宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

賢治が「業の花びら」を幻視した時期に生じていた慢心について (11)

 

賢治の詩「三一四〔夜の湿気と風がさびしくいりまじり〕」(1924.10.5)で幻視した「業の花びら」は「慢心」の「罰」によるものであることを述べてきた。本稿では賢治の「慢心」がどのようなものであったのかについて考察する。

 

「慢」を生む原因の1つに成功体験がある。賢治は大正10年(1921)に国柱会の髙知尾智耀の勧めによって法華文学の制作を志した。そして,全てが法華文学とは言わないまでも,生涯に渡って詩を約800,童話を約100書いた。童話に限ればその大半は農学校時代に作られている。特に大正10年には30ほどの童話を制作している。賢治は弟の清六に「一カ月に三千枚も書いたときには,原稿用紙から字が飛び出して,そこらあたりを飛びまわったもんだ」と話している(宮沢,2009)。沢山の童話作品を短期間に書けたことは賢治にとって成功体験の1つであろう。賢治はそれによって自分の創作力を「すごい」と思ったと思われる。

 

また,「慢」について,賢治は教え子の柳原昌悦への手紙(1933.9.11)の中で「僅かばかりの才能とか,器量とか,身分とか財産とかいふものが何かじぶんのからだについたものででもあるかと」思っていたと説明している。

 

才能とは物事を巧みになしうる生まれつきの能力のことである。賢治には「慢」に結びつくどのような「生まれつきの能力」があったのであろうか。賢治の詩「雨ニモマケズ」(1931.11.3)には「サウイフモノニ/ワタシハナリタイ」ものが書かれてある。賢治は「東ニ病気ノコドモアレバ/行ッテ看病シテヤリ/西ニツカレタ母アレバ/行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ/南ニ死ニサウナ人アレバ/行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ/北ニケンクヮヤソショウガアレバ/ツマラナイカラヤメロトイヒ」と詠っている。「死にそうな人に怖がらなくてもいい」と言える人は凡人ではないと考える人もいるが,私にはどれも「生まれつきの能力」が関与しているとは思えない。だだ,「アラユルコトヲ/ジブンヲカンジョウニ入レズニ/ヨクミキキシワカリ/ソシテワスレズ」はいくら凡人が努力に努力を重ねてもできないように思える。特に,「ヨクミキキシワカリ」(よく見き聞し解り)は〈菩薩〉である〈観世音菩薩〉の領域である。観世音菩薩とはサンスクリット語では「あらゆる方角に顔を向けたほとけ」という意味である。『法華経』の「観世音菩薩普門品第二十五」には,観音の力を念じれば菩薩はどんなところでも一瞬のうちに現れて,念じた者の苦しみを無くしてくれるということが記載されている。多分,賢治は「慢心」であった時期には自分が〈菩薩〉になれると信じたのではないだろうか。

 

私は,賢治が自ら言う「僅かばかりの才能」とは「察知能力」のことを言っているのではないかと思っている。賢治の友人で医師でもあった佐藤(2000)の著書には,次のような嗅覚過敏あるいは察知を伴った幻覚体験を思わせるエピソードが記載されている。例えば「生徒を伴って山に行きます。賢治さんは「炭を焼いている臭いがする。」と言う。しかし何の香りも生徒には感じられません。「そうですか。」と答えていくうちに山の中の炭焼窯に到着します。野路を行く。「杏の花の香りがすると言う。」しばらくすると白い杏の花を見る。生徒は宮沢先生の感覚の鋭敏さのなみなみでないのに驚きます。」とある。これが事実なら凡人にはない特殊な才能である。

 

賢治はこの「察知能力」を「直観」と呼んでいるように思える。『農民芸術概論綱要』(1926年頃)で「近代科学の実証と求道者たちの実験とわれらの直観の一致に於いて論じたい/世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」と言っている。

 

