宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』-アワとジョバンニの故郷(2)-

Keywords: アイヌ,文学と植物のかかわり,エミシ,慈悲心鳥,縄文人,ヒノキとヒバ,いじめ,クジラ,まっくらな巨きなものの正体,サガレン,先住民

 

前報(石井,2019b)で,活版所の技術者達がジョバンニの粟粒のような活字を「ピンセット」で拾う動作に対して「冷たく笑う」のは,合理主義と高度な科学技術を身に着けた活版所の技術者達(移住者側である町の人)が,この動作に「先住民」(アイヌ)が時代の流れについてゆかず古くからある慣習を守り続ける姿を連想し,それを理解することができないばかりか見下し蔑視したからであるということを報告した。

 

この「先住民」の後進性は,「先住民」の民族としての「誇り」と表裏一体をなすものだが,「先住民」の「移住者」(宮沢一族)に対する「疑い」や「反感」の共同体意識(「まっくらな巨きなもの」)とも密接に関係している。しかし,なぜ,賢治がこの共同体意識を「まっくらな巨きなもの」と呼んだのかに関してはまだ明らかにされていない。本稿では,この賢治の恋の破局の要因ともなった「まっくらな巨きなもの」と命名した理由とその正体についての詳細を検討するとともに,「先住民」であるジョバンニの故郷(ルーツ)を明らかにしていきたい。

 

1.「まっくらな巨きなもの」は「クジラ」

「まっくらな巨きなもの」という言葉は,かつて「東北」の「先住民」であった「蝦夷(エミシ)」が住んでいた土地の地形図(あるいは地質図)や「蝦夷」の漢字の読み方に由来すると思われる。「東北」の東部に位置し,標高1600mを超える早池峰山薬師岳と1400m以下の「種山ヶ原」を含む準平原の「北上高地」から成る「北上山系」は,この地形を鳥瞰して上空から見れば北端は青森県八戸市付近,南端は宮城県牡鹿半島にいたる「紡錘形」の形(南北240km余,東西の最大幅80km余)をしている。この「紡錘形」の山系は,北端側で大きく膨れているので見ようによっては巨大な魚のシルエットに見える。あるいは,水生の哺乳動物である「クジラ」(英語名はWhale)と言ってもいいかもしれない(第1図)。「クジラ」は,外見上,体色も黒が多いので「まっくらな巨きなもの」である。

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第1図.クジラの姿に見える北上山系

賢治は,地形を動物に準えることがある。賢治は,童話『サガレンの八月』で「チョウザメ(蝶鮫)」(チョウザメ科の硬骨魚類)を登場させているが,これは賢治研究家の浜垣(2018)によれば,賢治がサハリン(樺太,古くはサガレン)の地形と「チョウザメ」の形が類似していることを認識していたからだと報告している。『サガレンと八月』では,主人公の「アイヌ」の子と思われるタネリが母の言う「タブー(禁忌)」を破ったために,サガレンの「先住民」である少数民族の「ギリヤーク」(ニヴヒ;Nivkhi)の犬神によって海の底に連れていかれ蟹の姿にされて「チョウザメ」の下男として幽閉されてしまう物語である。

賢治の地形から「蝦夷(エミシ)」の住む土地を「クジラ」と命名する方法は「アイヌ」の地名の付け方と似ている。「アイヌ」にとって川や谷等の自然に名前を付けるということと,地形を認識することは同じと見做されている(吉本ら,1995)。北海道や「東北」の地名には「ナイ」と「ペッ」で終わる地名が数多くある。表記は「内」と「別」である。「ナイ nai」は「小さな川,または沢」で「ペッ pet」は「大きい川」の意味である。例えば,ホロナイは「ホロ」が「大」,「ナイ」が「沢」なので大きな沢のある所という意味になる。

 

また,「東北」では「クジラ」を神格化して「恵比寿」の化身として「エビス」と呼んでいたが,この「エビス」という名は大和朝廷側の「蝦夷」に対する呼び名でもあった。大和朝廷側は,「東北」のかつての「先住民」である「蝦夷」の呼称として「エミシ」を主に使ったが(北海道の「先住民」に対しては「蝦夷(エゾ)」),それ以外に「エビス」を使った時期もあった(高橋,2012)。

 

賢治は,多分「東北」の「北上山系」にかつて住んでいた「蝦夷(エミシ)」の末裔を物語で記載しようとしたとき,「アイヌ」の命名法に真似て「蝦夷(エミシ)」の住んでいた大地の地形図から,また「蝦夷」の呼称の由来から「くじら」と表現したように思える。そして賢治に「疑い」や「反感」を持つ昔「蝦夷(エミシ)」と呼ばれた「先住民」の共同体意識を「まっくらな巨きなもの」と呼んだのである。

 

1)「クジラ」は獣か

童話『銀河鉄道の夜』の第一次稿と第二次稿で,先住民側の恋人が投影されている「女の子」と,賢治が投影されている移住者側のカムパネルラが「クジラ」について会話する場面がある。

 「海豚(いるか)だなんてあたしはじめてだわ。けどこゝ海ぢゃないでせう。」

「いるかは海に居るとはきまってゐない。」あの不思議な低い声がまたどこからかしました。      

 (中略)

「いるかお魚でせうか。」女の子がカムパネルラに話しかけました。男の子はぐったりつかれたやうにまた席にもたれて眠ってゐました。

「いるか魚ぢゃありません。くじらと同じやうなけだものです。」カムパネルラが答えました。

「あなたくじら見たことあって。」

「僕あります。くじら,頭としっぽだけ見えます。潮を吹くと丁度本にあるやうになります。」

「くじらなら大きいわね。」

くじら大きいです。子供だっているかぐらゐあります。

(『銀河鉄道の夜』 宮沢,1985) 下線は引用者

「女の子」が「イルカ」を見て,「けどこゝ海ぢゃないでせう」と疑問を投げかけると不思議な低い声の者が「いるかは海に居るとはきまってゐない」と答える。その後また「女の子」が「いるかお魚でせうか」と尋ねると,こんどはカムパネルラが「いるか魚ぢゃありません。くじらと同じやうなけだものです」と答える。「獣(けだもの)」とは全身が毛で覆われていて,四つ足で歩く動物のことである。「クジラ」も「イルカ」も体毛はほとんどない。

 

すなわち,「動物」であるが「獣」ではない。カムパネルラが単に「動物」と答えずに,海以外にもいると思われるが,「獣」と答えたのには何か別の意味があるのかもしれない。歴史上(乙巳の変)に登場する人物として蘇我入鹿(いるか)がいるが,彼の父は蘇我蝦夷(えみし)である(東北の「蝦夷(エミシ)」とは直接の関係はないとされる)。カムパネルラが「クジラ」と「イルカ」を「獣」と答えた本当の理由はこの史実と関係があるのかもしれない。

 

賢治は1931年頃に文語詩を作るにあたって,自身の年譜を本編(1〜42頁)とダイジェスト版(43〜50頁)があるノート(「文語詩篇ノート」)に作成している。年譜の内容は,「1909年盛岡中学二入ル」に始まって,1915〜1917年の盛岡高等農林時代とその後の研究生時代を経て1921年の出京,国柱会,花巻農学校に就職と続くが,1921年11月の妹の死と1921〜1924年までの恋人との恋が記されるはずのページがダイジェスト版では空白になっていた(1922〜1924年の間の書簡類もほとんど残されていない)。さらにその次の頁では,同じような文字が繰り返し書きなぐられ一面まっ黒になるほど字で埋め尽くされていた。

 

繰り返されている言葉は,第1に「人にしられずに来る」,第2に「これやこの行くもかへるもわかれては知るも知らぬも逢坂の関」,第3に「岩のべに小猿米焚く米だにもたげてとふらせ」の3つである。賢治研究家の澤口たまみ(2010)は,この3つの言葉は,賢治が恋人との恋が完全に破局してから8年(破局した年を入れて)が過ぎているにも関わらず,まだ恋人の思い出と冷静に向き合えずにいたことの証拠の1つであろうと推測している。

 

第1の言葉に関して澤口は,1927年5月7日の日付のある詩〔古びた水いろの薄明窮のなかに〕の「恋人が雪の夜何べんも/黒いマントをかついで男のふうをして/わたくしをたずねてまゐりました」(1922年冬〜1923年春頃の出来事)に対応していると思われるので賢治の恋人のことであろうと推測した。しかし,これ以外の言葉に関しては不問にしている。

 

第2の言葉は百人一首に記載されている蝉丸の和歌である。「逢坂の関」は都(京都)と東国や北国を結ぶ北陸道東海道などが交わる交通の要所であり,京都防衛のための関所である。これは著者の推測であるが,京都にルーツを持つ賢治自身のことを言っていると思われる(宮沢一族は京都からの移住者の末裔)。

 

そして第3の言葉は『日本書紀』に記載されている童謡(わぎうた)である「岩の上に小猿米焼く米だにも食げて通らせ山羊の老翁」のことで,蘇我入鹿聖徳太子の一族(上宮王家)を滅ぼそうとしていることの風刺である。この童謡の「岩の上に」が上宮で,「子猿」が入鹿である。入鹿は,蝦夷の子である。すなわち,自ら書いた年譜のダイジェスト版のまっ黒に塗りつぶされた頁には,賢治と恋人のそれぞれの「出自」(ルーツ)が記載されている。また,年譜の本編の破局した頃の頁には「石投ゲラレシ家ノ息子」の記載もある。多分,この二人の「出自」の違いが長い間賢治を悩ませたものであり,また破局の要因の1つになったものと思われる。 

 

賢治がこの史実(乙巳の変)を念頭に置いてカムパネルラに「クジラ」を「獣」と答えさせているとすれば,古代の大和朝廷側の人達が「東北」の「蝦夷(エミシ)」を斉明記(元年は656年)頃まで「毛人」(体毛が多いこと,あるいは毛皮を着ていたことによって付けられたとする説がある)と記して「エミシ」と呼んだのと同じように,物語でも移住者側に設定されているカムパネルラに,「東北」の「先住民」である「蝦夷(エミシ)」(=クジラ)の子孫達を「毛人(エミシ)」すなわち「獣」であると言わせたようにも思える。

 

カムパネルラが発する「獣」という言葉には「先住民」の示す「疑い」や「反感」に対する対抗の意味も含まれていると思われるが,先住民側を見下す蔑視の感情も入っていたことも否定できない。これは,カムパネルラに賢治が投影されているとすれば,賢治自身にも当てはめられる。

 

賢治も完全に破局した1年後に書いた詩集『春と修羅 第二集』の詩〔はつれて軋る手袋と〕(1925.4.2)に,「板やわづかの漆喰から/ 正方体にこしらえあげて/ ふたりだまって座ったり/ うすい緑茶をのんだりする 」という「小さな家の中で二人でお茶を飲む」というふうな慎ましい恋人との生活を「嘲けるような」ことをしたということを告白している。そして,「ことさら嘲けり払ったあと/ここには乱れる憤りと/病ひに移化する困憊ばかり 」と「恋人を傷つけてしまった」という後悔と自責の念を独白している。

 

2)ジョバンニに付きまとうザウエルという名の犬は「クジラ」の比喩

童話『銀河鉄道の夜』の第三次稿と第四次稿では「まっくらな巨きなもの」に相当する「クジラ」は登場しないが,第四次稿だけだが「クジラ」の英名(ホエール;Whale)を連想させる「ザウエル」という名の犬が登場してくる。第四章「家」に以下の記載がある。

 「いまも毎朝新聞をまはしに行くよ。けれどもいつでも家中まだしいんとしてゐるからな。」

「はやいからねえ。」

「ザウエルといふ犬がゐるよ。しっぽがまるで箒のやうだ。ぼくが行くと鼻を鳴らしてついてくる。もっとついてくることもあるよ。今夜はみんなで烏瓜のあかりを川へながしに行くんだって。きっと犬もついて行くよ。」

(『銀河鉄道の夜』 宮沢,1985)下線は著者

「ザウエル」という犬はジョバンニの行くところならどんな所へでも鼻を鳴らしてついて行く。この犬が「クジラ」を指しているとすれば,歌を歌うことが知られているザトウクジラ(ナガスクジラ科;Megaptera novaeangliae Borowski,1781)のことをイメージしているのかもしれない。「先住民」の「蝦夷(エミシ)」(=「クジラ」)の比喩でもある「ザウエル」という名の犬がジョバンニとカムパネルラの二人を,あるいは賢治と恋人の「逢瀬」を監視している様子が描かれているものと思われる。

 

3)「双子の星」で二人を海底に落とす彗星は「空のクジラ」

「クジラ」のことと賢治と恋人の二人の関係のことは童話『双子の星』でも描かれている。双子であるチュンセ童子とポウセ童子の二人は,ある晩に「彗星」(ほうきぼしのルビ有)にそそのかされて旅に出ることになった。二人は「彗星」の尻尾につかまって出発するのだが,途中で「俺のあだなは空のくじら」というように「クジラ」でもある「箒星」に「天の川」の「落ち口」から海の底に落とされる。

   「それぢゃ早く俺のしっぽにつかまれ。しっかりとつかまるんだ。さ。いゝか。」

 二人は彗星のしっぽにしっかりつかまりました。彗星は青白い光を一つフウとはいて云ひました。

 「さあ,発つぞ。ギイギイギイフウ。ギイギイフウ。」

 実に彗星は空のくじらです。弱い星はあちこち逃げまはりました。もう大分来たのです。二人のお宮もはるかに遠く遠くなってしまひ今は小さな青白い点にしか見えません。

 チュンセ童子が申しました。

「もう余程来たな。天の川の落ち口はまだだらうか。」

 すると彗星の態度がガラリと変わってしまひました。

「へん。天の川の落ち口よりもお前らの落ち口を見ろ。それ一(ひ)い二(ふ)の三(み)。」

 彗星は尾を強く二三遍動かしおまけにうしろをふり向いて青白い霧を烈しくかけて二人を吹き落としてしまひました。

(『双子の星』 宮沢,1985)下線は著者

前報(石井,2019a)でも報告したようにチュンセ童子は賢治が,ポウセ童子は恋人がそれぞれ投影されているとすれば,この物語は「蝦夷(エミシ)」あるいはその末裔の比喩でもある「彗星(空のくじら)」に賢治と恋人の二人が海底(奈落の底)に突き落とされたという悲恋の物語でもある。二人が掴まっていた「空のくじら」の尻尾は,「クジラ」の形をしている「東北」の北上山系では「種山ヶ原」辺りを指すものと思われる。「種山ヶ原」で二人の愛は育まれ,詩集『春と修羅』の中で沢山の詩が創作された。引用文はさらに「二人は,落ちながらしっかりお互いに肱をつかみました。この双子のお星さまはどこ迄でも一緒に落ちようとしたのです。」と続く。 

 

ここで注目すべきことは,二人が「空のくじら」によって「天の川(銀河)」から落とされたときの「落ち口」である。「空のくじら」は二人に「天の川の落ち口よりもお前らの落ち口を見ろ」と言う。「天の川」の「落ち口」は,童話『銀河鉄道の夜』では「石炭袋」(coalsack)のことを指している。「石炭袋」は「南十字星」(southern cross)としても知られる南十字座にある暗黒星雲である。地上から観測した場合,暗黒星雲に含まれる塵やガスによって背景の星や銀河などの光が吸収され,あたかも黒い雲のように見える。

 

では「お前らの落ち口を見ろ」の「落ち口」とは何処であろうか。多分,この「落ち口」こそ,あの「まっくらな巨きなもの」であり「主義とも云はず思想とも云はず/たゞ行はれる巨きなもの」であろう。二人は「クジラ」(=「蝦夷(エミシ)」と呼ばれた「先住民」の末裔達)に「まっくらな巨きなもの」,すなわち賢治(あるいは宮沢一族)に「疑い」や「反感」をもつ彼らの共同体意識の中に落とされた。「空のくじら」である「彗星」は別名が「ほうきぼし(箒星)」であるので,「クジラ」の比喩である「ザウエル」と言う名の犬の尻尾が「箒のよう」でもあるという記載も肯ける。

 

2.賢治に「疑い」や「反感」を持つ「先住民」の深層意識

1)金田一による資料から

賢治に「疑い」や「反感」を持つかつて「蝦夷(エミシ)」と呼ばれていた人達とはどのような性格の人達だったのであろうか。古代の「蝦夷(エミシ)」は文字を持たなかったとされているので蝦夷側の記録としてはほとんど残されていない。「古代蝦夷」の人達の共同体意識であるその深層意識を知るためには,「蝦夷(エミシ)」=「アイヌ」として,金田一(1993)が樺太アイヌや北海道アイヌの「ユーカラ」などの伝記を基に「アイヌ」の「種族性」(和人との違い)について調べていたものがあるので,少し大和民族側からの見方が強調され過ぎていて公平さを欠くきらいはあるが,それを参考にしたい。

 

金田一(1993)は,「アイヌ」(多分「エミシ」も)には以下の5つの特徴があるということを報告している。第1に,名誉や名声を大切にする。第2に,情に篤く,愛情に富み,涙脆い。いわば「頑強な体に弱い心の所有者」である。第3に,「事大主義」であり,自分の信念を持たずに支配的な勢力や風潮に迎合する。第4に,利欲に蛋白で,貧困に陥っても無理に富を求めずに貧しい生活に甘んじてしまう。また,「アイヌ」の社会は四民平等の社会なので立身の出世という野心も起こり得なかったのである。第5に,これが一番の欠点であるが,気が弱く,気兼ねし,気を廻し過ぎるので猜疑心が生じ,「外」に対しては「疑い深い」とともに「内」には「反目嫉視(しっし)」をする

 

従って大同団結することはなく国家生活を知らなかった。その結果あるいは原因かもしれないが家族的な愛の濃やかさには似ずに「公衆の愛」というような現れは認めがたく,慈母孝子の感情があっても公正の感情,公明な感情というものは遅れていたようである。また,祖先崇拝の一面が党同伐異の風を醸成し,祖先を異にする部落の間に絶え間ない争いを引き起こすことにもなったのである。これらが今日主義の低い生活程度に止まり,専業ということなしに,誰もが同じ生活を繰り返すから文化の進歩が遅かったのである(下線は著者)。

 

前報でも述べたが,梅原(1994)によれば,現代の東北の文化にも,その根底には狩猟採集民である「蝦夷(エミシ)」の文化が色濃く残されているという。それゆえ,「古代蝦夷(エミシ)」との関係が深い「アイヌ」の種族としての特徴は,賢治の生きた時代の「蝦夷(エミシ)」の末裔である東北人にも少なからず受け継がれていると思われる。

 

2)バードの紀行文から

また,英国女性で旅行家のバード(Isabella L. Bird)の『日本奥地紀行』(初版は1880年)には,1878年6月に北海道の幌別,白老,湧別,平取等のアイヌ集落を訪れた様子が記載されている(バード,2000)。彼女の紀行文の中から「アイヌ」の性格に関して記載されている文章を金田一に見習って列記してみる。

 

第1に,アイヌ人は誠実であるという点を考えるならば,わが西洋の大都会に何千という堕落した大衆がいる。彼らはキリスト教徒として生まれて,洗礼を受け,クリスチャン・ネームをもらい,最後には聖なる墓地に葬られるが,「アイヌ」の人の方がずっと高度で,ずっと立派な生活を送っている。全体的に見るならば,アイヌ人は純潔であり,他人に対して親切であり,正直で崇敬の念が厚く,老人に対しては思いやりがある。 

 

第2に,一般に日本人の姿を見て感じるのは堕落しているという印象である。このような日本人を見慣れた後にアイヌ人を見ると,非常に奇異な印象を受ける。私が今まで見たアイヌ人の中で,二人か三人を除いて,すべてが未開人の中で最も獰猛そうに見える。その体格はいかに残忍なことでもやりかねないほどの力強さに満ちている。ところが彼らと話を交わしてみると,その顔つきは明るい微笑に輝き,女のように優しいほほえみとなる。

 

第3に,彼らの宗教的儀式は,大昔から伝統的な最も素朴で最も原始的な形態の自然崇拝である。漠然と樹木や川や岩や山を神聖なものと考え,海や森や火や日月に対して,漠然と善や悪をもたらす力であると考えてきている。彼らは太陽や月を崇拝し《しかし星は崇拝しない》,森や海を崇拝する。狼,黒い蛇,梟,その他いくつかの獣や鳥には,その名にカムイ《神》という語がつく。例えば,狼は「吠える神」であり,梟は「神々の鳥」,黒い蛇は「太陽神」である。雷《神鳴り》は「神々」の声であり,恐怖心を呼び起こす。太陽は彼らの最善の神であり,火はその次に善い神である,と彼らはいう。

 

第4に,彼らの生活は臆病で単調で,善の観念をもたぬ生活である。彼らの生活は暗く単調で,この世に希望もなければ,父なる神も知らぬ生活である。また,何事も知らず,何事も望まず,わずかに恐れるだけである。着ることと食べることの必要が生活の原動力となる唯一の原理であり,酒が豊富にあることが唯一の善である。彼らは儲けを全部はたいて日本酒を買い,それをものすごく多量に飲む。泥酔こそは,これら哀れなる未開人の望む最高の幸福であり,「神々のために飲む」と信じ込んでいるために,泥酔状態は彼らにとって神聖なものとなる。

 

第5に,「外」に対して疑い深いことである。彼らは,私が一人で食事をしたり休息するように,と言って退ったが,酋長の母だけは残った。その皺だらけの顔には人を酷しく疑う目つきがあった。私は,彼女がもしかしたら悪魔の眼をしているのではないかとさえ思った。いつもそこに座ってじっと見つめ,そして運命の三女神(人間の生命に糸を紡ぐという)の一人のように,樹皮の糸を絶えず結んで,彼女の息子の二人の妻や,織りに来た別の若い女たちを油断なく見守っている。彼女には老人ののんびりした休息はない。彼女だけが外来者を疑っている。私の訪問は彼女の種族にとって縁起が悪いと考えているのだ。

 

また金田一は触れていないが,第6に,他に征服され軽蔑されている民族と同じく,いつか遠い昔において彼らは偉大な国民であったという考えにしがみついている(下線は引用者)。である。

 

3)石橋らの資料から

昭和初期に「アイヌ」の性格を調べた石橋ら(1944)の報告によれば,金田一やバードが4番目と5番目に挙げたことと関連するが,ある長老の話として「備荒米の貯蔵をすすめ,年2斗の米を持参して全部落の「アイヌ」が一倉にそれを貯蔵することを納得せしめたが,彼らは結局実行しない。日用の薪や稗をその日その日に調へることをやめ,薪は一時に沢山切り,稗は一時に数日分を搗いて蓄へることをすすめても彼らは実行しない。それを責めるに,切った薪,搗いた稗のあることを近隣に知られれば,忽ち借りられてその返済を期し得ないからである」とある。また,「アイヌ」は,同属には開放的社交的だが,和人に対しては極めて臆病で抑制的であり,これが「猜疑」,「卑屈」、「危懼(きぐ)」(恐れ)の形で示されるということも報告している。

 

