宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

童話『やまなし』考 -冬のスケッチ(創作メモ)にある「みずのそこのまことはかなし」とはどういう意味か (第1稿)-

前稿で異稿「冬のスケッチ」に残されていた童話『やまなし』の創作メモ「さかなのねがひはかなし/青じろき火を点じつつ。//みずのそこのまことはかなし」の最初の1行と2行目は「さかな(賢治)のクラムボン(恋人)を水底(花巻)から連れだそうとした願いは悲しい/青白き火の点るところ(アメリカ)へいっしょに行きたいという気持ちは強くあったのに」という意味であることを報告した。(石井,2023a,b)。本稿ではこの短唱の残りの1行「みずのそこのまことはかなし」が何を意味しているのかを考えてみたい。本稿は第1稿と第2稿の2つで構成されている。

 

寓話『シグナルとシグナレス』(1923.5.11~23)に類似した表現がある。結婚を反対された〈シグナル〉と〈シグナレス〉が,遠い天上の青い霧の炎が燃えている星に連れ出してくれるように祈る場面である。

 

「あゝ,お星さま,遠くの青いお星さま,どうか私どもをとってください。あゝなさけぶかいサンタマリヤ,まためぐみふかいジョウジ スチブンソンさま,どうか私どものかなしい祈りを聞いてください。」

「えゝ。」

「さあいっしょに祈りませう。」

「えゝ。」

「あわれみふかいサンタマリヤ,すきとほる夜の底つめたい雪の地面の上にかなしくいのるわたくしどもをみそなわせ,めぐみふかいジョウジ スチブンソンさま,あなたのしもべのまたしもべ,かなしいこのたましいのまことの祈りをみそなわせ,あゝ,サンタマリヤ。」

「あゝ。」

                  (宮沢,1985)下線は引用者 以下同じ

 

まことの祈りをみそなわせ」の「みそなわせ」は「ご覧下さい」という意味である。また,「サンタマリヤ」は聖母マリアのことで,ジョウヂスチブンソン(ジョージ・スチーブンソン;George Stephenson,1781 - 184)は英国の土木技術者,機械技術者で,蒸気機関車を使った公共鉄道の実用化に成功した人物である。ちなみに,聖母マリアは仏教的には観世音菩薩に相当すると思われる。また,この引用文最後の「すきとほる夜の底」や「かなしいこのたましいのまことの祈りをみそなわせ」は,「冬のスケッチ」の「みずのそこのまことはかなし」という表現と似ている。

 

〈シグナル〉も〈シグナレス〉も地面に固定された信号機なので駆け落ちしたくても自分たちの力だけで遠い青い星に行くことはできない。だから,2人は青い星に自分たちを「とってもらう」ように,聖母マリアや鉄道の設置技術に詳しいにジョージ・スチーブンソンに祈りを聞いてもらっている。「とってもらう」とは「盗ってもらう」(あるいは連れ出してもらう)という意味と思われる。〈シグナル〉は本線のものであり,〈シグナレス〉は軽便鉄道のものである。〈シグナル〉と〈シグナレス〉の結婚が許されないなら誰かに盗んでもらうしかない。

 

また,寓話『シグナルとシグナレス』の「すきとほる夜の底」には〈シグナル〉と〈シグナレス〉が居るが,童話『やまなし』の水の底に〈クラムボン〉と〈魚〉は居るのであろうか。〈クラムボン〉は石の下の小さな生物という意味で「カゲロウ」のことであることはすでに述べた(石井,2021)。だから,〈クラムボン〉は水底にいる。しかし,〈魚〉は川底にはいない。〈かはせみ〉によって連れ去られてしまったからである。

 

「みずのそこのまことはかなし」の「かなし」は,童話『やまなし』に沿って考えるなら,水の底から連れ出してくれるものがいなくなった〈クラムボン〉の「悲しみ」と思われる。

 

〈シグナレス〉は〈シグナル〉から「僕たちたった二人だけ,遠くの遠くのみんなのいないところに行ってしまいたいね」と問われたとき,「えゝ,あたし行けさえするなら,どこへでも行きますわ」と答えている。また,〈シグナレス〉はその遠くに見える小さな星にキッスしたそうにしていた。この「どこへでも行きますわ」という言葉は重要である。すなわち,〈シグナレス〉は地面に固定されていなければ〈シグナル〉の行くところなら何処へでもついていくと思われる。多分,〈シグナレス〉は〈シグナル〉以上に「すきとほる夜の底」から離れることを願っていたし,「とってもらう」ことを望んでいたと思われる。〈クラムボン〉は石の下にいる小さな生物で「カゲロウ」の幼虫(ニンフ→妖精)である(石井,2021)。「カゲロウ」は水の底で脱皮を繰り返しながら幼虫時代を過ごすが,半年から1年で羽化して空中で飛び出していく。すなわち,〈クラムボン〉もまた水底から早く抜け出して谷川の外へ出たいと願っていたかもしれない。〈シグナレス〉や〈クラムボン〉には賢治の恋人が投影されていると思われる。

