宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』-「ほんたうのさいはひ」と瓜に飛びつく人達(2)-

Keywords: アイヌ,バチェラー八重子,文学と植物のかかわり,物質的な豊かさ,同化,義人,違星北斗,熟した苹果のあかし,精神的な豊かさ,知里幸恵,瓜

 

前報(石井,2019)で,賢治が童話『銀河鉄道の夜』を執筆していた頃,「アイヌ」の「滅びゆく民族」言説に対して「アイヌ」の言論人達(知里幸恵,違星北斗)が自らこの言説に反論を唱えていたことを述べた。本稿では,引き続き「アイヌ」の言論人達の反論を紹介しながら「ほんたうのさいはい」が何であるか議論したい。

 

1.被差別と「滅びゆく民族」言説に抗する「アイヌ」の言論人達の反論

1)違星北斗の場合(続き) 

(1) 宮沢賢治との類似性

1920〜1930年頃の違星と賢治の境遇は類似している。違星は1925年(25歳)に上京し東京府市場協会事務員として就職する。「アイヌ」であるということから金田一京助ら著名な学者から講演の依頼などを受け優遇され「しはわせ」な時を過ごす。違星はこの時期に法華宗系在家仏教団体である国柱会に出入りしていたこともある。しかし,北海道では「アイヌ」であるということだけで差別を受けていたのに,東京では逆に「アイヌ」であるということで優遇されることに疑問を持ち,今の「しはわせ」は「永久に続く;everlasting」とは考え難く,「ほんたうのさいはひ」ではないことに気づき,1926年に再び「差別」が待っている北海道へ戻り「アイヌ」の地位向上のために動き出す(須田,2018;山科,2019b)。

 

国柱会の信徒でもある賢治は,1921年から花巻農学校の教諭になり安定した給料をもらう生活を始めるが,自分も大乗仏教の教えに従い「先住民」と「移住者」の「みんなのさいはひ」を願いながらも移住者側で安住しているのは,自分も「贋シャモ」と同じく「偽物」の法華経信者ではないのかと疑問を持つようになる。そして1926年に農学校を依願退職して先住民側に入り「ほんたうの百姓になる」ことを決意し,昼間は周囲の田畑で農作業を,夜は私塾(羅須地人協会)などで農民に稲作指導をしたり,無料肥料設計事務所を開設して農民の肥料相談に乗ったりするようになる。

 

(2) バチェラー八重子との出会い

違星が影響を受けた人達にはキリスト教徒が多い。違星は,1926〜1927年にその一人である「アイヌ」の歌人でキリスト教宣教者のバチェラー八重子(1884〜1962)に幌別や平取の教会で出会う。八重子は,イギリス人宣教師ジョン・バチェラー(John Batchelor;1854〜1944)の養女である。彼女は,歌集『若きウタリに』(1931.4.10)で「国も名も 家畑までも うしなふも 失はざらむ 心ばかりは」と詠い,「アイヌ」の「精神的な豊かさ」をもたらすアイヌ語で語られるユーカラ等の「芸術」(口承文化)や詩的で神話的な世界観を孫・ひ孫の代まで伝えぬいていく決意をしていた人である。

 

違星は,八重子のキリスト教宣教者としての才能も高く買っている(違星,1995)。1927年7月11日とされる日記(1926年7月11日の誤記とも言われている)には以下の八重子を賛美する文章が記載されている。

 今日は日曜日だから此の教会に生徒が集まる。メノコが七人来る。此の人達はアイヌ語で賛美歌を歌ふ。其の清澄な声音は魂の奥底までも浸み込む様な気がして,一種の深い感慨に打たれた。バチラー博士五十年の伝道は今此の無学なメノコの清い信仰で窺(うかが)はれる。

今更の様に妙音に聞き入って救はれた人達の仕合せを痛切に感じる。ヤヱ・バチラー氏のアイヌ語交じりの伝道ぶり,その講話の様子は神の様に尊かった。信仰の違う私も此の時だけは平素の主義を離れて祈りを捧げた。アイヌ語の賛美歌・・・・あの時の声音は今も尚耳に残って居る。

(『コタン』日記 違星,1995)下線は引用者

 

違星は,教会で「アイヌ」の女性(メノコ)によって歌われるアイヌ語の賛美歌に深い感慨を打たれ,また八重子(引用文ではヤヱ・バチラー氏)の講話に「神の様な尊さ」を感じ,思わず「信仰の違う私も此の時だけは平素の主義を離れて祈りを捧げた」とある。

 