4)金田一,バード、石橋らに共通するもの

バードが3番目に挙げた「アイヌ」の宗教的行為ともとれる自然崇拝は,「東北」の農民と思える聴衆が賢治の自然開発に関する農事講和に対して「祀られざるも神には神の身土がある」と異議を唱えたことに通じるものがある(石井,2019b)。また,金田一やバードが4番目に挙げた「貧困に陥っても無理に富を求めない」や「暗く単調で,この世に希望もなく」,「何事も知らず,何事も望まず」という種族の特徴,あるいは石橋ら(1944)の報告した長老の話の中の特徴は,「アイヌ」が昭和初期まで「アワ」の穂を「ピパ」で刈り取っていたことを裏付けるし,「東北」の農民が賢治に示した「くらしが少しぐらゐらくになるとか/そこらが少しぐらゐきれいになるとかよりは/いまのまんまで」とか,「おれよりもきたなく/おれよりもくるしいのなら/そっちの方がずっといゝ」(詩集『春と修羅 詩稿補遺』にある「火祭」)という,西洋文明や合理主義に価値を持つものにとって,賢治も感じたかもしれない「向上心」も「同胞意識」も認められない「東北」の一部かもしれないが農民(「先住民」)の姿に通じるものがある。

 

これは,「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という賢治の理念とは程遠いばかりでなく全く逆の思考法でもある。さらに金田一(あるいはバード)が一番の欠点に挙げた5番目の「外」に「疑い深い」とともに「内」に「反目嫉視」する「先住民」の感情は,賢治が「先住民」に対して示したであろう蔑視の感情によりさらに増大したものと思われる。「外」とは賢治あるいは宮沢一族に,そして「内」とは恋人の家族に対してと考えると理解しやすいかもしれない。

 

多分,金田一やバードが挙げた「アイヌ」の第3と第4と第5の種族的特徴は,「東北」の「先住民」が賢治に示し,また賢治がどうしても動かすことができなかった「主義とも云はず思想とも云はず/たゞ行はれる巨きなもの」,すなわち封建的風土の中での「まっくらな巨きなもの」(=クジラ)の正体のように思われる。

 

ただ,バードが1〜2番目に挙げたように,合理主義の中で生きる西洋の大衆や西洋的文化や中国的文化を受け入れた(あるいは接触した)日本人が,そういうものを拒み続けた「アイヌ」に比べて堕落しているという評価は注目に値する。賢治もバードの紀行文を読んだかもしれないが,バードと同じように近代文明(あるいは弥生人の農耕文化)と接触する前の狩猟採取民の「アイヌ」(「エミシ」にも当てはまる)の共同体意識の深層部分,例えば自然の色々なものを崇拝したり共生したりと言った世界観には共感を持ったのかもしれない。

 

宗教的で詩的な「先住民」と技術的で合理的な「移住者」では文化あるいは価値観(あるいは下記で示す世界観)が異なるので,本来「先住民」と「移住者」の間で民族的な優劣はつけられないはずである。しかし,社会ダーウィニズム的適者生存が起こり,実際は「東北」あるいは北海道の「先住民(狩猟採取民)」は南からの「移住者(農耕民)」よりも「下位」あるいは<異物なもの>と見做され,服従させられた。多分,「先住民」が「外の者」に示す「疑い」や「反感」の共同体意識あるいは「無気力さ」のようなものは,バードが第6番目で言ったように,過去の栄光を忘れられない「先住民」が近代文明と接触し,長い間,蔑視や抑圧を受け続けた後に形成されたものかもしれない。

 

3.ジョバンニに付きまとうザネリとは

ジョバンニに付きまとうのは「ザウエル」という犬だけではない。同級生と思われるザネリもそうである。童話『銀河鉄道の夜』第四次稿では四章「ケンタウル祭の夜」に二人の仲を妬むかのように「新しいえりの尖ったシャツを着て」登場する。

  ジョバンニは,口笛を吹いてゐるやうなさびしい口付きで,檜のまっ黒にならんだ町の坂を下りて来たのでした。

 坂の下に大きな一つの街燈が,青白く立派に光って立ってゐました。ジョバンニが,どんどん電燈の方へ下りて行きますと,いままでばけもののやうに,長くぼんやり,うしろへ引いてゐたジョバンニの影ぼふしは,だんだん濃く黒くはっきりなって,足をあげたり手を振ったり,ジョバンニの横の方へまはって来るのでした。

 (ぼくは立派な機関車だ。ここは勾配だから速いぞ。ぼくはいまその電燈を通り越す。そうら,こんどはぼくの影法師はコンパスだ。あんなにくるっとまはって,前の方へ来た。)

とジョバンニは思ひながら,大股にその街燈の下を通り過ぎたとき,いきなりひるまのザネリが,新しいえりの尖ったシャツを着て電燈の向ふ側の暗い小路から出て来て,ひらっとジョバンニとすれちがひました。

 「ザネリ,烏瓜ながしに行くの」ジョバンニがまださう云ってしまはないうちに,

 「ジョバンニ,お父さんから,らっこの上着が来るよ。」その子が投げつけるやうにうしろから叫びました。

 ジョバンニは,ぱっと胸がつめたくなり,そこら中きいんと鳴るやうに思ひました。

 「何だい。ザネリ。」とジョバンニは高く叫び返しましたがもうザネリは向ふのひばの植った家の中へはひってゐました。

 「ザネリはどうしてぼくがなんにもしないのにあんなことを云ふのだらう。走るときはまるで鼠のやうなくせに。ぼくがなんにもしないのにあんなことを云ふのはザネリがばかなからだ。」

(四,ケンタウル祭の夜;宮沢1985)下線は引用者

ザネリは,「ジョバンニ,お父さんから,らっこの上着が来るよ」といってジョバンニをからかうが,ジョバンニもザネリに対して「鼠のやう」だといって反撃する。物語ではザネリとジョバンニは仲の良くない同級生として描かれているが,このザネリとはどういう人物であろうか。

 

ここでこの引用文に登場する植物(特に樹木)に注目してみたい。「檜」と「ひば」がでてくる。「ヒノキ」(Chamaecyparis obtusa Sieb.et Zucc. )は,ヒノキ科ヒノキ属の針葉樹のことで在来種である。「ヒバ」はヒノキ科の常緑高木で,ネズコ属,アスナロ属の全ての変種を含めた総称である(原,1999)。

 

物語に登場する「ひば」を特定するには,「ひば」が出てくる文章のすぐ後の「走るときはまるで鼠のやうなくせに」といっているのがヒントになる。材が鼠色に近い「ネズコ」(ヒノキ科;Thuja standishii Car.),あるいは葉が尖っているので葉を鼠の通り道に置いて鼠を通れなくするのに使う別名がネズミサシの「ネズ」(ヒノキ科;Juniperus rigida Sieb.et Zucc.)であろう。

 

「ネズコ」も,「スギ」と同様に在来種である。「ネズコ」や「ネズ」は庭園樹に使うことがある。「ネズコ」は陰樹で幼樹の耐陰性が強く湿気の多い処でも育つ。イメージ的には「ネズコ」は陰樹で材は鼠色で陰湿なザネリと重なる。また,童話『氷河鼠の毛皮』に登場する陰湿で金持ちの「タイチ」を連想させる。物語を地形図と照らし合わせて見ると,「ヒノキ」が高い所に生えていて,坂を下ったじめじめしたような所にザネリの家が有り,「ヒバ」が植えられている。賢治はザネリの陰湿さを植物の「ネズコ」で表現したかったのかもしれない。

 

賢治の先住民側の恋人はすらっと背が高く在来種の「スギ」をイメージできるとしたが(石井,2018),「ネズコ」も同じヒノキ科で在来種であるので,賢治は「ひばの植った家」に入ったザネリもまた先住民側の人物として登場させたように思える。しかし,ザネリは先住民側ではあるが「新しいえりの尖ったシャツを着て」とあるように裕福な家庭の子供としている。

 

「東北」にかつて住んでいた「先住民」は最後まで技術的で合理的な農耕文化を拒否し大和朝廷に抵抗した「まつろわぬ民」としての「蝦夷(エミシ)」以外に「俘囚(フシュウ)」と呼ばれた人達がいた。「俘囚」は7世紀から9世紀まで断続的に続いた朝廷と「蝦夷(エミシ)」の戦争で,朝廷へ帰属した「蝦夷(エミシ)」である。朝廷から優遇措置や高い地位などを得た安部氏,出羽清原氏奥州藤原氏などがいる。「蝦夷(エミシ)」にも純粋な「蝦夷(エミシ)」とそうでない「蝦夷(エミシ)」(=俘囚)がいる。

 

多分,賢治はこの「東北」のかつての「先住民」であった比較的裕福な「俘囚」の人達をイメージしてザネリを登場させたように思える。物語でも純粋な「蝦夷(エミシ)」の末裔と思われるジョバンニが在来種の「ヒノキ」のある坂を下っていた時,電燈で映し出された「先住民」である自分の影が電燈を通り過ぎて,「くるっとまはった」ときに暗い路地からザネリが登場する。

 

蝦夷(エミシ)」と同様に長い間農耕を拒否し続けた北海道の「アイヌ」もまた「和人」(移住者)から「差別」の対象であり続けたし,現在もなお多くの「差別」が現実の問題として存在するという。

 

その1つが本稿のテーマと重なる「アイヌ」による「民族内差別」である。北海道大学の濱田(2012)は,この「民族内差別」に注目して121人のアイヌ民族の人達にインタビューした結果を報告している。濱田によれば「民族内差別」には「階層的差異」と「血の濃さ」による「差別」が存在するという。

 

家庭の経済的な環境などの違いによる「いじめ」は「アイヌ」に限る話ではないが,「アイヌ」としての「血の濃さ」あるいは「血の薄さ」によって他者を差異化し,「差別」の対象とすることが行われてきたことは注視する必要がある。この「血の濃さ」による「差別」は子供同士の間で行われていたようである。例えば,「同じアイヌでも血が濃いということで,アイヌアイヌといじめられた」あるいは「家が漁師だったので,他のアイヌの子にいじめられた」などである。一般的には,「アイヌ」の「血が薄い」方が「血が濃い」方を差別の対象にするようである。童話『銀河鉄道の夜』でも比較的裕福な「先住民」(血が薄い)と思われるザネリが貧しい同じ「先住民」(血が濃い)の漁師の子であるジョバンニを「いじめ」の対象にしている。

 

4.ジョバンニの故郷

1)「蝦夷(エミシ)」の故郷

「東北」のかつて「大和朝廷」から「蝦夷(エミシ)」と呼ばれていた人達は,最初から「東北」に住んでいたのであろうか。金田一(2004)は,前述したように「東北」の「蝦夷(エミシ)」は「蝦夷が島から本州の北部へ下りて来たアイヌ族に外ならない」とも言っている。また,「アイヌ」は樺太南部にも住んでいて,金田一はこの樺太に「アイヌ」の古い方言が残っているとして1907年に調査に出かけている。多分,賢治も金田一から影響を受けて,東北の「蝦夷(エミシ)」は「蝦夷が島(北海道)」やさらに北方の「サガレン(樺太)」にルーツに持つ人達だったと思ったのかもしれない。

 

賢治の未定稿の文語詩の中にそのことを伺わせる詩として「製炭小屋」というのがある。製作時は不明であるが文語詩なので賢治の晩年の作であろう。自分自身を林業従事者の「そま(杣)」に投影させて,肺結核に病み死に直面した晩年の心境を吐露しているように思える。この詩は,歌稿〔B〕第七葉,短歌34の下部余白に「岩手山麓の谷の炭焼き小屋,その老人,カラフトの話・・・・」という題材メモを基にしている。「製炭小屋」の下書稿(一)の「谷」と表題がついている作品には以下の語句が並ぶ。

 木炭窯の火をうちけみし

花白き藪をめぐりて

面痩せしその老のそま

たそがれを帰り来りぬ

 

「よべはかの慈悲心鳥(じふいち)の族

よもすがら火をめぐり鳴き

崖よりは朽ちし石かけ

ひまもなくまろび落ちにき」

 

ぜんまいの茂みの群も

いま黒くうち昏れにつゝ

焼石の峯をかすむる

いくひらのしろがねの雲

 

いま妻も子もかれがれに

サガレンや 夷ぞ(えぞ)にさまよひ

われはかも この谷にして

たつきと 死を待つのみ

 

とろとろと赤き火を燃し

くろなる樺や柏に

瞳(まみ)赤くうち仰ぎつゝ

老のそま かなしく云ひぬ

(宮沢,1996)下線は著者

この下書稿の詩に登場する「慈悲心鳥」とは,賢治が「じふいち」とルビを振ったように「ジュウイチ(十一)」というカッコウ科に分類される鳥(Cuculus fugax Horsfield,1821)のことである。和名は雄の鳴き声に由来する。日本ではオオルリなど他の鳥の巣に卵を産み(托卵),その親鳥に雛を育てさせることをする。童話『銀河鉄道の夜』では,七章「北十字とプリオシン海岸」で列車が「白鳥の停車場」に「十一時かっきりに着く」が,鳥の「ジュウイチ」はこの時刻の「十一」と発音が同じで,また恋人の家族の名前(シュウイチ)とも似ている。この「白鳥の停車場」の場面でジョバンニとカムパネルラの「出自」の秘密が解き明かされるが,前報ではギリシャ神話の「双子座」と「白鳥」にまつわる話を基に二人の「双子性(兄弟)」と「異なる父性」について説明した(石井,2019a)。

 

賢治は,詩の後半部の括弧内で「いま妻も子もかれがれに/サガレンや 夷ぞ(えぞ)にさまよひ/われはかも この谷にして/いたつきと 死を待つのみ」と独白している。賢治は,米国で亡くなった恋人の「魂」と,ありえたかもしれない結婚とその結果生まれたであろう二人の間の子供の「魂」が大和朝廷に最後まで抵抗した「蝦夷(エミシ)」の「魂」の故郷でもある「サガレン(樺太)」や「蝦夷(エゾ)」に彷徨っている姿を岩手山麓の谷に住む「杣(そま)」(林業従事者)に重ねて想像しているように思える。

 

思想家で賢治研究家の吉本(2012)が,1996年6月28日に『賢治の世界』というタイトルで講演したとき,賢治の詩集『春と修羅』第一集は,難解であり「自分と自然とが一体になっちゃって溶け合っている状態を根本に置かないと」理解しがたく,それは「北方的なんですよね。要するに東北的であったり,蝦夷的であったり,もっと言えばアイヌ的であったりというように,いずれもアジア的な社会になる前の日本列島に存在した人たちの感覚というのに大変よく似ている」とし,さらに詩集『春と修羅』第一集が「蝦夷的」であったり,「アイヌ的」であったりするのは「北方」への関心が強かったからと述べていた。

 

賢治研究家の秋枝(1996,2017)は,この詩集『春と修羅』第一集と同時期に書かれた寓話『土神ときつね』に,また宗教学者で思想家の中沢(2002)は童話『氷河鼠の毛皮』に賢治の北方志向を感じ取っている。

 

著者も吉本らと同じように,詩集『春と修羅』の出版直後に創作された童話『銀河鉄道の夜』は「東北的」であり,「アイヌ的」であると感じた。『銀河鉄道の夜』は死の直前まで推敲が重ねられた作品である。賢治が生涯を閉じるまで北方に強い関心を寄せたのは,「サガレン(樺太)」や「蝦夷(エゾ)」が相思相愛の恋人あるいは「東北」のかつての「先住民」である「蝦夷(エミシ)」の「魂」の故郷だと感じたからと思われる。

 

賢治は,1923年(7月31日〜8月12日)に教え子の就職依頼を名目に北海道経由で樺太旅行をしている。就職依頼は1日だけで他の日程は不明とされている。この旅行は亡くなった妹トシの「魂」の行方を捜す旅というのが有力な説であるが,恋人の故郷(ルーツ)であり近代文明との接触が少ない北海道や樺太の「アイヌ」を訪ねて,「蝦夷(エミシ)」と比較する中で「まっくらな巨きなもの」の正体を見極めることもその目的の1つだったと思われる。

 

2)「アイヌ」と「縄文人」の世界観

賢治は,「疑い」や「反感」を示す「まっくらな巨きなもの」を避けたが,「蝦夷的」あるいは「アイヌ的」なものを「否定」してはいない。「アイヌ」は,吉本が言う「アジア的な社会になる前の日本列島に存在した人たち」(本来の日本人)すなわち狩猟採取民の「縄文人」がほとんどその形質を変えずに伝え続けた人達であろう。縄文時代において東日本の人口は日本の人口の9/10を占めていて,縄文中期,晩期にいたっては「東北」は日本の文化の中心であった(梅原,1994)。

 

その縄文人が1万年間にもわたって維持し続けたものは,考古学者の大島(2017, 2018)によれば,第1に資源を獲(採)り過ぎない経済観,第2に自然を神(カムイ)として畏敬し共存する自然観,第3に決して争わない社会観だとしている。「アイヌ」は,動植物や自然現象などあらゆるものに「カムイ」が宿っているとする。これらの結論に導いたものは,縄文の社会が「技術的な革新」や「生産力の拡大」あるいは「社会の拡大」といったことに大きなエネルギーを使った形跡がなかったことによるとしている。2018年に東京国立博物館で開催された特別展(「縄文-1万年の美の鼓動」)には35万人の入場者数があり,日本人の「縄文」に対する関心の高さが伺われた。

 

大島が述べた「縄文人」や「アイヌ」の世界観が真実だとして,「アイヌ(=蝦夷)」が海峡で隔離された北海道や本州の辺境の地である「東北」の中で長きにわたって維持してきたこれら世界観も,交通機関が発達し絶大な力を有する近代文明と接触する機会が増えれば否応なく修正を余儀なくされるのは必至である。本州と地続きの「東北」の「蝦夷(エミシ)」はなおさらである。

 

縄文人」の「資源を獲り過ぎない」や「自然との共存」の世界観は,「蝦夷(エミシ)」の末裔と思われる農民の「くらしが少しぐらゐらくになるとか/そこらが少しぐらゐきれいになるとかよりは/いまのまんまで」,あるいは「おれよりもきたなく/おれよりもくるしいのなら/そっちの方がずっといゝ」(詩集『春と修羅 詩稿補遺』の「火祭」)という「主義とも云はず思想とも云はず/たゞ行はれる巨きなもの」に変えられてしまったのかもしれない。しかし,大島(2018)が指摘しているように,「縄文人」は,合理主義や科学技術の発達による「物質的な豊かさ」よりは自然(動植物鉱物)との共生を果たすための「精神的な豊かさ」を多く望んだと考えられている。自然に手をかけ過ぎないように沢山の「タブー(禁忌)」を作り,生活を律するために「儀礼」も多く,自然から頂き物をするたびに感謝の「祭祀」も欠かさなかった。これは「東北」の狩猟民である「マタギ」にも言えることである。

 

賢治は,前述したように,この非合理で非生産的だが「精神的な豊かさ」をもたらす「縄文人」や「アイヌ」あるいは物質文明に取り込まれる前の「蝦夷(エミシ)」の宗教的な世界観に共感したと思われる。この世界観が賢治の言う「ほんたうのさいはひ」に導くものかどうかは分からない。しかし,恋人への「思い」も強かったので積極的に作品の中に取り入れようとした。これが賢治の作品を「北方的」,「東北的」,「蝦夷的」あるいは「アイヌ的」にしたものと思われる。

 

5.『銀河鉄道の夜』は賢治と相思相愛の恋人の共同作品でもある。

ジョバンニは「アイヌ」(あるいは「蝦夷(エミシ)」)の世界観の中で暮らす先住民側の人物として登場しているが,「科学」にも興味があり,「何処でも勝手に歩ける通行券(切符)」(法華経思想)も持っている。賢治は近代文明に接触して埋没しかけた「アイヌ」の宗教的で詩的な世界観(アニミズム)を草木国土悉皆成仏思想を持つ仏教(宗教)すなわち法華経思想で復活させようとしたように思える。そして,童話『銀河鉄道の夜』の主人公であるジョバンニに,自分と恋人の二人の仮想上の子を重ねて,イーハトーブに住む「先住民」と「移住者」の末裔達が共に幸せに暮らせる世の中にするという願いを託した。第四次稿で賢治と恋人によって夢を託されたジョバンニは,「僕もうあんな暗(やみ)の中だってこはくない。きっとみんなのほんたうのさいはひをさがしに行く」と誓う。賢治と恋人との間の仮想の子でもあるジョバンニには,あの「まっくらな巨きなもの」はもう怖くなくなっている。

 

引用文献

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本稿は人間・植物関係学会雑誌18巻第2号61~69頁2019年に掲載された自著報文(種別は資料・報告)を基にしたものである。原文あるいはその他の掲載された自著報文は人間・植物関係学会(JSPPR)のHPにある学会誌アーカイブスからも見ることができる。http://www.jsppr.jp/academic_journal/archives.html

 

 

宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』-アワとジョバンニの故郷(1)-

Keywords: アイヌ神謡集,粟,文学と植物のかかわり,文選作業,蝦夷(エミシ), まっくらな巨きなもの,ピパ,ピンセットで活字を拾う,先住民

 

童話『銀河鉄道の夜』は難解とされているが,この物語に登場する人物を賢治が生きた時代の実在の人物に当てはめて読むと理解しやすくなる。前報(石井,2019)では,難破船の女の子だけでなくジョバンニとその母にも賢治の相思相愛の「先住民」の末裔としての恋人が投影されている可能性のあることを報告した。

 

本稿では,物語の中でジョバンニが「先住民」の末裔として具体的にどのように描かれているのか整理し,恋人のルーツと賢治と恋人の破局へ導いたと思われる「先住民」が示す「まっくらな巨きなもの」の正体について明らかにする。

 

1.なぜジョバンニの生活様式アイヌ風にしたのか

童話『銀河鉄道の夜』第四次稿の三章(家)で記載されているように,ジョバンニには北の海で漁をする漁師の父と病気で臥せっている(あるいは亡くなっている)と思われる母がいる。父は不在で密漁して牢獄に入っているという噂もある。ジョバンニに「ラッコ」の上着を土産に持ってくる約束をしている。また,第三次稿では,密漁船に乗っていて「アザラシ」や「ラッコ」を獲っていて,「サケ」の皮で作った靴(第1図)をお土産に持ってくる。これらは北海道や樺太の「アイヌ」と呼ばれた人達が13世紀(アイヌ文化期あるいはニブタニ文化期)以降に実際に狩りの対象にしていた動物であり,また生活用具である。多分,賢治は北海道の先住民族である「アイヌ」をイメージして物語でジョバンニの家族を描いている。

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第1図.「サケ」の皮で作った靴

賢治が「東北」あるいはイーハトーブのかつて「蝦夷(エミシ)」と呼ばれた「先住民」の人達の様子を作品の中で描くときに,例えば詩集『春と修羅』の「マサニエロ」や童話『銀河鉄道の夜』のように,なぜ「アイヌ」を連想させるような登場人物や生活用具を出してくるのだろうか。これは,賢治に「蝦夷(エミシ)」と「アイヌ」を同一視する認識があったのと,「蝦夷(エミシ)」という大和朝廷側が付けた呼称を使うことを極力避けているからだと思われる。

 

これはアイヌ研究家である金田一京助民俗学者喜田貞吉などの影響を受けている(秋枝,1996)。例えば,金田一(2004)は,賢治の生きた時代に「東北」にかつて住んでいた古代の「蝦夷(エミシ)」は「アイヌ」であるという説を唱えていた。当時,「蝦夷(エミシ)」は日本人という説もあったが,金田一らの唱える「蝦夷(エミシ)=アイヌ」の説が有力(工藤,2018)であり,金田一は1922年の『中央史談』に投稿した「奥州に残った蝦夷残蘖」の中で「蝦夷(エミシ)とアイヌの相違は,つまりは本州にいたアイヌ蝦夷(エミシ)で,北海道に残った蝦夷(エゾ)がアイヌであった。換言すれば,蝦夷(エミシ)とアイヌの相違は根本にあるのではなくして,ただ地方的な差,即ち人種の差ではなくして支流の差でありはしないだろうか。これが私の結論である」と記載していた(金田一,2004)。

