宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

『歯車』の主人公はイカロスのように慢心の罪を犯し飛翔しようとしたのか,人工の翼とは知識のことか-(3)

前稿で『歯車』の主人公〈僕〉が見た「銀色の羽根を鱗のやうに畳んだ翼」(銀色の翼)とは,「慢心」により神の「罰」を受けて海中に落下してしまったイカロスが付けていた「人工の翼」のようなものであると述べた。本稿では『歯車』の主人公が幻視した「銀色の翼」が賢治の幻視した「業の花びら」と同種のものかどうか,以下3つの比較項目を挙げて検討したい。

 

比較すべき3つの項目は,1)賢治が「業の花びら」を幻視したとき,賢治は恐怖ではげしく寒く震えていた。歯車の〈僕〉も「銀色の翼」を幻視したとき同様に恐怖を感じていたか。2)賢治は土着の神々を台本に録し,劇『種山ヶ原の夜』で生徒らに神々の役を演じさせたり,会合で農業講話をしたとき神の座す山地の石灰岩末を祭祀せずに採掘する話をしたりした。そのとき,賢治は聴衆から批判され,自分の犯したものが「慢心」の「罪」であったことを認識し,またそのことで「罰」を受けたことを自覚していた。『歯車』の主人公も同様の「慢心」の「罪」を犯し「罰」を受けていたことを自覚していたのか。3)賢治は自分が受けた「罰」は「神」によるものと認識しているが,『歯車』の〈僕〉もそうであるのか。である,

 

1)に関しては確かに類似しているように思える。『歯車』の〈僕〉は,この「人工の翼」の幻影を自宅の2階で見たあと,不穏な雰囲気を察して駆けつけてきた妻に「何だかお父さんが死んでしまひさうな気がしたものですから」と言われ,また「一生の中でも最も恐しい経験だった。」と語っている。多分,〈僕〉は「翼」を失い海に落下したイカロスの最後に自分を重ねている。つまり,〈僕〉は「イカロスの翼」のようなものを幻視したとき自分も「人工の翼」に相当するものを失い撃墜してしまったと思っている。

 

2)に関して簡単に答えは出そうにない。ただ,そのヒントが「銀色の翼」を幻視した章の前章(5章(赤光))にある。『歯車』の〈僕〉がドストエフスキーの『罪と罰』に触れている。

 

〈僕〉は精神病院に入る恐怖を紛らわすために『罪と罰』を読み始めている。しかし,偶然開いた頁が『カラマゾフの兄弟』の一節であった。主人公は本を間違えたかと思い,本の製表紙を見たが『罪と罰』であり,本に間違いはなかった。〈僕〉は本屋の綴じ違いやと綴じ違えた頁を開いたことに運命の指の動いていることを感じ,やむを得ずそこを読んで行った。という関係妄想のようなものが書かれてある。

 

『歯車』の〈僕〉にはドストエフスキーの『罪と罰』を連想させるようなことをしてきた過去があったのだと思われる。しかし,それがどのような「罪」であり「罰」であったのかは物語では語られていない。

 

それらを知るには,主人公の〈僕〉を芥川自身として,芥川の「罪」と「罰」について考えてみたい。多分,芥川はギリシャ神話のイカロスのような「慢心」の「罪」とそれによる「罰」を受けているような気がする。

 

芥川は明治25年(1892)に牛乳製造販売業を営む新原家の長男として生まれる。生後7ヶ月頃に母は精神の異常をきたした。芥川は東京下町の本所(現在の墨田区両国)にある母の実家(芥川家)に預けられ伯母に養育される。12歳のときに母の兄の養子になり,その後芥川の姓を名乗るようになる。

 

幼少期の様子は半自伝的小説と言われている『大導寺信輔の半生』(1925)に描かれているように思える。この小説には「生まれた本所は穴蔵大工だの駄菓子屋だの古道具屋ばかり汚く悪臭を放つ町で,信輔はごみごみした往来に駄菓子を食って育った少年だった。」とあり,また「信輔はまた全然母の乳を吸ったことのない少年だった。元来体の弱かった母は一粒種の彼を産んだ後さえ,一滴の乳も与えなかった。信輔は壜詰めの牛乳の外に母の乳を知らぬことを恥じた。これは彼の秘密だった。信輔の家庭は貧しかった。彼等の貧困は下流階級の貧困ではなかった。が,体裁を繕う為により苦痛を受けなければならぬ中流下層階級の貧困だった。信輔は貧困を憎んだが,貧困に発した偽りを強く憎んだ。養母は「風月」の菓子折につめたカステラを親戚に進物にした。が,その中味は「風月」所か,近所の菓子屋のカステラだった。信輔自身もまた「嘘に嘘を重ねることは父母に劣らなかった。それは一月五十銭の小遣いを一銭でも余計に貰った上,何よりも彼の餓ていた本や雑誌を買う為だった。彼はつり銭を落したことにしたり,ノオト・ブックを買うことにしたり,学友会の会費を出すことにしたりした。信輔は下層階級の貧困よりもより虚偽に甘んじなければならぬ中流下層階級の貧困の生んだ人間だった。しかし,信輔はもの心を覚えてから,絶えず本所の町々を愛した。」(青空文庫)というようなことが記載されている。

