宮沢賢治と橄欖の森

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童話『ガドルフの百合』考(第4稿)-夢の中で争う二人の男は誰か

背の高い「白百合」が嵐で折れたことを恋の破局と解釈すれば,この破局の理由は何であろうか。ヒントは,「白百合」が折れた直後に「クジラの頭」をイメージしている「稜が五角の屋根」を持つ「巨きなまっ黒な家」の中で見た夢の中の二人の男の争いに隠されている。なぜなら,遠い昔(何世紀も前)を思い出しながら見た夢の中にガドルフ自身も登場し,「坂の上」で争っている二人の男に倒されてしまうからである。本稿では,夢の中で争う二人の男が誰なのか明らかにする。

 

溺死や自動車事故などの死の危機に瀕するとき,これまでの人生を一瞬で追加体験する「走馬灯」がよぎることがあるということが知られているが(ドラーイスマ,2009),疲労困憊しているガドルフも同じようにこの「走馬灯」を経験しながら眠り込む。

 

 それから遠い幾山河の人たちを,燈籠のやうに思ひ浮かべたり,又雷の声をいつかそのなつかしい人たちの語(ことば)を聞いたり,又昼の楊がだんだん延びて白い空までとゞいたり,いろいろなことをしてゐるうちに,いつかとろとろ睡らうとしました。そして又睡ってゐたのでせう。

 ガドルフは,俄かにどんどんどんという音をききました。ばたんばたんといふ足踏みの音,怒号や潮罵(ちょうば)が烈(はげ)しく起りました。

 そんな語はとても判りもしませんでした。ただその音は,たちまち格闘らしくなり,やがてずんずんガドルフの頭の上にやって来て,二人の大きな男が,組み合ったりほぐれたり,けり合ったり撲(なぐ)り合ったり,烈しく烈しく叫んで現はれました。

 それは丁度奇麗に光る青い坂の上のように見えました。一人は闇の中に,ありありうかぶ豹(へう)の毛皮のだぶだぶの着物をつけ,一人は烏(からす)の王のやうに,まっ黒くなめらかによそほってゐました。そしてガドルフはその青く光る坂の下に,小さくなってそれを見上げてる自分のかたちも見たのです。

 見る間に黒い方は咽喉(のど)をしめつけられて倒されました。けれどもすぐに跳ね返して立ちあがり,今度はしたたかに豹の男のあごをけあげました。   

 はも一度組みついて,やがてぐるぐる廻(まわ》って上になったり下になったり,どっちがどっちかわからず暴れてわめいて戦ふうちに,たうとうすてきに大きな音を立てて,引っ組んだまま坂をころげて落ちて来ました。

 ガドルフは急いでとび退(の)きました。それでもひどくつきあたられて倒れました

 そしてガドルフは眼を開いたのです。がたがた寒さにふるへながら立ちあがりました。               (宮沢,1986)下線は引用者;以下同じ

 

ガドルフは眠り込んだ後に夢を見る。足踏みする音や激しく怒鳴り合う声を聞き,そして「光る青い坂の上」に「豹の毛皮のだぶだぶの着物をつけた男」と「まっ黒くなめらかによそほってゐる烏(からす)の王」が争うのを見る。この「光る青い坂の上」には,二つの意味が込められていると思う。一つは,文字通りの「地形」が斜面になっている「坂」の上のことであり,もう一つは歴史上の人物と関係がある。

 

この語句の「坂の上」を「地形」を示す北上山地と解釈すれば,「文語詩稿五十篇」の未定稿詩〔うからもて台地の雪に〕の情景にイメージが重なる。

       

うからもて台地の雪に,部落(シュク)なせるその杜黝(あおぐろ)し。

曙人(とほつおや),馮(の)りくる児らを,穹窿ぞ光りて覆ふ。

                         (宮沢,1986)

 

