宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

童話『二十六夜』考-梟の子である穂吉の左脚に結ばれた「赤い紐」は運命の「赤い糸」か-

童話『二十六夜』はガチガチの宗教的な読み物のように見えるが,童話『やまなし』や寓話『シグナルとシグナレス』で見られるような悲恋物語も入れてある。すなわち,童話『二十六夜』は梟(ふくろう)の子である穂吉と人間の子の悲恋物語である。穂吉は3人兄弟の1人として紹介されている。性別は明かされていないが女性がイメージされていると思われる。3人の中では一番小さく,他の兄弟からは穂吉ちゃん,他の梟たちからは穂吉さんと呼ばれている。他の兄弟は騒がしく親に反抗的だが,穂吉はおとなしく従順であり,他の梟から賢い子と思われている。穂吉の読み方が童話には記載されていない。ほとんどの漢字にルビがふってあるので不思議である。賢治は穂吉の正体を隠しているのかも知れない。「穂」は「スイ,ズイ,,ひいずる,ひで ,ひな,みの」という読み方がある。「吉」は「キチ,よし」である。もしかしたら,穂吉が女性と思われるので「ほきち」ではなく「およし」と読ませたかったのかもしれない。

 

2人いる人間の子供のうち1人は木に登ったりするので男性と思われる。穂吉(およし)は25日の明け方に西の人間が立ち入る場所に兄弟に誘われて行ってしまう。母の人間のいる場所に近づくなという言いつけを守らなかったのであろう。この童話では梟の坊さんが説教していると繰り返し汽車の走る音が聞えてくる。特に上り列車が通過するとき梟たちは説教を聞きながらも汽車の「赤い明るいならんだ窓」のことを考えてしまう。東の松林にいる梟たちは西や南にある文化に「恐れ」と「憧れ」を抱いていると思われる。穂吉もその1疋(人)である。そして,その場所に立ち入ってしまった穂吉は木に止まっているとこころをそっと登ってきた人間の子供に捕まってしまう。穂吉を捕まえた人間の子供は穂吉の左脚に「赤い紐」を結ぶ。不思議なことに穂吉は人間に捕まって「赤い紐」を左脚に結ばれても泣くことはなかった。泣いたのは26日に脚を折られて松林に戻ったあとである。穂吉は「ああ僕はきっともう死ぬんだ。こんなにつらい位ならほんたうに死んだ方がいゝ。・・・あゝ痛い痛い。」と泣く。

 

ちなみに,25日の明け方に穂吉が2人の兄弟と一緒に遊びに出かけたところはどこであろうか。24日の晩,2人の兄弟は坊さんの説教に飽きて実相寺の林に遊びに行っているので,25日の明け方も同じ場所だった可能性がある。実相寺の林は物語の舞台となった獅子鼻の北西に位置している。現在の花巻市下根子の一部を指す地名で当時に実相寺という寺があったことによる。ここには宮沢家の持山があった。狐や梟もいたという(原,1999)。

 

では,穂吉の脚に結ばれた「赤い紐」とは何であろうか。多分,今流に言えば運命の「赤い糸」だったのかもしれない。すなわち,「赤い紐」は結婚相手を結びつける眼に見えない「赤い糸」と関係すると思われる。「赤い糸」の話は唐代の伝奇小説集『続玄怪録』の「定婚店」にある「赤縄」の故事に由来する。『続玄怪録』にある「赤縄」の現れる部分は以下のところである。現代語訳は劉(2014)による。

 

因問囊中何物。曰。赤繩子耳。以繫夫婦之足。及其坐則潛用相繫。雖讐敵之家。貴賤懸隔。天涯從宦。吳楚異鄕。此繩一繫。終不可逭。

 

そこで袋の中にある物は何かと尋ねると,老人は「赤い縄です。これで夫婦となるものの足を結びつけるのだ。人が生まれるとこっそりと結びつけるのだが,たとえ敵同士の家に生まれるとも,身分が隔たっても,地の果てに赴任しても,呉と楚のような遠く異郷にいても,この縄で一たび結ばれたら,もう逃れることはできないのだ」と答えた。

 

日本での運命の「赤い糸」は足(脚)ではなく左手の小指に付ける。左は永遠の愛を誓う「婚約指輪」をはめる側に,小指は約束を守るということを意味する「指切り」に由来するとされる。

 

人間の子供(男性)と穂吉(女性)の関係は童話『やまなし』では鉄色の〈魚〉と〈クラムボン〉,寓話『シグナルとシグナレス』では〈シグナル〉と〈シグナレス〉に対応する。つまり賢治と恋人のことである。童話『やまなし』では鉄色の〈魚〉は口をリング(環)のように開け婚約指輪に見立てて〈クラムボン〉に近づく。寓話『シグナルとシグナレス』では〈シグナル〉は「琴座」のα,β,γ,δ四星の作る菱形をプラチナリングに,環状星雲M(メシエ)57を宝石に見立てて〈シグナレス〉に贈る。環状星雲には「フイツシユマウスネビユラ」のルビが振ってある。人間の子供(賢治)は穂吉(恋人)の脚に「赤い紐」を結びつけて一緒にいることを約束したのであろう。だから,穂吉は,仲間の梟たちには捕まってひどいことをされていると思われているのに,おとなしくして泣かなかったのである。むしろ,静かに喜んでいたのかもしれない。実在の人物と童話に登場するキャラクターとの関係を第1表に示す。

