5.詩集『春と修羅 第一集』を出版して理念と命題の正しさを世に問うたが成功しなかった。
賢治は恋愛から宗教情操へ戻ることが正しいという自分の考えを第三者から支持してもらおうとしたと思われる。その一つの手段が「小岩井農場」(パート九)のある著書の出版である。つまり,賢治は詩集『春と修羅 第一集』の出版(1924.4.20)を通して,詩の出来映えを評価してもらうだけでなく恋愛から宗教情操へ戻る妥当性を他人,とくに宗教家に問うことにしたと思われる。これは恋人との別れを正当化するものにほかならない。つまり,賢治は恋人との別れには必然性があったとしたかったと思われる。「瓔珞をつけた素足の子」を感じ,あるいは「白い大きな手」を幻視し慢心になった賢治は詩集『春と修羅』が多くの人たちに受け入れられなくても,宗教家や知識人からの支持は得られるもの思った。あるいはそう信じようとしたと思われる。賢治は大正13年(1924)1月20日に「序」を書き,「この序文は相当自信がある。後で識者に見られても恥ずかしいものではない」と上機嫌で弟たちに読んできかせたという(堀尾,1991)。贈呈した人の記録が残っていないので,どのような宗教家に贈ったのかは定かでない。
この「序」には「これらは二十二箇月の/過去とかんずる方角から/紙と鉱質インクをつらね/(すべてわたくしと明滅し/みんなが同時に感ずるもの)/ここまでたもちつゞけられた/かげとひかりのひとくさりづつ/そのとほりの心象スケツチです」と記されている。「二十二箇月の/過去とかんずる方角から」とは恋愛から宗教情操に戻ると決意した日を1924年1月20日とすれば,この日から22か月前の詩「恋と病熱」(1922.3.20)「けふはぼくのたましひは疾み/烏さへ正視ができない・・・」を書いた日からという意味である。つまり『春と修羅 第一集』には恋に落ちてから1年後に恋を諦め,再び「みんなの幸い」を願うことを決意した日までのことが書かれている。そして,それが正しいことだったかどうかが問われている。
しかし,結果は賢治の予想とはかけ離れたものになった。
詩集を出版して10か月後,大正14年(1925)2月9日の森佐一宛書簡(200)には「私はあの無謀な「春と修羅」に於て,序文の考を主張し,歴史や宗教の位置を全く変換しやうと企画し,それを基骨としたさまざまの生活を発表して,誰かに見て貰ひたいと,愚かにも考へたのです。あの篇々がいゝも悪いもあったものではないのです。私はあれを宗教家やいろいろの人たちに贈りました。その人たちはどこも見てくれませんでした。「春と修養」をありがとうといふ葉書も来てゐます。・・・・辻潤氏,尾山氏,佐藤惣之助氏らが批評して呉れましたが,私はまだ挨拶も礼状も書けないほど,恐れ入ってゐます。私はとても文芸だなんといふことはできません。・・・」(宮沢,1985)と記されている。この書簡でも解るように贈った先を「宗教家やいろいろな人たち・・・」としているように宗教家を重視している。
つまり,賢治は『春と修羅 第一集』で,これまでの歴史書や宗教書に書かれてあることとは全く異なることを主張したが,辻氏,尾山氏,佐藤氏ら一部の文学者に詩の出来具合を褒めてもらえたものの,宗教家たちには自分の宗教に対する考え方をまったく評価されなかったと嘆いているのである。また,書店などに出されたものもほとんど売れなかったという。堀尾青史(1991)は自著で「『春と修羅』は,我が国の詩史の中でも,最もユニイクな立場を主張する優れたものであるが,このときは著者からどんどん寄贈され,100部も売れたかどうかわからない。贈られたある女学校の先生は折しも気候が春であったから,「時節柄,春と修養をありがたう」と礼状をよこしたほどで,どれだけの人が正しく認識しえたか疑問だ」と記している。
『春と修羅 第一集』が宗教家に賛同されなかったということは,「歴史や宗教の位置を全く変換しやうと企画したもの」が空論だった可能性があり,恋人との別れに正当性を持たせることができなくなったことを意味する。賢治はかなり動揺したと思われる。
詩「業の花びら」(1924.10.5)に「ああ誰か来てわたくしに云へ/億の巨匠が並んで生れ/しかも互ひに相犯さない/明るい世界はかならず来ると」とあるが,『春と修羅 第一集』が認められなかったことに対する賢治の嘆きであろう。賢治の「歴史や宗教の位置を全く変換しやうと企画したもの」を理解できる天才が億人も同時に生まれてくるなどは普通に考えにくい。詩「業の花びら」は文語詩「敗れし少年の歌へる」の基になった詩「暁穹への嫉妬」と関連深い詩でもある(木村,1994)。詩「暁穹の嫉妬」は三陸旅行で詠んだものである。
これは憶測だが,私は『春と修羅 第一集』出版の失敗で賢治がとった行動の1つが元恋人に謝罪するための三陸旅行だったと思っている(石井,2024a)。そして,三陸旅行後の賢治の信仰と生活に対する態度は一変してしまう。
詩「小岩井農場」が収録されている詩集『春と修羅 第一集』と三陸旅行のときの詩を含む『春と修羅 第二集』では信仰と生活に対する賢治の態度が逆転している。吉本隆明(2012)は「第一集は仏教世界観を感覚的につかまえなおして,人間を含めて,すべての存在は,ただの現象として光と影を他者に放射しているだけだが,第二集ではこの仏教的世界観は失われてしまい,生活の影が色濃く滲透している。第二集は第一集に比べて,空想が遠くまで行けなくなっている。宮沢賢治の青春は終わったとか,仏教の世界観の中に自分を入れ込むことができなくなって,いわば生活現実に目覚めさせられたといえる。第三集ではさらに生活の影が色濃くなっている。また,畑仕事や肥料設計をしていることで逆に農民から反感や嫉妬を受けることがあることも承知していて,それらに対してどのように対応すべきかどうかということも詩のテーマにするようになった。」と述べている。
