宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

童話『やまなし』の第一章「五月」に登場する〈カワセミ〉の眼は黒いはずなのになぜ赤いと言うのか

童話『やまなし』の第一章「五月」は,これまで谷川に棲む生き物(蟹,魚,クラムボン,かはせみ)の弱肉強食の生存競争や食物連鎖がメインテーマとして描かれていると考えられてきた。しかし,私は谷川を舞台にして,よそ者と先住土着の生き物の争いが描かれていると考えている。具体的にいえば,よそ者(移入種としてのヤマメ)が先住土着の家の娘(クランムボン=カゲロウの幼虫)に恋をして求婚しようとするが土着の神(鬼神としての〈かはせみ〉)から手荒い仕打ちを受けたという悲恋物語である(石井,2021a,b)。

 

この童話の第一章「五月」で,〈魚〉が〈クラムボン〉の上を行ったり来たりしていると突然〈かはせみ(カワセミ)〉が谷川に飛び込んでくる。

 

 魚がこんどはそこら中の黄金の光をまるつきりくちやくちやにしておまけに自分は鉄いろに変に底びかりして,又上流(かみ)の方へのぼりました。

『お魚はなぜあゝ行つたり来たりするの。』

弟の蟹がまぶしさうに眼を動かしながらたづねました。

何か悪いことをしてるんだよとつてるんだよ。

『とつてるの。』

『うん。』

そのお魚がまた上流から戻つて来ました。今度はゆつくり落ちついて,ひれも 尾も動かさずたゞ水にだけ流されながらお口を環(わ)のやうに円くしてやつて来ました。その影は黒くしづかに底の光の網の上をすべりました。

『お魚は……。』

その時です。俄(にわか)に天井に白い泡がたって,青びかりのまるでぎらぎらする鉄砲弾のやうなものが,いきなり飛込んで来ました。

 兄さんの蟹ははっきりとその青いもののさきがコンパスのやうに黒く尖ってゐるのも見ました。と思ううちに、魚の白い腹がぎらつと光つて一ぺんひるがえり,上の方へのぼったようでしたが,それつきりもう青いものも魚のかたちも見えず光の黄金(きん)の網はゆらゆらゆれ,泡はつぶつぶ流れました。

 二疋はまるで声も出ず居すくまつてしまいました。

 お父さんの蟹が出て来ました。

『どうしたい。ぶるぶるふるえてゐるじゃないか。』

『お父さん,いまおかしなものが来たよ。』

『どんなもんだ。』

『青くてね,光るんだよ。はじがこんなに黒く尖つてるの。それが来たらお魚が上へのぼつて行ったよ。』

そいつの眼が赤かつたかい。

『わからない。』

『ふうん。しかし,そいつは鳥だよ。かはせみと云うんだ。大丈夫だ,安心しろ。おれたちはかまわないんだから。』

                (宮沢,1985)下線は引用者 以下同じ

 

この引用文で,おかしいと思う箇所がある。それは,父親の〈蟹〉が〈かはせみ(カワセミ)〉の眼を「赤い」と言うところである。〈カワセミ〉の眼の色(虹彩の色)は生物学的に「黒い」のが「ほんとう」である。ただし,水中で眼は白で半透明の瞬膜で覆われるので灰色と言った方がいいかもしれないが,赤ではない。生物学的に「黒」あるいは「灰色」のはずのものが「赤く」なるとは何か特別な意味が込められていると思われる。本稿では,なぜ父親の〈蟹〉が〈カワセミ〉の眼を赤いと言ったのか考察してみる。

 

賢治研究家の大塚常樹(1999)によれば,賢治の作品に出てくる「赤い眼」は,「ある種の魔界的な生物の意識を表す身体的な指標」であるという。童話『オッペルと像』では,白い象がオッペルにこき使われ痩せ細り,だんだん笑わなくなっていき,とうとう「赤い眼」になってしまう。生物学的に象の眼が赤いということはない。白象は仏教では普賢菩薩が乗る聖なる存在でもある。大塚は,聖なる白象ですら「怒り」という修羅の意識(=赤い眼)から逃れることができなかったのだという。すなわち,白象が「赤い眼」になったのは,実際に眼の色が赤くなったのではなく「怒り」という修羅の意識が表れたことを意味しているのだという。これは,人間を含む生物の意識の世界にも仏教でいうところの十界があって,悟りに近い順に如来,菩薩,縁覚,声門,天,人間,修羅,畜生,餓鬼,地獄があり,絶えずさまざまなレベルの意識に捉われる存在であるということに基づく。

 

