宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

『歯車』の「銀色の翼」が幻視された時代的背景を同世代の賢治の手紙と作品から読み取る (2)

 

賢治は,「業の花びら」の出てくる詩「「三一四〔夜の湿気と風がさびしくいりまじり〕」(1924.10.5)を書いた翌年に「生徒諸君に寄せる」という詩を書いている。未完成の詩である。その詩の〔断章五〕には「 サキノハカ・・・・・来る/それは一つの送られた光線であり/決せられた南の風である」とあり,〔断章六〕には「新らしい時代のダーウヰンよ/更に東洋風静観のキャレンヂャーに載って/銀河系空間の外にも至って/更にも透明に深く正しい地史と/増訂された生物学をわれらに示せ」とあり,〔断章七〕には「新たな時代のマルクスよ/これらの盲目な衝動から動く世界を/素晴しく美しい構成に変へよ」とある(宮沢,1985)。

 

「サキノハカ」は以前に述べたこともあるように,「赤旗(せっき)のハンマーとカマ」つまり「共産主義」あるいは「科学的社会主義」のことである(石井,2023)。すなわち,〔断章五〕の詩句には「科学的社会主義が・・・・来る」,つまり「新しい時代が来る」と記載されている。賢治は堕落していく宗教をマルクスの科学的社会主義思想で救ってくれと言っているようにも思える。ちなみに,マルクスの唯物史観は自然科学者であるダーウインの進化論の影響を受けている。

 

また,賢治は「〔サキノハカといふ黒い花といっしょに〕」という詩も書いている。この詩には「サキノハカといふ黒い花といっしょに/革命がやがてやってくる/ブルジョアジーでもプロレタリアートでも/おほよそ卑怯な下等なやつらは/みんなひとりで日向へ出た蕈のやうに/潰れて流れるその日が来る」とある。この詩の「サキノハカといふ黒い花」は以前にも述べたが「科学的社会主義の幽霊」という意味である(石井,2023)。これは,マルクスとエンゲルスの『共産党宣言』(1848)冒頭の有名な1文「Ein Gespenst geht um in Europa - das Gespenst des Kommunismus.」(幽霊がヨーロッパを徘徊している-共産主義という幽霊が)を捩ったものである。芥川の『或阿呆の一生』に出てくる「シルクハットをかぶった天使」(天使の姿をしたマルクスの亡霊)あるいは「世紀末の悪鬼」はこの共産主義の生みの親の幽霊である。

 

1920年代は,浜垣の言説以外に,労働運動,社会運動の発生,マルクス主義の輸入などの潮流があった。つまり,賢治が言うように,科学的社会主義思想がやってきた時代ということである。科学的社会主義という幽霊が,シルクハットをかぶった天使が,あるいは世紀末の悪鬼が日本を徘徊していたのである。そして,当時の知識人たちもそうであったように,賢治や芥川に取り憑いてしまった。

 

マルクス(1818~1883)はプロイセン王国時代の宗教を否定するドイツの哲学者・経済学者・革命家である。マルクスはキリスト教信仰の在り方を徹底的に批判している『キリスト教の本質』(1841年)を著したドイツの哲学者フォイエルバッハ(1804~1872)の影響を受けた人でもある。フォイエルバッハは「人間は個人としては有限で無力だが,類としては無限で万能である。神という概念は類としての人間を人間自らが人間の外へ置いた物に過ぎない」「つまり神とは人間である」(Wikipedia)と言った。

 

マルクスは「宗教は民衆の阿片である」というあの有名な言葉のある『ヘーゲル法哲学批判序説』にも「反宗教批判の根本は,人間が宗教をつくるのであって,宗教が人間をつくるのではない」と記している。「人間が宗教をつくる」は「人間が神をつくる」と同義である。フォイエルバッハの宗教に対する考え方が芥川に影響を及ぼしていた可能性もある。芥川の親友である恒藤恭は1923年から1927年の間にフォイエルバッハの著書3冊の翻訳をしている(松田,2023)。芥川は恒藤からこの論文を見せて貰っている可能性もあるからだ。実際,芥川もキリスト教を軽んじ,『西方の人』では「クルスト」は「神の子」ではなく「人の子」であると語っている。

 

