この物語は〈船乗りの青年〉と〈月〉との悲恋物語を主要テーマにしているのではない。この物語の主人公は〈タイチ〉である。本稿では,〈タイチ〉が何者で,〈船乗りの青年〉とどのような関係があるのかを考察する。
最初に結論を述べる。〈タイチ〉のモデルは父・政次郎である。根拠は以下の通り。
1.〈タイチ〉は父・政次郎がモデルである
〈タイチ〉は,元気そうな顔の赤い肥った紳士でアラスカ金の大きな指輪をはめ,十連発のぴかぴかする鉄砲を持っている。また,自分では「わしはねイーハトヴのタイチだよ。・・・こんな汽車へ乗るんぢやなかつたな。わしの持船で出かけたらだまつて殿さまで通るんだ。」と言っている。また,〈タイチ〉は貧しそうな〈船乗りの青年〉を気にかけていて,なんども自分が持っている外套を貸そうとしている。すなわち,〈タイチ〉はイーハトヴでは「裕福」であり,「殿さま」とも呼ばれ,貧しそうな〈船乗りの青年〉を援助しようとしているキャラクターとして登場する。
物語には〈タイチ〉がどのくらい「裕福」であるのかが記載されている。
引用文C
まん中の立派な紳士もまた鉄砲を手に持つて何か考へてゐます。けれども俄(にはか)に紳士は立ちあがりました。鉄砲を大切に棚(たな)に載せました。それから大きな声で向ふの役人らしい葉巻をくはへてゐる紳士に話し掛けました。
『何せ向ふは寒いだらうね。』
向ふの紳士が答へました。
『いや,それはもう当然です。いくら寒いと云つてもこつちのは相対的ですがなあ,あつちはもう絶対です。寒さがちがひます。』
『あなたは何べん行つたね。』
『私は今度二遍目ですが。』
『どれ位ご支度(したく)なさいました。』
『さあ,まあイーハトヴの冬の着物の上に,ラツコ裏の内外套ね,海狸(びばあ)の中外套ね,黒狐(くろぎつね)表裏の外外套ね。』
『大丈夫でせう,ずゐぶんいゝお支度です。』
『さうだらうか,それから北極兄弟商会パテントの緩慢燃焼外套ね………。』
『大丈夫です』
『それから氷河鼠(ひようがねずみ)の頸(くび)のとこの毛皮だけでこさへた上着ね。』
『大丈夫です。しかし氷河鼠の頸のとこの毛皮はぜい沢ですな。』
『四百五十疋(ぴき)分だ。どうだらう。こんなことで大丈夫だらうか。』
『大丈夫です。』
『わしはね,主に黒狐をとつて来るつもりなんだ。黒狐の毛皮九百枚持つて来てみせるといふかけをしたんだ。』
『さうですか。えらいですな。』
(宮沢賢治,1986)下線は引用者,以下同じ
〈タイチ〉はイーハトヴで生活するにあたって冬であれば「冬の着物」だけで十分であるはずなのに,これ以外にラッコ裏の内外套,海狸の中外套,黒狐表裏の外外套を所有し,さらに北極兄弟商会パテントの緩慢燃焼外套と450匹分の氷河鼠から頸の毛皮だけで作った上着を所有している。そして,さらに黒狐の毛皮九百枚を作るために900匹の黒狐を殺そうとしている。このように〈タイチ〉は,日常生活では必ずしも必要としない贅沢品を外套だけでもたくさん持っている。〈タイチ〉はイーハトヴではかなり裕福といえる。
さらに,「殿さま」や「援助」という言葉も,〈タイチ〉が誰であるのかを知る手がかりとなりそうだ。前稿で〈船乗りの青年〉には賢治が投影されていると述べた。エッセイストの澤口たまみ(2021)は〈船乗りの青年〉には賢治が,そして〈タイチ〉は賢治の恋敵と推測している。私は前述したように別の解釈をしている。「裕福」で,「殿さま」と呼ばれていて,賢治を直接援助している者は父・政次郎くらいしかいないように思える。童話『シグナルとシグナレス』では〈鉄道長〉に父・政次郎が投影されていた。