 

賢治は,結婚を反対されたとき恋人とアメリカへ駆け落ちも考えたと思われる。しかし,花巻から離れられることができずに破局に終わってしまった(石井,2023b)。では,恋人は賢治が駆け落ちしようとしたら〈シグナレス〉のように付いていくと言ったであろうか。この答えが「みずのそこのまことはかなし」と強く関係すると思われる。恋人が「どこへでも行きますわ」と言った〈シグナレス〉のように賢治に付いていく思いが強ければ,連れ出してもらえないことは深い「悲しみ」となるからである。

 

恋人がどのような女性であったのかについてほとんど知られていない。これは不思議なことなのだが賢治の恋愛期間の頃の手紙も全く残されていない。ただ,花巻生まれで賢治研究家の佐藤勝治(1912~2010)の著書にわずかであるが恋人の素顔を推察できる情報が残されていた(佐藤,1984)。佐藤は賢治の恋人に言及していた小沢俊郎の『薄明芎をいく』という著書に触発されて,5~6年前から恋人の家族や友達あるいは近隣住民から聞き取り調査をしていた。

 

恋人は花巻在住で花城尋常高等小学校の代用教員をしていたという。年齢は賢治よりも4つ下である。出会いは賢治が友人の藤原嘉藤治と一緒に開催したレコード鑑賞会である。恋人は友人7~8人の姉さん格として参加していた。佐藤によると,聞いた人みなが,恋人について「背のスラリとした,色白の美人であった」,「りこうで思いやりがあり,よくみんなの世話をした」と語るのだという。また,「小さな妹を連れて宮沢家に賢治を訪ねていた」,「宮沢家から恋人の家に結婚の打診もあった」という話も聞いている。詩「春光呪詛」(1922.4.10)には「髪が黒くてながく/しんと口をつぐむ・・・/頬がうすあかく瞳の茶いろ・・・」とある。恋をしていた時期は大正11年(1922)の春頃からで約1年間である。

 

ただ,佐藤が賢治側から聞き取りをしていないのが不思議である。著書には「宮沢家の方々の全くご存じない,賢治の『秘めたる恋愛』である。だが,宮沢家の方々へ直接お聞きするわけにもいかない」とある。前述したように恋人が「小さな妹を連れて宮沢家に賢治を訪ねていた」とあるのに賢治の家族がそれを知らないというのは私には理解できない。

 

実家の蕎麦屋は慶長2年(1597)創業といわれている(泉沢,2019)。佐藤(1984)の調査によれば恋人の母は仙台藩の客分であったある高級武士の娘であったという。多分,母の実家は伊達家にかなり優遇された武家であった可能性がある。恋人は破局後の大正13年6月に渡米し宿泊業を営む日本人(岩手県大迫出身で61歳)と結婚したが3年後にシカゴで亡くなった(27歳)。死因は僧帽弁狭窄症・心不全であった。この間,恋人は2児をもうけたが夭折している。これらの事実の多くは米国国立公文書館に保管されている記録に記載されているものである(布臺,2019)。また,恋人の葬儀はシカゴ市内の教会で行われたともいう(澤口,2011)。

 

恋人の写真も何枚か公開されていた。その内の1枚は友人4人と一緒のもので,友人たちは姿勢を崩して笑っているが,恋人のみが姿勢を正して口を結んでいる。渡米後のものは大正ロマンを感じさせる帽子を被り洋服を着ている。姿勢も崩していて履いている靴のかかとも高い(賢治・愛のうた展~作家,澤口たまみが読み解く宮沢賢治の恋ごころ~.2015年4月8日~6月28日)。

 

佐藤の発見した賢治の恋人は,同じ頃に賢治の年譜作成で知られている堀尾青史によっても紹介されていた(堀尾,1984)。堀尾は自分が編集した『宮沢賢治 愛の童話集』の解説文で,この恋人は詩集『春と修羅』に登場する恋人のことであると述べている。ただ堀尾は,不思議なことに,自分が作成した賢治年譜や校本宮澤賢治全集に賢治の恋人を記載しなかった。さらに,佐藤(1984)自身も,恋人を世間に紹介することを躊躇していたふしがある。著書の中で「事実は事実であるし,事実はいちばん強いことではあるが,もしこの真率な一人の女性,賢治との恋の故に,はかなく短命で終わったこの女性が,もしも否定され,無視されるようであったならば,かの女のために余りにむごい。賢治に殉じたともいえる若く美しい魂をむしろ冒涜することを,私は恐れるのである」と記載している。佐藤は以後この女性について語ることをしなくなった。そのため,賢治の恋人が世間一般に認知されることもなかった。

