宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

ブログ内容の紹介

謎の多い宮沢賢治の作品をそこに登場する植物を丁寧に調べることによって読み解いています。本ブログの内容は,ブログ名について,作品論,エッセイの3項目から構成されています。作品論とエッセイにあるカテゴリー名末尾の括弧内の数字は各カテゴリーの記事数を表します。例えば,「やまなし(5)」は童話『やまなし』に関して5つの記事があることを表しています。各カテゴリー名をクリックすると記事名が表記され,さらに記事名をクリックすると本文を読むことができます。『銀河鉄道の夜』に関しては記事数が多いので「銀河鉄道の夜(総集編) (5)」を最初に読んでいただければと思います。

 

1.ブログ名について

橄欖の森とは

 

2.作品論

四又の百合(4)

ガドルフの百合(6)

土神ときつね(6)

氷河鼠の毛皮(4)

シグナルとシグナレス(3)

ビヂテリアン大祭 (1)

やまなし (14)

若い木霊 (8)

水仙月の四日 (1)

どんぐりと山猫 (2)

春と修羅 (2)

風野又三郎 (1)

十力の金剛石 (2)

花壇工作 (1)

鹿踊りのはじまり (1)

北守将軍と三人兄弟の医者 (1)

毒もみの好きな署長さん (1)

マグノリアの木 (1)

銀河鉄道の夜(目次) (1)

銀河鉄道の夜(種々) (7)

銀河鉄道の夜(心理と出自)(5)

銀河鉄道の夜(三角標) (11)

銀河鉄道の夜(宗教) (6)

銀河鉄道の夜(リンゴ) (7)

銀河鉄道の夜(発想の原点) (12)

銀河鉄道の夜(総集編) (5)

ひのきとひなげし (1)

なめとこ山の熊 (1)

烏の北斗七星 (6)

よく利く薬とえらい薬 (4)

 

3.エッセイ

宮沢賢治の母(3)

鬼滅の刃(2)

烏瓜のあかり (3)

賢治作品に登場する謎の植物 (5)

希少植物 (1)

湘南四季の花 (4)

 

 

童話『やまなし』考 -冬のスケッチ(創作メモ)にある「さかなのねがいはかなし」とはどういう意味か (第2稿)-

青年が銀河鉄道の列車に乗車してきたとき,青年の腕には黒い外套を着た眼が茶色の可愛らしい〈女の子〉がすがっていた。そして,青年は船が氷山と衝突したとき〈女の子〉を救命ボートに乗せられなかった理由について話をする。同時に,青年は〈女の子〉を助けられなかったことが「悲しい」とも言う。この青年を賢治,青年の腕にすがっている〈女の子〉を恋人とすれば,物語に挿入される難破船の逸話は,賢治が恋人を助けられなかった理由と,そのことによる賢治の「悲しみ」が語られているように思える(石井,2021b)。童話『やまなし』では木の枝に引っかかった「やまなし」(=恋人)の実が枝から離されて沈んでしまう理由でもある。青年は遭難の様子を列車の乗客に以下のように語る。

 

「船が氷山にぶつかって一ぺんに傾きもう沈みかけました。月のあかりはどこかぼんやりありましたが、霧が非常に深かったのです。ところがボートは左舷の方半分はもうだめになってゐましたから,とてもみんなは乗り切らないのです。もうそのうちには船は沈みますし,私は必至となって,どうか小さな人たちを乗せてくださいと叫びました。近くの人たちはすぐみちを開いてそして子供たちのために祈って呉れました。(C)けれどもそこからボートまでのところにはまだまだ小さな子どもたちや親たちやなんか居て,とても押しのける勇気がなかったのです。それでもわたくしはどうしてもこの方たちをお助けするのが私の義務だと思ひましたから前にゐる子供らを押しのけようとしました。けれどもまたそんなにして助けてあげるよりはこのまゝ神のお前にみんなで行く方がほんたうにこの方たちの幸福だとも思ひました。(D)それからまたその神にそむく罪はわたくしひとりでしょってぜひとも助けてあげようと思ひました。けれどもどうして見てゐるとそれができないのでした。子どもらばかりボートの中へはなしてやってお母さんが狂気のやうにキスを送りお父さんがかなしいのをじっとこらへてまっすぐに立ってゐるなどとてももう腸(はらわた)もちぎれるやうでした。そのうち船はもうずんずん沈みますから,私はもうすっかり覚悟してこの人たち二人を抱いて,浮かべるだけは浮かぼうとかたまって船の沈むのを待ってゐました。・・・・・そのとき俄かに大きな音がして私たちは水に落ちました。もう渦に入ったと思ひながらしっかりこの人たちをだいてそれからぼうっとしたらと思ったらこゝへ来てゐたのです。・・・えゝボートはきっと助かったにちがひありません、何せよほど熟練な水夫たちが漕(こ)いですばやく船からはなれてゐましたから。」

  (中略)

「なにがしあはせかわからないです。ほんたうにどんなつらいことでもそれがただしいみちを進む中でのできごとなら峠の上りも下りもみんなほんたうの幸福に近づく一あしづつですから。」 燈台守がなぐさめてゐました。

さあゝさうです。たゞいちばんのさいはいに至るためにいろいろのかなしみもみんなおぼしめしです。」

 青年が祈るやうにそう答えました。

  (『銀河鉄道の夜』第3次稿 宮沢,1985)下線とC,Dの文字は引用者

 

青年は〈女の子〉を助けられなかった理由を2つ(引用文のCとD)あげている。1つは(C)「近くの人たちはすぐみちを開いてそして子供たちのために祈って呉れました。けれどもボートまでのところにはまだまだ小さな子どもたちや親たちやなんか居て,とても押しのける勇気がなかった」というものである。もう1つは(D)「神にそむく罪はわたくしひとりでしょってぜひとも助けてあげようと思ひました。けれどもどうして見てゐるとそれができないのでした」というものである。ただ,2つの理由のうち「さかなのねがいはかなし」と直接に関係するのは後者の(D)と思われる。(C)の「押しのける勇気がなかった」という理由に関しては前稿(石井,2021b)で詳細に検討しているのでここでは省略する。

 

(D)の「神にそむく罪」は,青年を賢治に置き換えれば,仏教とりわけ「法華経」に関する罪に対応する。「法華経」に帰依する賢治にとって「恋愛」を優先することは『法華経』の「安楽行品第十四」に記載されている「女性に近づいてはいけない」や「方便品第二」に記載されている「衆生を救う」という教えに背くものであった。さらに,賢治が主張する『農民芸術概論綱要』の「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」とも相いれない。

 

しかし,青年は神に背いてでも〈女の子〉を助けようとしたと言っている。同様の言動は寓話『シグナルとシグナレス』にもある。この寓話では,〈シグナル〉と〈シグナレス〉の結婚が周囲のものから反対されたとき,〈シグナル〉が青い星を見つめながら「あゝ,シグナレスさん,僕たちたった二人だけ,遠くの遠くのみんなのいないところに行ってしまいたいね」と駆け落ちも辞さない決意を語っていた。すなわち,青年を賢治とすれば,賢治は法華経の教えに背き,また駆け落ちしてでも恋人を助けようとしたのだと思われる。戦前,結婚は家父長の承諾が必要で,反対されたら駆け落ちするしかなかったという(Wikipedia)。実際に,恋人の友人でレコード鑑賞会に参加していた女性もこの会で恋をしたが反対され遠く函館へ逃避行している(佐藤,1984)。しかし,賢治は駆け落ちしなかった。あるいは難破船の青年のようにできなかったといった方がいいのかもしれない。恋人は童話『やまなし』を発表してから1年後に結婚して渡米してしまう。

 

なぜ賢治は駆け落ちをしなかったのであろうか。多分,意識(心)レベルで駆け落ちしようとしても身体がそれに付いていかないのだと思われる

 

ちなみに,青年があげた理由(C)は人を押しのけなければ自分達よりも前にいる子供たちをボートに乗せて助けることができるというふうにも解釈できる。青年(=賢治)は押しのける勇気はなくても不特定多数の子供たちを助けるということなら普通にできるのだと言っているようにも思われる。

 

童話『銀河鉄道の夜』の銀河の祭の日に,ザネリが燈籠を流そうとして船から川に落ち溺れそうになったとき,一緒に乗っていたカムパネルラは素早く川に飛び込みザネリを助けようとした。しかし,カムパネルラはザネリを助けることに成功するが,自分は死んでしまう。物語でザネリはいつもジョバンニをいじめているものとして,またジョバンニにとってカムパネルラは唯一の友だちとして描かれている。すなわち,カムパネルラは自分を慕ってくれるジョバンニをいじめるザネリを何のためらいもなく助けることができた。ザネリは不特定多数の他者を代表するものと言ってもよいと思われる。カムパネルラには賢治が投影されていると思われる(石井,2021c)。だから,カムパネルラは自分を犠牲にしてでもザネリを助けたのである。

 

賢治は農学校を退職したあと健康を害した。昭和3年(1928)に両側肺浸潤と診断されている。賢治は,健康が回復しつつあった昭和4~5年(1929 ~1930)年に,偶然にも北上山系の南にある一関市東山町にある東北砕石工場の鈴木東蔵に出会うことになる。鈴木は「石灰岩」とカリ肥料を加えた安価な合成肥料の販売を計画していて,「東北」の酸性土壌の大地を「石灰岩末」で中和することを夢みていた賢治はそれに賛同する。翌(1931)年の2月には,東北砕石工場の嘱託技師になり,製品の改良,広告文の作成,製品の注文取りと販売など東奔西走する。すなわち,捨て身の「菩薩行」である。しかし,この仕事も賢治の病弱な体には荷が重すぎていて,また高熱で倒れ病臥生活に戻ってしまう。そして,2年後に亡くなる。すなわち,賢治は「みんなの幸せ」のためなら自分を犠牲にすることもできる。また,浄土真宗を信仰する父親と宗教上の対立が起れば家出するくらいの行動力も有している。しかし,特定の個人,とくに好きな相手となると動けなくなるようだ。

 

