魃が起きて賢治の親友である佐藤隆房は,「大正14年,岩手県は特記すべき大干魃であった。何しろ,今生きている人たちが一度も経験したこともない大干魃だけに,村という村,家という家,人という人,一人として心配しない者はありません・・・農学校の水田を受け持っていた賢治が暇さえあれば生徒を連れて行って,低い堰(せき)の水を桶で田に掻入れる作業をしていた」と語っている。詩「渇水と座禅」(1925.6.12)にも「さうして今日も雨はふらず/みんなはあっちにもこっちにも/植えたばかりの田のくろを/じっとうごかず座ってゐて」とある。昭和元年(1926)も7月17日まで雨量少なく植え付けが困難となっていた(原,1999)。賢治の童話『或農学生の日誌』の1926年6月14日の日誌にも,これを裏付けるように「何せ去年からの巨(おほ)きなひゞもあると見えて水はなかなかたまらなかった」とか「あんな旱魃の二年続いた記録が無いと測候所が云ったのにこれで三年続くわけでないか。大堰の水もまるで四寸ぐらゐしかない」と記載がある。測候所とは現在の盛岡地方気象台のことで,当時賢治は旱害で何度も相談に訪れていたという。

 

昭和2年(1927)以降であるが,卜蔵(1991)の論文では昭和2年に大きな旱害があったとあるが,原(1999)の『宮澤賢治語彙辞典』では昭和3年と4年に旱魃が記録されている(原,1999)。このように,イーハトヴでは大正末期から昭和の初めにかけて旱害が慢性化していた。

 

旱魃になると,醜い水争いや農産物の減収だけでなく,場所によっては来年の耕作に備え水漏れ防止工事を行わなければならいこともあったと思われる。岩手で行われたかどうか定かでないが,三重県の伊賀では水漏れ防止の工事として「畦堀」と「底張」があったという。例えば,「底張」は水田の床全面を3~4寸(約9~12cm)掘って,足踏みや槌(つち)で床土を固めたという(吉村,2022)。床はひび割れした硬い土なので掘り起こすのも大変な重労働であったと思われる。多分,農具としては三本鍬が使われたと思われる。文語詩「民間薬」の「たけしき耕の具を帯びて」を彷彿させる。賢治の「雨ニモマケズ」に「ヒドリノトキハナミダヲナガシ」とある。「ヒドリ」は「日照り」の誤記とされている。「日照り」(旱魃)は農民にとって涙が出るくらいつらいものなのである。

 

旱魃が起こった大正13年に,賢治は身の危険も感じていた。森荘已池(1983)の証言によれば,詩集『春と修羅』刊行の頃(1924)に,賢治が近隣の町から山道(盛岡から宮古へ通じる閉伊街道)を通って帰途中に雨に降られ,あわててトラックの荷台に乗せてもらったが,高熱を出してしまう。このとき,うなされて夢うつつになった賢治は「小さな真赤な肌のいろをした鬼の子のような小人のような奴らが,わいわい口々に何か云いながら,さかんにトラックを谷間に落とそうとしている」幻影を見たというのである。トラックは実際に谷に落とされてしまうのだが,幸いに賢治と運転手,そして助手は事前にトラックから飛び降りていて無事だった。この体験を昭和元年(1926)秋とする研究者もいる(佐藤,2000)。 

 

また,大正13年には痘瘡も流行したらしい。賢治の詩「痘瘡」(1924.3.30)には「日脚の急に伸びるころ/かきねのひばの冴えるころは、/こゝらの乳いろの春のなかに/奇怪な紅教が流行する」とある。紅教とはチベット仏教の旧派のことで,僧は紅衣・紅帽を用いるという。習俗的に痘瘡の患者に赤い衣類を用いたことの連想とされる(原,1999)。

 

昭和元年(1926)は,気象災害と関係しているかどうかは定かではないが,賢治だけでなく家族にも大きな出来事があった。3月に賢治は百姓になるといって花巻農学校を依願退職し,父・政次郎は,5月に賢治が嫌っていた質屋をやめ,建築・金物・電導材料・自動車部品を扱う宮沢商会を開業している

