宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

詩「暁穹への嫉妬」に登場するハイビャクシンには賢治の恋人が重ねられている

 

前稿で賢治が詩「暁穹への嫉妬」(1925.1.6)を創作するときに「ハイビャクシン」に似た「ハマハイビャクシン」を見たということを述べた(石井,2024a)。しかし,「ハイビャクシン」にせよ,あるいは「ハマハイビャクシン」だったにせよ,なぜこのような地味で目立たない,名の知られていない植物を詩に入れなければならなかったのか疑問も生じていた。三陸海岸には当時アカマツ,クロマツ,タブノキなどたくさんの樹木があったはずである。賢治の好きなスギの林だってあったであろう。賢治は詩や童話を沢山書いたが「ビャクシン」と名が付く植物が登場するのは私が調べた限りでは文語詩「敗れし少年の歌へる」と詩「暁穹への嫉妬」の中だけである。本稿では,賢治がなぜ詩「暁穹への嫉妬」に「ハイビャクシン」という名の植物を入れたのかと,なぜ旅行が三陸海岸でなければならなかったのかを考察する。

 

ちなみに,詩「暁穹への嫉妬」(1925.1.6)の後半部は「ぼくがあいつを恋するために/このうつくしいあけぞらを/変な顔して 見てゐることは変らない/変らないどこかそんなことなど云はれると/いよいよぼくはどうしていゝかわからなくなる/……雪をかぶったはひびゃくしんと/百の岬がいま明ける/万葉風の青海原よ……/滅びる鳥の種族のやうに/星はもいちどひるがへる」(宮沢,1985,下線は引用者)である。 

 

最初の疑問の答えを先に言えば,「ハイビャクシン」は詩「暁穹への嫉妬」の内容に相応しい植物だったからだと思う。つまり,「ハイビャクシン」でなければならないのである。賢治は植物を単なる風景描写としては入れない。風景描写なら詩「暁穹への嫉妬」は「雪をかぶったあかまつと」でもいいような気がするからである。

 

賢治は大正14年(1925)1月5日から三陸地方に旅だった。5日の日付で詩「異途への出発」を書いている。旅行の目的は不明とされているが,堀尾青史(1991)は『年譜宮澤賢治伝』で5日の詩に対して「農学校教諭の限界にあきたらず,農民対象の指導助言と自身が農民たらんと考える」,あるいは木村東吉(1994)は「微温的な学校社会から,凍てつく農民社会に下り立つこと」と記していた。両者とも学校生活を締めくくる卒業旅行のようなものを考えているのであろうか。私もこれ以上にこの場で言うことは何もないが,6日の日付のある詩「暁穹への嫉妬」が,半年前の恋人・大畠ヤスの渡米(1924年6月14日)と深く関わっているということは以前に述べたことがある(石井,2024b)。多分,「ハイビャクシン」も破局して渡米した賢治の恋人と関係があると思われる。

 

上原敬二の『樹木大図説』(1959)で「ハイビャクシン」の説明欄に「1862年にアメリカに入る。同地ではSonare(ソナレ;磯馴)と呼ばれ庭樹に重用されている。英国のヘンリー氏もこの樹の造園的価値を激賞している」と記載されている。英国のヘンリー氏がどういう人物なのかは『樹木大図説』に説明がないので解らない。アイルランドの園芸家であるオーガスティン・ヘンリー(Augustine Henry,1857~1930)のことであろうか。それはともあれ,日本の植物を意図的に海外に持ち込んだというのも興味深い。セイタカアワダチソウやナガミヒナゲシなど海外から日本に荷物などに紛れて恣意的に持ち込まれた植物はよく知られているが,「ハイビャクシン」はその逆だからである。「ハイビャクシン」は乾燥に強く,刈込みにも耐え,地面を這うように覆うのが特徴なので,海外ではグランドカバーとして利用されているのだと思われる。

 

