宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

童話『氷河鼠の毛皮』考 (4) -先住していた者たちの止むに止まれない反感-

物語の後半部で間諜(スパイ)の〈痩せた赤ひげ〉によって誘導された20人ほどの〈熊のやうな人たち〉が列車に乗り込んでくる。本稿では,この〈熊のやうな人たち〉が何の目的で〈タイチ〉を連れだそうとしたのかについて考察する。

 

〈熊のような人たち〉は〈タイチ〉を列車から連れだそうとする場面は以下の通り。

 

引用文F 

先登の赤ひげは腰かけにうつむいてまだ睡(ねむ)つてゐたゆふべの偉らい紳士を指さして云ひました。

『こいつがイーハトヴのタイチだ。ふらちなやつだ。イーハトヴの冬の着物の上にねラツコ裏の内外套(うちぐわいたう)と海狸(びばあ)の中外套と黒狐裏表の外外套を着ようといふんだ。おまけにパテント外套と氷河鼠(ひようがねずみ)の頸(くび)のとこの毛皮だけでこさへた上着も着ようといふやつだ。これから黒狐の毛皮九百枚とるとぬかすんだ,叩たたき起せ。』

                 (宮沢賢治,1986)下線は引用者 以下同じ

 

1.〈熊のやうな人たち〉が〈タイチ〉に示した止むに止まれない反感とは

〈タイチ〉は前稿で質・古着商の父・政次郎が投影されているとしたが,物語では10連発の鉄砲を持って仮想空間のイーハトヴ発ベーリング行き急行に乗り込み北方で黒狐を900匹捕ることになっている。これは,童話『注文の多い料理店』の「二人の青年紳士が猟に出て路に迷い「注文の多い料理店」に入りその途方もない経営者から却って注文されていた」という話と類似している。

 

この童話の発表時における広告の説明文には,「糧に乏しい村のこどもらが都会文明と放恣(ほうし)な階級とに対する止むに止まれない反感です」(宮沢,1986)とあった。「放恣」とは勝手気ままでしまりのないこと。あるいは,わがままで,だらしのないことである。

 

すなわち,〈熊のやうな人たち〉が〈タイチ〉を連れ去ろうとしたのは,先住民たちの「都会文明と放恣な階級とに対する止むに止まれない反感」が表現されたものかもしれない。

では,〈熊のやうな人たち〉の実力行使にいたった「止むに止まれない反感」を引き起こしたものとは何であろうか。

 

〈タイチ〉の持っている鉄砲は「ぴかぴかする」とあるのでほとんど使ったことのない新品である。また,〈タイチ〉は〈熊のやうな人たち〉に引つたてられると泣いてしまうので強靱なハンターとは思えない。〈タイチ〉は酒(ウイスキー)を所持していて,飲み始めると周囲の人たちが羨ましいそうに見ていた。多分,〈タイチ〉は〈熊のやうな人たち〉が「正直者」であることをいいことに彼等の好きな「酒」を飲ませ少しの金で「先住民」が「カムイ」と崇める貴重な「黒狐」の毛皮を安く買いたたく悪徳商人であろう。あるいは〈熊のやうな人たち〉から身ぐるみ剥がそうとしている。

 

2.宮沢家はイーハトヴで何をしていたのか

ここで,〈タイチ〉を父・政次郎に,〈熊のやうな人たち〉を「東北」の先住民に置き換えてみる。父・政次郎は「東北」の先住民たちから何か奪おうとしたのであろうか。そして,どのような仕打ちを受けたのであろうか。宮沢家が村の人たちから何を奪ったかはすでに前稿で述べた。質,古着商として儲けた金,地主として小作人から小作料として収穫の半分の米,小作人が必要とする肥料としての下肥を売ったときに入る米や金などである。古着をたくさん買ってくれる上客には「酒肴」を振る舞ったという。「酒肴」を振る舞えるということはそれだけ儲けも大きかったのであろう。

 

花巻農学校時代の同僚・白藤慈秀の話として,「宮沢さんの生涯の仕事は,大きい構想を立ててやられたのです。農村と農民に味方して,あらゆることの,それが土台になっています。「町のひとたちが,農村をバカにしているのは怪(け)しからない」と,言い言いしておりました。糞尿(こえ)をくまないで町の人たちをこまらしてやれ――といった事も口にしたりしておりました。化学肥料を使えば,いっこう町のコエを使わなくてもいいと言うのです。花巻,黒沢尻あたりの財閥は,農村を搾取してできたものだ。これをまた農村に返させるのが自分の仕事だといっていました。宮沢さんは,宮沢一族の財閥からは煙たがられていた」という逸話が残っている(森,1983)。