これは,憶測に過ぎないかもしれないが,賢治は周囲の反対がなければ恋人と結婚したと思われる。宮沢家から恋人の家に結婚の打診もあったとされている(佐藤,1984)。また,前述したように賢治の「正しいねがひ」は「じぶんとひとと万象といつしよに/至上福しにいたらうとする」(下線は引用者)ことだからである。「じぶんとひとと万象」を「自分と恋人とみんな」とすれば結婚と菩薩行は両立する。法華経は女性だけでなく文学にも近づかないように教えている。しかし,賢治は何らかの折り合いを付けたと思うのだが文学活動を止めることはなかった。ただ,駆け落ちができないのだと思われる。別の言葉で言い換えれば花巻という土地から離れられないのだと思う。

 

恋人は結婚が反対されたときその土地にいられない事情があったのかもしれない。一方,賢治は反対されてもその土地に残らなければならない事情があったと思われる。

 

賢治は,自分が財閥一族の出身であることを負い目に感じていて,農学校時代の同僚に「花巻黒沢尻あたりの財閥は,農村を搾取してできたものだ。これを農村に返させるのが自分の仕事だ」と話したという(堀尾,1991)。賢治は地主でもある宮沢家の長男であり,自分が家長になったら土地を無償で農民(小作人)へ返す決意をしていたとも言われている(吉見,1982;多田,1984)。例えば,吉見の著書には当時(昭和二年頃),賢治が家に出入りする小作人たちに接触して,「おれの代になったら土地を全部ただでける(やる?)から,無理に借金などして土地を買う気おこすな。ただ,このことは親には内緒にしてけろ」と言ったとある。多分,童話『やまなし』を創作していたに頃もこういう考えをしていたのかもしれない。これが「ほんとう」なら,賢治は花巻あるいは宮沢家からは離れられない。花巻を離れてしまっては,恋人を幸せにできてもその土地に残された小作人たちとの約束を守れないし花巻黒沢尻の農民を幸せにできないからである。賢治が花巻から離れられない事情はいくつかあるかもしれないが,これがその1つであると思われる。

 

ちなみに,童話『やまなし』の賢治が投影されている鉄色の〈魚〉は移入種の「ヤマメ」と思われる(石井,2021d)。移入種とは本来の生息域ではない場所に人為的に持ち込まれたものである。「ヤマメ」はサケ科であるが降海せずに,一生を生まれ育った河川で過ごす。すなわち,再度他の場所に移されないかぎり生まれ育った場所を離れることはない。賢治も大正10年(1021)1月から8月まで東京に上京(家出)しているが,これ以外に長期間岩手県を離れたことはない。

 

強引な気もしないではないが,賢治は花巻から離れられないから駆け落ちができなかったのだと思われる。小作人たちとの約束を守ることや岩手県の農民を救おうとする気持ちが強い理由は,賢治の自分よりも不特定多数の人たちを優先する「性格」にあると思われる。賢治のこの「性格」は,法華経の教えとも重なるが,賢治が幼い頃に聞いた母の「ひとというものは,ひとのために何かしてあげるために生まれてきたのス」という言葉(子守歌)と強く関係していると思われる(石井,2022b)。

 

童話『銀河鉄どの夜』に登場する難破船の〈女の子〉は,けやきの木のような姿勢の青年の腕に「すがって」とあるようにぴったりと寄り添っていた。海に落ちた〈女の子〉を助けることができなかった青年を賢治に重ねれば,青年が語る話は,賢治が結婚に反対する近親者たちを押しのけることができず,また駆け落ちという行動を起すこともできなかったことから,賢治に絶大な信頼を寄せている恋人を単独で異郷(米国)の地へ行かせてしまった理由とも解釈できる。

 

童話『やまなし』の1ヶ月後発表された寓話『シグナルとシグナレス』では,賢治が投影されている〈魚〉は信号機の〈シグナル〉として描かれている。舞台は花巻の本線と軽便鉄道が合流するところである。本線側に設置された信号機〈シグナル〉は地面に固定されているので花巻から離れることはできない。結婚を反対された〈シグナル〉は,遠い天上の青い星に〈シグナレス〉を連れ出したいが,花巻から離れられない〈シグナル〉はそれも叶わず,ただ祈ることしかできなかった。

 

童話『やまなし』の創作メモと思われる異稿「冬のスケッチ」に記載されている「さかなのねがひはかなし」とは,賢治が投影されている〈魚〉が破局に向かっている川底の〈クラムボン〉(=恋人)を助けることができなかった悲しみのことである。この賢治の「悲しみ」は,母の子守歌である「ひとというものは,ひとのために何かしてあげるために生まれてきたのス」という呪縛から逃れられなかったことと深く関係していると思われる。

 

参考・引用文献

堀尾青史.1991.年譜 宮澤賢治伝.中央公論社.

石井竹夫.2021b.宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』-ケヤキのような姿勢の青年(2)-.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/06/12/145103

石井竹夫.2021c.自分よりも他人の幸せを優先するカムパネルラ-性格形成に影響を与えた母の言葉- .https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/12/16/172552

石井竹夫.2021d.宮沢賢治の『やまなし』-登場する植物が暗示する隠された悲恋物語(1)-.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/08/08/095756

石井竹夫.2022b.自分よりも他人の幸せを優先する宮沢賢治 (1)-性格形成に影響を及ぼした母の言葉-.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2022/01/01/125039 

石井竹夫.2023.童話の「やまなし」の実が横になって木の枝にひっかかってとまると」とは何を意味しているのか.

佐藤勝治.1984.宮沢賢治 青春の秘唱“冬のスケッチ”研究.十字屋書店.

多田幸正.1984.宮沢賢治と農村問題.日本文学 33(3):13-25.

吉見正信.1982.宮沢賢治の道程.八重岳書房.

童話『やまなし』考 -冬のスケッチ(創作メモ)にある「さかなのねがいはかなし」とはどういう意味か (第1稿)-

童話『やまなし』(1923年4月8日新聞発表)の第一章「五月」には鉄色の〈魚〉と〈クラムボン〉の悲恋物語が書かれている(石井,2021a)。鉄色の〈魚〉には賢治が,川底に居る〈クラムボン〉には詩集『春と修羅』に登場してくる賢治の恋人が投影されている。

 

『やまなし』の創作メモと思われるものが異稿「冬のスケッチ」に残されていて,その〈七-三〉という番号の次に「さかなのねがひはかなし/青じろき火を点じつつ。/みずのそこのまことはかなし」と記載されている。多分,この短唱は賢治と恋人の恋の破局と関係すると思われる。本稿では,短唱1行目の「さかなのねがいはかなし」が何を意味しているのかについて考察してみる。本稿は第1稿と第2稿の2つで構成されている。

 

童話『やまなし』が発表される前年の5月の日付のある詩「小岩井農場」パート九(1922.5.21)に賢治の「ねがい」と思われるものが記載されている。この詩には「・・・この不可思議な大きな心象宙宇のなかで/もしも正しいねがひに燃えて/じぶんとひとと万象といつしよに/至上福しにいたらうとする/それをある宗教情操とするならば/そのねがひから砕けまたは疲れ/じぶんとそれからたつたもひとつのたましひと/完全そして永久にどこまでもいつしよに行かうとする/この変態を恋愛といふ/そしてどこまでもその方向では/決して求め得られないその恋愛の本質的な部分を/むりにもごまかし求め得やうとする/この傾向を性慾といふ・・・」(宮沢,1985;下線は引用者)とある。

 

多分,賢治が投影されている〈魚〉の「ねがい」とは「じぶんとひとと万象といつしよに至上福しにいたらう」とする宗教情操のことと思われる。すなわち,賢治は童話『やまなし』を創作していた頃「みんなを幸せにする」ことを願っていた。

 

では,「さかなのねがひはかなし」の「かなし」とは何か。別の言葉で言い換えれば「みんなを幸せにする」ことでなぜ心が痛むのか。

 

2つ考えられる。1つは「みんなを幸せにする」すなわち「正しいねがひに燃えてじぶんとひとと万象といつしよに至上福しにいたらうと」としたが,その「ねがい」が砕けまたは疲れ,「じぶんとそれからたつたもひとつのたましひと完全そして永久にどこまでもいつしよに行かう」とする「宗教情操」の変態すなわち「恋愛」をしてしまったという「かなし」である。これを(A)とする。

 

もう1つの「かなし」は賢治の恋人が破局によって味わった悲しみと関係しているものである。すなわち,恋人が破局を回避するために賢治に繰り返し助けを求めていたにも関わらず(石井,2023),それに答えることができなかったことによる「かなし」である。これを(B)とする。

 

私は,「さかなのねがひはかなし」の「かなし」は後者の(B)であると思っている。(A)は「かなし」というよりは「なさけなし」と言ったほうが適切なような気がする。恋人ができたことを詠った詩「春光呪詛」(1922.4.10)には嬉しいはずなのに「いつたいそいつはなんのざまだ/どういふことかわかつてゐるか/髪がくろくてながく/しんとくちをつぐむ/ただそれつきりのことだ・・・」(宮沢,1985;下線は引用者)とある。恋人ができたのに「そいつはなんのざまだ」と嘆いている。この恋人は,賢治が友人の藤原嘉藤治と開催したレコード鑑賞会に参加してきた女性である。女性は小学校の教諭であり7~8人の仲間の女性と一緒に参加していた(佐藤,1984)。

 

賢治は,島地大等編纂の『漢和対照妙法蓮華経』に出会って法華経に感銘し2年後の大正5年(1916)に「四弘誓願」を立てたと言われている。「四弘誓願」は(1)衆生無辺誓願度-誓ってすべての人を悟らせようという願い,(2)煩悩無量誓願断-誓ってすべての迷いを断とうという願い(あるいは誓い),(3)法門無尽誓願学(誓願知)-誓って仏の教えをすべて学び知ろうという願い,(4)仏道無上誓願成-誓ってこのうえない悟りにいたろうという願い,である(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典より)。

 

この誓願は賢治のように菩薩を目指す人において修行の初めに必ず起こす4つの誓いである。『新校本宮澤賢治全集十六(下)補遺・資料 年譜篇』に「大正5年7月5日(木)保阪嘉内と岩手山登山 神社参拝 誓願」とある。また,賢治の保阪宛の書簡186(大正10年1月)に「嘗つて盛岡で我々の誓った願/我等と衆生と無上道を成(じょう)ぜん,これをどこ迄も進みませう」,簡196(同年7月)に「私の高い声に覚び出され・・・四つの願を起した事をあなた一人のみ知って居られます」,また書簡484a(昭和8年8月)に「昔の立願を一応段落つけようと・・・」とある。

 

賢治にとって,「四弘誓願」まで立てて「じぶんとひとと万象といつしよに至上福しにいたらう」と誓ったのに,「じぶんとそれからたつたもひとつのたましひ」と「恋愛」に落ちてしまうとは「いつたいそいつはなんのざま」なんだと言うことであろう。すなわち,(A)は「悲しみ」というよりは「なさけなし」と言った方が適切である。心の痛みではない。「さかなのねがひはかなし」の「かなし」は(A)ではなく,(B)の恋人を助けることができなかったことによる悲しみと思われる。

 

では,なぜ賢治は恋人を助けることができなかったのか。その理由は童話『やまなし』を発表してから3年後に書かれた童話『銀河鉄道の夜』(第3次稿,1926)に登場する「けやきのような姿勢の青年」が語っているように思える。この青年は物語では氷山に衝突して沈んだ船のキリスト教徒として設定されている。(続く)

 

参考・引用文献

堀尾青史.1991.年譜 宮澤賢治伝.中央公論社.

