宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』-アワとジョバンニの故郷(2)-

Keywords: アイヌ,文学と植物のかかわり,エミシ,慈悲心鳥,縄文人,ヒノキとヒバ,いじめ,クジラ,まっくらな巨きなものの正体,サガレン,先住民

 

前報(石井,2019b)で,活版所の技術者達がジョバンニの粟粒のような活字を「ピンセット」で拾う動作に対して「冷たく笑う」のは,合理主義と高度な科学技術を身に着けた活版所の技術者達(移住者側である町の人)が,この動作に「先住民」(アイヌ)が時代の流れについてゆかず古くからある慣習を守り続ける姿を連想し,それを理解することができないばかりか見下し蔑視したからであるということを報告した。

 

この「先住民」の後進性は,「先住民」の民族としての「誇り」と表裏一体をなすものだが,「先住民」の「移住者」(宮沢一族)に対する「疑い」や「反感」の共同体意識(「まっくらな巨きなもの」)とも密接に関係している。しかし,なぜ,賢治がこの共同体意識を「まっくらな巨きなもの」と呼んだのかに関してはまだ明らかにされていない。本稿では,この賢治の恋の破局の要因ともなった「まっくらな巨きなもの」と命名した理由とその正体についての詳細を検討するとともに,「先住民」であるジョバンニの故郷(ルーツ)を明らかにしていきたい。

 

1.「まっくらな巨きなもの」は「クジラ」

「まっくらな巨きなもの」という言葉は,かつて「東北」の「先住民」であった「蝦夷(エミシ)」が住んでいた土地の地形図(あるいは地質図)や「蝦夷」の漢字の読み方に由来すると思われる。「東北」の東部に位置し,標高1600mを超える早池峰山や薬師岳と1400m以下の「種山ヶ原」を含む準平原の「北上高地」から成る「北上山系」は,この地形を鳥瞰して上空から見れば北端は青森県八戸市付近,南端は宮城県牡鹿半島にいたる「紡錘形」の形(南北240km余,東西の最大幅80km余)をしている。この「紡錘形」の山系は,北端側で大きく膨れているので見ようによっては巨大な魚のシルエットに見える。あるいは,水生の哺乳動物である「クジラ」(英語名はWhale)と言ってもいいかもしれない(第1図)。「クジラ」は,外見上,体色も黒が多いので「まっくらな巨きなもの」である。

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第1図.クジラの姿に見える北上山系

賢治は,地形を動物に準えることがある。賢治は,童話『サガレンの八月』で「チョウザメ(蝶鮫)」(チョウザメ科の硬骨魚類)を登場させているが,これは賢治研究家の浜垣(2018)によれば,賢治がサハリン(樺太,古くはサガレン)の地形と「チョウザメ」の形が類似していることを認識していたからだと報告している。『サガレンと八月』では,主人公の「アイヌ」の子と思われるタネリが母の言う「タブー(禁忌)」を破ったために,サガレンの「先住民」である少数民族の「ギリヤーク」(ニヴヒ;Nivkhi)の犬神によって海の底に連れていかれ蟹の姿にされて「チョウザメ」の下男として幽閉されてしまう物語である。

賢治の地形から「蝦夷(エミシ)」の住む土地を「クジラ」と命名する方法は「アイヌ」の地名の付け方と似ている。「アイヌ」にとって川や谷等の自然に名前を付けるということと,地形を認識することは同じと見做されている(吉本ら,1995)。北海道や「東北」の地名には「ナイ」と「ペッ」で終わる地名が数多くある。表記は「内」と「別」である。「ナイ nai」は「小さな川,または沢」で「ペッ pet」は「大きい川」の意味である。例えば,ホロナイは「ホロ」が「大」,「ナイ」が「沢」なので大きな沢のある所という意味になる。

 

また,「東北」では「クジラ」を神格化して「恵比寿」の化身として「エビス」と呼んでいたが,この「エビス」という名は大和朝廷側の「蝦夷」に対する呼び名でもあった。大和朝廷側は,「東北」のかつての「先住民」である「蝦夷」の呼称として「エミシ」を主に使ったが(北海道の「先住民」に対しては「蝦夷(エゾ)」),それ以外に「エビス」を使った時期もあった(高橋,2012)。

 

賢治は,多分「東北」の「北上山系」にかつて住んでいた「蝦夷(エミシ)」の末裔を物語で記載しようとしたとき,「アイヌ」の命名法に真似て「蝦夷(エミシ)」の住んでいた大地の地形図から,また「蝦夷」の呼称の由来から「くじら」と表現したように思える。そして賢治に「疑い」や「反感」を持つ昔「蝦夷(エミシ)」と呼ばれた「先住民」の共同体意識を「まっくらな巨きなもの」と呼んだのである。

 

1)「クジラ」は獣か

童話『銀河鉄道の夜』の第一次稿と第二次稿で,先住民側の恋人が投影されている「女の子」と,賢治が投影されている移住者側のカムパネルラが「クジラ」について会話する場面がある。

 「海豚(いるか)だなんてあたしはじめてだわ。けどこゝ海ぢゃないでせう。」

「いるかは海に居るとはきまってゐない。」あの不思議な低い声がまたどこからかしました。      

 (中略)

「いるかお魚でせうか。」女の子がカムパネルラに話しかけました。男の子はぐったりつかれたやうにまた席にもたれて眠ってゐました。

「いるか魚ぢゃありません。くじらと同じやうなけだものです。」カムパネルラが答えました。

「あなたくじら見たことあって。」

「僕あります。くじら,頭としっぽだけ見えます。潮を吹くと丁度本にあるやうになります。」

「くじらなら大きいわね。」

くじら大きいです。子供だっているかぐらゐあります。

(『銀河鉄道の夜』 宮沢,1985) 下線は引用者

 