 

また,賢治は昭和2年と3年に思想上の問題だと思われるが,警察へ出頭を命じられていたという。賢治はこの時期に羅須地人協会を主宰するとともに無産政党である労農党稗和支部を支援していた。賢治の教え子でもある小原(1985)は,昭和2年6月29日頃に実際に賢治と会って,その話を直に聞いている。賢治は小原の用向きに対して耳もかさず「いまそれどころの話ではないんだ。私は警察に引っ張られるかもしれない」と言ったという。小原は,こんなにも取り乱した姿を後にも先にも見たことはないと述懐している。伊藤(1997)も,昭和3年3月15日に,労農党のシンパということで,賢治が警察の取り調べを受けたと推測している。俗に言う三・一五事件のあった日で,共産党や労農党などに手入れがあり,関係者の検挙,取り調べが全国的に行われた。町会議員を四期務めていた父・政次郎も,賢治の思想問題と関係したかどうかは定かでないが,昭和四年に選挙に初めて落選している。この選挙の様子を文語詩にしたのが「選挙」であるが,この詩が「民間薬」と一緒に「女性岩手」に投稿されている。さらに,昭和2年~5年にかけては,クリスチャンの女性が近づいてきて賢治を悩ませた時期でもあった。このように,昭和元年を前後にして,賢治とその周辺で何か良からぬ出来事が次々と起こっている。

 

多分,「干泥のわざ」とは何か良からぬ出来事と関係しているように思える。「わざ」(行・業・態・技)という日本語を『広辞苑』で引くと,第一義は①神意のこめられた行為,深い意味のある行為。である。それ以外に②すること。しわざ。行為。③つとめとしてすること。職としてすること。しごと。職業。④しかた。方法。技術。芸。そして⑧わざわい。たたり。とある。多くの研究者たちは,「わざ」を③の「しごと」と解釈している。しかし,『広辞苑』には「わざわい(禍)」とか「たたり(祟り)」という意味のあることも記載している。

 

もしかしたら,「民間薬」にある「干泥のわざに身をわびて」という詩句の「わざ」とは伊藤が「災害」と解釈したように「禍」や,さらに深読みして「祟り」のことではないのか。国語学者の大野晋(2002)によれば,「わざ」は単に技術とか芸とかいう意味だけでなく,昔は「禍」に導く「祟り」という意味で使われていたという。「人間わざ」という言葉は「人間業ではない」と否定の形で使われる。「神わざ」といえば超人的な技術である。「わざ」はそうした,凡俗でない神のような何かの力に関係することが多いという。大野は,室町時代に来朝したキリシタンが日本語に訳した『イソップ物語』の中の「われ五穀にわざをなさず,人に障(さは)りすることなし」(自分は五穀の実りに対して,害をなす祟り,悪意ある行為を何もしていない)という文章を例にあげて,「わざ」には相手を害したいという秘められた意向を表す意味もあったと言っている。

 

「祟り」とは何であろうか。通常,日本では,人は死後に肉体から離れ死者の霊(死霊)となるとされてきた。「死霊」は,穢れを有し,供養を必要とするし,祟る存在でもあり,特に不遇のうちに死をとげた者の「死霊」は,通常の死を迎えたものの死霊とは異なり,「怨霊(おんりょう)」として祟り,不遇の死の原因となった者ないし場所などに対して,災厄・災害・病気などを惹起するものとして恐れられるものであるという(櫻井,2003)。賢治はこの「怨霊」という言葉を後述する「地主」という作品の中で使っているが,これ以外の作品では見られない。「鬼神」という言葉が「怨霊」と同じ意味で使われていると思える。

 

我が国には「御霊(ごりょう)信仰」というのがある。御霊信仰は,天災や疫病の発生を,怨みを持って死んだ人間の「怨霊」の仕業と見なすもので,奈良時代から平安初期に広まったとされる。以後さまざまな形をとりながら現代にいたるまで祖霊への信仰と並んで日本人の信仰体系の基本をなしてきた。政治的に抹殺され,非業の最後を遂げた人々の怨霊の復讐に,平安初期の朝廷の周辺の人々は恐れた。有名なものが早良(さわら)親王の「祟り」である。どのような「祟り」であり,またどのように対処したかについては伊藤(2022)の論文によれば以下のようなものである。