 

「花巻の財閥」とは花巻在住の賢治の家を含む宮沢一族などを指していると思われるが,「黒沢尻あたりの財閥」とはどのような人たちであったのか。多分,黒沢尻(現北上市)在住の「不在地主」たちを指していると思われる。例えば,花巻の隣に岩崎村藤根(現和賀郡和賀町)があるが,この土地のほとんどは黒沢尻在住の地主たちのものだった(岩崎村藤根に土地を所有する上位50人のうち60%)。彼等は,その土地に住んでいる者たちにとってはよそ者であり,また農業に従事せず,すべて貸金業者(金融業)か宮沢家と同じ商人であった。すなわち,町(=都市)による農村の支配である。賢治の「花巻,黒沢尻あたりの財閥は,農村を搾取してできたものだ」と言っているのはこれにあたる。

 

賢治にとって宮沢家を含む花巻,黒沢尻あたりの財閥は農業に従事することはなく,貧しい農民(小作人)から搾り取れるだけ搾りとっていた「放恣」な者たちに見えていたようである。物語で,〈熊のやうな人たち〉が「これから黒狐の毛皮九百枚とるとぬかすんだ」と言ったときの「黒狐」は農民が質草として宮沢家に渡そうとした古着のことをいっているようにも思える。前述したように,〈熊のやうな人たち〉は語り手によって「人といふよりは白熊といつた方がいゝやうな,いや,白熊といふよりは雪狐と云つた方がいいやうなすてきにもく/\した毛皮を着た」とある。〈熊のやうな人たち〉が最初に着ていたのは「雪狐」のような毛皮である。「雪狐」は白の毛皮である。使いこなせば黒い毛皮になる。すなわち,農民の着古した質草としての古着である。

 

しかし,実際にイーハトヴでこの様な武力を使った誘拐未遂事件が起こったとは思えない。前稿で述べたが,昭和2(1927)年頃,賢治は家に出入りする小作人の一人から「小作料が1段歩(約1千平方メートル)で一石(2俵分)もとられるのはゆるくながんス」という不満を聞いているので,身近に小作人との何らかの小さなトラブルがあって,それを物語の題材にしたのかもしれない。

 

賢治は1931年頃に文語詩を作るにあたって,自身の年譜を本編(1〜42頁)とダイジェスト版(43〜50頁)があるノート(「文語詩篇ノート」)に作成している。年譜の内容は,「1909年盛岡中学二入ル」に始まって,1915〜1917年の盛岡高等農林時代とその後の研究生時代を経て1921年の出京,国柱会,花巻農学校に就職と続くが,1921年11月の妹の死と1921〜1924年までの恋人との恋が記されるはずのページがダイジェスト版(49頁)では空白になっていた。この童話が発表されたのも1923年である。不思議なことに1922〜1924年の3年間の書簡類は年賀状1通以外まったく残されていない(1921年と1925年はそれぞれ20通ほど残されているのに)。また,年譜の本編の破局した頃の頁(1923年)には「石投ゲラレシ家ノ息子」の記載がある。 

 

では,賢治は何をしていたのであろうか。前稿で述べたが,賢治は花巻農学校教諭時代には貰った給料の多くを結核で入院中の同寮,貧しそうな身の上話をするウエイトレス,修学旅行や岩手山登山のときなどに経済的に参加できない生徒らに無償で与えていたということになる。すなわち,父親が農村を搾取して稼いだ金を賢治は自ら稼いだ金で農村に返していたのだ。

 

3.酒とものいわぬ農民

農民(小作人)は宮沢家を含む地主たちに対して,石を投げる以外に「止むに止まれない反感」をどのように処理していたのであろうか。

 

多分,小作人たちは酒をのむことでこの鬱憤を晴らそうとしたと思われる。しかし,「酒」を飲めばさらに借金が増えたということが詩ノート「藤根禁酒会へ贈る」(1927.9.16)に記載されている。

 

この詩には,「わたくしは今日隣村の岩崎へ/杉山式の稲作法の秋の結果を見に行くために/ここを通ったものですが・・・・諸君は東の軽便鉄道沿線や/西の電車の通った地方では/これらの運輸の便宜によって/殆んど無価値の林や森が/俄かに多くの収入を挙げたので/そこには南からまで多くの酒がはいっていまでは却(かへ)って前より乏しく多くの借金ができてることを知るだらう/しかも諸君よもう新らしい時代は/酒を呑まなければ人中でものを云へないやうな/そんな卑怯な人間などは/もう一ぴきも用はない/酒を呑まなければ相談がまとまらないやうな/そんな愚劣な相談ならば/もうはじめからしないがいゝ」と記載されている。

