宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

晩年の芥川のぼんやりとした不安-敗北の文学-(7)

 

芥川は自死する2か月前に書いた『或旧友へ送る手記』(1927.7)で,「僕はこの二年ばかりの間は死ぬことばかり考へつづけた」ことと,その理由が「何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」であったことを記していた。

 

後に共産党の指導者になる宮本顕治は,学生だった頃に,芥川の文学を自著『『敗北』の文学』(1929)で日本プロレタリアートの全線的展開の時代の中で「敗北した文学」と規定した。その宮本が後に『網走の覚え書き』(1949)で『『敗北』の文学』を書いた頃のことを述懐して,「この時代,プロレタリア芸術運動は,若々しい情熱でふるい文学の批判に向かっていた。晩年の芥川龍之介が,プロレタリア芸術への好意的理解をもとうとしていたが,新しい歴史的方向への芥川の理解の程度は,その文章に現われたところでは,まだ漠然としていた。しかし,その関心は小市民インテリゲンチアとしての自分の位置に安住できないほどには切実なものであったといえよう。・・・『或旧友へ送る手記』にある「漠然とした不安」はこれらとつながり,生理的な病弱にあって一層ふかめられたのだろう。」(下線は引用者,以下同じ))と記している。つまり,1929年ごろ,宮本は芥川の自死に導いた「ぼんやりとした不安」が科学的社会主義思想(マルクス主義)を恐れたことによるものと推論していた。

 

ネットでも複数の人が,この「ぼんやりとした不安」が当時,急激に広まりつつあった共産主義を指していると指摘している。

 

芥川がキリスト教を嘲るようになったのは,前述した『一 ある鞭』に記載されているように1922年以降である。

 

1922年当時の芥川について海老井英次(1994)は,「1921年3月から7月にかけての,大阪毎日新聞社海外視察員としての中国旅行から帰国後,健康の衰えが著しく,懐疑的,厭世(えんせい)的態度を強めて,『藪(やぶ)の中』(1922.1),『神々の微笑』(1922.1)などを発表したものの,創作上の行き詰まりを自覚するに至り,私小説隆盛の当時の時流のなかでかたくなに拒否していた私小説的作品にまで手を染めたが,結局打開しきれなかった」(海老井,1994)と言っている。

 

また,1920 年代は日本においてマルクス主義が興隆してきた時代でもあった.特に 1920 年代の後半から 1930 年代の前半は,戦前の日本でマルクス主義が隆盛を極めた 時期であった(深澤,2020)。深澤の論文には1929 年 4 月の四・一六事件などで検挙,収監された76名の学生,生徒の手記が載せられている。キリスト教関係で3事例あげると,1)「39–1. 関心が教会から無産党へと次第に転じていった.文明に生きよう,科学を捉えよう,欲望を肯定しよう,積極に生きよう,そして無産者のために働こう。こう考えて再び世間へ出た.それから無産党の講演会などたびたび行った。」,2)「42-1.キリスト教信者であったが,山川均『資本主義のからくり』を読んで,資本家と労働者が闘争して資本家は労働者を搾取するもので,宗教などはただ資本家の精神的な武器であり,民衆を欺瞞することを知り,当時の私にとっては実に晴天の霹靂であった。その頃より学友よりマルクス主義の理論を教えられ,社会科学研究会に加入し,以後マルクス主義を研究してきた」,3)「79–1. 家庭が両親死亡後一家分散し,家庭的温情に浸り得ず,かつまた人生・宗教なるものを考えては煩悶していた。教会へ行ったが何ら得る所なく,人生社会に対する疑惑は益々深まり,キリストの正義感が実行力のないことをはっきり意識させられた.そして正義感は社会問題に向かって動くようになった」とある。

 

つまり,芥川は1922年以降,創作で行き詰まっていたように思われる。そんなときに科学的社会主義が興隆してきて,学生や知識人たちがその思想に近づいていった。キリスト教を批判するものも少なくなかった。

 

創作上の行き詰まりは芥川自身も自覚している。『歯車』5章(赤光)で〈僕〉は聖書会社の屋根裏に住んでいる老人に会う。そして,老人から勧められた林檎の黄ばんだ皮に一角獣の麒麟(きりん)の姿を発見する。〈僕〉はある敵意のある批評家の〈僕〉を「九百十年代の麒麟児」と呼んだのを思い出し,ここが安全なところではないと感じる。批評家の言う「九百十年代の麒麟児」とは,1910年代は芥川を将来性のある作家として認めるが1920年代はそうではないという意味である。

 

創作上の行き詰まりを感じている芥川にとって,プロレタリア文学が今後民衆に広く浸透していくことは,民衆の生活基盤から離れて空中で「知識」の火花を燃やす自分の作家生命そのものを脅かすことになった。芥川は『或旧友へ送る手記』の中で,自分の資産を計算しながら自分が死んだ後の残された家族の生活をしきりに心配していた。Wikipediaにも,芥川は晩年「台頭するプロレタリア文壇にブルジョア作家と攻撃されることとなる」と記載されている。

