宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

賢治が「業の花びら」を幻視したときの罪と罰 (8)

 

次に,賢治の「罪」と「罰」について再度考えてみたい。

賢治は詩「「三一四〔夜の湿気と風がさびしくいりまじり〕」(1924.10.5)で「業の花びら」を幻視し,「わたくしは神々の名を録したことから/はげしく寒くふるえている」(下線部は引用者,以下同じ)と記載しているが,この恐怖体験は詩を書いた日に会合に招かれて話をした内容と,3か月前に農学校で上演した劇の内容と深く関係している。ちなみに,下書稿には下線部が〔山地の神々を舞台の上にうつしたために〕と変えるようなことも書かれてある。 

 

前者は賢治が青年会に招かれて石灰岩抹を利用した農業について話をしたときに,聴衆の老いた権威者(組合のリーダー格)から「祀られざるも神には神の身土がある」と批判されてしまったことである。後者は農学校の『種山ヶ原の夜』という劇で,楢の樹霊,樺の樹霊,柏の樹霊,雷神,権現という「先住民」が信仰する土着の神々を「卑賤の神」のつもりで「滑稽」に,あるいは「笑い」の対象として舞台に移し登場させたことである。共通しているのは,「山」のものを「平野」へ移すということである。乱暴な言い方をすれば「山」のものが「平野」に奪われたことである。

 

前者についてさらに詳しく述べたい。大正7年(1918)に研究室に残った賢治は関富太郎教授の指導のもとに稗貫郡の地質・土壌調査を行なっていた。この調査を通して,賢治は北上川中流の花巻を含む洪積台地がカルシウムの溶脱した酸性不良土(腐植の集積した黒ボク土)で,石灰岩抹による改良が必要であると強く感じていた(井上,1996)。花巻市付近の北上低地は標高70~150m程度で洪積台地,丘陵を主体とする「平野」である。詩「「三一四〔夜の湿気と風がさびしくいりまじり〕」の下書稿にも「北上山地の一つの稜を砕き/まっしろな石灰岩抹の億噸(おくとん)を得て/幾万年の脱滷(だつるー)から異常にあせたこの洪積の台地に与へ」とある。「滷」(注1)は海水に含まれていた塩化カルシウムのことだと思う。つまり,「山」のものを「平野」へ移すとある。ただ,酸性土壌が石灰岩抹で改良できるという理論は関教授がすでに岩手日報に「石灰岩抹新利用」(大正6年11月)と題して発表されているものである。(注1:北上山地にある早池峰山の南は昔海の底であった。)

 

賢治は詩の日付では1924年10月5日に稗貫郡に接する紫波郡の日詰あたりを訪れてある青年会の会合に参加している。多分,賢治はここで北上山地の一つの稜を砕き石灰岩抹にしてから酸性不良土の平野部の田や畑に肥料として蒔くという話をしたと思われる。科学的知識を持っていた賢治は,関教授も認めている理論でもあるので自分の農事講話には自信があったと思われる。しかし,会合に出席していたリーダー格の聴衆に,調子に乗るなと言わんばかりに「あざけるやうなうつろな声で」,「祀られざるも神には神の身土がある」と批判されてしまうのである。批判した聴衆にとって,賢治の行なう行為は祀られていないが石灰岩を埋蔵する「山」の「神」を粉々にして,奪い取り,その粉々にした「神」を「平野」の田畑にばらまくということを意味している。賢治を批判したのは「平野」ではなく「山」の人間と思われる。

 

「平野」の民である農民も同じである。時期的には2~3年後になるが,賢治は農民のために石灰岩抹も使用する無料肥料設計事務所を開設している。賢治から設計して貰った農民は「今までの施肥よりは,ずっと多くの肥料を使うものだな,高價なものだな」,あるいは「化學肥料というものを(農藥も)耳新しく聞いた人たちが,その場では多かったのです。折角教えていただいても,高價な肥料代と,それにくっついている様々の危惧感から,すぐについていけない人も相當あったのが事實です」と言っていたという(鈴木,2018)。賢治は耐冷性に増収が見込める陸羽132号を勧めたが大量の金肥も必要であった。例えば,従来の農家の小肥に油粕,大豆粕を硫安,石灰尾窒素,加里肥料に置換する費用のかかるものである。つまり,賢治の肥料設計は岩手県農会のそれよりも多肥多収を特徴とし,短期間で増収を図ろうとするもので,性急すぎて設計を作成して貰った農家には取っ付きにくいものだったようだ(並松,2019)。つまり,農民にとっても反応は冷ややかであった。