賢治の父方と母方の両方とも,江戸中期の天和元禄年間に京都から花巻に下ってきたとされる藤井将監を始祖としている。この子孫が花巻で商工の業に励んで宮沢まき(一族)と呼ばれる地位と富を築いていった。そして,賢治の父・政次郎は,宮沢まきの一人である父方の祖父・喜助の質・古着商の家業を引き継いだ。質・古着商とは,貧しい庶民や農民たちに高利で金を貸し,質草にとった古着などを,別の農民などに売るというものである。この家業は,のちに賢治の心に重苦しい嫌悪を抱かせた(畑山・石,1996)。大正9(1920)年2月頃親友の保阪嘉内に宛てた手紙に,質店の様子について「古い布団綿,垢(あか)がついてひやりとする子供の着物,うすぐろい質物,凍ったのれん,青色のねたみ,乾燥な計算,その他・・・」(書簡159;宮沢,1986)と記載している。「青色のねたみ」とは質草を持ってきた農民のものであろう。
さらに,父・政次郎は質草の古着だけでなく関西・四国まで足を伸ばして古着(流行遅れの新品など)を買い占め,日詰などの近郷の古着屋に卸売りをしたりして財を増やしたという。商売の仕方であるが,宮沢家は,古着を2円以上買ってくれる上客には,座敷にあげ酒肴(さけさかな)でもてなした。第一次世界大戦の景気上昇期には株式投資にも才を発揮した。また,資産家の常として地主であり,また町会議員を務めたこともあった(吉見,1982;板谷,1992;宮沢,2001;鈴木,2013)。政次郎の大正5年の所得納税額(13万円)は花巻で11番目である。宮沢家は花巻ではかなり「裕福」で名も知られている。
賢治の家は,財を増やすためには自分の家から出る下肥(人の糞尿)までも金にしていた。これは宮沢家に限ったことではないが,肥料としての下肥を農民へ出し,その代価として金や米を受け取っていた。賢治はこのことに憤慨して,自分の家の糞尿は無料で農民に与えるべきだと祖父を責めたこともあったという(吉見,1982)。戦前,人糞は四斗樽大(約72リットル)の肥桶2本米7升(約10kg)を払うのが通例であった。賢治は,「桜」(羅須地人協会時代)の住居に住んでいた頃,農民が下肥代金を払うのは,「その家から借金をしているからで,<肥やし代金をまけろ>とか<無料(ただ)にしろ>とか言えば,借金の方を催促されるからだ」と話していたという(佐藤,1994)。
父・政次郎が地元で「殿さま」と呼ばれていた可能性も否定できない。「殿(との)」は,貴人を敬って言う代名詞である。特に近代以前では公家や武士は相手を呼ぶときに,名前ではなく官職名や相手の邸宅がある地名に「殿」をつけることが多かったという。また,有力豪農の隷属下にある人たちが主人を「殿」,子弟を「若殿」と呼ぶこともあった(Wikipedia)。
賢治の口語詩稿「地主」(制作年不明)に「この山ぎはの狭い部落で/三町歩の田をもってゐるばかりに/殿さまのやうにみんなにおもはれ/じぶんでも首まで借金につかりながら/やっぱりりんとした地主気取り」という詩句がある。この小地主のモデルは,賢治研究家の吉見(1982)によれば,賢治と小学校時代同級であった,笹間村横志田(現在の花巻市横志田)の高橋耕一だという。高橋の家が元武士だったのかは分からないが,イーハトヴでは三町歩の田を持っていれば「殿さま」と思われたようだ。
政次郎は賢治の叔父・宮沢善治には遠く及ばないものの10町歩(10万平方メートル;東京ドーム2個分)ほどの小作地を所有していたという(鈴木,2013)。昭和2(1927)年頃,賢治は家に出入りする小作人たちに接触して,その一人である佐々木半右衛門に「しばしば」「おれの代になったら土地は全部ただでけるから,無理に借金などして買う気をおこすな。ただ,このことは親には内緒にしてけろ」と「土地解放」を名言したという半右衛門の息子の証言がある。これは,賢治が何か稲作指導をしているときに小作人が「それにしても小作料が1段歩(約1千平方メートル)で一石(2俵分)もとられるのはゆるくながんス」と言ったのに対しての返答だったという(吉見,1982)。
