宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

植物から宮沢賢治の『烏の北斗七星』の謎を読み解く(1)

目次

はじめに

1.物語の戦いの場所とモデルとなった過去の戦争 

 1)戦場は日本列島

 2)物語に登場する栗や杉は戦争が先住民(狩猟採集民)と渡来人(農耕民)の子孫達の争いであることを示唆している

  (1)栗の登場が意味するもの

  (2)杉の登場が意味するもの

 3)他の賢治作品との関係

2.物語は「東北」の「先住民」と朝廷の三十八年戦争が題材になっている

 1)延暦十三年の戦いにおける朝廷軍の編制

 2)胡麻や馬鈴薯が示唆する烏の義勇艦隊の特徴

 3)烏の義勇艦隊と延暦十三年の征夷軍の類似点

 4)義勇艦隊が意味するもの

3.人を殺める心理

4.烏の大尉の戦いにおける祈りと泪(涙)の意味

 1)烏の駆逐艦隊の泪の意味

 2)戦い前夜における大尉の祈りの意味

 3)戦いが終わった後に流す大尉の泪の意味

 4)義勇艦隊の戦闘行為に正当性はあるか

 5)戦いが終わった後の大尉の祈りの意味

 6)烏の大尉が祈るマヂエル様とは何か

5.恋物語

 1)恋物語が挿入されているのはなぜか 

 2)戦いが終わった後の桃の果汁のような陽の光と白百合の花は何を意味しているのか

 3)大尉の許嫁の泪の意味

 4)大尉の許嫁の「マヂエル様」という叫び

6.「サイカチ」には鬼神が宿る

まとめ

 

はじめに

童話『烏の北斗七星』は,雪の田圃(たんぼ)に横列に仮泊している「里烏」と思われる「カラス」1羽1羽を軍艦(砲艦)あるいは軍人に,また鳴き声を砲撃音に喩えて,これら烏達の仮想の軍隊(義勇艦隊)と田圃に侵入してくる敵艦隊である「山烏」が戦う戦争物語である。烏同士の戦いという形態をとっているが,背後には過去にあった人間同士の具体的な戦争が題材にされていると思われる。

 

この物語は,「里烏」の艦隊の演習あるいは敵艦隊との迫力ある戦闘場面が出てくるが,主人公である義勇艦隊の〈烏の大尉)の戦う前と後での内的な心理描写や戦闘に翻弄される〈烏の大尉〉の〈許嫁〉の姿が詳細に描かれている。例えば,〈烏の大尉〉は戦う前と後に北斗七星に向かって「祈り」を捧げる。また,〈烏の大尉〉とその〈許嫁〉は戦闘に勝利したにも係わらず敵である「山烏」の前で泪を流したりする。

 

『烏の北斗七星』は,生前に刊行された唯一の童話集『注文の多い料理店』に収載された童話の一つである。この童話集は大正13年(1924)11月10日に印刷され,12月1日に発刊された。初版本の目次には,この童話の初稿と思われる日付として1921年12月21日の数字が記載されている。また目次の「烏の北斗七星」の説明には「戦ふものゝ内的感情です」とある。この童話を世の中に知らしめたのは,昭和20年に特攻隊員として沖縄で戦死した佐々木八郎の手記に『烏の北斗七星』が挙げられていたことによる。

 

賢治作品は難解なものが多いが.この作品も,特に主人公と〈許嫁〉の戦う前後の北斗七星への「祈り」と「泪(涙)」の意味は理解しにくい。理解しにくいのは,烏の義勇艦隊と「山烏」の艦隊の戦闘(戦争)の原因が分かりづらいからと思われる。

 

筆者は,難解な童話『銀河鉄道の夜』を解釈するに当たって,そこに登場する30種ほどの植物から,沢山のヒントもらった(石井,2020)。賢治作品に登場する植物は,単に風景描写として配置されているのではない。意味が取りにくい文章に遭遇したとき,その近くに配置されている植物を調べることによって解決したこともある。作品中の植物には,登場する意味が付与されている。