石井竹夫.2021a.植物から『銀河鉄道の夜』の謎を読み解く(総集編Ⅳ)-橄欖の森とカムパネルラの恋-https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/06/07/084943

石井竹夫.2023.童話の「やまなし」の実が横になって木の枝にひっかかってとまると」とは何を意味しているのか.

宮沢賢治.1985.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.

佐藤勝治.1984.宮沢賢治 青春の秘唱“冬のスケッチ”研究.十字屋書店.

 

童話の「やまなし」の実が「横になって木の枝にひっかかってとまる」とは何を意味しているのか

童話『やまなし』の第一章「五月」は,谷川の川底に先住していた〈クラムボン〉とあとから谷川にやってきた〈魚〉の悲恋物語りである。〈魚〉は〈かはせみ〉によって谷川から連れ出され,「樺の花」は散って川下へ流れさった。〈魚〉には賢治が,〈クラムボン〉や「樺の花」には背が高かった恋人が投影されている(石井,2021a,2021d)。谷川(=イーハトヴ)の〈魚〉(=賢治)と〈クラムボン(恋人)〉の恋は引き裂かれてしまった。

 

第二章「十二月」では谷川に「ドブン」と落ちた「やまなし」の果実は沈み,浮き上がり,流れて,横になって木の枝にひっかかってとまり,再び沈むという複雑な動きをする。この複雑な「やまなし」の実の動きは,引き裂かれたことによる恋人の心の動きが反映されているように思える。最後の「再び沈む」という動きは破局が決定づけられたときの恋人の深い悲しみが表現されていることについてはすでに述べた(石井,2022a)。ちなみに,「やまなし」は東北で「やまなす」と発音する。「やまなす」には賢治の恋人の名前の二文字が隠されているという(澤口,2018,石井,2021)。

 

「再び沈む」が恋人の深い悲しみなら,その前の「横になって木の枝にひっかかってとまる」(第1図)というのも何か特別な意味が隠されているように思える。本稿では「やまなし」が「横になって木の枝にひっかかってとまる」というのが,何を意味しているのかを同時期に書かれた他の作品の類似表現を参考にして推測してみる。

第1図.「やまなし」の実が横になって谷川の木の枝にひっかかって止まっている様子(イメージ図).

 

「横になって木の枝にひっかかってとまる」と類似した表現は,童話『ガドルフの百合』(1923)と童話『銀河鉄道の夜』の第3次稿(1926)と第4次稿(1931)に見られる。

 

童話『ガドルフの百合』は,主人公のガドルフが旅の途中で嵐に遭遇して1軒の大きな黒い家に雨宿りする物語である。その家の庭には10本ばかりの百合に混じって1本の背の高い〈百合の花〉が咲いている。ガドルフは嵐の中で咲く1本の〈百合の花〉をみて「おれの恋は,いまあの百合の花なのだ。砕けるなよ」と願っている。しかし,ガドルフはこの〈百合の花〉が稲光に打たれて折れて「しのぶぐさ」の上に横たわるのを見ることになる。

 

 その次の電光は,実に微(かす)かにあるかないかに閃(ひら)めきました。けれどもガドルフは,その風の微光の中で,一本の百合が,多分たうとう華奢(きゃしゃ)なその幹を折られて,花が鋭く地面に曲ってとゞいてしまったことを察しました。

 そして全くその通り稲光りがまた新らしく落ちて来たときその気の毒ないちばん丈の高い花が,あまりの白い興奮に,たうとう自分を傷つけて,きらきら顫(ふる)うしのぶぐさの上に,だまって横はるのを見たのです。

                (宮沢,1985)下線は引用者 以下同じ

 

この引用文の背の高い〈百合の花〉の「しのぶぐさの上に,だまって横はる」(第2図)という表現が童話『やななし』の「横になって木の枝にひっかかってとまる」と類似している。

第2図.ノキシノブの上に倒れて横たわる百合の花(イメージ図).

 

そして,この引用文のあと,ガドルフは「あの百合は折れたのだ。おれの恋は砕けたのだ」とつぶやく。

 

「しのぶぐさ」はウラボシ科の「ノキシノブ」(軒忍;Lepisorus thunbergianus (Kaulf.)Ching)と思われる。「きらきら顫ふ」という形容が付くのは,この植物がウラボシ科とあるように葉の裏側に一列に並ぶ星のようにも見える円形の胞子嚢を持つことによるのかもしれない。古今和歌集に「君しのぶ草にやつるるふるさとは松虫の音ぞ悲しかりける」(よみ人しらず)という歌があるが,この「しのぶ草」は「ノキシノブ」のことで「君しのぶ」の掛詞になっている(石井,1922b)。

 

「ノキシノブ」は,土に直接根を降ろさないで岩や「ケヤキ」や「ブナ」などの古木の幹などに着床して葉を伸ばし増えていく(着床植物)。物語で着床される側の樹木としては,大木になる「ケヤキ」(欅,Zelkova serrata (Thunb.) Makino )が推定される。「ケヤキ」は奈良や京都に都を置いた大和朝廷を象徴する木でもある(石井,2021b,2022b)。

 

なぜ嵐で傷つけられた〈百合の花〉はケヤキに付着する「しのぶぐさ」の上にだまって横たわったのか。多分,「しのぶぐさ」の付く「木」(ケヤキ?)に対する「助けてほしい」という無言の意思表示であったと思われる。私は,嵐で自分を傷つけてしまった〈百合の花〉には結婚を反対されて失意の恋人が,そして〈ガドルフ〉や「しのぶぐさ」が付く「木」には賢治が投影されていると思っている(石井,2022b)。宮沢家の始祖は江戸中期に花巻に下った京都の公家侍である。この子孫が花巻付近で商工の業を営んで,宮沢まき(一族)と呼ばれる地位と富を築いていった(畑山・石,1996)。すなわち,「ケヤキ」は宮沢家あるいは賢治をも象徴している。

 

恋人の「助けてほしい」には「私をここから連れ出してほしい」という願いが込められているように思われる。寓話『シグナルとシグナレス』でも,〈シグナル〉と〈シグナレス〉の結婚が周囲のものから反対されたとき,〈シグナル〉が「あゝ,シグナレスさん,僕たちたった二人だけ,遠くの遠くのみんなのいないところに行ってしまいたいね」と駆け落ちも辞さない決意を言うと,〈シグナレス〉は「えゝ,あたし行けさえするなら,どこへでも行きますわ」と答えている。〈シグナレス〉の言葉は,何処へでもついて行くからここから連れ出してほしいと言っているのだと思われる。〈シグナル〉と〈シグナレス〉には賢治と恋人が投影されている。しかし,寓話『ガドルフの百合』で〈ガドルフ〉は嵐が過ぎたあと傷ついた〈百合の花〉をそのまま置いて旅だっていく。

 

次に,童話『銀河鉄道の夜』を見てみよう。九章「ジョバンニの切符」で氷山に衝突して船から海に落ちてしまった乗客が死後の世界を走る銀河鉄道の列車に乗ってくる場面がある。列車に乗ってくるのは,6歳の男の子と12歳くらいの〈女の子〉の弟妹とその家庭教師の青年である。青年は「けやきの木のやうな姿勢」と説明されている。そして,〈女の子〉はこの「けやきの木」のような姿勢をした青年の腕にすがりついている。 

 

 そしたら俄(にわかに)そこに,つやつやした黒い髪の六つばかりの男の子が赤いジャケツのぼたんもかけずひどくびっくりしたやうな顔をしてがたがたふるえてはだしで立ってゐました。隣りには黒い洋服をきちんと着たせいの高い青年が一ぱいに風に吹ふかれているけやきの木のやうな姿勢で,男の子の手をしっかりひいて立ってゐました。

「あら,こゝどこでせう。まあ,きれいだわ。」青年のうしろにもひとり十二ばかりの眼の茶いろな可愛らしい女の子が黒い外套を着て青年の腕にすがって不思議さうに窓の外を見てゐるのでした。       

                      (宮沢,1985)下線は引用者

 

この引用文では〈女の子〉は「黒い外套」を着ていて,眼の色が「茶いろ」とある(第3図)。

第3図.黒い外套を着て青年の腕にすがっている茶色の眼の女の子.