 

賢治は,同郷でもある金田一と面識があり,多分この文書を見たかあるいは同様のことを聞いていたと思われる。金田一(2004)は,さらに「東北」の「蝦夷(エミシ)」は,「蝦夷が島(江戸時代まで呼ばれた北海道の旧称の1つ)から本州の北部へ下りて来たアイヌ族に外ならない」とも言っている。北海道の「アイヌ」が「東北」へ移住したのは本州では古墳時代(北海道は続縄文時代)の頃と言われている(高橋,2012;瀬川,2016)。この頃(4〜5世紀頃から場合によっては7世紀頃まで),日本列島は小氷河期に入っていて,気温が1〜2度ほど低下していたとみられ,「東北」まで北上していた稲作も大打撃を受け稲作に携わった住民達も南へ移動したと推測されている(吉野,2009;高橋,2012)。

 

現在でも,「蝦夷(エミシ)=アイヌ」説を支持するものは少なくない。宮城生まれの哲学者である梅原(1994)は,黄金の平泉文化を築いた「蝦夷(エミシ)」の流れをくむ藤原三代(清衡,基衡,秀衡)の金色堂に安置されている「ミイラ」が樺太の「アイヌ」の風習を喚起させるとし,また清衡が着ていた小袖が「アイヌ」がつい先ごろまで着ていた袖と似ていることや,棺の中にシカの角で作った刀や「ドングリ」や「クルミ」の類が沢山入れられていたことから藤原一族が狩猟採取民の「アイヌ」の系統を引くものであったと推測している。

 

実際に奥州藤原氏の家系でいうと,清衡の父は京都方面出身の可能性もあるが母は東北系(エミシ;安部氏)であり,その子基衡の妻も東北系(エミシ)である(埴原,1996)。東北文化に魅せられた芸術家の岡本太郎も,基衡の棺の中から出てきたシカの角で作った刀の「針葉樹の杉の葉のような文様」のある柄飾りに注目し,芸術家の直観で「アイヌ的」な匂いを感じ取り,著書の中で「この文様は激しいエゾ模様だ。アイヌ的であり縄文文化の気配でもある」と記載している(岡本ら,2002)。

 

歴史学者の高橋(2012)は,8世紀初め頃の「蝦夷(エミシ)」は,古墳時代に北海道で出土する土器と同じ形式の土器が青森,岩手で出土することやアイヌ語の地名がこの地方に残っていることから,彼らは「アイヌ人か,控えめに言ってアイヌ語を使う人,といってよいだろう」,また「アイヌ語の地名が残っているということはかなり長い間大勢で住んでいた可能性がある」と述べている。梅原(1994)によれば,現代の東北の文化にも,その根底には狩猟採集民である「古代蝦夷(エミシ)」の文化が色濃く残されているという。

 

賢治は「先住民」の自分に示す「疑い」や「反感」の共同体意識(「まっくらな巨きなもの」)と同じ意味のことを童話『銀河鉄道の夜』では「そらの穴」である「石炭袋」として表現しているが,この「そらの穴」に対して,先住民側であるジョバンニは「そっちを見てまるでぎくっと」してしまうが,移住者側のカムパネルラは「そっちを避ける」ようにしながら指さす。カムパネルラに賢治が投影されているとすれば,賢治は明らかに「先住民」の示す「疑い」や「反感」の共同体意識を避けている。

 

賢治の作品には頻度は少ないが「アイヌ」という言葉はでてくるが,「蝦夷(エミシ)」という言葉はまったく登場しない。賢治は,「東北」のかつての「先住民」であった「蝦夷(エミシ)」が,北海道や樺太の「アイヌ」とルーツを同じにしていると信じていて,賢治が「東北」あるいはイーハトーブのかつて「蝦夷(エミシ)」と呼ばれた「先住民」を描くときに,「蝦夷(エミシ)」の代わりに「アイヌ」という言葉やそれを匂わせる登場人物を使ったと思われる。

 

ただ,賢治に限らず当時の「東北」の人は,現在でもそうかもしれないが,「アイヌ」や「蝦夷(エミシ)」という言葉が侮蔑感を伴うものとして,あるいは「忌み言葉」と感じていて,「蝦夷(エミシ)」のみならず「アイヌ」という言葉を使うのも避けていたように思える(梅原,1994;秋枝,1996)。 

 

賢治は,「東北」への南からの「移住者」の末裔達(町の人など)が「先住民」である「蝦夷(エミシ)」の末裔達(賢治の生きた時代の農民,漁労民,狩猟民である「マタギ」になった者など)をどのように理解していたのかを童話『銀河鉄道の夜』から推測してみる。

 

2.「移住者」は「先住民」をどのよう見たか

1)ピンセットで拾う粟粒のような活字

「移住者」が「先住民」(「蝦夷」=「アイヌ」として)をどのように見ていたかを知るヒントは,童話『銀河鉄道の夜』の中では,ジョバンニがアルバイト先の活版所で靴を脱いで粟粒のような活字をピンセットで拾う動作の中に隠されているように思える。なぜなら活版所で働く高度な先端技術を有する技術者達(移住者側)がジョバンニのこの行動に対して「冷たく笑う」からである。『銀河鉄道の夜』(第四次稿)の二章「活版所」には以下の記載がある。

  ジョバンニはすぐ入口から三番目の高い卓子(テーブル)に座った人の所へ行っておじぎをしました。その人はしばらく棚をさがしてから,

「これだけ拾って行けるかね。」と云ひながら,一枚の紙きれを渡しました。ジョバンニはその人の卓子の足もとから一つの小さな平らな函(はこ)をとりだして向ふの電燈のたくさんついた,たてかけてある壁の隅の所へしゃがみ込むと小さなピンセットでまるで粟粒ぐらゐの活字を次から次と拾ひはじめました。青い胸あてをした人がジョバンニのうしろを通りながら,

「よう,虫めがね君,お早う。」と云ひますと,近くの四五人の人たちが声もたてずこっちも向かずに冷たくわらひました。

(中略)

 ジョバンニはおじぎをすると扉をあけてさっきの計算台のところに来ました。するとさっきの白服を着た人がやっぱりだまって小さな銀貨を一つジョバンニに渡しました。ジョバンニは俄かに顔いろがよくなって威勢よくおじぎをすると台の下に置いた鞄をもっておもてへ飛びだしました。(二,活版所;宮沢,1985) 下線は引用者

この引用箇所では,現在では殆ど見ることができない活版印刷における文選作業の様子が記載されている。この作業は,「活字ケース架(ウマ)」に向かって「平らな函」すなわち「文選箱」に,多分「粟粒」とあることから活版印刷用の漢字の振り仮名の「ルビ」の活字を「しゃがみ込む」姿勢で「ピンセット」で拾っているのだと思われる。

 

明治時代 新聞記事に使用されていた活字のサイズは5号(10.5ポイント;3.7mm)で,「ルビ」のサイズは7号活字(5.25ポイント;1.8mm)である。この引用箇所は素人が読めば何も不思議ではないのだが,活版印刷に携わったことのある技術者には異様な動作に見えるという。現在でも活版印刷を行っている者によれば,第1に「ルビ」を含む多くの活字を「しゃがみ込む」動作で拾うことはあまりないそうである。文選作業で,「活字ケース架」の最下部には特殊な人名,地名,省略文字など使用頻度の少ない活字が配列されるので,使用頻度の高い「ルビ」などをしゃがみ込んで拾うことはほとんどない。

 

第2に,これが最も重要なことであるが,活字は「鉄」よりも軟らかな「鉛」を主成分とするので「鉄」の「ピンセット」を用いると面ズラを傷つける恐れがあるので文選作業は素手で行うのが普通という。活版印刷全盛の時代には床に落とした活字を拾うことすら禁じられていた。すなわち,活字を「鉄」の「ピンセット」で拾うことはしない(朗文堂,2018)。また,農作業でもないのに靴を脱いで輪転機の在る所を素足で歩くということ,文選作業を素足で行うということも考えにくい。

 

活版印刷で活字を「ピンセット」で拾わないことが事実なら,ジョバンニが活字を「ピンセット」で拾う動作に対して,活版所の技術者の一人が朝でもないのに「よう,虫めがね君,お早う。」と挨拶を送ったりするのは可笑しな話である。本来なら技術者達はアルバイトのジョバンニに「ピンセットで活字を拾ってはいけない」と注意すべきである。

 

これは,賢治が活版印刷所の現場を知らなかったということではない。賢治は,『銀河鉄道の夜』(第一次稿)執筆前に詩集『春と修羅』(1924.4.20)を自費出版しているが,この印刷は花巻の「大正活版所」で行われている。この印刷所は盛岡にある「山口活版所」の支店のようなもので,当時はまだ設備が十分ではなかった。賢治は,出版に当たっては印刷の段階でも介入していて,校正刷りで,指定した活字がないと「ゲタ」(とりあえず入れておくダミーの活字)を履かせた活字を書き上げて,必要な活字を盛岡の「山口活版所」まで何度も取りにいったという(森,1979)。

 

賢治は,活版印刷の現場を十分知っていた。では,なぜ賢治はジョバンニに活字を「しゃがみ込む」姿勢で「ピンセット」で拾わせたのだろうか。童話『銀河鉄道の夜』は譬喩の文学である。この引用文で賢治は何か重要なメッセージを我々に伝えようとしている。ここで「ピンセット」で拾う活字の形容語句である「粟粒ぐらい」の「粟」という植物に注目してみる。

 

2)粟とはどんな植物か

「アワ(粟)」は背丈が1〜1.5m程になるイネ科エノコログサ属の多年草である。学名は二名法で付けられ「Setaria itarica(L.)P.Beauvois」(命名者のP.Beauvoisはフランスの植物学者)で,属名(setaria)はラテン語の「剛毛(あるいは刺毛)」(「アワ」の枝穂の基部に「剛毛」がある)に,種小名(種形容語)は「イタリア」に由来していて「イタリアの剛毛」というほどの意味である。イギリスでは,「Foxtail millet」と呼び,「アワ」の穎果(えいか;果実)が成熟して複数集まって狐の尻尾状に大きく垂れ下がった穂(長さ10〜40cm)をうまく表現している(藤井,2018)。

 

穎果の形態はやや球形で,粒の長さは1.3〜1.5mm, 幅1.7〜2mm,千粒重は1.5〜2.5gで米の1/10前後と小さい。1つの穂に1万粒くらい穎果がつくという(盛口,1997)。

 

種小名は「イタリア」であるが,なぜ「イタリア」という国名が付くのか調べてみたがよくわからない。「アワ」は,祖先野生種のエノコログサネコジャラシ)<Sviridis (L.)P.Beauv.>を起源として栽培化された作物の1つである。エノコログサはユーラシアの温帯域に広く分布していて,「アワ」の起源を確定することを困難にしている。中国や日本を含む東アジアが起源地であるとする説や,中国と欧州で独立に栽培されたとする説などがある(福永,2017)。

 

「アワ」は耐寒性に優れていたためイタリア,ドイツ,ハンガリーなどの欧州でも古くから栽培されていたという(藤井,2018)。同じ種小名を国名にした「シャガ」の学名は「Iris japonica Thunb」で,「日本(あるいは日本産)のアイリス」というほどの意味であるが,「シャガ」は中国原産で日本の固有種ではない(帰化植物)。種小名に国の名をつける時には,特に原産地や起源地でなければいけないという決まりはないようである。多分,命名者の植物学者がフランス人(P.Beauvois;1752-1820)なので,「イタリア」でよく栽培されていることを知っていて「アワ」の種小名に「イタリア」を付けたのかもしれない。

 

学名でもう1つ注目すべきことは,種小名の形容詞はその「性」を属名の名詞に一致しなければならない。例えば「Iris japonica」の「iris」(アイリス)は女性名詞なので,種小名の語尾には「-ica(女)」を付けて「japonica」(japonica)となる。同じく,「アワ」の「setaria」(剛毛)も女性名詞なので,種小名は「itarica」となる(田中,2018)。 

 

ジョバンニに賢治の相思相愛の恋人が投影されているとすれば,「アワ」の学名の種小名が「イタリア」で,さらにラテン語の女性名詞の「setaria」(剛毛)に合わせて「itarica」になっているので,多分賢治はこの学名の付け方から主人公を命名するときに「イタリア」の最もポピュラーな女性名である「ジョバンナ;Giovanna」としたかったと思われる。1970年に公開されたイタリアの名作『ひまわり(原題:I Girasoli)』の主人公は,ソフィア・ローレンが演じたジョバンナである。しかし,恋物語は隠したので,男性名である「ジョバンニ;Giovanni」にしたように思える。

 

3)アイヌと粟の収穫

「アワ」は北海道の「アイヌ」にとって「ヒエ(稗)」に次ぐ重要な作物であった。「アイヌ」の神話の中にも登場するので相当古い時代から栽培されていたようである。「アイヌ」の栽培する「アワ」はアイヌ語でムンチロと呼ばれていて,穂が長い「赤い粟」に相当するフレムンチロなど5~8種類くらいがあったという(林,1969)。

 

アイヌ」の農業技術の中で最も特徴的なのは収穫技術であるという。「アイヌ」は「アワ」や「ヒエ」を収穫するとき鎌で根刈をするのではなく,「イチャセイ」と呼ばれる「ピパ」という「カワシンジュガイ(川真珠貝)」の貝殻を用いて穂だけを摘み取り,それをそのまま高床式の穀物倉に貯蔵した(林,1959)。

 

「カワシンジュガイ」(Margaritifera laevis (Haas,1910))は貝殻の殻長が10cm以上,高さ5cm,厚みも3cmを超えることのある淡水にすむ二枚貝である。「ピパ」に類似したものに「沼貝」や「烏貝」があるが,これらは「ピパ」に比べ殻が薄くて脆いため,「ピパ」の様に穂摘みの用具としては利用されなかった。「カワシンジュガイ」は二枚貝なので殻は2枚あるが,「ピパ」にして穂摘みをするときは,その一方側だけを使い,その殻の上部に2つの穴を開けてから紐を通し,下端を砥石で鋭く磨く。そして,中指と薬指を紐に通し,貝殻を手のひらに握るように持って穂先を貝殻と手のひらの間に「ピンセット」のように挟んで,刃の部分で切り取る。朝の9時,10時から夕方4時,5時頃まで1日がかりでもポロサップ(5~6斗の容量の袋)2つに収穫するのがやっとであった。

 

アイヌ」は元来狩猟採取民であったので農業を知らなかったとも言われている。よって栽培方法は極めて粗放で,作物の生育が一様でなく草丈に長短があったり,穂の生育にも遅速があり収穫時期も長期になったりすることもあった。このように「アイヌ」の収穫方法は,鎌を使って根刈する方法よりも手間がかかり非効率的な作業であった。

 

この「ピパ」を用いる穀物の収穫方法の起源は,本州の弥生時代(後期)の農耕文化(石包丁)に影響を受けたものと推測されている(林,1964)。しかし,「アイヌ」は明治以後開拓の進歩に伴う農業技術が発達し,「アイヌ」の耕耘用具である「シタップ」(鹿角や樹枝で作った原始的農具)や鍬が捨て去られ「プラウ」などの土壌を耕起する近代的農具が用いられるようになっても,「アワ」や「ヒエ」の収穫に関しては,「ピパ」が使用され,この慣習は場所によっては賢治が生きていた昭和初期ごろまで続けられたともいう。

 

穀物の収穫に鎌を使わなかったのは,鎌の使用が「タブー(禁忌)」であったからで,「アイヌ」にとって鎌で切られると,切られたものが「再生」できないからだとも言われている(計良,2008)。類似の事例として,「縄文人」の魚の食べ方がある。例えば,「縄文人」はサケの骨を全部残して,特に「骨を折らない」(禁忌)ようにして身の部分を食べ,その後特別の水へ沈めたという。骨を水の世界に丁寧に返すことによって,また魚が骨に身を着けて人間の世界へ戻ってくることを願ったのだという(中沢,2018)。

 

4)「ピンセットで活字を拾う動作」はアイヌの粟を収穫する方法の暗喩 

多分,賢治が物語の中で靴を脱いだジョバンニに活字を「しゃがみ込む」姿勢で「ピンセット」で拾わせたのは,「アイヌ」の人達(女性)が「アワ」や「ヒエ」などの穀物を朝の早いうちから収穫する方法を暗喩の形で示したかったからであろう。

 

「アワ」と「ヒエ」は背丈が前述したように1〜1.5mほどで,「ヒエ」は1mほどである。「ピパ」で穂摘みする場合,穂ばかりを摘み取るのではなく,穂を束ねる必要があるので茎稈を4〜5寸(12〜15cm)つけて,また種穂の場合はさらに長く8寸〜1尺(24〜30cm)ほどつけて切り取る(林,1959)。穂の長さが10〜40cmとすれば,「アイヌ」の女性達は「アワ」を地表から70〜80cm位の所で,「ヒエ」の場合はさらに低い位置で茎稈を「ピパ」で刈り取ったことが予想され,さらに茎稈が穂の重みで傾くことも考慮に入れれば「しゃがみ込む」という動作もあり得たと思われる。

 

賢治は,恐らく「アイヌ」の「アワ」の収穫方法に関する情報を知里(1978)の『アイヌ神謡集』(初版本;1923年8月)と,盛岡中学在籍中や花巻農学校教諭時代の修学旅行(あるいはその引率)で訪れた白老のアイヌ集落などから得ていたと思われる。『アイヌ神謡集』の神謡「沼貝が自ら歌った謡“トヌペカ ランラン”」には,穀物の穂を摘むとき「沼貝」(カワシンジュガイの誤記)の殻を使うという謂れが神(カムイ)である「沼貝」の言葉として語られている。

 

5)冷たく笑った理由

では,なぜ活版所の従業員達はジョバンニの「ピンセット」で活字を拾う行為に対して「声もたてずこっちも向かずに冷たく笑う」という対応をしたのであろうか。ジョバンニの父親に北方の海で密漁しているという噂があるからということもあるが,それだけではない。これは,この物語を理解する上で最も重要な問(とい)でもある。

 

多分,合理主義と高度な科学技術を身に着けた活版所の技術者達(移住者側である町の人)は,「アイヌ」の女性が「アワ」を収穫する様子をジョバンニの文選作業の様子に重ね,「先住民」の時代の流れについてゆかず,古くからある慣習を守り続ける姿を理解することができないばかりか見下し蔑視したのである。合理主義や高度な科学技術を有する人が立派な人とは必ずしも言えないが,少なくとも活版所の技術者達は自分達の方が「上位」であると思っている。

 

上記引用文でジョバンニが活版所の技術者に繰り返し「おじぎをする」のも,ジョバンニ側の「先住民」が階層的に「下位」に置かれているからである。賢治が生きた時代,北海道の「アイヌ」は,国内統一と近代化を推し進める明治新政府によって「平民」として戸籍制度の中に組み込まれるが,公的には日本人と同等とは思われない身分の名称が与えられていて,「アイヌ」は日本の新社会に溶け込むことができなかった。さらに,土地と資源が奪われシカ猟やサケ漁が禁止され困窮の一途をたどっていた(計良,2008)。

 

3.「先住民」が示す「疑い」や「反感」

童話『銀河鉄道の夜』の活版所の従業員(移住者側の町の人)の狩猟民(「先住民」)であるジョバンニあるいはその家族を蔑視する関係は,「東北」の賢治(「移住者」の末裔)と「先住民」の末裔としての農民との関係についても言える。賢治は表立って「先住民」(農民など)を蔑視するような言葉を作品に残してはいない。しかし,賢治が関わった農民を題材にした作品には,農民が示す賢治への「疑い」や「反感」の形でそれが表現されているように思える。「反感」とは同意できず,また不快で,反発・反抗したくなる感情である。農民から「反感」を買っている以上,賢治は,直接ではないかもしれないが農民から同意されない何かをしている。

 

賢治は,1924年10月5日に地元の会合に招かれて農事講和をしたとされていて,このときの様子を詩集『春と修羅 第二集』の「産業組合青年会」(1933年『北方詩人』に投稿)という詩に記載している。賢治は,この会合で「山地の稜をひととこ砕き」,「石灰岩末の幾千車か」を得て酸性土壌を改良するという話をしたようだが,聴衆の中の老いた権威者(組合のリーダー格)から「あざけるやうなうつろな声で」,「祀られざるも神には神の身土がある」と批判されてしまう。

 

「祀られざるも神には神の身土がある」の意味は,祠で祀られていないなど,祭司されていない山や土や樹木にも,神としての身体と座(いま)す場所があるということであろう。なぜ賢治の講和内容が批判されたかについては伏線があって,賢治研究家の浜垣(2018)によれば,約2か月前に農学校で上演された『種山ヶ原の夜』という劇で,賢治が「楢の樹霊」,「樺の樹霊」,「柏の樹霊」,「雷神」という土着の神々を「滑稽(こっけい)」に,あるいは「笑い」の対象として舞台に移し登場させたことと関係があるという。劇を見たと思われる会合の聴衆(多分「先住民」の末裔)にとって,賢治の農業を発展させるための大規模な自然開発に関する講和は,農民の古くからの慣習を損なうだけでなく「神の領域への侵犯」であり,「先住民」あるいは「先住民」の信仰する土着の神(精霊)を冒涜するものと同じだったのかもしれない。

 

当時は「身」と「土」(身が拠り所にしている環境)は分けられないという「身土不二」の考え方があり,神の「身」とその座すべき場所を壊したり,分けて移動させたりすることは神への冒涜と見做されたのであろう。実際に,神の怒りをかったのか,「雷神」を演じた生徒が次の日に災難に見舞われたという。賢治は科学者でありながら,この災難を偶然の出来事とは思っていない。

 

賢治は,自信作の学校劇が批判され,また「自然開発」と「自然保護」の間で葛藤していただけに,土着の神を劇に登場させたことに対して激しく後悔することになった。同日に書かれた未定稿詩〔夜の湿気と風がさびしくいりまじり〕では,『種山ヶ原の夜』の学校劇について述懐して,「わたくしは神々の名を録したことから/はげしく寒くふるえてゐる」とある。  

 

また,賢治が1926年に花巻農学校を依願退職し,私塾の羅須地人協会で農民に稲作指導したり無料で肥料相談に応じていたりした頃の作品として,詩集『春と修羅 第三集』の〔同心町の夜あけがた〕(1927.4.21)というのがある。この詩は,自分で栽培した野菜や花を売りに町へ向かう道すがら,程吉という名の農民の向ける眼差しに自分に対する「疑い」や「反感」を敏感に感じ取っている。

 馬をひいてわたくしにならび

町をさしてあるきながら

程吉はまた横眼でみる

わたくしのレアカーのなかの

青い雪菜が原因ならば

それは一種の嫉視(しっし)であるが

乾いて軽く明日は消える

切りとってきた六本の

ヒアシンスの穂が原因ならば

それもなかばは嫉視であって

わたくしはそれを作らなければそれで済む

どんな奇怪な考が

わたくしにあるかをはかりかねて

さういふふうに見るならば

それは懼(おそ)れて見るといふ

わたくしはもっと明らかに物を云ひ

あたり前にしばらく行動すれば

間もなくそれは消えるであらう

われわれ学校を出て来たもの

われわれ町に育ったもの

われわれ月給をとったことのあるもの

それ全体への疑ひ

漠然とした反感ならば

容易にこれは抜き得ない

(宮沢,1985)下線は引用者

ここで賢治は,「疑い」や「反感」の原因が,自分の作った野菜や花にあるなら「作らない」などして対応もできるが,自分の「出自」に関するものや漠然とした「反感」に対しては手の打ちようがないと言っている。

