宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

童話『ガドルフの百合』考(第3稿)-「俺の百合は勝ったのだ」の「百合」とは何か

本稿では,「俺の百合は勝ったのだ」の「百合」が何を意味しているのについて検討する。

 

この「百合」は,恋人をイメージできる庭に咲く折れた1本の「丈の高い百合」でも,折れずに「勝ち誇ったかのように」残った10本ほどの「百合」のことでもない。この百合は,ガドルフが熱って痛む頭の奥に浮かぶもう一群れの「貝細工の百合」である。この「貝細工の百合」が何を意味するのかは,物語に登場する「街路樹としての楊(やなぎ)」とガドルフの脳裏に浮かぶ「白い貝殻の楊」という2つの「楊」を詳細に比較検討することによって明らかになる。

 

1.街路樹としての楊

「街路樹としての楊」は物語の冒頭で,ガドルフが歩く道の並木として登場してくる。

        

 ハックニー馬のやうな,巫山戯(ふざけ)た楊(やなぎ)の並木と陶製の白い空との下を,みじめな旅のガドルフは,力いっぱい,朝からつゞけて歩いて居りました。

 それにただ十六哩(マイル)だといふ次の町が,まだ一向見えても来なければ,けはいもしませんでした。

楊がまっ青に光ったり,ブリキの葉に変ったり,どこまで人をばかにするのだ。殊にその青いときは,まるで砒素をつかった下等の顔料のおもちゃじゃないか。)

 ガドルフはこんなことを考えながら,ぶりぶり憤って歩きました。

                   (宮沢,1986)下線は引用者;以下同じ

 

この「街路樹としての楊」とはどんな樹木なのだろうか。

「楊(ヨウとも読む」は,一般には「柳(リュウ)」(主にシダレヤナギ)に対して枝を上方に伸ばし剪定によっては樹形が縦長の箒型(あるいは狭円柱樹形)になるヤナギ科ハコヤナギ属(Populus)の木本の「ヤナギ」をいう。国内ではドロノキ(Populus maximowiczii A.Henry),ヤマナラシ(ハコヤナギ;Populus tremula Lvar.sieboldii)があり,国外ではセイヨウハコヤナギ(別名はポプラあるいはイタリアヤマナラシ;Populus nigra var.italica),ヨーロッパヤマナラシ(Populus tremula L.var.tremula),アメリカヤマナラシ(Populus tremuloides Michx.),「ウラジロハコヤナギ」(別名はギンドロあるいは銀白楊;Populus alba L.)などがある。このうち,セイヨウハコヤナギは国内にも植栽されていて北大のポプラ並木は有名である。賢治の愛した「楊」は,「ウラジロハコヤナギ」(ギンドロ;Populus alba L)である。

第1図.ウラジロハコヤナギ(ギンドロ)

 

葉の裏面が白くなるのは,ドロノキ,ヤマナラシ,ウラジロハコヤナギがあるが特に「ウラジロハコヤナギ」の葉の裏面には毛が密生し,銀白色に見える。「ウラジロハコヤナギ」は,雌雄異株で,雄株の枝はセイヨウハコヤナギと同じで上方へ伸びる傾向があるが,雌株の枝は横へ広がるという(村松.2020)。ヨーロッパ中南部,西アジア原産の落葉高木である。街路樹や公園樹として用いられる。

 

ガドルフが見た童話の中の「楊の並木」は多分,「ウラジロハコヤナギ」の雌株のある並木であろう。「ハックニー馬のしっぽ」は,「ハックニー」というウマの「尻尾」のことである。「ハックニー」は,イギリス原産の輓馬として使う品種で,岩手には1877年に導入されている。賢治の詩集『春と修羅』の詩「小岩井農場」や「北上山地の春」などに登場してくる。ウマの「尻尾」は,尻にある仙椎の骨の末端にある尾の軸となる尾椎(15から21個の小さな尾骨)とそれらの周囲の筋肉と皮膚などから構成され,長い毛で覆われている。「ハックニー」の「尻尾」は,尻の高い位置に付いているのが特徴なので,仙椎の末端にある尾椎を軸とする「尻尾」は,「尻尾」の途中まで地表に対して並行あるいは斜め下方向に伸びてから緩やかな曲線を描いて「シダレヤナギ」(枝垂れ柳)のように毛と一緒に地表に向かって垂れ下がる。「春と修羅」第三集の1089 番〔二時がこんなに暗いのは〕(1927.8.20)という詩の最後の5行にも,「雷がまだ鳴り出さないに,/あっちもこっちも,/気狂ひみたいにごろごろまはるから水車/ハックニー馬の尻ぽのやうに/青い柳が一本立つ」とある。