賢治が死の直前に教え子である柳原昌悦へだした手紙(1933.9.11)には,「私のかういふ惨めな失敗はたゞもう今日の時代一般の巨きな病,「慢」といふものの一支流に過って身を加へたことに原因します。・・・空想をのみ生活して却って完全な現在の生活をば味ふこともせず,幾年かゞ空しく過ぎて漸く自分の築いてゐた蜃気楼の消えるのを見ては,たゞもう人を怒り世間を憤り従って師友を失ひ憂悶病を得るといったやうな順序です・・・」(宮沢,1985)と記載されている。「慢」に陥ったのは農学校時代の後半である。つまり,『春と修羅 第一集』を出版したころであり,賢治は晩年人生の「春」とも言える活力みなぎる時期を「空想をのみ生活」することによって「修羅」にしてしまったことに後悔している。恋人にとって賢治の「空想」はどのように見えていたのであろうか。五輪真弓(いつわまゆみ)の歌(※)にある「・・・宵の流れ星/光っては消える 無情の夢よ・・・」だったのであろうか。
父・政次郎は,農学校時代の賢治の空想のみで邁進している姿を心配し,「賢治,お前の生活はただ理想をいってばかりのものだ。宙に浮かんで足が地に着いておらないではないか。ここは娑婆だから,お前のようなそんなきれい事ばかりで済むものではない。それ相応に汚い浮世と妥協して,足を地に着けて進まなくてはならないのではないだろうか」と教えたり,頼んだりしていたという。しかし,賢治は「はあ」と返事をするぐらいで全く意に返さなかったという(佐藤,1994)。
賢治の悲劇は青春期になっても「みんなの幸い」を願う母イチの子守歌の呪縛から逃れられなかったことである。
本稿の目的は賢治が恋愛中になぜ「みんなの幸い」を優先させたのかを,そして破局後になぜそれを止めようとしたのかを詩「小岩井農場」詩(パート九)などを読み説くことで明らかにすることであった。検討した結果を,ただあくまでも私の妄想にすぎないが以下に要約する。
賢治が恋愛中にもかかわらず「みんなの幸い」を優先できたのは自分の性格も考慮する必要があると思われるが,自分と伴歩・伴走する観世音菩薩の存在を感じることができたこと,あるいは実際にその菩薩を幻視し,その菩薩の声を幻聴できたことで法華経信仰に自身がもてるようになったことによると思われる。また観世音菩薩を感じることができた賢治に慢心が生じ,自分も『漢和対照妙法蓮華経』と『化学本論』から得られた「知識」に「直感力」が加われば菩薩になれると思ったからかもしれない。「法華経」は菩薩になるために修行する者のための経典であり,その「法華経」には修行者は女性に近づいてはいけないと記載されている。菩薩になれると思った賢治には恋人が修行を妨害するものに感じるようになったのかもしれない。そして,「万象」はすべて光っては消える現象にすぎないとか,恋愛から宗教情操にもどるのは正しいことであるとかの新しい考えを創出するにいたった。
しかし,賢治は自分が創出した新しい考えが正しいものであるという確信が持てなかった。そこで,新しい宗教観や恋愛から宗教情操への遷移は正しいという賢治独自の考えを含む『春と修羅 第一集』を出版して第三者にその正しさを検証してもらうことにした。しかし,詩集はほとんど売れず,宗教家からの反響もまったくなかった。自分の信仰に対する考えが世間,とくに宗教家に受け入れてもらえないことを知った賢治は,「みんなの幸い」を優先して生きていくことは「空想」にすぎなかったのではないかと疑うようになった。賢治は,「みんなの幸い」を優先したことが恋人との決別の主たる原因でもあることから,三陸で恋人に謝罪するとともに,今後は足を地にしっかりと着け現実生活の中で「みんなの幸い」と「個人の幸い」を優劣つけずに生きて行こうと決意した。と思われる。
実際に『春と修羅 第二集』に収められた「暁穹の嫉妬」や童話『銀河鉄道の夜』では「みんなの幸い」を優先しなくなっている(石井,2,024b)。
参考・引用文献
堀尾青史.1991.年譜宮澤賢治伝.中央公論社.
石井竹夫.2024a.文語詩「敗れし少年の歌へる」考 -賢治は三陸で恋人に向かって謝罪したのか(試論)-.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2024/05/06/100443
石井竹夫.2024b.詩「暁穹への嫉妬」に登場するハイビャクシンには賢治の恋人が重ねられている.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2024/05/05/094032
木村東吉.1994.旅の果てに見るものは : 《春と修羅 第二集》三陸旅行詩群考.国文学攷.144:19-32.
宮沢賢治.1985.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.
森荘已池.1983.宮沢賢治の肖像.津軽書房.
佐藤隆房.1994.宮沢賢治-素顔のわが友-.桜地人館.
吉本隆明.2012.宮沢賢治の世界.筑摩書房.
※五輪真弓の作詞・作曲した「恋人よ」(1980)の後半は「恋人よ さようなら/季節はめぐってくるけど/あの日の二人 宵の流れ星/光っては消える 無情の夢よ/恋人よ そばにいて/こごえる私のそばにいてよ/そしてひとこと この別れ話が/冗談だよと 笑ってほしい」というものである。
Sony music(Japan).2021.五輪真弓「恋人よ」.https://www.youtube.com/watch?v=qhsEV3SAT4w