 

また,詩集『春と修羅 詩稿補遺』に「火祭」という詩があるが,この詩の前半部には,前詩と同様に農民の賢治に対する「反感」が描かれていて,「火祭りで,/今日は一日,/部落そろってあそぶのに,/おまへばかりは,/町へ肥料の相談所などこしらへて,/今日もみんなが来るからと,/外套など着てでかけるのは/いゝ人ぶりといふものだと/厭々(いやいや)ひっぱりだされた圭一が/ふだんのま々の筒袖に/栗の木下駄をつっかけて/さびしく眼をそらしてゐる」とある。

 

祭りを実施している農村風景の中で,花巻農学校時代の教え子か知り合いの農民(先住民側)と思われる者が眼をそらしたのを見て農民の深層心理を探っている。この農民の賢治への「反感」は,賢治研究家の木嶋(2005)によれば,賢治の「出自」や「経歴」に対してではなく,農村活動への反感であるとしている。しかし,それだけではない。

 

後半部では,この「反感」の具体的な内容を賢治が実際に聞いたかもしれない農民の言葉として,「くらしが少しぐらゐらくになるとか/そこらが少しぐらゐきれいになるとかよりは/いまのまんまで/誰ももう手も足も出ず/おれよりもきたなく/おれよりもくるしいのなら/そっちの方がずっといゝと/何べんそれをきいたらう/(みんなおなじにきたなくでない/みんなおなじにくるしくでない)」と続く。

 

これは,前半部の「町へ肥料の相談所などこしらへて」に対応している。自分(賢治)は,皆(農民)の生活を楽にするために無料で肥料相談所を開設しているのに,農民の中にはこれを望まない者(あるいは批判するもの)もいるということを言っている。これに対して,賢治は括弧内の内省の言葉として「みんな同じに苦しまないようにとやっているのに」と発し「なぜ理解してくれないのか」という苛立ちや不満の気持ちを述べている。

 

賢治のこの農民側への苛立ちや不満には,農民すなわち「先住民」の賢治や町の人に「疑い」や「反感」を示す共同体意識(「まっくらな巨きなもの」)が関係しているように思える。だから,最後に「(ひば垣や風の暗黙のあひだ/主義とも云はず思想とも云はず/たゞ行はれる巨きなもの)」と呟くのである。賢治も言葉では嘆くだけだが心の底の方では町の人と同様に「先住民」を「下位」と見做すあるいは蔑視する気持ちがあったと思われる。すなわち,賢治を含む「移住者」の末裔達は「先住民」を蔑視し,逆に「先住民」は「移住者」に対して「疑い」と「反感」・「憎悪」でこれに応じている。

 

木嶋(2005)は,著書の中で農民の賢治への「反感」の下層に,この「主義とも云はず思想とも云はず/たゞ行はれる巨きなもの」が動かしがたく横たわっているように感じられた」と述べている。しかし,賢治に対する「先住民」の「疑い」や「反感」の根底にあるのは,大和朝廷側が「東北」の「まつろわぬ民」としての「蝦夷(エミシ)」に抱いた感情と同じで,「東北」へ移住した人達の「先住民」に対する蔑視もあることを忘れてはいけない。(続く)

 

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本稿は人間・植物関係学会雑誌18巻第2号53~59頁2019年に掲載された自著報文(種別は資料・報告)を基にしたものである。原文あるいはその他の掲載された自著報文は人間・植物関係学会(JSPPR)のHPにある学会誌アーカイブスからも見ることができる。http://www.jsppr.jp/academic_journal/archives.html

 

宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』-イチョウと二人の男の子-

Keywords: 文学と植物のかかわり,双子性,ギリシャ神話,白鳥座イチョウの生殖様式,出自の秘密,チュンセ童子とポウセ童子

 

童話『銀河鉄道の夜』は,「ほんたうのさいはひ」を求めて壮大な銀河宇宙を旅する物語である。最近,賢治に悲恋に終わった相思相愛の恋人が存在していたことが明らかにされ,この二人の恋愛体験が賢治の詩集『春と修羅 第一集』や童話『銀河鉄道の夜』に深い影響を及ぼしたということが指摘されている(澤口,2013;石井,2018;長野,2018)。

 

これまで『銀河鉄道の夜』において,ジョバンニには賢治がまたカムパネルラには妹トシあるいは友人の保阪嘉内が投影されていると考えられてきた。しかし,最近,賢治に悲恋に終わった新しい恋人の存在が知られるようになると,カムパネルラには賢治自身が投影されているという従来とは異なる説も出るようになって混乱している(澤口,2013;石井,2018;長野,2018)。また,著者は以前この童話に登場するジョバンニとカムパネルラの二人に強い「双子性」が認められることを報告したことがある(石井,2013)。

 

本稿ではジョバンニとカムパネルラの「双子性」を考慮に入れながら,カムパネルラを賢治としてジョバンニには賢治の生きた時代のどの人物が投影されていたかについて再検討してみたい。 

1.イチョウの木から読み解くジョバンニとカムパネルラの「双子性」

最初に「双子性」を指摘したのは賢治研究家の天沢(1989)である。彼は,草稿を見て賢治が何度かカムパネルラとジョバンニを混同ないし混同しかけていることに気づくとともに,イタリアの哲学者でユートピア物語『太陽の都』でも知られているトマーゾ・カンパネルラ(Tommaso Campanella;1568-1639)の幼名がジョヴァンニ・ドメニコ(Giovanni Domenico)であることから,賢治がこれを知っていたとしてカムパネルラ=ジョバンニのいわば隠れた「双子性」を指摘していた。

 

著者は,「双子性」を示唆するものとして以下の引用文に記載するように「イチョウ」の木が登場する場面に注目した。前報(石井,2013)ですでに検討しているが新しい事実も加えて再整理してみる。ジョバンニとカムパネルラが夢(死後の世界)の中で銀河鉄道の列車に乗り込み,最初の停車場である「白鳥の停車場」に到達する場面である。

 「もうぢき白鳥の停車場だねえ。」

 「あゝ,十一時かっきりには着くんだよ。」

 (中略)

 さはやかな秋の時計の盤面(ダイヤル)には,青く灼(や)かれたはがねの二本の針が,くっきり十一時を指しました。みんなは,一ぺんに下りて,車室の中はがらんとなってしまひました。

 [二十分停車]と時計の下に書いてありました。

 「ぼくたちも降りて見ようか。」ジョバンニが云ひました。

 「降りよう。」

 二人は一度にはねあがってドアを飛び出して改札口へかけて行きました。ところが改札口には,明るい紫がかった電燈が,一つ点(つ)いてゐるばかり,誰も居ませんでした。そこら中を見ても,駅長や赤帽らしい人の,影もなかったのです。

 二人は,停車場の前の,水晶細工のやうに見える銀杏(いてふ)の木に囲まれた,小さな広場に出ました。そこから幅の広いみちが,まっすぐに銀河の青光の中を通ってゐました。

 さきに降りた人たちは,もうどこかへ行ったか一人も見えませんでした。二人がその白い道を,肩をならべて行きますと,二人の影は,ちゃうど四方に窓のある屋(へや)の中の,二本の柱の影のやうに,また二つの車輪の輻(や)のやうに幾本も幾本も四方へ出るのでした。

(『銀河鉄道の夜』第四次稿 七章「北十字とプリオシン海岸」 宮沢,1985)下線は引用者

 この引用文には,短い文章であるにもかかわらず「二」という数字が繰り返される。「二人」が4回,「二本の針」,「二十分」,「二本の柱」,「二つの車輪」がそれぞれ1回ずつ記載されている。「十一時」も2回登場するが,これも「11時」と書けばローマ字のⅡと類似する。二人の関係はこの文章の中に隠したと賢治が言っているようにも思える。二人の関係を明らかにするヒントは,二人が位置する場所である「白鳥の停車場」の「白鳥」とその場所にある「銀杏(いてふ)」,そして時間を示す「十一時」の「十一」にある。

 

賢治は「イチョウ」を題材にして多くの作品を残している。代表的な作品として,童話『銀河鉄道の夜』の前に書かれた短編童話『いてふの実』(1921年作;賢治25歳)というのがある。この童話には「二人のいてふの男の子」が登場する。「二人」という表現は,「イチョウ」の木の短枝の先から出る1本の長い花柄(かへい)の先にできる2つの実を擬人化したものである。

 

イチョウの生殖様式は複雑で,雄と雌があり(雌雄異株),雄株は精子を作るということで動物的でもある。イチョウの雄株の生殖器官は雄しべに相当する小胞子嚢となって短枝の先端に形成される。この小胞子嚢穂の雄しべは成熟すると縦に裂け,4月から5月上旬にかけて花粉が飛び出していく。雌性胞子嚢穂は短枝の先端に普通2個の胚珠を付けている。同一とは限らない雄株からの複数の花粉は雌株の胚珠に到達すると胚珠内の花粉室に入る。そこで雌しべから養分をもらって約3か月を過ごし,無事に成長すると精子になる。これら精子のいくつかが2個ある胚珠内の胚嚢上部のそれぞれ2個ずつある卵細胞を目指して泳いでいく(第1図)。2個の胚珠のそれぞれの胚嚢にある2個の卵細胞は受精するが胚に育つのはそれぞれ原則的に1つのみであるという(稀に2つ)。長い花柄の先の2個の胚珠は成熟すると「ぎんなん」のある2個の実となる。

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第1図.イチョウの受精.Aは花柄の先の2個の胚珠,BとCは雌花の断面図を示す.(理科ネットワークの動画を基に作画). 

このようなイチョウの生殖の生態や様式の秘密は,賢治が生まれた年である1896年に東京大学植物学教室の平瀬作五郎がイチョウ精子を発見したことによって解明された(本間,2004)。植物学に精通していた賢治は『銀河鉄道の夜』を制作していたときにはこの事実の多くを知っていたはずである。賢治は,この「イチョウ」の1つの花柄に付いた2個の成熟した果実を童話『いてふの実』では「二人のいてふの男の子」と表現したりもした。擬人化した1つの花柄に付いた2個の果実(あるいはそれぞれの果実にある種子)が「双子」と論ずるのは非科学的かもしれないが,あえて言うなら「双子」のような「兄弟実」であろうか。この擬人化した「イチョウ」の「双子性」のイメージをさらに『銀河鉄道の夜』にも取り入れたように思える。

 

2.ギリシャ神話から読み解くジョバンニとカムパネルラの「双子性」

賢治はギリシャ神話にも精通していたようである。「白鳥座」にまつわる神話がその中にある。大神・ゼウスが,天上から地上で水浴びをしている絶世の美女であるギリシャのスパルタ王・テュンダレオスの妃であるレダ(Leda)を見染め,愛の女神アプロディテの助力のもと白鳥に化身し思いを遂げる。白鳥の去ったあと,レダは大きな卵を2つ産み落とす。それぞれから「双子」が生まれるが,片方からはカストル(兄)とポルックス(弟)という男の「双子」が,もう1つの卵からは女の「双子」が生まれる。一説では,兄のカストルはスパルタ王の子であるので人間だが,弟のポルックスはゼウスの子で「神性」(不死)を持つとされる。

 

この「白鳥座」にまつわるギリシャ神話の話は,「イチョウ」の雌株の短枝の先からでる長い花柄の先に付く2個の胚珠(それぞれ2個の卵細胞を持つ)が異なった雄株からの花粉を受粉(受精)して2個の果実(ギリシャ神話では2個の卵)を作る過程と似ている。賢治はこの「イチョウ」の実と「白鳥座」にまつわるギリシャ神話から推測される「兄弟」(あるいは「双子」)と「異なる父性」のイメージを童話『銀河鉄道の夜』の主人公達にも投影させたように思える。すなわち,二人の主人公達には父親が異なるかもしれない同一の母親をもつ「兄弟」というイメージが付与されている。

 

物語でジョバンニには北方で漁をしている父と病弱の母が描かれているが,カムパネルラにはジョバンニの父と友人関係にある博士と呼ばれる父は登場するがカムパネルラの母の存在は不明確になっている。あたかも双子の兄弟のうち,狩猟民の子を博士が,博士の子を狩猟民が養育しているように見える。

 

なぜ賢治はジョバンニとカムパネルラに「双子性」と「異なる父性」を付与しようとしたのだろうか。この疑問を解く鍵は,賢治が物語を創作しているときに誰をイメージしてジョバンニとカムパネルラを登場させたかに隠されている。

 

3.ジョバンニには賢治の恋人が投影されている

カムパネルラに賢治が投影される場合があるということを前報(石井,2018)で報告したが,では「双子性」が付与されたもう一人のジョバンニは誰が投影されているのだろうか。考察を進める前に1つ断っておきたいことがある。賢治研究家の澤口(2013)が言うように,物語の中の人物にある特定の人物をモデルとしてそっくり当てはめるのは適切ではない。固定してしまうと辻褄が合わなくなる場合が生じてしまうからである。物語の場面に応じて,あるいは推敲を重ねていく過程で投影されている人物が変わることもあり得るだろう。また複数の人物が重ねられる場合もあるし,まったく架空の人物をあてたのかもしれない。

 

童話『銀河鉄道の夜』の第一次稿は,賢治と相思相愛の恋人との関係が破局を迎え,1924年6月に恋人が異郷の地である米国に渡った半年後(1924.12)に友人達に披露されている。また,この童話が披露された直前に創作されたと思える詩「孤独と風童」(1924.11.23)の先駆形には「こんどの童話はおまへのだから」という語句が添えられていた。多分,カムパネルラに賢治が投影されているなら,童話の主人公であるジョバンニには恋人が多くの場面で投影されている可能性が高い。

 

賢治が生きていた時代,まして地方において自由恋愛は許されなかったという。賢治は,近親者達の猛反対もあり,恋人の将来のことを考慮して恋人の名前を作品の中に登場させることはできなかったと思われる。しかし,詩人で文学者でもある賢治は恋人への思いを作品の中で表現したい気持ちを抑えられなかったようである。そこで,賢治は,カムフラージュ(偽装)として登場人物を親密な関係にある「兄妹」,男性同士であれば「双子」あるいは擬人化した動物や植物にすることで自分達の恋愛体験を表現しようと考えたのかもしれない。

 

例えば,「兄妹」を扱った作品だと『手紙四』(1923年頃),詩集『春と修羅』の「恋と病熱」(1922.3.20),「永訣の朝」(1922.11.27),「白い鳥」(1923.6.4)などがあり,「双子」を扱った作品では童話『双子の星』などがあり,「動植物」では『土神ときつね』などがある(第1表)。賢治はごく普通の恋愛をしたのだと思う。しかし,澤口(2018)が指摘しているように恋人を隠して作品を創作すればするほど,賢治の恋愛に対して,その対象が妹トシや友人の保阪嘉内であるかのような多数派とは異なる愛情表現を強調した論評が目立つようになったのも皮肉なことである(福島,1985;菅原,2010)。

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1)童話『双子の星』のポウセ童子は恋人が投影されるジョバンニの原型

童話『双子の星』には,少年と思われる「双子」の星である擬人化したチュンセ童子とポウセ童子がでてくる。チュンセ童子の「チュンセ」は「双子座」にまつわるギリシャ神話にでてくる「双子」の兄カストルの父である「テュンダレオス」から,またポウセ童子の「ポウセ」は,「ゼウス」の子でもある弟の「ルックス」の名から創作されたものと思われる(下線は著者)。チュンセ童子とポウセ童子の二人は,純粋無垢な「双子」として描かれていて,様々な危険やたくらみにさらされる存在でもある。ある夜,乱暴ものの彗星にだまされて海底に落とされてしまう。

 二人は青黒い虚空をまっしぐらに落ちました。

 彗星は,

 「あっはっは,あっはっは。さっきの誓ひも何もかもみんな取り消しだ。ギイギイギイ,フウ。ギイギイフウ。」と云ひながら向ふへ行ってしまひました。二人は落ちながらしっかりお互いに肱をつかみました。この双子のお星さまはどこ迄でも一緒に落ちようとしたのです。

(『双子の星』 宮沢,1985)下線は引用者

二人が彗星によって海底に落とされるとき,二人は「落ちながらお互いに肱をつかみ,どこまでも一緒に落ちようとした」とある。この「お互いに抱き合ってどこまででも一緒に落ちよう」とする「思い」あるいは「行為」は,大多数の少年同士の友情をはるかに超えている。賢治研究家の佐藤(1996)は,この箇所を読んだときには「不思議に情念の息づき」と,また二人の少年の「星の童子を描きながら,<対幻想>ともいうべき,一種エロス的な感触が伝わってきた」と述べている。まさにここでは大人の「男性」と「女性」の恋愛感情に似た激しい感情の表白が記載されている。

 

『双子の星』の初期形は,1918年頃とされるが,その後推敲が重ねられていて,賢治研究家の浜垣(2018)の再調査によれば,上記引用文が追加されたのは1922年9月以降であるとした。1922年は,詩集『春と修羅』の「恋と病熱」(1922.3.20)や「春光呪詛」(1922.4.10)などが創作されていて二人の恋が近親者達の反対に会いながらも成就していた時期である。

 

童話『双子の星』ではチュンセ童子とポウセ童子という二人の「双子」の少年として登場するが,賢治と相思相愛の女性の恋人をモデルにしたものであろう。すなわち,賢治はこの童話の中で,決して名を明かしてはいけない恋人との恋の物語を語ったものと思われる。主に詩集『春と修羅』の中の「兄妹」を扱った作品と賢治の恋愛体験の関係については澤口(2018)の著書『新版 宮沢賢治 愛のうた』で詳細に検討されている。

 

2)ポウセ童子からジョバンニへ

二人の少年を描いた『双子の星』の最終形が1922年として,それから2年後に創作された童話『銀河鉄道の夜』(第一次稿;1924.12)では賢治と恋人はカムパネルラとジョバンニという仲の良い少年になって物語の中に再登場してくるように思えるが,二人の関係は微妙に変化している。第一次稿の最終の部分に以下の記載がある。

   「あ,あすこ石炭袋だよ,そらの穴だよ。」カムパネルラが少しそっちを避けるやうにしながら天の川のひととこを指さしました。ジョバンニはそっちを見てまるでぎくっとしてしまひました。天の川の一とこに大きなまっくらな孔がどほんとあいてゐるのです。その底がどれほど深いかその奥に何があるかいくら眼をこすってのぞいてもなんにも見えずたゞ眼がしんしんと痛むのでした。ジョバンニが云ひました。

 「僕もうあんな大きな暗(やみ)の中だってこはくない。きっとみんなのほんたうのさいはひをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行かう。」

 「あゝきっと行くよ。」カムパネルラはさうは云ってゐましたけれどもジョバンニはどうしてもそれがほんたうに強い気持ちから出てゐないやうな気がして何とも云へずさびしいのでした。

(『銀河鉄道の夜』第一次稿 宮沢,1985)下線は著者 

1924年は,二人の恋の終止符が打たれた時期で,恋人は結婚して6月に渡米している。恋人をジョバンニに重ねてみれば,恋人は破局が進行する中でも賢治(=カムパネルラ)と「どこまででも一緒に行こう」(将来を共にする)と決意していたにも関わらず,賢治(=カムパネルラ)は近親者達の反対に遭遇して「あゝきっと行くよ」と口では言うが,心の底では「一緒にいく」ことを躊躇していた。

 

上記引用文の下線部分は,第二次稿(制作年度不明)では下線部分の「ほんたうに強い気持ちから」が「ほんたうのこゝろから」に変更されているだけだが,1926年頃までに書かれたとされる第三次稿および1931年以降に書かれた第四次稿では下線部分が全て削除され以下の文章が新たに追加される。第三次稿と第四次稿執筆の間に恋人は,渡米先で亡くなっている(1927.4.13)。

 「あゝきっと行くよ。あゝ,あすこの野原はなんてきれいなんだらう。みんな集まってるねえ。あすこがほんたうの天上なんだ。あっあすこにゐるのぼくのお母さんだよ。」カムパネルラは俄かに窓の遠くに見えるきれいな野原を指して叫びました。

 ジョバンニもそっちを見ましたけれどもそこはぼんやり白くけむってゐるばかりどうしてもカムパネルラが云ったやうに思はれませんでした。

(『銀河鉄道の夜』第三次稿,第四次稿 宮沢,1985)下線は引用者

第三次稿と第四次稿のこの箇所で,カムパネルラは天上で自分の母を野原の中で見つける。賢治がカムパネルラとジョバンニを「双子座」にまつわるギリシャ神話のように「双子」として設定したとすれば,水死して死んだカムパネルラ(兄カストル=人間)が天上で見かけた母はジョバンニ(弟ポルックス=神性)の死んだ母でもある。

 

第四次稿(三章,家)では,ジョバンニの母は病弱で「白い布(きれ)を被って寝(やす)ん」でいる。この「白い布」に対して,著者は以前,物語の地上世界がアラビア風になっているのでイスラム教圏の女性が顔と手以外を隠すブルカやニカブなどの服をイメージしたものと推測したことがある。しかし,童話『銀河鉄道の夜』は夢(死後の世界)の中で,銀河鉄道の列車の車窓から見える景観は地球を南欧から北米大陸へ西進していくのと同時に東北本線で「東北」(イーハトーブ)の盛岡から一関辺りへ南下していく風景が二重に見えてくる。上記引用文をイーハトーブにおける賢治と恋人との恋物語として捉えて,再度この「白い布」が何かを考えてみる。

 

ジョバンニと母は物語の中では実際に会話をしているので,母は生きているように思えるが,母が被っている「白い布」を死者が顔にかけられる「打ち覆い(あるいは顔かけ)」とすればジョバンニの母は亡くなっているともいえる。第三次稿で登場する母には,激しい動悸,安静時の呼吸困難,紫色の唇(チアノーゼ),四肢冷感,脱力感など重篤な心臓病あるいは呼吸器疾患を思わせる症状が記載されていた。

 

すでに賢治研究家の清水(2018)が第四次稿でのジョバンニの母の死を指摘している。清水によればジョバンニと母との会話は生者と死者の内的な会話だという。もしも賢治が第四次稿でジョバンニの母を死者としてイメージして書いているとすれば,またカムパネルラの母の生死が不明確に記載されていることと合わせれば,ジョバンニと「兄弟」であるカムパネルラが天上で死んだジョバンニの母を「自分の母」として認識することに矛盾はない。

 

しかし,第三次稿と第四次稿でなぜカムパネルラの母を天上に出してきたのであろうか。このカムパネルラの母に関してさらに深読みすれば,この母は「賢治の母(イチ)」がイメージされているのかもしれない。賢治は,第三次稿と第四次稿で恋人の「二人の幸せを願う気持ち」よりも母イチの「みんなの幸せを願う気持ち」を優先させたことを,後悔しながらも告白せざるを得なかったのだろう。なぜなら,カムパネルラの天上の母は,ジョバンニには「そっちを見ましたけれどもそこはぼんやり白くけむってゐるばかり」で見えないからである。恋人には,賢治が母(イチ)の願い,すなわちカムパネルラに言わせた「みんなのほんたうの天上(幸せ)」を優先させた理由が理解できないでいる。

 

4.ジョバンニの母にも賢治の恋人が投影されている

ジョバンニに賢治の恋人が投影されているとすれば,ジョバンニの母(カムパネルラの母でもある)は賢治の母イチ以外に誰が投影されているのだろうか。ジョバンニの母が物語の中で死をイメージできるとすれば,この母も第三次稿と第四次稿執筆の間の1927年に米国で亡くなった賢治の恋人であろう。

 

すなわち,ジョバンニの母が亡くなった恋人とすればジョバンニには恋人と,恋人の子が二重に投影されていることになる。さらに双子座にまつわるギリシャ神話を基に深読みすれば,恋人の子が投影されているジョバンニあるいはカムパネルラには,賢治と恋人の有り得たかもしれない結婚とその結果生まれたであろう仮想の子(息子)がイメージされているという可能性も否定できない。この仮想の子との関係は定かではないが,賢治の恋人は米国に渡ったあと2児を出産していて,いずれも夭折したということが報告されている(佐藤,1984;澤口,2010)。

 

最近,花巻の賢治研究家・布臺(2019)が米国の国立公文書館などに残された賢治の恋人や夫の記録を調査して,これまで遺族の証言などから恋人の夫の職業は土沢地区出身の医師で名が「修一」とされていたが(澤口,2018),公文書に記載されている夫は大迫(おおはさま)出身のホテル業を営む人で名も「修一」ではなく,恋人が出産した2児のうち一人の男子の名が「Shuichi」だったことを明らかにした。大迫は平成17年まで岩手県稗貫郡にあった町の名でさる。さらに恋人が肺結核ではなく喀血を伴うこともある心臓病(僧帽弁狭窄症)で亡くなったことも明らかになった。 

 

5.恋人と思い描いたドリームランド建設の夢

カムパネルラはギリシャ神話のカストル(兄)のように人間なので死んでしまうが(水死),ジョバンニは「神性(不死)」を持つポルックス(弟)のように死者であるカムパネルラと死後の世界を旅することのできる能力を持っている。賢治は,物語でジョバンニに『法華経』の第五章「薬草喩品」に記載されている「神通力」の1つである「自由に欲する所に現れ得る能力(漏尽通)」(ジョバンニの切符)を与えている。この「通行券」を持っていると幻想第四次空間で「ほんたうの天上」へも行けるし「どこでも勝手にあるく」こともできる。

 

本稿で,全ての場面ではないがカムパネルラには賢治が,ジョバンニには恋人あるいは恋人の子が投影されている可能性について論じた。童話『銀河鉄道の夜』は,「みんなのほんたうのさいはひ」を求める旅物語であるが,具体的にはイーハトーブ岩手県)に住んでいた「先住民」と「移住者」の末裔達が共に幸せに暮らせる世界を実現させるという願いが込められている(石井,2018)。

 

カムパネルラは物語の中では「移住者」として,ジョバンニは「先住民」側の人間として登場してくる。また,ジョバンニはカムパネルラと共に「科学」に興味を示し,また法華経思想も会得しているように描かれている。法華経に帰依した賢治は,恋人との有り得たかもしれない結婚を夢想し,結果として生まれてきたであろう賢治の強い意志を受け継ぐ科学と宗教(法華経思想)に精通する「先住民」の末裔としての息子にイーハトーブにドリームランドを建設する夢を託し,その夢を物語の中で実現しようとしたと思える。

 

引用文献

天沢退二郎.1989.注解.pp.313-330.宮沢賢治(著).新編 銀河鉄道の夜.新潮社.