 

賢治は,多くのヤナギ科ハコヤナギ属の「楊」の枝が「セイヨウハコヤナギ」のように地表に近い部分も含め上方に伸びると学んだと思われるが,実際の雌株の「ウラジロハコヤナギ」の特に地表に近い枝が水平あるいは下方に出しているのを見ていて,童話の中でガドルフに「ハックニー馬のやうな,巫山戯た楊」と言わせたと思われる。

 

2.白い貝殻の楊

「楊」は,街路樹としての「楊」以外に,ガドルフの脳裏に「白い貝殻でこしらへあげた,昼の楊の木」としても登場してくる。この場面は,ガドルフが館に入り庭に「白百合」を発見する前である。

 

 長靴を抱くやうにして急いで脱(と)って,少しびっこを引きながら,そのまっ暗なちらばった家にはね上って行きました。すぐ突きあたりの大きな室は,たしか階段室らしく,射し込む稲光りが見せたのでした。

 その室の闇の中で,ガドルフは眼をつぶりながら,まず重い外套を脱ぎました。そのぬれた外套の袖を引っぱるとき,ガドルフは白い貝殻でこしらへあげた,昼の楊の木をありありと見ました。ガドルフは眼をあきました。

(うるさい。ブリキになったり貝殻になったり。しかしまたこんな桔梗いろの背景に,楊の舎利(しゃり)がりんと立つのは悪くない。)

 それは眼をあいてもしばらく消えてしまひませんでした。

                           (宮沢,1986)

 

ここで重要なのは,ガドルフが昼間見た街路樹としての「楊」と脳裏に浮かぶ「白い貝殻」に見える「楊」に対して異なったか感情を持っているということである。昼間みた「楊」は,本来枝を上方に伸ばすはずなのに「ハックニー馬のしっぽのやう」に枝を下方に伸ばしているし,「楊がまっ青に光ったり,ブリキの葉に変わったり」と記載されているように葉も表と裏で色が違うので,ガドルフにとっては自分を「ばかにするようなもの」と感じている。一方,眼を閉じたときに脳裏に浮かぶ「楊」は「ブリキ」ではなくて「白い貝殻」に感じてしまう。ガドルフにとって脳裏に浮かぶ「楊」は,すでに「俗」なる街路樹としての「楊」ではなくなっていて,「舎利」と等価の「白い貝殻」に変貌している。「舎利」は,釈迦牟尼の遺骨のことなので,ガドルフあるいは賢治にとって「楊」は「聖」なる植物でもある。

 

なぜ,「ウラジロハコヤナギ」などのヤナギ科ハコヤナギ属(Populus)の「楊」が「聖」なる植物なのか。それは,この植物がマッチの軸木に使われてきたからである。賢治は,この「楊」の利用法が『法華経』の第二十三章「薬王菩薩本事品」の焼身供養の教義(自己犠牲)に沿うものとして重視した(石井,2011,2014)。

 

マッチの軸木になる条件として,白く適当に長く燃え,また小さく細く切断するために材は柔らかく強靭なものでなくてはならない。賢治がこの物語を執筆していたころ我が国では,この条件に合う軸木の用材として上記のドロノキやヤマナラシなどのヤナギ科ハコヤナギ属(Populus)の「楊」とシナノキ(Tilia japonica Simonk),ノグルミ(Platycarya strobilacea Sieb.et.Zucc.),サワグルミ(Pterocarya rhoifolia Sieb.Et.Zucc.),ドイツトウヒ(Picea abies Karst)などが使われた。しかし,良質なのはドロノキやヤマナラシなどのヤナギ科ハコヤナギ属(Populus)の「楊」で,当時マッチ産業が好調であったこともあり,次々と伐採されていった。特にドロノキ(白楊)は3年を経たない稚木が最も白色に成りやすく光沢もあるということで,稚木のうちに盛んに伐採され岩手県では絶滅が危惧されたという。すなわち,「楊」は,自ら(あるいは種として)の命を絶ちその体をマッチの軸木に変え「炎」となって我々人間の生活向上に貢献してきた。