 

賢治の無料の肥料設計事務所には,農民が沢山集まったものの肥料設計を受け取ったまま,指導されたことを何ひとつ実行しない農民もあった。賢治は怒り,悲しんだという。また,実際に実行したが失敗し弁償した事例も存在した(吉見,1982,佐藤,2000)。佐藤の話だと,凶作の年,賢治の設計通りの肥料を施しても凶作を免れなかったことがあり,賢治は減収した農家の作柄を尋ねて,損害を賠償したというのである。佐藤は天候不順が原因で賢治には「責任」はないと記載しているが,農民が憤慨したことは事実であろう。賢治は,このような体験を後に童話『グスコーブドリの伝記』(1932)で主人公ブドリに自分を重ね,ブドリを「この野郎,きさまの電気のお陰で,おいらのオリザ,みんな倒れてしまったぞ。何してあんなまねしたんだ。」と批判する農民を登場させている。オリザは稲の学名である。ブドリは農民に殴られたり,踏んづけられたりするが,それは後日肥料の扱いを間違った農業技師によるものだったということで決着する。その真意は分らない。

 

後者の農学校で上演した劇『種山ヶ原の夜』も同様である。例えば,この劇で,北上山地の「山」の神々を「平野」にある農学校の舞台に移してしまった。さらに,「山」の神々を嘲笑ってしまった。楢樹霊と樺樹霊が権現(権現さん)について語る場面がある。楢樹霊が「だあれあ,誰(だ)っても折角きてで,勝手次第なごとばかり祈ってぐんだもな。権現さんも踊るどこだないがべじゃ。」と言うと,樺樹霊が「権現さん悦(よろこ)ぶづどほんとに面白いな。口あんぎあんぎど開いて,風だの木っ葉だのぐるぐるど廻してはね歩ぐもな。」と答える。

 

劇の「権現さん」は花巻丹内山神社に伝わる神楽(かぐら)の権現舞で使われる獅子頭のことだと思われる。有名な権現舞は早池峰神社のもので,獅子は早池峰神社に祀られている神の化身とされる。早池峰神社の神は,記紀神話には登場しない「瀬織津姫(せおりつひめ)」で土着の神と思われる。樺樹霊が「口あんぎあんぎど開いて」と言っているが,これは獅子頭の歯を打合せてならす「歯打ち」のことで,「厄払い」や「火伏せの呪い」を意味している。「権現」が喜んでいるのではない。聴衆の中で権現を信仰する者がいれば笑ってなどいられない。苦虫を噛んでいたであろう。また,旧友の阿部孝には好評だったが,信仰心のない聴衆には「随分変てこな芝居でしたね。後先の筋道が全然なっていないで変わってますね」という評価だったらしい(佐藤,2000)。

 

また,「お雷神(なりがみ)さん」と呼ばれている神(雷神)が劇の最後に登場する。雷神は赤い着物を着て舞台の上で寝そべっている。そこに主人公の伊藤という人物が近づいてくる。樹霊たちは伊藤に「かむやないんぞ,かむやないんぞ」(手を出すなと言う意味の訛り)といって制止する。しかし,伊藤は走ってきて間違って雷神の足を踏んでしまう。踏まれた雷神は怒って立ち上がり「誰だ,ひとの手をふんづけたな。畜生,ぶっつぶすぞ」と叫ぶ。樹霊たちは震えて立ちすくんでしまい,伊藤は雷神に捕まってしまう。

 

「山」の樹霊たちは,雷神を「お雷神(なりがみ)さん」と呼んで恐れていた。これは,「山」の多い岩手県内各地に広まっていたナリガミサマ,オライサンと呼ばれる雷神信仰に基づくものである。種山ヶ原に落雷のあった箇所に雷神と彫った石の供養塔がたくさんあるという(原,1999)。

 

