宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

寓話『土神ときつね』に登場する土神とはどんな神なのか (第5稿)-東北の祭りとの関係-

本稿では〈土神〉と「東北」の祭りとの関係について述べる。物語で〈土神〉の「祠」がある場所の祭りは,〈土神〉が「今日は五月三日,あと六日だ」と言っているので5月9日である。この物語は岩手山東側の「一本木野」が主な舞台なので,この周辺の神社などで5月9日あたりに祭りをしている場所が候補に挙がる。賢治研究家の高橋(2011)が滝沢村内の20社くらいの神社を調べていた。しかし,この日あるいはその近くで祭りをしている神社は見当たらなかったという。第1稿でも述べたが,この物語の舞台は「一本木野」以外にも複数あって,賢治は複数の場所を混在させている。私は,5月9日の祭りの候補として文語詩未定稿の「祭日〔二〕」に出てくる「毘沙門まつり」と「祭日〔一〕」に出てくる「谷権現まつり」という花巻市東和町で過去に行われた2つの祭りを取り上げて,〈土神〉との関係を調べてみたい。

 

8.〈土神〉は東北・岩手の祭りと関係する

1)昆沙門まつり

「祭日〔二〕」が書かれた正確な日付は分からないが,先行作品の口語詩「一三九 夏」には制作日付と思われる「1924.5.23」という数字が付いている。多分,「祭日〔二〕」はこの日付の頃の心象スケッチをもとに創作されたものと思われる。この日付は,また詩集『春と修羅 第二集』の〔日はトパースのかけらをそゝぎ〕の制作日と思われる日付の5日後にあたる。花巻市東和町北成島の三熊野神社境内にある成島毘沙門堂では現在5月上旬の3日間に「毘沙門まつり」が開催されている。賢治の詩に登場する「昆沙門まつり」が5月のものであるとは言い切れないが,詩に登場する桐の花は東北では5月に咲くし,少なくとも昆沙門まつりと関係する詩は5月の日付で書かれている。ちなみに,令和4年の「昆沙門まつり」は5月3日~5日である。〈土神〉の祭りがこの成島毘沙門堂で5月に行われる「昆沙門まつり」と関係がありそうである。

 

さらに,興味深い事実がある。詩〔日はトパースのかけらをそゝぎ〕は〈土神〉が登場する物語と密接に関係しているということはすでに述べたが,この詩の制作日と思われる「1924.5.18」は賢治が北海道へ修学旅行で生徒を引率していった日であり,5日後の「一三九 夏」を創作したと思われる「1924.5.23」は花巻に帰って来た日である。修学旅行で,賢治は「アイヌ」の白老集落や「アイヌ」に関する標本が展示されている博物館を見学している。つまり,詩の日付が正しいとすれば,5月18日に〈土神〉と関係のある花巻のアイヌ(蝦夷)塚を訪れ詩〔日はトパースのかけらをそゝぎ〕を創作し,その日に北海道へ旅発ち,そこで「アイヌ」の白老集落を見学し,5月23日に花巻に戻りその日のうちに東和町北成島にある成島毘沙門堂を訪れて詩「一三九 夏」を創作したということになる。かなりのハードスケジュールなので,成島毘沙門堂には行かずに過去の記憶に基づいて創作したとしても,賢治の頭の中では〈土神〉とアイヌ(蝦夷)塚の「鬼神(薬叉)」と「毘沙門堂」は密接に繋がっていると思われる。「一三九 夏」を先行作品とする「祭日〔二〕」の詩は以下の通り。

 

アナロナビクナビ 睡たく桐咲きて

峡に瘧(おこり)のやまひつたはる

ナビクナビアリナリ 赤き幡(はた)もちて

草の峠を越ゆる母たち

ナリトナリアナロ 御堂のうすあかり

毘沙門像に味噌たてまつる

アナロナビクナビ 踏まるゝ天の邪鬼

四方につゝどり鳴きどよむなり

           (宮沢,1986)

  注:賢治は「幡」を「のぼり」ではなく「はた」とルビをつけている

 

