宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

童話『ガドルフの百合』考(第5稿)-朝廷と東北先住民の歴史的対立

「白百合」は雷雨で折られ,そしてガドルフは,夢の中で二人男の争いが原因で倒されてしまう。この争いは,ガドルフと「白百合(恋人)」の恋の顛末とどのように関係してくるのであろうか。ガドルフを賢治に,「白百合」を賢治の恋人として以下に考察してみたい。

 

賢治の詩集『春と修羅(大正十一,十二)』の序(1924.1.20)には,「これらは二十二箇月の/過去とかんずる方角から/紙とインクをつらね/(すべてわたくしと明滅し/みんなが同時にかんじるもの)/ここまでたもちつゞけられた/かげとひかりのひとくさりづつ/そのとほりの心象スケッチです」と記載されている。「二十二箇月の過去」とは,『春と修羅』の序が書かれる前の22カ月のことを言っているので,賢治の相思相愛の恋と破局が経験された時期のことである。また,生前に刊行された唯一の童話集『注文の多い料理店』(大正十三年刊)の広告文には,「これらは決して偽りで仮空(ママ)でも窃盗でもない。多少の再度の内省と分析とはあっても,たしかにこの通りその時心象の中に現れたものである」と記載されている。この時期に書かれたはずの書簡は,ほとんど残されていない。それゆえ,朝廷側と「先住民」の歴史的対立と賢治の相思相愛の恋の顛末の関係をたどるには,「そのとほりの心象スケッチ」であると主張する賢治の作品を丹念に読み説くしかない。

 

ただ注意しなければならないのは,この「心象スケッチ」の内容が必ずしも「客観的事実」に符合するものではないということである。賢治研究家の鈴木(1994)によれば,「心象スケッチ」とは,「無意識部」より生じる「直感」を〈心象〉として〈スケッチ〉したものと定義できるとしている。また,「心象スケッチ」はあくまでも賢治の「直感」であり,「不確実性」を「心象スケッチ」の宿命としているという。賢治は事実であるという確証のない「直感」を重視したが,後述する「迷い」の原因にもなった。

 

『春と修羅』と同時期の恋物語『シグナルとシグナレス』(1923)が「心象スケッチ」を基にして書かれたものとすれば,賢治は相思相愛の恋人との結婚が,事実がどうなのかは分からないが,両家の近親者達から猛烈な反対を受けていたと感じていたと思われる。この物語には,本線の金(かね)と電灯でできた新式のシグナル(賢治)と軽便鉄道の木とランプでできたシグナレス(恋人)の結婚に対して,とくにシグナル側の近親者から組織だって反対する様子が詳細に描かれている。近親者の一人は,シグナルに向かって「シグナレス風情と,一体何をにやけていらっしゃるんです」と言ったりもする。シグナレスも叔母達の視線をいつも気にしている。シグナレス側に関しては,これを裏付ける遺族の証言もある。叔母ではないが,仙台藩の客分であった高級武家の出だという恋人の母親が,特に強く反対していたのだという(澤口,2018)。両家が反対する理由に関しては,妹トシの死や賢治が肺病を煩っていたことなど様々な憶測がなされてきた。しかし,筆者は,結婚への反対が一方の家からではなく両家からされていること思われることから,賢治あるいは恋人のそれぞれの出自(格式ではない)に破局の一因があると考えるようになった。

 

童話『双子の星』に登場するチュンセ童子とポウセ童子も,「空のくぢら」と呼ばれる「空の彗星(帚星)」(ザウエルは尾が箒のような犬)によって銀河の「落ち口」から海に落とされる。二人は,「落ちながらしっかりお互の肱をつかみどこ迄でも一緒に落ちよう」とした。このチュンセ童子には賢治が,そしてポウセ童子には恋人が,そして「空のくぢら」には「先住民」(あるいは「先住民」が持つ「移住者」に対抗する共同体意識)がそれぞれ投影されている可能性のあることはすでに報告した(石井,2019)。

 

恋人の実家は慶長2年(1597)創業の蕎麦屋と伝えられていている(Archive today,2020),これが事実なら,恋人の祖先は少なくとも宮沢家の祖先が花巻に移住してくる前に先住していた。あるいは,これが事実でなくても,多分,賢治は恋人が生粋の東北人(「先住民」)の血を引く女性であると思っている。

