宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

宮沢賢治の文学は芥川と同じように敗北したか -「敗れし少年の歌へる」から-(13)

 

芥川龍之介は「銀の翼」を登場させた『歯車』と同じ年に書いた『或阿呆の一生』(1927)の最終章51で自分の生涯を「敗北」とみなした。また,共産党の指導者にもなった宮本顕治は芥川の文学を「敗北の文学」とした(石井,2024a)。一方,賢治は「業の花びら」の登場する詩「三一四〔夜の湿気と風がさびしくいりまじり〕」(1924.10.5)の3ヶ月後に恋歌である詩「暁穹への嫉妬」(1925.1.6)を書いているが,これを基にしてのちに文語詩「敗れし少年の歌へる」という題の詩を書いた。賢治は,死の直前に教え子である柳原昌悦へ手紙(1933.9.11)で,「私のかういふ惨めな失敗はたゞもう今日の時代一般の巨きな病,「慢」といふものの一支流に過って身を加へたことに原因します。・・・空想をのみ生活して却って完全な現在の生活をば味ふこともせず,幾年かゞ空しく過ぎて漸く自分の築いてゐた蜃気楼の消えるのを見ては,たゞもう人を怒り世間を憤り従って師友を失ひ憂悶病を得るといったやうな順序です・・・」とも書いている。では,賢治の文学は芥川と同じように敗北したのであろうか。本稿では賢治の「敗北」あるいは「失敗」について考察したい。

 

賢治は,確かに文語詩「敗れし少年の歌へる」や柳原昌悦へ手紙を見る限り自分の生涯を総括して「失敗」したと見做しているように思える。「敗北」は負けることで,「失敗」は何かやろうとして,うまくいかないことである。では賢治は何をしようとして「失敗」したのであろうか。

 

恋歌である文語詩「敗れし少年の歌へる」(制作日は不明だが晩年)は以下のような詩である。

   

「ひかりわななくあけぞらに/清麗サフィアのさまなして/きみにたぐへるかの惑星(ほし)の/いま融け行くぞかなしけれ/雪をかぶれるびゃくしんや/百の海岬(かいこう)いま明けて/あをうなばらは万葉の/古きしらべにひかれるを/夜はあやしき積雲の/なかより生れてかの星ぞさながらきみのことばもて/われをこととひ燃えけるを/よきロダイトのさまなして/ひかりわなゝくかのそらに/溶け行くとしてひるがへる/きみが星こそかなしけれ」とある。(宮沢,1985)下線は引用者,以下同じ

 

この詩は賢治の愛する恋人が米国へ去って行った悲しみが詠われている。だから,失敗とは失恋を意味しているのかと思ったりもする。

 

ある賢治研究家がこの詩の「きみ」を賢治の恋人であった大畠ヤスのこととし,「さながらきみのことばもて/われをこととひ燃えけるを」に注目して「賢治の心に,遠くにいるはずのヤス子が常に何かを問いかけていたのではないか。」(Signaless,2012)と推測していた。

 

文語詩「敗れし少年の歌へる」は難解だがネットではいくつかの現代語訳が紹介されている。参考にさせてもらっている。題名の「敗れし少年」の意味を明らかにするため,上記引用詩の下線部分を少し掘り下げたい。

 

「あをうなばらは万葉の/古きしらべにひかれるを」は,直訳すれば「三陸沖の青い海は万葉の頃から昔の音楽に光っているよ」というような意味と思われる。ところで,「万葉」とは何か。「万葉集」は奈良時代末期に編集された歌集である。東北で奈良時代の末期頃に「万葉集の古き詩歌」のように何か「光る」ものはあったのであろうか。この詩句と似たものとして未定稿の文語詩「〔うからもて台地の雪に〕」がある。

 

「うからもて台地の雪に,部落(シュク)なせるその杜黝(あおぐろ)し。/曙人(とほつおや),馮(の)りくる児らを,穹窿ぞ光りて覆ふ。」とある。(宮沢,1985)