 

大正11年(1922)春の詩「春光呪詛」(1922.4.10)で賢治は恋人を「頬がうすあかく瞳の茶いろ」と言っている。普通「瞳」と言えば瞳孔のことで黒である。恋人の眼の虹彩の色が茶色と言っているのだと思われる。

 

「詩ノート」の〔古びた水いろの薄明穹のなかに〕には「・・・そしてまもなくこの学校がたち/わたくしはそのがらんとした巨きな寄宿舎の/舎監に任命されました/恋人が雪の夜何べんも/黒いマントをかついで男のふうをして/わたくしをたづねてまゐりました/そしてもう何もかもすぎてしまったのです・・・」(宮沢,1985;下線は引用者)という詩句が並ぶ。この詩は,昭和2年(1927)5月7日の日付のある作品だが,大正11年(1922)冬あるいは翌年の2月ごろまでのことを回想したものとされている(石井,2022a)。この詩に登場する寄宿舎とは新しくなる農学校の校舎で,大正11年(1922)8月から建築を開始し翌年3月30日に落成式を行った県立花巻農学校のことである。恋人は黒いマントを着て寄宿舎の舎監である賢治を訪ねていたのだと思われる。

 

すなわち,童話『銀河鉄道の夜』に登場する眼が茶色で黒い外套を着ている〈女の子〉には,詩集『春と修羅』を創作していた頃に賢治が相思相愛の恋をしていた女性が投影されているように思える。すなわち,恋人が投影されている〈女の子〉は賢治が投影されている「けやきの木のやうな姿勢」の青年の腕にすがっている。「すがる(縋る)」は「寄り添う」という意味だが,「離れようとする人を引き留める」とか「助けを求める」という意味もある。多分,童話『銀河鉄道の夜』に登場する〈女の子〉も船が氷山に衝突して沈みかけたとき青年に助けを求めていたのであろう。詩〔古びた水いろの薄明穹のなかに〕に登場する人物と本稿で取り上げた童話のキャラクターとの関係を第1表に示す。

 

 

童話『やまなし』の第二章「十二月」に登場する「やまなし」の果実に賢治の恋人が投影されていることは前述した。童話『やまなし』の発表直前(1922年の冬)に賢治と恋人の恋は周囲からの反対もあって破局に向かっていた。この破局に向かう女性の姿は童話『やまなし』では12月に落果した「やまなし」の実として,寓話『ガドルフの百合』では嵐で折れてしまった〈百合の花〉として,童話『銀河鉄道の夜』では沈み行く難破船の〈女の子〉として表現されているように思われる(第1表)。また,この頃の賢治の姿は童話『やまなし』では木の枝として,寓話『ガドルフの百合』では「しのぶぐさ」が付く木として,童話『銀河鉄道の夜』ではけやきのような姿勢の青年として表現されているように思える。ちなみに,「枝」や「しのぶぐさ」は賢治の腕に相当するものであろう。3つの童話に共通するのは,恋人がイメージされているものが賢治の腕に相当するものにすがっている姿である。

 

多分,童話『やまなし』で「やまなし」の果実が「横になって木の枝にひっかかってとまる」とは,結婚を反対された恋人が賢治の腕にしがみついて助けを求めている姿の暗喩と思われる。しかし,恋人のこの哀願(あいがん)は,童話『やまなし』では「再び沈む」と〈蟹〉に予想されてしまうように叶えられることはなかった。童話『やまなし』は,「私の幻燈はこれでおしまひであります」で終わる。

 

参考・引用文献

畑山 博・石 寒太.1996.宮沢賢治幻想紀行.求龍堂.

原 子郎.1999.新宮澤賢治語彙辞典.東京書籍.

石井竹夫.2021a.宮沢賢治の『やまなし』-登場する植物が暗示する隠された悲恋物語(1)-.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/08/08/095756

石井竹夫.2021b.宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』-ケヤキのような姿勢の青年(1)-.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/06/12/143453

石井竹夫.2021c.宮沢賢治の『やまなし』-登場する植物が暗示する隠された悲恋物語(3)-.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/08/10/122017

石井竹夫.2021d.童話『やまなし』は魚とクラムボンの悲恋物語である.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/09/20/090540

石井竹夫.2022a.童話『やまなし』考 -「十二月」に「やまなし」の実が川底に沈むことにどんな意味が込められているのか (第1稿)-.

石井竹夫.2022b.童話『ガドルフの百合』考(第2稿)-百合の花に喩えた女性とは誰か.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2022/05/04/092632

石井竹夫.2022c.童話『ガドルフの百合』考(第6稿)-賢治は本当に〈恋〉よりも〈宗教〉の方を重要と考えたのか.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2022/05/08/075438

宮沢賢治.1985.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.

澤口たまみ.2018.新版 宮澤賢治 愛のうた.夕書房.

童話『やまなし』に記載されている「うそ」と「ほんとう」を分けてみて明らかになること (第3稿)

第1稿と第2稿で童話に記載されている「うそ」と思われることを列挙した(第2表)。本稿では「ほんとう」と思われることをあげてみる。また,後半部で「うそ」と「ほんとう」を分けて明らかになったことについて述べてみる。

 

 

2.「ほんとう」と思われること

1)「五月」に〈かはせみ〉が〈魚〉を谷川から連れ出したこと

「かわせみ」と「サカナ」は捕食するものと捕食されるものの関係にあるので谷川で実際に起ったことであると思われる。

 

2)「十二月」に父親の〈蟹〉が谷川に落ちてくる黒い円い大きなものを「やまなし」と言ったこと

父親の〈蟹〉は「遠めがねのような両方の眼をあらん限り延ばして,よくよく見て」から,「あれはやまなしだ・・・・あゝいゝ匂いだな」と言っていることや,さらに流れていく「やまなし」を追いかけて枝に引っかかって止まったところで再度形と匂いを確認して「やっぱりやまなしだよ」と言っている。父親の言葉は,非常に高い観察力と再確認する慎重さに裏打ちされているので「ほんとう」のことであると思われる。

 

3)「十二月」に谷川に落ちた「やまなし」の果実が沈み,浮き上がり,流れて,木の枝に引っかかって止まり,二日経つと再び沈むということが予想されていること

この複雑な果実の動きは「うそ」みたいだが「ほんとう」のことと思われる。童話の「やまなし」はナシ属では「イワテヤマナシ」(Pyrus ussuriensis Maximvar.aromatica (Nakai et Kikuchi))Rehd.)の果実が有力候補になるが,入手困難なので同属の「ヤマナシ」(Pyrus pyrifolia;ピルス・ピリフォリア)の果実を用いて実験してみた。  

 

「ヤマナシ」の樹上から落ちたばかりの新鮮な果実はコップの水に落とすと沈んでしまう。浮き上がることはない(石井,2022g)。しかし,しばらく放置し水分が蒸散し果皮に皺ができた果実を使うとまったく逆の結果が得られた。萎れた果実のいくつかはコップに落とすと沈んだのちに浮き上がるのである。ただ,浮いたあと再び沈むことはなかった(2022h)。

 

さらに,氷の付いた「ヤマナシ」の果実をコップの水に落とす実験もしてみた。「ヤマナシ」はコップの底に沈んだのち浮き上がった。そのあと浮いた状態を保っていたが,しばらくすると再び沈んだ(石井,2023)。東北の12月は氷点下になるので果実に氷が付くことはあり得ることと思われる。「イワテヤマナシ」でも同様の結果が得られる可能性は高い。すなわち,谷川に落ちた果実が「木の枝に引っかかって止まり」までなら,萎れた果実を使えば再現可能であり,また「二日経つと再び沈む」は氷のついた果実を使えば再現可能である。ただ,このような実験をしても「ほんとう」であろうと推測するしかない。実験材料や環境が「ほんとう」ではないからである。

 

童話『やまなし』は,谷川の川底に先住していた〈クラムボン〉(=カゲロウ)とあとから谷川にやってきた〈魚〉の悲恋物語りであることはすでに報告した(石井,2021a)。「十二月」の「やまなし」の果実の複雑な動きは,賢治の恋人の破局時の心理状態が反映されていると思われる(石井,2022e)。

 

3.「うそ」か「ほんとう」かまだ区別できていないもの

1)谷川に落ちた「やまなし」の果実がお酒になるということ

父親の〈蟹〉は「もう二日ばかり待つとね,こいつは下へ沈んで来る,それからひとりでにおいしいお酒ができるから」と言っていた。ほんとうだろうか。天然には野生酵母があり,糖度の高い果実に付着したりすると,それが自然発酵(アルコール発酵)することは理論的にあり得るとされている(石井,2022i)。しかし,酒(1%以上)と呼ばれるほどの度数のものが人工的な操作を加えないでもできるかどうかは分からない。度数を考慮しないならあり得る話だと思える。実際に,12月に平塚市の総合公園で採取した「ヤマナシ」Pyrus pyrifolia)の果実の中には甘い匂いを出しているものがいくつかあった(石井,2023)。

 

3.「うそ」と「ほんとう」を分けて明らかになること

「うそ」と思われるものの多くは〈蟹〉の親子が言っていることの中にある。父親の〈蟹〉は非常に高い自然観察力と再確認する慎重さを持っているが「うそ」も平気で吐(つ)いてしまう。蟹たちには東北の農民などの先住民が投影されていると思っている。100年前の東北の農民も間違った情報を日常の中で頻繁に使ってしまうのであろうか。

 

岩手県の山村に生まれ,古着の行商人をしていた大牟羅 良(1958)が昭和20~24年頃の東北の農民について調査し,その結果を『ものいわぬ農民』という著書にまとめている。そこには,小作人である農民が「地主」に「反感」を持ちながらも沈黙する姿が描かれている。農民たちは,「地主」や「よそ者」には口を閉ざすが,しがない行商人には嘆きや怒りなど「ほんとう」の気持ちを吐きだす。この生の声を集めた著書に「うそ」を言う農民も描かれている。

 

ある農村の青年の言葉として「新聞を読むとセッゴケ(怠け者)だといい,意見をはくとセッゴケという。ものいえば,ふでえ(ひどい)しわざといわれるから,みんな黙ってる。ひとにしゃべることは反対のことばかり。金持ってる人にきくと,生活は楽でねえどいい,金ない家では,困んねえという。ヨメとシュウトメはうまくいがねえ。だども,ひとにきがれると,ヨメッコは“アッパ(母さん)はよぐしてくれる”といい,シュウトメは“オラのヨメッコはえぐ(よく)かせぐ”という。おれにはわがらねえス・・・」(19頁;下線は引用者)とある。

 

また,老婦人の言葉として「おら十五になる時,この家さ,嫁つコに来て,ひどい姑につかわれて,ごで爺(夫)は若(わげ)え時から,村役(村議など)だ何だって,仕事もしねえでぶらぶらして,おら一人でかせえで,着物も脱がねえで二時間休んだが? それくれえにして働いでも,税金も払えねえで・・・」(140頁;下線は引用者)とある。

 

「ヨメとシュウトメはうまくいがねえ。」や「嫁つコに来て,ひどい姑につかわれて」は声にはならない「ほんとう」の言葉で,人に尋ねられて嫁が「アッパ(母さん)はよぐしてくれる」と言ったり,姑が「オラのヨメッコはえぐ(よく)かせぐ」と実際に言ったりするのは「うそ」であると思われる。この引用文の「うそ」は分かりやすいが,分かりにくい「うそ」が世の中にはたくさんあるように思える。分かりにくい「うそ」や「うそ」と言う自覚のない「うそ」は「誤解」を生み,争い事のきっかけを作ってしまうこともあるかもしれない。