「女の子」が「イルカ」を見て,「けどこゝ海ぢゃないでせう」と疑問を投げかけると不思議な低い声の者が「いるかは海に居るとはきまってゐない」と答える。その後また「女の子」が「いるかお魚でせうか」と尋ねると,こんどはカムパネルラが「いるか魚ぢゃありません。くじらと同じやうなけだものです」と答える。「獣(けだもの)」とは全身が毛で覆われていて,四つ足で歩く動物のことである。「クジラ」も「イルカ」も体毛はほとんどない。

 

すなわち,「動物」であるが「獣」ではない。カムパネルラが単に「動物」と答えずに,海以外にもいると思われるが,「獣」と答えたのには何か別の意味があるのかもしれない。歴史上(乙巳の変)に登場する人物として蘇我入鹿(いるか)がいるが,彼の父は蘇我蝦夷(えみし)である(東北の「蝦夷(エミシ)」とは直接の関係はないとされる)。カムパネルラが「クジラ」と「イルカ」を「獣」と答えた本当の理由はこの史実と関係があるのかもしれない。

 

賢治は1931年頃に文語詩を作るにあたって,自身の年譜を本編(1〜42頁)とダイジェスト版(43〜50頁)があるノート(「文語詩篇ノート」)に作成している。年譜の内容は,「1909年盛岡中学二入ル」に始まって,1915〜1917年の盛岡高等農林時代とその後の研究生時代を経て1921年の出京,国柱会,花巻農学校に就職と続くが,1921年11月の妹の死と1921〜1924年までの恋人との恋が記されるはずのページがダイジェスト版では空白になっていた(1922〜1924年の間の書簡類もほとんど残されていない)。さらにその次の頁では,同じような文字が繰り返し書きなぐられ一面まっ黒になるほど字で埋め尽くされていた。

 

繰り返されている言葉は,第1に「人にしられずに来る」,第2に「これやこの行くもかへるもわかれては知るも知らぬも逢坂の関」,第3に「岩のべに小猿米焚く米だにもたげてとふらせ」の3つである。賢治研究家の澤口たまみ(2010)は,この3つの言葉は,賢治が恋人との恋が完全に破局してから8年(破局した年を入れて)が過ぎているにも関わらず,まだ恋人の思い出と冷静に向き合えずにいたことの証拠の1つであろうと推測している。

 

第1の言葉に関して澤口は,1927年5月7日の日付のある詩〔古びた水いろの薄明窮のなかに〕の「恋人が雪の夜何べんも/黒いマントをかついで男のふうをして/わたくしをたずねてまゐりました」(1922年冬〜1923年春頃の出来事)に対応していると思われるので賢治の恋人のことであろうと推測した。しかし,これ以外の言葉に関しては不問にしている。

 

第2の言葉は百人一首に記載されている蝉丸の和歌である。「逢坂の関」は都(京都)と東国や北国を結ぶ北陸道,東海道などが交わる交通の要所であり,京都防衛のための関所である。これは著者の推測であるが,京都にルーツを持つ賢治自身のことを言っていると思われる(宮沢一族は京都からの移住者の末裔)。

 

そして第3の言葉は『日本書紀』に記載されている童謡(わぎうた)である「岩の上に小猿米焼く米だにも食げて通らせ山羊の老翁」のことで,蘇我入鹿が聖徳太子の一族(上宮王家)を滅ぼそうとしていることの風刺である。この童謡の「岩の上に」が上宮で,「子猿」が入鹿である。入鹿は,蝦夷の子である。すなわち,自ら書いた年譜のダイジェスト版のまっ黒に塗りつぶされた頁には,賢治と恋人のそれぞれの「出自」(ルーツ)が記載されている。また,年譜の本編の破局した頃の頁には「石投ゲラレシ家ノ息子」の記載もある。多分,この二人の「出自」の違いが長い間賢治を悩ませたものであり,また破局の要因の1つになったものと思われる。 

 

賢治がこの史実(乙巳の変)を念頭に置いてカムパネルラに「クジラ」を「獣」と答えさせているとすれば,古代の大和朝廷側の人達が「東北」の「蝦夷(エミシ)」を斉明記(元年は656年)頃まで「毛人」(体毛が多いこと,あるいは毛皮を着ていたことによって付けられたとする説がある)と記して「エミシ」と呼んだのと同じように,物語でも移住者側に設定されているカムパネルラに,「東北」の「先住民」である「蝦夷(エミシ)」(=クジラ)の子孫達を「毛人(エミシ)」すなわち「獣」であると言わせたようにも思える。

 

カムパネルラが発する「獣」という言葉には「先住民」の示す「疑い」や「反感」に対する対抗の意味も含まれていると思われるが,先住民側を見下す蔑視の感情も入っていたことも否定できない。これは,カムパネルラに賢治が投影されているとすれば,賢治自身にも当てはめられる。

 

賢治も完全に破局した1年後に書いた詩集『春と修羅 第二集』の詩〔はつれて軋る手袋と〕(1925.4.2)に,「板やわづかの漆喰から/ 正方体にこしらえあげて/ ふたりだまって座ったり/ うすい緑茶をのんだりする 」という「小さな家の中で二人でお茶を飲む」というふうな慎ましい恋人との生活を「嘲けるような」ことをしたということを告白している。そして,「ことさら嘲けり払ったあと/ここには乱れる憤りと/病ひに移化する困憊ばかり 」と「恋人を傷つけてしまった」という後悔と自責の念を独白している。

 

