宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

寓話『土神ときつね』に登場する土神とはどんな神なのか (第6稿)-祭られなくなったが先住民の心の中には存在し続けている-

〈土神〉は,「人間どもは不届きだ。近頃はわしの祭りにも供物一つ持って来ん」と嘆いている。なぜ土着の神である〈土神〉が祭られなくなったのだろうか。「祭り」が南部北上山地西縁の東和にある三熊野神社内の成島毘沙門堂(毘沙門天)や不動谷内権現を祀っていた丹内山神社に関するものなら,その理由は両寺院の創建の目的や歴史に隠されている。

 

9.成島毘沙門堂と谷内権現の創建目的と歴史

北上山地に点在する北成島のものを含む毘沙門堂と谷内権現は,歴史的には平安時代に,従来の国家的な仏教とは異なる新しい仏教が志向され,天台宗や真言宗が興り,「密教」が盛んになった頃に創建されたものである(西川,1999)。山林にこもって修行する僧たちによって神仏習合が広範囲に浸透し平安仏教の母体になっていった。特に,天台宗の始祖である最澄は桓武天皇から篤い庇護を受けていた。

 

神仏習合とは,神は仏教を守る護法神であるとする考え,または神は仏が衆生救済のために姿を変えて現れたとする考え(本地垂迹説 ほんちすいじゃくせつ)を言う。

 

花巻市東和町北成島の三熊野神社には記紀神話の伊弉冉尊と一緒に熊野権現が祀られ,そして同敷地内の毘沙門堂には仏教を守護する兜跋毘沙門天(天台系)が祀られている。また東和町谷内の丹内山神社では土地の開拓の祖神・多邇知比古神(あるいは巨石)を垂迹神として本地仏・不動明王(谷内権現:真言系?)が祀られている。

 

北上地方の毘沙門天像の多くは,この地方一帯に勢力を誇った天台宗極楽寺の活動とされている。808年に北上(旧江刺郡)の国見山頂付近にある極楽寺(廃寺)には,毘沙門堂が田室麻呂によって建立され,百体の毘沙門天像と四天王像,さらには成島のものよりも大きな兜跋昆沙門天像が収められたという(西川,1999)。現在,これら仏像は一体も残されていない。しかし,極楽寺の北谷を守る一施設としての立花毘沙門堂は現在も残されている。

 

天台勢力が東北進出していったのは元慶年間(877~885)で この時期に合わせて昆沙門天像が造られていった。9世紀後半には極楽寺(廃寺)は国家公認の定額寺になり,天台勢力は10世紀前半までには東北の北端にまで及んだとされる(西川,1999;堀,2016)。ちなみに,最北端である一戸の西方寺毘沙門堂も天台系らしい。

 

極楽寺(廃寺)の毘沙門天の像造の目的は三十八年戦争(774年~811年)終末頃ということもあって,蝦夷対策の最前線基地であった胆沢城の北方を守護したり,怨霊を退散させたりという意味が含まれていたのかもしれない。しかし現在残されていて,また賢治の詩にも登場する昆沙門天像の多くは三十八年戦争が終了してから半世紀あるいは1世紀以上経過したのちに像造されたものと考えられるので,単に北方守護や「蝦夷」の怨霊退散のためとは考えにくい。三十八年戦争後,胆沢の北に位置する北上平野の「先住民」が大和朝廷軍と戦ったという痕跡は見当たらない。

 

西川(1999)は,「東北」に現存する昆沙門天像は北方の「蝦夷」対策だけでは説明できず,「極楽寺勢力が10世紀以降の布教活動や地域社会の形成を充実させるために,田室麻呂伝説に仮託した昆沙門天像の像造を選択したと」している。田室麻呂伝説とは,田室麻呂が昆沙門天の生まれ変わりであるとされたり,蝦夷を退散せしめるために昆沙門天が降臨し田室麻呂に力を貸したとされたりしているものである。すなわち,昆沙門天像は律令国家(桓武天皇)による軍事的征服に加えて田室麻呂伝説に基づく宗教的征服の企ての一環で像造されていたと考えている。また,米地ら(2013)は南部北上山地西縁に現存する毘沙門堂列は北方ではなく,東方の北上山地にいる閉伊などの蝦夷圏との結界を意味しているのだという。すなわち,東方に残存するまつろわぬ「蝦夷」に対する守りの意味合いが強いという。いずれにせよ,昆沙門天像の像造の主たる目的は北方あるいは東方の外敵である「蝦夷」からの守りと布教活動と思われる。

 