日本のマルクス主義を研究あるいは信奉する知識人たち(以下便宜的にマルクス主義者)も,宗教が富を搾取する存在として,マルクス主義に依拠し実践的な宗教批判をする運動を展開した。ただ,日本のマルクス主義たちの批判はキリスト教ではなく,仏教とりわけ最大宗派の真宗(本願寺派)に向けられた。理由はマルクス主義者の反発を買うような真宗の独自の集金手段によるとされている(宮部,2018)。宮部によれば「土地領有が経済的基盤であった他の仏教諸派とは異なり,真宗寺院の経済的基盤は,信者の献金に依拠していた。また,真宗教団は,信者を直接,本山である東西両本願寺に結びつける組織ネットワーク,いわゆる「講」とよばれる全国ネットワークを手段として,直接献金を行なうことができた」という。また,真宗教団が歴史的に被差別部落に多くの門徒を含んでいたことも挙げられるとした。日蓮を信奉する賢治も,1920年代浄土真宗を信仰の対象にする父・政次郎と激しく対立した。

 

マルクス主義者による宗教批判は1920年代半ば頃から始まり1930年をピークとし1934年ごろまで続く(宮部,2018)。例えば,彼等は普通選挙における仏教教団の政界進出に対して,1926年2月19日宗教新聞である『中外日報』に「仏教は我国に於けるほとんど唯一の宗教であって,支配階級の手厚い庇護の下に被支配階級にその非人間的生存に対する「あきらめ」を説き,資本家地主に対する反抗心を麻痺させるだけでなく,更に資本家地主と労働者農民と階級調和,支配階級に対する忠誠を説教している・・・・寺院とはブルジョアを支持しプロレタリアを永久に奴隷化せんとする一定の政治的目的を持つブルジョア的教化の学校である。」と記している。

 

仏教教団の政界進出は当時盛んに行なわれていたようだ。明治23(1890)の第1回帝国議会衆議院選挙でも真宗本願寺派から還俗議員が5人誕生している。そのうちの1人は,以後8回当選を繰り返し,1914年の本願寺疑獄事件が表面化したときは,本山改革に関する請願書を衆議院議員有志38名と本願寺門徒の連印を得て法主・大谷光瑞に提出している(辻岡,2010)。

 

1926年の前記『中外日報』の記事では,仏教教団は「ブルジョア的」なもので,被支配階級に対して支配階級への忠誠を誓わせる「ブルジョア的教化の学校」として見做されている。つまり,教団は宗教という阿片を民衆に売って富を得ていると考えられている。賢治も『農民芸術の興隆』で「見えざる影に嚇(おど)された宗教家 真宗」,「偽の語をかぎつけよ 大谷光瑞云ふ 自ら称して思想家なりといふ 人たれか思想を有せざるものあらんや」(下線は引用者)と激しく宗教家や真宗を攻撃している。「見えざる影」とはマルクス主義者であろう。マルクス主義は「科学的社会主義」とも言う。つまり,科学が宗教を脅かしているのである。

 

例えば,賢治が名指しで批判した大谷光瑞(1876~1948)は明治36年(1903)に西本願寺派の22代法主になるが大谷家が抱えていた巨額の負債整理,および教団の疑獄事件のため1914年に辞任している。浄土真宗本願寺派は明治大正期には年間予算が六大都市の1つであった京都市のそれを超えるほどであったという。宗教家で賢治研究家でもある上田哲(1978)によれば「この教団は広く深く善良無学な一般庶民の中に根を張り下ろし,貧者の一灯を掻き集め膨大な財力を蓄積した。このような財産の使途,運用にもかなり問題があった。教団幹部らは必要以上の報酬を取り豪華な生活を送っていた。」とある。これはWikipediaにも記載れているが,光瑞は六甲山麓の総面積24万6000坪を数える広大な土地を階段状に削り,下段に私塾,中断にインドのタージマハルを模した本館・二楽荘,そして頂上に白亜殿,測候所,図書館を建築している。さらに,それぞれの館はケーブルカーで繋がれていた。

 

大谷光瑞は真宗でも西本願寺派であるが,東本願寺23代法主大谷光演(1875~1943)も宗教家らしくない行いをしている。1925年に光演は朝鮮半島の鉱山事業が失敗して法主の座を退いている。

 

1930年頃の段階で,仏教界とりわけ真宗にとってマルクス主義者らの反宗教運動は脅威であり,反宗教運動に対する調査機関が設置され,全国宗教擁護同盟を組織するなどの対抗する動きが出てきた。1930年には宗教学者とマルクス主義者たちが集まって1月に「マルキシズムと仏教」,3月に「仏教とマルクス主義」と題して論争が行なわれた。その様子は『中外日報』に掲載されている(林,2007,2008)。『中外日報』は父・政次郎が購読しているので賢治も読んだと思われる。 

 