2)ジョバンニに付きまとうザウエルという名の犬は「クジラ」の比喩

童話『銀河鉄道の夜』の第三次稿と第四次稿では「まっくらな巨きなもの」に相当する「クジラ」は登場しないが,第四次稿だけだが「クジラ」の英名(ホエール;Whale)を連想させる「ザウエル」という名の犬が登場してくる。第四章「家」に以下の記載がある。

 「いまも毎朝新聞をまはしに行くよ。けれどもいつでも家中まだしいんとしてゐるからな。」

「はやいからねえ。」

「ザウエルといふ犬がゐるよ。しっぽがまるで箒のやうだ。ぼくが行くと鼻を鳴らしてついてくる。もっとついてくることもあるよ。今夜はみんなで烏瓜のあかりを川へながしに行くんだって。きっと犬もついて行くよ。」

(『銀河鉄道の夜』 宮沢,1985)下線は著者

 

「ザウエル」という犬はジョバンニの行くところならどんな所へでも鼻を鳴らしてついて行く。この犬が「クジラ」を指しているとすれば,歌を歌うことが知られているザトウクジラ(ナガスクジラ科;Megaptera novaeangliae Borowski,1781)のことをイメージしているのかもしれない。「先住民」の「蝦夷(エミシ)」(=「クジラ」)の比喩でもある「ザウエル」という名の犬がジョバンニとカムパネルラの二人を,あるいは賢治と恋人の「逢瀬」を監視している様子が描かれているものと思われる。

 

3)「双子の星」で二人を海底に落とす彗星は「空のクジラ」

「クジラ」のことと賢治と恋人の二人の関係のことは童話『双子の星』でも描かれている。双子であるチュンセ童子とポウセ童子の二人は,ある晩に「彗星」(ほうきぼしのルビ有)にそそのかされて旅に出ることになった。二人は「彗星」の尻尾につかまって出発するのだが,途中で「俺のあだなは空のくじら」というように「クジラ」でもある「箒星」に「天の川」の「落ち口」から海の底に落とされる。

   「それぢゃ早く俺のしっぽにつかまれ。しっかりとつかまるんだ。さ。いゝか。」

 二人は彗星のしっぽにしっかりつかまりました。彗星は青白い光を一つフウとはいて云ひました。

 「さあ,発つぞ。ギイギイギイフウ。ギイギイフウ。」

 実に彗星は空のくじらです。弱い星はあちこち逃げまはりました。もう大分来たのです。二人のお宮もはるかに遠く遠くなってしまひ今は小さな青白い点にしか見えません。

 チュンセ童子が申しました。

「もう余程来たな。天の川の落ち口はまだだらうか。」

 すると彗星の態度がガラリと変わってしまひました。

「へん。天の川の落ち口よりもお前らの落ち口を見ろ。それ一(ひ)い二(ふ)の三(み)。」

 彗星は尾を強く二三遍動かしおまけにうしろをふり向いて青白い霧を烈しくかけて二人を吹き落としてしまひました。

(『双子の星』 宮沢,1985)下線は著者

 

前報(石井,2019a)でも報告したようにチュンセ童子は賢治が,ポウセ童子は恋人がそれぞれ投影されているとすれば,この物語は「蝦夷(エミシ)」あるいはその末裔の比喩でもある「彗星(空のくじら)」に賢治と恋人の二人が海底(奈落の底)に突き落とされたという悲恋の物語でもある。二人が掴まっていた「空のくじら」の尻尾は,「クジラ」の形をしている「東北」の北上山系では「種山ヶ原」辺りを指すものと思われる。「種山ヶ原」で二人の愛は育まれ,詩集『春と修羅』の中で沢山の詩が創作された。引用文はさらに「二人は,落ちながらしっかりお互いに肱をつかみました。この双子のお星さまはどこ迄でも一緒に落ちようとしたのです。」と続く。 

 

ここで注目すべきことは,二人が「空のくじら」によって「天の川(銀河)」から落とされたときの「落ち口」である。「空のくじら」は二人に「天の川の落ち口よりもお前らの落ち口を見ろ」と言う。「天の川」の「落ち口」は,童話『銀河鉄道の夜』では「石炭袋」(coalsack)のことを指している。「石炭袋」は「南十字星」(southern cross)としても知られる南十字座にある暗黒星雲である。地上から観測した場合,暗黒星雲に含まれる塵やガスによって背景の星や銀河などの光が吸収され,あたかも黒い雲のように見える。

 

では「お前らの落ち口を見ろ」の「落ち口」とは何処であろうか。多分,この「落ち口」こそ,あの「まっくらな巨きなもの」であり「主義とも云はず思想とも云はず/たゞ行はれる巨きなもの」であろう。二人は「クジラ」(=「蝦夷(エミシ)」と呼ばれた「先住民」の末裔達)に「まっくらな巨きなもの」,すなわち賢治(あるいは宮沢一族)に「疑い」や「反感」をもつ彼らの共同体意識の中に落とされた。「空のくじら」である「彗星」は別名が「ほうきぼし(箒星)」であるので,「クジラ」の比喩である「ザウエル」と言う名の犬の尻尾が「箒のよう」でもあるという記載も肯ける。

 

2.賢治に「疑い」や「反感」を持つ「先住民」の深層意識

1)金田一による資料から

賢治に「疑い」や「反感」を持つかつて「蝦夷(エミシ)」と呼ばれていた人達とはどのような性格の人達だったのであろうか。古代の「蝦夷(エミシ)」は文字を持たなかったとされているので蝦夷側の記録としてはほとんど残されていない。「古代蝦夷」の人達の共同体意識であるその深層意識を知るためには,「蝦夷(エミシ)」=「アイヌ」として,金田一(1993)が樺太アイヌや北海道アイヌの「ユーカラ」などの伝記を基に「アイヌ」の「種族性」(和人との違い)について調べていたものがあるので,少し大和民族側からの見方が強調され過ぎていて公平さを欠くきらいはあるが,それを参考にしたい。