「法華経」に帰依していた賢治は島地大等の『漢和対照妙法蓮華経』を座右の書としていた。しかし,賢治は「科学」も信頼しており片山正夫の『化学本論』も大切にしていた。多分,賢治は『漢和対照妙法蓮華経』と『化学本論』から得られた「知識」に「直感力」が加われば〈菩薩〉になれると信じたと思う。

 

〈菩薩〉になれると信じた賢治は,農学校を退職し菩薩行を始める。賢治の肥料設計の様子を佐藤隆房は自著で「賢治さんはまず田畑の所在,去年の作の出来具合,田畑の形状,日当たりの状況などを聞きますと,直ちに所定の用紙に肥料の設計をしたためて渡すのです。実にすばらしい早さです。」と語っている。佐藤は賢治の親友でもあるので話半分に聞くとして,賢治の農民から話しを聞いて設計書を渡すまでの時間が短いというのは本当であると思う。なにせ2000枚も肥料設計書を書いたとされるわけで,よく考えてから設計するのでは間に合わない。賢治は稗貫郡の地質・土壌調査をしており,また盛岡高等農林学校で学んだ土壌学や地質学の知識も豊富にあるけれども,農民から話しを聞いてその場で設計書を渡すのは常人ならできそうにない。多分,直観が働いたのだと思う。賢治も当時自分を「すごい」と思っていたと思う。賢治の具体的な問診の仕方は詩「〔それでは計算いたしませう〕」に記載されている。

 

器量とは「ヤフー知恵袋」で「器が大きいと沢山の物を入れられる,という事で,『どんな物事も受け入れ,万事そつなくこなす能力がある』人をさして,『器量が良い』と言うようになった。」とある。賢治は当時農学校の教師の身分だったが,私は賢治の教師としての器量は良かったと思う。教え子の手紙にも器量のことを書いているので賢治もそれを自覚していたと思う。

 

賢治には財産はないが,生家は古くから質屋と古着商を営む商家であり,同時に自ら農作業を行なわない小作米を取るだけの寄生地主であった。水田・畑約10町歩,山林原野10町という中層地主であった(並松,2019)。つまり,賢治は財閥の子である。寓話『シグナルとシグナレス』(1923)は〈本線シグナル〉と〈軽便鉄道シグナレス〉の悲恋物語である。この物語で賢治が投影されている〈本線シグナル〉は〈本線シグナル付きの電信柱〉に若さまと呼ばれている。賢治は,自分が家長になったら土地を無償で農民(小作人)へ返す決意をしていたとも言われている(吉見,1982)。例えば,吉見の著書には当時(昭和二年頃),賢治が家に出入りする小作人たちに接触して,「おれの代になったら土地を全部ただでける(やる?)から,無理に借金などして土地を買う気おこすな。ただ,このことは親には内緒にしてけろ」と言ったとある。これも,教え子の手紙にあるように「身分とか財産とかいふものが何かじぶんのからだについたものででもあるかのように」振る舞おうとする賢治の「慢心」の一例であろう。

 

ただ,賢治は自分が財閥の子であることを激しく嫌っていた。昭和7年(1932),詩人である母木光に送った手紙(『書簡421』)には「何分にも私はこの郷里では財ばつと云はれるもの,社会的被告のつながりにはひってゐるので,目立ったことがあるといつでも反感の方が多く,じつにいやなのです。じつにいやな目にたくさんあって来てゐるのです。財ばつに属してさっぱり財でないくらゐたまらないことは今日ありません」と記載している。

 

〈菩薩〉になれると思った者には,「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」とあるように,恋人との幸福はあり得なかった。(続く)

 

参考・引用文献

宮沢清六.2009.兄のトランク.筑摩書房.

宮沢賢治.1985.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.

並松信久.2019.宮沢賢治の科学と農村活動―農業をめぐる知識人の葛藤―.京都産業大学論集.人文科学系列.52 :69-101.

佐藤隆房.2000.宮沢賢治-素顔のわが友-.桜地人館.

吉見正信.1982.宮沢賢治の道程.八重岳書房.