 

忘れ去られようとした賢治の恋人の存在は,そのあと盛岡市生まれのエッセイスト澤口たまみ(2010,2011)によって再び紹介されるようになった。約90年の時が過ぎている。澤口は恋人の遺族から,実家は蕎麦屋であること,恋人には兄(賢治と同級)と弟と3人の妹がいたこと,妹の1人が姉(恋人)の代わりに賢治に手紙を届けていたこと,返事は賢治から貰っていたこと,恋人が結核を発病していたこと,賢治と恋人の結婚に強く反対したのは恋人の母であったことなどを聞いている(澤口,2011)。また,恋人の母は厳格で厳しい人で「ダメ」と言ったら絶対に「ダメ」であり,子供らに恐れられていたという(澤口,2018b)。

 

宮沢賢治学会の参与でもある栗原敦は澤口の著書を紹介する新聞記事に対して「『春と修羅』の時代に,賢治と交際のあった女性が実在したことは小沢俊郎が記したとおり,旧校本編集編纂時にそれが紹介されようとしていたことは事実です。事情があってその公表の機会が失われたことも小沢から聞いた話として承知しています」とコメントしている。また,「小沢さんとの会話の中で,それが誰であるかなどはどうでもよく,しかしあれだけいろいろ作品に見える根拠のあることだったかどうかだけがはっきりすればよかったんだがねえ,という意味の小沢さんの言葉に全く同感を示した」とも記している(栗原,2011)。

 

これらの情報の中に矛盾点も見られる。遺族からの結核に関する情報である。恋人の死因から判断すると恋人が結核を患っていた可能性は少ないように思える。なにせ賢治の恋が90年前ということで,遺族の記憶に不確実性が生じることは避けられない。

 

ここで,1つ疑問が生じる。宮沢家側はこの件に関してまったく情報を発信していないのに,なぜ恋人側の遺族は情報公開を受け入れるようになったのかである。その1つの答えとなるものを,偶然にも澤口(2018a)の講演会で聞いた。遺族は恋人が賢治から「愛されていた」ことを理解できて公表を受け入れたとのことである。確かに,佐藤の著者を読んでも,「男の心の解きかねる女性は,ただ地上の愛に哭(な)く」と表現したりして,2人が相思相愛であったという感じがしない。これは堀尾の著書でも同じである。「わが身の小福をのぞむより,衆生の幸福を祈ることが,賢治の命題なのである」と結論づけている。これに類した言葉は「農民芸術概論」に賢治自身も書いているが,本当にそう思っていたかと言えば疑問である。本ブログでもこの疑問点について何度か述べたことがある(石井,2022a,b)。それならなぜ恋などしたのだと思ってしまう。これらは賢治の大望を叶えさせるために恋人は身を引くべきだと言っているようなものである。佐藤は「殉じる」という表現さえ使用している。また,恋が大望を叶えるための「息抜き」あるいは「遊び」のようなものになってしまう。これでは恋人や恋人側の立つ瀬がない。

 

もう1つ疑問というか不思議なことがある。賢治研究者は数多く居るのに,佐藤らの発見した恋人について作品と関連付けて議論するものが,童話『やまなし』が発表されて100年たった今でも,澤口たまみ以外には浜垣誠司(2017)や米地文夫(2019)など少数しかいないということである。賢治=聖人(菩薩)という賢治のイメージを壊したくないという宮沢家および堀尾,佐藤を含む多くの研究者たちの思いが見え隠れする。元宮沢賢治記念館館長の宮澤雄造(賢治の弟・清六の女婿)がノンフィクション作家の吉田司に「こんなことをいえば,また女房に叱られるだろうが,身内・親戚としては,賢治のいいところだけを見てもらいたいという気持ちが強過ぎて,悪いところくを隠して表に出そうとしない。賢治の女性関係なんかガードが固くて固くて(笑)。そうした遺族の意向が研究者の学者や先生方にも自然に伝わっているものだから,『聖人』みたいな賢治像しか出てこない」と話している(吉田,2002)。

 