賢治は小作人たちに「しばしば」話したとあるので,昭和2年以前にも他の小作人に言っていた可能性はある。当時の収穫髙は1段歩で2石も取れれば良い方だった。すなわち,宮沢家は10町歩ほどの土地を所有していて小作人から収穫の半分は小作料として取っていたということになる。すなわち,賢治の父・政次郎は公家侍の血を受け継ぐ地主であったわけで,小作人から実際に「殿さま」と呼ばれていたかどうかは定かではないが,「殿さま」のように皆に思われていた。と推測できる。
また,童話『シグナルとシグナレス』で賢治が投影されている〈シグナル〉は〈本線シグナル附き電信柱〉から「若さま」と呼ばれていた。父・政次郎が〈タイチ〉のモデルになっている可能性は十分にある。
当時,「東北」の小作農の暮らしは楽なものではなかった。過酷な凶作,冷害,旱魃などが襲ってくれば,来る年もまた次の年も,借金に追われる生活だった(吉見,1982)。
このように,宮沢家は質・古着商,下肥料徴収そして小作料徴収と,貧しい農民から取れる物はほとんど全て取っていたように思える。賢治は,これら商売のやり方をひどく嫌っていたので,童話『氷河鼠の毛皮』では〈タイチ〉に父親を重ね,〈タイチ〉が通常の冬用衣服以外にラッコ裏の内外套,海狸の中外套,黒狐表裏の外外套,さらに北極兄弟商会パテントの緩慢燃焼外套と450匹分の氷河鼠の頸のところの毛皮だけで作った上着を所有していると父親を皮肉ったのであろう。
2.〈船乗りの青年〉は貧しかった賢治がモデルである
〈船乗りの青年〉は,冬なのに植物繊維で編まれた帆布の上着1枚しか着ていない。とても貧しい青年として描かれているように思える。前稿で〈船乗りの青年〉には賢治が投影されている可能性があることを述べた。実際,賢治は童話『氷河鼠の毛皮』を執筆していた頃,貧しかったのだろうか。
賢治は花巻農学校の教師時代,はじめ80円,後に120円の給与を貰っていた。当時,二食付きの下宿代が月15円という時代であったので,80円という金額はかなりの高給である。賢治はこの給料をレコード,浮世絵,高額な書物あるいは母親への贈り物などの購入に当てていたと思われるが,すぐに「貧しい人たち」のために使いはたし,3日とはもたなかったことが多かったという(板谷,1992)。「3日ともたなかった」の根拠は分からないが,同寮の堀籠文之進も「給料のほとんどレコードと本を買うので,なくなり,残すなどという経済的なことなどは考えないようでした」と述懐している(森,1983)。後年,父・政次郎は賢治の友人である森荘已池(1983)に「あれにとっては,三円も三十円も三千円も,金というものはみなおなじで,自分の持っているだけ,人にやってしまうという性質(たち)でした」と話したという。なお,賢治の給料で買った母への贈り物は10円の角巻であった(森,1983)。
具体的にこんな逸話が残されている。賢治には農学校時代の同寮で小学校の同級でもあった奥寺五郎がいた。奥寺は母親と二人暮らしで,学歴の関係で正式の教諭ではなく,給料も後から入ってきた賢治よりも少ない助教諭心得として養蚕と事務を担当していた(50円ほどだったらしい)。奥寺が二十代半ばで結核に罹患し,退職後仙台の病院で療養することになったとき,賢治は土曜日から日曜日にかけて行けるときは毎週のように仙台に見舞いに行き,自分の給料から30円を奥寺に送ったという。初めは奥寺も賢治の真意を疑って憤慨もしていたが,亡くなる頃は感謝していたという(同寮・堀籠文之進の話として;森,1983)。この件については,賢治の親友であった医師の佐藤(1994)が,著書の中で「賢治は,奥寺に初め20円か30円であったが,後になって毎月50円ずつ1年間あげていた。この時賢治の給料は100円だったので,その半分を経済的に困窮していた友達に送っていたことになる。また,賢治は金の受け取りに難色を示す奥寺に配慮して,途中から金の差出人を同寮の堀籠に変更した」とも記載している。