 

早良親王は,延暦四年(785)に,藤原種嗣が暗殺された事件に関わっていたとされ,乙訓寺に幽閉された。しかし,彼は罪を認めず,飲食を断ち,無実を主張,流罪地淡路国へ配される途中死亡,遺体は淡路で葬られた。その後,桓武天皇の夫人藤原旅子,母の高野新笠,皇后の藤原乙牟漏が相次いで死亡し,皇太子の安殿も病気に罹る。占いによって,延暦11年(792)6月10日,早良親王の祟りと出たため,親王への陳謝を行った。平安京への遷都の理由の一つが,この親王の祟りから逃れるためともされている。また延暦4年(785)から延暦10年(791)にかけて大風による水害旱魃による飢饉痘瘡などの疾病が大流行した。延暦7年(788)には,大隅国の曾乃峯(霧島山)の噴火,延暦19年(800)には,富士山が噴火し,災禍が続いたため,同年早良親王に対し,崇道天皇と追称した。(このような追尊の例は他に存在しない。)            (伊藤,2022)

 

このように,朝廷は「禍」が早良親王の「祟り」と知ると陳謝し,亡くなった後だが早良親王に天皇の称号を付与している。当時,「祟り」や「物の怪」に直面したときには常に僧侶たちの読経も行われた。なかでも「法華経」は「怨霊」の救済にもっとも効果があるとされていた。法華経を拠り所にしていた最澄の天台宗による護国国家の主たる目的の一つはこれら「祟り」や「物の怪」から国家の支配者を擁護することにあるとされていた(櫻木,2002)。最澄は桓武天皇から篤い庇護を受けていた。

 

「干泥のわざ」の「わざ」が「禍(あるいは祟り)」なら「干泥のわざ」は農作業という意味ではなく,旱魃の「禍」,すなわち「旱魃禍」である。

 

「干泥のわざに身をわびて」の「わびて」は前述したように2つの意味がある。「侘びる」は気落ちした様子を外に示す言葉で,がっかりするという意味である。また,「詫びる」は,過失の許しを求める。あるいは謝罪する。という意味である。多分,「干泥のわざに身をわびて」は,「旱魃禍ですっかり気落ちして」という意味だと思われるが,「旱魃禍」が自分の引き起こした「禍」という認識もあることから「旱魃禍に身をもって謝罪して」という意味も含まれていると思われる。(続く)

 

参考文献

アイヌ民俗博物館.2022(調べた日付).アイヌと自然デジタル図鑑.https://ainugo.nam.go.jp/siror/book/detail.php?book_id=P0336

卜蔵建治.1991.冷害と宮沢賢治 「グスコーブドリの伝記」の背景.農業気象 47(1):35-41.

原 子郎.1999.新宮澤賢治語彙辞典.東京書籍.

伊藤光弥.1997.昭和三年三月十五日の謎-賢治挫折の系譜-.賢治研究.74:1-13.

伊藤光弥.1999.民間薬.p66-73.宮沢賢治研究会編.宮沢賢治文語詩の森(第1集).柏書房.

伊藤信博.2022(調べた日付).御霊会に関する一考察(御霊信仰の関係において)https://www.lang.nagoya-u.ac.jp/proj/genbunronshu/24-2/itoh.pdf

宮沢賢治.1986.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.

森荘已池.1979.宮沢賢治の肖像.津軽書房.青森.295-296頁

信時哲郎.2007.宮澤賢治「文語詩稿 五十篇」評釈十.甲南大学研究紀要.文化編 (44):29-43.

小原 忠.1971.『女性岩手』と賢治作品.賢治研究 8.1-5.

大野 晋.2002.日本語の水脈 日本語の年輪第二部.新潮社.東京.113-118頁.

櫻木 潤.2002.最澄撰「三部長講会式」にみえる御霊.史泉.96:37-53.