 

童話『やまなし』は,前述したように谷川の川底に先住していた〈クラムボン〉とあとから谷川にやってきた〈魚〉の悲恋物語である。〈クラムボン〉には恋人が,〈魚〉には賢治が投影されている。賢治が童話の中にたくさんの「うそ」を入れたのは,自分たちの恋が「うそ」や「間違い」の情報をきっかけにして破局してしまったことによるからと思われる(石井,2021a,2022d)。地方紙に発表したのもこの「誤解」を解こうとしたからとも思える。

 

賢治は,この破局した恋を通して,「ほんとう」と「うそ」を区別することの重要さを学んだのだと思われる。「ほんとう」と「うそ」を区別することで新たな真実が見えてくると確信したに違いない。この賢治の確信はその後世界に類のない思想を生むことになる。童話『銀河鉄道の夜』は「ほんとう」と「うそ」を区別することが重要なテーマの1つになっている。例えば,〈鳥捕り〉がジョバンニとカンパネルラに「鷺の(さぎ)の押し葉」を見せて食べるように勧めるが,二人は〈鳥捕り〉の言葉を「うそ」と見抜く(石井,2021d)。また,第三次稿で,賢治は「ある時代でほんとうと考えられていたことも時代が変わるとうそになる」ことや「ほんとうの考えとうその考えを分けてしまえばその実験の方法さえきまればもう信仰(宗教)も化学(科学)も同じになる」(括弧内は引用者)ということをセロのような声の人に言わせている(石井,2021c)。童話『銀河鉄道の夜』は,賢治が生涯に渡って研鑽を重ね続けた末の思想の到達点でもある。

 

参考・引用文献

石井竹夫.2021a.宮沢賢治の『やまなし』-登場する植物が暗示する隠された悲恋物語(1)-.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/08/08/095756

石井竹夫.2021c.植物から『銀河鉄道の夜』の謎を読み解く(総集編Ⅰ)-宗教と科学の一致を目指す-.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/06/04/145306

石井竹夫.2021d.宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』-鳥の押し葉-.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/07/05/102845

石井竹夫.2022a.童話『やまなし』の第一章「五月」に登場する〈カワセミ〉の眼は黒いはずなのになぜ赤いと言うのか.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2022/12/24/083020

石井竹夫.2022d.童話『やまなし』考 -クラムボンは笑った,そして恋は終わった-.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2022/02/01/101846

石井竹夫.2022e.童話『やまなし』考 -「十二月」に「やまなし」の実が川底に沈むことにどんな意味が込められているのか (第1稿)-.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2022/11/23/091745

石井竹夫.2022g.童話『やまなし』に登場する「やまなし」の実は水に浮くが「イワテヤマナシ」も同じように浮くのか.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2022/11/08/171645

石井竹夫.2022h.童話『やまなし』では水に浮いた「やまなし」の実が2日で川底に沈みしばらくすると酒ができるとあるが (2).https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2022/11/20/091202

石井竹夫.2022i.童話『やまなし』では水に浮いた「やまなし」の実が2日で川底に沈み,しばらくすると酒ができるとあるが (1).https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2022/11/18/190012

石井竹夫.2023.童話『やまなし』考 -氷のついた「ヤマナシ」(Pyrus pyrifoliaの実は水に落ちて沈み,浮かび,再び沈む-.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2023/01/01/142754

大牟羅良.1958(第1刷).ものいわぬ農民.岩波書店.

 

お礼 Narumiさん.本ブログ記事読んでいただきありがとうございます。励みになります。令和5年1月13日

童話『やまなし』に記載されている「うそ」と「ほんとう」を分けて明らかになること (第2稿)

引き続き,自然現象としては起こりえないこと,あるいは「うそ」と思われることについて列挙してみる。

 

5)「五月」に〈魚〉が〈クラムボン〉の廻りを行ったり来たりしたとき,兄の〈蟹〉が「何か悪いことをしてゐるんだよとつてるんだよ」と言ったこと

兄の「何か悪いことをしてゐるんだよとつてるんだよ」という言動は「誤解」に基づく「うそ」である。〈魚〉が鉄いろに変に底光りさせて〈クラムボン〉の廻りを行ったり来たりしているのは,〈魚〉の〈クラムボン〉に対する求愛行動であり,〈魚〉が口を大きく開けたのは婚約指輪を真似たものである(2022b)。

 

寓話『シグナルとシグナレス』では,裕福な本線〈シグナル〉が貧しい軽便鉄道の〈シグナレス〉に婚約指輪を贈るが,このとき〈シグナル〉が渡す婚約指輪は琴座のα,β,γ,δ四星の作る菱形をプラチナリングに,環状星雲M(メシエ)57を宝石に見立てたものである(原,1999)。宝石に相当する環状星雲には「フイツシユマウスネビユラ」(=魚口星雲)のルビが振ってある。すなわち,兄の〈蟹〉は〈魚〉の〈クラムボン〉に対する求愛行動を「何か悪いことをしてゐるんだよとつてるんだよ」と誤解したのだと思われる。ただ,この「誤解」は避けられなかったのかもしれない。

 

〈クラムボン〉は石の下の小さい生き物という意味で,「カゲロウ」の幼虫のことであることはすでに述べた(石井,2021a)。「カゲロウ」の幼虫は英語でnymph(ニンフ)という。妖精という意味である。すなわち,鉄いろに変化した〈魚〉は石の下の美しい妖精に恋をして,婚約指輪を渡そうとしていたのである。寓話『シグナルとシグナレス』でも,〈シグナル〉は〈シグナレス〉のことを「世界中の女の人の中で一番美しい」と言っていた。しかし,「サカナ」と「カゲロウの幼虫」は捕食するもの(強者)と捕食されるもの(弱者)の関係でもある。川底の蟹たちは,〈魚〉が口を開けて〈クラムボン〉に近づこうとしているのを見たとき,食べてしまう,すなわち「何か悪いことをしてゐるんだよとつてるんだよ」と思っても不思議ではない。ましてや,〈魚〉は谷川には蟹たちよりは後からやってきたよそ者である(石井,2021a)。

 

賢治の住むイーハトヴで,当時よそ者が先住の女性に何か悪いことをしたりとったりすると大変な事が起ってしまうことが詩集『春と修羅』の「晴天恣意」(水沢緯度観測所にて)(1924.3.25)に記載されている。 

 

この詩には,「古生山地の谷々は/おのおのにみな由緒ある樹や石塚をもち/もしもみだりにその樹を伐り/あるひは塚をはたけにひらき/乃至はそこらであんまりひどくイリスの花をとりますと/かういふ青く無風の日なか/見掛けはしづかに盛りあげられた/あの玉髄の八雲のなかに/夢幻に人は連れ行かれ/見えない数個の手によって/かゞやくそらにまっさかさまにつるされて/槍でづぶづぶ刺されたり/頭や胸を圧(お)し潰されて/醒めてははげしい病気になると/さうひとびとはいまも信じて恐れます」(宮沢,1985)とある。

 

下線部の「イリスの花」は,植物の「アイリス」のことでアヤメ科アヤメ属の学名である。賢治の詩に登場する「カキツバタ」(Iris laevigata Fisch)や「シャガ」(I. japonica Thunb.)を指す。いずれも「在来種」(その土地に先住しているもの)である。「カキツバタ」は茎先に青紫色の花をつける。「イリスの花」は先住の女性の比喩として使われているように思える。童話『やまなし』では〈クラムボン〉のことである。

 

この詩の「あんまりひどくイリスの花をとりますと・・・/かゞやくそらにまっさかさまにつるされて・・・/槍でづぶづぶ刺されたり・・・」という詩句は,童話『やまなし』の兄弟の〈蟹〉の「魚が何か悪いことしてるんだよとつてるんだよ」という会話を彷彿させる。この詩で乱暴にイリスの花をとってしまうのは先住の者ではない。よそ者(移住者あるいは開拓民)である。先住の者は由緒ある樹をみだりに伐ったり,塚(先住民の墓)を畑にしたりはしないと思われる。

 

この詩の引用は最後に「さうひとびとはいまも信じて恐れます」と結んでいるように,イーハトヴの先住民の「信仰」とも関係している。すなわち,「見えない数個の手によって/かゞやくそらにまっさかさまに」吊るして槍でづぶづぶ刺すのは先住するものの神である。童話『やまなし』ではこの後に〈魚〉が赤い眼の〈カワセミ〉の槍のような嘴で挟まれて天空に連れ去られる。また,寓話『土神ときつね』では,南から来たよそ者の〈きつね〉が土着の女の「樺の木」を奪おうとしたことで土着の神である〈土神〉に殺されてしまう。

 

6)「五月」に父親の〈蟹〉が子供らに〈かはせみ〉の眼は赤いと言ったこと

「カワセミ」の眼の色(虹彩の色)は生物学的に「黒い」のが「ほんとう」である。ただし,水中で眼は白で半透明の瞬膜で覆われるので灰色と言った方がいいかもしれないが,赤ではない。父親の〈蟹〉の〈かはせみ〉の眼が赤いという発言は「うそ」である。ただ,この「うそ」には谷川の底に先住する蟹たちのあとからやってきた〈魚〉に対する「怒り」と「十二月」に赤い円いものが落ちてくることの予兆の意味が隠されている(石井,2022a)。

 

7)「五月」に父親の〈蟹〉が子供らに眼の赤い〈かはせみ〉は「おれたちはかまわないんだから」と言ったこと

これも自然界にある食物連鎖からすれば「うそ」である。「カワセミ」と「サワガニ」の関係は,自然界では捕食するもとと捕食されるものの関係である。ただ,父親の〈蟹〉は赤い眼をした〈かはせみ〉は自分達を食べたりはしないということを信じている。多分,谷川の川底に棲む別の大人の蟹たちもそう信じているのだと思われる。これは蟹たちの「信仰」と関係すると思われる。

 

赤い眼の〈かはせみ〉は谷川の川底に棲むものたちが信仰する神の化身(守護神)と思われる。寓話『土神ときつね』の〈土神〉も「一本木の野原」に棲む生き物の守護神であるが,南から来たよそ者の〈きつね〉と〈木樵〉には敵対的に対応する。〈土神〉はおだやかなときは眼の色が黒いが,怒ると赤くなる(2022a)。赤い眼の土着の神はイーハトヴでは「鬼神」と呼ばれている。実在の人物と童話に登場するキャラクターとの関係を第1表に示す。

