宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

童話『やまなし』考-幕末・明治・大正期の岩谷堂と人首はどんな処だったのか(第2稿)-

本稿では幕末・明治・大正期の「岩谷堂」や「人首」の精神風土について考察する。

 

「岩谷堂」は前稿で述べたように幕末まで北上川の舟運や陸路交通の要衝として栄え江刺郡の中心地であった(石井,2023)。しかし,「岩谷堂」の繁栄も明治5年(1872)に納米制度が金納制度に改められ,明治24年(1891)の東京と青森を結ぶ東北線の開通で終わることになった(池田,1980)。明治21年(1888)に仙台・盛岡間が着工されるが,東北線が「岩谷堂」の西側で北上川東側にある下川原地区(現在の江刺愛宕西下川原,南部北上山地縁)を通る案が出されると,下川原地区の水運業者や農民が反対し北上川西側の平野部水沢ルートに変更させてしまった。反対する理由としては「汽車に通られたら,荷物の運搬は皆鉄道にとられてしまう。水運や馬車・人力車で生活していた我々の仕事が奪われ,商売ができなくなる」,「機関車の煤煙で農作物に被害が及ぶし,汽笛で牛の乳が出なくなる」,「先祖から受け継いだ農地を取られてしまう」,「見慣れない人が出入りして,変な病気が入ってくる」である。鉄道局は,地元と再三にわたって交渉したが,用地買収の話し合いができないほどの抵抗にあって結論がでなかった。結局,水沢地区から「下河原がダメなら,こちらに駅を作っても構わない」という申し出があり決着したのだという(中村,2011)。

 

この話から推測するに,北上川東の南部北上山地西縁あたりの住民は南から持ち込まれる文化(近代化)を受け入れようとしない精神風土があるように思える。それは大正・昭和にも受け継がれているように思える。

 

大正時代に生きた賢治も童話『種山ヶ原』(1921)に「伊佐戸(いさど)の町の電気工夫の童(わらす),山男に手足縛らへてたふうだ。」(下線は引用者)といつか誰かの話した語(ことば)が,はっきり耳に聞えて来ます。」と記載している。「電気工夫」の「電気」は近代化を象徴している。「イサド=岩谷堂」では,その「電気工夫」を先住民の山男が縛り付けているという話がまことしやかに風評として広まっている。また,詩集『春と修羅』「晴天恣意」(水沢緯度観測所にて)で,賢治は水沢から北上山地内にある種山ヶ原の方角を見ながら「あの天末の青らむま下/きららに氷と雪とを鎧ふ/古生山地の谷々は/おのおのにみな由緒ある樹や石塚をもち/もしもみだりにその樹を伐り/あるひは塚をはたけにひらき/乃至はそこらであんまりひどくイリスの花をとりますと/かういふ青く無風の日なか/見掛けはしづかに盛りあげられた/あの玉髄の八雲のなかに/夢幻に人は連れ行かれ/見えない数個の手によって/かゞやくそらにまっさかさまにつるされて/槍でづぶづぶ刺されたり/頭や胸を圧(お)し潰されて/醒めてははげしい病気になると/さうひとびとはいまも信じて恐れます」(下線は引用者)と詩作している。

 

下線部の「イリスの花」は,植物の「アイリス」のことでアヤメ科アヤメ属の学名である。賢治の詩に登場する「カキツバタ」(Iris laevigata Fisch.)や「シャガ」(Iris japonica Thunb.)を指す。いずれも「在来種」(その土地に先住しているもの)である。「イリスの花」は先住の女性の比喩として使われているように思える。童話『やまなし』では〈クラムボン〉のことである。

 

また,一関に昭和9年に生まれた賢治研究家・米地文夫(1934~2019)が南部北上山地地域(岩谷堂を含む)に住む住民について興味深い話をしている。

 

南部北上山地地域は,内陸の北上川に沿う平野部とは古くから交流があったが,その地域性,特に民俗などはかなり異なる,と現地では両者が互いに意識してきた。・・・たとえば,米地は岩手県南の一関で育ち,同地の高校の生徒だったが,東山と呼んだ北上南部山地から来る生徒は「山汽車組」と呼ばれ,純朴で親しみ深い人たちとして,他の生徒たちから愛されていた。また,この地域の家に招かれると,景色や料理,談話などに普段の北上平野での生活では味わえないものを感じ,小さな,しかし特別な旅をした気になったものである。・・・しばしば,『遠野物語』と関連して,遠野盆地は日本の原像とか原郷などと評されることが多いが,これは妥当ではなく,筆者らは日本・ヤマトに対峙した日高見・エミシの世界を伝える土地の一つが遠野である,と考える。 宮沢賢治もまた,同様の感慨を抱いていたことは,彼の作品から明らかに読み取れる・・・すなわち,北上川沿いの平野部の人々にとって,古来,南部北上山地の西縁は東方の異界との境界であったし,それが伝承や生活のなかに生き続けてきた」。                          (米地ら,2013)下線は引用者

