宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』-リンゴと十字架(2)-

Keywords : 文学と植物のかかわり,五千起去,偽果(ぎか),川下(下流),くるみ,苹果の肉,法華経

 

白鳥の停車場(北十字)やサウザンクロス(南十字)の停車場の近くには「十字架」も立っていて,そこには「十字架」と共にキリスト教をイメージできる「リンゴ」も登場する。北十字での「リンゴ」は,「十字架」を見つめるカムパネルラの頬の赤い色を表現する比喩として使われ,また南十字では「十字架」の上にある青白い雲を表現する比喩として使われている。しかし,北十字と南十字で登場する「リンゴ」から受け取れるキリスト教的イメージはかなり異なっていた。例えば,北十字の「リンゴ」は「苹果のあかし」と表現されるように明るく暖かいが,南十字の「リンゴ」は不気味で冷たい。本稿では,南十字の「リンゴ」がなぜ不気味で冷たく感じるのかを考察したい。

 

1.冷たさを感じさせる「苹果の肉」の宗教的背景

南十字の「苹果の肉のやうな青じろい環の雲」がなぜ不気味で冷たく感じるのか。この場面で出てくる「苹果の肉」の「肉」とは,「リンゴ」の木の果実の硬い「芯」の部分を除いた「果肉」であろう。しかし,「果肉」ではなく「果」を取り除いた「肉」という言葉から連想できるのは動物の「肉」であったり「内臓肉」であったりするので不気味である。また,「青白い雲」は冷たさをイメージさせる。

 

果実には,種によって子房が発達して出来たものと,子房以外の花床などが発達して出来たものがある。果肉が子房からなる果実を「真果(true fruit)」と呼び,子房以外からなる果実を「偽果(false fruit)」と呼ぶ。「リンゴ」の果実は,後者の「偽果」である。すなわち,「苹果の肉」とは中心の「芯」を取り除いて「環(リング)」になった偽果の「果肉」である。では南十字の「十字架」の上にある「苹果の肉のやうな青じろい環の雲」とは何を意味しているのだろうか。

 

北十字の「苹果のあかし」のところで説明したように,東北地方では,前述したように「苹果」の「芯」の部分を生活の中心を意味する「かまど」と呼んでいた(石井,2015)。一方,南十字の「十字架」の上にある「苹果の肉」のような雲の環にはこの「かまど」に相当する「中心部分(芯)」がない。多分,賢治は『銀河鉄道の夜』を執筆していたころには,既成宗教に失望し,同時に人々の「信仰」も生活の中心部分にはないと感じ取ってしまったのだろう。

 

次に南十字の「苹果の肉」と「信仰心」の関係について賢治が帰依した「法華経」の教義を用いて論じてみる。この場面は,ジョバンニが列車内でキリスト教徒と思われる青年や女の子と「ほんたうの神様」について論争した後に,サウザンクロスの停車場でたくさんの乗客と一緒に下車しようとする女の子に「もっといゝとこ(=「ほんたうの悟り」の世界)」があると言って引き留めた直後である。この場面のキリスト教徒と思われる人たちを仏教徒まで含むと解釈すれば,これは,「法華経」の「方便品第二」に記載されている「五千起去」(五千上慢とも呼ぶ)に対応できる。

 

「五千起去」とは,仏が大事な「法華経」の「ほんたうの教え」を説こうとしたとき,その会座にいた5000人の出家・在家修行者たちが,すでに妙果(仏教用語で悟りの意味)を得ていると自惚(うぬぼ)れていたためにこれを聞こうとせず起立して立ち去ったことをいう。賢治が実際に読んだ島地大等(1987)の『 漢和對照 妙法蓮華經』(鳩摩羅什<くまらじゅう;334-413>の漢訳の和訳;復刻版)の「方便品第二」には以下の記載がある。

説此語時。会中有比丘。比丘尼。優婆塞。優婆夷。五千人等。即従座起。礼仏而退。所以者何。此輩罪根深重。及増上慢。未得謂得。未証謂証。有如此失。是以不住。世尊黙然。而不制止。爾時仏。告舎利弗。我今此衆。無復枝葉。純有貞実。舎利弗。如是増上慢人。退亦佳矣。汝今善聴。当為汝説。

 

「この語を説きたまふ時,会中に比丘,比丘尼,優婆塞(うばそく),優婆夷(うばい)五千人等有り。即ち座より起(た)ちて佛(ほとけ)を礼して退きぬ。所以(ゆゑ)は何(いか)ん。この輩(ともがら)は罪根深重に,及び増上慢にして,未だ得ざるを得たりと謂(おも)ひ,未だ証せざるを証せりと謂へり。此(かく)の如き失(しつ)あり。是を以って住せず。世尊黙然として制止したまはず。爾(そ)の時に佛、舎利弗に告げたまはく,我が今(いま)此の衆は復枝葉(しえふ)無し,純(もっぱ)ら貞實(ぢょうじつ)のみならん舎利弗,是の如き増上慢の人は,退くも亦(また)佳(よ)し。汝今善く聞け,当に汝が為に説くべし。         