「うから」は部族で,「曙人」はルビにあるように「先祖」で,穹窿は天空のことである。賢治の文語詩を研究している信時(2007)によれば,この詩の意味は「雪の積もった台地に一族が集まり,その集落の森が青黒く見える。先祖の血をひき,魂までも乗り移った子供らを,天空から降り注ぐ光が覆っているように見える」としている。また,「先祖」とは「アイヌ」のことを指すのだという。著者は,賢治が「アイヌ」と「蝦夷(エミシ)」を区別していないので,この詩に登場する「台地」は準平原の北上山系であり,「曙人」はその台地にかつて住んでいた「蝦夷(エミシ)」と考えている。賢治は,大正・昭和の時代に至っても古代蝦夷(エミシ)の魂が東北の「先住民」に乗り移つることがあると感じている。古代蝦夷(エミシ)の魂には,後述するが侵略者である大和朝廷から続く歴代の中央政権(あるいはそれに従う「移住者」)に対する「疑い」と「反感」が含まれる。

 

1.豹の毛皮を着た男

夢の中に登場する二人の男のうち「豹の毛皮のだぶだぶの着物をつけた男」は,語呂合わせのようだが「坂の上」にいることから歴史上の人物である〈坂上田村麻呂〉(出身は渡来系氏族)がイメージされていると思われる。〈田村麻呂〉は,797年に蝦夷征討のために桓武天皇(母方の出身は百済系渡来人)により征夷大将軍に任ぜられた平安時代の公卿(武官)である(官位は大納言正三位)。〈田村麻呂〉は,802年に造陸奥国胆沢城使として現在の水沢市に胆沢城を造営するため陸奥国(東北地方)に派遣されている。〈田村麻呂〉が豹の毛皮を着ていたかどうかは定かでないが,豹の毛皮を馬具(鞍の下に当てる敷物)や武具(太刀を被う毛皮の袋)に使用した可能性はある。平安時代に編纂された儀式『西宮記』(公務あるいは宮中行事の際の礼儀作法を規定した編纂物)によれば,公卿で身分が三位の者は豹の毛皮を馬具や武具に使用できるとある(関口,2013)。ちなみに四位と五位は虎の皮の皮,六位は海豹(ラッコ)の皮を使うことができる。このように,賢治が「豹の毛皮のだぶだぶの着物をつけた男」と記した人物は,武官である〈坂上田村麻呂〉がモデルであろう。

 

賢治は言葉遊びが好きなようで,題名の「ガドルフの百合」も稜(ガド)が五角の屋根(roof;ルーフ)の家の庭に咲く百合のことかと思ってしまう。 

 

2.烏(からす)の王

「烏の王」は,朝廷軍と戦った胆沢の地に拠点を持つ「蝦夷(エミシ)」の族長である〈阿弖流為(アテルイ)〉あるいは〈母禮(モレ)〉がモデルであろう。〈アテルイ〉と〈モレ〉が率いる蝦夷武装勢力は,朝廷軍の集団戦闘を基本とした戦いとは異なり地の利を活かしたゲリラ的邀撃(ようげき)作戦あるいはゲリラ的騎馬個人戦術が得意であったという。下向井(2000)によれば,蝦夷武装勢力の戦術は,「蜂や蟻のように集まってきては挑発し,攻めたら山林に逃げ込み,放置すればまた集まって朝廷側の城塞を侵掠する」方法だったという。

 

「蝦夷(エミシ)」を敵視する朝廷あるいは京都の民衆が,当時彼らをどのよう思っていたのか。それを知る手がりとして,真言宗の開祖である空海(774~835)の書(『性霊集』)がある。空海は,彼らを「毛人」,「羽人」などと呼び,「年老いた烏のような目をしていて,猪や鹿の皮の服を着て,毒を塗った骨の矢を持ち,常に刀と矛を持っている。稲も作らず,絹も織らず,鹿を逐っている。昼の夜も山の中におり,悪鬼のようで人間とは思われない。ときどき村里に来ては,多くの人や牛を殺していく」〈訳は福崎(1999)〉と述べている。誇張もあるとは思われるが,この空海の蝦夷観が当時の都人の共通した蝦夷観と思われる。ここで空海は,「先住民」を「人間とは思われない」,あるいは彼らの目つきを「カラス」の目のようだとしている。その真意は分からないが,「カラス」もまた,黒いことから不吉なものとして嫌われている鳥である。賢治が〈アテルイ〉あるいは〈モレ〉を『ガドルフの百合』で「烏の王」としたのもうなずける。

 