 

童話『烏の北斗七星』には,栗,杉,桃,苹果(りんご),百合,さいかち,胡麻,馬鈴薯(ばれいしょ)といった沢山の植物が登場してくる。本稿(1)及び続編(2~6)では,これら植物の登場する意味を探ることによって,『烏の北斗七星』の争いの舞台とその原因を明らかにして,主人公達の戦いにおける「祈り」と「泪(涙)」の意味について考察する。

 

1.物語の戦いの場所とモデルとなった過去の戦争 

 

1)戦場は日本列島

研究者の多くは,賢治が童話『烏の北斗七星』における烏の義勇艦隊と山烏の戦いに対して第一次世界大戦(1914~1918)やシベリア出兵(1918~1922)など日露戦争後の近代の国家間の「戦争」をイメージして創作していると考えている(大島,2003;張,2016;米地,2018)。

 

これは,この童話が第一次世界大戦(主戦場は欧州)やシベリア出兵の直後に書かれていることと,多数の近代戦を思わせる軍艦が登場してくるからと思われる。しかし,物語の景観の中に登場する「スギ」(Cryptomeria japonica (L.f.) D.Don)は本州から屋久島にかけて分布する我が国の固有種であり(加藤・海老原,2011),「サイカチ」(Gleditsia Japonica Miq.)も本州,四国,九州と一部朝鮮半島,中国に分布する固有種に近い植物である(北村・村田,1982)。

 

「サイカチ」は植物図鑑によっては,学名の種小名が「Japonica;日本の」とあるように分布を本州,四国,九州としか記載していないものもある(矢野・石戸,1983)。すなわち,両方とも欧州やシベリアでは見かけない植物である。戦場もこれら植物分布に基づいて北海道を除く日本列島と考えたほうが良さそうである。

 

 烏の大尉は,確かに烏の義勇艦隊と山烏の戦いを「戦争」と言っている。物語の語り部も「この前のニダナトラの戦役での負傷兵」の話を語っている。「戦役」とは,長期間持続した「戦争」の全体を局面ごとに分割してときの1単位の戦闘である。

 

しかし,「戦争」とは国家間だけでなく交戦集団が武器を使用しての内戦を指すこともある。例えば,戊辰戦争(1868~1869)や西南戦争(1877)がそれに該当する。戊辰戦争は王政復古を経て樹立した明治政府と旧幕府勢力および奥州越列藩同盟が戦った日本の内戦であり,西南戦争は西郷隆盛を盟主にして起こった士族による武力反乱である。

 

この二つの戦争には朝廷側の軍(官軍)とそれに対抗する軍(賊軍)の戦いという共通点がある。西郷隆盛も朝敵扱いにされている。すなわち日本の歴史では朝廷軍との戦闘は「戦争」となるのである。西軍と東軍が戦った「関ヶ原の戦い」(1600)を「戦争」とは決して言わない。

 

前述したように,この物語には「戦役」という言葉が出てくるが,似た用語に「役」というのがある。「役」は異民族との戦いに使うことがある。例えば国内で言えば,前九年の役(1051~1062)や後三年の役(1083~1087)がある。朝廷の命を受けた河内源氏と「東北」の阿部氏の戦いである。阿部氏は異民族扱いである。多分,烏の義勇艦隊と山烏の戦いは日本列島(北海道を除く)で行われた朝廷が関与した内戦がイメージされている可能性が高い。

 

2)物語に登場する栗や杉は戦争が先住民(狩猟採集民)と渡来人(農耕民)の子孫達の争いであることを示唆している

 賢治は,烏の義勇艦隊と山烏の戦いを描くにあたって,過去のどんな「内戦」をイメージしたのだろうか。この物語で,烏の義勇艦隊は山裾の雪の田圃に「横列」に「仮泊」している。多分,この義勇艦隊は南から侵攻してきた組織行動が取れる軍隊である。