この違星の体験を彷彿させるようなキリスト教の荘厳な雰囲気を現わしている文章が『銀河鉄道の夜』第四次稿の「北十字とプリオシン海岸」でも見られる。ジョバンニとカムパネルラは,ゴシック様式の教会堂の「尖塔」(三角点)をイメージできる「三角標」が立ち並ぶ「天の野原」に「白い十字架」を見つける。

 その島の平らないただきに,立派な眼もさめるやうな,白い十字架がたって,それはもう凍った北極の雲で鋳たといったらいゝか,すきっとした金いろの円光をいただいて,しづかに永久に立ってゐるのでした。

「ハルレヤ,ハルレヤ。」前からもうしろからも声が起りました。ふりかへって見ると,車室の中の旅人たちは,みなまっすぐにきもののひだを垂れ,黒いバイブルを胸にあてたり,水晶の数珠(じゅず)をかけたり,どの人もつつましく指を組み合せて,そっちに祈ってゐるのでした。思はず二人もまっすぐに立ちあがりました。カムパネルラの頬(ほほ)は,まるで熟した苹果(りんご)のあかしのやうにうつくしくかゞやいて見えました。

(『銀河鉄道の夜』七,北十字とプリオシン海岸)宮沢,1985 下線は引用者 

 

この「北十字」近くのキリスト教を象徴する「円光をいただいて」いる「立派な眼もさめるような白い十字架」(第1図)に対して,キリスト教徒ではないジョバンニとカムパネルラが「思はず二人ともまっすぐに立ちあがりました」とあるが,この表現は違星の7月11日の日記の「信仰の違う私も此の時だけは平素の主義を離れて祈りを捧げた」という記載と似ている。また,黒いバイブルを持っている人は八重子を彷彿させる。多分,賢治は雑誌『コタン』に記載されている違星の日記を参考にして上記引用文の文章を創作したように思える。

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第1図.金色の円光をいただいている立派な眼も醒めるような白い十字架. 

(3) 熟した苹果のあかし

上記引用文では,「カムパネルラの頬は熟した苹果のあかし」の様に美しく輝いたとあるが,「熟した苹果のあかし」とは何であろうか。以前,この「熟した苹果のあかし」とは「赤い炎のようなリンゴの形をした明かり」を連想させるとして「竈(かまど)」(土・石・煉瓦などで作った,煮炊きするための設備)のことであろうと考察したことがある(石井,2016a)。

 

「リンゴ」の果実は硬くて食べ残す「芯」の部分と食用の「果肉」の部分からなる。「果物(リンゴ)」の「芯」は,東北地方等では「かまど」と呼ばれることがある(第2図)。これは,「火」を扱う「かまど」が生活(家庭)の第一のよりどころ,生活の「中心」であることから付けられた。

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第2図.リンゴの断面図

賢治の時代では,まだ土着信仰が残っていて「竈」には「火の神」(農作業の神や家族の守護神を兼ねる)である「カマド神」がいて,「竈」自身が信仰の対象にもなっていた。また「竈」の「火」は夜の「明かり」にも使われていた。すなわち,「東北」(花巻)に生まれ「竈」の「炎」を見つめ続けてきた賢治は,「十字架」を見つめるカムパネルラの赤い頬に,信仰が生活の中心であった幼少あるいは少年時代(さらには囲炉裏の原型が見出されている縄文時代まで遡って)の信仰心が「炎」のように強かった頃の思いを重ね,その頬を「熟した苹果のあかし」という言葉で表現したのだと思われる。

 

「アイヌ」もまた,自然,動物,植物,道具などに「魂」が宿っていると考え,多くの恵みをもたらすものや巨大な力を持っているものを「神(カムイ)」として敬った(計良,2008)。特に重要な「神」は「火の神」であった。「アイヌ」の伝統的な住宅(チセ)の内部には「竈」はないが,部屋は1室でその中央部に最も重要な「火の神」が座る「アペオイ」(囲炉裏)が配置されていて,日常的に「祈り」が捧げられていた。「アイヌ」の自然信仰は,教会や寺院などの特別な「祈り」の場所を持たないので,必ずしも「宗教」とは言えないかもしれないが,明治以後に近代文明に接触するまでは「アイヌ」にとってこの「火の神」を中心とした自然信仰は生活そのものであった。

 

違星は「アイヌ」の地位向上のための活動をしていた頃(1925〜1929年),賢治と同様に国柱会や教会に出入りしていたので仏教やキリスト教に関心があったようであるが,彼が帰依した宗教が生涯に渡って「アイヌ」の自然信仰だけであったのか,それ以外の既成宗教などに改宗したのかどうかについては知られていない。ただ「キリスト教では,まして外国人ではウタリ(同胞)は救えない」と公言していたとされるのでキリスト教には帰依していない(山科,2019a)。

 

