宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

寓話『土神ときつね』に登場する土神とはどんな神なのか(第4稿)-蝦夷との関係-

本稿では「アイヌ」と「東北」の「先住民」である「蝦夷」の関係について述べる。

 

6.東北の「アイヌ」は「蝦夷」のこと

木村東吉(1994)によれば,詩〔日はトパースのかけらをそゝぎ〕の舞台は第3稿で述べたように花巻の西の郊外,山の神・熊堂付近にあるアイヌ塚が想定されていると言っている(石井,2022b)。木村は「アイヌ塚」と言っているが,花巻に「アイヌ」が住んでいたのであろうか。確かに,「東北」の古代の「先住民」はアイヌ語あるいはそれに近い言語を話していたという。「東北」の地名にアイヌ語と思われるものがたくさんある。しかし,「東北」の「先住民」は北海道のアイヌ民族と必ずしも同一とは言えない。多分,木村が「アイヌ塚」と言っているのは「蝦夷塚」のことと思われる。賢治が生きていた時代は,「東北」の「蝦夷(エミシ)」(以下蝦夷とする)が「アイヌ」と同一かどうか論争されていたこともあって,「先住民」の名称が曖昧にされたままだった。

 

山の神・熊堂付近(豊沢川の北)には,賢治が「わたくしは花巻一方里のあひだに/その七箇所を数へ得る」と述べているように8世紀頃の熊堂古墳群というたくさんの古代の墳墓が発見されている。明治時代から発掘が行われていて,現在熊野神社境内を中心に10数箇所確認されている。また熊堂古墳群の周辺には法領,古舘Ⅱ,下坂井Ⅰ,大谷地Ⅲといった遺跡もある。これら遺跡は8世紀後半~9世紀前半(奈良時代,平安時代初期)の集落跡と見られる。この頃に花巻に住んでいたのは日本の歴史書物(『古事記』,『日本書紀』)によれば「蝦夷」である。

 

また,8世紀後半~9世紀前半というのは,東北では北上川を中心に律令国家と「蝦夷」の間で三十八年戦争(774年~811年)が起こった時期でもある。この時,北上川西岸には胆沢城(802年),志波城(803年),徳丹城(812年)が造営された。徳丹城は律令国家が造営した最後の城柵である。

 

三十八年戦争で最も大規模な戦闘が行われたのは延暦(えんりゃく)13年(794)の戦いである。三十八年戦争の第二次征討にあたる年で,桓武天皇から征夷大将軍として節刀を受けた大伴弟麻呂が,10万の大軍(国軍)を引き連れて阿弖流為(アテルイ)や母禮(モレ)の居る「蝦夷」の本拠地・胆沢の地(現在の水沢区・前沢区・胆沢区・衣川区・江刺区)に侵攻した。胆沢の地(多くは扇状地)は,「水陸万頃」と言われ水と土地(陸)が豊かな所である。

 

延暦13年の戦いで,現場での実質の指導者は天皇の信任が特に厚かった坂上田村麻呂であった。この戦いで,朝廷側は勝利した。歴史書では逃亡者があったものの朝廷側の被害は報告されていない。しかし,「蝦夷」側は457人が殺害され,150人が捕虜になり,馬85疋が奪われている。そして点在する村の多く(75村)が焼かれた。指導者のアテルイとモレは逃れたと思われるが,この戦いの7年後に坂上田村麻呂に降伏し処刑されている。 

 

後の研究者達によって延暦13年の戦いで消失した家屋数の記録や発掘された竪穴式住居数等から胆沢地方の人口が推測されている。それによれば,焦土と化した胆沢の地には,7000~8000人の「蝦夷」が住んでいたという。戦士を戦える全ての男子(1500~2000人)とすれば,「蝦夷」側の戦士がすべて胆沢出身の者とすれば,その戦士の1/3を失ったことになる。

 

すなわち,国家を作らず軍隊を持たない「蝦夷(エミシ)」の2000人弱程度の武装勢力とその家族に対して朝廷すなわち「国」は10万人の正規軍を送ったということになる。天下分け目の関ヶ原の戦いでも敗れた西軍の戦士は8万人で東軍は7~10万人と言われている。征討軍10万人という数字は食料・武器などの軍事物質を輸送する兵士は含まれていないとされているので,実際の兵力はこれをさらに上回るものと思われる。