 

金田一(1993)は,「アイヌ」(多分「エミシ」も)には以下の5つの特徴があるということを報告している。第1に,名誉や名声を大切にする。第2に,情に篤く,愛情に富み,涙脆い。いわば「頑強な体に弱い心の所有者」である。第3に,「事大主義」であり,自分の信念を持たずに支配的な勢力や風潮に迎合する。第4に,利欲に蛋白で,貧困に陥っても無理に富を求めずに貧しい生活に甘んじてしまう。また,「アイヌ」の社会は四民平等の社会なので立身の出世という野心も起こり得なかったのである。第5に,これが一番の欠点であるが,気が弱く,気兼ねし,気を廻し過ぎるので猜疑心が生じ,「外」に対しては「疑い深い」とともに「内」には「反目嫉視(しっし)」をする

 

従って大同団結することはなく国家生活を知らなかった。その結果あるいは原因かもしれないが家族的な愛の濃やかさには似ずに「公衆の愛」というような現れは認めがたく,慈母孝子の感情があっても公正の感情,公明な感情というものは遅れていたようである。また,祖先崇拝の一面が党同伐異の風を醸成し,祖先を異にする部落の間に絶え間ない争いを引き起こすことにもなったのである。これらが今日主義の低い生活程度に止まり,専業ということなしに,誰もが同じ生活を繰り返すから文化の進歩が遅かったのである(下線は著者)。

 

前報でも述べたが,梅原(1994)によれば,現代の東北の文化にも,その根底には狩猟採集民である「蝦夷(エミシ)」の文化が色濃く残されているという。それゆえ,「古代蝦夷(エミシ)」との関係が深い「アイヌ」の種族としての特徴は,賢治の生きた時代の「蝦夷(エミシ)」の末裔である東北人にも少なからず受け継がれていると思われる。

 

2)バードの紀行文から

また,英国女性で旅行家のバード(Isabella L. Bird)の『日本奥地紀行』(初版は1880年)には,1878年6月に北海道の幌別,白老,湧別,平取等のアイヌ集落を訪れた様子が記載されている(バード,2000)。彼女の紀行文の中から「アイヌ」の性格に関して記載されている文章を金田一に見習って列記してみる。

 

第1に,アイヌ人は誠実であるという点を考えるならば,わが西洋の大都会に何千という堕落した大衆がいる。彼らはキリスト教徒として生まれて,洗礼を受け,クリスチャン・ネームをもらい,最後には聖なる墓地に葬られるが,「アイヌ」の人の方がずっと高度で,ずっと立派な生活を送っている。全体的に見るならば,アイヌ人は純潔であり,他人に対して親切であり,正直で崇敬の念が厚く,老人に対しては思いやりがある。 

 

第2に,一般に日本人の姿を見て感じるのは堕落しているという印象である。このような日本人を見慣れた後にアイヌ人を見ると,非常に奇異な印象を受ける。私が今まで見たアイヌ人の中で,二人か三人を除いて,すべてが未開人の中で最も獰猛そうに見える。その体格はいかに残忍なことでもやりかねないほどの力強さに満ちている。ところが彼らと話を交わしてみると,その顔つきは明るい微笑に輝き,女のように優しいほほえみとなる。

 

第3に,彼らの宗教的儀式は,大昔から伝統的な最も素朴で最も原始的な形態の自然崇拝である。漠然と樹木や川や岩や山を神聖なものと考え,海や森や火や日月に対して,漠然と善や悪をもたらす力であると考えてきている。彼らは太陽や月を崇拝し《しかし星は崇拝しない》,森や海を崇拝する。狼,黒い蛇,梟,その他いくつかの獣や鳥には,その名にカムイ《神》という語がつく。例えば,狼は「吠える神」であり,梟は「神々の鳥」,黒い蛇は「太陽神」である。雷《神鳴り》は「神々」の声であり,恐怖心を呼び起こす。太陽は彼らの最善の神であり,火はその次に善い神である,と彼らはいう。

 

第4に,彼らの生活は臆病で単調で,善の観念をもたぬ生活である。彼らの生活は暗く単調で,この世に希望もなければ,父なる神も知らぬ生活である。また,何事も知らず,何事も望まず,わずかに恐れるだけである。着ることと食べることの必要が生活の原動力となる唯一の原理であり,酒が豊富にあることが唯一の善である。彼らは儲けを全部はたいて日本酒を買い,それをものすごく多量に飲む。泥酔こそは,これら哀れなる未開人の望む最高の幸福であり,「神々のために飲む」と信じ込んでいるために,泥酔状態は彼らにとって神聖なものとなる。

 

第5に,「外」に対して疑い深いことである。彼らは,私が一人で食事をしたり休息するように,と言って退ったが,酋長の母だけは残った。その皺だらけの顔には人を酷しく疑う目つきがあった。私は,彼女がもしかしたら悪魔の眼をしているのではないかとさえ思った。いつもそこに座ってじっと見つめ,そして運命の三女神(人間の生命に糸を紡ぐという)の一人のように,樹皮の糸を絶えず結んで,彼女の息子の二人の妻や,織りに来た別の若い女たちを油断なく見守っている。彼女には老人ののんびりした休息はない。彼女だけが外来者を疑っている。私の訪問は彼女の種族にとって縁起が悪いと考えているのだ。

 