 

吉見(1983)によれば,「酒」は「農村支配構造の中で,小作農民たちがたえず村の支配階級から「懐柔」され,騙(だま)されてきたときの麻薬のようなものだった」と言っている。「懐柔」とはうまく手なずけ従わせることである。また,吉見はイーハトヴの農民を酒に力借りてしか「もの云えぬ農民」とも言っている。

 

「酒」で村人を「懐柔」する様子は童話『なめとこ山の熊』でも描かれている。主人公の淵沢小十郎は山で栗を採取したり稗(ひえ)を作ったりして生活している貧しい農民である。必需品の味噌を造るために米が必要だが山では作れない。そこで,米を購入するため,小十郎は山で熊を捕ってその毛皮を町で売っていた。しかし,気の弱い小十郎は町の荒物屋のダンナに酒1本と塩引の鮭の刺身といかの切り込みを差し出されると上機嫌になり毛皮2枚を2円の安さで売ってしまう。この物語の荒物屋は賢治の家がモデルともされている(天沢,1985)

 

この「ものいわぬ農民」の姿は昭和の時代に入っても変わることはなかった。岩手県の山村に生まれた大牟羅良は,昭和20~24年頃に古着の行商人として農家を回り農民の嘆きの声を直に聞いている。

 

引用文F

農民たちは,しがない行商人には嘆きを語っても,よそ者には口を閉じてしまう。なぜ,黙っているのか。大声でみんなにものをいわないのか。いえば,かえって悪い結果になる,と思っているのだ。たしかに,そんな場合はたくさんある。県北の山村,平船地区の青年,鳥居繁治朗君の場合もそうだった。

二十戸ばかりのこの地区には「ダンナ」が君臨していた。ダンナは山の地主で,町議会の議員さんでもある。ほかの十九戸はみなナゴ(小作人)だ。ナゴたちはダンナからマキをもらうかわりに,毎年一戸のべ五十人の労役をやらされる。一日一人二百円の労賃として一年で一万円 冬に使うマキを町で買えばそのくらいするから同じだ,ということだが,こっちが忙しいとき,きまってダンナから召集令がかかる。・・・・・

思い余った鳥居青年は「山林の解放はできないのでしょうか。できなければ,せめてマキ代を現金で払うわけにはいかないでしょうか」と県の広報に投書した。県の回答は,山林の解放は法律が改正にならなければ不可能,労役はダンナとナゴの取り決めだから調べてみなければ分からない――ということだった。ところがこの投書が名前入り,地名入りで日本農業新聞の岩手版に転載された。ダンナは腹を立て,ナゴたちは仰天した。「そんたなことスンブンさ出してふでえ(ひどい)ごとするもんだ。あんなにえぐ(よく)してけるダンナに,もうすわけながんべえ・・・・」とナゴのカシラがどなりこんだ。

以来,青年の一家は山に一歩も足をふみ入れることができなくなった。青年はその土地を出て・・・・。

「新聞を読むとセッゴケ(怠け者)だといい,意見をはくとセッゴケという。ものいえば,ふでえ(ひどい)しわざといわれるから,みんな黙ってる。ひとにしゃべることは反対のことばかり。金持ってる人にきくと,生活は楽でねえどいい,金ない家では,困んねえという。ヨメとシュウトメはうまくいがねえ。だども,ひとにきがれると,ヨメッコは“アッパ(母さん)はよぐしてくれる”といい,シュウトメは“オラのヨメッコはえぐ(よく)かせぐ”という。おれにはわがらねえス・・・」と鳥居青年はいうのだ。

                          (大牟羅,2013)

 

東北の農民(小作人)は「反感」を素面で地主に言葉で言ったり,文字の形にして出したりすることはない。賢治が農民の代弁をして『注文の多い料理店』や『氷河鼠の毛皮』などの童話を書いたのだと思われる。

 

4.〈船乗りの青年(=賢治)〉の願い

この〈タイチ〉誘拐未遂事件と〈船乗りの青年〉あるいは賢治の恋がどのように関係しているのかは分からない。ただ,賢治の〈恋人〉が〈熊のやうな人たち〉の側の人だったのはたしかのようだ。

 