 

一方,『法華経』の「薬王菩薩本事品」には,薬王菩薩が前世において,日月浄明徳如来という仏のもとで修業し「現一切色身三昧」という神通力をもつ境地を得ることができたので,その返礼として自ら妙香を服し香油を身に塗って,その身を燃やして仏を供養したという逸話が説かれている(その身は1200年燃えたという)。 賢治にとって,「楊」は,まさに『法華経』に出てくる薬王菩薩の化身であったと思われる。ガドルフあるいは賢治が「楊」を「聖」なるものと感じたとき,「楊」は脳裏に浮かぶ幻覚としての「白い貝殻の楊」に変貌する。

 

3.貝細工の百合

ここで,再び「白百合」に話を戻して,ガドルフの脳裏に浮かぶ心象世界の「もう一群れの貝細工の百合」について考察してみたい。この「貝細工の百合」は,庭に咲いていた具体的な「白百合」というよりは「白い貝殻の楊」と同じで「法華経」と関係する「聖」なるものであろう。必ずしも現実の植物や女性を意味していない。むしろ「法華経」への強い信仰心であるといってもよい。

 

大塚(1999)は,賢治作品に登場するマグノリア,シロツメクサ(クローバー),ゲンノショウコ,百合の花などの「白い花」が「聖なる花として描かれている」と指摘している。『法華経』は『妙法蓮華経』の略式の言い方で,原語(ナム・サダルマ・プンダリーカ・スートラ)を直訳すると,「白い蓮華のような正しい知恵を記した経」となる。

 

すなわち,「俺の百合は勝ったのだ」の「百合」は,ガドルフの脳裏に浮かんだ「聖なるもの」をイメージできる「貝細工の百合」である。ガドルフは,〈恋〉よりも「法華経」への〈信仰心〉あるいは「みんなの幸せ」を重視して生きようと決心したのだと思われる。

 

4.「1本の木」に宿る雫に映る「蝎の赤い光」

なぜそれが言えるのかの答えは,最後の結末部にある1本の木に宿る雫に映る「蝎の赤い光」の中にヒントが隠されている。

 

 ガドルフは手を強く延ばしたり,又ちゞめたりしながら,いそがしく足ぶみをしました。

 窓の外の一本の木から,一つの雫が見えてゐました。それは不思議にかすかな薔薇いろをうつしてゐたのです。

(これは暁方(あけがた)の薔薇色ではない。南の蝎の赤い光がうつったのだ。その証拠にはまだ夜中にもならないのだ。雨さえ晴れたら出て行かう。街道の星あかりの中だ。次の町だってぢきだらう。けれどもぬれた着物を又引っかけて歩き出すのはずゐぶんゐやだ。いやだけれども仕方ない。おれの百合は勝ったのだ。

 ガドルフはしばらくの間,しんとして斯う考へました。

                              (宮沢,1986)

 

ガドルフは,雨が止んだあと「窓の外の一本の木」から,1個の雫を見るが,その雫に「南の蝎の赤い光」が映っているのを見ることになる。まだ夜が明けていないので,「明け方の薔薇いろ」が映るはずはない。この科学的に説明つかない「南の空の蝎の赤い光」が雫に映っていると認識したとき,ガドルフは〈恋〉を諦め,〈みんなの幸せ〉を探す旅に出かけようとしたのである。この場合の「一本の木」とは,前述したように京都に都を置いた朝廷を象徴する「ケヤキ」であり,「南の蝎の赤い光」は「さそり座」で最も明るい恒星である「アンタレス」のことであろう。

 