布臺一郎.2019.花巻市博物館研究紀要14:27-33.

福島 章.1985.宮沢賢治-こころの軌跡.講談社.東京.

浜垣誠司.2018.11.8.(調べた日付).宮澤賢治の詩の世界 どこ迄でも一緒に落ちようとした.http://www.ihatov.cc/blog/archives/2012/10/14/

本間健彦.2004.「イチョウ精子発見」の検証-平瀬作五郎の生涯.新泉社.東京.

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石井竹夫.2018.宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の発想の原点としての橄欖の森-カムパネルラの恋 前編-.人植関係学誌.17(2):15-21.

長野まゆみ.2018.カムパネルラ版銀河鉄道の夜(前編).文芸 57(2):271-285.

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理科ネットワーク.2012.12.22.(調べた日付).裸子植物の生活環・イチョウの受精(動画).独立行政法人科学技術振興機構JST).http://rikanet2.jst.go.jp/outline.php?db=ippan&id=460300170

澤口たまみ.2010.宮澤賢治 愛のうた.盛岡出版コミュニティー.盛岡.

澤口たまみ.2013.宮沢賢治春と修羅』の恋について,続報.宮澤賢治センター通信 17:3-6.

澤口たまみ.2018.新版 宮澤賢治 愛のうた.夕書房.茨城.

佐藤勝治.1984宮沢賢治 青春の秘唱“冬のスケッチ”研究.十字屋書店.東京.

佐藤泰正.1996.『双子の星』から『グスコーブドリの伝記』へ-賢治童話をつらぬくもの・その一面.日本文学研究 31:125-136.

清水 正.2018.11.13(調べた日付).宮沢賢治銀河鉄道の夜』の深層(1).https://www.youtube.com/watch?v=-0sbsCLVUNY

菅原千恵子.2010. 宮沢賢治の青春“ただ一人の友”保阪嘉内をめぐって.角川書店

 

本稿は人間・植物関係学会雑誌18巻第2号47~52頁2019年に掲載された自著報文(種別は資料・報告)を基にしたものである。原文あるいはその他の掲載された自著報文は人間・植物関係学会(JSPPR)のHPにある学会誌アーカイブスからも見ることができる。http://www.jsppr.jp/academic_journal/archives.html

 

宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』-リンドウの花と母への強い思い-

Keywords:文学と植物のかかわり,ニワトコ,乳幼児期,リンドウ,リンゴ,精神分析学,夢判断

 

『農民芸術概論綱要』の中に「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という有名な語句が記載されている。賢治の作品には「自分の幸せ」よりも「他者(みんな)の救済」を優先するという心情(利他心)あるいは理念が貫かれていて,これは,賢治自身の性格の中核をなすものであるとともに行動の規範ともなっているように思われる。なぜ,賢治は自分よりも「他者を優先」するのであろうか。性格(character)という言葉は,ギリシャ語に由来し,「刻印」または「刻み込まれたもの」という意味をもっている。

 

性格形成において一番重要なのは産みの親である母(あるいは母の代理)との関係であり,大部分は「乳幼児期」(6歳までの期間)に形成されるということが知られている(繁多,1989;吉本・田原,1993;吉本,2006)。「乳幼児期」の「母」との関係のあり方がその後の性格形成と密接に関係していると強調したのは,フロイトが創始した精神分析学である。フロイト(S.Freud:1856~1939)は,オーストリアの精神医学者で成人の神経症などの分析から,「乳幼児期」の経験の重要性を認識し,この時期に性格の基礎が築かれると考えた。この「乳幼児期」に形成された性格の変更は,努めて人為的に直そうとしない限り,まずはできないことも知られている(吉本,2006)。

 

では,賢治の自分よりも「他者を優先」するという生涯変わることのなかった,あるいは変えることの難しい性格上の特性は,「乳幼児期」に母親から何を刻み込まれて(あるいは刷り込められて)でき上がったのであろうか。

 

賢治は,自分と相思相愛の恋人との関係を寓話『シグナルとシグナレス』の中の信号機である「シグナル」と「シグナレス」に,また寓話『土神ときつね』では「きつね」と「樺の木」に,あるいは童話『銀河鉄道の夜』では「カムパネルラ」や「青年」と「女の子(かほる)」といった登場人物たちに自分たちを重ねて物語の中で事の顛末を語ろうとしたとされる(澤口,2018;石井,2018)。さらに,賢治は精神分析学に基づいて恋の破局に導いた一因としての「他者を優先」させようとする自分の性格を母親との関係から解析し,この性格に導いた仮想の母親像を作品の中で登場させているように思える。

 

すなわち,童話『銀河鉄道の夜』で賢治が自分自身を投影させているのは,仮想の母親と一緒に登場する「カムパネルラ」や「青年」だけではない。「青年」と一緒に登場する6歳くらいの「男の子(タダシ)」も「幼児期」の賢治自身であろう。本稿では,童話『銀河鉄道の夜』の中の「カムパネルラ」や「男の子」と彼らの母親との関係を解析することから賢治の深層意識にある母親像について,そして賢治の「他者優先」の性格がどのようにしてでき上がったかについて考察してみたい。

 

1.童話『銀河鉄道の夜』には賢治の内面が表現されている

賢治は,大正14(1925)年にはフロイト精神分析学に関する基本的な知識はすでに持っていたと言われていて,文学上の友人でもある森荘己池の創作した詩をフロイトの理論で解析したこともあった(森,1979;大塚,1993)。大正14年5月に森(1979)が賢治と一緒に岩手山麓夜行徒歩旅行をしたときに以下の会話があったという。

春になって,蛙は冬眠から覚め,蛙のいる穴へ,ステッキをつきさせば,穴から冷たい空気が出る。ほの暖かい桃いろの春の空気に・・・・ 

私が,そのような詩を,その春に作ったことを宮沢さんに話した。すると,宮沢さんは,にわかに活発な口調になって,《あ,それはいい,よい詩です・・・・》

と,言った。ほめられたのだなと喜ぶと,つづけて言った。《実にいい。それは性欲ですよ。はっきり表れた性欲ですナ》

私は,詩をほめられたのではなかった。《フロイド学派の精神分析の,好材料になるような詩です・・・・》

その話をくわしくしてくれた。突き出たものは男性で,へこんだものは女性,などということを,こまやかに話した。フロイドの翻訳の本が出たか出ないかのころであった。英語も独逸語も読めるのだから,原書で読んだのだったろう。(引用文では「フロイト」は「フロイド」と英語風表記されている)

賢治は,この頃,森宛ての手紙で「前に私の自費で出した『春と修羅』も,亦それからあと只今まで書き付けてあるもの,これらはみんな到底詩ではありません。私がこれから,何とかして完成したいと思って居ります,或る心理学的な仕事の仕度に,正当な勉強の許されない間,境遇の許す限り,機会のある度毎に,いろいろな条件の下で書き取って置く,ほんの粗硬な心象スケッチでしかありません」(1925.2.9)と書いている。

 

手紙の中で賢治が言う「或る心理学的な仕事」とはどんな仕事だったのかについては諸説があるが,著者は,賢治が自分よりも「他者を優先」するという自分の性格を精神分析学的手法によって解析することもその仕事の1つと考えていたように思える。フロイトは,「無意識」の世界を発見したことで知られているが,「夢」を人間の「無意識」の世界を知る有効な手段と考えた(『夢判断』;1900年に発表)。

 

2.「りんご」を受け取ってくれない「母」の夢(母の存在の希薄さ)

「乳幼児期」の賢治と「母」の関係を記載している資料はわずかしか残されていない。賢治研究家の堀尾青史の作成した年譜によれば,賢治の「母」イチは「慈母」と伝えられていて,愛憐の情に充ち,自分の子だけでなく人々の幸せを祈り,変わらぬ明るさで人に接したという(堀尾,1991;宮沢,2001)。しかし,病弱でもあり,次々に生まれる妹弟の世話,舅と姑の看病あるいは家業の手伝いに忙殺されていたともある。

 

実際に「乳幼児期」に賢治は,忙しい農家の「乳幼児」のようにオシメの交換が少なくて済む「嬰児籠(えじこ)」の中で育てられている。また,この時期に忙しい母親に代わって子守したのは,事情があってか婚家先から帰り豊沢町の宮沢家に同居していた「父」の姉(ヤギ)であり,賢治をひどく可愛がり賢治が3歳の頃に「正信偈」(親鸞教行信証文類』末尾の「正信念仏偈」)や「白骨の御文章」(蓮如)を子守唄のように聞かせたという。4歳の賢治は,それらをそらんじ,朝夕の仏前のお勤行(おつとめ)には,父たちと誦経した。

 

6歳の時,賢治は赤痢に罹り花巻の隔離病舎に2週間ほど入っている。このとき看病したのは「父」や祖母キンの妹ヤツであった。ヤツは話上手で賢治に昔話を聞かせたという。このように,少ない記録ながら,「乳幼児期」の賢治は「慈母」とされる「母」に甘えられなかったようである。

 

賢治自身も,「乳幼児期」の自分と「母」イチとの関係は希薄であったと感じている(石井,2016)。多分,賢治は,自分の見る「夢」を精神分析学の知識を基に解析してそのように感じたように思える。そして,母から十分愛されているという確信が得られなかったという「寂しさ」を童話『銀河鉄道の夜』(第四次稿)に登場するキリスト教徒の姉弟の「男の子」(タダシ6歳)に投影させた。「男の子」がジョバンニの夢の中を走る銀河鉄道の列車の中で「母」の「夢」を見るが,「母」に抱きしめられることなく「リンゴ」の匂いで目が覚める。

  にはかに男の子がぱっちり眼をあいて云ひました。「あゝぼくいまお母さんの夢をみてゐたよ。お母さんがね立派な戸棚(とだな)や本のあるとこに居てね,ぼくの方を見て手をだしてにこにこにこにこわらったよ。ぼくおっかさん。りんごをひろってきてあげませうか云ったら眼がさめちゃった。あゝここさっきの汽車のなかだねえ。」 「その苹果がそこにあります。このおじさんにいただいたのですよ。」青年が云ひました。

「ありがとうおじさん。おや、かほるねえさんまだねてるねえ、ぼくおこしてやろう。ねえさん。ごらん,りんごをもらったよ。おきてごらん。」

 姉はわらって眼をさましまぶしさうに両手を眼にあててそれから苹果を見ました。 男の子はまるでパイを喰(た)べるやうにもうそれを喰べてゐました               (『銀河鉄道の夜』第四次稿 九,ジョバンニの切符;宮沢,1985)

下線は引用者

「男の子」が「夢」の中で見た「母」は,「立派な戸棚や本」のある所にいる。「立派な戸棚や本」が「父」を象徴するなら,「母」はいつも「父」の傍にいることになる。「男の子」の見た「夢」は,「アップルパイ」でも作ってもらいたいのか,庭に落ちている「りんごをひろってきてあげませうか」と言って「母」の関心を引こうとしているものである。しかし,「母」はそれに応えてくれる前に(あるいは応えずに)眼が覚めてしまう。「母」と「子」の関係が希薄ということを象徴する「夢」のようである。多分,賢治は,これと類似した「求めるが応えてくれない」というパターンの「夢」(無意識の中に封じ込めた「乳幼児期」の記憶)を繰り返し見ていたと思える。

 

3.「にはとこのやぶ」をぐるぐる回る「男の子」

同じように賢治が見た夢から創作したと思われる逸話が「ニワトコ」の周りをぐるぐる回るというものである。童話『銀河鉄道の夜』では,死んで天上世界に来た「男の子」が現世に戻りたいと駄々をこねている場面ででてくる。家庭教師の「青年」は,「あなたは死んでしまったのだから現世には戻れない。駄々をこねるのは止めなさい」と直接的に言わないで,「あなたのことを大事に思っているおっかさんのところへ行こう」と寄り添うような形で間接的に言う。「男の子」の「母」は物語の中ではすでに死んでいる。

 「お父さんやきくよねえさんはまだいろいろお仕事があるのです。けれどももうすぐあとからいらっしゃいます。それよりも,おっかさんはどんなに永く待っていらっしゃったでせう。わたしの大事なタダシはいまどんな歌をうたってゐるだらう,雪の降る朝にみんなと手をつないでぐるぐるにはとこのやぶをまはってあそんでゐるだらうかと考えたりほんたうに待って心配していらっしゃるんですから,早く行っておっかさんにお目にかゝりませうね。」                      (『銀河鉄道の夜』第四次稿 九,ジョバンニの切符;宮沢,1985)

下線は引用者 

「にはとこ」は,スイカズラ科の「ニワトコ」(Sambucus sieboldiana (Miq.) Blume ex Graebn)である。山野に生える落葉低木で,よく枝分かれして高さ3~6mになる。葉は奇数羽状複葉で対生する。「ニワトコ」は日本に現存する最古の和歌集『万葉集』や歴史書古事記』では「山たづ」という名で出てくる。「山たづ」は『万葉集』では2首掲載されていて,いずれも「迎える」の枕詞である。「ニワトコ」の葉は対生して,鳥の羽根のように向かい合っているように見えるので,両腕を広げて人を「迎える」姿に似ている(石井,2013b)。

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第1図.ニワトコ 

童話の中の「男の子」は「母」を失って寂しい思いをしてきたわけだから,無意識の中では「母」への思いが強いはずである。もしも,「母」の「男の子」に対する強烈に逢いたいという気持ちがメタファーとしての「ニワトコ」(葉の姿が両腕を広げて待っているように見える)と一緒に「男の子」に伝われば,「男の子」は駄々をこねるのを止めるのではないか。すなわち,賢治は物語で,「母」の「男の子」に強烈に逢いたがっている気持ちを「ニワトコ」に重ねて表現しようとしている。

 

これは,多分,賢治の実際に見た「夢」を基にしていて,賢治の「母」に対する「思い」も重ねているように思える。前述した「男の子」の見た「夢」にも「母」が「ぼくの方を見て手をだしてにこにこにこにこわらったよ」とある。賢治は,「母」がいつも両腕を広げて自分を待っているものと自分に信じ込ませている。しかし,「母」の両腕の中に抱きしめられることはなく,「男の子」も賢治も「ニワトコ(両腕を広げている母)」の周りをぐるぐる回っているだけである。

 

4.黄色の底を持つ「リンドウ」の花は母への「思い」を現わすメタファー

「乳幼児期」の賢治と「母」イチとの関係の希薄さは,「寂しさ」を喚起し,ますます賢治の「母」への「思い」の感情を強めたように思える。童話『銀河鉄道の夜』(第四次稿)の天上世界で「カムパネルラ」が「母」を追憶する場面で「リンドウ」が登場する。列車は「リンドウ」が咲くススキ原とその中に立つ「三角標」の中を走っていく。ここでは,6歳の「男の子」ではなく幼少年期(学童期)の「カムパネルラ」に賢治が投影されている。

  ごとごとごとごと,その小さなきれいな汽車は,そらのすゝきの風にひるがへる中を,天の川の水や,三角標の青白い微光の中を,どこまでもどこまでもと,走って行くのでした。

「あゝ,りんだうの花が咲いてゐる。もうすっかり秋だね。」カムパネルラが,窓の外を指さして云ひました。

 線路のへりになったみじかい芝草の中に,月長石ででも刻まれたやうな,すばらしい紫のりんだうの花が咲いてゐました。

「ぼく,飛び下りて,あいつをとって,また飛び乗ってみせようか。」ジョバンニは胸を躍(をど)らせて云ひました。

「もうだめだ。あんなにうしろへ行ってしまったから。」

 カムパネルラが,さう云ってしまふかしまはないうち,次のりんだうの花が,いっぱいに光って過ぎて行きました。

 と思ったら,もう次から次から,たくさんのきいろな底をもったりんだうの花のコップが,湧(わ)くやうに,雨のやうに,眼の前を通り,三角標の列は,けむるやうに燃えるやうに,いよいよ光って立ったのです。

(『銀河鉄道の夜』第四次稿 六,銀河ステーション;宮沢1985)

下線は引用者

 「りんだう」はリンドウ科の「リンドウ(竜胆)」(Gentiana scabra Bunge var. Buergeri (Miq.) Maxim.)である。「リンドウ」が群生することはなくススキ原などに1本ずつ咲く。「寂し」を連想させ,『万葉集』では異説であるが「思ひ草」の名ででてくる。前報で童話『銀河鉄道の夜』に登場する「リンドウ」は,紫式部の『源氏物語』や伊藤佐千夫の『野菊の墓』などの文学作品に登場する「リンドウ」と同じく,「母への思い」のメタファーであるということを報告した(石井,2013a)。「きいろ」の色も中国医学では「思い」に相当する。五行配当モデルの「五色」(青・赤・黄・白・黒)と「五志」(怒・喜・思・優・恐)との関係から「黄」は「思」である。「底」すなわち賢治の「無意識」の中に,「母」への強い「思い」があり,それが童話の中の「男の子」や「カムパネルラ」に投影させている。また「ススキ」は寂しさを象徴する植物である。

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第2図.リンドウ

「次から次から,たくさんのきいろな底をもったりんだうの花のコップが,湧(わ)くやうに,雨のやうに,眼の前を通り三角標の列はけむるやうに燃えるやうに,いよいよ光って立ったのです」(下線は著者)という文章は,「カムパネルラ」や賢治にとっては,寂しくなればなるほど母への「思い」が強くなり,また信仰心も強くなるということを表現している。賢治の叔母たちの子守歌としての仏教の経文が頭の中を駆け巡ったかもしれない。物語の中の「三角標」は信仰の対象物である。この場面では天上世界がキリスト教世界なので「三角標」は仏教寺院ではなくゴシック様式の教会堂の「尖塔」(三角点)である。

 

5.「母」のために実行したことは「ひとのために」

「カムパネルラ(=賢治)」は,「寂しさ」から「母」の愛を得ようとして何をしたのであろうか。物語では,「母」が「カムパネルラ(=賢治)」に求めたものを実行しようとした。

 「おっかさんは,ぼくをゆるして下さるだらうか。」

 いきなり,カムパネルラが,思い切ったといふやうに,少しどもりながら,急(せ)きこんで云ひました。

 ジョバンニは,

(あゝ,さうだ,ぼくのおっかさんは,あの遠い一つのちりのやうに見える橙いろの三角標のあたりにいらっしゃって,いまぼくのことを考へてゐるんだった。)と思ひながら,ぼんやりしてだまってゐました。

ぼくはおっかさんが,ほんたうに幸(さいはひ)になるなら,どんなことでもする。けれども,いったいどんなことが,おっかさんのいちばんの幸なんだらう。」カムパネルラは,なんだか,泣きだしたいのを,一生けん命こらへてゐるやうでした。「きみのおっかさんは,なんにもひどいことないじゃないの。」ジョバンニはびっくりして叫びました。

「ぼくわからない。けれども,誰だって,ほんたうにいいことをしたら,いちばん幸なんだねえ。だから,おっかさん,ぼくをゆるして下さると思ふ。」カムパネルラは,なにかほんたうに決心してゐるやうに見えました。

(『銀河鉄道の夜』第四次稿 七,北十字とプリオシン海岸;宮沢,1985)

下線は引用者

物語から読み取れる「母」の求めたものは,「母」が「ほんたうに幸(さいはひ)になる」ものであり,それは「ほんたうにいいことを」することである。また,そのためには「どんなことでもする」という強い意志に基づくものである。「カムパネルラ」にとって,そのためなら「どんなことでもする」という最上の「ほんたうにいいこと」とは何であろうか。多分,それは自分を犠牲にしてでも他者を救うということであろう。

 

「カムパネルラ」は,級友のザネリが烏瓜の明かりを川に流そうとして川に落ちた時に,すばやく川に飛び込んで助けた。自分よりも「他者を優先」したことで自らは川の底に沈んだ。「カムパネルラ」のとった自己犠牲の行動は,彼にとって「ほんたうにいいこと」なのだと信じられている。また,「カムパネルラ」は,自分が早く死んでしまって母を悲しませるようなことをしたが,「他者」のためにやった行為ということで「母」から許されると信じた。賢治もまた,「カムパネルラ」が実行した行動を「母」イチが自分に望んでいたものであると信じている。

 

森荘己池(1979)によれば,賢治の「母」イチは,「乳幼児」を寝かしつけながら「ひとというものは,ひとのために何かしてあげるために生まれてきたのス」と毎晩のように語り聞かせたという。また,後年イチが,「どうして賢さんは,あんなに,ひとのことばかりして,自分のことはさっぱりしないひとになったベス」と深いなげきをこめて言ったときに,賢治の弟の清六が「なにして,そんなになったって言ったってお母さん,そう言って育てたのを忘れたのスか」と母の言葉に答え,二人で笑ってしまうのであった,というエピソードも残されている。

 

心理カウンセラーの森 恭子(2010)は,このエピソードを踏まえて「母の<人の役に立たなければならない>という教えは,条件つきの愛情の示し方であり,賢治は人のために役に立たなければ,母から愛されずに見捨てられるのではないかという不安を抱いたと考えられる」と述べている。

 

賢治の「寂しさ」は,「乳幼児期」に特に母親から十分な愛情を得られなかったと感じたことからくると思われるが,それがまた,どんな状況下でも自分よりも「他者を優先」するという性格にしたのであろう。この自分よりも「他者を優先」する性格は,「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という賢治の理念ともつながっている。結婚話が破談しそうになったとき,自分(たち)の幸せを優先できなかった理由の1つでもあると思われる。

 

思想家で賢治研究家の吉本隆明(1924-2012年)は,賢治に相思相愛の恋人が存在していたことは知らなかった。吉本(2010)は,賢治に恋人ができない,あるいは性的な交渉ができない理由として,「女性にとって異性との最初の性行為が,じぶんの存在感をはじめてつかんだ体験として忘れられないように,男性にとって異性とのはじめての性行為は大なり小なり<母>の像の破壊と失墜にあたっている。宮沢賢治はたぶんこの<母>の像の破壊に,不可能なほどのたくさんのエネルギーが必要であった。」と述べている。すなわち,賢治は,「母」の「慈母像」を破壊するのに十分なエネルギーを持っていなかったので恋愛もできなかったと言っている。

 

しかし,実際には賢治には結婚まで誓った相思相愛の恋人がいたようである。そこで,吉本の発言を賢治に恋人がいたということで見直してみる。すると,賢治は恋愛をしたのだから自分よりも「他者を優先」することを望む「母」の「慈母像」も破壊されてよかったはずであるということになる。多分,賢治も,自分を分析し,そのような「性格」に導いた「母」イチの「慈母像」を破壊しようとしたはずである。それができなかったのは,この「慈母像」自身が「擬制」であったからであろうか。

 

賢治の「母」は,「慈母」と言われているが気難しく厳格な「父」政次郎には従順であった。賢治にとって「母」は,その「父」を押しのけてまで,また義親の世話や家業の手伝いを拒否してまで,あるいは条件付きでなく,自分を愛してくれるような存在とは思えなかった。賢治の「母」から十分な愛情を得られなかったという強い自覚は,永続的に「母」を求めることになり,「母」の子守歌である「ひとというものは,ひとのために何かしてあげるために生まれてきたのス」という性格の一端をも形成した「他者優先」の呪縛から生涯逃れることを困難にした。

 

引用文献

繁多 進.1989.第Ⅲ章 幼児期・児童期.pp90-105.依田 明(責任編集).性格心理学新講座 第2巻 性格形成.金子書房.東京.