 

 

8)「五月」に父親の〈蟹〉が谷川に流れてきた花に対して「樺(かば)の花が流れてきた」と言ったこと

川底から水面に流れている花(あるいは花びら)を見ただけで即座に「樺の花」と断定できるものであろうか。5月は樺の木以外に花の咲く植物がたくさんあると思われる。植物に精通している者でも難しいと思われる。

 

語り手は「泡と一緒に,白い花びらが天井をたくさんすべって来ました」と言っている。語り手の言う「泡」が子供の〈蟹〉の吐(は)いた「泡」かどうかは定かではないが,何かうそっぽい。「うそ」と一緒に白い花びらが流れてきたとも解釈できる。「樺の花」は東北では「カスミザクラ」や「オオヤマザクラ」などが候補にあがる(石井,2021b)。家族が行う「花見」の対象にもなる美しい花を咲かせる。多分,父親の〈蟹〉の「樺の花が流れてきた」という発言は子供を安心させるためについた「うそ」とも思われる。

 

9)父親の〈蟹〉が子供らに「もうねろねろ」と言ったこと

月夜ではあるが,「カニ」は夜行性なので夜に「寝ろ」と指図するのはおかしい。人間社会なら「早く学校へ行け」とかするところであろう。真逆のことを言っている。ただ,大正時代に「カニ」が夜行性であることが知られていたかどうかは定かではない。賢治や父親の〈蟹〉が知っていたとすれば「もうねろねろ」は父親の〈蟹〉が「うそ」を吐(つ)いているのである。

 

10)「十二月」に〈蟹〉が川底で活動していること

「サワガニ」は冬(12月~3月)に陸上で冬眠することが知られている(荒木・松浦,1995)。童話に登場する〈蟹〉が「サワガニ」であるなら,〈蟹〉が12月に川底にいるのはおかしい。ただ,前述したようにこの物語が動物を擬人化したものとするならおかしくないのかもしれない。

 

11)「十二月」に谷川に落ちてきた果実を子供らの〈蟹〉は頸をすくめて「かはせみだ」と言ったこと

「カニ」が頸をすくめるとあるが,「カニ」には解剖学的に頸に相当するものはない。「うそ」である。同様に,子供の〈蟹〉の「かはせみだ」という発言も「うそ」あるいは「間違い」である。実際は谷川に落ちてきたのは「やまなし」の果実であった。この果実の色は童話では「黒い」となっているが金色のぶち(斑)がある「赤い実」と思われる(石井,2022c)。「やまなし」の果実は他の作品では「赤」あるいは「赤と金色のぶち」となっている。童話『山男と四月』(1922.4.7)では「お日さまは赤と黄金(きん)でぶちぶちのやまなしのやう」とか,また童話『タネリはたしかにいちにち噛んでゐたようだった』(1924年春頃)では「山梨のやうな赤い眼」と表現されている(下線は引用者)。 

 

子供の〈蟹〉が「かはせみだ」と言ったことには重要な意味が隠されているように思える。子供の〈蟹〉は親の「うそ」あるいは「間違い」の情報をそのまま信じてしまっているのである。

 

子供の〈蟹〉が「かはせみだ」と言ったのは,飛び込んできた「円いもの」が「赤い眼」に見えたからである。子供らは,「五月」に父親から谷川に飛び込んでくる「赤い眼」すなわち「赤い円いもの」をしたものは〈かはせみ〉と教わっていた。

 

鳥である「カワセミ」が赤い眼をしていないことは前述した。子供の〈蟹〉は丸い(円い)ものが谷底に落ちてきたとき,それが「赤い眼」に見えたので〈カワセミ〉だと思ったのである。すなわち,子供の〈蟹〉は親の「うそ」の情報を信じていたのである。谷川の底は次稿で述べる「ほんとう」のこともあるが,「うそ」あるいは「間違い」の情報が親から子供にも伝わっていて,「うそ」と「ほんとう」が区別できなくなっているように思える。

 

12)「十二月」の月夜の晩に谷川に落ちてきた「やまなし」の実の色を語り手が「黒い」と言ったこと

「やまなし」の果実の色が「赤」あるいは「赤と黄金(きん)」のブチ(斑)と思われることはすでに述べた。語り手は「ドブン」と落ちてきた「やまなし」に対して「黒い円い大きなものが,天井から落ちてずうっとしずんで又上へのぼって行きました。キラキラッと黄金のぶちがひかりました」と説明する。なぜ,語り手は赤や金色の「やまなし」の果実を「黒い」と言ったのであろうか。自然界にも,腐敗したものを除けば,黒い「やまなし」は存在しないと思われる。多分,語り手(賢治)には月明かりで見た赤い「やまなし」が黒く見えたのかもしれない。暗くなると,「赤」などの長波長色が暗く見えるということが知られている(プルキンエ現象)。

 

月明かりのみという環境を再現できないので,常夜灯のもとで手元にあった不透明の赤いボールペンを床に置いて見てみた。確かに,黒くくすんで見えた。しかし,赤とは識別できた。面白いことに天井の常夜灯をバックにこの赤いボールペンを手に持って見るとまっ黒であった。多分,語り手も〈蟹〉も川底から見ている。語り手は月をバックに落ちてくる果実を逆光で見たので黒いと認識し,〈蟹〉は川底に向かって沈んでいく果実を月の光でみたので赤いと認識したのかもしれない。

 

童話『やまなし』では月明かりの中で「赤い」ものが「黒く」見えていたが,童話『おきなぐさ』(1922)では逆に「黒い」ものが「赤く」見えたりする。童話『おきなぐさ』で,語り手が自分には黒く見える「おきなぐさ」の色を〈蟻〉に尋ねると,〈蟻〉は「黒く見えるときもそれはあります。けれどもまるで燃えあがってまっ赤な時もあります」と答える。語り手が再度「お前たちの眼にはそんな具合に見えるのかい」と尋ねると,〈蟻〉は「お日さまの光の降る時なら誰にだってまっ赤に見えるだらうと思います」と答える。植物図鑑では「オキナグサ」の花の色は焦げ茶色に近い濃い赤紫色とある。この花を〈蟻〉が下から見上げるように太陽に透かして見るとまっ赤に見えるというのも面白い。(続く)

 

参考・引用文献

荒木 晶・松浦修平.1995.サワガニの成長.九大農学芸誌.49(3/4):125-132.

原 子郎.1999.新宮澤賢治語彙辞典.東京書籍.

石井竹夫.2021a.宮沢賢治の『やまなし』-登場する植物が暗示する隠された悲恋物語(1)-.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/08/08/095756

石井竹夫.2021b.宮沢賢治の『やまなし』-登場する植物が暗示する隠された悲恋物語(3)-.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/08/10/122017

石井竹夫.2021c.植物から『銀河鉄道の夜』の謎を読み解く(総集編Ⅰ)-宗教と科学の一致を目指す-.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/06/04/145306

石井竹夫.2022a.童話『やまなし』の第一章「五月」に登場する〈カワセミ〉の眼は黒いはずなのになぜ赤いと言うのか.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2022/12/24/083020

石井竹夫.2022c.童話『やまなし』に登場する「やまなし」が「イワテヤマナシ」である可能性について (1).https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2022/12/10/094359

宮沢賢治.1985.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.

童話『やまなし』に記載されている「うそ」と「ほんとう」を分けて明らかになること (第1稿)

童話『やまなし』(1923年4月8日新聞発表)には,自然現象としては起こりえないこと,あるいは「うそ」と思われるものがたくさん記載されている。本稿ではそれらを列挙して,賢治がなぜそのような「うそ」を童話に組み込んだのかを考えてみたい。ただし,〈蟹〉や〈クラムボン〉が人間の言葉を話したり,笑ったりするというのは,この童話が動物を擬人化しているということで不問にする。また,この童話に登場する擬人化された動物(蟹,クラムボン,魚,かはせみ)には〈 〉を付けた。本稿は3稿で構成されている。

 

1.自然現象としては起こりえないこと,あるいは「うそ」と思われるもの

1)子供の〈蟹〉が水の底で泡を吐(は)くこと

賢治は童話では「泡」と表現しているが,「泡」には「気泡」と「泡沫」の2種類ある。「気泡」とは1粒,2粒と数えられるものであり,「泡沫」とは「気泡」がたくさん集まったものである。童話『やまなし』の絵本の表紙や挿絵に「カニ」が水中で「気泡」を吐(は)いているものをよく見かける。自然界でも「カニ」は本当に水中で「気泡」を吐(は)くのであろうか。「カニ」は水中ではエラ呼吸をしているので「サカナ」と同様に「気泡」を吐くとは思えないのだが。

 

ただ,「カニ」が陸に上がると体にため込んだ水を使ってエラ呼吸するので口付近で「泡」を作ることはある。この「泡」は「泡沫」である。少量の水を体内で循環させて使うので時間がたつと粘性が上がり泡立つのだという(九頭見,1996;ネット情報)。「泡沫」を作るのは体内の水をたくさん空気に触れさせて酸素を取り込むためとも言われている。また,酸素不足で苦しい状態にあるとも説明されている。ベンケイガニを例にすると,陸に上がっているときの「カニ」は「口の上にある出水孔からでた水を甲の側面を伝って,ハサミ脚の付け根から甲の中に入れ,エラを通ってまた出水孔へ」戻しているらしい(すさみ町立エビとカニの水族館,2023)。すなわち,「カニ」が「泡(泡沫)」を吐くのは長く陸上に上がっているときだけと思われる。

 

陸上で「泡沫」を付けた「カニ」が水の中に戻るシーンをネット動画で見ることができる(酢飯屋,2018)。「カニ」が水に入ると直ぐに「泡沫」が水面に浮かんだ。多分,「泡沫」が浮力で「カニ」の体から離れたのだと思う。水中に戻った「カニ」はそのあと「泡」を吐いていない。水中ではエラ呼吸で十分であり,空気に触れさせた水を体内で循環させる必要がないからだと思われる。

 