「アイヌ」の墓標は「石」ではなく「木」なので年月とともに朽ちる。違星は1929年に亡くなっていて,八重子も違星の墓を訪れていて,歌集『若きウタリに』の中で違星の死を悼む短歌を詠んでいるが,違星研究者によると現在その墓はみつからなかったという(山科,2019b)。違星の墓が残っていないということは,違星は「アイヌ」の風習で「木」の墓標の下に埋葬された可能性もあり,自然信仰と共に生きた「アイヌ」としての生涯を全うしたのかもしれない。 

 

1930年頃の北海道の純粋なアイヌ人の宗教を調べた調査報告書によれば,調査した戸数を3,417戸(人口15,266人)として,明治以前では「アイヌ」は殆どが「アイヌ」固有の信仰である自然信仰(調査では自然宗教と記載されている)であったが,「同化政策」によって自然信仰の戸数は1,684戸に減り,既成宗教の仏教は1,189戸,神道は355戸そしてキリスト教は189戸になったという(北海道アイヌ協会,1972)。ここで注目すべきことは「アイヌ」の半数が調査上では自然信仰から離れた生活をしているということである。

 

違星は,賢治と同じようにキリスト教徒ではないが,自然信仰以外にどの神が「ほんたう」の神なのかについては関心が高く,別の言葉で言い換えれば信仰心は非常に強かったと思われるので,「立派な眼もさめるやうな白い十字架」を「つつましく」祈るキリスト教徒の中では,違星が投影されているジョバンニと賢治が投影されているカムパネルラは,信仰が違っていても「思はず二人ともまっすぐに立ちあがった」のであろう。

 

(4) ジョン・バチェラー批判

八重子の養父であるバチェラーは,アイヌ語新約聖書の翻訳出版やアイヌ語の言語学的研究に多くの業績を残している人物である。これら業績に対してバチェラーは明治,大正,昭和の天皇から招待ないし表彰されている(小柳,2008)。違星は,八重子を高く評価していたが,養父のバチェラーに対しては,その業績にも関わらず批判をしている。

 

違星が1927年平取にいた頃に詠ったものに「五十年伝道されし此のコタン/見るべきものの無きを悲しむ」と「平取に浴場一つ欲しいもの/金があったら建てたいものを」の2首がある。これは,バチェラーが研究活動や伝道には熱心だったが,「アイヌ」が切実に望むものには無関心で,例えば浴場さえ50年間で1つすら建てなかったし,それに気づかなかったことを述べているものである。このようなバチェラーの伝道の仕方が違星に「キリスト教ではアイヌは救えない」と思わせたのかもしれない。

 

同じキリスト教者である小柳(2008)も,この2首を見て,またバチェラーが1903年に大阪で開催された内国勧業博覧会において「見せ物」になることが自明の学術人類館に「アイヌ」を紹介したことにふれ,バチェラーにとって「アイヌ」は「研究対象」や「名誉」の手段だったと指摘している。

 

違星は,バチェラーだけでなく,このような「見せ物」にでる同族「アイヌ」をも「芸術の誇りも持たず宗教の/厳粛もないアイヌの見せ物」,「見せ物に出る様なアイヌ彼等こそ/亡びるものの名によりて死ね」などの短歌を残して批判している。

 

(5) 「開拓功成らない義人に新しい世界現はれる」は「ほんたう」か

童話『銀河鉄道の夜』第四次稿の最終章で,キリスト教徒と思われる青年と<女の子>が信じる「神」が「ほんたうの神」であるのか「うその神」であるのかについて,ジョバンニと<女の子>あるいは青年が議論する。

 「天上へなんか行かなくたっていゝぢやないか。ぼくたちこゝで天上よりももっといゝとこをこさへなけあいけないって僕の先生が云ったよ。」

「だっておっ母さんも行ってらっしゃるしそれに神さまが仰っしゃるんだわ。」

「そんな神さまうその神さまだい。」

「あなたの神さまうその神さまよ。」

「さうぢゃないよ。」

「あなたの神さまってどんな神さまですか。」青年は笑ひながら云ひました。

「ぼくほんたうはよく知りません,けれどもそんなんでなしにほんたうのたった一人の神さまです。」

「ほんたうの神さまはもちろんたった一人です。」

「あゝ,そんなんでなしにたったひとりのほんたうのほんたうの神さまです。」

(『銀河鉄道の夜』九.ジョバンニの切符)宮沢,1985 下線は引用者

 

この場面で議論している<青年>にはバチェラーが,<女の子>には八重子が,そしてジョバンニには違星が投影されているようにも思える。「ほんたうの神さまはもちろんたった一人です。」という<青年>に対して,ジョバンニは「そんな神さまうその神さまだい。」と言って反駁する。この後,<青年>と<女の子>は,十字架と<白いきものの人>のいる所で降りることになる。 