「蝦夷」に対する脅威がなくなり,天台宗・真言宗の密教仏教が衰退してからも,「東北」には曹洞宗,浄土真宗,日蓮宗などの新しい仏教が入ってきた。江戸時代に京都から移住してきた宮沢一族である賢治の父もまた浄土真宗を信仰している。さらに,明治,大正時代には西洋文化やキリスト教などの異国の宗教も入ってきた。「東北」の先住民たちは,これらの宗教や異文化に触れ,徐々にではあるが自分たちの土着の信仰や文化を忘れていったように思える。

 

10.〈土神〉が祭られなくなった理由

「東北」の蝦夷社会において,「先住民」の信仰(土着の信仰)や文化が南から伝わってきた宗教や文化によって変換されてしまったことを裏付ける証拠は見当たらない。しかし,「蝦夷」と同じ言語を使っているアイヌ民族に関して興味ある調査結果が出ている。昭和5年(1930)年頃の北海道の純粋なアイヌ人の宗教を調べた調査報告書によると,調査した戸数を3,417戸(人口15,266人)として,明治以前では「アイヌ」は殆どが「アイヌ」固有の信仰である自然信仰(調査では自然宗教と記載されている)であったが,明治政府の「同化政策」によって自然信仰の戸数は1,684戸に減り,既成宗教の仏教は1,189戸,神道は355戸そしてキリスト教は189戸になったという(北海道アイヌ協会,1972)。

 

ここで注目すべきことは北海道の「アイヌ」の半数が調査上では自然信仰から離れた生活をしているということである。すなわち,「アイヌ」は明治維新後の「同化政策」あるいは日本や西洋の宗教あるいは文化と接触後に,短期間で自らの信仰を捨ててしまっている。これは,「東北」の「蝦夷」のような「先住民」にも言えるのではないだろうか。アイヌ民族ほど急激ではないが,日本や西洋の宗教あるいは文化と接し,長い時間を掛けて徐々に自らの信仰や文化を捨てていったものと思われる。

 

寓話『土神ときつね』でも「東北」の先住民たちが西洋の文化に憧れている様子が間接的に描かれている。「一本木の野原」にいる「先住民」の女性が投影されていると思われる〈樺の木〉は,ぼろな服を着ている〈土神〉よりも南の方からハイネの詩集を持ち,大正ロマンを感じさせるハイカラな「仕立ておろしの紺の背広を着,赤革の靴」を履いている〈狐〉の方に心が引かれるのである。この場面で〈狐〉が身につけているのは賢治も持っていた。賢治は大正12年(1923)7月31日から8月12日まで樺太旅行をしている。この時のスタイルは,「パナマハットに白の麻の上下の背広,白と黒のチャックのネクタイ,それに赤革の靴に黒革の鞄」(下線は引用者,以下同じ)だったという(板谷,1992)。

 

11.土神は先住民の心の中には存在し続けている

しかし,「東北」の「先住民」の中には,賢治が生きていた頃でも自然信仰を大切に守っている人や無意識の中にこの信仰を残している人たちもいたと思われる。賢治はこの人たちを恐れている。

 

賢治は,花巻農学校で1924年8月10日と11日の2夜にわたり生徒らによる劇『種山ヶ原の夜』を上演,公開している。賢治は集まった聴衆に喜んでもらえることを期待したようだが,上演したことにはげしく後悔することになった。劇上演2か月後の詩〔夜の湿気と風がさびしくいりまじり〕(1924.10.5)には,「夜の湿気と風がさびしくいりまじり/松ややなぎの林はくろく/そらには暗い業の花びらがいっぱいで/わたくしは神々の名を録したことから/はげしく寒くふるえてゐる」とある。この詩の「神々の名を録したこと」とは,劇の台本に楢樹霊,樺樹霊,柏樹霊,雷神,権現,庚申など沢山の土着の神々を記録したことだが,この詩の下書稿には「山地の〔神〕(?)を舞台の上に/うつしたために」と記載したこともあることから,神々の本来の坐す場所を移動させて農学校の舞台で生徒に演じさせたことも考えられる(浜垣,2006)。

 

賢治がはげしく後悔したのは,神々の名前を録し,場所を移動させたことで神々から怒りを買ったからである(あるいはそのように信じた)。また,土着の神々を滑稽に,あるいは笑いの対象としたことも関係があると思われる。実際に,学校劇で雷神を演じた生徒が翌日に他の生徒のスパイクで負傷したとある。もしかしたら,〈土神〉でもある「権現さん」を笑いものにした楢樹霊や樺樹霊を演じた生徒らも何かしらの災難を被っていたのかもしれない。賢治はこの事故を偶然の出来事とは思っていない。なぜなら,この事故あるいは劇を上演したことの後悔には浜垣(2014)も指摘しているように伏線がある。

 

