宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

宮沢賢治の童話『二十六夜』に登場する爾迦夷(るかい)とは誰か

本稿では童話『二十六夜』に登場する捨身菩薩・疾翔大力の弟子である〈爾迦夷〉が誰をイメージして創作されているのかについて考察する。童話で梟(ふくろう)の坊さんは〈爾迦夷〉を以下のように説明している。

 

爾迦夷といふはこのとき我等と同様梟ぢゃ。われらのご先祖と,一緒にお棲(すま)ひなされたお方ぢゃ。今でも爾迦夷上人(しゃうにん)と申しあげて,毎月十三日がご命日ぢゃ。いづれの家でも,梟の限りは,十三日には楢(なら)の木の葉を取(と)て参(まゐ)て,爾迦夷上人さまにさしあげるといふことをやるぢゃ,これは爾迦夷さまが楢の木にお棲ひなされたからぢゃ。この爾迦夷さまは,早くから梟の身のあさましいことをご覚悟遊ばされ,出離の道を求められたぢゃげなが,たうとうその一心の甲斐(かひ)あって,疾翔大力さまにめぐりあひ,つひにその尊い教を聴聞あって,天上へ行かしゃれた。

                   (宮沢,1985)下線は引用者 以下同じ

 

楢(ナラ)は,ブナ科コナラ属コナラ亜属のうち「落葉広葉樹」の総称である。ちなみに,コナラ(Quercus serrata Murray)は秋に堅果(ドングリ)を付ける。

 

東北は落葉広葉樹林が広がっていて西日本の照葉樹林とは植生が異なる。落葉広葉樹林には,ナラ以外にブナ,クリ,クルミなどの実(ドングリ)が豊富で,これらの堅果類が人間だけでなく,野生鳥獣にとっても貴重な食糧となっていた。さらに,山菜やキノコ,ヤマメ,サケなどのサケ科魚類の宝庫でもあった(Wikipedia)。従って,狩猟・採集を生業とする縄文時代には,ナラやブナなどの落葉広葉樹林地域の人口が照葉樹林地域を大きく上回っていた。縄文時代以後には,東北では狩猟・採集民族である「蝦夷(エミシ)」が「楢の木」と生活を共にしていた。「蝦夷(エミシ)」と呼ばれる人たちは日本の歴史書では平安時代までいたとされる。中世以後では「蝦夷」は「えぞ」と呼ばれるようになる。また,「蝦夷(えぞ)」は主に北海道や樺太の「アイヌ」を指す言葉として使われるようになる。

 

東北の平泉には黄金の文化を築いたが,中央政権によって滅ぼされてしまった藤原氏(清衡,基衡,秀衡)の遺体が金色堂に安置されている。藤原氏は,清衡の母が阿部氏の出であるように,「蝦夷(エミシ)」の流れをくむとされていて,その棺の中には狩猟・採集民族の象徴である「ドングリ」やクルミの類がいっぱい入れられていたという(梅原,1994)。

 

童話『二十六夜』の坊さんの説明では〈爾迦夷〉は「我等と同様梟ぢゃ」,「楢の木にお棲ひなされた」となっている。また,坊さんは梟を「暗闇に乗じて小鳥や田螺の命を奪って生きている」と説明する。つまり,坊さんは〈爾迦夷〉を「蝦夷(エミシ)」のような狩猟・採集民のようなものだといっている。〈爾迦夷〉の「夷」は「えびす」とか「エミシ」の意味である。多分,〈爾迦夷〉は名前も似ている「エミシ」の〈阿弖流為(あてるい)〉がイメージされているように思える。〈阿弖流為〉は8世紀末から9世紀初頭に陸奥国胆沢(現在の岩手県奥州市)で活動した「蝦夷(エミシ)」の族長とされる。〈阿弖流為〉は朝廷軍と戦ったたが延暦20年(801)の征夷が終結した翌年に坂上田村麻呂に降伏した。翌年都に連行され,8月13日(陰暦)に畿内の某所で処刑(斬首)される(及川,2013)。すなわち,13日が命日である。しかし,〈阿弖流為〉の墓がどこにあるのかは分かっていない。また,賢治が生きていた時代のどこかで〈阿弖流為〉の命日に慰霊祭のようなものが行われていたのかもしれない。