 

「岩谷堂」や「人首」は北上川西縁の平野部にある花巻や一関からすれば東方にある異界の地,すなわち日本・ヤマトに対峙した日高見・エミシの世界を伝える土地であったと思われる。この異界の地が童話『やまなし』に登場する蟹たちやクラムボンの母の故郷なのだと思う。

 

米地がいう「日高見・エミシ」の「エミシ」とは京都に都を置いた大和朝廷およびそれに引き続く中央政府の支配に長く抵抗し続けた「まつろわぬ民」としての「蝦夷(エミシ)」のことである。また,「日高見(ひだかみ)」は古代,「蝦夷(エミシ)」のいた陸奥国の一部の地名で今の北上川下流域という。奈良時代末期,前稿第1図の胆沢北上川東側(巣伏古戦場跡)あたりで「蝦夷(エミシ)」の阿弖流為(アテルイ)の率いる武装勢力と朝廷軍のはげしい戦いがあった(巣伏の戦い)。阿弖流為は巣伏(すぶし)古戦場跡の南に住んでいたとされる(及川,2013)。近年(1867年)では,このエミシの地を領有する伊達邦則(岩城邦則)が戊辰戦争の際に藩主一門として出陣し政府軍と戦っている。

 

「文語詩稿五十篇」の未定稿詩〔うからもて台地の雪に〕に,賢治は東北の先住民たちにその「蝦夷エミシ」の面影を感じ取っている。

 

うからもて台地の雪に,部落(シュク)なせるその杜(もり)黝(あおぐろ)し。

曙人(とほつおや),馮(の)りくる児らを,穹窿(きゅうりゅう)ぞ光りて覆ふ。

                         (宮沢,1985)

 

「うから」は部族で,「曙人」はルビにあるように「先祖」で,穹窿は天空のことである。賢治の文語詩を研究している信時哲郎(2007)によれば,この詩の意味は「雪の積もった台地に一族が集まり,その集落の森が青黒く見える。先祖の血をひき,魂までも乗り移った子供らを,天空から降り注ぐ光が覆っているように見える」としている。また,「先祖」とは「アイヌ」のことを指すのだという。私は,賢治が生きていた時代に「アイヌ」と「蝦夷(エミシ)」は区別されていないので,この詩に登場する「台地」は準平原の南部北上山地であり,「曙人」はその台地にかつて住んでいた「蝦夷(エミシ)」と考える。「岩谷堂」や「人首」はこの南部北上山地の西側の縁に位置する。賢治は,大正・昭和の時代にいたっても古代蝦夷(エミシ)の魂が東北の「先住民」に乗り移つることがあると感じている。古代蝦夷(エミシ)の魂には,侵略者である大和朝廷から続く歴代の中央政権(あるいはそれに従う「移住者」)に対する「疑い」と「反感」が含まれる。

 

童話『やまなし』は賢治が投影されている〈魚〉と恋人が投影されている〈クラムボン〉の悲恋物語である。江刺の「岩谷堂」や「人首」はこの童話に登場する〈子蟹〉や〈クラムボン〉の母の故郷がイメージされていると思われる。ただ,〈子蟹〉と〈クラムボン〉の母あるいはそのモデルとなった人物と「岩谷堂」や「人首」が具体的にどのように関わり合っているのかは不明なままである。

 

参考・引用文献

石井竹夫.2023.童話『やまなし』考-幕末・明治・大正期の岩谷堂と人首はどんな処だったのか(第1稿)-https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2023/05/20/085620

伊達宗弘.2012.不毛の大地に挑んだ仙台藩最後のお姫様.新人物往来社編・カメラが撮らえた幕末三00藩藩主とお姫様.新人物往来社.

池田雅美.1980.上川の河道変遷と旧河港について.歴史地理学紀要.22:29-52,

中村建治.2011.日本初の私鉄「日本鉄道」の野望-東北線誕生物語.交通新聞社.

信時哲郎.2007.宮澤賢治「文語詩稿 五十篇」評釈 十.甲南大学研究紀要.文化編 (44):29-43.

宮沢賢治.1985.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.

及川 洵.2013.蝦夷アテルイ.文芸社.

米地文夫・一ノ倉俊一・神田雅章.2013.南部北上山地における毘沙門堂と谷権現の時空間的位置― 宮沢賢治のまなざしが捉えたもの ―総合政策.15(1):49-63.

 

お礼:readinghitohaさん,本ブログ記事を読んでいただきありがとうございます。令和5年5月21日