賢治は,「アンタレス」の「赤い光」に「楊」に対するのと同様に『法華経』の第二十三章「薬王菩薩本事品」に登場する焼身自己犠牲を自分に強いた薬王菩薩を重ねている。賢治は,童話『ガドルフの百合』の執筆から1年後に『銀河鉄道の夜』を書き始めるが,この童話にも「蝎の火」が登場する。この「蝎の火」は,カーバイド工場で「カーバイド」(炭化カルシウム;calcium carbide,CaC2)を作るときにでる工場からの「炎」がイメージされている(石井,2015)。「カーバイド」は,「ウミサソリ」を含む「石灰岩」を焼いて作った「石灰」(酸化カルシウム;CaO)と炭素(C)の混合物を電気炉で加熱(約2000℃)することによって作られる化合物である。

 

『銀河鉄道の夜』で「蝎の火」に対して「女の子」が「蝎がやけて死んだのよ。その火がいまでも燃えてるってあたし何べんもお父さんから聴いたわ。」と言わせている。「カーバイド」は,水と反応するとアセチレンを生成するので,当時は集魚灯などの照明用のアセチレンランプに使用された。また,窒素と反応するとカルシウムシアミド(calcium cyanamide)が得られるが,これは「石灰窒素」の成分であり化学肥料として使われる。このように,「カーバイド」は,近代漁業や近代農業に多大な恩恵をもたらした。すなわち,『ガドルフの百合』の「蝎の赤い光」を『銀河鉄道の夜』の「蝎の火」と同じとみなせば,前者の「赤い光」もまた「薬王菩薩」をイメージできる「聖」なるものと言える。

 

賢治の家は,宮沢家の家系図によれば父方および母方ともに京都の藤井将監という人が始祖だとされる。この藤井将監は,十七世紀後半(江戸中期の天和・元禄年間)に花巻にやって来た公家侍と言われている。この子孫が花巻付近で商工の業を営んで宮沢まき(一族)とよばれる地位と富を築いていった(堀尾,1991;畑山・石,1996)。すなわち,賢治は,生まれは東北(花巻)だが生粋の東北人(先住民)ではない。むしろ「先住民」に対して対立する側(朝廷側)の眷属すなわち「移住者」の末裔である。

 

ガドルフ(あるいは賢治)が自分の出自を示す朝廷を象徴する「ケヤキ」の雫に,自然現象では考えられない「聖」なる「南の蝎の光」が映るのを見たとき(あるいは感じたとき),自分に薬王菩薩が乗り移ったと考え,〈恋〉を諦め,大乗仏教の理念でもある〈みんなの幸せ〉を求める旅に出ようとしたと思われる。これが,「俺の百合は勝ったのだ」とガドルフが心の中でつぶやいた理由である。しかし,「法華経」に帰依する「信仰心」でイーハトーブを救うという「慢心」の気持ちも見え隠れする。(続く)

 

参考文献                 

畑山 博・石 寒太.1996. 宮沢賢治幻想紀行.求竜堂. 

堀尾青史.1991. 年譜 宮澤賢治伝.中央公論社.東京

石井竹夫.2011.宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に登場する植物.人植関係学誌.11(1):21-24.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/07/05/082232

石井竹夫.2014.宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に登場する聖なる植物(前編・中編・後編).人植関係学誌.13(2):27-37. https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/06/22/081209

石井竹夫.2015.宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に登場する楊と炎の風景(前編・後編).人植関係学誌.14(2):17-24.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/06/29/185712

石井竹夫.2018.宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の発想の原点としての橄欖の森-ケヤキのような姿勢の青年(前編・後編)-.人植関係学誌.18(1):15-23.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/06/12/143453

大塚常樹.1999.宮沢賢治 心象の記号論.朝文社.

宮沢賢治.1986.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.

村松 忍.更新年不明.庭木図鑑 植木ペディア.2020.3.2(調べた日付).https://www.uekipedia.jp/

 

本ブログは,宮沢賢治研究会発行の『賢治研究』145号10-24頁2021年(12月3日発行)に掲載された自著報文「植物から『ガドルフの百合』の謎を読み解く-宗教と恋のどちらがより大切か(上)-」(投稿日は2020年6月1日 種別は論考)に基づいて作成した。ブログ題名は(上)をさらに第1稿と第2稿と第3稿の3つに分けているので変更した。写真(第1図)はブログ掲載の際に添付した。ブログ掲載にあたり一部内容を改変した。