「ハイビャクシン」が別れてアメリカに渡った恋人と関係するように,詩「異途への出発」(1925.1.5)に登場する「アカシヤ」もアメリカと関係する。詩「異途への出発」に「……ああアカシヤの黒い列……/みんなに義理をかいてまで/こんや旅だつこのみちも」(下線は引用者)という詩句の中に出てくる。破線内の言葉は前稿で述べたように内語である。『新宮澤賢治語彙辞典』によれば,「アカシヤ」(acacia)は「ニセアカシヤ」(あるいはニセアカシア)と呼ばれる「ハリエンジュ」のことだという(原,1999)。「ニセアカシヤ」(Robinia pseudo acacia L.)は北米原産のマメ科ハイエンジュ属の高木である。日本には1873年に渡来した。属名のRobiniaはフランスの植物学者ロビン(Jean Robin;1550~1629)の名に由来し,フランスではこのロビニエの名の方が通っている。賢治もロビンのことはよく承知していて,童話『イーハトーボ農学校の春』(1923)でその知識を披露している。童話の中に楽譜とともに「おゝこまどり,鳴いて行く鳴いて行く,音譜のやうに飛んで行きます。」という言葉と,「かへれ,こまどり,アカシヤづくり。」という詩句(下線部)のような言葉があるが,小沢俊郎によれば後者の「こまどり,アカシヤ」はコマドリ(robin)→(Robinia)=ニセアカシヤの連想だという(原,1999)。また,「こまどり」は「音譜のやうに飛んで行きます」とあるようにおたまじゃくしの音譜がイメージされている。「アカシヤ」は賢治の「〔アカシヤの木の洋燈(ラムプ)から〕」という詩のタイトルが示すように西洋風のイメージでもある。原産地は北米と記したが,具体的にはペンシルバニア,オハイオ,イリノイ,バージニア州を中心とした一帯である(Wikipedia)。イリノイ州には賢治の元恋人の嫁ぎ先であるシカゴがある。ちなみに,詩「異途への出発」に出てくる「アカシヤ」は木村(1994)が指摘するように県立花巻農学校のものと思われる。また,これは賢治が植えたものとされている(原,1999)。

 

つまり,賢治は花巻の農学校を出発するときは,アメリカから渡来した「アカシヤ」を見て詩「異途への出発」を創作し,また翌日三陸の種市に到着したときはアメリカに渡った「ハイビャクシン」を思い浮かべて詩「暁穹への嫉妬」を創作したことになる。また3日目の詩「発動機船 一」に「カヤ(榧)」(Torreya nucifera L. Siebold et Zucc.)という植物が登場するが,この植物の属の学名 Torreya はアメリカの植物学者John Torrey(1796〜1873年)に因んでいる。アメリカに因んだものが3つ続く。単なる偶然とは思えない。はひびゃくしん(這柏槇)→百(ひゃく)の岬,コマドリ(robin)→(Robinia)=ニセアカシヤの連想もそうだが,賢治はこのような言葉遊びが好きである。

 

アメリカに渡った賢治の元恋人について知り得た情報を記してみる。元恋人の夫はイリノイ州シカゴで宿泊業を営む人で,大正13年(1924)5月末ごろに来日したとされている。また,これは証明されていることだが,6月14日に賢治の元恋人をつれて横浜港からKAGAMARUという船でアメリカへ渡った(布臺,2019)。渡来した「アカシヤ」と渡米した「ハイビャクシン」がこのことと重なる。「こまどり」が「音譜」の「おたまじゃくし」に見えるなら,移民船の煙突やマストは「アカシヤ」の「黒い列」に見えたのであろう。つまり,「ハイビャクシン」には賢治の恋人だった女性が投影されている。

 

さらに,「ハイビャクシン」=「恋人」を決定づけるものがある。それは,「……雪をかぶったはひびゃくしんと/百の岬がいま明ける/万葉風の青海原よ……」とあるように「はひびゃくしん」が雪を被っていることである。この光景は賢治にある昔の記憶を呼び起こさせたと思われる。