 

賢治は1931年頃に文語詩を作るにあたって,自身の年譜を本編(1〜42頁)とダイジェスト版(43〜50頁)があるノート(「文語詩篇ノート」)に作成している。年譜の内容は,「1909年盛岡中学二入ル」に始まって,1915〜1917年の盛岡高等農林時代とその後の研究生時代を経て1921年の出京,国柱会,花巻農学校に就職と続くが,1921年11月の妹の死と1921〜1924年までの恋人との恋が記されるはずのページがダイジェスト版では空白になっていた(1922〜1924年の間の書簡類もほとんど残されていないことは前述した)。さらにその次の頁では,同じような文字が繰り返し書きなぐられ一面まっ黒になるほど字で埋め尽くされていた。

 

繰り返されている言葉は,第1に「人にしられずに来る」,第2に「岩のべに小猿米焚く米だにもたげてとふらせ」,第3に「これやこの行くもかへるもわかれては知るも知らぬも逢坂の関」の3つである。澤口(2010)は,この3つの言葉は,賢治が恋人との恋が完全に破局してから8年(破局した年を入れて)が過ぎているにも関わらず,まだ恋人の思い出と冷静に向き合えずにいたことの証拠の1つであろうと推測している。

 

第1の言葉に関して澤口は,1927年5月7日の日付のある詩〔古びた水いろの薄明窮のなかに〕の「恋人が雪の夜何べんも/黒いマントをかついで男のふうをして/わたくしをたずねてまゐりました/そしてもう何もかもすぎてしまったのです」(1922年冬〜1923年春頃の出来事とされる)に対応していると思われるので賢治の恋人のことであろうと推測した。この日付の約1か月前に恋人は亡くなっている。しかし,これ以外の言葉に関しては不問にしている。第2の言葉は,『日本書紀』に記載されている童謡(わざうた)である「岩の上に小猿米焼く米だにも食げて通らせ山羊の老翁」のことで,歴史上(乙巳の変)の人物である蘇我入鹿が聖徳太子の一族(上宮王家)を滅ぼそうとしていることの風刺である。この童謡の「岩の上に」が上宮で,「子猿」が入鹿である。入鹿は,蝦夷の子である。蘇我蝦夷の「蝦夷」は東北の「蝦夷(エミシ)」とは直接関係ないとされている。歴史上の敗者に対する侮蔑用語だとも言われている。賢治は.直感によるものかもしれないが恋人が東北の「先住民」の末裔であると思っている。  

 

一方,賢治は,前述したように宮沢家の家系図によれば父方も母方も京都の公家侍にルーツを持ついわば「移住者」の末裔である。当時このような家系図があったかどうか分からないが,賢治も自分の出自が京都であると思っている。上記第3の言葉は,百人一首に記載されている蝉丸の和歌である。「逢坂の関」は都(京都)と東国や北国を結ぶ北陸道,東海道などが交わる交通の要所であり,京都防衛のための関所である。すなわち,自ら書いた年譜のダイジェスト版のまっ黒に塗りつぶされた頁には,賢治と恋人のそれぞれの「出自」(ルーツ)が記載されている。また,年譜の本編の破局した頃の頁には「石投ゲラレシ家ノ息子」の記載もある。多分,この二人の「出自」の違いが長い間賢治を悩ませたものであり,また破局の要因の1つになったものと思われる。 

 

賢治は,恋人と付き合う直前(1920年)に日蓮宗の在家団体で田中智学が率いる「国柱会」に入会していることも強調されなければならない(生涯会員を維持)。「国柱会」は日蓮主義を主張しているが,天皇崇拝,国体護持の思想が色濃いとされている(原,1999)。国柱会は日刊誌『天業民報』を刊行しているが,賢治は実に熱心な読者であったという。入会当時の『天業民報』には智学の国体論の集大成となる「日本国体の研究」の連載が始まっていた。賢治はこの日刊誌を一人でも多くの人に読んでもらおうと「掲示板」を作り家の道路に面した所につるしておいたという。また,賢治は,1921年1月に花巻を出奔して国柱会へ向かうが,2日目には仕事も宿泊所も探さずに〈明治天皇〉が祀られている明治神宮に参拝している。これは智学が『天業民報』の中で明治神宮への参拝を大々的に訴え続けていたからと言われている(岩見,1989)。賢治が天皇制にどのような評価を与えていたかは作品からは容易にうかがうことはできないが,少なくとも天皇制を否定はしていない。さらに近隣の人達の中には,「掲示板」を見るなりして賢治が天皇を崇拝する国柱会の会員であるという認識を持つものもいたと思われる。

