宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

童話『やまなし』の第二章「十二月」に登場する赤いと思われる「やまなし」の実も「怒り」と関係があるのか

童話『やまなし』で谷川の川底に棲む〈蟹〉の〈魚〉への「怒り」あるいは「反感」は,第一章「五月」では谷川に飛び込んでくる〈カワセミ〉の「赤い眼」として表現されていた。第二章「十二月」では〈カワセミ〉ではなく,「やまなし」の実が月夜の晩に「ドブン」と谷川に落ちてくる。「やまなし」の「果実」の色は,月明かりの中では「黒い円い大きなもの」あるいは「黄金(きん)のぶち」と説明されていた。しかし,賢治の他の作品で「やまなし」の果実の色は「赤色」であると言っているので,童話『やまなし』に登場する「やまなし」の果実の色も太陽の日射しの中では「赤色」か,あるいは「赤色」に「褐色」の「ぶち(斑)」が入っているものと思われる(石井,2022)。もしそうなら,この「やまなし」の「赤い」と思われる「果実」も第一章の〈カワセミ〉の「赤い眼」と同様に「眼」と関係があり,「怒り」や「反感」を表している可能性があるように思える。

 

本稿では,「やまなし」の「赤い果実」が「眼」や「怒り」を表している可能性について,他の作品に登場する「赤い眼」や「赤い果実」の使われ方を調べることによって検討する。

 

賢治は,木になる「果実」を「眼」のメタファーとして使うことがある。例えば,先に「果実」を登場させ,そのあとにその果実と同じ色の「眼」をした動物あるいは人物を登場させるという使い方をする。いわば,「果実」を予兆の小道具として使っている。

 

童話『なめとこ山の熊』では,マユミの「赤い実」が「眼」のメタファーとして使われている(石井,1921b)。主人公は,淵沢小十郎という熊捕りの名人である。小十郎は,ある朝,「婆さま,おれも年老ったでばな,今朝まづ生れで始めて水へ入るの嫌(や)んたよな気するじゃ」と今まで言ったことのないような弱気(不吉)な言葉を残して狩に出かける。そして,その途中でマユミの「赤い実」に出くわす。本文では,出くわすというよりは「まゆみの実がのぞいた」となっている。

 

  小十郎は白沢の岸を溯(のぼ)って行った。水はまっ青に淵(ふち)になったり硝子(ガラス)板をしいたやうに凍ったりつらゝが何本も何本もじゅずのやうになってかゝったりそして両岸からは赤と黄いろのまゆみの実が花が咲いたやうにのぞいたりした。小十郎は自分と犬との影法師がちらちら光り樺(かば)の幹の影といっしょに雪にかっきり藍(あゐ)いろの影になってうごくのを見ながら溯って行った。

                  (宮沢,1985 )下線は引用者 以下同じ

 

このあと,小十郎は栗の木の近くでばったりと熊に出くわしてしまう。鉄砲で撃つのだが,不意を突かれたので撃ち損じてしまい,逆に熊に襲われて命を落とす。この作品では,「赤い実」がはっきりと「眼」をイメージしているように「のぞいた」と言っている。この場合の「のぞく=覗く」には,「マユミの実が割れて赤い種子が覗く(現れ出る)」という意味だけでなく,メタファーとして「赤い眼の熊が物影から小十郎を覗く(様子を伺う)」という二重の意味が込められている。

 

「マユミの実」(大きさは1cmほど)は,形態的に動物の眼に似ている。「マユミの実」は,秋になると淡紅色のさく果が4つに裂け中の赤い仮種皮(やがて黒くなる)に包まれた瞳のように見える種子が現れる。面白いことに,「様子を伺う」の英語は,“to take one’s bearing”である。 “bearing”は “bear”という動詞の動名詞に由来するが ,“bear”には動詞(支える,運ぶ,生む,押す)としての使い方以外に,「熊」という動物名を表す名詞の使い方がある。熊(眼=赤い実)はあたかも物影から小十郎を覗いていて,小十郎を確認したのち先回りして襲ったという予兆のメタファーとして設定してある。熊の眼は赤くない。赤い「マユミの実」が覗いたということは,熊が小十郎に対して「怒り」の感情を持っていたことも窺える。

 