〈熊のやうな人たち〉が〈タイチ〉を誘拐しようとしたとき,〈船乗りの青年〉が『まるで天井にぶつつかる位のろしのやうに飛びあがり』,〈痩せた赤ひげ〉のピストルを奪い〈タイチ〉を助けようとする。このとき,〈痩せた赤ひげ〉の撃った弾が〈船乗りの青年〉に当たってしまうが,〈船乗りの青年〉は着ている帆布が床に落ちただけで怪我はなかった。そして,〈熊のやうな人たち〉に『おい,熊ども。きさまらのしたことは尤(もつと)もだ。けれどもなおれたちだつて仕方ない。生きてゐるにはきものも着なけあいけないんだ。おまへたちが魚をとるやうなもんだぜ。けれどもあんまり無法なことはこれから気を付けるやうに云ふから今度はゆるして呉(く)れ。ちよつと汽車が動いたらおれの捕虜にしたこの男は返すから』と言う。 

 

〈船乗りの青年〉が〈熊のやうな人たち〉に「あんまり無法なことはこれから気を付けるやうに云ふから」と言っていたとき,〈熊のやうな人たち〉は『わかったよ。すぐ動かすよ』 と返答する。なぜ,〈熊のやうな人たち〉は即答で〈船乗りの青年〉の言うことを信じたのであろうか。多分,信じた理由は2つ考えられる。1つは,〈船乗りの青年〉が撃たれ黄色の帆布の上着が床に落ちたとき,〈熊のやうな人たち〉は青年が帆布の上着の下に何も身につけていなかったのを知ったからであろう。いわば捨て身の覚悟を示している。この場面は父・政次郎の言葉「お前は,いましている農村相手のことなどは,裸のままで,がつがつした岩へ,われとわが身を,ぶっつけていることと,少しもちがわないことだ。自分がひどく傷ついて死ぬだけだ」を彷彿させる。〈熊のやうな人たち〉は〈船乗りの青年〉の命がけの覚悟を知ったとき,この青年が自分達の味方になってくれるかもしれないと思ったのかもしれない。

 

もう1つは,「黄色の帆布の上着」が銃弾をはじいたということで,この上着に何か特別の意味を持たせているということである。例えば前稿(1)(石井,2022a)で,「黄色の帆布の上着」は釈迦あるいは日蓮の袈裟あるいは「法華経」の譬喩であるかもしれないと述べた。また前稿(2)(石井,2022b)では,賢治が昭和2年頃に「おれの代になったら土地は全部ただでけるから,無理に借金などして買う気をおこすな」と「しばしば」言っていたという小作人の証言を紹介した。この小作人は賢治から「土地解放」の話だけでなく,「法華経」の話も聞いていて感銘していたという(吉見,1982)。賢治は物語執筆の頃に同様の話を他の小作人に話していた可能性もある。

 

もしも,賢治がそのような小作人を物語の〈赤ひげの男〉のモデルにしていたなら,〈赤ひげの男〉は銃弾をはじいた「黄色の帆布の上着」に「法華経」の力を感じ取って〈船乗りの青年〉の言葉を信じたのかも知れない。賢治自身も父と対立していた大正10(1921)年に同様の経験をしている。1月23日に店の火鉢でいつ家を出るか思い悩んでいたとき,日蓮の御書が頭の上の棚から落ちてきたことを適期に『まるで天井にぶつつかる位のろしのやうに飛びあがり』出郷している。

 

〈船乗りの青年〉を賢治とすれば,〈タイチ〉が投影されている父・政次郎は〈船乗りの青年(=賢治)〉の願いにどのように応えたのであろうか。賢治が農村相手にしていることは死を覚悟してのことだと認識している父としても,最後は賢治に従わざるを得なかったのではないだろうか。

 

童話『氷河鼠の毛皮』を新聞発表して3年後の大正15(1926)年4月,宮沢家はこれまでの質,古着商をやめ,建築材料の卸し小売り,またモートル・ラジオを扱う宮沢商店を開業することになった(原,1999)。また,吉見(1982)によれば,賢治の父は戦後の農地改革で自分の小作地を手放したとき,旧小作農民たちの永年の労苦に謝し,菓子折を携えて挨拶をして廻ったのだという。旧地主として全く異例なことだったので,挨拶に来られた方も驚いたとのことだった。吉見は賢治の遺志を代行する行為だったのかもしれないと述べている。

 

さらに,昭和26(1951)年に宮沢家は浄土真宗から日蓮宗に改宗した。父・政次郎は,賢治が童話『氷河鼠の毛皮』を執筆していた頃,賢治と家業と宗教に関して激しく対立していたが,最後は賢治の願いを全て聞き入れたように思える。