また,賢治には貧しそうな身の上話をするウエイトレスがいると,すぐに有り金残らずやってしまうというようなこともやっていたようだ。当時,一緒にあちこち食べ歩いていた親友の藤原嘉藤治は,そのような場面を何度も出くわしていたという。例えば,ある温泉の飲み屋で嘉藤治は酒を飲み,賢治はサイダーを飲んでいたとき,お酌をしていた女が身の上話をした。これを聞いていた賢治は女に同情し,普通チップは50銭ぐらいが相場なのに,気前よく10円を払ったという(森,1983;堀尾,1991;板谷,1992)。
極めつきは,この童話が新聞に発表されて4か月の樺太旅行の帰りにあった。友人が料亭に賢治を招待し,芸者を呼んで飲めや唱えの大宴会となったのだが,なにも芸がない賢治は有り金残らず祝儀として芸者にやってしまったというのである(板谷,1992)。賢治にとって「身の上話をするウエイトレス」や「芸者」は貧しい農民の出身だったからであろう。これは,大正9(1920)年末頃の話だが,賢治が質屋の店番をしていたとき,質草としては値もないようなものを持って金を借りに来る者に対して,借りての望むだけの金を父親に相談もせずに貸してやったというエピソードもある(佐藤,1994)。
賢治は,お金がなくなると妹(クニ)からも借りていた。ただ,その金も自分のためでなく貧しい自分の生徒のために使ったのだという。賢治は一人一人の生徒の性格や家庭の事情までよく把握していて,修学旅行や岩手山登山のときなど,経済的に参加できない生徒にはそっと援助の手をさしのばしたことも何度かあったという(板谷,1992)。
賢治は童話『氷河鼠の毛皮』を執筆していた頃,高額の給料を貰っていたがその多くを貧しい者たちに与えてしまっている。賢治は実家に住んでいたので衣食住には困らなかったと思われるが,所持金はあまり持っていなかったように思われる。すなわち,賢治は〈船乗りの青年〉と同様に童話執筆時は貧乏であったと思われる。
3.〈タイチ(=父・政次郎)〉と〈船乗りの青年(=賢治)〉の関係
〈タイチ〉は〈船乗りの青年〉を気にかけていて「援助」しようとしている。
引用文D
『君,おい君,その窓のところのお若いの。失敬だが君は船乗りかね』
若者はやつぱり外を見てゐました。月の下にはまつ白な蛋白石(たんぱくせき)のやうな雲の塊が走つて来るのです。
『おい,君,何と云つても向ふは寒い,その帆布一枚ぢやとてもやり切れたもんぢやない。けれども君はなか/\豪儀なとこがある。よろしい貸てやらう。僕のを一枚貸てやらう。さうしよう』
けれども若者はそんな言(げん)が耳にも入らないといふやうでした。つめたく唇を結んでまるでオリオン座のとこの鋼いろの空の向ふを見透かすやうな眼をして外を見てゐました。
『ふん。バースレーかね。黒狐だよ。なかなか寒いからね,おい,君若いお方,失敬だが外套を一枚お貸申すとしようぢやないか。黄いろの帆布一枚ぢやどうしてどうして零下の四十度を防ぐもなにもできやしない。黒狐だから。おい若いお方。君,君,おいなぜ返事せんか。無礼なやつだ君は我輩を知らんか。わしはねイーハトヴのタイチだよ。イーハトヴのタイチを知らんか。こんな汽車へ乗るんぢやなかつたな。わしの持船で出かけたらだまつて殿さまで通るんだ。ひとりで出掛けて黒狐を九百疋とつて見せるなんて下らないかけをしたもんさ』