 

この空前絶後の大軍を送った理由として,1つには,『日本書紀』の神武天皇紀に「愛瀰詩烏 毘ダ利 毛々那比苔」(エミシは1人で百人くらいに匹敵する強い兵)という歌が紹介されているように,「蝦夷」は強いと思われていたからである。また,現に「巣伏の戦い(789)」でも明らかなように強かったからである。「蝦夷」は,良馬と「騎馬戦」に有利な刃や柄に反りがある「蕨手刀(わらびてとう)」を持っていた(朝廷軍は直刀)。

 

また,農耕に加え狩猟採取の生活をしていて日々の戦闘能力が磨かれていたからだとも言われている。2つには,桓武天皇にとってこの戦いは勝たなければならなかったからである。794年は都が京都の長岡京から平安京に移された年である。天皇が遷都と同時に戦勝報告がなされるという奇跡を自ら起こし遷都を劇的に演出したのだという。  

 

このように,三十八年戦争で「蝦夷」の住む大地は,ただ征服のみを意図した前代未聞の征討軍の侵略で焦土と化し,蝦夷側の多くの戦士や住民が死んでいる。三十八年戦争で生き残った胆沢の「蝦夷」は胆沢の北の地域に移転した者もあったという(溝口,2020)。

 

すなわち,賢治が豊沢川近くの沼でみた「鬼神」は「アイヌ」ではなく三十八年戦争で敗れた「蝦夷」の怨霊か,あるいはその「蝦夷」が信仰する神だったと思われる。なお,賢治の作品にはこの三十八年戦争を題材にしたものとして童話『烏の北斗七星』がある(石井,2021)。

 

7.「蝦夷」と赤い鉄の渋との関係

〈土神〉は,「水がじめじめしてその表面にはあちこち赤い鉄の渋が湧きあがる」ような所に住んでいるので鉄との関係が疑われる。高橋(2011)も,〈土神〉を鉄と関係が深いため鉱山系かあるいは鉄と「蝦夷」とが結びついた神であると考えている。しかし,私は〈土神〉が「蝦夷」と関係するということは支持するが鉄との関係はあまり考えていない。「蝦夷」は確かに鉄の手蕨刀をもっていたが,製鉄の技術は持っていない。北上川沿いの盛岡,紫波,稗貫地区では9世紀初頭まで鉄を加工した明らかな痕跡は見つかっていない。ちなみに「東北」の蝦夷社会の成立期は弥生時代の末から古墳時代前期頃であるが,北上川沿いのまつろわぬ民としての「蝦夷」は平安時代には朝廷軍に敗れて山間部へと点在し姿を消していったとされる。

 

「沼地」における「赤い鉄の渋」は沼鉄鉱(褐鉄鉱ともいう)のことである。童話『イギリス海岸』では「誰かが,岩の中に埋もれた小さな植物の根のまはりに,水酸化鉄の茶いろな環わが,何重もめぐってゐるのを見附けました。それははじめからあちこち沢山あったのです」とある。これが,地中で形成されると筒状の水酸化鉄である「渇鉄鉱(FeO(OH)」の塊になる。高温で焼くと赤色になる。「高師小僧」と呼ばれたりする(褐鉄鉱の一種)。沼鉄鉱を製鉄の原料としてはあまり使わない。沼鉄鉱は縄文時代から赤色顔料として使われたようだ。赤く焼成された土器が遺跡などから出土することがあるが,ほとんどの土器は焼成する以前に生乾きの段階で,粉末にした褐鉄鉱を表面に塗り,その後に焼成することで赤色に発色させたものと考えられている(上条,2004)。

 

花巻の豊沢川周辺にある熊堂古墳群やその周辺の法領,古舘Ⅱ,下坂井Ⅰ,大谷地Ⅲといった三十八年戦争が起こった頃の遺跡からは沢山の土師器(はじき)や須恵器(すえき)などの土器が出土している。ただ,その中で「東北」にしか出土しない土器がある(一部東京でも出土することもある)。「赤彩球胴甕(せきさいきゅうどうがめ)」という赤い土師器である。その特徴は,「大きく外反する口縁部と円く張った胴部の形態を呈する。胴部はヘラミガキを丁寧に施し,口縁端部も面取りをして仕上げるものが多い。赤彩は,基本的に焼成により赤く発色させている。鉱物系統(酸化鉄)の顔料と考えられる」というものである。赤く塗ることに実用的な効用はないので,何かの祭祀に用いられた土器と考えられている(杉本 ,2021)。