 

この場面は,また賢治の創作メモの中にある「青年白衣のひととポウロについて語る」と「開拓功成らない義人に新しい世界現はれる」という文章と関係があるように思われる。メモ書き前者の<白衣の人(物語では白いきものの人)>はイエス・キリストで,<ポウロ(パウロ)>は「ロマ書」(『新約聖書』の「ローマ人への手紙」)の著者である。メモ書き後者は,文芸評論家の佐藤(1984,1996)によれば,無教会主義キリスト教徒である内村鑑三の代表的著作『羅馬書の研究』の影響を受けたもので,「ロマ書」の「録して『義人は信仰によりて生くべし』とある如し」(1章17節)と「功(いさお)なくして神の恩恵(めぐみ)により,キリスト・イエスにある贖罪(あがなひ)によりて義とせらるるなり」(3章24節)を参考にしたものだという。

 

「義人」と「新天地」の関係で言えば,内村は「神の約し給う終末の日を待ち望み,そこに新天地を望み待つところに,義人の信は全うされる」としている。内村と賢治では微妙に「ロマ書」の解釈あるいは受け取り方の違いが存在するように思われる。

 

著者なりに賢治のメモ書き後者を解釈すれば,「アイヌ」のように北海道開拓に関して特段功績があるというわけでもなく,また土地を奪われ被差別と貧困の中にいる者でも,「義人」すなわち唯一で絶対の神を強く信じる心があれば,神の贖罪(キリストの十字架上の死)により神から恩恵を受けられるし神が約束する「新しい世界」も現れるということであろう。しかし,「義人」とも言える「アイヌ」の知里やキリスト教宣教者である八重子やバチェラーによって洗礼を受けた「アイヌ」のキリスト教徒達は,その後北海道の大地で神の恩恵を受け「新しい世界」の中で「しはわせ」を享受したと言えるのだろうか。 <青年>と<女の子>が崇める「神」に対して,ジョバンニ(=違星)は「うその神さま」と言っている。

 

バチェラーの聖公会(教派の一つ)に所属するキリスト教徒でもある知里(2007)は,亡くなる3か月前の日記の中で「私は救世軍が好きだ。形式ばっかりの宗教よりもだん/\/\/\内容充実となる様に進んで行く(/\は繰り返し文字;引用者注)。何故,聖公会だの救世軍だの何だのかんだのとわかれわかれになってるのだらうか。仏教だのキリスト教だのって・・・・。自分の神さまを信じる人のみが天国へ行き,あとのすべての人は地獄へ行くといふ。私にはわからない。あゝもう宗教の事なんかわからない。たゞ神様はある,たしかにあるといふ事だけを私は確信してゐる。(中略)理屈なしに信ずればそれでよいではないか」(1922.6.22)と記載していた。

 

知里は,多神教とも言える自然信仰の中で暮らしてきた「アイヌ」なので一神教には多少抵抗があったと思われ,また聖公会という宗教団体を介してのキリスト教に対しても違星と同様に疑念を抱いていた(アイヌの神には火の神,水の神,熊の神など重要な神(パセ・カムイあるいはグレイト・スピリット)もあるので厳密な意味では多神教ではない(吉本ら,1995))。

 

しかし,「義人」と言えるに値する「信仰心」は強く持っていた。同胞にも改宗してキリスト教信者になったものも数的には少ないがいた。しかし,知里は,日記で「私たちアイヌも今は試練の時代にあるのだ」(1922.6.29)とも言っているが,「私はアイヌだ。何処までもアイヌだ。何処にシサムのやうなところがある?! たとへ,自分でシサムですと口で言い得るにしても,私は依然アイヌではないか」,「アイヌなるが故に世に見下げられる。それでもよい。自分のウタリが見下げられるのに私ひとりぽつりと見あげられたって,それが何になる。多くのウタリと共に見さげられた方が嬉しいことなのだ」(1922.7.12;ウタリは同胞でシサムは和人)と書き記す。

 

さらに,知里(1978)は,死の直前まで原稿の校正をしていた『アイヌ神謡集』(1923年8月出版)の序文で,今後強い者が何人かでてきたらと希望も記したが,アイヌ民族が北海道の大地で将来「しはわせ」を享受できるようになるではなく,「亡びゆくもの」と書かざるを得なかった。

 

知里は,文学的に高く評価されている「アイヌ」の神謡(カムイユカラ)が「亡びゆくもの」と一緒に消失していくことを惜しみ,文字として後世に残すことを決意するが,賢治の恋人と同じ心臓病(僧帽弁狭窄症)を患っていて志半ばにしてこの世を去ることになった(1922.9.18,19歳)(須田,2018)。