 

「うから」は部族で,「曙人」はルビにあるように「先祖」で,穹窿は天空のことである。賢治の文語詩を研究している信時(2007)によれば,この詩の意味は「雪の積もった台地に一族が集まり,その集落の森が青黒く見える。先祖の血をひき,魂までも乗り移った子供らを,天空から降り注ぐ光が覆っているように見える」としている。この詩に登場する「台地」は準平原の北上山系であり,「曙人」はその台地にかつて住んでいた「蝦夷(エミシ)」と呼ばれていた人たちである。賢治は,大正・昭和の時代に至っても古代蝦夷(エミシ)の魂が東北の「先住民」に乗り移つることがあると感じている。東北で奈良時代末期頃の「光る」ものといったら胆沢や江刺の蝦夷の部族長であった〈アテルイ〉の活躍であろう。延暦7年(789)に巣伏村で〈アテルイ〉の武装勢力は大軍を引き連れてきた朝廷軍に打ち勝っている(鈴木,2016)。奈良時代において「蝦夷(エミシ)」の住む東北は,大和朝廷にとって支配の及ばない異界の地であった。当時,東北はアイヌ語あるいはそれに近い言語が使われていた(高橋,2012)。

 

「夜はあやしき積雲の/なかより生れてかの星ぞ」は「夜にはなにか怪しげな積雲の,その中から生まれてきたようなあの星よ」という意味である。ではこの「あやしき積雲」は何か。賢治は雨雲である乱層雲(nimbus)を恋人に喩えることがある。積雲(Cumulus)も発達すると積乱雲となり雨雲になる。多分,この積雲も恋人のことであろう。恋人の出自が「東」の北上山系と思われるからである。東よりの湿った風が北上山系の山々とぶつかって雲になったものと思われる。黒く膨れあがった雨雲(nimbus;ニムブス)には妊婦も連想され「邪淫」あるいは「誘惑者」のイメージが重なる(原,1999)。詩「暁穹への嫉妬」(1925.1.6)には「星はあやしく澄みわたり/過冷な天の水そこで/青い合図(wink)をいくたびいくつも投げてゐた」とあり,下書稿には「いったいさっきみちが渚を来たときに/あんまり青くあやしく澄んで/ぼくを誘惑しないといゝんだ(下線は引用者)」とある。

 

つまり,「あをうなばらは万葉の/古きしらべにひかれるを/夜はあやしき積雲の/なかより生れてかの星ぞ/さながらきみのことばもて/われをこととひ燃えけるを」を私なりに解釈すると,「三陸の青い海は〈アテルイ〉の時代から栄光に輝いていたが,夜になるとその輝いていた海の湿気から雲ができ,その中から私の愛する恋人が星となって生まれてきた,例えばその星がウインクするように,あたかも情熱的な君の言葉のように,私に語りかけて誘惑してくる」である。つまり,恋人は東北の大地に先住していた〈アテルイ〉やその仲間である「蝦夷(エミシ)」の末裔である。賢治は,大和朝廷やその後の中央政権と勇敢に戦った先住民の末裔と恋をしたということである。そして,その恋人を失って悲しいというのが「敗れし少年の歌へる」という歌の意味である。

 

ただ,文語詩「敗れし少年の歌へる」は単に先住民の末裔の女性との悲恋を詠ったものとも思えない。

 