堀尾青史.1991.年譜 宮澤賢治伝.中央公論社.東京.

石井竹夫.2013a.宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に登場する「りんだうの花」と悲しい思い.人植関係学誌.13(1):15-18.

石井竹夫.2013b.宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に登場する「にはとこのやぶ」と駄々っ子.人植関係学誌.13(1):19-22.

石井竹夫.2016. 宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に登場する列車の中のリンゴと乳幼児期の記憶.人植関係学誌.16(1):1-58.

石井竹夫.2018.宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の発想の原点としての橄欖の森-ケヤキのような姿勢の青年 前編-.人植関係学誌.18(1):15-18.

宮沢賢治.1985.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.東京.

宮沢賢治.2001.新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)補遺・資料・年譜編.筑摩書房

森 恭子.2010.青年期心理とアイデンティティの形成過程-宮澤賢治の伝記資料と作品を通して-.瀬木学園紀要 4:14-59

森荘已池.1979.宮沢賢治の肖像.津軽書房.青森.

大塚常樹.1993.宮澤賢治 心象の宇宙論コスモロジー).朝文社.東京.

澤口たまみ.2018.新版 宮澤賢治 愛のうた.夕書房.茨木.

吉本隆明・田原克拓.1993.時代の病理.春秋社.東京.

吉本隆明.2006.家族のゆくえ.光文社.東京.

吉本隆明.2010.宮沢賢治筑摩書房.東京.

 

本稿は人間・植物関係学会雑誌18巻第1号25~29頁2018年に掲載された自著報文(種別は資料・報告)を基にしたものである。原文あるいはその他の掲載された自著報文は人間・植物関係学会(JSPPR)のHPにある学会誌アーカイブスからも見ることができる。http://www.jsppr.jp/academic_journal/archives.html

宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』-ケヤキのような姿勢の青年(2)-

Keywords:文学と植物のかかわり,移住者,先住民,スギ,タイタニック号遭難,  東北,槻(つき),大和朝廷

 

前報では「ケヤキ」がなぜ「大和朝廷」を象徴するようになったのかの理由について説明した。本稿では,賢治が「移住者」を象徴する「ケヤキ」を童話『銀河鉄道の夜』の中にどのように描いているのかについて解説するとともに,賢治の恋の破局理由についても言及してみたい。

 

1.『銀河鉄道の夜』に登場する「ケヤキ

「東北」(岩手県)の「先住民」と「移住者」の対立の渦の中に賢治と相思相愛の恋人が巻き込まれ,恋が破局した可能性があるということについて報告した(石井,2018)。童話『銀河鉄道の夜』の初期形第一次稿の「橄欖の森」の場面は,「女の子」を「東北」に先住していた人を祖先にもつ恋人とし,この「女の子」に恋をするカムパネルラを後から「東北」へきた「移住者」の末裔としての賢治に当てはめると賢治の恋物語としても読むことができるということも説明した。第四次稿では第一次稿にいくつかの物語が加筆される。この加筆された文章の中に「先住民」を連想させる「女の子(かほる)」が難破船の乗客として,「移住者」を連想させる「ケヤキ」の姿勢のような「青年」と一緒に登場してくる。

 「何だか苹果(りんご)の匂がする。僕いま苹果のこと考へたためだらうか。」カムパネルラが不思議さうにあたりを見まはしました。「ほんたうに苹果の匂だよ。それから野茨の匂もする。」ジョバンニもそこらを見ましたがやっぱりそれは窓からでも入って来るらしいのでした。いま秋だから野茨の花の匂のする筈はないとジョバンニは思ひました。そしたら俄かにそこに,つやつやした黒い髪の六つばかりの男の子が赤いジャケツのぼたんもかけずひどくびっくりしたやうな顔をしてがたがたふるえてはだしで立ってゐました。隣りには黒い洋服をきちんと着たせいの高い青年が一ぱいに風に吹かれてゐるけやきの木のやうな姿勢で,男の子の手をしっかりひいて立ってゐました。「あら,こゝどこでせう。まあ,きれいだわ。」青年のうしろにもうひとり十二ばかりの眼の茶いろな可愛らしい女の子が黒い外套を着て青年の腕にすがって不思議さうに窓の外を見てゐるのでした。(『銀河鉄道の夜』第四次稿 九.ジョバンニの切符 宮沢,1985)下線は著者

 

春でもないのに「野茨の匂い」がするということで,「野茨」から「野ばら」が,そして「野ばら」から「木苺」が連想され,茶色の「キイチゴ」の実をイメージした「眼の茶色」な「黒い外套」を着た「女の子」が登場してくる。賢治の相思相愛の恋人も「眼が茶色」で「黒い外套」を着るときがあったという。詩集『春と修羅』の「春光呪詛」(1922.4.10)には「頬がうすあかく瞳が茶いろ/ただそれっきりのことだ」と恋人の目の色を表現した記述があり,また詩ノート〔古びた水いろの薄明窮の中に〕(1927.5.7)には「恋人が雪の夜何べんも/黒いマントをかついで男のふうをして/わたくしをたづねてまゐりました/そしてもう何もかもすぎてしまったのです」(下線は著者)とある。

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第1図.キイチゴモミジイチゴ)の花と実

 

童話『銀河鉄道の夜』第四次稿のこの場面とこれに続く難破船の話に登場する「女の子」も第一次稿と同じく賢治の恋人をイメージして読むと第四次稿に対する新しい解釈が可能になる。もしかしたら,この場面に賢治の恋の破局の理由が語られているのかもしれない。

 

上記引用文に続く難破船の話は実際に起こったタイタニック号遭難をヒントにして作られている。「女の子」が乗る船が氷山と衝突して沈没してしまうが,「女の子」は救助されることなく銀河鉄道という「死後の世界」を走る列車に乗り込んでくる。タイタニック号は,沈没するまでかなりの時間があり救命ボートも用意されていた。乗船した人全てを乗せる余裕はなかったが,婦女子優先のルールがあり婦人と子供の多くが夫(父親)や乗組員によって救助されている。

 

すなわち,物語の第四次稿も「女の子」は遭難したあとに助けられてもおかしくはなかった。しかし,一緒に乗船したキリスト教徒らしい「ケヤキ」のような姿勢の家庭教師(父親から雇われている)の「青年」は「女の子」を助けることができなかった。「青年」が「女の子」を婦女子優先の救命ボートに乗せずに「死後の世界」を走る列車に乗車させた弁明が以下のように語られる。

 「いえ,氷山にぶつかって船が沈みましてね,わたしたちはこちらのお父さんが急な用で二カ月前一足さきに本国へお帰りになったのであとから発ったのです。私は大学へはひってゐて,家庭教師にやとはれてゐたのです。ところがちょうど十二日目,今日か明日のあたりです,船が氷山にぶつかって一ぺんに傾きもう沈みかけました。月のあかりはどこかぼんやりありましたが、霧が非常に深かったのです。ところがボートは左舷の方半分はもうだめになってゐましたから,とてもみんなは乗り切らないのです。もうそのうちには船は沈みますし,私は必至となって,どうか小さな人たちを乗せてくださいと叫びました。近くの人たちはすぐみちを開いてそして子供たちのために祈って呉れました。けれどもそこからボートまでのところにはまだまだ小さな子どもたちや親たちやなんか居て,とても押しのける勇気がなかったのです。それでもわたくしはどうしてもこの方たちをお助けするのが私の義務だと思ひましたから前にゐる子供らを押しのけようとしました。けれどもまたそんなにして助けてあげるよりはこのまゝ神のお前にみんなで行く方がほんたうにこの方たちの幸福だとも思ひました。それからまたその神にそむく罪はわたくしひとりでしょってぜひとも助けてあげようと思ひました。けれどもどうして見てゐるとそれができないのでした。子どもらばかりボートの中へはなしてやってお母さんが狂気のやうにキスを送りお父さんがかなしいのをじっとこらへてまっすぐに立ってゐるなどとてももう腸(はらわた)もちぎれるやうでした。そのうち船はもうずんずん沈みますから,私はもうすっかり覚悟してこの人たち二人を抱いて,浮かべるだけは浮かぼうとかたまって船の沈むのを待ってゐました。誰が投げたかライフブイが一つ飛んで来ましたけれども滑ってずっと向ふへ行ってしまひました。私は一生けん命で甲板の格子になったとこをはなして,三人それにしっかりとりつきました。どこからとなく〔約二字分空白〕番の声があがりました。たちまちみんなはいろいろな国語で一ぺんにそれをうたひました。そのとき俄かに大きな音がして私たちは水に落ちました。もう渦に入ったと思ひながらしっかりこの人たちをだいてそれからぼうっとしたらと思ったらこゝへ来てゐたのです。この方たちのお母さんは一昨年亡くなられました。えゝボートはきっと助かったにちがひありません,何せよほど熟練の水夫たちが漕いですばやく船からはなれてゐましたから。」(『銀河鉄道の夜』第四次稿 九.ジョバンニの切符 宮沢,1985)下線は著者 

 

2.難破船の話の中に賢治の恋の破局の真相が隠されている

タイタニック号で救命ボートの数が不足していたのは船の安全性に対する過信もあったとされる。タイタニック号は,無線機を配備し,二重船底構造の自動防水ドア付で15の隔壁をもつ近代科学技術の粋を集めた客船で,クルーも乗客も安全性を信じて疑わなかった。その「過信」あるいは「慢心」が救命ボートの不足や救助要請の遅れに導き,多くの尊い命を奪ったとされる(中尾,2018)。

 

物語では「女の子」の命を助けられなかった主な理由(救命ボートに乗せられなかった理由)として,家庭教師の「青年」は「近くの人たちはすぐみちを開いてそして子供たちのために祈って呉れました。けれどもそこからボートまでのところにはまだまだ小さな子どもたちや親たちやなんか居て,とても押しのける勇気がなかったのです」,あるいは「神にそむく罪はわたくしひとりでしょってぜひとも助けてあげようと思ひました。けれどもどうして見てゐるとそれができないのでした」(下線は著者)という2つの理由をあげている。

 

「女の子」は,「ケヤキ」の木の姿勢の「青年」の腕に「すがって」とあるようにぴったりと寄り添っている。この「女の子」を助けることができなかった「青年」を賢治に重ねれば,「青年」が語る話は,賢治が結婚に対して猛反対する両家の近親者たちに対抗することができずに,賢治に絶大な信頼を寄せている恋人を異郷(米国)の地へ行かせてしまった理由とも解釈できる(恋人は異郷の地へ渡ったあと3年後に亡くなっている)。賢治側の近親者には結婚に理解するものもあったらしく,宮沢家から正式に結婚の申込が恋人側にあったという。

 

童話では「誰が投げたかライフブイが一つ飛んで来ましたけれども滑ってずうっと向ふへ行ってしまひました」という記載に対応する。最後まで反対したのは恋人側の母親あるいは近親者らしい(澤口,2010)。

 

「女の子」が「ケヤキ」の木の姿勢の「青年」の腕に「すがって」いる様子と同じ表現をしたものが物語の後半にも登場する。第一次稿でも第四次稿でも,ジョバンニが夢から醒めかけたときに赤い腕木の電信柱(高圧送電線A柱)が現れるが,腕木は一般的には「ケヤキ(槻)」が,そして電信柱の支柱には「杉」が使われる(石井,2017)。それゆえ,この「赤い腕木の電信柱」も「移住者」の末裔である賢治(槻)の腕(腕木)に相思相愛の恋人(杉)が寄り添っている姿になぞらえることができる。

 

破談の理由の1つとして,賢治が恋人側の近親者の主張を「押しのける勇気がなかった」ということがあったとすれば,これば恋人側の背後にある「まっくらな巨きなもの」を動かす力がなかったことを指していると思われる。この「まっくらな巨きなもの」は,「先住民」の「移住者」への「疑い」や「反感」と関係していると思われるが,その根底にあるものは『春と修羅 詩稿補遺』にある「火祭」の「(ひば垣や風の暗黙のあひだ/主義とも云はず思想とも云はず/たゞ行はれる巨きなもの)」にあるように「先住民」のもつ主義や思想とは異なるものである。

 

「先住民」の「反感」が主義や思想からくるものであれば動かしようもある。「押しのける力」が弱いのは,この「まっくろな巨きなもの」が何か明確につかみ切れていないことがあったからかもしれない。また,賢治の「慢心」もあったと思われる。賢治は,農民らから繰り返し「やっぱりおまへらはおまへらだし/われわれはわれわれだと」と言われてきた。賢治は,この「まっくらな巨きなもの」に衝突したとき,説得が困難でも前述したタイタニック号のクルーたちのように沈没(結婚話の破談)するはずはないという「慢心」の気持ちが強くあったような気がする。

 

「先住民」が示す「まっくらな巨きなもの」と賢治の「慢心」は,「陰」と「陽」の様に表裏一体のものである。賢治が残した最後の書簡(1933.9.11;没10日前)には「私のかういふ惨めな失敗はたゞもう今日の時代一般の巨きな病,「慢」といふものの一支流に過って身を加へたことに原因します。僅かばかりの才能とか,器量とか,身分とか財産とかいふものが何かじぶんのからだについたものでもあるかと思ひ,自分の仕事を卑しみ,同僚を嘲り,いまにどこかじぶんを所謂社会の高みへ引き上げに来るものがあるやうに思ひ,空想をのみ生活して却って完全な現実の生活をば味ふこともしてこなかった」と猛省している。

 

当時は自由な恋愛が許されなかったので,二人の恋は,「噂にならないように,誰にも見られないように,細心の注意を払いながら続けられた」という(澤口,2010)。そのため,結婚に反対する近親者への説得を放棄して恋を貫けば(駆け落ち),「そこからボートまでのところにはまだまだ小さな子どもたちや親たちやなんか居て」とあるように,恋人の兄弟や妹たちにも影響を及ぼしたであろう。

 

また,賢治は,自分が財閥一族の出身であることを負い目に感じていて,農学校時代の同僚に「花巻黒沢尻あたりの財閥は,農村を搾取してできたものだ。これを農村に返させるのが自分の仕事だ」と話したという(堀尾,1991)。賢治は宮沢家の長男であり,自分が家長になったら財産を無償で農民へ帰す決意をしていたとも言われている(吉見,1982;多田,1984)。そのためには花巻あるいは宮沢家からは離れられない。

 

もう1つの「神にそむく罪」は,キリスト教というよりは仏教とりわけ「法華経」に関する罪であろう。「法華経」に帰依する賢治にとっては恋愛そのものが『法華経』の「安楽行品第十四」に記載されている「女性に近づいてはいけない」という教えに背くことを意味している。また賢治が主張する『農民芸術概論綱要』の「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」とも相いれない。

 

同様の恋愛の否定は,詩集『春と修羅』の中の詩「小岩井農場」の「じぶんとひとと万象といっしょに/至上至福にいたらうとする/それをある宗教情操とするならば/そのねがひから砕けまたは疲れ/じぶんとそれからたつたもうひとつのたましひと/完全そして永久にどこまでもいつしょに行かうとする/この変態を恋愛といふ」詩句にも述べられている。賢治が恋愛をしているとき,妹だけでなく恋人も結核に患っていたことが明らかになっていて,破局の原因の1つにあげる研究者もいる(澤口,2011)。しかし,賢治が破局の主な原因をこの物語で述べているとすれば前記した2つがその理由のように思える。

 

物語の第四次稿では,このあとに列車は「まっ赤に光る円い実がいっぱいの林」を見たり,また賛美歌を聞いたりしながら通過していくが,このとき青年は顔色が青ざめ,「女の子」はハンカチを顔にあててしまう。多分,この林の沢山の赤い実は「瞳」のメタファーであり(石井,2014),賢治と恋人の結婚に反対する近親者たちの怒りの「眼」である。

 

物語では,さらに赤帽の「信号手」が登場し高い櫓の上から旗を振ったり「今こそ渡れ渡り鳥」と言ったりして渡り鳥の動きを統率しているが,この信号手による一糸乱れぬ鳥の群れの行動は,賢治が結婚に反対する近親者たちを皮肉ったものと思われる。

 

これら近親者たちの組織だって結婚に反対する様子は,恋の破局の顛末を記載したとされる寓話『シグナルとシグナレス』(1923)で詳細に紹介されているという(澤口,2010)。著者は,この近親者たちの組織だって行動する様子を童話『銀河鉄道の夜』と関係深いとされる詩「薤露青」(1924.7.17)の「杉ばやしの上がいままた明るくなるのは/そこから月が出ようとしてゐるので/鳥はしきりにさわいでいる」という詩句の中にも見ることができると思っている。

 

この語句中に登場する「月」は恋人のことを言っている。「文語詩未定稿」の〔セレナーデ 恋歌〕で恋人を「ルーノの君」と呼んでいるが,「ルーノ(luno)」はエスペラント語で「月」である。詩「薤露青」のこの場面は自然描写とは考えにくく,恋人(=「月」)が「東北」の大地(=「杉ばやし」)から出て行こう(1924年6月;渡米)とすると近親者(=鳥)たちが騒ぎだすと読めば意味が通じる。詩「薤露青」は,妹の死(1922.11.27)を嘆いて詠んだ挽歌であるが,賢治は同時に恋人との別れも悲しんでいる。この詩は,理由は定かでないが全文が消しゴムで末梢されたものであり,後に研究者によって復元されている。

 

3.『銀河鉄道の夜』は賢治が恋人に読んでもらいたかったもの

童話『銀河鉄道の夜』初期形第一次稿は,1924年冬に短編童話集『注文の多い料理店』(1924.12.1)の出版記念のつもりで花巻公会堂という料亭で開いた会食の際に友人二人(菊池武雄,藤原嘉藤治)に披露されたという(堀尾,1991)。その直前とも思える頃の『春と修羅』遺稿 「孤独と風童」(1924.11.23)に恋人とこの童話を直接結び付ける話が記載されている。1924年6月には,恋人が結婚して渡米しているので,この詩が書かれたのは恋人が渡米して半年後ということになる。

 

   シグナルの赤いあかりもともったし

   そこらの雲もちらけてしまふ

   プラットフォームは

   Yの字をしたはしらだの

   犬の毛皮を着た農夫だの

   けふもすっかり酸えてしまった

   東へ行くの

   白いみかげの胃の方へかい

   さう では おいで

   行きがけにねえ

   向ふの あの

   ぼんやりとした葡萄いろのそらを通って

   大荒沢や向ふはひどい雪ですと

   ぼくが云ったと云っとくれ

   ぢゃ さようなら

      (宮沢,1985)  下線は著者 

 

この詩の「Yの字をしたはしら」とは,澤口(2018)によれば恋人のことで,「Yの字」は恋人の名のイニシャルだという。しかし,恋人を「東北」の大地に先住した人たちの末裔とすれば,賢治は「Yの字をしたはしら」を「アイヌ民族」が儀式に使う柱という意味でも使っているようにも思える。例えば「Yの字」という語句は詩ノートの中の詩〔これらは素朴なアイヌ風の木柵であります〕(1927.5.9)にも登場するが,この場合は「アイヌ」の「神(カムイ)祭り」でクマなどの神々の頭骨などを安置する祭壇(木柵)の中の「Yの字」の形をした柱を指していると思われる(原,1999;浜垣,2018)。

 

詩〔これらは素朴なアイヌ風の木柵であります〕では,作物の豊穣の恵みを願って「Yの字」の形の桑の木をアイヌ風の木柵に見立てて,「えゝ/家の前の桑の木を/Yの字に仕立てて見たのでありますが/それでも家計は立たなかったのです」とある。「アイヌ」は「神(カムイ)祭り」で神であるクマなどの頭骨を「Yの字」の形の柱に挟んで,その魂を神の国に送ることによって,神がお返しに自分たちに獲物などの豊穣の恵みを送ってくれると信じた。すなわち,詩「孤独と風童」の「Yの字をしたはしら」とは「東北」の大地に先住した人たちの末裔としての恋人という意味であろう。

 

「白いみかげの胃」は北アメリカ大陸を意味するのだという(澤口,2018)。北アメリカは地図上の形が胃に見える。また,北アメリカ大陸の大部分は「北アメリカ・クラトン;North American craton」と呼ばれる花崗岩(=御影石)などの軽量の珪長質の火成岩から成る安定陸塊でできているからである。「プラットフォーム」は,鉄道駅という意味もあるが,ここでは「北アメリカ・クラトン」に堆積岩などの被覆物が積もってできた台地(platform)を意味する。田舎の駅に見せかけて,実は恋人の居場所を示しているのだという。「御影石」は「墓石」に使うのでアメリカを「白い墓標」に見立てている。この詩の本意は,澤口によれば「もしも風の妖精よ,叶うなら岩手(大荒沢)のこの清らかな雪のひとひらを米国へ渡ったあの人へ届けてくれ」である。

 

しかし,この詩の下書稿(先駆形)では,さらに「樺の林の芽が噴くころにまたおいで/こんどの童話はおまへのだから」(下線は著者)という2行が加えられていた。すなわち,「こんどの童話はおまへのだから」と加えて,風の妖精(風童)に「雪のひとひら」を届けるだけでなく,春になったら「おまえのために『銀河鉄道の夜』を創作していること」も伝えてくれとも言っている。多分,賢治は「一緒になれなかった理由」を書き留めたこの童話を恋人に読んでもらいたかったのであろう。

 

引用文献

浜垣誠司.2018.4.21.(調べた日付).宮沢賢治の詩の世界-「これらは素朴なアイヌ風の木柵であります」詩碑.http://www.ihatov.cc/monument/116.html

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堀尾青史.1991. 年譜 宮澤賢治伝.中央公論社.東京.