すなわち,童話『なめとこ山の熊』では,赤い果実が覗く→赤い眼が覗く→怒った眼をした熊が登場してくる。この順序を逆にしたのが童話『やまなし』なのかもしれない。『やまなし』では,谷川に怒った眼をした〈カワセミ〉が飛び込む→父親の蟹が「そいつの眼が赤かったかい」と言う→赤い「やまなし」の実が落果する。

 

「茶色の実」を思い浮かべただけで実際に眼が茶色の「女の子」が登場してくる物語もある。童話『銀河鉄道の夜』(第四次稿)で,ジョバンニとカムパネルラは天上世界(死後の世界)を旅している。列車がニューファンドランド島上空あたりを通過しているとき,ジョバンニとカムパネルラは春でもないのに野茨の匂いを感じる。すると,不思議なことに「眼の茶色」な「黒い外套」を着た〈女の子〉が家庭教師の〈青年〉と一緒に乗車してくる。野茨の匂いは,二人に茶色の「木苺」の実を連想させたのだと思われる(石井,2021a)。賢治にとって「ノイバラ(野茨)」とは「野ばら」のことであり,バラ科のキイチゴ属を示すことがある。例えば,賢治の『春と修羅』の中の詩「習作」には,「野ばらが咲いてゐる 白い花/秋には熟したいちごにもなり/硝子のやうな実にもなる野ばらも花だ(1922.5.14)」とある。

 

すなわち,童話『銀河鉄道の夜』では,野茨の匂い→茶色の木苺の実を連想→眼が茶色の女の子の登場である。

 

家庭教師の〈青年〉は,自分達が乗っていた船が氷山と衝突して沈没したこと,救命ボートが用意されていたにも関わらず〈女の子〉をそれに乗せることができなかったこと,〈女の子〉を助けられなかったから死後の世界を走る銀河鉄道の列車に乗ることになったことなどを話す。このあと,列車は「熟してまっ赤に光る円い実がいっぱい」の青い「橄欖の森」にやってくる。賛美歌も聞こえてくる。〈青年〉は,たくさんの「赤い実」を見て,また聞き慣れた賛美歌を聞くと「ぞくっとしてからだをふるふやうに」にしたり顔色が青ざめたりする。〈女の子〉もハンカチを顔にあててしまう。このたくさんの「赤い実」には〈青年〉が〈女の子〉を助けなかったことに対する周囲の批判(赤いの眼=怒り)が込められている(1921b)。

 

この「眼が茶色」で「黒い外套」を来た〈女の子〉は賢治の相思相愛であった恋人が,家庭教師の〈青年〉には賢治自身が投影されている(石井,2021a)。詩集『春と修羅』の「春光呪詛」(1922.4.10)には「頬がうすあかく瞳が茶いろ/ただそれっきりのことだ」と恋人の目の色を表現した記述があり,また詩ノート〔古びた水いろの薄明窮の中に〕(1927.5.7)には「恋人が雪の夜何べんも/黒いマントをかついで男のふうをして/わたくしをたづねてまゐりました/そしてもう何もかもすぎてしまったのです」(下線は著者)とある。

 

童話『銀河鉄道の夜』では「怒りの眼」を象徴する「赤い実」が青い「橄欖の森」に成っていたが,童話『若い木霊』では「赤い眼」をしたものが「黒い森」の中に潜んでいる。若い木霊は,この「黒い森」から帰ろうとすると,森の中からまっ青な顔の大きな木霊が「赤い眼」をきょろきょろさせながら出てきて若い木霊に近づいてくる。このとき若い木霊は怖くなって逃げてしまう。この若い木霊には賢治が,大きな木霊には背が高かった賢治の恋人が投影されていると思われる(石井,2021d)。童話『やまなし』では,第一章の〈クラムボン〉と第二章の「やまなし」に賢治の恋人が投影されていることはすでに述べた(石井,1921c)。

 

話は変わるが,「木の実」が「眼」のメタファーとして使われている有名な詩がある。詩集『春と修羅』にある「靑森挽歌」である。この詩には「こんなやみよののはらのなかをゆくときは/客車のまどはみんな水族館の窓になる/(乾いたでんしんばしらの列が/せはしく遷つてゐるらしい/きしやは銀河系の玲瓏(れいらう)レンズ/巨きな水素のりんごのなかをかけてゐる)/りんごのなかをはしつてゐる」とある。汽車はりんご畑の中を走っているようだ。汽車の窓は銀河系の玲瓏レンズとあるので銀河の形かあるいは凸レンズである「眼球」の水晶体がイメージされている。巨大で透明な眼球が「りんご」の果実だと言っている。