(『 漢和對照 妙法蓮華經』の「方便品第二」島地大等)下線は引用者

増上慢:まだ悟りを得ていないのに,悟ったと思って高ぶること 

 

「方便品第二」では,「法華経」の教えを説こうとしたときに立ち去らずに残った者たちに,仏は「我が今此の衆は復枝葉無し,純ら貞實のみならん」(下線は引用者)と言っている。「貞實」は,サンスクリット語の原典の直訳(坂本・岩本,1962)では「信仰の核心に安住している者」となっている。すなわち,今ここに残っている者たちは「ほんたうの教え」を聞くことができる枝葉のない種子をもつ果実(「貞實」=「信仰の核心に安住している者」)のような者たちだと言っている。ならば,『銀河鉄道の夜』の「ほんたうの幸せ」や「ほんたうの考え」を知るための列車からジョバンニが引き留めたにもかかわらず下車してしまったキリスト教徒のような人たち(仏教徒も含めて)は,枝葉を茂らすところの種子をもたない果肉だけの果実(=「苹果の肉」)のような者たちということになる。

 

多分,賢治は「法華経」に書かれてある「五千起去」の話をもとに,南十字の青白い雲を「苹果の肉」と表現することによって,「ほんたうの教え」に耳を傾けない「キリスト教徒」たちに当時の増上慢になった宗教指導者や科学に拠り所を求める信者たちを重ね,彼らの宗教が皆「にせ物(=偽果)」であるということを言いたかったのかもしれない。「方便品第二」では,そのような増上慢になったものたちは立ち去ってもよいとも言っている。ジョバンニの「まるで泣き出したいのをこらえて怒ったやう」に女の子に言う「さよなら」は,当時の増上慢になった宗教指導者や科学に拠り所を求める信者たちへの「決別」の挨拶だったように思える。

 

しかし,「方便品第二」を注意深く読んでいくと,賢治がそのまま法華経の「方便品第二」を『銀河鉄道の夜』に使ってはいないことがわかる。なぜなら,南十字にある「木」のような「十字架」には「枝葉」がついていないからである(代わりに光輝く宝石のようなものが付いている)。この「十字架」が既成宗教を比喩しているなら,「木」のような「十字架」には「方便品第二」に記載されているように「枝葉」がたくさん付いていてよさそうだ。この「枝葉」は鳩摩羅什が原典を漢訳したときにサンスクリット語の直接の和訳である「余計なもの」に相当する。現在でも「枝葉」は,本筋や中心から離れた重要でない部分の意味として使われている。多分,賢治は「枝葉」とか「余計なもの」という言葉を既成宗教に関与する人たちに使いたくなかったと思われる。

 

2.「信仰心」のあるものがないものよりも「下位」という位置づけ

そこで,賢治が「十字架」に「枝葉」を付けなかったことの意図を知るために,「十字架がまるで一本の木」のように立っているという表現に注目してみる。これは,この「十字架」の後に登場する「くるみの木」を意識してのことである。賢治がこの物語で「くるみの木(または林)」を「法華経思想」の比喩として使っていることはすでに報告している(石井,2014)。

 

「十字架」をキリスト教や仏教の既存宗教とすれば「木」のように立つ「十字架」はそれら既成宗教の思想を比喩していると思われる。ここでは,「法華経思想」とキリスト教を含む「既成宗教の思想」の対立の構図が描かれている。賢治が「くるみの木」を「十字架」の後(北十字からさらに離れた位置)に置いたということは,「法華経思想」の方が「既成宗教の思想」よりも「聖」なるものと位置づけていることになる。実際に,「川下」から流れてくる「霧」の中に立つ「くるみの木」の中の電気栗鼠は「黄金の円光」をいただいている。「円光」は,「光背」あるいは「後光」とも呼び,聖なるものから発する光明を意匠化したものである。すなわち,「法華経思想」の中の電気栗鼠は,南十字の「十字架」とは異なりそれ自身が「聖」なる「光」を放っている。

 

本文には「くるみの木」は登場するがその果実は見当たらない。しかし,「くるみの木」にリスがいるのだから,リスの食糧である「クルミの実」があってもおかしくない。「クルミの実」は,果実の内果皮が硬化した硬い核(殻)を持つため「核果」に分類される。リスが食糧にする「クルミの実」は実の中心部分である核の中の種子(子葉)である。すなわち,果物の食用部を「リンゴ」と「クルミ」で比較したとき興味深いものが浮かび上がる。「リンゴ」は中心部分(「かまど」)を除いた「果肉」(「偽果」)が食用になるが,「クルミ」は中心部分の核の中にある「種子」が食用になる。物語でキリスト教徒らしき姉弟の男の子は灯台看守から貰った「苹果」を「まるでパイを食べるやうに」食べてしまうが,ジョバンニとカムパネルラは貰った「苹果」を食べることはなかった。

 