賢治は詩〔夜の湿気と風がさびしくいりまじり〕を書いたと思われる日に地元の会合に招かれて農事講話をしたとされていて,そのときの様子を詩集『春と修羅 第二集』の「三一三 産業組合青年会」(1924.10.5)という詩に記載している。この詩には「祀られざるも神には神の身土があると/あざけるやうなうつろな声で/さう云ったのはいったい誰だ・・・祭祀の有無を是非するならば/卑賤の神のその名にさへもふさはぬと/応へたものはいったい何だ・・・山地の肩をひととこ砕いて/石灰岩末の幾千車かを/酸えた野原にそゝいだり/ゴムから靴を鋳たりもしやう……くろく沈んだ並木のはてで/見えるともない遠くの町が/ぼんやり赤い火照りをあげる……しかもこれら熱誠有為な村々の処士会同の夜半/祀られざるも神には神の身土があると/老いて呟くそれは誰だ」とある。

 

賢治は,この会合で「山地の稜をひととこ砕き」,「石灰岩末の幾千車か」を得て酸性土壌を改良するという話をしたようだが,聴衆の中の老いた権威者(組合のリーダー格)から調子に乗るなと言わんばかりに「あざけるやうなうつろな声で」,「祀られざるも神には神の身土がある」と批判されてしまうのである。賢治は,神の中にも「卑賤の神のその名にさへもふさはぬ」神もあると言って反論するが,それ以上の反駁はできなかった。

 

「祀られざるも神には神の身土がある」の意味は,「祠」で祀られていないなど,祭司されていない山や土や樹木にも,神としての身体と坐(いま)す場所があるということであろう。農事講話を聞いていた聴衆には学校劇を見たと思われる者もいたと思われる。賢治の農業を発展させるための大規模な自然開発に関する講和や土地に坐す神々を舞台に移し笑いの対象にすることは,農民の古くからの慣習を損なうだけでなく「神の領域への侵犯」であり,「先住民」あるいは「先住民」の信仰する土着の神を冒涜するものと同じだったのかもしれない。また,その土着の神が卑賤の神であったとしても同じである。アイヌ民族も神が座す場所では,たとえその神が卑賤の神(魔神)であろうと,神の悪口などは言わないし,悪戯などもしないという。また,獲物も必要な数しか取らない。悪口を言ったり,必要な数以上を取ったりしたら神から罰せられると信じているからだという。

 

この老いて呟く者は,この土地のリーダー的な存在と思われるが〈土神〉の化身とも思える。現存草稿には,赤いインクで〈土神〉を「退職教授」,〈きつね〉を「貧なる青年」,〈樺の木〉を「村娘」とする書き込みがある。賢治にとってたちの悪い〈土神〉は人々に祭られなくなった存在に見えたが,賢治が生きた時代にも先住民たちの心の中には存在していた。「貧なる青年」の〈狐〉には賢治が,そして「村娘」の〈樺の木〉には賢治の恋人が投影されている。この寓話は,よそ者で不正直な〈狐〉がその土地の美しい〈樺の木〉に求愛する物語だが,〈樺の木〉を大切に思う〈土神〉によって〈狐〉が手荒い仕打ちを受けるということで終わる。

 

まとめ

1)寓話『土神ときつね』の〈土神〉は,「東北」の「一本木の野原」という土地を守護する神(地主神や産土の神)と思われる。ただ,単なる土地の神ではなく怨霊が取り憑いてタチの悪い神でもある。

2)〈土神〉は人間には見えないが〈狐〉や〈樺の木〉には見えていて,これら生き物と話すこともできる。また,接触もしていないのに人間をぐるぐる廻して飛ばしてしまう超能力も持っている。

3)主要な舞台は岩手山東側にある「一本木野」あたりである。しかし,この神の坐(いま」す「祠」は「一本木野」の南東にある花巻市東和町あたりと思われる。この場所は北上山地と北上平野の境(結界)にあたる。

4)「祠」の近くには「苔」,「からくさ」(シロツメクサ)などの植物が生えている。賢治にとってこれら植物は「靴で踏まれる」というイメージを持っているものである。この物語は「靴で踏まれる」というのが隠された重要なキーワードになっている。

5)〈土神〉のモデルは,北上山地(東和町)の丹内山神社内にある土着民が祀る「谷内権現」と北上平野の土着民(あるいは開拓民)が祀る毘沙門堂列の毘沙門天に沓で踏まれる「天邪鬼」の2つの神を合体したものであろう。「谷内権現」とは,この神社に祀られている土地の守護神・多邇知比古神(神体は巨石)を仮(権)の姿(垂迹神)とした本地仏・不動明王のことである。不動明王は大日如来の化身なので〈土神〉は太陽と関係する。〈土神〉は太陽が昇ると「祠」から出てくる。