 

「赤い眼」は「怒り」という修羅の意識を象徴しているということは前稿で述べた(石井,2022)。童話『やまなし』の第二章「十二月」に登場する「やまなし」の「赤い」と思われる実も,第一章の〈カワセミ〉の「赤い眼」から予兆されたもので「怒り」を表していると思われる。

 

では,誰に対する「怒り」なのか。第一章の〈カワセミ〉の「赤い眼」は谷川に先住する蟹たちの〈魚〉に対する「怒り」あるいは「反感」の表れであるということは述べた(石井,2022)。〈魚〉には前述したように賢治が投影されている。多分,第二章の「やまなし」の「赤い実」は〈クラムボン〉(=恋人)の〈魚〉(=賢治)に対する「怒り」を表していると思われる。

 

すなわち,童話『やまなし』では,第一章の怒った眼をした〈カワセミ〉の飛び込み→父親の蟹の「そいつの眼が赤かったかい」という発言→第二章の怒っている恋人が投影されている赤い「やまなし」の実の落果である。

 

賢治は童話『やまなし』を新聞発表してから1年後に実際に怒っている「赤い鬼神」に出会うことになる。

 

森荘已池(1983)の証言によれば,詩集『春と修羅』刊行の頃(1924)に,賢治が近隣の町から山道(盛岡から宮古へ通じる閉伊街道)を通って帰途中に雨に降られ,あわててトラックの荷台に乗せてもらったが,高熱を出してしまう。このとき,うなされて夢うつつになった賢治は「小さな真赤な肌のいろをした鬼の子のような小人のような奴らが,わいわい口々に何か云いながら,さかんにトラックを谷間に落とそうとしている」幻影を見たというのである。トラックは実際に谷に落とされてしまうのだが,幸いに賢治と運転手,そして助手は事前にトラックから飛び降りていて無事だった。賢治が「子鬼」の幻影を見た場所は閉伊(へい)街道沿いにある「川井」か「門馬」という部落と言っているので早池峰山北側か東側の山道と思われる。

 

片山・植松(2004)は,1999~2004年3月まで「イワテヤマナシ」が自生するとされる岩手県を中心に東北地方の野生の「なし」の色や形態を調査している。発見した「なし」の6割は早池峰山以北に集中していたという。このとき採取できた50個体の果実のうち,1個体の果皮に赤色のアントシアニン系色素で着色した「赤いなし」を新里村(現在は宮古市の一部)で見つけている。新里村は閉伊街道にある「川井」の東にある村である。すなわち,賢治が怒った「赤い鬼神」を幻影として見た場所は「赤いなし」が見つかる場所の近くでもある。

 

童話『やまなし』の第一章で川底に棲む蟹たちの〈魚〉への「怒り」は谷川に飛び込んでくる〈カワセミ〉の「赤い眼」として,また第二章で川底の〈クラムボン〉の〈魚〉への「怒り」は谷川に落ちてくる「やまなし」の「赤い実」として表現されているように思える。〈魚〉には賢治が,〈クラムボン〉や「やまなし」には賢治の恋人が投影されていると思われる。川底に沈む「やまなし」の「赤い実」は恋人の破局したことによる悲しみだけでなく破局を回避しようとしなかった賢治に対する「怒り」をも表現しているように思える。

 

参考・引用文献

原 子郎.1999.新宮澤賢治語彙辞典.東京書籍.

石井竹夫.1921a.宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』-ケヤキのような姿勢の青年(2)-.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/06/12/145103

石井竹夫.1921b.宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』-赤い実と悲劇的風景(1)-.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/06/28/103010

石井竹夫.2021c.宮沢賢治の『やまなし』-登場する植物が暗示する隠された悲恋物語(3)-https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/08/10/122017

石井竹夫.2021d.宮沢賢治の『若い木霊』(6) -黒い森と大きな木霊から逃げた理由-.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/09/18/092922

石井竹夫.2022.童話『やまなし』に登場する「やまなし」が「イワテヤマナシ」である可能性につい(1).https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2022/12/10/094359 

片山寛則・植松千代美.2004.東北地方に自生するナシの遺伝資源.遺伝 58(5):55-58.