 

芥川にとって幼少期に育った本所は愛するべき町ではあったが,母の乳を知らぬは恥であり,中流下層階級の貧困は「憎悪」の対象であった。芥川はこの虚偽に充ちた出身階級に自己嫌悪し,そこから抜けだしたかった。芥川が脱出するために選んだ手段は「知識」である。そして,読書を怠らなかった。

 

芥川は多読,速読の作家として知られている。例えば,真意のほどは解らないが「人と喋りながら膝の上でぱらぱらとめくるだけで本を読むことができた。洋書であっても1日に1200から1300

ページは読めた。菊池寛と一緒に関西に出かけた際には,車内で読むために分厚い洋書を5,6冊持ち込んだが一晩で読み切ってしまい,滞在先では谷崎潤一郎から本を借りてまで読んだ。また,いつでも本を手放さず,旅先や移動中はもちろんのこと,食事中もずっと読書をしていた(その多くは洋書だった)」という逸話が残されている(佐藤,2021)。

 

20歳のとき,外国の書物で「知識」を得て「慢心」になった芥川の姿が『或阿呆の一生』の(1時代)に描かれている。

 

それは或本屋の二階だった。二十歳の彼は書棚にかけた西洋風の梯子に登り,新らしい本を探してゐた。モオパスサン,ボオドレエル,ストリントベリイ,イブセン,シヨウ,トルストイ・・・彼は梯子の上に佇(たたず)んだまま,本の間に動いてゐる店員や客を見下(みおろ)した。彼等は妙に小さかった。のみならず如何にも見すぼらしかった。

「人生は一行のボオドレエルにも若しかない。」

彼は暫(しばら)く梯子の上からかう云ふ彼等を見渡してゐた。

                (芥川,2004)下線は引用者 以下同じ

 

 

多分,ここに記載されている作家たちの書物で得た「知識」が「人工の翼」と関係してくるのだと思う。

 

芥川は『或阿呆の一生』の19 (人工の翼)で29歳になったときフランスの哲学者・文学者・歴史家であるヴォルテエル(1694~1778)から「人工の翼」を供与されたと言っている。

 

人生は二十九歳の彼にはもう少しも明るくはなかつた。が,ヴォルテエルはかう云ふ彼に人工の翼を供給した。

 彼はこの人工の翼をひろげ,易(やす)やすと空へ舞ひ上つた。同時に又理智の光を浴びた人生の歓びや悲しみは彼の目の下へ沈んで行った。彼は見すぼらしい町々の上へ反語や微笑を落しながら,遮(さへぎ)るもののない空中をまっ直(すぐ)に太陽へ登つて行つた。丁度かう云ふ人工の翼を太陽の光りに焼かれた為にとうとう海へ落ちて死んだ昔の希臘(ギリシャ)人も忘れたやうに。

                       (芥川,2004)

 

 

この引用文で後半の「人工の翼」を付けたギリシャ人の話は,『歯車』5章(赤光)に書かれていたのと同じである。

 

私は,理知的な作品を書く芥川がヴォルテエルから貰った「人工の翼」は,イカロスが父から貰ったような蠟で固めた「翼」ではなく,「理性」によって与えられた「知識」のことだと思っている。確実な知識は理性によってのみ与えられると言った哲学者もいた。主知的で知られる芥川は書物から「知識」を吸収する能力はすさまじいものがあった。多分,芥川はこの能力を使って「人工の翼」(=知識)を身につけて,あるいはそれをバネにすることで,見すぼらしい町々の上へ反語や微笑を落しながら,また「人生は一行のボオドレエルにも若しかない」と呟きながら,遮るもののない空中をやすやすとまつ直に太陽へ向かって登っていったのである。芥川にとって「太陽」とは「火花」のことでもある。

 

芥川は生まれ,育ち,結婚し,老いて死んでいくだけにしか見えない地上にいる生活人の人生よりも,空中でボードレールの詩のような創作物を作る人生に憧れる作家であった。『ある或阿呆の一生』の8(火花)に「目の前の架空線が一本,紫いろの火花を発してゐた。彼は妙に感動した。(中略)彼は人生を見渡しても,何も特に欲しいものはなかつた。が,この紫色の火花だけは,――凄(すさ)まじい空中の火花だけは命と取り換へてもつかまへたかつた。」と記載している。芥川にとっての「火花」とはたくさんの知識を吸収し誰も到達したことのないような高みにまで上り詰めて作った作品のことであろう。芥川は知識を吸収する能力には長けていたので自信もあった。しかし,それは彼の「驕り」つまり「慢心」でもあった。ギリシャ神話のイカロスが父の忠告を聞き入れずに驕り高ぶって太陽に近づこうとしたのと同じように,芥川もより高く飛翔しようとした。つまり,これが芥川の犯した「慢心」という「罪」であると思われる。(続く)  

 

参考・引用文献

芥川竜之介.2004.歯車 他二編.岩波書店.

佐藤太郎.2021.芥川龍之介と伊藤和夫の英語速読,あるいは外国語学習における多読と精読について.https://satotarokarinona.blog.fc2.com/blog-entry-1238.html