わたしはこの詩を詠んだとき,シンガー・ソングライターの森田童子(1952~2018)が作詞・作曲した「僕たちの失敗」(1976)を思い出した。野島伸司が脚本を手がけたドラマ『高校教師』の主題歌になってブレイクした歌である。この歌の後半のフレーズは「ぼくがひとりになった 部屋にきみの好きな/チャーリー・パーカー見つけたヨ ぼくを忘れたカナ/だめになったぼくを見て 君もびっくりしだろう/あの子はまだ元気かい 昔の話だネ/春のこもれ陽の中で 君のやさしさに/うもれてしまったぼくは 弱虫だったんだヨネ」である。ちなみに森田童子は女性である。詩の中の〈僕〉は必ずしも森田自身ではないが,この詩は聞けば分るように「友を失った」あるいは「失恋した」という歌である。だが,タイトルにある「僕たちの失敗」は「友を失った」という「失敗」ではない。つまり,「だめになった僕」は「友を失った」からでも「失恋した」からでもない。

 

森田童子は全共闘世代よりは少し若いが,青春時代を「学園闘争」の中で過ごしている。昭和43年(1968)から昭和45年(1970)にかけての闘争で友人が逮捕されるという体験をしていて,森田自身も高校を中退している。また,1972年の夏,ひとりの友人の死をきっかけに歌いはじめたとされる(Wikipedia)。

 

「学園闘争」が最初に起きたのは,慶應義塾大学であり,昭和40年(1965)1月に大学側が学費値上げを発表したことに学生側が抗議し撤回を求めた「学費値上げ反対闘争」として始まった。昭和45(1970)年には日米新安全保障条約(安保改定)締結に反対する国会議員,労働者や学生,市民及び批准そのものに反対する左翼や新左翼の運動家が参加した反政府,反米運動とそれに伴う大規模デモ運動が起った時代でもあった。しかし,「学園闘争」は1970年中盤から急速に衰退していった(西本,2010)。多分,多くの学生は管理された社会に息苦しさを感じ,学園闘争を敵機に社会を変えようとして立ち上がったが,どうにもならずに挫折し敗北感あるいは喪失感みたいなものを否応なく感じることになったのであろう。

 

森田童子の歌「僕たちの失敗」の「失敗」は全国的に盛り上がっていた学園闘争の中で学生が味わった「敗北感」あるいは「喪失感」のことである。恋人との別れもそういう時代を背景にしている。森田童子の歌「みんな夢でした」を聞けば明らかである。「あの時代は何だったんですか/あのときめきは何だったんですか/みんな夢でありました/みんな夢でありました・・・キャンパス通りが炎に燃えた/あれは雨の金曜日/みんな夢でありました/みんな夢でありました・・・」である。「キャンパス通りが炎に燃えた」は「火炎瓶」が若者の思いとともに炸裂したことによるものである。

 

南こうせつとかぐや姫の歌に「マキシーのために」というのがある。喜多條忠がかぐや姫のために作詞したものである。マキシーはあだ名で喜多條の知人で自殺した女性の学生活動家のことである。南こうせつは,「どうして自殺なんかしたのか/マキシー/睡眠薬を百錠ものんでさ/・・・/馬鹿な奴だったよ/お前は最後まで/マキシー俺は明日旅に出るぜ/マキシー/お前のせいじゃないぜ/マキシー/お前程遠くには行けないが/マキシー一人旅には変わらないさ/悲しみを抱えたままで/夜空に光るお前の星を探すまで/さよならマキシー」と歌う。喜多條のこの詩は賢治の詩「敗れし少年の歌へる」と似ている。賢治の詩も米国へ去っていった恋人を求めて花巻から太平洋が見える三陸海岸まで一人旅をして作ったものである。両方とも相手が1人で旅だったように自分も1人で「悲しみを抱えたまま/夜空に光るお前の星」を探しに行っている。

 

ならば,賢治の文語詩「敗れし少年の歌へる」も時代背景を考慮しなければならないように思える。そこに「敗れし」の意味が隠されている。「敗れし少年の歌へる」は詩「暁穹への嫉妬」(1925.1.6)を基にして文語詩化されたものである。1925年は賢治の農学校時代の後半である。賢治が「慢心」だった頃である。賢治は教え子の手紙で「私のかういふ惨めな失敗はたゞもう今日の時代一般の巨きな病,「慢」といふものの一支流に過って身を加へたことに原因します」と言っていた。