戦後日本を代表する知性として思想界を牽引した吉本隆明(2012)は「宮沢賢治を語る」という講演会(1990.2.10.)で「宮沢賢治は菜食主義者だったとか,生涯妻帯しなかったとか。つまり,あの人は超人,菩薩になりたかった。そのために,盛んに精進に精進を重ね,無理に無理を重ねていく。菩薩というのは向こうの世界から来た人だということが,大乗仏教の考え方です。つまり,この人は頭がいいのだけれど,本当は宇宙人と同じで向こうの世界から来た人で,そういう人に学ばなければいけないというのが仏教の考えです。そういうところに宮沢賢治は行きたかった。そして,生涯それに費やした。行ったかどうかはそれぞれでしょうけど,とにかくやめなかった人だとおもいます。それは現在でも宮沢賢治が受けている理由の一つだとおもいます(笑)。しかし,そういうふうに宮沢賢治をおもっている人たちは,城のように囲ってしまい,ほかの人は入れない。偉い人の特性で(笑),仕方がないのですが,どうしてもそうなります。そこが弱点としてたくさんの問題をはらんでいると,ぼくはかんがえます」と語っている。

 

澤口の最近の著書『宮澤賢治 百年の謎解き』(2022)に対する匿名のAmazonカスタマーレビューに「宮澤賢治は近代日本文学を代表する作家として世界でも著名になっており,死後90年近くが経つ。三島由紀夫や川端康成は没後50年程度だが,そのはるか前から生き様や恋愛が研究対象とされている。宮澤賢治の文学は三島や川端と比べて研究対象とならない程のものなのであろうか?・・・そろそろ宮澤賢治を解放しても良いのではないでしょうか。」というのがあった。私も同感である。吉本隆明(2012)は賢治の『銀河鉄道の夜』は20世紀に書かれた文学のなかで指折りに数えられる名作であると言っている。私はこの名作を書かせたのが恋人であるとも思っている。

 

少し横道にも逸れたが,賢治の恋人について知り得たことを書いてみた。また,恋人の情報が少ない理由と思われるものも一緒に述べたつもりである。ただ,これらの情報だけでは恋人の賢治への気持ちを察することはできない。すなわち,賢治がアメリカへ駆け落ちすると言ったとき,恋人は賢治について行ったかどうかという疑問に答えられない。(続く)

 

参考・引用文献

浜垣誠司.2017.宮澤賢治の詩の世界-ありえたかもしれない結婚.https://ihatov.cc/blog/archives/2017/08/post_889.htm

布臺一郎.2019.ある花巻出身者たちの渡米記録について.花巻市博物館研究紀要.14:27-33.

堀尾青史.1984.宮沢賢治 愛の童話集.童心社.

石井竹夫.2021.童話『やまなし』に登場するクラムボンは石の下の小さな生物という意味である.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/09/22/090152

石井竹夫.2022a.自分よりも他人の幸せを優先する宮沢賢治 (3)-それによって築いたものは蜃気楼にすぎなかったのか-.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2022/01/03/085451

石井竹夫.2022b.童話『ガドルフの百合』考(第6稿)-賢治は本当に〈恋〉よりも〈宗教〉の方を重要と考えたのか.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2022/05/08/075438

石井竹夫.2023a.童話『やまなし』考 -冬のスケッチ(創作メモ)にある「さかなのねがいはかなし」とはどういう意味か(第2稿)-.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2023/02/02/115335

石井竹夫.2023b.童話『やまなし』考 -冬のスケッチ(創作メモ)にある「青じろき火を点じつつ」とはどういう意味か-

泉沢善雄.2019.オッホの森 ≪イーハトーブ事件簿≫ 大畠家の家系.https://blog.goo.ne.jp/g-izumi/e/33cd44c8223340033a525500f7b8e743

栗原 敦.2011.新校本全集訂正項目・「きみにならびて野にたてば-賢治の恋」の〈詩〉読解のこと.賢治研究.115:36-38.

宮沢賢治.1985.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.

佐藤勝治.1984.宮沢賢治 青春の秘唱“冬のスケッチ”研究.十字屋書店.

澤口たまみ.2010.宮澤賢治 愛のうた.盛岡出版コミュニティー.

澤口たまみ.2011.きみにならびて野にたてば-賢治の恋.重松清・澤口たまみ・小松健一(著)宮澤賢治 雨ニモマケズという祈り.新潮社.

澤口たまみ.2018a.荻窪の本屋titleでの澤口たまみ講演会(2018.11.19).

澤口たまみ.2018b.神保町ブックハウスカフェでの澤口たまみ講演会(2018.12.20).

関登久也.1994.宮沢賢治物語.学習研究社.

米地文夫.2019.宮沢賢治が描いた架空の島「三稜島」の手書き地形図.総合政策.20:1-11.

吉田 司.2002.宮澤賢治殺人事件.文藝春秋.

吉本隆明,2012.宮沢賢治の世界.筑摩書房.