 

陣の近くには「杉の杜(もり)」と西方の「さいかちの杜」がある。烏の義勇艦隊の最高司令官である年寄りの「大監督」は杜にある「杉の木」を官舎に使っていて,〈烏の大尉〉らの部下達も「杉の杜」を営舎にしている。義勇艦隊は名前が示すように自発的に参加した烏(人民)の戦闘部隊のようだが,「大監督」が「官舎」を使っているので徴兵制を採用する国家の軍隊である可能性もある。義勇艦隊の命名に関しては続編(3)で詳細に考察する。

 

戦う場所は北方の国境とも言える「セピラ峠」にある敵の最前線基地である。〈烏の大尉〉は「杉の森」の営舎から峠の「栗の木」に「碇泊」している「山烏」の艦隊を発見する。

  烏(からす)の義勇艦隊は,その雲に圧(お)しつけられて,しかたなくちよつ   との間,亜鉛(とたん)の板をひろげたやうな雪の田圃(たんぼ)のうへに横にな らんで仮泊といふことをやりました。

 どの艦(ふね)もすこしも動きません。

 まつ黒くなめらかな烏の大尉,若い艦隊長もしやんと立つたまゝうごきません。

 からすの大監督はなほさらうごきもゆらぎもいたしません。からすの大監督はもうずゐぶんの年老(としよ)りです。眼が灰いろになつてしまつてゐますし,啼(な)くとまるで悪い人形のやうにギイギイ云(い)ひます。

 (中略;烏の義勇艦隊の実戦演習場面を省略)

 さて,空を大きく四へん廻つたとき,大監督が,

「分れつ,解散」と云ひながら,列をはなれて杉の木の大監督官舎におりました。 みんな列をほごしてじぶんの営舎に帰りました。

 (中略)

 ふと遠い冷たい北の方で,なにか鍵(かぎ)でも触れあつたやうなかすかな声がしました。烏の大尉は夜間双眼鏡(ナイトグラス)を手早く取つて,きつとそつちを見ました。星あかりのこちらのぼんやり白い峠の上に,一本の栗(くり)の木が見えました。その梢(こずゑ)にとまつて空を見あげてゐるものは,たしかに敵の山烏です。大尉の胸は勇ましく躍りました。

「があ,非常召集,があ,非常召集」

 大尉の部下はたちまち枝をけたてて飛びあがり大尉のまはりをかけめぐります。

「突貫。」烏の大尉は先登になつてまつしぐらに北へ進みました。

                   (宮沢,1985)下線は引用者

 

賢治がイメージした内戦の場所は,物語に「栗」や「杉」が登場してくる意味を探ることによって明らかになる。

 

(1)栗の登場が意味するもの

敵の山烏が「セピラ峠」の最前線基地で碇泊するのに使用している「栗」は,我が国の山野で普通に見られる「クリ」(別名はシバグリ,ヤマグリ;Castanea crenata Siebold et Zucc..)のことであろう。ブナ科クリ属の落葉高木である。『原色日本植物図鑑・木本編』では,幹は直立し,高さは17m,胸高直径80cmに達し,大きなのは1.5mにも及ぶとされている(北村・村田,1982)。果実はクルミ,トチ,各種ドングンリと同様に縄文時代からの狩猟採取民にとって重要な食料源であった。 

 

近年,縄文時代中期頃とされる青森県の三内丸山遺跡で極めて高率に「クリ」の花粉分布域が検出され,当時この周辺には栽培・管理された純林に近い「クリ林」が存在していたことが明らかにされている。さらに,縄文人は果実を食料にするだけでなく木材を住居の柱,杭,丸木舟,櫂(かい)など土木・用具材に利用してきたことも明らかになってきた。木材には防腐効果のあるタンニンが含まれるため保存がきく。