「祭日〔二〕」には「毘沙門像」に踏まれる「天邪鬼」が登場するが,この「昆沙門像」は成島毘沙門堂に祀られている「兜跋(とばつ)毘沙門天」(高さ359cm)と言われていた(原,1999)。像造は10世紀前半ごろまで(西川,1999),あるいは10世紀後半以降(米地ら,2013)とされる。樺材の一本造りである。しかし,成島の「昆沙門天」は「天邪鬼」ではなく「地天女」に逆に両手で支えられているので,「祭日〔二〕」に登場する昆沙門像を成島のものであるとすることはできないようにも思える(第1図A)。確かに,現在はコンクリート造りの収納庫に安置されているが,古い堂に窮屈そうに収められていた当時,この地天女の像はわずかに顔を覗かせるだけでほとんど床板の下に隠れていて全部を伺うことができなかった(永井,1980)。賢治も見間違えた可能性はある。一方,新しい説もある。「祭日〔二〕」にある「昆沙門天」は北上川南部地域に点在する複数の堂宇の昆沙門天像から合成したものではないかとするものである(米地ら,2013)。

 

実際に北上の立花毘沙門堂の昆沙門天像(像高102cm,第1図B)や江刺の岩谷堂近くの小名丸毘沙門堂の毘沙門天は邪鬼を踏んでいる。多分,賢治がイメージしている「毘沙門天」は,米地らが推論するように複数の堂宇の昆沙門天像を合成したもので,立花毘沙門堂のように「天邪鬼」を踏んでいるのである。〈土神〉は高さ1間(182cm)の「祠」の中に祀られているので,その「祠」の中には北上の「天邪鬼」を踏む昆沙門天像も入ることができる。

第1図.Aは成島の兜跋昆沙門天像と地天女像,Bは立花の昆沙門天像と天邪鬼像.

(中尊寺とみちのくの古寺.集英社.1980)

 

「天邪鬼」は,仏教では人間の煩悩を表す象徴として,四天王や執金剛神に踏まれている悪鬼である。高橋(2005)によれば悪鬼・邪鬼を踏む毘沙門天像には,これら悪鬼になぞえられる「外敵」や「病気」を退散せしめる意味がこめられているのだという。

 

高橋の言う「外敵」とは,北上においては律令国家にまつろわぬ「蝦夷」であろう。なぜなら,「天邪鬼」は日本神話に登場する「天探女(あまのさぐめ」をルーツにしているからである。「天探女」は「天」と付くので「天津神」のようだが,「神」とか「命(みこと)」の名も付かず,『日本書紀』には「時に国神有り。天探女と号(なづ)く」とあり「国神」とも記述されている。国神とは「国津神」のことで「蝦夷」や「隼人」といった「先住民」が信仰している神のことである。もしかしたら,〈土神〉は「蝦夷」の「鬼神」であり,「祭日〔二〕」に登場する「天邪鬼」の姿として祀られているのかもしれない。

 

「病気」とは,この詩では冒頭にある「瘧(おこり)」のことである。この病気は間欠的に発熱し,悪寒 (おかん) や震えを発する病で,主にマラリアの一種,三日熱をさしたと言われている。特に幼児が罹りやすく「わらわやみ」とも呼ぶ。

 

口語詩「夏」と同じ番号と日付の「一三九 峡流の夏」(1924.5.23)には「この峡流の母たちは/めいめい赤い幡をたづさへ/きみかげさうの空谷や/だゞれたやうに鳥のなく/いくつものゆるい峠を越え/お堂にやってまゐります/毘沙門像のおすねには/だいじな味噌をなんども塗り/黄金の眼だまをきょとんとして/ふみつけられた天の邪鬼は/頭をいくどか叩きつけて(ここまでで中断)」とある。この詩では,「だゞれたやうに鳥のなく」とあるように子供が皮膚病にでも罹っているのだろう。また,踏みつけられた「天邪鬼」が激しく抵抗している様子も描かれている。詩「祭日〔二〕」で,昆沙門像に味噌たてまつるのは「瘧」という病を退散させるためだが,詩「夏」でも北上山地の先住民と思われる「渓流の母たち」が昆沙門像の脛に味噌を塗って,子供の皮膚病退散を願っているようである。昆沙門天像の脛に味噌を塗る風習は,「毘沙門天」が三十八年戦争で征夷大将軍であった坂上田村麻呂の危機に泥の中から現れて足下の泥土に塗れさせながら窮地を救ったという伝説に基づくとされている(西川,1999)。多分,「渓流の母たち」は朝廷に激しく抵抗した「蝦夷」を鎮めた坂上田村麻呂の絶大な力にあやかったのかもしれない。