マルクス主義者と宗教学者の論争で注目したいのは,1)宗教と科学は共存できるか,2)宗教は永遠か,それとも滅びるか,3)仏教の腐敗についてである。1)に関して,三木清のように共存できると考える学者もいたが,宗教学者とマルクス主義者の間の溝が埋まることはなかった。2)に関して,マルクス主義者は,いずれ革命は迫っており,宗教は消滅すると信じており,宗教学者は,たとえ現存する教団的な宗教が衰退しようが,宗教的なものは残るということを信じていた。賢治にとっても1)の「宗教と科学が共存できるか」は重要なテーマであった。大正15年(1926)までに執筆したとされる童話『銀河鉄道の夜』(第三次稿)でブルカニロ博士を介して「実験でちゃんとほんたうの考とうその考とを分けてしまへばその実験の方法さへきまればもう信仰も化学と同じやうになる」と言っていた。3)に関して,マルクス主義者たちは仏教の腐敗を農民や労働者に論理だって説明できると主張していたが,宗教学者たちは,矢吹慶輝の「仏教が腐敗しているばかりでなく社会も腐敗している」と答えることしかできなかった。

 

1920年代から1930年代前半にかけて,仏教界に限らず文学の世界でもマルクス主義の波が押し寄せていた。プロレタリア文学運動が,古い既成文学の批判に向かった。当然,芥川自身もその批判を受けることになった。芥川は『プロレタリア文学論』(1924)で「私は一般にブルジョア作家と目されている」と記載している。ただ,プロレタリア文学運動は30年後半以降にはマルクス主義者らの大量検挙などもあって勢いが衰えてくる。賢治がブルジョア作家と目されていたかどうかは定かではない。むしろ,賢治は農学校を退職後の1926年に農業指導や文化活動を行なう羅須地人協会を設立し,1927年頃は労農党の熱心なシンパであり活動の支援もしていた。

 

つまり,賢治が「業の花びら」の出てくる詩「「三一四〔夜の湿気と風がさびしくいりまじり〕」(1924.10.5)を,あるいは芥川が『歯車』(1927.3.23~1927.4.7)をそれぞれ執筆していた頃の日本は,宗教が軽んじられ科学が人々の信仰の対象に成りつつある時代,思想的には科学的社会主義(マルクス主義)が台頭してきた時代であった。別の言葉で言い換えれば科学があればなんでも可能になると信じられた時代ということである。

 

賢治はそういう時代を背景にして,『漢和対照妙法蓮華経』と『化学本論』から得られた「知識」に「直感力」が加われば〈菩薩〉になれるという「慢心」を起し,恋人を軽んじ,法華経が否定する「先住民」の信仰する土着の神々を調子に乗って舞台に移したり,あるいは会合の農業講話で神の座す山地から科学技術を駆使して石灰岩を採掘したりする話をしてしまったのであろう。そして,神罰を受けるとともに暗い「業の花びら」を幻視した。

 

芥川もまたそのような時代を背景にして自分の卓越した速読力による知識に「慢心」を起し,神の存在よりも人間の「理性」や「知識」を信じ,キリスト教の神を冒涜してしまった。そして,神罰を受けるとともに『歯車』の主人公に「銀の翼」を幻視させた。あるいは自らも「銀の翼」を見たのかも知れない。

 

吉本隆明(1963)は芥川の死を純然たる文学的な死であると主張していたが,私は芥川の死にも賢治の言うところの「今日の時代一般の大きな病,「慢」といふもの」が少なからず関与していていたのだと思っている。また,芥川が死を急いだのは,このままだと母と同じように自分も発狂するのではないかと考えたからだと思われる。(了)

 

参考・引用文献

林 淳.2007.一九三○年,マルクス主義者と宗教学者の論争.愛知学院大学人間文化研究所紀要.21:1-14.

林 淳.2008.「座談会・仏教とマルクス主義」 : 一九三〇年の『中外日報』.東京大学宗教学年報.巻 25:145-183.

石井竹夫.2023.賢治作品に登場する謎の植物-サキノハカとクラレの花-.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/07/10/104952

松田義男.2023.恒藤恭著作目録.https://ymatsuda.kill.jp/Tsuneto-mokuroku.pdf

宮部 峻.2018.「宗教」と「反宗教」の近代- 1920-30年代におけるマルクス主義の宗教批判と真宗大谷派教団の応答-.ソシオロゴス.42:1-16.

宮沢賢治.1985.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.

辻岡健志.2010.僧侶から政治家へ-金尾稜厳の洋行・政界進出・議会活動-.本願寺資料研究所報.39号.

上田 哲.1978.宮沢賢治 その理想世界への道程.明治書院.

吉本隆明.1963.芸術的抵抗と挫折.未来社.