 

多分,文語詩「敗れし少年の歌へる」の「敗れし」は「慢心」の「罪」によって罰せられたことと関係がある。賢治は農学校時代の後半頃に『漢和対照妙法蓮華経』と『化学本論』から得られた「知識」に「直感力」が加われば〈菩薩〉になれると信じていたように思える(石井,2024b)。しかし,農民に対して行なった菩薩行は,羅須地人協会の活動も含めて思い通りにはいかなった。農民は賢治に反感さえ示した。また,恋人の願いも退けてしまった。賢治の恋人への「罪」は「病」に変わり,1928年8月には発熱して40日間床に臥せっている。そして,花巻病院で両側肺浸潤と診断されてしまった。1928年以降,賢治の作品数は大幅に減少している。多分,体調不良が主な原因と思われるが。

 

詩人の中村稔が若い頃詩「雨ニモマケズ」に対して「宮沢賢治のあらゆる著作の中でもっとも,とるにたらぬ作品のひとつ」と書き,この詩は「羅須地人協会からの全面的退去であり,『農民芸術概論』の理想主義の完全な敗北である」と断じたことがあった(並松,2019)。その後,詩「雨ニモマケズ」を賞賛する谷川徹三と「雨ニモマケズ」論争が始まる。しかし,私は詩「雨ニモマケズ」がとるにたらぬ作品などとは一度も思ったことはないし,賢治の創作した他の作品も敗れてはいないと思っている。1928年以降も書き続けた童話『銀河鉄道の夜』は今でも高い評価を受けている。思想家で文芸評論家の吉本(2012)によれば,賢治は,宗教と科学,文学,芸術を一致させようとして,生涯あるいは生涯の作品を費やして追い詰めた人であるという。また,宗教と科学の一致に関しては,その追い詰めた思想の最後のところが童話『銀河鉄道の夜』の中で表現されているとし,ここまで追い詰めた人はいないということから,この物語は難解であるが20世紀に世界中で書かれた文学作品中でも指折りの1つに入る傑作であると述べている。私もそう信じている(石井,2021)。

 

また,賢治は死の前日に弟の清六に,残された原稿について「もし,出したいという本屋があったら,出してもいいが,むりして本にすることはないから,そのままにしておいてもよい」と言ったという(森,1983)。もしも,賢治が自分の作品を失敗作と思っていたら,弟に出版するようにとは言わなかったと思われる。

 

賢治の失敗は,「慢心」になったことである。そして,賢治は恋人に「みんなの幸い」か「恋人との幸い」かの選択を迫られたとき「恋人の願い」を退けてしまったことである。と私は思っている。つまり,文学の敗北ではない。

 

普通,人は恋をすると盲目になり他が見えなくなるものだ。だが,賢治は違った。賢治は「恋人」が一番大切なものであることを失って気づいたみたいである。賢治と恋人が相思相愛であった1年間は,賢治にとって「みんなの幸い」と「恋人との幸い」は微妙なバランスの上にあった。詩「春光呪詛」(1922.4.10)に「いつたいそいつはなんのざまだ/どういふことかわかつてゐるか/髪がくろくながく/しんとくちをつぐむ/ただそれつきりのことだ」とあるように自らの恋を戒(いまし)めてもいる。

 

シンガー・ソングライターである河島英五(1952~2001)の作詞・作曲したものに「てんびんばかり」(1975)という歌がある。「真実は一つなのか/何処にでも転がっているのかい」で始まり,「家を出て行く息子がいる 引き止めようとする母親がいる/どちらも愛してる どちらも恨(うら)んでる どちらも泣いている」という対話調の詩句が並び,最後は「誤魔化さないで そんな言葉では/僕は満足出来ないのです/てんびんばかりは重たい方に傾くに決まっているじゃないか/どちらももう一方よりも重たいくせに/どちらへも傾かないなんておかしいよ」である。