 

天皇を中心とした中央政権と東北の「先住民」との対立は,朝廷側からすれば蝦夷征討とも呼ばれ,京都に都を置いた平安時代まで続く。さらに,その対立の影響は鎌倉,江戸時代の武家中心の時代および明治維新後の賢治の生きた時代にまで及んだ(梅原,2011;高橋,2012;高橋,2017)。例えば,奈良時代の桓武天皇の頃に始まった三十八年戦争(774~811),前述した平安時代初期の朝廷軍を率いる征夷大将軍の〈坂上田村麻呂〉と蝦夷の武将〈アテルイ,モレ〉の戦い,朝廷の命を受けた源頼義・義家と阿部一族の戦い(前九年の役;1051~1062),さらに権力が朝廷から武家へ移行する時期の1189年の源頼朝による奥州藤原氏征討,そして明治新政府との戊辰戦争(1868~1869)などがあげられる。戊辰戦争は,大政奉還後の〈明治天皇〉による王政復古の大号令に反発して勃発するが,東北の仙台藩は,新政府に対抗するために成立した奥羽越列藩同盟の盟主になる。しかし,戦いに敗れ,仙台藩はその責任を取らされ表高62万石(実高は100万石)から28万石に大幅に減封され,多くの家臣が苦境に陥った。

 

最近では1988年,首都機能移転の議論の中で大阪商工会議所会頭であった佐治啓二が起こした東北熊襲発言(「東北は熊襲の産地。文化的程度も極めて低い」)に見られる舌禍事件があげられる。「熊襲」は,古代の日本において九州南部にいた反朝廷勢力を指す言葉である。

 

宮沢家側と恋人側の近親者達は,天皇を中心とした中央政権と東北の「先住民」の歴史的対立を,日常生活では意識していなくても,両家の婚姻となれば,いやがおうなく意識せざるを得なかったと思われる。単なる憶測にすぎないのかもしれないが,両家の祖先達の歴史的対立が二人の結婚問題に深い陰を落としていたと思われる。(続く)

 

参考文献                 

Archive today.2012(更新年).わんこそば百科.2020.5.7(調べた日付).http://archive.is/ika4 

原 子郎.1999.新宮澤賢治語彙辞典.東京書籍.東京.

石井竹夫.2019.宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の発想の原点としての橄欖の森-イチョウと二人の男の子-.人植関係学誌.18(2):47-52.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/06/12/143453

岩見照代.1989.ジョバンニの父-宮沢賢治と天皇制-.日本文学 38(2):54-63.

澤口たまみ.2010. 宮澤賢治 愛のうた.盛岡出版コミュニティー.盛岡.

澤口たまみ.2018.新版 宮澤賢治 愛のうた.夕書房.茨城.

鈴木健司 1994.宮沢賢治 幻想空間の構造.蒼丘書林.

高橋克彦.2017.東北・蝦夷の魂.現代書館.東京.

高橋 崇.2012.蝦夷(えみし) 古代東北人の歴史.中央公論新社。東京.

宮沢賢治.1986.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.東京.

信時哲郎.2007.宮澤賢治「文語詩稿 五十篇」評釈 十.甲南大学研究紀要.文化編 (44):29-43.

梅原 猛.2011.日本の深層-縄文・蝦夷文化を探る.集英社.東京.

 

本ブログは,宮沢賢治研究会発行の『賢治研究』146号16-30頁2022年(3月31日発行)に掲載された自著報文「植物から『ガドルフの百合』の謎を読み解く-宗教と恋のどちらがより大切か(下)-」(投稿日は2020年6月1日 種別は論考)に基づいて作成した。ブログ題名は(下)をさらに第4稿と第5稿と第6稿の3つに分けているので変更した。また,ブログ掲載にあたり一部内容を改変した。

 

補足:賢治の作品には三十八年戦争(774~811)を題材にしたと思われる童話『烏の北斗七星』がある。当ブログでは「植物から宮沢賢治の『烏の北斗七星』の謎を読み解く(1)~(6)」で解説した。https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/05/03/151203