また金田一は触れていないが,第6に,他に征服され軽蔑されている民族と同じく,いつか遠い昔において彼らは偉大な国民であったという考えにしがみついている(下線は引用者)。である。

 

3)石橋らの資料から

昭和初期に「アイヌ」の性格を調べた石橋ら(1944)の報告によれば,金田一やバードが4番目と5番目に挙げたことと関連するが,ある長老の話として「備荒米の貯蔵をすすめ,年2斗の米を持参して全部落の「アイヌ」が一倉にそれを貯蔵することを納得せしめたが,彼らは結局実行しない。日用の薪や稗をその日その日に調へることをやめ,薪は一時に沢山切り,稗は一時に数日分を搗いて蓄へることをすすめても彼らは実行しない。それを責めるに,切った薪,搗いた稗のあることを近隣に知られれば,忽ち借りられてその返済を期し得ないからである」とある。また,「アイヌ」は,同属には開放的社交的だが,和人に対しては極めて臆病で抑制的であり,これが「猜疑」,「卑屈」、「危懼(きぐ)」(恐れ)の形で示されるということも報告している。

 

4)金田一,バード、石橋らに共通するもの

バードが3番目に挙げた「アイヌ」の宗教的行為ともとれる自然崇拝は,「東北」の農民と思える聴衆が賢治の自然開発に関する農事講和に対して「祀られざるも神には神の身土がある」と異議を唱えたことに通じるものがある(石井,2019b)。また,金田一やバードが4番目に挙げた「貧困に陥っても無理に富を求めない」や「暗く単調で,この世に希望もなく」,「何事も知らず,何事も望まず」という種族の特徴,あるいは石橋ら(1944)の報告した長老の話の中の特徴は,「アイヌ」が昭和初期まで「アワ」の穂を「ピパ」で刈り取っていたことを裏付けるし,「東北」の農民が賢治に示した「くらしが少しぐらゐらくになるとか/そこらが少しぐらゐきれいになるとかよりは/いまのまんまで」とか,「おれよりもきたなく/おれよりもくるしいのなら/そっちの方がずっといゝ」(詩集『春と修羅 詩稿補遺』にある「火祭」)という,西洋文明や合理主義に価値を持つものにとって,賢治も感じたかもしれない「向上心」も「同胞意識」も認められない「東北」の一部かもしれないが農民(「先住民」)の姿に通じるものがある。

 

これは,「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という賢治の理念とは程遠いばかりでなく全く逆の思考法でもある。さらに金田一(あるいはバード)が一番の欠点に挙げた5番目の「外」に「疑い深い」とともに「内」に「反目嫉視」する「先住民」の感情は,賢治が「先住民」に対して示したであろう蔑視の感情によりさらに増大したものと思われる。「外」とは賢治あるいは宮沢一族に,そして「内」とは恋人の家族に対してと考えると理解しやすいかもしれない。

 

多分,金田一やバードが挙げた「アイヌ」の第3と第4と第5の種族的特徴は,「東北」の「先住民」が賢治に示し,また賢治がどうしても動かすことができなかった「主義とも云はず思想とも云はず/たゞ行はれる巨きなもの」,すなわち封建的風土の中での「まっくらな巨きなもの」(=クジラ)の正体のように思われる。

 

ただ,バードが1〜2番目に挙げたように,合理主義の中で生きる西洋の大衆や西洋的文化や中国的文化を受け入れた(あるいは接触した)日本人が,そういうものを拒み続けた「アイヌ」に比べて堕落しているという評価は注目に値する。賢治もバードの紀行文を読んだかもしれないが,バードと同じように近代文明(あるいは弥生人の農耕文化)と接触する前の狩猟採取民の「アイヌ」(「エミシ」にも当てはまる)の共同体意識の深層部分,例えば自然の色々なものを崇拝したり共生したりと言った世界観には共感を持ったのかもしれない。

 

宗教的で詩的な「先住民」と技術的で合理的な「移住者」では文化あるいは価値観(あるいは下記で示す世界観)が異なるので,本来「先住民」と「移住者」の間で民族的な優劣はつけられないはずである。しかし,社会ダーウィニズム的適者生存が起こり,実際は「東北」あるいは北海道の「先住民(狩猟採取民)」は南からの「移住者(農耕民)」よりも「下位」あるいは<異物なもの>と見做され,服従させられた。多分,「先住民」が「外の者」に示す「疑い」や「反感」の共同体意識あるいは「無気力さ」のようなものは,バードが第6番目で言ったように,過去の栄光を忘れられない「先住民」が近代文明と接触し,長い間,蔑視や抑圧を受け続けた後に形成されたものかもしれない。

 

3.ジョバンニに付きまとうザネリとは

ジョバンニに付きまとうのは「ザウエル」という犬だけではない。同級生と思われるザネリもそうである。童話『銀河鉄道の夜』第四次稿では四章「ケンタウル祭の夜」に二人の仲を妬むかのように「新しいえりの尖ったシャツを着て」登場する。

  ジョバンニは,口笛を吹いてゐるやうなさびしい口付きで,檜のまっ黒にならんだ町の坂を下りて来たのでした。

 坂の下に大きな一つの街燈が,青白く立派に光って立ってゐました。ジョバンニが,どんどん電燈の方へ下りて行きますと,いままでばけもののやうに,長くぼんやり,うしろへ引いてゐたジョバンニの影ぼふしは,だんだん濃く黒くはっきりなって,足をあげたり手を振ったり,ジョバンニの横の方へまはって来るのでした。

 (ぼくは立派な機関車だ。ここは勾配だから速いぞ。ぼくはいまその電燈を通り越す。そうら,こんどはぼくの影法師はコンパスだ。あんなにくるっとまはって,前の方へ来た。)