 

昔の思い出とは,賢治の詩ノート「〔古びた水いろの薄明穹のなかに〕」にある「・・・そしてまもなくこの学校がたち/わたくしはそのがらんとした巨きな寄宿舎の/舎監に任命されました恋人が雪の夜何べんも/黒いマントをかついで男のふうをして/わたくしをたづねてまゐりました/そしてもう何もかもすぎてしまったのです・・・」である。この詩は,昭和2年(1927)5月7日の日付のある作品だが,大正11年(1922)冬あるいは翌年の2月ごろまでのことを回想したものとされている。この詩に登場する寄宿舎とは新しくなる農学校の校舎で,大正11年(1922)8月から建築を開始し翌年3月30日に落成式を行った県立花巻農学校のことである。三陸旅行の出発点になった場所でもある。恋人はこの時期に黒いマントをかついで「男のふう」をして寄宿舎の舎監である賢治を訪ねていたのだと思われる。「かついで」は古い言葉の「被いで」で「頭からかぶって」という意味である。女性であることを隠すためと思われる。この恋人は女性で背の高い大畠ヤスであろう。

 

「ハイビャクシン」は横に這うことを特徴とする低木なので,地表に生えるときはマット状に,崖などの岩の間に生えると岩を覆う形になり「マント状」になる。つまり,岩の場合はマントを被っているように見えるのである(前稿の第1図を参照)。多分,賢治は海岸の崖や岩に垂れている「雪をかぶったはひびゃくしん」に,雪の夜何べんもマントをかついで尋ねてきた恋人を重ねているように思える。大正11年(1922)の冬あるいは翌年の初冬は,賢治の恋が破局へと向かっていた時期である。多分,そのとき賢治と恋人は最後の話し合いをしていたと思われる(石井,2023)。

 

「百の岬がいま明ける」の「百の岬」は三陸海岸にある岬のことと思われる。しかし,三陸海岸に「岬」が100もあるとは思えない。あるブログで東北の東海岸にある「岬」の数を国土地理院の2018年版地図を使って調べた人がいた(Dendenmushi,2018)。「岬」と名が付くのは12であったという。賢治も地図で調べたかも知れないがさすがに100ではなかったろう。「百の岬」には別の意味がありそうである。「岬」は知里真志保(1992)によれば,アイヌ語で「エサシ(esasi)」,「エサウシ」(esausi),あるいは「エンルム(enrum,-i)などと呼ばれている。面白いことに,「岬」を意味する「エンルム」は発音がネズミのアイヌ語である「エルム」と似ている。襟裳岬の「エリモ」はアイヌ語の「オンネエンルム」に由来するとされている。「オンネ」は「大老の・大きい」,「エンルム」は「突き出たところ=岬」を意味している。しかし,襟裳岬をねずみ岬と呼ぶこともある。つまり,賢治は「百の岬」に「百の鼠」(あるいは百万疋の鼠)という意味も含まれると言いたかったのかもしれない。

 

詩「暁穹の嫉妬」は出版を予定していた詩集『春と修羅 第二集』に収められているものである。その「序」に「北上川が一ぺん氾濫しますると/百万疋の鼠が死ぬのでございますが/その鼠らがみんなやっぱりわたくしみたいな云ひ方を/生きているうちは毎日いたして居りまするのでございます」とある。北上川周辺にネズミが百万疋いるかどうかなど解るはずもない。この百万とは当時の岩手県の人口と思われる。1925年で90万人,1930年で97.6万人である。おおよそ100万人である。つまり,「百の岬」はほとんどが農民と思われるがイーハトーヴに住む人たちという意味も含んでいる。「万」の桁はどこから持ってきたのかという疑問をもつ方もいるかもしれないが,「万」の桁は次の詩句「葉風の青海原よ」の「万葉」の中にある。

 