 

話はそれるが,「蝦夷(エミシ)」は若い世代には馴染みのない用語と思われるので少し捕捉する。1997年にスタジオジブリが発表した宮崎駿監督の長編アニメーション映画『もののけ姫』に登場する少年アシタカが住んでいた村が「蝦夷(エミシ)」の村である。アシタカは〈阿弖流為〉の部族の末裔とされている(叶,2023)。

 

賢治の詩「原体剣舞連」に達谷の悪路王が登場する。悪路王とは昔,平泉の達谷窟という洞窟に住んでいたと伝えられる採取・狩猟文化を有する先住民族「蝦夷(えみし)」のリーダーである。悪路王は〈阿弖流為〉が伝説化された人物であるとされる。やがて,侵略してきた大和朝廷によって,はげしい激戦の末滅ぼされてしまった。賢治研究家の力丸光雄は,この詩の「気圏の戦士わが朋たちよ/青らみわたる顥気をふかみ/楢と椈とのうれひをあつめ」という詩句には,「一万数千年のあいだ,サケ・マスとともにナラ林ないしブナ林に支えられてきた縄文の文化が,弥生の勢力に押され,いつしか山林の奥に消え去った先住の人たちの怨念が籠められていて,その怨念や地霊を鎮める祈りが,大地を踏みしめて踊る剣舞に表現されている」と述べている。多分,賢治は,「楢」や「椈」には,大和朝廷によって打ち負かされた縄文の末裔である「蝦夷」の「うれい」や「怨念」の記憶が宿っていて,その「うれい」や「怨念」が「大地を踏みしめて踊る剣舞」によって鎮められるものと考えたのだと思う。

 

ちなみに,江刺の原体村の剣舞は8月13日~16日のお盆に行われるようである。ただし,陰暦ではない。現在,「アテルイを顕彰する会」(2018年会長;伊藤博幸)が〈阿弖流為〉の命日にあたる9月17日(陰暦8月13日)を「アテルイの日」として制定し,毎年この日を中心に〈阿弖流為〉らを偲び,顕彰し,交流する日とすることを呼びかけている。

 

賢治作品に〈阿弖流為〉らしき人物が「文語詩稿五十篇」の未定稿詩〔水と濃きなだれの風や〕にも記載されている。これは,賢治研究家の浜垣誠司(2006)がすでに指摘している。

 

水と濃きなだれの風や,むら鳥のあやなすすだき,

アスティルベきらめく露と,ひるがへる温石(おんじゃく)の門。

海浸す日より棲みゐて,たゝかひにやぶれし神の,

二かしら猛きすがたを,青々と行衛しられず

                       (宮沢,1985)

 

「温石の門」は,蛇紋岩のこと。「海浸す日」は,下書き稿に「洪積」と地質時代の洪新世(170万年前から1万年前)の別称を記載していることから,現在の東北を南北に流れる北上川がまだ海の底であった頃という意味であろう。少なくとも1万年前に東北に住んでいたのは「縄文人」と呼ばれていた人達である。それゆえ「海浸す日より棲みゐて」とは,「1万年以上前から蛇紋岩台地の北上山地に棲んでいた」という意味であろう。

 

「たゝかひにやぶれし神」の「たゝかひ」とは,古代史に記録に残されている朝廷と「蝦夷(エミシ)」の戦いであろう。「神」を「蝦夷(エミシ)」の指導者とすれば,「二かしら猛きすがたを」の「二かしら」は〈阿弖流為(アテルイ)〉と副将の〈母禮(モレ)〉の首であろう。

 

参考・引用文献

浜垣誠司.2006.宮沢賢治の詩の世界.たゝかひにやぶれし神(1).http://www.ihatov.cc/blog/archives/2006/01/1_22.htm

叶 精二.2023.宮崎 駿論-「もののけ姫」の基礎知識.http://www.yk.rim.or.jp/~rst/rabo/miyazaki/kisochishiki.html

及川 洵.2013.蝦夷(えみし)アテルイ.文芸社.

力丸光雄.2001.《賢治と植物》-心象の博物誌.宮沢賢治16:50-61.

宮沢賢治.1985.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.

梅原 猛.1994.日本の深層 縄文・蝦夷文化を探る.集英社.