6)丹内権現と毘沙門堂列は北上山地西縁で東と西に対峙するように並んでいる。また,インド神話に登場するクベーラ(仏教にとりこまれると毘沙門天)の眷属である「鬼神」である「薬叉」とも関係する。

7)賢治は,実際に〈土神〉と思われる「鬼神」の幻影(幻視,幻聴)を,北上山地では閉伊街道をトラックに乗っていたとき,わいわい言いながらトラックを揺すって谷底に落とそうとする「子鬼」の姿として,また北上平野では豊沢川近くのアイヌ塚で自分を威嚇する声と一緒に沼から覗く「アイヌ」の姿として見ている。また,幻影ではなく北上山地の神楽堂で舞われる権現舞で使われる獅子頭(権現様)の姿として見ている。

8)〈土神〉が住む沼地の「赤い鉄の渋」は沼鉄鉱のことで,土器などを赤く彩色するための顔料として使われたものと思われる。〈土神〉は赤い土器を作る民族の神であることが示唆されている。

9)北上山地には「蝦夷」と呼ばれ最後まで大和朝廷とそれに続く中央政権に抵抗し続けた先住民の末裔が多く,また北上平野には朝廷軍と勇猛に戦ったが服属した「蝦夷(俘囚)」や南からの開拓民(移住者)の末裔が多く住んでいたと思われる。北上平野の豊沢川近くのアイヌ塚(8世紀頃の蝦夷の墓のこと)からは赤い土器が多数出土している。

10)〈土神〉の祭は5月9日である。この日付は,賢治の創作で,5月に行われる毘沙門堂の祭りの「5」と9月に行われる丹内権現の祭りの「9」を用いている。

11)〈土神〉は北上山地の祖神を祭る丹内権現と毘沙門天に沓で踏まれる天邪鬼を合体したものなので,その土地で生まれた〈樺の木〉を大切にしたり,ミミズにもしものことがあれば身代わりになろうとしたりする優しい心を示す反面,猜疑心が強くあまのじゃくで南からきた〈狐〉や木樵などのよそ者(開拓民,移住者)には危害を加える凶暴さを併せ持つ。

12)〈土神〉が凶暴さを示すのは,大和朝廷とそれに続く歴代の中央政権との戦い(8世紀後半~9世紀初頭の三十八年戦争,奥州合戦など)に敗れた「東北」の先住民の怨霊が十分に鎮魂されずに放置されたため鬼神になってしまったからである。すなわち,「東北」の大地は大和朝廷とそれに続く歴代の中央政権によって長い間踏みにじられてきたのである。

13)〈土神〉は,賢治が生きていた時代には忘れられ祭られなくなってきたが,東北の「先住民」の深層意識の中で,よそ者に対する疑いと反感という形で存在し続けた。

14)この寓話は,南から来たよそ者で西洋の思考スタイルを自慢する〈狐〉が「一本木の野原」に生まれた美しい〈樺の木〉に求愛する物語であるが,〈樺の木〉を大切に思う〈土神〉が〈狐〉の履いていた赤靴が光ったのをきっかけに過去の踏みにじられた忌々しい記憶がよみがえり〈狐〉を殺してしまうということで終わる。〈狐〉には京都からの移住者の末裔である賢治が,〈樺の木〉には賢治の先住民の末裔である恋人が投影されている。

15)〈土神〉が最後に〈狐〉の「かくし」(ポケット)の中にあった「カモガヤ」を見て涙するのは,〈狐〉の赤靴と過去の忌々しい記憶を結びつけたことが「誤解」によるものであることに気づいたからである。「カモガヤ」の名の由来は英名の cock's-foot grass を訳すときに cock(ニワトリ)を duck(カモ)と「誤解」したからと言われている。賢治はこの物語で恋の破局が「誤解」によるものであることを訴えている。

 

参考文献

浜垣誠司.2006.1(掲載日).祀られざる神・名を録した神(1).https://ihatov.cc/blog/archives/2006/01/1_21.htm

浜垣誠司.2014.8(掲載日).宮澤賢治の詩の世界 「産業組合のトラウマ?」.http://www.ihatov.cc/blog/archives/2014/08/post_808.htm

堀 裕.2016.東北の神々と仏教.鈴木拓也(編).三十八年戦争と蝦夷政策の転換.吉川弘文館.

北海道アイヌ協会.1972.蝦夷の光 第二号.pp.174-175.谷川健一(編者).近代民衆の記録5-アイヌ.新人物往来社.

西川明子.1999.東北地方における毘沙門天像と田村麻呂伝説の関連について.筑波大学芸術学研究誌 16:21-42.

高橋堯昭.1996.樹神信仰の系譜-釈迦の風土・精神的基盤-.身延論叢 1:17-39.