つまり,賢治の犯した「罪」とは「神」がお座(あ)す石灰岩の「山」を切り崩し「平野」の方へ移したり,「先住民」が信仰する樹霊などの「山」の神々を「平野」にある農学校の舞台に移し笑いの対象にしたり,踏みつけるようなことまでしたことである。これらは「山」の神々を信じるものにとっては「山」にお座す神々が軽んじられることでもあった。

 

賢治がなぜ土着の「神」を軽んじたのかは賢治の作品からは分からない。しかし,賢治の教え子である沢里武治への手紙(1930.4.4)によれば「慢心」だという。この手紙には,4年間すごした農学校時代の終わり頃「わずかばかりの自分の才能に慢じてじつに倨慢(きょまん)な態度になってしまった」とある(宮沢,1985)。農学校時代とは1922年~1925までである。すなわち,賢治が「慢心」であたった時期と「花びら」を幻視した時期(1924.10.5)は一致する。

 

賢治は父・政次郎が信仰している浄土真宗を激しく嫌っていた。父を日蓮宗に改宗しようとしていた。多分,先住民が信仰する「神」も認めていなかった可能性がある。法華経の第27章「妙荘厳王本事品」には外道であるバラモン教を信受している父・妙荘厳王を2人の王子が仏教に改宗させる話が出てくる。バラモン教は『ヴェーダ』を聖典とし,天・地・太陽・風・火などの自然神を崇拝し,司祭階級が行う祭式を中心とする多神教の宗教である。東北の先住民の自然信仰と似ている。賢治も先住民の自然信仰は改宗の対象としてしか見ていなかったのかもしれない。当時,賢治に「慢心」があったとすれば「山」の神々も全て卑賤の神と見做していた可能性がある。また,科学的な知識もあったから石灰岩の「山」を切り崩し酸性不良土の「平野」へ蒔くことにも違和感がなかったものと思われる。

 

賢治が「はげしく寒くふるえている」と恐怖する事態になったのは,「山」の神々から「神罰」を受けた,あるいはこのあとに恐ろしい「神罰」を受けるかも知れないと思ったからである。実際に,学校劇で雷神を演じた生徒が翌日に他の生徒のスパイクで負傷している。その様子を賢治は親交のある森荘已池に「私もぎょっとしましたよ。偶然とはどうしても考えられませんし,こんなに早く仇をかえさなくともよかろうになと,呆れましたね。」と話している。賢治はこの事故を偶然の出来事とは思っていない。

 

賢治は,「業の花びら」を幻視した同じ年1924年頃に,土着の神の中でもタチのよくない「神」を幻視している。そして,賢治には,その「神」から罰を受けているという自覚もある。

 

タチのよくないと言ったのは賢治である。賢治は土着の「神」である〈土神〉や〈鬼神〉のことを批判的に言う。森荘已池(1983)が大正14年秋頃農学校の宿舎で向こうの森林を指さす賢治から「鬼神の中にも非常にたちのよくない〈土神〉がありましてね。よく村の人などに仇(悪戯とか復讐とかをひっくるめていうことば)をして困りますよ。まるで下等なのがあるんですね」(括弧内も森が記したもの)と言ったのを聞いている。賢治は作品では人間も動物も平等に扱っているが,自然崇拝の対象になる神々には上等や下等が存在する。このタチのよくない〈土神〉は寓話『土神ときつね』に登場してくる。〈土神〉は「乱暴で髪もぼろぼろの木綿糸の束のよう眼も赤くきものだってまるでわかめに似,いつもはだしで爪も黒く長いのでした」という性格と姿をしていると紹介されている。賢治は〈土神〉が村の人に仇(復讐)をすると言っている。つまり,賢治は「復讐の神」である〈土神〉の「神罰」を信じざるを得なくなっている。

 