櫻井圀朗.2003.日本人の宗教観と祖先崇拝の構造.キリストと世界.13:44-81.

佐藤隆房.2000.宮沢賢治-素顔のわが友-.桜地人館.

田口昭典.1993.縄文の末裔・宮沢賢治.無名舎出版.東京.75 -78頁.

吉村利男.2022(調べた日付).先人の苦悩今に伝え-東北伊賀五ヶ町村旱害史 https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/rekishi/kenshi/asp/hakken/detail.asp?record=294

童話『ガドルフの百合』考(第6稿)-賢治は本当に〈恋〉よりも〈宗教〉の方を重要と考えたのか

童話『ガドルフの百合』を読むと,恋人は両家の近親者達から繰り返し反対されても,賢治について行こうとしていた様子がうかがえる。この童話に記載されている言葉を借りれば,ガドルフ(賢治)は,背の高い「白百合」(恋人)が,雷光を伴う嵐(結婚に対する近親者達の組織だった猛烈な反対行動)で折れても地表に倒れた(身を引く)のではなく,「ケヤキ」の樹幹(自分)に付く「しのぶぐさ(ノキシノブ)」の葉(自分の腕)に横たわる(すがってくる)「百合」(恋人)を見ていた。これは,詩〔古びた水いろの薄明窮のなかに〕の「恋人が雪の夜何べんも/黒いマントをかついで・・・・」という最後の話し合いをするために賢治の居る寄宿舎を訪れた恋人にも繋がるものがある。写真(第1図)は樹幹に付くノキシノブとヤマユリ。

第1図.左は樹幹に付くノキシノブで右はヤマユリ

 

この恋人の強い決意は,信号機や電信柱を擬人化した寓話『シグナルとシグナレス』にも書き留められているようにも思える。シグナル(賢治)はシグナレス(恋人)に婚約指輪として「琴座」の環状星雲(フィッシュマウスネピュラ)を送る。シグナレスも,シグナルの求愛に「あたし決して変らないわ」と答えている。さらに,シグナルは両家の近親者達の組織だった猛烈な反対に遭ったとき,シグナレスに「遠くの遠くのみんなの居ないところに行ってしまひたいね」と駆け落ちも辞さない決意を語り,シグナレスもまた,「えゝ,あたし行けさへするならどこへでも行きますわ」とどこまでも一緒にいく覚悟を決めていた。佐藤(1984)によれば,レコート鑑賞会に参加していた恋人の親友も,この鑑賞会で恋愛をしていたという。そして親友もまた周囲の猛反対を受けたが,果敢にも相手と一緒に遠く函館に逃避行したという。しかし,童話の中のシグナルとシグナレスも,現実世界の中の賢治と恋人も結ばれることはなかった。

 

そして,ガドルフ(あるいは賢治)も,「まなこを庭から室の闇にそむけ,丁寧にがたがたの窓をしめて(恋人の思いを受け取らず),背嚢のところに戻っていく(みんなの幸せを求めて旅立つ)」ことになる。

 

ガドルフ(あるいは賢治)は,恋人から〈信頼(愛)〉されていると感じているのにも関わらず,雷雨に遭遇した(近親者達から反対された),あるいは自分に薬王菩薩が乗り移ったという理由だけで諦めて〈信仰〉を重視する方向に向かうということはあるのだろうか。あるとしたら,この理由には「まなこを庭から室の闇にそむけた」の「闇」が関係していると思われる。

 

この「闇」は,一つには前述したように「稜が五角の屋根」を持つ「巨きなまっ黒な家」の「中」にあることから「クジラの頭」の「中」にある。筆者は,この「クジラの頭の中」が,侵略者である大和朝廷から続く歴代の中央政権(あるいはそれに従う「移住者」)に対する「先住民」の「疑い」と「反感」の共同体意識(共同幻想)を意味しているものと思っている(石井,2018a)。

 