 

物語でキリスト教徒と思われる<青年>は,船が氷山と衝突したとき救命ボートに乗せることもできたはずの<女の子>を,他人を押しのけてまで助けるべきか思い悩み結局は助けられなかった。しかし,この<青年>もまた「神」を信じる強い「信仰心」は持っていた。創作メモに「青年白衣のひととポウロについて語る」という文書があることについては前述したが,<青年>が『銀河鉄道の夜』の中で天上世界に登場する<白いきものの人(イエスキリスト)>と,<パウロ>について実際に議論することはなかった。

 

しかし,賢治が物語の中で議論する場面を設定したとすれば,<青年>は,天上の<白いきものの人(=神)>に向かって,強い「信仰心」を持ち信仰中心の生活をおくり続ければ「新しい世界」が現れることがあるのかどうか尋ねたにちがいない。

 

これは,賢治にとっても非常に大きな問題であったからである。難破船の逸話が語られる場面での<青年>にはバチェラーではなく賢治自身が投影されていることはすでに報告した(石井,2018)。賢治は,「先住民」の共同体意識である「まっくらな巨きなもの」に衝突したとき,特定の人の「しはわせ」(偏愛)よりも自己犠牲的な「みんなのしはわせ」(普遍の愛)を優先させて相思相愛の恋人を異郷の地へ行かせてしまった。

 

賢治は,キリスト教徒ではないが熱心な法華経信者なので「義人」に相当する強い「信仰心」や大乗仏教的な他者を優先する「利他心」も持っている。賢治にしてみれば「性格」によるものもあるかもしれないが,宗教的な愛(仏教では慈悲,キリスト教ではアガペー)を優先したがゆえに恋人一人「しはわせ」にできなかったのに,「新しい世界」(ドリームランドとしてのイーハトーブ)や「みんなのしはわせ」をもたらすことが可能であるのかという疑問は常に脳裏に浮かんだことであろう。

 

すなわち,賢治は,恋愛と破局を経験して,既存宗教の宗派や教派に関わらず「信仰心」や「利他心」だけでは「新しい世界」は現れないと思うようになったのではないだろうか。結婚は,それぞれ個人の「しはわせ」かもしれないが,それが近親者を含め「先住民」と「移住者」の末裔達の和解に繋がれば,個人と皆の「しはわせ」は両立するようにも思える。

 

「開拓功成らない義人」は誰かについては諸説がある。佐藤(1984)は,内村鑑三の弟子の一人で賢治とも交流のあった花巻の斎藤宗次郎を候補に挙げてその可能性について言及しているが,違星に多大な影響を与えた知里幸恵もその一人であると思う。

 

(6) 瓜に飛びつく人達

童話『銀河鉄道の夜』第四次稿の最終章(九,ジョバンニの切符)で,「サウザンクロス」の停車場近くに立つ「十字架」に対しては「つつましく」以外に「子供が瓜に飛びついたとき」のように歓喜の声をあげている人達が描かれている。この場面は,カーバイド工場の炎(近代科学の炎)をイメージできる「蠍の火」や「蠍の形」に並んだ工場の「煙突」や「送電鉄塔」(三角点)をイメージできる「三角標」を見た後に現れる。

   「さあもう支度はいゝんですか。ぢきサウザンクロスですから。」

 あゝそのときでした。見えない天の川のずうっと川下に青や橙やもうあらゆる光でちりばめられた十字架がまるで一本の木といふ風に川の中から立ってかゞやきその上には青じろい雲がまるい環(わ)になって後光のやうにかかってゐるのでした。汽車の中がまるでざわざわしました。みんなあの北の十字のときのやうにまっすぐに立ってお祈りをはじめました。あっちにもこっちにも子供が瓜(うり)に飛びついたときのやうなよろこびの声や何とも云ひやうない深いつゝましいためいきの音ばかりきこえました。そしてだんだん十字架は窓の正面になりあの苹果の肉のやうな青じろい環の雲もゆるやかにゆるやかに繞(めぐ)ってゐるのが見えました。

 「ハルレヤハルレヤ。」明るくたのしくみんなの声はひゞきみんなはそのそらの遠くからつめたいそらの遠くからすきとほった何とも云へずさはやかなラッパの声をききました。そしてたくさんのシグナルや電燈の灯のなかを汽車はだんだんゆるやかになりたうとう十字架のちゃうどま向ひに行ってすっかりとまりました。

 「さあ、下りるんですよ。」青年は男の子の手をひきだんだん向ふの出口の方へ歩き出しました。

「ぢゃさよなら。」女の子がふりかへって二人に云ひました。

         (中略)