賢治は,朝廷側の〈坂上田村麻呂〉や蝦夷側の武将である〈アテルイ〉あるいは〈モレ〉の名前を作品に直接登場させたことはない。しかし,これらの武将達の名前を知っていたと思える。浜垣(2006)もすでに指摘しているように,後者の二人と思われる人物が「文語詩稿五十篇」の未定稿詩〔水と濃きなだれの風や〕の後半4行(下線部)に記載されているからである。この詩は,1924年の早池峰山登山の時に取材を基にした口語詩「375 山の晨明関する童話風の構想」の改稿形「〔水よりも濃いなだれの風や〕」を文語形に改めたものである。

 

水と濃きなだれの風や,    むら鳥のあやなすすだき,

アスティルベきらめく露と,  ひるがへる温石(おんじゃく)の門。

海浸す日より棲みゐて,    たゝかひにやぶれし神の

二かしら猛きすがたを,    青々と行衛しられず

                        (宮沢,1986)

 

「温石の門」は,蛇紋岩のこと。「海浸す日」は,下書き稿に「洪積」と地質時代の洪新世(170万年前から1万年前)の別称を記載していることから,現在の東北を南北に流れる北上川がまだ海の底であった頃という意味であろう。少なくとも1万年前に東北に住んでいたのは「縄文人」と呼ばれていた人達である。それゆえ「海浸す日より棲みゐて」とは,「1万年以上前から蛇紋岩台地の北上山地に棲んでいた」という意味であろう。アイヌ民族は,およそ17世紀から19世紀にかけて東北地方北部から北海道,樺太,千島列島に先住していた人達である。「アイヌ」は,縄文人の末裔とされている。一方,「蝦夷」表記の初出は,日本書紀(720年)である。「蝦夷(エミシ)」と「アイヌ」が同一な頃があったとしたら,「蝦夷(エミシ)」もまた,縄文人の末裔である。

 

「たゝかひにやぶれし神」の「たゝかひ」とは,古代史に記録に残されている朝廷と「蝦夷(エミシ)」の戦いであろう。「神」を「蝦夷(エミシ)」の指導者とすれば,「二かしら猛きすがたを」の「二かしら」は「クジラの頭」を象徴する〈アテルイ〉と〈モレ〉の首であろう。この両武将の率いる蝦夷武装勢力は朝廷軍に果敢に戦いを挑んだが,戦況が不利になり胆沢城造営中の〈坂上田村麻呂〉の軍隊に降伏した。両武将とも首をはねられていて,その遺体がどこに埋葬されたのか分かっていない。

 

すなわち,「クジラの頭」をイメージしている「稜が五角の屋根」を持つ「巨きなまっ黒な家」の中で見た夢で争う二人の男は,東北に侵攻してきた朝廷側の男と朝廷に「まつろわぬ民」として最後まで抵抗していた先住民側の男であろう。次稿では,なぜこの二人が登場してくるのかについて検討していく。

 

参考文献                 

ドラーイスマ,D.(鈴木 晶訳).2009.なぜ年をとると時間の経つのが速くなるのか 記憶と時間の心理学.講談社.

福崎孝雄.1999.「エミシ」とは何か.現代密教 11/12:120-132.

浜垣誠司.2006(更新年).宮沢賢治の詩の世界.たゝかひにやぶれし神(1).2020.5.4(調べた日付).http://www.ihatov.cc/blog/archives/2006/01/1_22.htm

関口 明.2013.中世日本の北方社会とラッコ皮交易-アイヌ民族との関わりで-.北海道大学総合博物館研究報告 6:46-57.

下向井龍彦.2000.武士形成における俘囚の役割-蕨手刀から日本刀への発達/国家と軍制の転換に関連させて-.史学研究 228:1-25.

宮沢賢治.1986.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.

信時哲郎.2007.宮澤賢治「文語詩稿 五十篇」評釈 十.甲南大学研究紀要.文化編 (44):29-43.

 

本ブログは,宮沢賢治研究会発行の『賢治研究』146号16-30頁2022年(3月31日発行)に掲載された自著報文「植物から『ガドルフの百合』の謎を読み解く-宗教と恋のどちらがより大切か(下)-」(投稿日は2020年6月1日 種別は論考)に基づいて作成した。ブログ題名は(下)をさらに第4稿と第5稿と第6稿の3つに分けているので変更した。また,ブログ掲載にあたり一部内容を改変した。