とジョバンニは思ひながら,大股にその街燈の下を通り過ぎたとき,いきなりひるまのザネリが,新しいえりの尖ったシャツを着て電燈の向ふ側の暗い小路から出て来て,ひらっとジョバンニとすれちがひました。

 「ザネリ,烏瓜ながしに行くの」ジョバンニがまださう云ってしまはないうちに,

 「ジョバンニ,お父さんから,らっこの上着が来るよ。」その子が投げつけるやうにうしろから叫びました。

 ジョバンニは,ぱっと胸がつめたくなり,そこら中きいんと鳴るやうに思ひました。

 「何だい。ザネリ。」とジョバンニは高く叫び返しましたがもうザネリは向ふのひばの植った家の中へはひってゐました。

 「ザネリはどうしてぼくがなんにもしないのにあんなことを云ふのだらう。走るときはまるで鼠のやうなくせに。ぼくがなんにもしないのにあんなことを云ふのはザネリがばかなからだ。」

(四,ケンタウル祭の夜;宮沢1985)下線は引用者

 

ザネリは,「ジョバンニ,お父さんから,らっこの上着が来るよ」といってジョバンニをからかうが,ジョバンニもザネリに対して「鼠のやう」だといって反撃する。物語ではザネリとジョバンニは仲の良くない同級生として描かれているが,このザネリとはどういう人物であろうか。

 

ここでこの引用文に登場する植物(特に樹木)に注目してみたい。「檜」と「ひば」がでてくる。「ヒノキ」(Chamaecyparis obtusa Sieb.et Zucc. )は,ヒノキ科ヒノキ属の針葉樹のことで在来種である。「ヒバ」はヒノキ科の常緑高木で,ネズコ属,アスナロ属の全ての変種を含めた総称である(原,1999)。

 

物語に登場する「ひば」を特定するには,「ひば」が出てくる文章のすぐ後の「走るときはまるで鼠のやうなくせに」といっているのがヒントになる。材が鼠色に近い「ネズコ」(ヒノキ科;Thuja standishii Car.),あるいは葉が尖っているので葉を鼠の通り道に置いて鼠を通れなくするのに使う別名がネズミサシの「ネズ」(ヒノキ科;Juniperus rigida Sieb.et Zucc.)であろう。

 

「ネズコ」も,「スギ」と同様に在来種である。「ネズコ」や「ネズ」は庭園樹に使うことがある。「ネズコ」は陰樹で幼樹の耐陰性が強く湿気の多い処でも育つ。イメージ的には「ネズコ」は陰樹で材は鼠色で陰湿なザネリと重なる。また,童話『氷河鼠の毛皮』に登場する陰湿で金持ちの「タイチ」を連想させる。物語を地形図と照らし合わせて見ると,「ヒノキ」が高い所に生えていて,坂を下ったじめじめしたような所にザネリの家が有り,「ヒバ」が植えられている。賢治はザネリの陰湿さを植物の「ネズコ」で表現したかったのかもしれない。

 

賢治の先住民側の恋人はすらっと背が高く在来種の「スギ」をイメージできるとしたが(石井,2018),「ネズコ」も同じヒノキ科で在来種であるので,賢治は「ひばの植った家」に入ったザネリもまた先住民側の人物として登場させたように思える。しかし,ザネリは先住民側ではあるが「新しいえりの尖ったシャツを着て」とあるように裕福な家庭の子供としている。

 

「東北」にかつて住んでいた「先住民」は最後まで技術的で合理的な農耕文化を拒否し大和朝廷に抵抗した「まつろわぬ民」としての「蝦夷(エミシ)」以外に「俘囚(フシュウ)」と呼ばれた人達がいた。「俘囚」は7世紀から9世紀まで断続的に続いた朝廷と「蝦夷(エミシ)」の戦争で,朝廷へ帰属した「蝦夷(エミシ)」である。朝廷から優遇措置や高い地位などを得た安部氏,出羽清原氏,奥州藤原氏などがいる。「蝦夷(エミシ)」にも純粋な「蝦夷(エミシ)」とそうでない「蝦夷(エミシ)」(=俘囚)がいる。

 

多分,賢治はこの「東北」のかつての「先住民」であった比較的裕福な「俘囚」の人達をイメージしてザネリを登場させたように思える。物語でも純粋な「蝦夷(エミシ)」の末裔と思われるジョバンニが在来種の「ヒノキ」のある坂を下っていた時,電燈で映し出された「先住民」である自分の影が電燈を通り過ぎて,「くるっとまはった」ときに暗い路地からザネリが登場する。

 

「蝦夷(エミシ)」と同様に長い間農耕を拒否し続けた北海道の「アイヌ」もまた「和人」(移住者)から「差別」の対象であり続けたし,現在もなお多くの「差別」が現実の問題として存在するという。

 

その1つが本稿のテーマと重なる「アイヌ」による「民族内差別」である。北海道大学の濱田(2012)は,この「民族内差別」に注目して121人のアイヌ民族の人達にインタビューした結果を報告している。濱田によれば「民族内差別」には「階層的差異」と「血の濃さ」による「差別」が存在するという。

 

家庭の経済的な環境などの違いによる「いじめ」は「アイヌ」に限る話ではないが,「アイヌ」としての「血の濃さ」あるいは「血の薄さ」によって他者を差異化し,「差別」の対象とすることが行われてきたことは注視する必要がある。この「血の濃さ」による「差別」は子供同士の間で行われていたようである。例えば,「同じアイヌでも血が濃いということで,アイヌ,アイヌといじめられた」あるいは「家が漁師だったので,他のアイヌの子にいじめられた」などである。一般的には,「アイヌ」の「血が薄い」方が「血が濃い」方を差別の対象にするようである。童話『銀河鉄道の夜』でも比較的裕福な「先住民」(血が薄い)と思われるザネリが貧しい同じ「先住民」(血が濃い)の漁師の子であるジョバンニを「いじめ」の対象にしている。