 

三内丸山遺跡では,巨大な集落跡に「クリ材」を使用したと思われる地上の高さ15mと推定される6本柱の巨大な掘立柱建物跡(直径約1m)が出土している(鈴木・能城,1997;今井,2014;中山,2015)。果樹園学専攻の今井(2014)は,三内丸山遺跡の埋没部を含めると15m以上とも推定される掘立柱建造物の柱材を当時の集落の周辺にあった「クリ林」から調達することは容易なことではなかったと想像している。そして,このような特殊な材を得るために,果実を採取するための管理の他に,広葉樹用材林施業で一般的に不可欠とされる枝打ちや間伐などの人為的な管理もなされていたと推測している。

 

さらに,三内丸山遺跡よりも7,000~8,000年ほど遡る縄文草創期の住居跡(静岡県葛原沢Ⅳ遺跡,栃木県野沢遺跡)からも,エゴノキ,タケ類,コナラの仲間とともに「クリ材」の柱が出土している。

 

また,縄文時代の遺跡から水に浮かべて人や物を運ぶ「丸木舟」(1本をくり抜いた舟)も出土している。材料は東日本では「クリ材」が,日本海沿岸では「スギ材」が多用されているという(滋賀県文化財保護協会,2007)。縄文文化の中心が「東北」ということを考えれば,「クリ」は狩猟採集の縄文時代を通じて最もよく使われる木材の1つと考えられている。

 

物語で「栗」はセピラ峠にあるが,このセピラ峠の「セピラ」という名は,アイヌ語の崖(「ピラ・pira」),あるいは懐古的なイメージのある「セピア:sepia」と関係があるのかもしれない。「アイヌ」は北海道や「東北」に住んでいた。また,「アイヌ」は縄文人に近い民族とされている。すなわち,この「戦争」は,遠い昔(セピア色)の東日本(東北)で起こった戦いがイメージされているように思える。

 

(2)杉の登場が意味するもの

一方,年老いた烏の大監督が「官舎」にしている「杉」は,前述したようにヒノキ科の常緑針葉樹の「スギ」(Cryptomeria japonica (L.f.) D.Don)のことで,真っ直ぐに伸びる(直木)という名が由来の在来種である。高さ30~40m,胸高直径2mに及ぶものもある(北村・村田,1982)。「スギ」は比較的水分量の多い土壌を好むので,その生育する場所は沢筋の低湿地や扇状地末端などである。

 

「スギ」は縄文時代以前から我が国に分布していたとされる。何度かの氷期の間に絶滅せずに残った「スギ」は滋賀県の琵琶湖と福井県の若狭湾を挟む山地を中心に生存していたが,縄文時代に地球が温暖となったときに,落葉広葉樹が生育範囲を拡大する前に北へと向かっていった。

 

「東北」における「スギ林」の分布拡大は日本海側と太平洋側では異なることが知られている。秋田県を中心として降水量の多い日本海側地域では,平野部においておよそ4,400年前を契機にスギの分布の拡大が始まる。一方,降水量の少ない太平洋側の北上盆地(胆沢扇状地を含む)では1,400年前から1,000年前を契機に「スギ」の増加傾向が見られるという。前者は「秋田杉」と知られている天然スギであるが,後者は小規模な屋敷林などの植林であるという(安室,2013)。

 

賢治の短編童話『虔十公園林』も「スギ」の植林を題材にしている。多分,場所は北上盆地内であろう。軽度の知的障害がある虔十少年は,周囲の反対にもめげず自発的に自宅の裏手の野原に700本の「スギ」の苗を植林する。土地の者は,野原の下は「硬い粘土」だから「杉など育つものではない」とばかにする。しかし,虔十は間伐などをしながら育て,虔十稿園林と命名されるほどの立派な公園林にする。賢治も北上盆地の「スギ林」の多くが人為的な植林によるものだということを知っていたのかもしれない。 