 

まとめ

1)童話『氷河鼠の毛皮』には種々の動物の毛皮が登場する。タイトルにある「氷河鼠」は氷河時代の遺存種である「銀鼠(オコジョ)」のことであろう。西洋文明に価値を置く者にファッションに使う「毛皮」として乱獲され絶滅に瀕している(絶滅危惧種)。「ラッコ」も「毛皮」として乱獲され絶滅危惧種になっている。また,「ラッコ」に関しては大正元(1912)年に臘虎膃肭獣猟獲取締法が交付されている。日本国内における「ラッコ(臘虎)・オットセイ(膃肭獣)の捕獲及び毛皮製品の製造・販売について,農林水産大臣が制限できること,違反した場合の罰則などを定めている。

 

2)〈船乗りに青年〉は列車から「月」に話しかけているかのようにして外を見ていた。若者は笑っているようでもあり,また泣いているようでもあった。〈船乗りの青年〉には賢治が,「月」には賢治と破局に終わったが相思相愛だった恋人が投影されていると思われる。この物語は賢治の悲恋物語が隠されている。

 

3)〈熊のやうな人たち〉は,「雪狐」といった方がいいような毛皮を着ていて,北方の「アイヌ」がイメージされているが,賢治の恋人の近親者を含む「東北」に先住していた人たちのことであろう。「アイヌ」は明治期の同化政策の強化によって滅び行く民と呼ばれていた。「東北」の「先住民」も長い間,大和朝廷およびそれを引き継ぐ中央政権に「まつらわぬ民」として虐げられてきた。

 

4)〈タイチ〉には質・古着商を営む父・政次郎が投影されている。この物語は父・政次郎などの町に住む財閥の商人が「東北」に先住する農民らを搾取する物語である。〈タイチ〉が搾取するのは「雪狐」のような毛皮が使い古され黒くなった「古着」の毛皮,すなわち「黒狐」の毛皮900枚であり,さらに「氷河鼠」の首のところだけの毛皮である。「氷河鼠」も「東北」に先住していた農民の譬喩である。貧しい農民らは首のところに巻く古着(襟巻きなど)さえも奪われてしまったので首が回らなくなった。すなわち,借金などでやりくりがつかなくなっているのである。実際に〈熊のやうな人たち〉が列車に乗り込んでくるとき「黒と白の斑(ぶち)の仮面」をかぶったり,「襟巻きを眼のところまで上げ」ていたりしているが,これは彼等の首(頸)の皮が取られているか,あるいは牛のように家畜化されているからある。「東北」に先住している人たちは,町の人たちから身ぐるみ剥がされていたのである。

 

5)〈熊のやうな人たち〉が〈タイチ〉を列車から連れ出そうとしたのは,放恣で横暴な〈タイチ〉に対する止むに止まれない反感の表現である。

 

6)〈熊のやうな人たち〉が打った弾丸は〈船乗りの青年〉の「黄色い帆布」を打ち落としただけで〈船乗りの青年〉自身には危害を与えなかった。弾丸が植物繊維の布を貫通しないわけはない。「黄色い帆布」の「黄色」には特別な意味が隠されている。釈迦や日蓮が着ていたかもしれない「黄色」の「袈裟(糞掃衣)」あるいは日蓮の御書がイメージされていると思われる。

 

7)賢治と恋人の結婚はささいなことがきっかけで近親者から反対されたが,破局に向かっているのは両家の出自に関するのっぴきならない事情による対立である。賢治は都会文明に価値を置く賢治側の横暴さを先住民側に侘びて「あんまり無法なことはこれから気を付けるやうに云ふから」と新聞発表して両者の対立を鎮めようとしたのだと思う。

 

参考文献

石井竹夫. 2022a.童話『氷河鼠の毛皮』考 (2)-タイチは誰がモデルになっているのか-https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2022/02/16/082759

石井竹夫.2022b.童話『氷河鼠の毛皮』考(3)-熊のやうな人たちとは何者か-https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2022/02/17/164324

天沢退二郎.1985.解説.(宮沢賢治全集7).筑摩書房.

原 子朗.1999.新宮澤賢治語彙辞典.東京書店.

宮沢賢治.1986.宮沢賢治全集8.筑摩書房.

大牟羅 良.2013.ものいわぬ農民.岩波書店.

森 莊己一.1983.宮沢賢治の肖像.津軽書房.

吉見正信.1982.宮沢賢治の道程.八重岳書房.