賢治は,「法華経」が「ほんたうの教え」だと信じているが,「法華経思想」が「既成宗教の思想」よりも上位にあるとは考えていない。引用文にも記載があるように,賢治はしきりに「川下(下流)」という言葉を使う。第四次稿の天上を流れる「銀河」に関して「川上」という言葉は1回しか使われないが(上流階級をイメージできる上流は0回),「川下(あるいは下流)」は6回使われている。「くるみの木」は「十字架」よりも「銀河」の「川下」にある。さらに,「くるみの木」と「木」のような「十字架」は,北十字の辺りにあった「ススキ」や「芝草」よりもはるかに「川下」に存在する。

 

「ススキ」は,物語では多分「信仰心」もなく殺生をしている「鳥捕り」を象徴するものとして記載されていることはすでに報告した(石井,1915)。「上位」あるいは「下位」という表現を使えば,「くるみの木」は「十字架」よりも「下位」に,また「くるみの木」や「十字架」は「ススキ」や「芝草」よりもはるかに「下位」にある。別の言葉で言えば,ジョバンニやカムパネルラ(『法華経』の第二十七章「妙荘厳王本事品」に出てくる二人の王子である兄・浄蔵と弟・浄眼に対応)(石井,2013)はキリスト教徒たちよりも「聖」なるものであるが「下位」に,そして「信仰心」をもっているものは,「信仰心」のない「鳥捕り」よりもはるかに「下位」にある。思想家で賢治研究家の吉本隆明(1997)は,賢治が使う「川下(あるいは下流)」や「下位」の意味について以下のように説明する。

   それは「神と名づけるかどうかはべつとして,それぞれの人はそれぞれの神をもっている」わけです。青年とかほるの姉弟はキリスト教の信仰をもっている。ジョバンニはそうは言っていないが(たぶん宮沢賢治は法華経の信仰の切符をもっているんだと言わせたかった),そういう信仰をもっている。それぞれの人はそれぞれの神をもち,おまえの神が「ほんとう」なのか,おれの神が「ほんとう」なのか,なかなか解決がつかない。神が宗派の信仰であるかぎりは解決がつくわけがない。もちろん宗派という観点は宗教だけにかぎらない。あらゆる理念にまで拡張して,理念の宗派,あるいは思想の宗派でもおなじなんですが,そういうことをかんがえて争っても,解決はつきません。

 現在のところできる可能なことはなんだろうかとかんがえてみますと,宮沢賢治は,「宗派の神を信じている人のほうが,その宗派の神を信じていない人よりも下位にあるんだということを信じている人が保てたら,神はなんだかいまのところわからないにしても,それができたら,たぶん一歩だけ解決に近づくんじゃないか」と考えた最後のところのようにおもわれます。わたしたちは現実での世界ではそういう人を見つけることはなかなかできない。思想でもおなじで,じぶんのもっている思想であれ,信じている思想であれ,かんがえてきた思想がいいとおもっています。他の人もじぶんのそれをいいとおもっているから,そこで対立もおこるわけです。じぶんの思想をもっている人,あるいは信仰をもっている人は,もっていない人よりも上位にあるとおもわない信仰者,思想家は誰もいないわけです。 (『ほんとうの考え・うその考え』吉本隆明)   

 

「法華経」に帰依する宗教家としての賢治と既成宗教(あるいはその宗派)の宗教家たちとの決定的な違いは,賢治自身が他の宗教家や宗教を信じていない人たちよりも「下位」に存在すると認識している(あるいは認識したい)ということである。別の言葉で言えば,増上慢の「こころ」を持っていたり,自分を「上位」に位置づけしたりしては「ほんたう」のことは理解できないと言っているように思える。それはとても考えにくいことだが,そう考えないと「枝葉を付けたくるみの木」を種子のない「果肉」だけの果実しか付けていない「枝葉のない木」のような「十字架」の「川下」に設定したことの説明がつかない。すなわち,物語の天上の最終章の最後に登場する「法華経思想」を比喩する「くるみの木」には,果実が付いているという表現もないし,「下位」を象徴すると思われる「枝葉=余計なもの」である「葉」がさんさんと輝いているだけなのだ。

 

引用文献

石井竹夫.2013.宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に登場するイチョウと二人の男の子.人植関係学誌.12(2).29-32.

石井竹夫.2014.宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に登場する聖なる植物(後編).人植関係学誌.13(2).35-38.

石井竹夫.2015.宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に登場するリンゴと十字架(前篇).人植関係学誌.14(2).

坂本幸男・岩本 裕(翻訳).1976.文庫版法華経(上).岩波書店.東京.

島地大等.1987. 漢和對照 妙法蓮華經(復刻版).国書刊行会.東京.

宮沢賢治.1986.文庫版宮沢賢治全集10巻.筑摩書房.東京.

吉本隆明.1997.ほんとうの考え・うその考え 賢治・ヴェイユ・ヨブをめぐって.春秋社.東京.

 

本稿は人間・植物関係学会雑誌16巻第1号45~48頁2016年に掲載された自著報文(種別は資料・報告)を基にしたものである。原文あるいはその他の掲載された自著報文は人間・植物関係学会(JSPPR)のHPにある学会誌アーカイブスからも見ることができる。http://www.jsppr.jp/academic_journal/archives.html