 そして見てゐるとみんなはつゝましく列を組んであの十字架の前の天の川のなぎさにひざまづいてゐました。そしてその見えない天の川の水をわたってひとりの神ゝ(かうがう)しい白いきものの人が手をのばしてこっちへ来るのを二人は見ました。

(『銀河鉄道の夜』第四次稿 ジョバンニの切符 宮沢,1985)下線は引用者

 

「サウザンクロス」の停車場近くの「十字架」は,「北十字」のものと異なり「青や橙やもうあらゆる光でちりばめられ」ている(第3図)。この「あらゆる光」とは,人々が望むもの,物質文明がもたらしたものを手に入れることができる金(貨幣)や宝石の輝きであり,賞賛であろう。「北十字」の「十字架」は「金色の円光」が輝いていたが,「サウザンクロス」の停車場近くの「十字架」はそれ自身が輝いているのではなくて,輝くものが散りばめられているだけであり,「苹果の肉」のような不気味な「青じろい環の雲」が掛かっている。 

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第3図.苹果の肉のような不気味な青じろい環の雲とあらゆる光でちりばめられた十字架

 

「苹果の肉」とは「リンゴ」の中心部(かまど)を除いた果肉の部分である。「リンゴ」の果実は子房以外の花床などが発達してできたもので「偽果」(偽物の果物)と呼ぶ。すなわち,「サウザンクロス」の停車場近くに立つ宗教的威厳の象徴であるはずの「十字架」が,「青や橙やもうあらゆる光でちりばめられて」いるように「物質的な豊かさ」をもたらす科学によって「中心」が抜けている「偽物」になってしまった(石井,2016b)。

 

北海道の「先住民」である「アイヌ」について言えば,「あらゆる光」の中には「和人」の「輝ける血?」(血統)あるいは「和人」がもたらした米で作られた「極上の酒」も含まれるのかもしれない。人々は従来の生活と密着した自然信仰ではなく「和人」が持ち込んだ「物質的な豊かさ」をもたらす科学や近代文明と一緒にもたらされた既存の宗教(仏教やキリスト教)を信仰するようになっている。前述したように1930年頃の「アイヌ」の人達の半数は自然信仰から離れている。

 

賢治が1926年頃に書いたとされる『農民芸術概論綱要』の「宗教は疲れて近代科学に置換され然も科学は冷たく暗い/芸術はいまわれらを離れ然もわびしく堕落した/いま宗教家芸術家とは真善若くは美を独占し販るものである」に対応する。

   

賢治は,人々が「精神的な豊かさ」をもたらす宗教(アイヌでは自然信仰)よりも「物質的な豊かさ」をもたらす近代科学文明を選択する様子を,「子供が瓜(うり)に飛びついたときのやうなよろこびの声」で表現しようとしたが,この表現で使われた「瓜」は何が考えられるだろうか。

 

「マクワウリ」(ウリ科で学名はCucumis melo L.var.makuwa Makino)あるいは「スイカ(西瓜)」(ウリ科で学名はCitrullus lanatus (Thunb.) Matsum. et Nakai)が考えられるが,多分子供の好きな甘い「スイカ」であろう。現在普及している果肉が赤く果皮が縦縞模様の「スイカ」は,明治初年にアメリカ等から導入したアイスクリームなどの品種が親品種になったものという(青葉,2000)。「スイカ」と推定したのは,甘いだけでなく実が赤いので血をイメージできるからでもある。

 

「アイヌ」は「和人」との婚姻を望むものが少なくなかったという。近代文明に接触した「アイヌ」は近代科学がもたらす「物質的な豊かさ」を得るだけでなく,「生き抜く」ために,また子供が自分よりも「しはわせ」になるようにと,「アイヌ」であることを否定して,そして「血」を薄めるために「シャモ(和人)」との婚姻を望んだという(高野,1958;石原,2018)。「和人」の「血」も,被差別を回避するため,あるいは「物質的な豊かさ」をもたらすという意味では「アイヌ」にとって「科学」に匹敵するものであったのかもしれない。

 

これは「東北」の「先住民」にも言える。賢治が1932年11月に『女性岩手』に発表した「母」という美しい文語詩がある。「うなゐの子」はうなじあたりで切り揃えた髪型の子で,「手すさび」は手遊びという意味である。

 雪袴黒くうがし うなゐの子瓜食(は)みくれば

風澄めるよもの山はに うづまくや秋のしらくも 

この身こそ瓜も欲りせん 齢弱(としわか)き母にしあれば

手すさびに紅き萱穂を つみつどへ野をよぎるなれ

(宮沢,1985) 下線は引用者

 