つまり,最初に述べたように,恋歌である詩「暁穹への嫉妬」に「ハイビャクシン」が登場するのは,この植物が詩の内容に相応しい植物だったからだと思う。「……雪をかぶったはひびゃくしんと/百の岬がいま明ける/万葉風の青海原よ……」の意味は,「明ける」を「幸いにする」という意味もあるとすれば,日の出が「ハイビャクシン」が生える三陸の海岸を明るくさせるという意味と,賢治が「恋人とイーハトーヴの人たちを同時に幸いにする」という2つの意味があると思われる。「万葉風の青海原よ」は前稿でも述べたように「蝦夷(エミシ)の血を受け継ぐ恋人や農民たちのいる大地よ」という意味と思われる。つまり,賢治に疑いと反感を示すだろう農民たちの中に入って農民(みんな)のために働くとともに,恋人の願いも受け入れるという決意表明であろう。恋人はもう日本にいないけど,賢治は恋人の願いを詩「暁穹への嫉妬」とほぼ同じ時期に創作した童話『銀河鉄道の夜』で実現させている。

 

例えば,童話『銀河鉄道の夜』(第一次稿;1924.12)で主人公のジョバンニが親友のカムパネルラに「カムパネルラ,また僕たち二人きりになったねえ,どこまでもどこまでも一緒に行かう,僕はもうあのさそりのやうにほんたうにみんなの幸のためならばそしておまへのためならば僕のからだなんか百ぺん灼(や)いてもかまわない」と問いかける場面がある。カムパネルラは「うん。僕だってさうだ。」と答える。「みんなの幸のため」と「おまへのため」が「そして」(and)を挟んで並んでいる。

 

さらに童話には「あゝアジェランの星雲だ。さあもうきっと僕は僕のために,僕のお母さんのために,カムパネルラのためにみんなのためにほんたうのほんたうの幸福をさがすぞ」というジョバンニの言葉もある。ここでは「僕のため」,「お母さんのため」,「カムパネルラのため」,「みんなのため」とあるが「みんなのため」は4番目,つまり最後である。これは,「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」と謳った『農民芸術概論綱要』の理念とは真逆である。

 

私は,『銀河鉄道の夜』のジョバンニには恋人がカムパネルラには賢治が投影されていると思っている(石井,2021)。ジョバンニとカムパネルラは同じように「相手の幸せ」と「みんなの幸せ」を同時に願っているし,どこまでも一緒にいようと誓っている。童話『銀河鉄道の夜』は第一次稿から第四次稿まであるが,どれを読んでも「みんなの幸い」が「個人の幸い」よりも優先するとは記載されていない。

 

「恋人とイーハトーヴの人たちを同時に幸いにする」と言う願いは,詩「異途への出発」に記載されている「……楽手たちは蒼ざめて死に/嬰児は水いろのもやにうまれた……」の「嬰児」とも関係する。「雪をかぶったはひびゃくしん」は賢治と一緒になりたいと願った〈恋人〉のことであり,「百の岬」はみんなの幸いを願った〈賢治〉のことである。その2つを「と」(and)で結んだということは結婚させたと言うことである。賢治と恋人は結ばれなかったが詩や童話の中では結ばれているのである。つまり,2人のそれぞれの願いを合体させて生まれたのが「恋人とイーハトーヴの人たちを同時に幸いにする」という賢治の願いになったのである。つまり2人の「嬰児」である。また,『銀河鉄道の夜』という作品も2人の「嬰児」である。

 

賢治の恋の破局は賢治が周囲から反対されたとき「恋人との幸い」よりも「みんなの幸い」を優先させたからである。と思っている。しかし,恋人が渡米してから7か月後の三陸旅行の頃になると「みんなの幸い」を優先したことを後悔しているのである。つまり,賢治は「みんなの幸い」を優先するという考えを止(や)めようとしているのである。「楽士たち」とは「みんなの幸い」を優先するという賢治を応援した人たちであろう。

 

