宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

賢治の「業の花びら」が出てくる詩〔夜の湿気と風がさびしくいりまじり〕の題名の意味 (10)

 

文語詩「水部の線」(すいぶのせん)の題名である「水部の線」は北上川を指すものだが,農事講話で聴衆に資料として渡したのは石灰岩層が記入された岩手県の地図と思われる。北上川を挟んで「西」にカルシウムの溶脱した酸性不良土のある平野部を「東」に石灰岩層のある北上山地を描いたはずである。「西」の平野部には宮沢家がそうであるように南からの移住者(商人や農民)や元々先住民であったが同化して農民になった者が,そして「東」には先住の狩猟民や農民が多く住んでいると思われる。賢治にとって「西」は詩「雨ニモマケズ」の「西ニツカレタ母アレバ行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ」とあるように豊かな平野部が,また「東」は「東ニ病気ノコドモアレバ行ッテ看病シテヤリ」とあるように病気が蔓延する貧しい山地部がイメージされている。青く光る「水部の線」はその境界線を意味している。

 

なぜ,境界線なのか。それは,「西」の平野部の人たちにとって「東」は先住民たちとともに,「鬼」のような何か恐ろしいものが棲む「異界」の地だからである。「鬼」を退治するのは東北では毘沙門天である。北上山地西縁の西側,つまり「水部の線」のあたりには北から,昆沙門天像を安置するお堂が西方寺毘沙門堂,正音寺,成島毘沙門堂,立花毘沙門堂,小名丸毘沙門堂,藤里毘沙門堂,正法寺,最明寺と並んでいる(石井,2022b)。つまり,毘沙門天像は「山」にいる「鬼」の平野部へ侵入するのを防いでいる。

 

柳田国男も『遠野物語』で「山」にいる山男,山女,山の神などの山人と,平地で稲作を営む農民とを全く別の系譜としてとらえている。ただ,『遠野物語』には「鬼」は出てこない。なぜなら,遠野郷に住む人たちが朝廷に対する「まつろわぬ民」すなわち「鬼」(=普通の人たちだが)だからである。「まつろわぬ民」が自分たちを「鬼」と呼ぶはずがない。つまり,賢治が言う「鬼神」も「平野」に住む人たちが恐怖を隠すために作った言葉である。

 

「業の花びら」が出てくる詩「「三一四〔夜の湿気と風がさびしくいりまじり〕」の題名も「水部の線」と関係がある。「〔夜の湿気と風がさびしくいりまじり〕」は「東」の海側からなだらかな北上山地を超えてくる湿った風(やませ)と「西」から吹いてくる風が「種山ヶ原」あるいは「水部の線」のあたりで混じり合うという意味である。霧や雨雲が多い。賢治はよく恋人をNimbus(ニンバス)と形容することがある。ニムバスは雨雲(乱層雲)で「東」の人であることを意味する。ただ,「さびしく」入り交じりとある。つまり,「東」の女性と「西」の男性の「悲恋」の物語だというのを暗に示している。

 

賢治は,文語詩「〔川しろじろとまじはりて〕」(下書き稿)では,「川しろじろと/峡(かい)より入りて/二つの水はまじはらず・・・きみ待つことの/むなしきを知りて/なほわが瞳のうち惑ふ・・・尖れるくるみ/巨獣の痕・・・たしかにこゝは修羅の渚」と詠んでいる。「山」を流れる猿ヶ石川が「平野」を流れる北上川にそそぐ合流地点(花巻市の郊外)近くの「イギリス海岸」の川岸がイメージされている。「二つの水はまじはらず」も「夜の湿気と風がさびしくいりまじり」も同じ意味である。「西」の人たちと「東」の人たちはなかなか分かり合えない。

 

恋人は賢治と同じ「西」の平野部の町に住んでいるが,出自は前述したように「東」である。いわば,賢治の恋は「西」と「東」の間で行なわれたもので,その境界である「水部の線」で青い「火花」になったものと思われる。「東」の者,あるいは「西」に住んでいても出自が「東」にある者にとって賢治の恋は,石灰岩抹が略奪されるように「西」の者が「東」の者を略奪するのと同じ事だったのかもしれない。

 