 

「スギ林」は,縄文時代に「東北」の秋田県や岩手県の北上盆地に分布していたと思われるが,狩猟採取民は「スギ」を利用することはほとんどなかったらしい。「東北」に未だ「スギ」が十分に分布域を拡大していなかったことも考えられるが,この時代の伐採器具である「石斧」は刃先が鋭利ではないため,幹に打ち込んでも「スギ」の柔軟で繊維質豊富な材質によって撥ね返され切断することができなかったからとされている(有岡,2016)。針葉樹材の特徴として仮導管細胞が伸長方向に密な束となり繊維を形成しているからである。「クリ」などの堅い材の場合は,石斧で材を傷つけることができ,時間はかかるが伐採することができた。

 

古代において「スギ」を利用できたのは,鋭利な「鉄器」(鉄斧,刀子,鑿(のみ)など)を持っていた弥生人である。弥生人とは弥生時代に中国大陸や朝鮮半島などから渡来してきた大陸系弥生人と,縄文人がその文化を受け入れて混血した混血系弥生人などである。弥生人は集落の周辺に生育する「スギ」を「鉄器」で伐採し,水田の畦を「スギ」の板(矢板)で造成し,文化圏を作っていった。「スギ材」の用途として矢板以外に皿,鉢,高杯,匙,桶,鍬(くわ),田下駄,田舟,丸木舟などがある。弥生時代の代表的な遺跡として昭和18年から発掘作業が始まった静岡県の登呂遺跡があるが,この遺跡で出土した矢板,建築材料や木器の80%以上は「スギ材」であった(有岡,2010)。

 

弥生時代の遺跡からは「丸木舟」も出土している。多くは「スギ材」が使用されている。出土した「丸木舟」の造られた年代は明確ではないが,昭和63年現在の時点で出土している丸木舟は180艘あり,その樹種は30種のぼる。樹種の中で最も出土数が多いの「スギ材」の48艘であり群を抜いている。2番目の「カヤ(榧)」は32艘で5番目の「クリ」は14艘である。賢治の生きた時代にも「スギ材」の丸木舟の発見例が報告されている。1922年に青森市で長さ7mほどのものが出土している(山内,1950)。

 

時代が奈良・平安時代になると,「スギ材」が多種類の林産資源とともに舟・城柵・竪穴住居・農耕具などの生活分野に利用されるようになってきた。「舟」に関しては「伊豆手舟(丸木舟)」が知られている。和歌集である『万葉集』(759~780年頃)に,「鳥総立て足柄山に船木伐り 樹に伐り行きつあたら船材を」とあり,足柄山周辺が船材の重要な産地であったことが,さらに「吾背子を大和へ遣りて松し立す 足柄山の杉の木の間か」と足柄山に「スギ」の林が多かったことが記されている。また,『万葉集』には「防人の堀江漕ぎ出る伊豆手船 楫取る間なく恋はしげけむ」とあり,足柄山に続く伊豆の船材を使って造った手船が難波で使用されていたことも記されている(安田,1991)。

 

古い記紀にも記載がある。7世紀末から8世紀初頭にかけて編纂された『日本書記』の「神代上」には「杉」と「楠(くすのき)」は舟の材料に,「檜(ひのき)」は宮殿建築に適していると記されている。また『古事記』にも「杉」で丸木舟を作ったことが記されているという(有岡,2010)。賢治は,「スギ」の丸木舟をこれら記紀の記述を通して学んでいたかもしれない。

 

古代の「城柵(じょうさく)」にも「スギ材」が使用されている。「城柵」とは後述するが,古代に「東北」の辺境に設けられた「蝦夷(エミシ)」対策の城郭のことである。秋田県横手盆地北部に位置する払田柵跡は,9世紀初頭から10世紀後半まで存続した城柵跡である。発掘調査から,造営に際して大量の「スギ材」が使用されたことが明らかになっている。