 

「天邪鬼」は,仏教や民話での「悪鬼」以外に,わざと人に逆らう言動をする者や,「天探女」のように人の心を「探る」のに長じるひねくれ者のことを言う場合がある。〈土神〉もかなりひねくれている。〈土神〉がひねくれていることは第2稿でも述べた。

 

「わしはね,どうも考へて見るとわからんことが沢山ある,なかなかわからんことが多いもんだね。」

「まあ,どんなことでございますの。」

「たとへばだね,草といふものは黒い土から出るのだがなぜかう青いもんだらう。黄や白の花さへ咲くんだ。どうもわからんねえ。」

「それは草の種子が青や白をもってゐるためではないでございませうか。」

「さうだ。まあさう云へばさうだがそれでもやっぱりわからんな。たとへば秋のきのこのやうなものは種子もなし全く土の中からばかり出て行くもんだ,それにもやっぱり赤や黄いろやいろいろある,わからんねえ。」

  (中略)

「ずゐぶんしばらく行かなかったのだからことによったら樺の木は自分を待ってゐるのかも知れない,どうもさうらしい

                            (宮沢賢治,1986)

 

〈土神〉は〈樺の木〉に「草が黒い土から出てくるのに青や黄や白の花が咲くのは理解できない」と尋ねると,〈樺の木〉は「それは種がそのような色を持っているから」と答える。〈樺の木〉の答えは,「種がそのような色になる遺伝子を持っているから」という現代人の多くが答えそうな内容であり,現在でも通用する回答である。しかし,〈土神〉は納得しないで「秋のきのこのやうなものは種子もなし全く土の中からばかり出て行くもんだ,それにもやっぱり赤や黄いろやいろいろある,わからんねえ。」と質問してしまう。〈土神〉の2回目の質問は,草の種子をキノコの胞子に変えただけで同じである。すなわち,あまのじゃくであり,ひねくれ者である。

 

このように,〈土神〉は反抗的でひねくれ者である「天邪鬼」の可能性が高い。〈土神〉の「祠」の近くの「楊」も第2稿で述べたようにねじれていた(石井,2022)。そして,北上山地の先住民たちが「昆沙門まつり」の日に,この反抗的でひねくれた「天邪鬼」を踏む昆沙門天像に病気退散を願っていたように思える。しかし,まだすっきりしないところがある。毘沙門堂の昆沙門天像の主役は「昆沙門天」であって「天邪鬼」ではない。また,〈土神〉の祭は5月9日なのに成島の昆沙門まつりは5月上旬で必ずしも9日ではない。そこでもう1つの祭である「谷権現のまつり」について考えたい。

 

2)谷権現まつり

文語詩の「祭日〔一〕」は昭和7年(1932)に「女性岩手」という雑誌に掲載されたものである。内容は以下の通り。

 

谷権現の祭りとて,麓に白き幟たち

むらがり続く丘丘に,鼓の音(ね)の数のしどろなる,

頴花(はな)青じろき稲むしろ,水路のへりにたゞずみて,

朝の曇りのこんにやくを,さくさくさくと切りにけり。

                (宮沢賢治,1986)

 

「祭日〔一〕」に登場する谷権現は花巻市東和町谷内の丹内山神社の谷内権現のことで(原,1999),この神社に祀られている多邇知比古神(たにちひこのかみ)を仮(権)の姿(垂迹神)とした本地仏・不動明王のことである。社伝によれば,多邇知比古神は地元住民が祀っていた土着の神で,谷内地方を開拓した祖神である。平安時代に神仏習合思想(本地垂迹説)と共に仏教が入ると土着の神は権現として祀られるようになった。ちなみに,多邇知比古神の「多邇知(たにち)」が「谷地」で「比古神(ひこのかみ)」が「彦神」なら,多邇知比古神という名の神は「谷地(やち)の神」ということになる。また,丹内山神社の現在の例大祭は9月第1土曜日と日曜日である。賢治が詩の中で記した丹内山神社の「権現まつり」が9月に行われていたものかどうかは定かではない。しかし,賢治がメモをした文語詩篇ノートの「1910」の頁に「九月 祭 first em.」と記載されていて,これが1910年に開催された丹内山神社の谷権現の祭りだとする研究者もいる。ちなみに.1910年の谷権現の祭りは9月4日と5日とある(時信,2022)