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石井竹夫.2017.宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に登場する赤い腕木の電信柱(前編).人植関係学誌.17(1):23-27.

石井竹夫.2018. 宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の発想の原点としての橄欖の森-カムパネルラの恋 前編-.人植関係学誌.17(2):27-30.

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澤口たまみ.2018.3.8(調べた日付).みちのく随想「白い墓標」(岩手日報掲載 2016.4.25).http://happy.ap.teacup.com/tamamushi/650.html

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吉見正信.1982.宮沢賢治の道程.八重岳書房.東京.

 

本稿は人間・植物関係学会雑誌18巻第1号19~23頁2018年に掲載された自著報文(種別は資料・報告)を基にしたものである。原文あるいはその他の掲載された自著報文は人間・植物関係学会(JSPPR)のHPにある学会誌アーカイブスからも見ることができる。http://www.jsppr.jp/academic_journal/archives.html

宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』-ケヤキのような姿勢の青年(1)-

Keywords:文学と植物のかかわり,移住者,まっくらな巨きなもの,先住民,スギ,東北,槻(つき),大和朝廷

 

銀河鉄道の夜』の初期形第一次稿(1924冬)の出だしに登場するのは「橄欖(かんらん)の森」である。この「橄欖の森」には物語の舞台が北米大陸にも関わらず,我が国の「蛇紋岩」や「橄欖岩」を産出する北上山系(「東北」)の大地が二重写しの風景として立ち現われ,その風景の中に「蝦夷(エミシ)」や「アイヌ」といった「先住民」を象徴する在来種の「杉」がイメージされていた(石井,2018)。しかし,このイメージされた「東北」の大地には「先住民」だけでなく,多くの「移住者」やその末裔たちも住んでいた。

 

「杉」が「先住民」を象徴するなら,「移住者」を象徴する植物はなんであろうか。「東北」の大地に先住した「蝦夷」は,奈良や京都の畿内に都を持った「大和朝廷」およびそれに続く歴代の中央政権に対立する「まつろわぬ民」として存在してきた。中央政権にとって「東北」は権力の及ばない別の国であり,「東北」の大地に移住してきた人たちの多くは,両者の対立の中で南からやって来た「大和朝廷」あるいは中央政権側の人たち(近代化をもたらす開拓民)であろう。そこで,「東北」において,「移住者」を象徴する植物があるとすれば,それは「大和朝廷」を象徴する植物と思われる。

 

考古学・歴史学者の辰巳和弘(2009)や植物・植生研究家の有岡利幸(2004,2016)は,「大和朝廷」から続く歴代の天皇を中心とした中央政権を象徴する植物として「ケヤキ」をあげている。童話『銀河鉄道の夜』にもこの「ケヤキ」が「スギ」をイメージできるものと一緒に登場してくる。本稿では「ケヤキ」がなぜ「朝廷」を象徴するようになったのかを説明するとともに,賢治が「先住民」を象徴する「スギ」と「移住者」を象徴する「ケヤキ」を作品の中にどのように描いているのかについて解説する。

 

1.「ケヤキ」は「大和朝廷」を象徴する聖樹

「スギ」(Cryptomeria japonica (Thunb. Ex L.f.) D.Don)は,ヒノキ科スギ属の常緑針葉樹の日本固有種である。一方,「ケヤキ」(欅,Zelkova serrata (Thunb.) Makino )は,ニレ科ケヤキ属の落葉高大木で,我が国(本州)のみならず,台湾,朝鮮半島,中国の温帯地方に分布している。すなわち,「ケヤキ」は,「スギ」のような在来種ではない。また,「ケヤキ」は大木となるばかりではなく,樹冠が扇を開いたようで美しく,樹勢は堂々としている。

 

ケヤキ(欅)」の古名は「槻(つき)」である。古い時代の文献には「槻」として登場する。我が国最古の歴史書である『古事記』(712年に太安万侶が編集)には,雄略天皇(第21代天皇)が記載されているところに登場する。どのように記載されているのか見てみよう。

 

天皇が長谷(はつせ:今の奈良県桜井市)の朝倉宮の「百枝槻(モモエツキ)」とよばれる枝が四方に広がりよく茂っている大木の「槻」の下に座して豊楽(とよのあかり)の宴会(新嘗祭の翌日)をされたとき,伊勢国から宮につかえていた采女(うねめ)が,天皇に杯を捧げようとした。このとき,「槻(つき)」の葉が杯に落ちて杯に浮いていたが,采女はそれに気が付かずに天皇に献上してしまった。天皇はそれに怒って采女を打ちふせ,刃を首にさしあてて切ろうとした。そのとき采女が,天皇から許しを得るために

 

  新嘗屋に 生い立てる 百足る 槻が枝は 上枝は 天を覆へり

    中つ枝は 東(あずま)を覆へり 下枝は 鄙(ひな)を覆へり

    

と歌った。この歌の意味は,「新嘗(にいなめ)の御殿の傍に生い立っている枝葉のよく茂った大木の槻は,上枝は高く天上を覆い,中枝は遠く東の国を覆い,下枝は田舎の国(西の国)を覆っている」と言うことで,天皇が座しているところの「槻の大きさ(=天皇の勢力範囲の大きさ)」を称えたものである。そして,この歌により采女の無礼が許されたという。

 

雄略天皇の頃の勢力範囲は,畿内を中心に東は現在の埼玉県から西は熊本県に及んでいた(有岡,2016)。京都を含む畿内と東方の地の境には「逢坂関(おうさかのせき)」という関所がある。新嘗祭は統治者(天皇)としては最も象徴的な王権の祭儀である。天皇がその年に収穫された新米を天神地祇天津神国津神)にお供えし,また同時に天皇がこれを神とともに食する祭儀である。その祭儀が行われる新嘗屋の傍に聳え立つ「槻」は,単なる樹ではない。辰巳(2009)によれば「古代人は,「槻」を天から地の果てまですべての空間を覆う世界の中心に立つ聖樹,すなわち世界樹(宇宙樹)として認識していた」と考えている。

 

史書日本書紀』の皇極天皇飛鳥時代,第35代天皇)が記載されているところにも「槻」が登場する。『日本書紀』によれば,蘇我入鹿(そがのいるか)が暗殺され蘇我氏が滅亡した乙巳の変(いっしのへん;大化元年;西暦645年)の首謀者は,中大兄皇子中臣鎌足で,二人の最初の出会いが「槻」の下ということになっている。

 

この頃は,天皇の力が弱体化して豪族の蘇我氏が政治の中心にいた。蘇我蝦夷を父にもつ蘇我入鹿が国家をかすめようとしていることに憤慨した政治家の中臣鎌足は,天皇家を守るため天皇家の人々に接触してこの企てを阻止するべく明主を探していた。そして,中臣鎌足は,法興寺の「槻」の下で蹴鞠(けまり)をしていた中大兄皇子の脱げ落ちた靴を拾って跪いて手渡したということが縁で,天皇家中大兄皇子に近づき,二人で協力して蘇我入鹿を討ち果たした。蘇我一族が滅ぼされ天皇中心の政権が復活すると,すぐに新政権は飛鳥寺(奈良)の「槻」の下に群臣を集め孝徳天皇への忠誠を誓わせる。このように,古代の歴史書天皇家と「槻」が長い間密接な関係を保っていたことが記載されている。

 

蘇我蝦夷の下の名である蝦夷は,「東北」の「蝦夷」とは直接的な関係はなく,勝者が歴史を残すとき敗者の名前を蔑称に書き換えたともいわれている。賢治の童話『よだかの星』において,「ヨタカ(夜鷹)」(ヨタカ科;Caprimulgus indicus Latham)がオオタカ(タカ科;Accipiter gentilis 〔Linnaeus〕)などの「タカ(鷹)」の仲間から容姿が醜いといっていじめられ,「タカ」の名前を使うな「市蔵」に改名せよと強要されるのに似ている。

 

2.「大和朝廷」と「東北」の対立

天皇を中心とした中央政権」と「蝦夷(エミシ)」との対立は,朝廷側からすれば蝦夷征討とも呼ばれ,京都に都を置いた平安時代まで続く。さらに,その対立の影響は鎌倉,江戸時代の武家中心の時代および明治維新後の賢治の生きた時代にまで及んだ(梅原,2011;高橋,2012;高橋,2017)。

 

例えば,奈良時代に始まった三十八年戦争(774~811年),平安時代初期の朝廷軍を率いる征夷大将軍坂上田村麻呂蝦夷の指導者アテルイ,モレの戦い,朝廷の命を受けた源頼義・義家と阿部一族の戦い(前九年の役;1051~1062年),さらに権力が朝廷から武家へ移行する時期の1189年の源頼朝による奥州藤原氏征討,そして明治新政府との戊辰戦争(1868~1869年)などがあげられる。最近では1988年,首都機能移転の議論の中で大阪商工会議所会頭であった佐治啓二が起こした東北熊襲発言(「東北は熊襲の産地。文化的程度も極めて低い」)に見られる舌禍事件があげられる。「熊襲」は,古代の日本において九州南部にいた反朝廷勢力を指す言葉である。

 

このように「東北」は「中央」(京都あるいは東京)にいる支配者に対立してきたが,それだけでなく「中央」よりは地理的に遠く,「寒さ」と「貧しさ」の「辺境の地」というイメージも持っている。この支配者側のイメージが殆どの日本人の「東北」に対するイメージにもなっているという(梅原,2011)。

 

3.賢治作品に登場する「スギ」と「ケヤキ」 

詩集『春と修羅』の「天然誘接」(1922.8.17) という詩の「東北」と思われる大地には「スギ(杉)」(=先住民)と「ケヤキ(槻)」(=移住者)が一緒に並んで登場する。

    北斎(ほくさい)のはんのきの下で

    黄の風車まはるまはる

    いつぽんすぎは天然誘接(てんねんよびつぎ)ではありません

    槻(つき)と杉とがいつしよに生えていつしよに育ち

    たうたう幹がくつついて

    険しい天光(てんくわう)に立つといふだけです

    鳥も棲んではゐますけれど

                  (宮沢,1985)下線は引用者

詩「天然誘接」の「誘接」とは「寄せ接ぎ」のことで人工的に作る「接ぎ木」の方法の1つである。接ぎ穂を台木に寄り合わせて植え,台木と接ぎ穂が接するところを削り合わせてしばり,十分に融合させたのちに,台木の上部と接ぎ穂の下部を切るものである。「誘接」だと片方の木(接ぎ穂)の下部は切り離されるので1本の木になるが,詩の中の「いっぽんすぎ」は自然に「スギ」と「ケヤキ」が接合しただけのもので,詩に書かれてあるように植物学的な意味での「誘接」ではない(石井,2017)。

 

この詩の最初の2行は,浮世絵師である葛飾北斎(1760~1849年)の富嶽三十六景「駿州江尻(すんしゅうえじり)」を参考にしたものと思われる。浮世絵「駿州江尻」では,絵の左側に2本の木(種名は特定できない)が強風に吹かれながら「天然誘接」のようにくっつく様に2本並んで立っている。木の下の旅人の菅笠が風に吹き飛ばされ「黄の風車」のようにくるくる回っているように見える。詩ではこの浮世絵の2本の木のイメージに重ね合わせるように,「東北」の大地に「スギ」(=先住民)と「ケヤキ」(=移住者)が一緒にくっつくように立っている(住んでいる)様子が記載されている。

 

この詩の最後に「鳥も棲んではゐますけれど」とあるが,これは「東北」の大地に両者がただ一緒に住んでいるというだけでなく,例えば婚姻の形で「先住民」と「移住者」が一緒になり家族を形成することもあるということを言っているように思える。これを賢治と恋人に当てはめることもできる。制作時期は明らかではないが「文語詩未定稿」の〔まひるつとめにまぎらひて〕という仮の題名のついた作品に二人の恋愛に絡ませて「移住者」を象徴する「ケヤキ」が登場する。

 

短い作品なので全文を紹介すると,「まひるつとめにまぎらひて/きみがおもかげ来ぬひまは/こころやすらひはたらきし/そのことなにかねたましき/新月きみがおももちを/つきの梢にかゝぐれば/ 凍れる泥をうちふみて/さびしく恋ふるこゝろかな」(宮沢,1985;下線は引用者)というものである。

 

「かかぐる」は「手探りで探し求める」とか「たどる」の意味である。昼,勤めている間は気持ちが紛れて恋人を忘れていられるが,新月の夜は,「つきの梢」に恋人の面影を探し求めて寂しくなるという意味である。この「つき(=ケヤキ)」を「移住者」の末裔としての賢治自身として深読みすれば,賢治は,恋人が去ったあと自分の腕(「つきの梢」)の中に残る恋人の温もりが思い出されて無性に寂しくなると言っている。

しかし,恋人と賢治だけでなく,「先住民」と「移住者」がうまく共存して天然ではなく「ほんとう」の「誘接」のように1本にはなかなかなれない。

 

制作時期は不明だが『春と修羅 詩稿補遺』の「休息」には,「東北」の大地に生える(住む)「スギ(杉)」(=先住民)と「ケヤキ(槻)」(=移住者)の対立が描かれている。

  地べたでは杉と槻の根が、
  からみ合ひ奪ひ合って
  この痩せ土の草や苔から
  恐ろしい静脉のやうに浮きでてゐるし
  そらでは雲がしづかに東へ流れてゐて
  杉の梢(ウラ)は枯れ
  槻のはずゑは何か風からつかんで食って生きてるやう
    ……杉が槻を枯らすこともあれば
      槻が杉を枯らすこともある……
     (米穫って米食って何するだぃ?
      米くって米穫って何するだぃ?)
  技手が向ふで呼んでゐる
  水はうるうるとはんぶんそらに溶けて見え
  またむっとする青い稲だ       (宮沢,1985)

 

賢治は,「ほんとうの百姓になる」ことを決意する。大正15(1926)年に花巻農学校を依願退職し,昼間は周囲の田畑で農作業を,夜は私塾(羅須地人協会)などで農民に稲作指導をしたり,無料で肥料設計事務所を開設して農民の肥料相談に乗ったりするようになる。最初は「ほんとうの百姓になった」つもりでいたかもしれないが,農民(多くは先住民)たちがそれを認めているわけではない。

 

その当時に作った賢治の『春と修羅 第三集』〔土も掘るだらう〕(1927.3.16)には「土も掘るだらう/ときどきは食はないこともあるだらう/それだからといって/やっぱりおまへらはおまへらだし/われわれはわれわれだと/……山は吹雪のうす明り……/なんべんもきき/いまもきゝ/やがてはまったくその通り/まったくさうしかできないと/……林は淡い吹雪のコロナ……/あらゆる失意や病気の底で/わたくしもまたうなづくことだ」とある。農民たちは頑として百姓としての賢治を受け入れようとはしないのである。この農民が示す「疑い」や「反感」は「やっぱりおまへらはおまへらだし/われわれはわれわれだ」とあるように,賢治個人というよりは,宮沢一族あるいは賢治が密接に生活を共有している共同体組織すなわち「移住者」の共同体意識に対して向けられているように思われる。たとえ賢治が農民のために最善を尽くしたとしても同じであろう。

 

大概は,賢治のようにはならなくて,逆に「移住者」が「先住民」を蔑視することが多いように思われる。童話『銀河鉄道の夜』で,裏町に住み北の海で「ラッコ」を密漁する「先住民(狩猟民)」と思われる父をもつジョバンニは,アルバイト先の活版所で大人たち(町の人)から冷たい目線を浴びせられる。

 

農民(先住民)の中に入り込めない挫折感は『春と修羅 詩稿補遺』の「境内」という作品の中でも見られる。詩の中の「おれ(=賢治)」が学校前の荒物屋で昼飯にと思ってパンはありませんかと尋ねると,朝から酒を飲んでいる農民らしい爺さんが主人の代わりにパンを店の棚の中から親切そうに探してくれる。しかし,それは親切からではなく「おれ」をからかうものであった。詩は以下のように続く。「それから大へんとぼけた顔で/ははあ食はれなぃ石バンだと/さう云ひながらおれを見た/主人もすこしもくつろがず/おれにもわらふ余裕がなかった/あのぢいさんにあすこまで/強い皮肉を云はせたものを/そのまっくらな巨きなものを/おれはどうにも動かせない/結局おれではだめなのかなあ」(下線は著者)とある。

 

 この詩の中の「石バン」とは「石盤」のことで,荒物屋に置いてある「石盤」をパンと言って,酒を飲んでいるということもあるが「金持ちが俺らをばかにして」という意味も込めて「おれ(=賢治)」を嘲っている。賢治の生きた時代には,パンは西洋から来たもので近代化を象徴する食べ物であり,まして農村などでは口にされることもまれであった(原,1999)。ここで賢治は,近代という時代に取り残されて「貧しさ」の中にある「先住民(農民)」の集団あるいは「先住民」の「移住者(宮沢一族あるいは町の人)」に対する「疑い」や「反感」の共同体意識を動かしがたい「まっくらな巨きなもの」と呼んでいるように思える。

 

同じく,『春と修羅 詩稿補遺』の「会見」でも,農学校時代の教え子の父親から言われたであろう同様の皮肉の言葉が綴られている。詩「会見」には,「(この逞ましい頬骨は/やっぱり昔の野武士の子孫/大きな自作の百姓だ)/ (息子がいつでも云ってゐる/技師といふのはこの男か/も少しからだも強靱(シナ)くって/何でもやるかと思ってゐたが/これではとても百姓なんて/ひどい仕事ができさうもない/だまって町で月給とってゐればいゝんだが)」とある。

 

先住民」の共同体意識に基づく「移住者」への皮肉は,賢治の作品の中では「怒り」となって現れることもある。寓話『土神ときつね』では,「先住民」を象徴するボロ服を着た「土神」と,南から来たハイネの詩を愛読し,ドイツ製の望遠鏡を取り寄せるという近代的な文化人風の「移住者」の「狐」が登場してくるが,「土神」は「狐」の自慢話に腹が立ち,「むらむらっと怒りました。顔も物凄くまっ黒に変わったのです。美学の本だの望遠鏡だのと,畜生,さあ,どうするか見ろ,といきなり狐のあとを追ひかけました」(下線は著者),そして最後には「狐」を殺してしまう。

 

童話『銀河鉄道の夜』でも,北米大陸の「先住民」であるインディアンは「巨きな黒い野原」から登場し近代を象徴する列車を追ってくる。また,夢から覚めかけた時に,先住民側のジョバンニはぎくっとし,また移住者側のカムパネルラは避けるようにしながら指さす「大きなまっくらな孔」(石炭袋)も登場してくる。このように,賢治は,「移住者」にとって理解しがたく,また自分に向かってくる「先住民」の集団あるいは「先住民」の共同体意識(まっくらな巨きなもの)を作品で繰り返し取り上げている(続く)。

 

引用文献

有岡利幸.2004. 日本植物文化誌.八坂書房.東京.

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原 子朗.1999.新宮沢賢治語彙辞典.東京書籍.東京.

石井竹夫.2017.宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に登場する赤い腕木の電信柱(前編).人植関係学誌.17(1):23-27.

石井竹夫.2018. 宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の発想の原点としての橄欖の森-カムパネルラの恋 前編-.人植関係学誌.17(2):27-30.

宮沢賢治.1985.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.東京.

高橋克彦.2017.東北・蝦夷の魂.現代書館.東京.

高橋 崇.2012.蝦夷中央公論新社.東京.

辰巳和弘.2009.聖樹と古代大和の王宮.中央公論新社.東京.

梅原 猛.2011.日本の深層-縄文・蝦夷文化を探る.集英社.東京.