「東」の者と「西」の者がわかり合えない様子が詩「〔土も堀るだらう〕」(1927.3.16)に表現されているように思える。この詩には「土も堀るだらう/ときどきは食はないこともあるだらう/それだからといって/やっぱりおまへらはおまへらだし/われわれはわれわれだと/……山は吹雪のうす明り……/なんべんもきき/いまもきゝ/やがてはまったくその通り/まったくさうしかできないと/……林は淡い吹雪のコロナ……/あらゆる失意や病気の底で/わたくしもまたうなづくことだ」とある。「山は吹雪のうす明かり」と「林は淡い吹雪のコロナ」が対比されている。この詩の「おまえら」は「林」のある「平野」の町に住む宮沢家を含む寄生地主や商人たちで,「われわれ」は小作農の農民たちであろう。ただ農民の多くは東北に先住していた人たちと思われる。つまり,元々は狩猟を行なう「山」の民であった人たちである。賢治は「東」からの反発や反感を繰り返し経験している。

 

「西」の者が「東」の土地を開拓したり樹木や女性を略奪したりするとどうなるかが詩集『春と修羅』「晴天恣意」(水沢緯度観測所にて)(1924.3.25)に記載されている。賢治は水沢から北上山地内にある種山ヶ原の方角を見ながら先住民の女性を「イリスの花」に譬え,「古生山地の谷々は/おのおのにみな由緒ある樹や石塚をもち/もしもみだりにその樹を伐り/あるひは塚をはたけにひらき/乃至はそこらであんまりひどくイリスの花をとりますと/かういふ青く無風の日なか/見掛けはしづかに盛りあげられた/あの玉髄の八雲のなかに/夢幻に人は連れ行かれ/見えない数個の手によって/かゞやくそらにまっさかさまにつるされて/槍でづぶづぶ刺されたり/頭や胸を圧(お)し潰されて/醒めてははげしい病気になると/さうひとびとはいまも信じて恐れます」と記している。水沢から種山ヶ原のあたりは古代には「蝦夷(エミシ)」のリーダーである〈アテルイ〉が支配していた地域である。

 

「イリスの花」は,植物の「アイリス」のことでアヤメ科アヤメ属の学名である。賢治の詩に登場する「カキツバタ」(Iris laevigata Fisch.)や「シャガ」(Iris japonica Thunb.)を指す。いずれも「日本固有種」(その土地に先住しているもの)である。「カキツバタ」の花の色は青紫,つまりインクの色である。下線部にあるように賢治は「イリスの花」を取ると胸を押しつぶされて病気になると予言しているが,4年後に現実のものとなる。

 

賢治は,詩「「三一四〔夜の湿気と風がさびしくいりまじり〕」で恋人のことを詠わなかった。芥川が『歯車』の中で自分に纏わり付く「マルクスの亡霊」を隠したように,賢治も去って行く恋人の存在を隠したのであろう。芥川が「マルクスの亡霊」を隠したのは科学的社会主義思想に恐怖するのを恥としたからかもしれない。また,賢治が恋人を隠すのは罪悪感によるものかもしれない。

 

つまり,賢治は先住民の神々を冒涜しただけでなく,先住民の末裔である女性を苦しませることもしていた。そして,先住民の「神」である〈土神〉に崖から落とされそうになったり,アイヌの〈鬼神〉に沼で威嚇されたりの「罰」を受けることになったのだと思う。賢治も「罰」を受けたと思っている。

 

ただ,賢治は薄々気づいていたと思われるが「罰」はこれだけで終わらなかった。東北は大正13年(1924)から3年以上続く干魃(かんばつ)に見舞われることになる。1924年7月に日照りが40日余日続き,各地で水喧嘩が起き,畑作が5割減収になっている(原,1999)。詩「早池峰山巓」(1924.8.17)に「九旬にあまる旱天(ひでり)つゞきの焦燥や/夏蚕飼育の辛苦を了へて」とある。その翌年も旱魃が起きて賢治の親友である佐藤隆房(2000)は,「大正14年,岩手県は特記すべき大干魃であった。何しろ,今生きている人たちが一度も経験したこともない大干魃だけに,村という村,家という家,人という人,一人として心配しない者はありません・・・農学校の水田を受け持っていた賢治が暇さえあれば生徒を連れて行って,低い堰(せき)の水を桶で田に掻入れる作業をしていた」と語っている。

 