 

4.ジョバンニの故郷

1)「蝦夷(エミシ)」の故郷

「東北」のかつて「大和朝廷」から「蝦夷(エミシ)」と呼ばれていた人達は,最初から「東北」に住んでいたのであろうか。金田一(2004)は,前述したように「東北」の「蝦夷(エミシ)」は「蝦夷が島から本州の北部へ下りて来たアイヌ族に外ならない」とも言っている。また,「アイヌ」は樺太南部にも住んでいて,金田一はこの樺太に「アイヌ」の古い方言が残っているとして1907年に調査に出かけている。多分,賢治も金田一から影響を受けて,東北の「蝦夷(エミシ)」は「蝦夷が島(北海道)」やさらに北方の「サガレン(樺太)」にルーツに持つ人達だったと思ったのかもしれない。

 

賢治の未定稿の文語詩の中にそのことを伺わせる詩として「製炭小屋」というのがある。製作時は不明であるが文語詩なので賢治の晩年の作であろう。自分自身を林業従事者の「そま(杣)」に投影させて,肺結核に病み死に直面した晩年の心境を吐露しているように思える。この詩は,歌稿〔B〕第七葉,短歌34の下部余白に「岩手山麓の谷の炭焼き小屋,その老人,カラフトの話・・・・」という題材メモを基にしている。「製炭小屋」の下書稿(一)の「谷」と表題がついている作品には以下の語句が並ぶ。

 木炭窯の火をうちけみし

花白き藪をめぐりて

面痩せしその老のそま

たそがれを帰り来りぬ

 

「よべはかの慈悲心鳥(じふいち)の族

よもすがら火をめぐり鳴き

崖よりは朽ちし石かけ

ひまもなくまろび落ちにき」

 

ぜんまいの茂みの群も

いま黒くうち昏れにつゝ

焼石の峯をかすむる

いくひらのしろがねの雲

 

いま妻も子もかれがれに

サガレンや 夷ぞ(えぞ)にさまよひ

われはかも この谷にして

いたつきと 死を待つのみ

 

とろとろと赤き火を燃し

まくろなる樺や柏に

瞳(まみ)赤くうち仰ぎつゝ

老のそま かなしく云ひぬ

(宮沢,1996)下線は著者

 

この下書稿の詩に登場する「慈悲心鳥」とは,賢治が「じふいち」とルビを振ったように「ジュウイチ(十一)」というカッコウ科に分類される鳥(Cuculus fugax Horsfield,1821)のことである。和名は雄の鳴き声に由来する。日本ではオオルリなど他の鳥の巣に卵を産み(托卵),その親鳥に雛を育てさせることをする。童話『銀河鉄道の夜』では,七章「北十字とプリオシン海岸」で列車が「白鳥の停車場」に「十一時かっきりに着く」が,鳥の「ジュウイチ」はこの時刻の「十一」と発音が同じで,また恋人の家族の名前(シュウイチ)とも似ている。この「白鳥の停車場」の場面でジョバンニとカムパネルラの「出自」の秘密が解き明かされるが,前報ではギリシャ神話の「双子座」と「白鳥」にまつわる話を基に二人の「双子性(兄弟)」と「異なる父性」について説明した(石井,2019a)。

 

賢治は,詩の後半部の括弧内で「いま妻も子もかれがれに/サガレンや 夷ぞ(えぞ)にさまよひ/われはかも この谷にして/いたつきと 死を待つのみ」と独白している。賢治は,米国で亡くなった恋人の「魂」と,ありえたかもしれない結婚とその結果生まれたであろう二人の間の子供の「魂」が大和朝廷に最後まで抵抗した「蝦夷(エミシ)」の「魂」の故郷でもある「サガレン(樺太)」や「蝦夷(エゾ)」に彷徨っている姿を岩手山麓の谷に住む「杣(そま)」(林業従事者)に重ねて想像しているように思える。

 

思想家で賢治研究家の吉本(2012)が,1996年6月28日に『賢治の世界』というタイトルで講演したとき,賢治の詩集『春と修羅』第一集は,難解であり「自分と自然とが一体になっちゃって溶け合っている状態を根本に置かないと」理解しがたく,それは「北方的なんですよね。要するに東北的であったり,蝦夷的であったり,もっと言えばアイヌ的であったりというように,いずれもアジア的な社会になる前の日本列島に存在した人たちの感覚というのに大変よく似ている」とし,さらに詩集『春と修羅』第一集が「蝦夷的」であったり,「アイヌ的」であったりするのは「北方」への関心が強かったからと述べていた。

 

賢治研究家の秋枝(1996,2017)は,この詩集『春と修羅』第一集と同時期に書かれた寓話『土神ときつね』に,また宗教学者で思想家の中沢(2002)は童話『氷河鼠の毛皮』に賢治の北方志向を感じ取っている。

 

著者も吉本らと同じように,詩集『春と修羅』の出版直後に創作された童話『銀河鉄道の夜』は「東北的」であり,「アイヌ的」であると感じた。『銀河鉄道の夜』は死の直前まで推敲が重ねられた作品である。賢治が生涯を閉じるまで北方に強い関心を寄せたのは,「サガレン(樺太)」や「蝦夷(エゾ)」が相思相愛の恋人あるいは「東北」のかつての「先住民」である「蝦夷(エミシ)」の「魂」の故郷だと感じたからと思われる。