 

賢治の恋がうまくいっていたときは,賢治の天秤ばかりは「みんなの幸い」と「恋人との幸い」のどちらも大切であり,小さな揺れはあってもどちらか一方に大きく傾くことはなかった。しかし,農学校時代の後半(1924~1926.3),つまり「慢心」になっていた頃は「みんなの幸い」の方へ大きく傾いてしまった。1926年頃の作と言われる『農民芸術概論綱要』にある「近代科学の実証と求道者たちの実験とわれらの直観の一致に於いて論じたい/世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という賢治の主張はまさしく「慢心」の現れであろう。

 

賢治の思いが「みんなの幸い」の方に大きく振れたのは,賢治も気づいていなかったかもしれないが,母イチの「子守歌」も関係している。母は,「法華経」の中の如来のように「ひとというものはひとのために何かしてあげるために生まれてきたのス」と幼かった賢治を毎晩寝かしつけるときに話しかけていたという。普通の青年はそのような母の子守歌を聞いて育っていないし「みんなの幸い」についても深く考えもしないと思う。しかし賢治は違うのだ。賢治の「みんなの幸い」を望む思いは母の願いでもあり,とても強く重いものなのである。賢治の性格形成にさえ影響を及ぼしている(石井,2022)。賢治の天秤ばかりに「母の願い」と「恋人の願い」を乗せても,どちらももう一方より大切と思っているからどちらへも傾かなかったが,「慢心」で〈菩薩〉になれると信じた賢治の天秤ばかりは「みんなの幸い」に傾くしかないのだ。

 

森田童子は「僕たちの失敗」で「君のやさしさに/うもれてしまったぼくは 弱虫だったんだヨネ」と歌った。賢治は幼少期の頃に母親から愛されなかったと自覚している。寂しい思いをしていたようだ。母親に愛されたくて,つまり母の「子守歌」を受け入れて大人になれなかった賢治は,いつまでも「少年」のままであり,弱虫だったんだと思う。賢治は「慢心」に気づいて初めて母の「子守歌」の呪縛から逃れることができたのかもしれない。そして,文語詩「敗れし少年の歌へる」が生まれたように思える。(続く) 

 

参考・引用文献

原 子朗.1999.新.宮澤賢治語彙辞典.東京書院.

石井竹夫.2021.植物から『銀河鉄道の夜』の謎を読み解く(総集編Ⅴ)-なぜカムパネルラは自分を犠牲にしてザネリを救ったのか-.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/06/08/125658

石井竹夫.2022.自分よりも他人の幸せを優先する宮沢賢治 (1)-性格形成に影響を及ぼした母の言葉-.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2022/01/01/125039

石井竹夫.2024a.晩年の芥川のぼんやりとした不安-敗北の文学-(7).https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2024/02/18/080345

石井竹夫.2024b.賢治が「業の花びら」を幻視した時期に生じていた慢心について(11).https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2024/02/28/061433

西本康宏.2010.学生運動後の時代における自我同一性について —作家大崎善生を巡る考察—.心理相談センター年報.6;23-31.

森荘已池.1983.宮沢賢治の肖像.津軽書房.

並松信久.2019.宮沢賢治の科学と農村活動―農業をめぐる知識人の葛藤―.京都産業大学論集.人文科学系列.52 :69-101.

Signaless,2012.『敗れし少年の歌へる』 [妄想].りんご通信.https://ringotu-shin.blog.ss-blog.jp/2012-09-16

鈴木拓也.2016.三十八年戦争と蝦夷政策の転換.吉川弘文館.

信時哲郎.2007.宮澤賢治「文語詩稿 五十篇」評釈 十.甲南大学研究紀要.文化編 (44):29-43.

高橋 崇.2012.蝦夷(えみし) 古代東北人の歴史.中央公論新社.

吉本隆明.2012.宮沢賢治の世界.筑摩書房.