夏場に魚が水面近くで口をパクパクさせるのは,上昇した水温で溶存酸素が少なくなり溶存酸素の多い水面に上がってくるからである。ネットで金魚が水面で口をパクパクさせているとき,口から「泡」を吐(は)いている金魚を見かけた。これは,金魚が間違って空気を口に入れてしまったので,それを吐き出したのだと思われる。エラ呼吸をする金魚が空気中の酸素を体に取り込むことはない。ただ,魚の中でも「ドジョウ」は腸呼吸もできるので空気中の酸素を取り込むことがある。水中の溶存酸素が少なく苦しくなると水面に上がり,空気を飲み込んで空気中の酸素を腸粘膜の毛細血管から取り入れているようである。ガス交換をして二酸化炭素の多くなった腸内の空気は肛門から「気泡」として排出する(平山ら,1967;林,2020)。

 

水に溶けている気体が「泡」になる可能性もある。20℃1気圧の水には 0.016cm3/cm3 の酸素あるいは0.88cm3/cm3の二酸化炭素を溶解する能力があり,この値を飽和溶存量という。この値は温度と関係し,温度が高いと小さくなる。低い温度で飽和になっている場合,温度を上げれば溶けていた過剰の気体が「泡」になる。冷えたコーラを暖かいところで開けると二酸化炭素の「泡」が発生する。温度上昇以外には「振動」や「かくはん」などによっても容易に「気泡」が発生すという(Shimazu.2023)。風呂に入ったとき体に小さな「泡」がたくさん付くのも同じ原理である。童話『やまなし』の川底の水が飽和溶存量の酸素や二酸化炭素を含んでいたとし,「カニ」が何かしらの理由で激しく動いたり振動したりすれば「泡」が発生する可能性はある。ただし,「泡」を吐いたとは言わない。

 

すなわち,水温の低下した冬の川底にいる〈蟹〉は水中の酸素をエラ呼吸で取り入れるだけであり,溶存酸素が低下して苦しくなっても,魚のように口をパクパクさせて泡を吐き出すこともないし,「ドジョウ」のような腸呼吸の機能を持っていないので空気を口から飲み込んで肛門から吐き出すこともない。繰り返すが,水中に長くいる「カニ」は「泡」を吐かないと思われる。賢治は水中の〈蟹〉が泡を吐くというのは自然現象としては起こりえない「うそ」であることを知っていたと思う。童話の中で子供の〈蟹〉が繰り返し泡を吐(は)いているが「うそ」を吐(つ)いるのである。あるいは,賢治がそう言いたいのである。 

 

「十二月」に兄弟の〈蟹〉が「泡」の大きさで喧嘩をしている。自分が吐(つ)いた「うそ」の大きさを競っているようにも思える。

 

2)弟と思われる〈蟹〉が「クラムボンはかぷかぷわらったよ」と言ったこと

「かぷかぷ」は難解な用語1つである。どのような「笑い」だったかを説明していると思われる。賢治の造語であろう。「ぷかぷか」は「浮かぶ」あるいは「上げる」というイメージがある。ならば,その逆読みである「かぷかぷ」は「沈む」あるいは「下げる」というイメージが付加されているように思える。すなわち,「かぷかぷわらった」とは「見下げてわらった」(=嘲笑った)という意味と思われる。なぜ弟と思われる〈蟹〉が「クラムボンはかぷかぷわらったよ」と言ったかについての説明はない。しかし,私は「笑った」のは「ほんとう」でも,「かぷかぷ(見下げて)」は「うそ」だと思っている(石井,2022d)。

 

〈クラムボン〉が「嘲笑」したというのが「うそ」であるということは,童話『やまなし』を読んだだけで理解するのは難しい。だから,賢治は1か月後に新聞発表された寓話『シグナルとシグナレス』の中で詳細に説明したのだと思われる(石井,2022f)。この寓話は,貧しい軽便鉄道側の〈シグナレス〉が裕福な本線の〈シグナル〉の後見人である〈本線シグナル附きの電信柱〉の容姿などを「笑った」ことがきっかけになって,〈シグナル〉と〈シグナレス〉の結婚がシグナル側の近親者たちから猛反対されてしまう話である。そして,そのことによって〈シグナレス〉がひどく落ち込んでしまう様子も描かれている。〈シグナレス〉が笑ったのは「ほんとう」であるが,この笑いは「失笑」であり〈本線シグナル附きの電信柱〉を蔑視するものではなかった。

 

しかし,背が高く耳のいい〈シグナレス側の電信柱〉が〈シグナレス〉の笑い声だけを聞いて,それを「嘲笑」と勘違いしてシグナル側へ密告してしまった。〈本線シグナル附きの電信柱〉はそれを聞いて,自分より格下の〈シグナレス〉から「嘲笑」されたと勘違いし,激怒したのちにシグナル側の近親者も巻き込んで結婚に猛反対することになる。多分,寓話『シグナルとシグナレス』の〈シグナレス〉と〈シグナル〉は童話『やまなし』の〈クラムボン〉と〈魚〉に対応しているのだと思われる。すなわち,童話『やまなし』で「クラムボンはかぷかぷわらったよ」の「嘲笑」を意味する「かぷかぷ」は「うそ」である。

 

3)〈クラムボン〉が笑ったあとに,弟の〈蟹〉が「クラムボンは死んだよ」,「クラムボンは殺されたよ」と言っていたこと

これも「うそ」である。弟の〈蟹〉は「泡」を吐(は)くのように「うそ」と吐(つ)く。「うそ」だというのは,兄と弟の会話で分かる。兄が「その右側の四本の脚の中の2本を,弟の平べったい頭にのせながら」「なぜ殺された」と弟に聞いたとき,弟は「わからない」としか答えなかった。兄の脚の2本を弟の頭にのせる」という行為はフロイドの精神分析法の1つである「前額法(ぜんがくほう)」を真似たものである(石井,2021a)。フロイドは患者の額に手を当てて患者の過去の忘れてしまった記憶をよみがえらせた。弟は〈クラムボン〉が笑ったあとに「死んだ」とか「殺された」と言っているが,これを裏付ける過去の記憶が残っていなかったのである。この会話のあと〈クラムボン〉が再び笑うことになる。すなわち,〈クラムボン〉は生きていた。ただ,〈クラムボン〉はひどく落ち込んでいると思われる。

 

4)「五月」に〈魚〉が「自分を鉄いろに変に底びかり」させること

「鉄いろ」とは,青みが暗くにぶい青緑色あるいは「くろがね」と呼ばれるような黒っぽい鉄の色である。これは「婚姻色」のことである。〈魚〉を「ヤマメ」とすると「婚姻色」は黒である(特に頭部が黒くなる)。「ヤマメ」の繁殖期は秋であるが,この「ヤマメ」は春に発情して黒くなり鼻先も伸びている。「変に底びかり」の「変」はそのことを言っていると思われる。すなわち,季節を考慮すれば通常あり得ない変な現象なのである(石井,2021a)。(続く)

 

参考・引用文献

林 公義.2020.飼ってるドジョウが水面に上がってくるのはなぜ?https://www.nhk.or.jp/radio/kodomoqmagazine/detail/20200803_04.html

平山 次・広瀬一美・平野礼次郎.1967.ドジョウの腸呼吸について.水産増殖.15(3):1-11.

石井竹夫.2021a.宮沢賢治の『やまなし』-登場する植物が暗示する隠された悲恋物語(1)-.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/08/08/095756

石井竹夫.2022d.童話『やまなし』考 -クラムボンは笑った,そして恋は終わった-.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2022/02/01/101846

石井竹夫.2022f.シグナルとシグナレスの反対された結婚 (1) -そのきっかけはシグナレスが笑ったから..https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2022/01/16/145446

九頭見和夫.1996.宮沢賢治と外国文学-童話「やまなし」と比較文学的考察(その1).福島大学教育学部論集 人文科学部門 61:53-70.

Shimazu.2023(調べた年).気泡発生のメカニズム.https://www.an.shimadzu.co.jp/hplc/support/lib/lctalk/s5/02.htm

酢飯屋.2018.カニの泡吹きについての豆知識.https://ja-jp.facebook.com/sumeshiya/videos

童話『やまなし』考 -氷のついた「ヤマナシ」(Pyrus pyrifolia)の実は水に落ちて沈み,浮かび,再び沈む-

「ヤマナシ」(Pyrus pyrifolia;ピルス・ピリフォリア)の落果直後の新鮮なものは,コップの水に落とすと沈むことはすでに報告した(石井,2022a)。凍らせた果実を使ったりもしたが沈むだけであった。その後,落果してからしばらく放置し干からびさせたものの中に水に沈んだのち浮かび上がるものがあることを発見した(石井,2022b,2022c)。しかし,童話『やまなし』のように,水に浮かんだものが再び沈むということはなかった。 

 

童話『やまなし』で「やまなし」の果実が登場するのは12月である。東北の12月は雪が降ったり,地表に霜柱ができたりする。樹上に残っている「やまなし」の果実にも雪が付着して凍ったり,空気中の水分が付着して「氷華」ができたりするのがあるのかもしれない(氷華については後述する)。

 

本稿では,水を十分に付けて凍らせた「ヤマナシ」の果実が,童話『やまなし』に登場する果実のように,水に落ちたあとに沈み,浮かび,そして再び沈むかどうか検討する。

 

令和4年12月24日に「ヤマナシ」が植栽されている平塚市の総合公園を再び訪れた。24日の平塚市の最低気温は3℃で最高気温は12℃であった。第1図に示すように12月も終わろうとしているのに樹上には葉と一緒にたくさんの果実が残されていた。地上にも果実がたくさん落ちていた。滞在中に何度も果実が落果してくるのを見かけた。カラスや小鳥もたくさん訪れていた。

 

第1図.平塚市総合公園に植栽されている「ヤマナシ」.2022年12月24日撮影.

 

地上に落下したばかりと思われる果実を数個(7~9g)採取して,家で実験に供した。採取した果実の1つ(重量7g)を径28mmの10ml容器に水と一緒に入れ冷凍庫で1日凍らせた。氷の付いた果実(重量20g)を第2図に示す。この氷のついた果実を室温(15℃)でコップの中の水(水道水)に落とした。果実はいったんコップの底に沈んだが直ぐに水面に浮き上がった(第3図A)。しかし,水面に浮いた果実は6分を過ぎるとゆっくりと沈み初め(第3図B),7分後にはコップの底に沈んだ(第3図C)。沈んだ直後の氷の付いた果実の重量は11gであった。別の果実でも試みたが同様な結果であった。沈むまでの時間を延ばす工夫もしてみた。氷の付いた「ヤマナシ」を9℃の環境下のもと氷で冷やした水の中に浮かべたところ,「ヤマナシ」は2時間近く浮いていた。

 

第2図.氷の付いた「ヤマナシ」(Pyrus pyrifolia)の果実.