 

払田柵の外柵は約4kmもあり,それを長さ4m,太さ約30cm四方の角材で,その距離を隙間なく並べてある。単純計算しても1万本以上の「スギ材」が使用されている(有岡,2010)。払田柵の「スギ」の柵木は,賢治が生きていた昭和5年(1930)に発掘調査したときに出土している。ただこの年は,賢治が物語を創作した6年後なので,賢治は古代の城柵が「スギ材」で作られていることは知らなかったかもしれない。

 

このように,古代の造船や家屋の造築において,縄文人などの狩猟採集民は「クリ材」を,農耕民や朝廷軍は「スギ材」を主に利用していたことが伺われる。ここで,セピラ峠に「碇泊」している「山烏」に「クリ材」を利用する武装した狩猟採集民が,そして雪の田圃に「仮泊」する烏の義勇艦隊に「スギ材」を利用する朝廷軍が投影されているとすれば,山烏と烏の義勇艦隊の戦いは日本列島の特に「東北」に先住していた狩猟採集民と渡来人を中心とした農耕民の子孫達の戦いがイメージされているのかもしれない。

 

3)他の賢治作品との関係

童話『烏の北斗七星』は童話集『注文の多い料理店』に収載された9つの童話の1つである。『烏の北斗七星』(1921.12.10)は,他の童話である『狼森と笊森と盗森』(1921.11)や『注文の多い料理店』(1921.11.10)の約1か月後に創作された。

 

童話集の広告文には,童話『注文の多い料理店』では「二人の青年紳士が猟に出て路に迷ひ注文の多い料理店に入りその途方もない経営者から却って注文されてゐたはなし。糧に乏しい村のこどもらが都会文明と放恣な階級とに対する止むに止まれない反感です。」が記載されていた。「放恣(ほうし)」とは勝手気ままで節度がないという意味である。童話『狼森と笊森と盗森』を「東北」の「先住民」と「入植者」(移住者)の衝突を扱った作品とし,童話『注文の多い料理店』が勝手気ままに都会文明を持ってきた「入植者」への反感を扱った作品とすれば,『烏の北斗七星』は「先住民」と「入植者」の戦いとなるのは必然のように思える。

 

「東北」への南からの移民は,「東北」の「先住民」である「蝦夷(エミシ)」対策に作られた「城柵」と深く関わっているとされている(高橋,2012;鐘江,2016)。「城柵」は,7世紀後半以降に「東北」に進出した律令国家の国境における最前線基地であった。「城柵」には,国家側から官人が管理者として送られるが,その「城柵」の経営を維持するために「柵戸」が配される。国家側の民が「城柵」の周辺に集団で移住し,開拓民的存在として周辺の開発と「城柵」での労働などに従事した。

 

霊亀元年(715)に相模・上総・常陸・上野・武蔵・下野六国の富民1000戸を「柵戸」として陸奥に配したという記録がある。「城柵」の周りには「移住者」だけでなく近隣から先住民達も集まり両者の交流も盛んになっていったという。すなわち,「城柵」は軍事拠点であるとともに「先住民」との交流の場でもあった。しかし,「移住者」の質が下がるなどして両者の衝突が頻繁に起こるようになり,やがて宮城県北部から岩手県にかけて,「蝦夷」と国家とは泥沼に嵌まったごとくの「三十八年戦争」(774~811)に突入する。

 

延暦21年(803)には,民ではなく駿河・甲斐・相模・武蔵・上総などの諸国から4000人の浪人が陸奥胆沢の「城柵」(胆沢城)の中あるいは周辺地域に集められた。

すなわち,童話『烏の北斗七星』における山烏と烏の義勇軍の戦争は,「東北」の武装した狩猟採集民の子孫である「蝦夷」と武装した農耕民(弥生人)の子孫である入植者あるいは国家の軍隊との戦いが背景にあると考えられる。(続く)

 

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