童話『やまなし』に登場する〈カワセミ〉は,〈蟹〉や〈クラムボン〉(=カゲロウの幼虫)など谷川の底に先住する生き物たちが崇拝する神の化身と思われる。父親の〈蟹〉は子供たちが見た〈カワセミ〉に対して「そいつの眼が赤かつたかい。」と尋ねる。多分,〈カワセミ〉の「赤い眼」は『オッペルと象』の白象の「赤い眼」と同様に「怒り」を象徴していると思われる。父親の〈蟹〉が「そいつの眼が赤かつたかい。」と言っているのは,「うそ」や「でたらめ」を言っているのではなく,「そいつは怒っていたかい。」というメッセージだったと解釈した方が妥当であるように思える。

 

では,〈カワセミ〉(=神)の「赤い眼」は誰に対して「怒り」を表しているのであろうか。童話では〈カワセミ〉は谷川に飛び込み〈魚〉を捕まえたあと〈魚〉と一緒に上に昇っていく。すなわち,「怒り」の対象は〈魚〉と思われる。なぜ,〈魚〉は川底に棲むものたちが崇拝する神の「怒り」を受けなければならないのか。その疑問に答えるヒントは〈カワセミ〉が飛び込んでくる直前の〈魚〉の〈クラムボン〉に対する不思議な行動と〈蟹〉の兄弟の〈魚〉に対する「怒り」とも思える批判的な会話の中にある。

 

〈魚〉は川底にいる〈クラムボン〉の上を行ったり来たりしているが,上流から戻ってくるとき「今度はゆっくり落ちついて,ひれも尾も動かさずたゞ水にだけ流されながらお口を環(わ)のやうに円くして」やってくる。このとき,弟の〈蟹〉が「お魚はなぜあゝ行ったり来たりするの」と尋ねたとき,兄の〈蟹〉は「何か悪いことをしてるんだよとつてるんだよ」と答える。

 

〈魚〉の不思議な行動とは,〈魚〉が自分を「鉄いろに変に底びかり」させて,ひれも尾も動かさずに「お口を環のやうに円くして」やってくることである。「鉄いろ」とは緑または赤みを帯びた黒である。ヤマメなどの魚にとっては「婚姻色」のことである。「環のやうに円く」する「魚の口」は「婚約指輪」に相当する。すなわち,〈魚〉は〈クラムボン〉に自分の口を指輪に見立てて求愛しているのである(石井,2021a,b)。これが〈魚〉の不思議な行動の正体である。

 

寓話『シグナルとシグナレス』では,金属で電燈がつく本線〈シグナル〉が木でランプの灯りがついている軽便鉄道〈シグナレス〉に婚約指輪を贈るが,このとき〈シグナル〉が渡す婚約指輪は琴座のα,β,γ,δ四星の作る菱形をプラチナリングに,環状星雲M(メシエ)57を宝石に見立てたものである(原,1999)。宝石に相当する環状星雲には「フイツシユマウスネビユラ」(=魚口星雲)のルビが振ってある。

 

また,〈蟹〉の「怒り」を伴った批判的な言葉とは「何か悪いことをしてるんだよとつてるんだよ」という言葉である。

 

〈魚〉の〈クラムボン〉に対する求愛に対して,〈クラムボン〉は拒否するようなことは記載されていないので,〈カワセミ〉が登場しなければそのまま受け入れたのであろう。すなわち,〈魚〉と〈クラムボン〉は相思相愛の関係にあると思われる。しかし,〈魚〉と〈クラムボン〉の結婚は川底に棲む蟹たちには歓迎されていない。むしろ,川底の蟹たちからは〈魚〉が「何か悪いことをしている」あるいは「とつてるんだ」と思われている。

 

〈クラムボン〉が川底に棲むカゲロウの幼虫であることはすでに述べた(石井,2021)。〈魚〉と川底の〈蟹〉やカゲロウの幼虫は捕食するものと捕食されるものの関係である。捕食する側のものが捕食される側のものを求愛の対象にするとは考えにくい。〈クラムボン〉にとって〈魚〉の大きく開けた口は婚約指輪に見えたのかもしれないが,その様子を見ていた蟹たちには〈魚〉が〈クラムボン〉を「食べようとしている」,あるいは「何か悪いことをしている」ように見えてしまっている。

 

蟹たちが〈魚〉の求愛行動に批判的なのは〈魚〉が食物連鎖の上位にあるからだけではない。それは,川底に棲む蟹たちにとって,〈魚〉が「よそ者」であるからである。童話『やまなし』と同じ頃に創作された寓話『土神ときつね』(1923)を読むとそのことが良く理解できる。この寓話にはよそ者としての〈狐〉と〈木樵〉が登場し,第一章と第五章にその者達と土地の者に接するときの〈土神〉の「眼の色」と意識レベルについての記載がある。