賢治の童話『或農学生の日誌』の1926年6月14日の日誌にも,これを裏付けるように「何せ去年からの巨(おほ)きなひゞもあると見えて水はなかなかたまらなかった」とか「あんな旱魃の二年続いた記録が無いと測候所が云ったのにこれで三年続くわけでないか。」とある。菅原道真の怨霊伝説のように,ある天災が1個人の「怨霊」(おんりょう)によるものだと信じられた時代もあった。菅原道真は忠臣として名高く,当時の天皇に重用されて右大臣にまで上り詰めたが,藤原時平の讒言(ざんげん)により,大宰府へ左遷され現地で没した。死後は「怨霊」になったとされる(Wikipedia)。

 

賢治は,恋人が米国で亡くなって1ヶ月半後に「〔わたくしどもは〕」(1927.6.1)とい詩を書いている。その詩は「わたくしどもは/ちょうど一年いっしょに暮らしました・・・・そしてその冬/妻は何の苦しみといふのでもなく/萎れるように崩れるやうに一日病んで没くなりました」と書かれてある。1年一緒にいた恋人は大畠ヤスである。

 

2週間後に「囈語(げいご)」(1927.6.13)という詩を2つ作っている(囈語とはうわごとのこと)。1つは「わたくしは今日死ぬのであるか/東にうかぶ黒と白との積雲製の冠を/わたくしはとっていいのであるか」である。「黒と白」は「東」を象徴する恋人の死を暗示しているように思える。もう1つは「罪はいま疾(やまひ)にかはり/わたくしはたよりなく騰(のぼ)って/河谷のそらにねむってゐる/せめてもせめても/この身熱に/今年の青い槍(やり)の葉よ活着(つ)け/この湿気から/雨ようまれて/ひでりのつちをうるおほせ」と記載されている。この詩で「罪はいま疾にかはり」と言っている。実際に,翌年1928年8月にも発熱して40日間床に臥せっている。花巻病院で両側肺浸潤と診断されている。肺浸潤は昔肺結核の初期の状態を意味していた。つまり,死の影がこのときすでに忍び寄っていた。「罪」は下書稿では「瞋(しん)」あるいは「憤懣(ふんまん)」となっている。「瞋」とは仏教用語で「怒り」とか「恨み」を指す。「瞋」とか「憤懣」とかは自分のものなのか,それとも恋人のものなのだろうかは定かではない。「怒り」が自分のものだとしても,「怒り」は感情の蓋と言う言葉もあるように,自分の罪悪感を隠すものともとれる。賢治は死んだ恋人に対してまるで自分を犠牲にしてでも「罪」を償うから,雨を降らせてくれと願っているようにも思える。つまり,真意は解らないが,賢治は3年続いた旱魃が自分の犯した「罪」によるものだと信じているように思える。

 

「疾中」(1928.8~1930)にある詩「〔風がおもてで呼んでゐる〕」で,賢治は熱にうなされて幻聴を聞いている。「風が交々叫んでゐる/「おれたちはみな/おまへの出るのを迎へるために/おまへのすきなみぞれの粒を/横ぞっぽうに飛ばしてゐる/おまへも早く飛びだして来て/あすこの稜ある巌の上/葉のない黒い林のなかで/うつくしいソプラノをもった/おれたちのなかのひとりと/約束通り結婚しろ」と/繰り返し繰り返し/風がおもてで叫んでゐる」とある。これは,賢治の恋人のことだろうか。

 

では,芥川に取り憑く「シルクハットをかぶった天使」が〈マルクス〉の亡霊なら,賢治に取り憑く〈土神〉の正体は何か。多分,それは東北の大地を繰り返し侵略し略奪し続けた大和朝廷の大軍勢と戦った「蝦夷(エミシ)」のリーダー〈アテルイ〉の亡霊であろう(石井竹夫,2022a)。宮沢家の始祖は坂上田村麻呂と同じ京都の出身である(堀尾,1991)。〈アテルイ〉の亡霊は南から侵略し,略奪していくものに対して「復讐の鬼」と化している。(続く)

 

参考・引用文献

堀尾青史.1991.年譜 宮澤賢治伝.中央公論社.

原 子朗.1999.新.宮澤賢治語彙辞典.東京書院.

石井竹夫.2022a.寓話『土神ときつね』に登場する土神とはどんな神なのか(第4稿)-蝦夷との関係-.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2022/04/19/065300

石井竹夫.2022b.寓話『土神ときつね』に登場する土神とはどんな神なのか (第5稿)-東北の祭りとの関係-.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2022/04/20/104157

佐藤隆房.2000.宮沢賢治-素顔のわが友-.桜地人館.