これは,「先住民」にとっては「無意識」の中に封じ込められているものでもある。『春と修羅 詩稿補遺』の詩「境内」では,酒に酔った農民(先住民)に馬鹿にされた賢治が「あのぢいさんにあすこまで/強い皮肉を云はせたものを/そのまっくらな巨きなものを/おれはどうにも動かせない/結局おれではだめなのかなあ」とつぶやく場面がある。すなわち,ガドルフ(あるいは賢治)にとって,「先住民」と中央政権(「移住者」)の歴史的対立を解消するのは,自分の能力をはるかに越えるものであったと思われる。

 

しかし,ガドルフは人知が及ばない雷雨の襲来を止めることはできなくても,別の言葉で言い換えれば両家の歴史的対立を解消できなくても,折れた「丈の高い白百合」を持ち去ることはできたはずである。だが,ガドルフは,折れずに「勝ち誇った」一群れの「白百合」を見ながらも,折れて「しのぶぐさ」に横たわる「丈の高い白百合」を持ち去ることはしなかった。ガドルフは,一人の女性も幸せにできずに,あるいは傷つき自分の腕の中に飛び込んできた女性を放置して「みんなの幸せ」を求めて旅立つことに納得したのであろうか。それは考えにくい。ガドルフに駆け落ちができないのは,彼自身の「頭の中」に,歴史的対立以外にもう一つ別の解決不可能な「闇」があるからではないのか。しかし,この「闇」についてこの物語は何も語っていない。

 

多分,ガドルフは〈恋〉を諦めて〈信仰〉を選んだという自分の決断に対して決して納得はしていなかったと思われる。それは,最後の1行に「ガドルフはしばらくの間,しんとして斯う考へました。」と記載しているからである。すなわち,この決断に至ったガドルフの気持ちは一時的なものであり,その後,ガドルフの気持ちが変わっていくことが予言されている。童話の終わり方からすればそのように読める。

 

これは,賢治の相思相愛の〈恋〉にも言えるように思える。恋人は,破局後に渡米し3年後に亡くなるが,賢治はそのあと生涯にわたって恋人が自分から離れていったことに悩み,悔やみ,後悔することとなった。なぜ,そのようなことが言えるのか。恋人が渡米した年(1924.6.14)に,決着したはずの〈恋〉か〈宗教〉かの葛藤が,引き続き詩集『春と修羅』の「韮露青」や『銀河鉄道の夜』の中で語られることになるからである。

 

鉛筆で書かれた「韮露青」(1924.7.17)の最後を締めくくる4行には「かなしさは空明から降り/黒い鳥の鋭く過ぎるころ/秋の鮎(あゆ)のさびの模様が/そらに白く数条わたる」と記載されている。この詩の「秋の鮎のさびの模様」がアユの繁殖期の雄の体表にでる細長い帯状の「赤茶色」(さび色)の「婚姻色」(錆鮎という)のことである。「婚姻色」は,通常「縞模様」になる。「韮露青」の中の「婚姻色」は帯状で「縞模様」にはならないが,この帯状の「白い雲」が数条渡ると言って「縞模様」を形成させて詩を結んでいる。ここで重要なのは,「縞模様」が性的な意味合いが強い「赤」から聖なる「白」に変わっていることである。

 

この詩は,死んだ妹への挽歌であるとともに,相思相愛の恋人との離別歌でもある(石井,2017)。妹個人への恋愛感情にも近い思いあるいは一緒になりたかった恋人への強い思いを大乗仏教の理念(苦の中にある全ての生き物を救う)に昇華させようと歌ったものである。しかし,この詩は,「しばらくの間,しんとして斯う考へました。」と同様な詩句が最後に加えられることはなく,全文が消しゴムで消されることになる。まさに賢治は,「心象スケッチ」がもつ宿命たる「不確実性」を認識せざるを得なかったのだと思われる。また晩年の童話『銀河鉄道の夜』(第四次稿)では,恋人と駆け落ちできなかった理由が,カムパネルラの「母」への思いとして,あるいは難破船の青年が「女の子」を救命ボートに乗せることができなかった理由の一つとして語られているように思える(石井,2018b,2018c)。

 

すなわち,賢治は,〈恋〉か〈宗教〉かの選択では生涯迷い続けていたと思われる。死の間際に,「作品はどうするのか」という父の問いに対して,「あれは,みんな,迷いのあとですから,よいように処分してください」と答えたという逸話も残されている。 