(宮沢賢治,1986)
この童話で〈タイチ〉は繰り返し〈船乗りの青年〉に「服を貸してやろう」と言っている。では,父・政次郎はどうであったのか。賢治の友人であった医師の佐藤隆房(1994)によれば,当時の父は賢治に「服を貸した」というよりは「金を貸して」やったり「足が地に着いたこと」をやるように諭したりしていたという。
例えば,父・政次郎は,賢治の経営能力や理財の才能の無さ,あるいは地に着かず空想のみで邁進している姿を心配し,賢治に「いずれ財政を乱して一家はつぶれ,一族は四散する憂き目を見るようになるから,賢治,お前もそのほうに心を入れて下宿料のつもりでいくらか入れてはどうだ」と諭したという。賢治は「はあ」と我関せずといったような返事をしたようだが,実際は金をいれるどころか,何時も空財布を持っているにすぎない有様で,時々は父・政次郎から金を借り出す始末だったという(佐藤,1994)。ただ,佐藤の著書にはそう記載されているが,賢治がかなりの額の収入があったのにも関わらず,さらに嫌悪する家業による金を借りるというのは考えにくい。
また,「賢治,お前の生活はただ理想をいってばかりのものだ。宙に浮かんで足が地に着いておらないではないか。ここは娑婆だから,お前のようなそんなきれい事ばかりで済むものではない。それ相応に汚い浮世と妥協して,足を地に着けて進まなくてはならないのではないだろうか」と教えたり,頼んだりしていた。そして,賢治は「はあ」と返事をしたのだという(佐藤,1994)。
さらに,父が「お前の書くものなどは,唐人のネゴトだ。チンプンカンプンだ」,「文学をやりたいなら,本屋にいって,いまどういう本がよく売れているか,よく調べるんだナ」と言うと,賢治は「お父さんの信仰する真宗は,全く無気力そのものです」,「財産とか地位などは三文の値もない」と父の世俗の成功を否定していた(森,1983)。
ただ,父は賢治を批判しているだけではない。多分,羅須地人協会時代だと思われるが,父は賢治に「お前は,いましている農村相手のことなどは,裸のままで,がつがつした岩へ,われとわが身を,ぶっつけていることと,少しもちがわないことだ。自分がひどく傷ついて死ぬだけだ」と諭したともいう(森,1983)。
これらは,童話『氷河鼠の毛皮』の〈タイチ〉が「黒狐」の毛皮を貸そうといったときの,〈タイチ〉と無愛想な〈船乗りの青年〉の関係に似ている。父・政次郎と賢治は,この物語を執筆していた頃家業と宗教で激しく対立していた。しかし,賢治の伝記を読む限り,父は賢治の行く末をとても心配していたことは確かである。
童話『氷河鼠の毛皮』に登場する〈船乗りの青年〉と〈タイチ〉には賢治と父・政次郎が投影されているように思える。当時実在した人物と童話『やまなし』,『氷河鼠の毛皮』,『シグナルとシグナレス』に登場するキャラクターたちの相関を第1表にあげておく。次稿へ続く。
参考・引用文献
畑山 博・石 寒太.1996.宮沢賢治幻想旅行.求龍堂グラフィックス.
堀尾青史.1991.年譜宮澤賢治伝.中央公論社.
板谷栄城.1992.素顔の宮澤賢治.平凡社.
宮沢賢治.1986.宮沢賢治全集8.筑摩書房.
宮沢賢治.2001.新校本宮澤賢治全集第十六(下)補遺・資料 年譜篇.筑摩書房.
森 莊己一.1983.宮沢賢治の肖像.津軽書房.
佐藤隆房.1994.宮沢賢治-素顔のわが友-.桜地人館.
鈴木 守.2013.宮澤賢治の里より-宮澤一族は超大地主揃いhttps://blog.goo.ne.jp/suzukikeimori/e/ac8437b1d1ea5247389e7c35a9ff1875
吉見正信.1982.宮沢賢治の道程.八重岳書房.