 

『歯車』の主人公〈僕〉が幻視した「銀の翼」は「1つ」である。「2つ」ではない。多分,もぎ取られた「翼」であろう。〈僕〉にとっての「神罰」とは「銀の翼」をもぎ取られて落下すること,つまり「理性」を失い,そして生活の糧でもある「知識」を得られなくなり小説を書けなくなることである。芥川の『歯車』最終章の最後は「僕はもうこの先を書きつづける力をもっていない」である。また,『或阿呆の一生』の最後の51(敗北)には,「彼はペンを執(と)る手も震へ出した。のみならず涎(よだれ)さへ流れ出した。彼の頭は〇・八のヴエロナアルを用ひて覚めた後の外は一度もはっきりしたことはなかった。しかもはっきりしてゐるのはやっと半時間か一時間だった。彼は唯薄暗い中にその日暮らしの生活をしてゐた。言はば刃のこぼれてしまった,細い剣を杖にしながら」(芥川,2004)とある。

 

ヴェロナアルは長期間作用型の催眠薬であるジエチルマロニル尿素の商品名である。芥川は『歯車』を執筆した年の7月24日に自死している。この睡眠薬の致死量を使用したという説もある。

 

つまり,『歯車』の主人公〈僕〉(=芥川)を罰したのは,別の言葉で言い換えれば「銀色の翼」をもぎ取ったのはシルクハットを被った天使,つまり天使の姿をした〈マルクス〉の亡霊であり,また「復讐の神」が憑依した〈ある女性〉である。文壇で〈僕〉を批判するプロレタリア作家たちはそれを援護した。芥川がキリスト教の「神」を軽んじたのは「神」を否定する〈マルクス〉の科学的社会主義思想の影響が大きい。芥川は「神」を批判するシルクハットを被った天使(悪魔)の「ささやき」を聞いたのかもしれない。

 

「僕」が幻視した「歯車」は偏頭痛の前兆として現れるものであった。それは病理学で言うところの閃輝暗点である。閃輝暗点は偏頭痛が生じているときには現れない。だから,偏頭痛中に,〈僕〉が瞼の裏に幻視したものは閃輝暗点とは言えない。理知的な〈僕〉がこのもぎ取られた「1つ」の「銀の翼」を幻視したとき,〈僕〉はさらにひどい偏頭痛が訪れるとは決して思わなかったはずだ。「銀色の翼」は「銀貨」と交換可能な「知識」のことである。だから,〈僕〉は「歯車」の幻視で偏頭痛を予兆できたように,もぎ取られた「銀色の翼」の幻視で作品が書けなくなること,つまり人生の終焉が近づいてきたことを悟ったはずだ。作品が書けなくなることを予兆させる「銀色の翼」の幻視は〈僕〉にとって「一生の中でも最も恐しい経験」だった。つまり,〈僕〉は今まで「ぼんやりとした不安」を感じていただけであったが,「銀色の翼」を幻視したとき,その「ぼんやりとした不安」の正体がはっきりと理解できたのである。

 

芥川は『或阿呆の一生』19(人工の翼)で「人工の翼」(=銀色の翼)をヴォルテェルから供給されたと言っていたが,晩年の『侏儒の言葉』(1923~1927)の「理性」では「わたしはヴォルテェルを軽蔑している。」,「理性のわたしに教えたものは畢竟(ひっきょう)理性の無力だった。」となっている。

 

芥川は,『或旧友へ送る手記』の最後にエンペドクレスの伝記に言及し過去に「みずからを神としたい欲望」があったと記している。

 

THE BLUE HEARTSの甲本ヒロトは『リンダリンダ』(1987)で「ドブネズミみたいに美しくなりたい/写真には写らない美しさがあるから・・・」,『終わらない歌』(1987)で「終わらない歌を歌おうクソッタレの世界のため/終わらない歌を歌おう全てのクズどものため・・・」と歌った。ドブ川の匂いがする中流下層階級の人たちの住む世界から高く飛翔した芥川には「終わらない作品」は書けなかった。(続く)

 

参考・引用文献

芥川龍之介.2004.歯車 他二編.岩波書店.

海老井英次.1994.芥川龍之介.日本大百科全書(ニッポニカ).小学館.

学習通信〟070719.『「敗北」の文学』を書いたころ.http://kyoto-gakusyuu.jp/tusin07/070719.htm

深澤竜人.2020.日本における 1920 年代のマルクス主義興隆の要因(日本マルクス経済学史Ⅳ)―『左傾学生生徒の手記』を中心として.経済学季報 70 (1);37-80.