 

本稿は人間・植物関係学会雑誌18巻第1号15~18頁2018年に掲載された自著報文(種別は資料・報告)を基にしたものである。原文あるいはその他の掲載された自著報文は人間・植物関係学会(JSPPR)のHPにある学会誌アーカイブスからも見ることができる。http://www.jsppr.jp/academic_journal/archives.html

 

宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』-カムパネルラの恋(3)-

Keywords: アイヌ神謡集,バルドラの野原,文学と植物のかかわり,カーバイド,化石,蠍の火,先住民,炭酸石灰,ウミサソリ,楊(やなぎ)

 

本稿(2)に続けて童話『銀河鉄道の夜』がいかにして生まれたかについて,この物語に登場する「バルドラの野原の一匹の蠍」と『アイヌ神謡集』の神謡「梟(ふくろう)の神の自ら歌った謡“銀の滴降る降るまわりに”」の関係を検討することによって明らかにする。

 

1.「楊」と「バルドラの野原の一匹の蠍」

1)「楊」と「蠍の火」

銀河鉄道の列車は「コロラド高原」を過ぎると「楊(やなぎ)」に透かし出されたまっ赤に燃える美しい「蠍の火」を見ることになる(第1図)。ここで登場する植物は「楊」である。この「楊」はヤナギ科ヤマナラシ属の落葉高木である「アメリカヤマナラシ(別名;アスペン)」(Populus tremuloides Michx.)であろう。コロラド州西部のロッキー山中に「アスペン」(Aspen)という都市がある。「アスペン」という地名の由来は,1880年に,この周辺に深い「ヤマナラシ」の森があったことによって付けられている。

川の向ふ岸が俄かに赤くなりました。楊の木や何かもまっ黒にすかし出され見えない天の川の波もときどきちらちら針のやうに赤く光りました。まったく向ふ岸の野原にまっ赤な火が燃されその黒いけむりは高く桔梗いろのつめたさうな天をも焦がしさうでした。ルビーよりも赤くすきとほりリチウムよりもうつくしく酔ったやうになってその火は燃えてゐるのでした。

「あれは何の火だらう。あんな赤く光る火は何を燃やせばできるんだらう。」ジョバンニが云ひました。

「蠍の火だな。」カムパネルラが又地図と首っ引きして答へました。 

「あら,蠍の火のことならあたし知ってるわ。」

「蠍の火って何だい。」ジョバンニがききました。

蠍がやけて死んだのよ。その火がいまでも燃えてるってあたし何べんもお父さんから聴いたわ。」

「蠍って,虫だらう」

「えゝ,蠍は虫よ。だけどいゝ虫だわ。」

「蠍いゝ虫ぢゃないよ。僕博物館でアルコールにつけてあるの見た。尾にこんなかぎがあってそれで螫(さ)されると死ぬって先生が云ったよ。」         (宮沢,1985)下線は引用者  

我が国のヤナギ科ヤマナラシ属には「ドロノキ」(白楊;Populus maximowiczii A.Henry),「ヤマナラシ」(ハコヤナギ;Populus tremula L. var.sieboldii),ウラジロハコヤナギ(ギンドロ;Populus alba L.)などがある。これらヤナギ科ヤマナラシ属の植物は,賢治に生きた時代ではマッチの軸木として使われた。マッチの軸木になる条件として,白く適当に長く燃え,また小さく細く切断するために材は柔らかく強靭なものでなくてはならなかった。 特に「ドロノキ」(白楊)は3年を経たない稚木が最も白色に成りやすく光沢もあるということで,稚木のうちに盛んに伐採され岩手県では絶滅が危惧されたという。これらヤマナラシ属の植物は,自ら(あるいは種として)の命を絶ち,その体をマッチの軸木に変え「炎」となって人々の生活向上に貢献している。

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第1図.楊の木に透かし出された蝎の火

 

法華経』の第23章「薬王菩薩本事品」には,薬王菩薩が前世において,日月浄明徳如来という仏のもとで修業し「現一切色身三昧」という神通力をもつ境地を得ることができたので,そのお礼として自ら妙香を服し香油を身に塗って,その身を燃やし仏を供養したという逸話が説かれている。賢治にとって,「楊」は,まさに『法華経』に出てくる薬王菩薩の化身である(石井,2014,2015)。

 

賢治がこの場面で,「法華経」の「焼身自己供養」を象徴する「楊」を登場させたのは,ジョバンニの言う「僕はもうあのさそりのやうにほんたうにみんなの幸のためならばそしておまへのさいはひのためならば僕のからだなんか百ぺん灼(や)いてもかまはない」ということと関係すると思われるが,「蠍の火」が「楊」に透かし出されると美しく燃え上がる意味については後述する。

 

 

2)「バルドラの野原」

さらに,「女の子」は父から聞いた「バルドラの野原の一匹の蠍」の話を続けてジョバンニとカムパネルラにする。

(上記引用文に続く)

「そうよ。だけどいゝ虫だわ,お父さん斯う云ったのよ。むかしバルドラの野原に一ぴきの蠍がゐて小さな虫やなんか殺してたべて生きてゐたんですって。するとある日いたちに見附かって食べられさうになったんですって。さそりは一生けん命遁げて遁げたけどたうたういたちに押へられさうになったわ,そのときいきなり前に井戸があってその中に落ちてしまったわ,もうどうしてもあがれられないでさそりは溺れはじめたのよ。そのときさそりは斯う云ってお祈りしたといふの,あゝ,わたしはいままでいくつのものの命をとったかわからない,そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときあんなに一生けん命にげた。それでもたうとうこんなになってしまった。あゝなんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちに呉れてやらなかったらう。そしたらいたちも一日生きのびたらうに。どうか神さま。わたしの心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかひ下さい。って云ったといふの。そしたらいつか蠍はじぶんのからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えてよるのやみを照らしてゐるのを見たって。いまでも燃えてるってお父さん仰(おっしゃ)ってたわ。ほんたうにあの火それだわ。」

   (『銀河鉄道の夜』初期形第一次稿 宮沢,1985)下線は引用者

この「バルドラの野原」の逸話は, 『アイヌ神謡集』の神謡「梟の神の自ら歌った謡“銀の滴降る降るまわりに”」の「昔のお金持ちが今の貧乏人」と「昔の貧乏人が今お金持ち」の話と似ている。しかし,同時にこの逸話は,詩集『春と修羅』の序(1924.1.20)に「修羅十億年」とあるように,「多細胞生物」から「哺乳類」へ進化していく生命10億年の修羅(生存競争)の歴史をも語っているように思える。「バルドラの野原」の「バルドラ」とは,カラコルム山中の氷河の名バルトロ(Baltro)に由来するとする研究者(定方,2009)もいるが,著者はバルト海(Baltic Sea)に浮かぶスウエーデン領ゴトランド(Gotland)島のことで,「Balt」と「Land」を合成して作った賢治の造語であると思っている。ゴトランド島全体が地質時代の一つである古生代の「シルル紀」(Silurian)(約4億年前)の地層からなり,これら地層が海岸沿いに20〜30mの崖になって露出している。昔(1950年頃まで)は,「シルル紀」を「ゴトランド紀」と呼んでいた。地質学者の賢治も知っていたと思われる。

 

シルル紀」の地層は良質な石灰岩層を有していて,「石灰岩」の中には腕足類や三葉虫類,貝形虫類,軟体動物や棘皮動物の化石群が豊富に含有されている。北上山系の南に位置する一関市東山町でも「シルル紀」〜「白亜紀」の地層が分布している。「女の子」の言う一匹の「蠍」とは,「そこが島でもなかったとき/そこが陸でもなかったとき」,すなわち海の底であったときに生息していた「蠍」すなわち「ウミサソリ」のことである。世界的に有名なゴトランド島は,石灰岩層の中に「ウミサソリ」の化石が多数見つかる。

 

ウミサソリ(Eurypterida)」は,無脊椎動物(広翼目)に属し,古生代オルドビス紀」後期に出現し,古生代の「シルル紀」から「ペルム紀」までの約2億年に及ぶ長い年月,太古の浅海の底で暮らしていた生物である。長楕円形の胴体前方に一対のハサミを持ち,後方に長い尾があり,陸の「サソリ」の様に尾を立てて海の底を闊歩していた。「シルル紀」の海は栄養豊富で小さな三葉虫や魚が沢山いて,それを捕食する「ウミサソリ」は大型化し,米国のニューヨーク近郊で発見された化石(Acutiramus macrophthalmus )が示すように体長2メートルを超えるものもいた(福田,2005)。

 

ウミサソリ」は「シルル紀」の海の底では食物連鎖の頂点にあり我が物顔で生活していた。まさに「シルル紀」の海は「ウミサソリ」にとってパラダイスであった。しかし,「デボン紀」を過ぎるころには魚類も巨大化し逆に捕食される側になることもあった。「シルル紀」は,また生命進化にとって最も重要な時期でもある。植物と動物の海から陸への上陸である。動物で先陣を切ったのが「ウミサソリ」の仲間だとされる。現生のクモ類と同様の陸上生活可能な呼吸器の書肺を備えた小型の「ウミサソリ」が「シルル紀」中期に陸上へ進出していく。この書肺を備えた小型の「ウミサソリ」はやがて,陸生の「サソリ」へと進化していくが,大型化することもなく現代に至っている。

 

陸生の「サソリ」は昆虫などを捕食するが,天敵も多く「イタチ」などの哺乳動物の格好の餌となってしまう。「サソリ」は夜行性(弱視)で,暗闇や物陰を好む。一方,我々の祖先である脊椎動物の魚(アランダスピス)も「シルル紀」(4億6千万年前)に誕生しているが,「デボン紀」(3億6千万年前)に原始両生類のイクチオステガ(「鎧に覆われた魚」の意)が陸へ上陸している。その後,中生代の「三畳紀」には初期の哺乳類が,そして「白亜紀」の後期頃(1億年前)には「イタチ」など現在も繁栄している哺乳類が誕生してくる。また,哺乳類の頂点に立つ現生人類はたかだか14〜20万年の歴史しかなく,人種や民族は多いが全て祖先は同じであることが知られている(アフリカ単一起源説)(ウオード・カーシュヴィング,2016)。

 

ウミサソリ」という言葉は,賢治の作品には登場してこない。しかし,農学校時代の教え子の話をまとめた畑山 博の著書(2017)によれば,賢治は土壌学の授業で古生代の海の生物として「フデムシ」,「ウミサソリ」,「オウムガイ」,「ボトリオレピス」を生徒にまるで懐かしい親戚のことでも話すように聞かせたという。

 

このように,童話『銀河鉄道の夜』の「女の子」の「むかしバルドラの野原でサソリが虫などを食べていたが,イタチに見つかって逃げようとして暗い井戸に落ちてしまった」という話は,「昔のお金持ちが今の貧乏人」である「ウミサソリから進化した陸サソリ」と,「昔の貧乏人が今お金持ち」の「魚から進化したイタチ」の地質時代5億年の「生存競争」(修羅)の歴史が語られている。「アイヌ」の「神謡」では,「昔のお金持ちが今の貧乏人」が「梟」の神に対して祈りを捧げると「昔のお金持ちが今の貧乏人」と「昔の貧乏人が今お金持ち」と共に仲良く暮らせる社会が訪れる。

 

一方,『銀河鉄道の夜』では,「サソリ」が井戸の中で「神」に「こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかひ下さい」(下線は著者)と祈ると「サソリ」は,まっ赤な炎(蠍座のアンタレス)になって夜の闇を照らすようになる。この場面での「サソリ」の祈る対象である「神」とは何であろうか。

 

3)「サソリ」が祈る対象としての「神」

賢治は,「サソリ」が祈る対象としての「神」を「アイヌ」の「神」(梟)ではなく,近代化をもたらす「近代科学」に置き換えた。前報で「蠍の火」は,カーバイド工場で「カーバイド」(炭化カルシウム;calcium carbide,CaC2)を作るときにでる工場からの「炎」をイメージできることを報告した(石井,2015)。「カーバイド」は,「石灰」(酸化カルシウムCaO)と炭素(C)の混合物を電気炉で加熱(約2000℃)することによって作られる化合物である。「カーバイド」は,普通の燃料の燃焼では容易に合成することはできない。反応を容易にするためには,グラファイト電極を具えた電気炉を使い約2000℃に加熱することが必要なのである。「カーバイド」は1862年にドイツの化学者であるヴェーラー(Wohler F. ;1800 - 1882)によって初めて合成され,1892年にカナダ人の化学者であるウイルソン(Willson T.;1860 - 1915) によって工業化がなされた(大塩,2017)。だから,カーバイド合成過程で発生する「炎」は人間による人工的な「近代科学」の「炎」でもある。

 

また,「カーバイド」の合成に使う「石灰」は「石灰岩」(主成分は炭酸カルシウム;CaCO3)を焼いて作る。すなわち,「カーバイド」は「石灰岩」から作られている。「石灰岩」の中には,「シルル紀」に繁栄していた海の生物が化石化されたものも多数含まれている。その中には「ウミサソリ」もいる。「ウミサソリ」は,石灰質の外骨格を持つ三葉虫や貝形虫と違って化石化しにくいが,外被はカブトガニに近い石灰分を含むキチン質でできているためゴトランド島の「ウミサソリ」のように条件がよければ化石として産出する。

 

日本でも,岩手県大船渡市鬼丸砕石所で古生代前期の日頃市層から「ウミサソリ」と見られる化石が発見された(岩手県地学教育研究会,1988)。多くは,形も崩れ識別できるものは少ないのかもしれない。すなわち,カーバイド工場では,「ウミサソリ」を含む「石灰岩」を「近代科学」の技術を使って「カーバイド」を生産しているということになる。『銀河鉄道の夜』で「蠍の火」に対して「女の子」が「蠍がやけて死んだのよ。その火がいまでも燃えてるってあたし何べんもお父さんから聴いたわ。」(下線は著者)と言ったことに対応する。

 

カーバイド」は水と反応するとアセチレンを生成するので,当時は集魚灯などの照明用のアセチレンランプに使用された。また,窒素と反応するとカルシウムシアミド(calcium cyanamide)が得られるが,これは「石灰窒素」の成分であり化学肥料として使われる。このように,「カーバイド」は,近代漁業や近代農業に多大な恩恵をもたらした。

 

また,「石灰岩」自身も,細かく粉砕すれば酸性土壌の北上山系の土壌を中和することもできる。賢治は,1924年5月に生徒を引率して北海道修学旅行をしているが,そこで「石灰岩抹」が販売されていることを知って,東北の酸性土壌を改良して豊かな牧草地や耕地にするという夢を見たりもした。帰校後に書いた「修学旅行復命書」には,「これ酸性土壌地改良唯一の物なり。米国之を用ふる既に年あり。内地未だ之を製せず。早くかの北上山地の一角を砕き来りて我が荒涼たる洪積不良土に施与し草地に自らなるクローバーとチモシイとの波を作り耕地に油々漸々たる禾穀を成ぜん」と記している。

 

ウミサソリ」が「神」に祈ったとき,それを聞き入れたのは「梟」ではなく「近代科学」の技術を持つ化学者たちであり,「昔のお金持ちが今の貧乏人」である「ウミサソリ」を「東北」の先住民たちに「幸せ」をもたらす「聖」なる生き物にした。しかし,「近代科学」は人々に物質的な豊かさをもたらすが,様々な弊害(人間の自然征服・商品機械化,自由の喪失,苦痛を強いる労働など;『農民芸術の興隆』より)ももたらす。『農民芸術概論綱要』(1926年頃)にも「宗教は疲れて近代科学に置換され然も科学は冷たく暗い」と記載されている。

 

そこで,賢治は,「近代科学」に「宗教」あるいは「芸術」を一致させようとした。そして,「法華経」の「焼身自己犠牲」の暗喩である「楊」を「蠍の火」の近くに置いた。「楊」で透かし出された「近代科学」の「炎」は美しく燃え上がる。すなわち,賢治は,「近代科学」と「宗教」を融合した「キメラ」を半身半獣の「ケンタウロス」になぞらえて「アイヌ」の「神(カムイ)」である「梟」と入れ替えたのである。このように,賢治は,「ウミサソリ」を含む「石灰岩」をもとに作られた「炭酸石灰」や「石灰窒素」と「法華経」の精神を融合させて「東北」の酸性土壌の大地を農業に適した大地に変えることができれば,「先住民」と「移住者」及びその末裔たちが共に「幸せ」に暮らせるときが訪れると信じたように思える。先述したように,地球上には多くの民族が存在し,互いの争いごとも多いが祖先を人類誕生まで遡れば同じ一族である。『アイヌ神謡集』の「梟」が語る「先住民」も「移住者」も「私共は一族の者なのですから」という「神」の声と重なる。

 

銀河鉄道の夜』(初期形第一次稿)の中で「蠍の火」の向こうに「三角標」が出現するが,これは前報(石井,2015)でも記したように「カーバイド工場」へ電力を送電するための「送電鉄塔」(三角点)をイメージしている。

 

アイヌ神謡集』は,大正11年(1922)年後半から12年(1923)中に書かれたとされる寓話『土神ときつね』に影響を及ぼしたとされている(秋枝,2017)が,童話『銀河鉄道の夜』にも多大な影響を及ぼしている。賢治は,『アイヌ神謡集』を1923年8月の出版後すぐに読んだと思われる。そして,1924年5月に生徒を引率して北海道修学旅行をして王子製紙の苫小牧工場を見学している。賢治は,苫小牧で一泊しているので,夜に宿泊所から苫小牧工場に隣接している北海カーバイド工場(1912-1924)の夜空を焦がす「炎」も見ている。多分,賢治がその「炎」が何を燃やしてできているのかを確認できたとき,賢治の頭の中で,恋の破局からくる「怒り」あるいは「焦燥感」から導かれた『銀河鉄道の夜』(初期形一次稿)の基本骨格は出来上がったと思う。

 

2.賢治の償い

賢治の詩集『春と修羅』の「雲とはんのき」(1923.8.31)に「(ひのきのひらめく六月に/おまへが刻んだその線は/やがてどんな重荷になつて/おまへに男らしい償ひを強ひるかわからない)/ 手宮文字です 手宮文字です」という詩句がある。澤口(2011)は,賢治が1923年という年に恋人に対して何らかの決心をせまられていたのではないかと推測している。

 

手宮文字」とは,北海道小樽市の洞窟遺跡に「先住民」が刻んだ線刻で,これが文字なのか彫刻なのか謎とされているものである(原,1999)。 また,引用詩句の「ひのきのひらめく六月」とは,澤口(2011)によれば,この詩を詠んだ前年の六月二十七日のことだと推測している。この日に書かれた詩集『春と修羅』の有名な詩「高原」に「海だべがど おら おもたれば/やつぱり光る山だたぢやい/ホウ/髪毛風吹けば/鹿(しし)踊りだぢやい」とあるように,恋人の「心」を暗喩する長い髪の毛が「種山ヶ原」の透明な風に吹かれて鹿踊りの鹿の長いたてがみのように乱れた(下書稿では「高原」は「叫び」になっている)。

 

詩「雲とはんのき」の「おまへに男らしい償ひを強ひる」とは何だろう。多分,「おまえ」を「自分へ」と読み替えれば,賢治は恋人に何らかの償いをすることを考えていたようである。この詩の最後の五行は,「わたくしはたつたひとり/つぎからつぎと冷たいあやしい幻想を抱きながら/一挺(ちょう)のかなづちを持つて/南の方へ石灰岩のいい層を/ さがしに行かなければなりません」とある。多分,この「男らしい償ひ」は「石灰岩」から作られる肥料の仕事と関係しているように思える。

 

大正15(1926)年,賢治は,花巻農学校を依願退職し,「ほんとうの百姓になる」ことを決意し,昼間は周囲の田畑で農作業を,夜は私塾(羅須地人協会)などで農民に稲作指導をしたり,無料肥料設計事務所を開設して農民の肥料相談に乗ったりするようになる。しかし,肥料相談や農業指導に奔走したことで,昭和3(1928)年の夏に倒れ(両側肺浸潤),以後実家で病臥生活となる。 

 

なぜ安定した給料が得られる農学校を辞め,ここまでやらなければならないのかに対して,農学校の同僚白藤慈秀の話として,「-宮澤さんの生涯の仕事は,大きい構想を立ててやられたものです。農村と農民に味方して,あらゆることの,土台になっています。「町の人たちが,農村をバカにしているのは怪(け)しからない」と,言い言いしておりました。糞尿(こえ)をくまないで町の人たちをこまらしてやれといった事も言ったりしておりました。化学肥料を使えば,いっこう町のコエを使わなくてもいいと言うのです。花巻黒沢尻あたりの財閥は,農村を搾取してできたものだ。これをまた農村に返させるのが自分の仕事だといっていました。-」という逸話が残っている(堀尾,1991)。

 

この逸話の「町の人たち」を「昔の貧乏人が今お金持ち」の「移住者」,「農民」を「昔のお金持ちが今の貧乏人」の「先住民」とすれば理解しやすいかもしれない。しかし,賢治の努力も資金が親頼みということもあって,農民からは金持ちの道楽と受け止められるようなこともあった。

 

賢治は,健康が回復しつつあった昭和四〜五年(1929 - 1930)年に,偶然にも北上山系の南にある一関市東山町にある東北砕石工場の鈴木東蔵に出会うことになる。鈴木は「石灰岩」とカリ肥料を加えた安価な合成肥料の販売を計画していて,「東北」の酸性土壌の大地を「石灰岩末」で中和することを夢みていた賢治はそれに賛同する。翌(1931)年の二月には,東北砕石工場の嘱託技師になり,製品の改良,広告文の作成,製品の注文取りと販売など東奔西走する。賢治は「石灰岩末」を農民にもわかりやすくするため肥料用の「炭酸石灰」と命名している。仕事に対する報酬も現物支給の形だがもらっている(佐藤,2000)。しかし,この仕事も賢治の病弱な体には荷が重すぎていて,また高熱で倒れ病臥生活に戻ってしまう。

 

賢治にとって「男らしい償ひ」とは,「炭酸石灰」で「東北」の大地を豊かにするという捨て身の菩薩行だったのかもしれない。活動最盛期に当たるときに詠んだ文語詩未定稿〔せなうち痛み息熱く〕(1931年頃)の下書稿には,当時の賢治の心境が克明に描かれている。痛みや熱を押しての訪問販売を終えて帰宅しようとした午後の一関駅当たりの待合室の風景描写である。下書稿の一部(宮沢,1985)を紹介する。

(前略)営利貴賤の徒にまじり/十貫二十五銭にて/いかんぞ工場立たんなど/よごれしカフスぐたぐたの/外套を着て物思ふ/わが姿こそあはれなれ(後略)

 

ここでは,「よごれしカフスぐたぐたの外套」を着て,製品である「炭酸石灰」を十貫二十五銭で売っては商売が成り立たないなどと思案している賢治の姿がある。そして,そのような自分を「わが姿こそあわれなれ」と表現している。「営利貴賤の徒」とは,詩ノートの〔わたくしどもは〕(1927.6.1)の仮想の妻が,夫が美しいという理由で二十銭で買った花を二円で売った話にも通じるが,かつては賢治自身が忌み嫌っていたものがいつのまにか自分自身も同じになってしまったというのである。

 

しかし,自分自身が「哀れ」なのだということを訴えているのではない。賢治はこのとき,恋人の側にやっと並んで立つことができたのだということを噛みしめているのだと思う。同様に,昭和6(1931)年頃と思われる「雨ニモマケズ手帳」に記載された文語詩〔きみにならびて野に立てば〕の下書稿には以下のような詩句が並ぶ。

 きみにならびて野にたてば/風きらゝかに吹ききたり/柏ばやしをとゞろかし/枯葉を雪にまろばしぬ(中略)<「さびしや風のさなかにも/鳥はその巣を繕(つぐ)はんに/ひとはつれなく瞳(まみ)澄みて山のみ見る」ときみは云ふ>/あゝさにあらずかの青く/かゞやきわたす天にして/まこと恋するひとびとの/とはの園をば思へるを (宮沢,1985)

この詩の「きみ」が誰を指しているのかについては諸説がある。著者は,この「きみ」は,賢治の相思相愛で異国の地で亡くなった恋人であると思っている。詩「雨ニモマケズ」が賢治のそうありたいという願望が表現されているなら,この詩〔きみにならびて野に立てば〕も賢治の願望が表現されているように思える。もしも,恋人と再び「イーハトーブ」の大地に立てるなら,賢治は,「とはの園(ドリームランド)」を目指して恋人と並んで立つこともできると誓ったのであろう。

 

童話『銀河鉄道の夜』で夢から覚めかける時に「二本の電信柱」が「丁度両方から腕を組んだやうに赤い腕木をつらねて立ってゐました」と登場してくるが,著者は,前報(石井,2018)でこの2本は,1本が賢治でもう1本は妹のトシあるいは友人の保阪嘉内ではないかと推定したが,決して名を明かしてはいけない賢治の相思相愛の恋人も忘れてはならない。

 

引用文献

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畑山 博.2017. 教師 宮沢賢治のしごと.小学館.東京.

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石井竹夫.2014. 宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に登場する聖なる植物(前編).人植関係学誌.13(2):27-30.

石井竹夫.2015. 宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に登場する楊と炎の風景(前編).人植関係学誌.14(2):17-20.

石井竹夫.2018. 宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に登場する赤い腕木の電信柱(後編).人植関係学誌.17(1):29-32.

岩手県地学教育研究会.1988.岩手の地学 第19・20号.岩手大学教育学部.岩手.

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本稿は人間・植物関係学会雑誌17巻第2号27~32頁2018年に掲載された自著報文(種別は資料・報告)を基にしたものである。原文あるいはその他の掲載された自著報文は人間・植物関係学会(JSPPR)のHPにある学会誌アーカイブスからも見ることができる。http://www.jsppr.jp/academic_journal/archives.html