前稿でも述べたが「ハイビャクシン」は東北の内陸部では蛇紋岩が露出しているところに自生しているとされている。蛇紋岩は賢治が好きな岩石でもある。なぜなら,賢治の好きな種山ヶ原が連想されるからである。種山ヶ原には恋人との思い出もあるようだ。多分,賢治は東北に古くから自生していると思っている「ハイビャクシン」がアメリカに渡ったという事実を植物図鑑などで知って,それを生粋の東北人で渡米した恋人と重ね,さらに興味をもつようになっていたのだと思われる。そして,旅行先で海岸の岩を覆う「ハイビャクシン」と思われる植物を見たとき,この植物を詩句に入れて詩を創作したのだと思われる。

 

もう一つ疑問があった。それは,なぜ,賢治は「異途への出発」とあるように,新しいことを始めようとしたとき,あるいは他の人へ嫁いだ元恋人に嫉妬したとき海が見える三陸地方へ行こうとしたのか。である。前者はよく解らないが,後者をシンガー・ソングライターである井上陽水の「ジェラシー」(1999)という歌を土台にして考察してみたい。揚水は「君によせる愛はジェラシー/春風吹き 秋風が吹き さみしいと言いながら/君によせる愛はジェラシー/はまゆりが咲いているところをみると/どうやら僕等は海に来ているらしい/ハンドバッグのとめがねが/はずれて化粧が散らばる/波がそれを海の底へ引き込む/ジェラシー/愛の言葉は/愛の裏側/ジェラシー」と歌う。詩人である揚水は他人に心が傾いてしまう恋人(妻)に対してジェラシーを感じると海へ行きたくなるようである。嫉妬で心が不安定になると海,つまり母の羊水で満たされた子宮の中に帰りたくなるのであろうか。もし,そうだとしても賢治の場合はそれだけでは説明できないように思える。

 

賢治は詩集『春と修羅 第一集』の「小岩井農場」(パート九)にあるように「みんなの幸い」を願う気持を「恋人との幸い」よりも優先させていたが,第一集が出版されて半年後の『春と修羅 第二集』に収められた「暁穹の嫉妬」や童話『銀河鉄道の夜』では「みんなの幸い」を優先しなくなっている。つまり,「みんなの幸い」を優先して恋を破局させたことを反省し,恋人のいるアメリカにできるだけ近づき,アメリカに渡った恋人と重なる「ハイビャクシン」の前で謝罪したと考えた方が私には理解しやすい。ちなみに,本州最東端は三陸である宮古市のトドヶ崎である。

 

参考・引用文献

Dendenmushi.2018.でんでんむしの岬めぐり.2018.https://dendenmushimushi.blog.ss-blog.jp/2018-08-20

原 子朗.1999.新宮澤賢治語彙辞典.東京書籍.

堀尾青史.1991.年譜宮澤賢治伝.中央公論社.

布臺一郎.2019.ある花巻出身者たちの渡米記録について.花巻市博物館研究紀要.14:27-33.

石井竹夫.2021.植物から『銀河鉄道の夜』の謎を読み解く(総集編Ⅳ)-橄欖の森とカムパネルラの恋-.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/06/07/084943

石井竹夫.2023.童話の「やまなし」の実が「横になって木の枝にひっかかってとまる」とは何を意味しているのか.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2023/01/22/092226

石井竹夫.2024a.賢治は文語詩「敗れし少年の歌へる」に登場するビャクシンを実際に見たのか(2).https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2024/05/04/100238

石井竹夫.2024b.賢治の詩「敗れし少年の歌へる」の原稿に書き込まれた落書き絵-翼を広げた鳥と魚-(試論 1).https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2024/04/03/063925

木村東吉.1994.旅の果てに見るものは : 《春と修羅 第二集》三陸旅行詩群考.国文学攷.144:19-32.

宮沢賢治.1985.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.

知里真志保.1992.地名アイヌ語辞典.北海道出版企画センター.

上原敬二.1959.樹木大図説.有明書房.