 

賢治は,1923年(7月31日〜8月12日)に教え子の就職依頼を名目に北海道経由で樺太旅行をしている。就職依頼は1日だけで他の日程は不明とされている。この旅行は亡くなった妹トシの「魂」の行方を捜す旅というのが有力な説であるが,恋人の故郷(ルーツ)であり近代文明との接触が少ない北海道や樺太の「アイヌ」を訪ねて,「蝦夷(エミシ)」と比較する中で「まっくらな巨きなもの」の正体を見極めることもその目的の1つだったと思われる。

 

2)「アイヌ」と「縄文人」の世界観

賢治は,「疑い」や「反感」を示す「まっくらな巨きなもの」を避けたが,「蝦夷的」あるいは「アイヌ的」なものを「否定」してはいない。「アイヌ」は,吉本が言う「アジア的な社会になる前の日本列島に存在した人たち」(本来の日本人)すなわち狩猟採取民の「縄文人」がほとんどその形質を変えずに伝え続けた人達であろう。縄文時代において東日本の人口は日本の人口の9/10を占めていて,縄文中期,晩期にいたっては「東北」は日本の文化の中心であった(梅原,1994)。

 

その縄文人が1万年間にもわたって維持し続けたものは,考古学者の大島(2017, 2018)によれば,第1に資源を獲(採)り過ぎない経済観,第2に自然を神(カムイ)として畏敬し共存する自然観,第3に決して争わない社会観だとしている。「アイヌ」は,動植物や自然現象などあらゆるものに「カムイ」が宿っているとする。これらの結論に導いたものは,縄文の社会が「技術的な革新」や「生産力の拡大」あるいは「社会の拡大」といったことに大きなエネルギーを使った形跡がなかったことによるとしている。2018年に東京国立博物館で開催された特別展(「縄文-1万年の美の鼓動」)には35万人の入場者数があり,日本人の「縄文」に対する関心の高さが伺われた。

 

大島が述べた「縄文人」や「アイヌ」の世界観が真実だとして,「アイヌ(=蝦夷)」が海峡で隔離された北海道や本州の辺境の地である「東北」の中で長きにわたって維持してきたこれら世界観も,交通機関が発達し絶大な力を有する近代文明と接触する機会が増えれば否応なく修正を余儀なくされるのは必至である。本州と地続きの「東北」の「蝦夷(エミシ)」はなおさらである。

 

「縄文人」の「資源を獲り過ぎない」や「自然との共存」の世界観は,「蝦夷(エミシ)」の末裔と思われる農民の「くらしが少しぐらゐらくになるとか/そこらが少しぐらゐきれいになるとかよりは/いまのまんまで」,あるいは「おれよりもきたなく/おれよりもくるしいのなら/そっちの方がずっといゝ」(詩集『春と修羅 詩稿補遺』の「火祭」)という「主義とも云はず思想とも云はず/たゞ行はれる巨きなもの」に変えられてしまったのかもしれない。しかし,大島(2018)が指摘しているように,「縄文人」は,合理主義や科学技術の発達による「物質的な豊かさ」よりは自然(動植物鉱物)との共生を果たすための「精神的な豊かさ」を多く望んだと考えられている。自然に手をかけ過ぎないように沢山の「タブー(禁忌)」を作り,生活を律するために「儀礼」も多く,自然から頂き物をするたびに感謝の「祭祀」も欠かさなかった。これは「東北」の狩猟民である「マタギ」にも言えることである。

 

賢治は,前述したように,この非合理で非生産的だが「精神的な豊かさ」をもたらす「縄文人」や「アイヌ」あるいは物質文明に取り込まれる前の「蝦夷(エミシ)」の宗教的な世界観に共感したと思われる。この世界観が賢治の言う「ほんたうのさいはひ」に導くものかどうかは分からない。しかし,恋人への「思い」も強かったので積極的に作品の中に取り入れようとした。これが賢治の作品を「北方的」,「東北的」,「蝦夷的」あるいは「アイヌ的」にしたものと思われる。

 

5.『銀河鉄道の夜』は賢治と相思相愛の恋人の共同作品でもある。

ジョバンニは「アイヌ」(あるいは「蝦夷(エミシ)」)の世界観の中で暮らす先住民側の人物として登場しているが,「科学」にも興味があり,「何処でも勝手に歩ける通行券(切符)」(法華経思想)も持っている。賢治は近代文明に接触して埋没しかけた「アイヌ」の宗教的で詩的な世界観(アニミズム)を草木国土悉皆成仏思想を持つ仏教(宗教)すなわち法華経思想で復活させようとしたように思える。そして,童話『銀河鉄道の夜』の主人公であるジョバンニに,自分と恋人の二人の仮想上の子を重ねて,イーハトーブに住む「先住民」と「移住者」の末裔達が共に幸せに暮らせる世の中にするという願いを託した。第四次稿で賢治と恋人によって夢を託されたジョバンニは,「僕もうあんな暗(やみ)の中だってこはくない。きっとみんなのほんたうのさいはひをさがしに行く」と誓う。賢治と恋人との間の仮想の子でもあるジョバンニには,あの「まっくらな巨きなもの」はもう怖くなくなっている。

 

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本稿は人間・植物関係学会雑誌18巻第2号61~69頁2019年に掲載された自著報文(種別は資料・報告)を基にしたものである。原文あるいはその他の掲載された自著報文は人間・植物関係学会(JSPPR)のHPにある学会誌アーカイブスからも見ることができる。http://www.jsppr.jp/academic_journal/archives.html