 

 

童話『二十六夜』の穂吉がそっと登ってきた人間の子供に捕まってしまう場面は,童話『やまなし』ではクラムボンの上を行ったり来たりしている鉄色〈魚〉に対して子蟹の兄弟が「何か悪いことをしてるんだよとってるんだよ」と話をしている場面に対応している。しかし,実際は「捕(盗)っている」のでも「悪いこと」をしているのでもない。人間の子供は鉄色の〈魚〉と同様に穂吉に好意を示しているのである。

 

しかし,1日(実際は1年)で破局して「赤い紐」の結びはほどかれてしまった。「脚を折った」とは「赤い紐」を外したことを意味していると思われる。「赤い紐」は「たとえ敵同士の家に生まれるとも,この縄で一たび結ばれたら,もう逃れることはできない」から,脚を折ってでも外すしかなかった。穂吉(恋人)はきつく結ばれた「赤い紐」をほどかれたので泣いたのである。

 

旧暦6月26日は賢治にとってどのような日であったのか。旧暦の6月26日を新暦に直すと大正12年(1923)なら8月8日にあたる。賢治はこのとき北海道と樺太を旅行していた(7月31日~8月12日まで)。賢治は花巻に戻ったあと8月31日という日付のある詩に「雲とはんのき」に「(ひのきのひらめく六月に/おまへが刻んだその線は/やがてどんな重荷になつて/おまへに男らしい償ひを強ひるかわからない)/手宮文字です 手宮文字です」と記載している。この詩にある「おまえ」を賢治とすれば,賢治は線を何に刻んだのか。別な言葉に置き換えれば,誰を傷つけたのだろうか。償いをしなければならないとあるので,傷つけたのは恋の破局の相手であろう。

 

「ひのきのひらめく六月・・・」の詩句は,この詩を書いた3か月前の「風林」(1923.6.3)という詩の中に記載されたものと関係があると思われる。

 

この詩には「(かしはのなかには鳥の巣がない/あんまりがさがさ鳴るためだ)・・・・月はいましだいに銀のアトムをうしなひ/かしははせなかをくろくかがめる/柳沢(やなぎざわ)の杉はなつかしくコロイドよりも/ぼうずの沼森(ぬまもり)のむかふには/騎兵聯隊の灯も澱んでゐる/《ああおらはあど死んでもい》/《おらも死んでもい》/(それはしよんぼりたつてゐる宮沢か/さうでなければ小田島国友・・・・」(下線は引用者)とある。

 

詩「風林」の二重括弧内の「ああおらはあど死んでもい」という言葉を誰が言ったのかについては,妹のトシであるとか教え子であるとか,諸説がある(浜垣,2017).私は恋人だと思っている。詩「風林」の最初の内省の言葉「(かしはのなかには鳥の巣がない/あんまりがさがさ鳴るためだ)」は文語詩〔きみにならびて野にたてば〕の下書稿にある恋人の言葉と思われる「さびしや風のさなかにも/鳥はその巣を繕(つぐ)はんに/ひとはつれなく瞳(まみ)澄みて山のみ見る」と重なる。また,賢治は「月」を恋人に喩えることがあるので,詩「風林」の「月はいましだいに銀のアトムをうしなひ」は恋人が衰弱していく様子が描かれているように思える。また,二重括弧内の言葉は童話『二十六夜』の〈穂吉〉が脚を折られたあとに語った言葉「こんなにつらい位ならほんたうに死んだ方がいゝ」と同じである。前述したように〈穂吉〉には恋人が投影されていると思われる。すなわち,賢治は恋人が言った言葉を幻聴として聞いたのだと思われる。「(それはしよんぼりたつてゐる宮沢か・・・)」の「宮沢」は幻聴を聞いた賢治自身と思われる。賢治は自分自身の姿を幻視し,恋人の声,そして恋人に答える自分の声も聞いているのだと思われる。ただ,二重括弧内の言葉を聞いているのが幻影としての賢治なのか実際に現場にいる賢治なのかは区別されていない。

 

参考・引用文献

浜垣誠司.2017.宮澤賢治の詩の世界-《ああおらはあど死んでもい》の話者.https://ihatov.cc/blog/archives/2017/01/post_871.htm

劉 金宝.2014.太宰治の「思ひ出」における「赤い糸」と中国の赤縄説話 : 沖縄に伝わる赤縄説話と「吉備津の釜」における「赤縄」を中心に.九大日文.23:2-13.