 

この土着の神でもある権現は,大正13年(1924)の8月に農学校で上演された賢治の劇『種山ヶ原の夜』にも登場する。この劇には,楢樹霊,樺樹霊,柏樹霊,雷神,権現,庚申などたくさんの神々が登場してくる。このうちで楢樹霊と樺樹霊が権現(権現さん)について語る場面がある。楢樹霊が「だあれあ,誰(だ)っても折角きてで,勝手次第なごとばかり祈ってぐんだもな。権現さんも踊るどこだないがべじゃ。」と言うと,樺樹霊が「権現さん悦(よろこ)ぶづどほんとに面白いな。口あんぎあんぎど開いて,風だの木っ葉だのぐるぐるど廻してはね歩ぐもな。」と答える。

 

樺樹霊が語る権現が喜んで,風だの木の葉だのをぐるぐる廻す様子は,〈土神〉が喜んで木樵をぐるぐる廻す様子と似ている。寓話『土神ときつね』では「土神はそれを見るとよろこんでぱっと顔を熱(ほて)らせ・・・木樵は・・・谷地の中に踏み込んで来るやう・・・顔も青ざめて口をあいて息をしました。土神は右手のこぶしをゆっくりぐるっとまはしました。すると木樵はだんだんぐるっと円くまはって歩いてゐましたがいよいよひどく周章(あわ)てだしてまるではあはあはあはあしながら何べんも同じ所をまはり出しました」とある。

 

劇の「権現さん」は丹内山神社などに伝わる神楽(かぐら)の権現舞で使われる獅子頭のことだと思われる。有名な権現舞は早池峰神社のもので,獅子は早池峰神社に祀られている神の化身とされる。早池峰神社の神は,記紀神話には登場しない「瀬織津姫(せおりつひめ)」で〈土神〉と同じ土着の神と思われる。賢治も丹内山神社か早池峰神社などの祭で権現舞を見た可能性はある。すなわち,〈土神〉は丹内山神社の谷権現とも関係がある。

 

また,谷内権現は丹内山神社では不動明王として祀られている。不動明王は大日如来の化身とされるので,〈土神〉は大日如来とも関係する。大日如来は太陽を司る毘盧舎那如来がさらに進化した仏とされる。ちなみに,〈土神〉は「朝日をいっぱいに浴びて」登場し,〈樺の木〉と話をするとき「天道というふものはありがたいもんだ」と太陽を話題にする。

 

このように,〈土神〉は「蝦夷」に関係する昆沙門天像に踏まれる「天邪鬼」と「谷権現」の2つの神を合体させたものと考えられる。

 

これは余談だが,詩「祭日〔二〕」にある詩句「ナビクナビアリナリ 赤き幡(はた)もちて」の「赤き幡」と詩「祭日〔一〕にある詩句「谷権現の祭りとて,麓に白き幟たち」の「白い幡」についても考察してみる。ちなみに,詩句にある「ナビクナビアリナリ」は法華経・陀羅尼品第二十六にある「毘沙門天」の呪文をもじったものである。「赤旗」と「白旗」は,平安時代後期に台頭してきた源氏と平氏という2つの武士集団が戦った源平合戦(治承・寿永の乱)と関係があると思われる。「赤旗」は西を支配する平家の旗印で「白旗」は東を支配する源氏の旗印であった。この戦いで平家は滅びる(1185年)。南部北上山地西縁の「毘沙門像」の多くは,源氏と平氏が戦っていた平安時代後期のものでもある。「東北」では,平氏討伐後に源頼朝は「東北」の奥州藤原氏と戦い,1989年に滅ぼす。1192年に頼朝は朝廷から征夷大将軍に任じられている。