 

第3図.A:水に浮かんだ「ヤマナシ」の果実.B:6分を過ぎた頃の沈み始めた「ヤマナシ」の果実,C:7分後にコップの底に沈んだ「ヤマナシ」の果実.

 

すなわち,「ヤマナシ」の果実の表面に重量の60%以上の水が氷として付着すれば,その果実は水に落ちたのち,沈み,浮かび,再び沈む。また,浮いている時間は環境温度や水の温度に左右されることも分かった。

 

私は,童話『やまなし』のモデルとなった舞台を種山ヶ原の山中付近を起点とし,江刺郡の中心市街地の岩谷堂あたりを通過して北上川へと流れ出る人首川にある渓流と考えている(石井,2022e)。種山高原の12月と1月の平均気温は-1.8℃と-4.7℃である。また,仙台管区気象台の池田友紀子(2012)によれば,100年前の東北地方の年平均気温は現在よりも1.2℃低いという。童話『やまなし』の舞台となったところも氷点下でかなり寒かったと思われる。

 

今回の実験は15℃や9℃の環境下で行われたが,気温が氷点下になる当時の種山ヶ原付近の谷川で行えば,浮いた果実がすぐに沈むということはなく,童話『やまなし』のように2日後に沈むということもあり得ると思われた。

 

文語詩「流氷(ザエ)」には以下の詩句が並ぶ。

 

はんのきの高き梢(うれ)より,きらゝかに氷華をおとし

汽車はいまやゝにたゆたひ,北上のあしたをわたる。

見はるかす段丘の雪,なめらかに川はうねりて,

天青石(アヅライト)まぎらふ水は,百千の流氷(ザエ)を載せたり

あゝきみがまなざしの涯,うら青く天盤は澄み,

もろともにあらんと云ひし,そのまちのけぶりは遠き。

南はも大野のはてに,ひとひらの吹雪わたりつ,

日は白くみなそこに燃え,うららかに氷はすべる。

              (宮沢,1985) 下線は引用者 以下同じ

 

文語詩「流氷(ザエ)」の制作年度は不明である。東北で「流氷」がいつ頃から見られるのであろうか。1923年12月10日の日付のある詩「冬と銀河ステーション」に「川はどんどん氷(ザエ)を流してゐる」とあるので,100年前の東北では12月初旬でも見られたのかもしれない。

 

「流氷(ザエ)」に登場する「はんのき」はカバノキ科のハンノキ(Alnus japonica (Thunb.) Steud.)のことであろう。この梢から「氷華」が落ちたとあるが,「氷華」とは何であろうか。『新宮澤賢治語彙辞典』では「氷が花のように結晶したもの,または木や草に水分が凍りついて花の形に結晶したもの」とある。多分,この詩の「氷華」は結晶化した氷が付着した「ハンノキ」の果実あるいは小枝に付いた氷の結晶と思われる。「ハンノキ」は花が咲いた翌年の1月でも樹上に果実を残すことが知られている(riseブログ,2021)。すなわち,詩では氷の結晶が付着した「ハンノキ」の果実や小枝に付いた氷の塊が風で飛ばされ北上川に落ち,それが「百千の流氷(ザエ)」の1つになっていると詠っている。ただ,多くの「流氷」は川の水が凍ったものからできていると思われるが。賢治は「氷」や「流氷」を「ザエ」と読ませている。「ザエ」とは「薄く張った氷」という意味の方言らしい(浜垣,2021)。

 

2021年1月3日(午前9時頃)に岩手県北上市の北上川に「流氷」が出現し,賢治の詩「流氷(ザエ)」の世界が再現されたという記事が12日付けの河北新報に載った(河北新報online,2021)。

 

「やまなし」に「氷華」が付くこともあるようである。詩〔プラットフォームは眩ゆくさむく〕(1927.2.12)には「きららかに飛ぶ氷華」や「梨にもいっぱいの氷華」という詩句が入っている。

 

詩「流氷(ザエ)」に登場する「きみ」とは誰のことであろうか。「はんのき」から落果する「氷華」を「氷華」が付着した「やまなし」に,北上川を谷川に置き換えれば詩「流氷(ザエ)」は童話「やまなし」の世界になる。「流氷(ザエ)」の「きみ」にも賢治の相思相愛だった恋人がイメージされていたのかもしれない。

 

童話『やまなし』の第二章「十二月」で,「やまなし」の果実は「ドブン」と谷川に落ちたあと「ずうつとしずんで又上へのぼって」行き,そのあと「流れて」,そして「横になって木の枝にひっかかってとまり」,「二日ばかり」過ぎると「下へ沈む」という複雑な動きを示す。私は,これまで,このような「やまなし」の果実の複雑な動きは自然界では起こりえない現象であり,むしろ賢治の恋人の破局したときの失意の心理状態が描かれていると思っていた(石井,2022g)。しかし,今回の実験結果から童話の「やまなし」が氷の付着した「ヤマナシ」(Pyrus pyrifolia)のような「ナシ」の果実であるなら童話通りの現象も生じることもあり得ると思うようになった。多分,同じ属(Pyrus;ピルス)に分類される「イワテヤマナシ」(Pyrus ussuriensis Maximvar.aromatica (Nakai et Kikuchi))Rehd.)でも同様の結果が得られると思っている。すなわち,「十二月」に谷川に落ちてくる「やまなし」の果実には「氷華」が付いていると思われる。

 

これは余談だが,総合公園で採取してから1週間過ぎた「やまなし」の中に果皮のべとついているものがあった。果肉もぶよぶよで液汁が果皮の表面に滲出したものと思われる。わずかに甘い匂いがした。腐敗臭ではない。もしかしたら,酒と呼ぶほどの度数はないかもしれないが,アルコール発酵が生じていたのかも知れない。童話で父親の〈蟹〉が木の枝に引っかかっている「やまなし」の果実に対して「もう二日ばかり待つとね,こいつは下へ沈んで来る,それからひとりでにおいしいお酒ができるから」と言っていた。お酒ができる可能性については前稿で述べた(石井,2022f)。

 

『春と修羅』(第二集)の「岩手軽便鉄道の一月」(1926.1,17)にも「うしろは河がうららかな火や氷を載せて」とあるように北上川に「流氷」が流れている様子が描かれている。この「流氷」の中には「ハンノキ」,「クルミ」,「カワヤナギ」,「カラマツ」,「クワ」などから風で飛ばされて落ちた「氷華」も含まれていると思われる。

 

ぴかぴかぴかぴか田圃の雪がひかってくる

河岸の樹がみなまっ白に凍ってゐる

うしろは河がうららかな火や氷を載せて

ぼんやり南へすべってゐる

よう くるみの木 ジュグランダー 鏡を吊し

よう かはやなぎ サリックスランダー 鏡を吊し

はんのき アルヌスランダー [鏡鏡鏡鏡]をつるし

からまつ ラリクスランダー 鏡をつるし

グランド電柱 フサランダー 鏡をつるし

さはぐるみ ジュグランダー 鏡を吊し

桑の木 モルスランダー   鏡を……

ははは 汽車(こっち)がたうたうなゝめに列をよこぎったので

桑の氷華はふさふさ風にひかって落ちる

                (宮沢,1985)下線は引用者

 

賢治は「氷華」が付いた樹木に対して,その樹木の属名に「ランダー」という語尾をつけて呼ぶことがある(石井,2022d)。例えば,「ハンノキ」の属名はAlnus(アルヌス)なので「アルヌスランダー」,「カラマツ」の属名はLarix(ラリクス)なので「ラリクスランダー」という愛称を用いる。賢治はまた「氷華」を「鏡」と表現する。「ハンノキ」なら「はんのき アルヌスランダー [鏡鏡鏡鏡]をつるし」である。詩で「ハンノキ」の「鏡」を4つにしているのは,「ハンノキ」の果実が小枝に3~5個固まって付くことによると思われる。

 

「鏡」は女性が主に使う道具でもある。賢治は樹木を親しい女性に喩えて愛称で呼んでいるようでもある。では,賢治は「氷華」(=鏡)の付いた「やまなし」(イワテヤマナシ?)の果実に出会ったとき,この木を何と呼ぶのであろうか。

 

「よう,やまなす ピルスランダー 鏡を吊し」だろうか。「やまなす」には賢治の恋人の名が隠されているとも言われている。

 

参考・引用文献

浜垣誠司.2021.北上川の流氷.https://ihatov.cc/blog/archives/2021/01/post_991.htm

池田友紀子.2012.東北地方の気候の変化.https://wind.gp.tohoku.ac.jp/yamase/reports/data05/Ikeda_120305.pdf

石井竹夫.2022a.童話『やまなし』に登場する「やまなし」の実は水に浮くが「イワテヤマナシ」も同じように浮くのか.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2022/11/08/171645

石井竹夫.2022b.童話『やまなし』では水に浮いた「やまなし」の実が2日で川底に沈みしばらくすると酒ができるとあるが (2).https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2022/11/20/091202

石井竹夫.2022c.童話『やまなし』に登場する「やまなし」が「イワテヤマナシ」である可能性について (1).https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2022/12/10/094359

石井竹夫.2022d.宮沢賢治の詩に登場するジュグランダーやフサランダーとは何かhttps://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2022/09/20/110120

石井竹夫.2022e.童話『やまなし』の舞台となった谷川は実在するか-イサドとの関係-.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2022/07/02/104817

石井竹夫.2022f.童話『やまなし』では水に浮いた「やまなし」の実が2日で川底に沈み,しばらくすると酒ができるとあるが (1).https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2022/11/18/190012

石井竹夫.2022g.童話『やまなし』考 -「十二月」に「やまなし」の実が川底に沈むことにどんな意味が込められているのか (第1稿)-.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2022/11/23/091745

河北新報online.2022(調べた日付).北上川に流氷出現 宮沢賢治の詩「流氷(ザエ)」の情景再現.https://kahoku.news/articles/20210112khn000037.html

宮沢賢治.1985.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.

Rise ブログ.2021年1月17日 ハンノキの花序と実を見つけまし..https://hakone-ueki.com/sub2/garden/

※:「やまなし」は岩手県では「やまなす」と発音する。