賢治の言う「よく村の人などに仇をして困りますよ。」とは具体的にはどういうことか。賢治の寓話『土神ときつね』で木樵が〈土神〉の祀られている「祠」近くにやってきたとき谷地の周りをぐるぐると歩かされたり,向こうの野原の方へぽんと投げ出されたりなどの恐怖体験をする。また,童話『種山ヶ原』では達治という少年が牛を連れて種山ヶ原の兄に弁当を届けに行くとき,道に迷い夢うつつの中で「伊佐戸(いさど)の町の,電気工夫の童(わらす)ぁ,山男に手足ぃ縛らへてたふうだ。」といういつか誰かの話した語(ことば)を,はっきり耳に聞えてくるという体験する。幻聴である。このあと,達治は夢の中で実際に山男に出会い格闘して山男を殺してしまう恐怖体験をする。

 

賢治はタチのよくない〈土神〉と思われるものを実際に幻視している。森荘已池(1983)の証言(注1)によれば,賢治が近隣の町から山道(盛岡から宮古へ通じる閉伊街道)を通って帰途中に雨に降られ,あわててトラックの荷台に乗せてもらったが,高熱を出してしまう。このとき,うなされて夢うつつになった賢治は「小さな真赤な肌のいろをした鬼の子のような小人のような奴らが,わいわい口々に何か云いながら,さかんにトラックを谷間に落とそうとしている」幻影(鬼神)を見たというのである。トラックは実際に谷に落とされてしまうのだが,幸いに賢治と運転手,そして助手は事前にトラックから飛び降りていて無事だった。賢治が幻視した「小さな真赤な肌のいろをした鬼の子のような小人」が〈土神〉であろう。

(注1:賢治からこの話を聞いた森はこの年が『春と修羅』刊行の大正末年の頃と自著に書いている)

 

賢治は〈土神〉に命を狙われたが生還している。これには別の幻視体験が関係している。賢治は〈土神〉がトラックを谷に落とそうとしたとき,2間もあるような「白い大きな手」も幻視している。森に「白い大きな手が谷間の空に出て,トラックが走る通りついて来てくれるんですよ,いくら小鬼どもが騒いで,落とそうとしても,トラックは落ちないで,どんどんあぶない閉伊街道を進むんですね,私はこれはたしかに観音さまの有り難い手だと思い,ぼおっとして,眠っているのか,起きているのか,夢なのか・・・・突然異様な声がして,ハッと思ったとたん白い手は見えなくなったんです。私はもう夢中でトラックから飛び降り,その瞬間トラックはごろごろともの凄い勢いで墜落してしまったんです。」と話している。できすぎた話だが,真実なら,賢治には何か見えない大きな力が働いたのかも知れない。

 

賢治の「白い大きな手」を幻視した体験は地獄の中で少年が「にょらいじゅりょうほん第十六」と呟くと「大きなまっ白なすあし」が現れる童話『ひかりの素足』(制作年は不明)の内容と似ている。賢治はこのような体験ができる人なのかも知れない。逆に,芥川はこのような奇跡的な体験を持つことが生涯なかった人だということかもしれない。

 

つまり,賢治は土着の「神」の「神罰」を信じるようになった。そして,賢治はいつか負傷した生徒と同じように自分も土着の「神」から「神罰」を受けることを予想したと思われる。多分,賢治は自分の乗ったトラックの谷底への落下事故が石灰岩を埋蔵する「山」を削り取ったり,劇『種山ヶ原の夜』で土着の神々を冒涜したりしたことの「罰」だと信じたと思う。ただ,賢治の犯した重大な「罪」と「罰」はこれだけではなかった。(続く)

 

参考・引用文献

原 子朗.1999.新.宮澤賢治語彙辞典.東京書院.

井上克弘.1996.土壌肥料と宮沢賢治1 ペドロジスト,エダフォロジストとしての賢治.日本土壌肥料学雑誌.67 (2):206-212.

宮沢賢治.1985.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.

森荘已池.1983.宮沢賢治の肖像.津軽書房.

鈴木 守.2018.二 イーハトーヴの土地、賢治の土地(鬱屈).みちのくの山野草.https://blog.goo.ne.jp/suzukishuhoku/e/f74baef6a082863929ad11c4356cc65d

佐藤隆房.2000.宮沢賢治-素顔のわが友-.桜地人館.

並松信久.2019.宮沢賢治の科学と農村活動―農業をめぐる知識人の葛藤―.京都産業大学論集.人文科学系列.52 :69-101.

吉見正信.1982.宮沢賢治の道程.八重岳書房.