 

多くの毘沙門堂と谷内権現(あるいは丹内神社)は北上山地西縁に東と西に対峙するように並んでいる。北上山地西縁は北上山地と北上平野の境でもある。三十八年戦争が終息したのは弘仁2年(811)であるが,この年陸奥出羽按察使文室綿麻呂らの軍隊が爾薩体(にさつたい)村と閉伊村を討伐している。この討伐の目的は北上平野の安定化のためである(鈴木,2016)。爾薩体村は岩手県北上山地北端の二戸あたりの「蝦夷」の村で,閉伊村は岩手県東部の北上山地から三陸海岸にかけての上閉伊や下閉伊あたりの「蝦夷」の村である。すなわち,この地の蝦夷たちは朝廷に最後まで抵抗した。米地ら(2013)も,花巻,北上,江刺など南部北上山地西縁にある毘沙門堂は北方ではなく東方の閉伊(へい)地方のまだまつろわぬ「蝦夷」に対峙するもので,一種の結界であったと考えられている。延久2年(1070)にも,陸奥守源頼俊が出羽の清原氏(朝廷に服属した蝦夷の長)と共に兵を率い,いまだ朝廷に従わない閉伊七村山徒の「蝦夷」と戦っている(合戦の詳細は不明)。

 

第2図に示すように,北上山地西縁の西側には北から,昆沙門天像を安置するお堂が西方寺毘沙門堂(1),正音寺(3),成島毘沙門堂(4),立花毘沙門堂(5),小名丸毘沙門堂(6),藤里毘沙門堂(7),正法寺(8),最明寺(9)と並んでいる。また,北上山地西縁の東側には丹内を冠する神社として花巻の谷内権現と,そこから東に遠野の丹内神社,釜石の丹内神社とが毘沙門堂列と垂直になるように並んでいる。ただし,遠野と釜石の丹内神社が花巻の丹内山神社のように地祇を祀っていたかどうかは定かではない。

第2図.南部北上山地西縁の毘沙門堂列に対峙する谷内権現

 

北上山地には「蝦夷」と呼ばれ最後まで大和朝廷とそれに続く中央政権に抵抗し続けた先住民の末裔が多く,また北上平野には律令国家と勇猛に戦ったが服属した「蝦夷(俘囚)」や南からの開拓民(移住者)の末裔が多く住んでいたと思われる。そこで,賢治は北上山地西縁の西側に位置する毘沙門堂の祭りに訪れる参拝者には「赤旗」を持たせ,東に位置する谷内権現には「白旗」を立てたと思われる。南部北上山地西縁(結界)の西と東は朝廷側の支配領域と蝦夷側の支配領域を意味していると思われる。谷内権現は「蝦夷」の血をひくとされる奥州藤原氏に篤く庇護されていた。奥州藤原氏の初代当主清衡は平泉に移る前には江刺の「岩谷堂」あたりに拠点を持っていた。多分,谷内権現のある丹内山神社あるいはその東にある丹内神社は早池峰山南の東和,遠野から江刺あたりの住民たちの信仰の対象になっていたのかもしれない(第2図)。岩手県出身の高橋克彦の時代小説『火怨』では阿弖流為と母禮が坂上田村麻呂と戦う前に「巨石」のある谷内権現(丹内山神社)を訪れている。 

 

文語詩の「祭日〔一〕」で「朝の曇りのこんにやくを,さくさくさくと切りにけり」とある。この詩句に出てくる「こんにゃく」は,サトイモ科の多年草植物である「コンニャク」(Amorphophallus konjac K.Koch)の地下茎であるコンニャクイモ(蒟蒻芋)から作られた加工食品のことと思われる。植物の「コンニャク」は,諸説はあるが,我が国に固有のものではなく,例えば飛鳥時代に仏教と共に朝鮮半島を経由して伝来してきたものであるという。元々は薬として伝来され平安時代には貴族などの高級な食べ物とされていたものが,江戸時代に簡便な加工法が確立し,庶民でも食べられるようになったものである(Wikipediaなど)。

 