 

まとめ

童話『ガドルフの百合』は,〈恋〉か〈宗教〉かの選択を主要なモチーフにしているものである。本稿は6つの謎(疑問点)に関して,物語に登場する植物(楊,白百合,しのぶぐさ,名前が明かされない木)を詳細に検討することによって筆者なりの回答を示した。

 

第1に,「曖昧な犬」とは東北の先住民であった「アイヌ」あるいは「蝦夷(エミシ)」のことである。「屋根の稜が五角」の「巨きなまっ黒な家」は,「クジラの頭」ことで,古代に「蝦夷(エミシ)」が先住していた東北の胆沢地方で大和朝廷が蝦夷征討のために築いた胆沢城がイメージされている。

第2に,ガドルフには賢治が投影されている。「百合の花」に喩えた賢治の恋人は,『春と修羅』執筆時の相思相愛になった女性がイメージされている。

第3に,嵐で折れて「しのぶぐさ」の上に横たわる「百合」とは,反対されても賢治について行こうとする恋人がイメージされている。

第4に,文末の「俺の百合は勝ったのだ」の「百合」は,「勝ち誇った百合の群れ」ではなく,ガドルフの脳裏に浮かぶもう一群れの幻覚とも思える「貝細工の百合」である。「貝細工の百合」は法華経への信仰を意味する。

第5に,夢の中で争う二人の男は,東北に侵攻してきた朝廷側の男(坂上田村麻呂)と朝廷に「まつろわぬ民」として最後まで抵抗していた先住民側の男(アテルイ)がイメージされていると思われる。賢治と相思相愛の恋人との恋は,京都に都を置く朝廷側と東北の「先住民」の歴史的対立が原因の一つとなって破局したことが示唆されている。

第6に,この物語は,文末でガドルフが〈恋〉よりも〈宗教〉を選んだかのように結論づけられているが,最後の「しばらくの間,しんとして斯う考へました。」という1行でガドルフの決断は一時的な「迷い」から生じたということが示唆されている。多分賢治は,〈恋〉か〈宗教〉かの選択では生涯迷い続けていたと思われる。

 

参考文献                 

石井竹夫.2017.宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に登場するケンタウルス祭の植物と黄金と紅色で彩られたリンゴ(前編・中編・後編).人植関係学誌.16(2):21-37. https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/06/19/150445

石井竹夫.2018a.宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の発想の原点としての橄欖の森-カムパネルラの恋(前編・中編・後編)-.人植関係学誌.17(2):15-32.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/06/11/162705

石井竹夫.2018b.宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の発想の原点としての橄欖の森-ケヤキのような姿勢の青年(前編・後編)-.人植関係学誌.18(1):15-23.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/06/12/143453

石井竹夫.2018c.宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の発想の原点としての橄欖の森-リンドウの花と母への強い思い-.人植関係学誌.18(1):25-29.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/07/03/184442

佐藤勝治.1984.宮沢賢治 青春の秘唱“冬のスケッチ”研究.十字屋書店.東京.

 

本ブログは,宮沢賢治研究会発行の『賢治研究』146号16-30頁2022年(3月31日発行)に掲載された自著報文「植物から『ガドルフの百合』の謎を読み解く-宗教と恋のどちらがより大切か(下)-」(投稿日は2020年6月1日 種別は論考)に基づいて作成した。ブログ題名は(下)をさらに第4稿と第5稿と第6稿の3つに分けているので変更した。また,ブログ掲載にあたり一部内容を改変した。

 

賢治と恋人との恋の顛末は寓話『シグナルとシグナレス』で詳細に記載されているように思われる。当ブログでは「シグナルとシグナレスの反対された結婚 (1) -そのきっかけはシグナレスが笑ったから-」で解説した。https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2022/01/16/145446

また,本ブログテーマと関連するものとして以下の記事も書いている。「自分よりも他人の幸せを優先する宮沢賢治 (3)-それによって築いたものは蜃気楼にすぎなかったのか-」https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2022/01/03/085451