これは,1917年8月に年譜「文語詩篇」ノートの17頁にメモ書きした「瓜喰みくる子 日居城野 鳥/母はすゝきの穂をあつめたり 松林,」を基に作成されたものである。1917年のメモ書きと異なり,また注目すべきところは「すゝきの穂」を「紅い」としたことである。1917年は,「東北」は未曽有の豊作で,米価は高騰し農家の収入はかつてない盛況を呈したという(原,1999)。貧しい「東北」は凶作であれば,娘の身売りも有り得た時代だった。

 

豊作でも自分は我慢して子供にだけ「瓜」を食べさせるというのが1917年の詩の本意であろうが,投稿時に「ススキ(萱穂)」に「紅き」という形容詞を付けたことによって別の解釈が生まれる。この文語詩の「瓜」も赤い「血」をイメージできる「スイカ」であろう。賢治がこの詩を投稿した『女性岩手』の創刊前の趣旨パンフレットには「地方女性の為の」「実際行動の上に一つの指標を与えようとする」公器として思い立ったと書かれてある(原,1999)。賢治は,貧しい農村の女性が自分の子供が自分よりも「しはわせ」になるようにと「町の人」(「移住者」)との婚姻を望んでいる様子を描こうとしたのかもしれない。

 

さらにもう1つ,「瓜」には重要な意味が隠されている。「瓜」は英語で「gourd」(発音記号:gˈʊəd)というが,この語彙の発音と似ているものに「gold(金)」(góʊld )がある。すなわち,「瓜に飛びつく」とは「先住民」にとって「物質的な豊かさ」が手に入る「血」以外に「金(貨幣)」に飛びつくという意味も含まれている。

 

2)平村幸雄の場合

「アイヌ」には「和人」との混血を望むものがいたが,この混血(和人化)を推奨する「アイヌ」の言論人もいた。平村(1972)は,雑誌『蝦夷の光』の「アイヌとして生きるか?将たシャモに同化するか?-岐路に立ちて同族に告ぐ-」(1930.8.5)では,「アイヌ」は「和人」との生存競争で種族としては存在し得ないことを認め,「アイヌ」の「祖先が和人化して且血液が多量に和人の中に入って居る事は近世の学者が証明して居る」として「和人」の中に「血」を残すことを主張した。「アイヌ」は混血によって「血」は薄まるが,逆に「和人」の「血」の純血も存在し得なくなっていることを指摘している。すなわち,「アイヌ」は「和人」の中でも生き続けられるとした。

 

3)貝沢藤蔵の場合

「アイヌ」の社会運動家である貝沢(1972)は,著書『アイヌの叫び』(1931.11.20)の中で,和人は「科学を応用し文明の利器を用ひてフルスピードで楽々走って居るのに,我々は寝呆け眼を擦り乍らテクテク之を追掛けて居る有様」であり,この大差を挽回するのは「金や物(食料など)ではなく学問である」と訴えた。さらに「学問の無いところに文明もなければ進歩もない,無論科学の発生するはずもない。物質の豊かさを与えられることはアイヌを遊惰(ゆうだ)の民と化せしめ野垂れ死にをさせるようなものだ」,あるいは「アイヌ人を滅するものは酒である。若きウタリ等よ。酒を廃せ」とも言っている。貝沢は,「アイヌ」にとって必要なものは学問であること,とりわけ科学の知識を身に着けることの重要性を説いている。

 

しかし,当時貝沢ら「アイヌ」の言論人達が気づいていないことがある。科学を学び知識を増やすことは,「アイヌ」の世界観を構成している事柄のいくつかを確固たるものにすることもあるが,否定されるものも少なくないということである。「アワ」を鎌で根刈するのを「タブー(禁忌)」としているが,その根拠になるものとして根刈すれば穀物が再生されないからだというが,この「タブー」の根拠は宗教によっては支持されても科学(生物学,植物学)によって否定されてしまう。

 

2.農耕文化に接触後の「蝦夷(エミシ)」が辿ったもの

「東北」の「先住民」である「古代蝦夷(エミシ)」もまた,知里(1978)が『アイヌ神謡集』の序文で述べたように「東北」の大地(北上山系)で「大自然に抱擁されてのんびり楽しく生活して」いたのかもしれない。しかし,海で隔てられている北海道の「アイヌ」と異なり地続きの「東北」で「大和民族」と対峙していて,繰り返し侵略を受けざるを得ない「蝦夷(エミシ)」の大地は安住の地とは言い難い。

 

「蝦夷(エミシ)」の「しはわせ」も「アイヌ」と同様に長くは続かなかったと思われる。純粋な「蝦夷(エミシ)」の末裔が京都に都を置く朝廷との闘いで敗れた後にどこへいったかは明らかになっていない。朝廷に服属した「蝦夷(エミシ)」は安部氏,出羽清原氏,奥州藤原氏のように「俘囚」と呼ばれるようになり日本各地に移住させられたりもしたが,「東北」に残ったものも多かったようである(高橋,2012)。「俘囚」が有していた狩猟・武芸などの優れた戦闘技術はその後に登場してくる「武士」達に大きな影響を与えたとも言われている(喜田,2019)。