賢治の文語詩未定稿にも「こんにやくの/す枯れの茎をとらんとて/水こぼこぼと鳴る/ひぐれまぢかの笹はらを/兄弟二人わけ行きにけり」とあるので,当時岩手でも食用として栽培していた可能性がある。ただ,栽培は北上山地側である。コンニャクイモは山地斜面の林内の光環境を好むので山間で栽培されてきた。「コンニャク」の栽培の北限は岩手県下閉伊郡新里村付近(早池峰山東の閉伊街道沿い)と言われている(山崎,2022)。このコンニャク栽培が行われている場所は,賢治が農学校の教師時代に「小鬼」に崖から落とされそうになった場所でもある。 

 

「こんにゃく」(蒟蒻あるいは蒻頭)が我が国の文献に登場するのは10世紀ごろからである。『本草和名』(918年頃成),『和名抄』(922~931年頃成),『医心方』(986年成),『本朝食鑑』(17世紀末刊),『大和本草』(1709年刊)などである(小松,2022)。薬あるいは食品として紹介されている。10世紀は東北に「昆沙門天」が作られていった時代でもある。

 

詩句にある食品としての「こんにやく」は,丹内山神社近隣の農婦が出店で売るために準備しているものとされている(時信,2022)。しかし,9月上旬なのに「頴花青じろき稲むしろ」とか「朝の曇り」とかは不作を予兆しているみたいで不気味である。貧しい農民が祭りとはいえわざわざ買って食べる余裕などあるのだろうか。この詩には何か別の意味が隠されているようにも思える。例えば,「さくさくさくと切りにけり」には征夷大将軍の坂上田村麻呂や源頼朝の軍勢を「東北」の先住民たちが小気味よく「さくさく切り倒す」という意味が含まれているのかもしれない。丹内山神社の谷内権現は元々地元の土地の守護神を祀っていたものである。ちなみに,坂上田村麻呂は「コンニャク」と同様に,大陸から渡来してきたもので,渡来人である阿知使主(あちのおみ)の子孫である。「先住民」が「こんにゃく」に侵略者の田室麻呂を重ねても不思議ではない。東北の「先住民」の中には律令国家との戦いで北上山地の奥へ追いやられた者も少なくないと思われる。

 

また,文語詩「祭日〔一〕」の下書稿(一)の初期形態には「谷権現の祭り日を/そら青々と晴れたれば/煮物をなして販りなんと/青き稲田をせなに負ひ/水路のへりにかゞまりて/ひとひら鈍き灰いろの/こんにやくをさくと切りにけり  モッペをうがち児を負ひて/青きパラソルかざしつゝ/祭りに急ぐ農婦あり/はじめに店をうちのぞき/歪める梨と菓子とを見/次に切らるゝこんにやくを/やゝながしめにうちまもり/その故なにかわからねども/うらむがごときまなこして去る」とある。

 

この詩は,前半が「こんにやく」を売る側で,後半が買う側の内容になっている。買う側は「青きパラソルをかざしつゝ」とあるので北上山地というよりは北上平野側のある程度裕福な農婦と思われる。この農婦は「切らるゝこんにやくを・・・その故なにかわからねども/うらむがごときまなこして去る」とある。売り手側は気持ちよく切っているのに,買い手側は「うらむがごときまなこして」その場を去ってしまう。研究者によっては,「うらむ」を「羨ましい」と解釈しているが,私は「うらむ」は「恨む」と思っている。なぜ「うらむ(恨む)」かの理由は賢治にもわからないとしているが,この農婦は「こんにやく」が切られることで「恨む」までに不快になっている。この場合,買い手が朝廷側に関係する開拓民の末裔で,売り手が朝廷との戦いで敗れ北上山地に追いやられた先住民の末裔とすれば納得できるものがある。後半部分は定稿である「祭日〔一〕」ではカットされている。 

 

〈土神〉は南部北上山地西縁にある祖神を祀る「丹内権現」と毘沙門天に踏まれる「天邪鬼」を合体したものであろう。また,5月9日に行われる〈土神〉の祭は,賢治が5月の「昆沙門まつり」と9月の「谷権現まつり」を合成して創作したものと思われる。

 

参考文献

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