 

この「赤彩球胴甕」の最も出土頻度の高い地域は北上川の支流である和賀川流域北側の遺跡からで,その次に多いのが同じく北上川の支流である豊沢川流域南側や雫石川流域である。ただ,延暦13年の戦いで戦場になった胆沢の地からの出土は少ないという。北上市立博物館の館長である杉本(2021)は,これら「赤彩球胴甕」が三十八年戦争の起こった頃の遺跡から出土することに注目し,三十八年戦争で主体的に戦った「蝦夷」は和賀川とそれをバックアップしていた豊沢川流域,そして雫石川流域の一部勢力であったと推測している。杉本(2021)は「赤彩球胴甕」を「蝦夷の赤彩土器」と呼んでいる。熊堂古墳群からもこの「赤彩球胴甕」が出土している(高橋,2021)。熊堂古墳群(熊堂付近のアイヌ塚)は江戸時代から存在は知られていて,地元の住民からは「アイヌ塚」と呼ばれていた。出土品の一部は近くにある熊野神社・社務所の展示室に飾られている。賢治もこの社務所を訪れて赤い土器を見たかもしれない。

 

NHKの『おばんです いわて』の「鬼伝説を巡るたび」(2022.2.16)という番組で杉本館長は,

「蝦夷というのは,ひとつの統一された国を作っていなかったんですよ。川ごとにそれぞれ部族がいたみたいですね。大きな中央政府が攻めてくるという段階になってきましたら,ある程度まとまって一緒に戦おうという意識がどうもできたみたいなんですよ。そのときに,ひとつのお祭りの道具をひとつのまとまりの象徴として,この赤い土器をどうも作ったみたいなんですね。」と語っている。

 

〈土神〉は,「水がじめじめしてその表面にはあちこち赤い鉄の渋が湧きあがる」ような所に住んでいて鉄との関連を伺わせているが,「赤い鉄の渋」は沼鉄鉱のことで「土器」を彩色するための赤い顔料であり,むしろ「土器」と関係している。

 

このように,〈土神〉は「アイヌ」ではなく「蝦夷」が信仰していた「地主神」(あるいは産土の神)と思われる。ただ,〈土神〉は単に土地やそこに棲む生き物を守っているだけではない。物語では語られないが,〈土神〉は「一本木の野原」の伝統文化や祭礼などの慣習も守っている。〈土神〉は南から来た〈狐〉が持ってきた西洋文化に対して激しく憎悪する神でもある。(続く)

 

参考文献

藤田富雄.2022.日本大百科全書(ニッポニカ)「神」の解説.https://kotobank.jp/word/%E7%A5%9E-46603

石井竹夫.2021.植物から宮沢賢治の『烏の北斗七星』の謎を読み解く(1)-物語の戦いの場所とモデルとなった過去の戦争-.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/05/03/151203

石井竹夫.2022b.寓話『土神ときつね』に登場する土神とはどんな神なのか (第3稿)-鬼神との関係-https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2022/04/18/140600

上條朝宏.2004.縄文時代から古墳時代の赤色顔料について.色材 77(2)7:86-90.

木村東吉.1994.魂の修学旅行-『春と修羅 第二集』修学旅行詩群考-.近代文学試論.32:31-42.

溝口太郎.2020.蝦夷集団結束の象徴? 赤い甕に迫る特別展 北上博物館.朝日新聞デジタル.https://www.asahi.com/articles/ASNCL6RL2NCBULUC023.html

杉本 良.2021.『蝦夷の赤い甕-最強の蝦夷は和賀川にいた-』誌上フォーラムについて.北上市立博物館研究報告 22:53-58.

高橋直美.2011.宮沢賢治論-「土神ときつね」異読-.ライフデザイン研究.7:223-236.

高橋静歩.2021.古代花巻地域の集落遺跡と赤彩土師器.北上市立博物館研究報告 22:77-84.