 

「東北」に残った「蝦夷(エミシ)」あるいは「俘囚」は,「武力」で勝る「大和民族」へ長い年月をかけゆっくりと「同化」していったと思われる。「アイヌ」に「贋シャモ」や「サイレント・アイヌ」と呼ばれる人達が多いということを前述したが,現在の「東北」の「先住民」の多くは血が薄まっているとはいえ「サイレント・蝦夷(エミシ)」あるいは「サイレント・俘囚」なのかもしれない。

 

昭和初期の「東北」の農民について調査した大牟羅(1958)の『ものいわぬ農民』には,「小作人」である農民が「地主」に「反感」を持ちながらも「沈黙」する姿が描かれている(宮沢一族は,京都出身で賢治の父親を含め地域財閥であるとともに大地主でもある)。しかし,生まれが宮城県で育ちが京都である哲学者の梅原猛(1925〜2019)のように,現代に生きていながらも自らの体には「東北人」の「血」が流れていると公言する人もいる。賢治が生きていた時代にも「蝦夷(エミシ)」の末裔であることを隠さずに,あるいは無意識の中に封じ込めた形でも自らのアイデンティティを主張した「東北」の「先住民」が少なくなかったように思える。

 

「アイヌ」の言論人達による「和人」の「同化政策」に対する異議申し建ては,「東北」の「先住民」が「移住者」に対して示した「まっくらな巨きなもの」を言語で代弁しているとも思われるが,賢治はそれを「東北」の「先住民」から「疑い」や「反感」の形で受け取った。賢治は,また「アイヌ」の言論人達の主張の中から「東北」の「先住民」の自分に対する「疑い」や「反感」が「移住者」側の「先住民」に対する蔑視の「反動」であることを強く意識したと思われる。

 

「アイヌ」(あるいは「古代蝦夷」)のように自然信仰と自然と共生することに価値を置く生き方は,ある条件下では「蝦夷(エミシ)」に「さいはひ」をもたらしたかもしれないが,またその「さいはひ」は日本列島で縄文時代を含めて1万年以上続いたとされるが,異なる価値観で生きる民族との接触を余儀なくされる時代になれば必ずしも「さいはひ」をもたらしてくれない場合もあることを歴史は示した。

 

一方,生産性を高めてくれる科学文明に依存して生きていけば「ほんたうのさいはひ」が得られるようになるのかと言えば,室伏高信の『文明の没落』にあるように必ずしもそうとは言えない時代にもなった。実際に,人間中心主義の科学文明(物質文明)は自然すなわち環境を破壊していくだけでなく,「精神疾患」(アルコール依存症を含む)の増大や「公害」の形で人間の「精神」や「身体」をも蝕んでいった。万民が納得するような「宗教」はまだ現れていないように思われるし,「科学」も絶対的真実を提供してくれているとは思えない。

 

「宗教」にも「科学」と言われているものにも「ほんたう」や「うそ」がある。『銀河鉄道の夜』第三次稿でブルカニロ博士は,ジョバンニに一心に勉強して「ほんたうの考え」と「うその考え」を見分けられるようになれば「信仰(宗教)」と「化学(科学)」は同じになると言っていた。

 

「アイヌ」の自然信仰を基にした詩的で神話的な世界観は,草木国土悉皆成仏思想が根底にある日本の仏教的世界観と共通するところが多い。賢治は,法華経を中心として既存の宗教(仏教,キリスト教,イスラム教など)を超えた新しい「普遍宗教」を創出するとともに,「ほんたうのさいはひ」を探すため,さらに「宗教」と「科学」を「一致」(合致)させて新しい世界観を創出しようとした。しかし,その「願い」もむなしく,自分に対して「疑い」と「反感」をもつ「先住民」の共同体意識(「まっくらな巨きなもの」)をどうしても動かせなかったように,「ほんたう」と「うそ」を区別して「宗教」と「科学」を「キメラ」のように「一致」(合致)させる「方法」は分からなかったように思われる。あるいはその方法を手に入れる前にこの世を去った。 

 

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本稿は人間・植物関係学会雑誌19巻第1号17~24頁2019年に掲載された自著報文(種別は資料・報告)を基にしたものである。原文あるいはその他の掲載された自著報文は人間・植物関係学会(JSPPR)のHPにある学会誌アーカイブスからも見ることができる。http://www.jsppr.jp/academic_journal/archives.html