 

(一)

土神の方は神といふ名こそついてはゐましたがごく乱暴で髪もぼろぼろの木綿糸の束のやう眼も赤くきものだってまるでわかめに似,いつもはだしで爪も黒く長いのでした。

 

(五)

「わしはな,今日は大へんに気ぶんがいゝんだ。今年の夏から実にいろいろつらい目にあったのだがやっと今朝(けさ)からにはかに心持ちが軽くなった。」・・・・「わしはいまなら誰(たれ)のためにでも命をやる。みみずが死ななけぁならんならそれにもわしはかわってやっていゝのだ。」土神は遠くの青いそらを見て云ひました。その眼も黒く立派でした。

                 (宮沢,1985)

 

〈土神〉は一本木の野原という土地を守護する神である。〈土神〉の役割は童話『やまなし』では〈カワセミ〉が担っている。〈土神〉は,その土地に生まれたものに対しては,第五章にあるように「みみずが死ななけぁならんならそれにもわしはかわってやっていゝのだ。」と思うぐらいの慈悲心を示す。また,野原の女の〈樺の木〉に対しては恋心のような感情さえ示す。

 

しかし,野原の南の方からやって来る〈狐〉と谷地の南の方から来る〈木樵〉に対しては「眼を赤く」して乱暴者として振る舞う。〈土神〉は〈樺の木〉に好意を示す〈狐〉に嫉妬し,〈狐〉を地べたに投げつけてぐちゃぐちゃに踏みつけて殺してしまうし,〈木樵〉を自分の棲む谷地のまわりを何遍もぐるぐると歩かせ向こうの草原に放り投げてしまう。なぜ,〈狐〉と木樵に乱暴な行いをするのであろうか。

 

〈狐〉はハイネの詩集を持ち,大正ロマンを感じさせるハイカラな「仕立ておろしの紺の背広を着,赤革の靴」を履いている。〈狐〉は一本木の野原に南からの新しい文化をもたらせようとしている。しかし,生物学的に〈キツネ〉は雑食で,一本気の野原では野ネズミや鳥,虫,果実などを食べていると思われる。すなわち,一本木の野原では食物連鎖の上位にいる。〈木樵〉は一本木の野原にもともとあった樹木を伐採した開拓民と思われるし,さらにその先の三つ森山の方へ稼ぎにでる途中である。〈狐〉と〈木樵〉に共通するのは一本木の野原の南から来た者であるということと,一本木の野原の生き物を略奪していることである。一本木の野原の〈樺の木〉を含む樹木や「みみず」などの生き物にとって,〈狐〉や〈木樵〉は南からやってきて土地のものを略奪していく侵略者なのである。

 

〈土神〉の〈木樵〉に対する「怒り」(=赤い眼)は,一本木の野原にあった樹木を伐採されたからであり,〈狐〉への「怒り」は自分が好きな〈樺の木〉を奪おうとしただけでなく,自分が守っている樹木以外の土地の生き物をも奪っているからである。

 

では童話『やまなし』ではどうであろうか。土着の神である〈土神〉が〈カワセミ〉なら,〈狐〉は〈魚〉に,〈樺の木〉が〈クラムボン〉に対応すると思われる。〈魚〉は川底の〈クラムボン〉や〈蟹〉にとっては食物連鎖の上位にあり,また「よそ者」の侵略者なのである。

 

蟹たちの〈魚〉に対する「怒り」の共同体意識(共同幻想)は,「赤い眼」の〈カワセミ〉となって〈魚〉を攻撃してくる。〈カワセミ〉は「赤い眼」となっても,父親の〈蟹〉が「安心しろ,おれたちはかまはないんだから」と言うように,決して蟹たちを攻撃することはない。赤い眼の〈カワセミ〉は蟹たちの「怒り」の共同体意識を具現化した蟹たちや〈クラムボン〉の神だからである。

 

「サワガニ」は日本固有種で「カワセミ」は留鳥であるが,両者に共通するのは谷川に棲息する在来種である。また,〈クラムボン〉を「カゲロウ」の幼虫とすれば,〈クラムボン〉も在来種である。すなわち「カワセミ」や,川底の生き物は昔から谷川に棲んでいた。一方,〈魚〉はどうであろうか。〈魚〉が「イワナ」,「ヤマメ」などの渓流魚であるなら,これら〈魚〉は日本固有種であるが「在来種」とは言い切れない。「イワナ」は在来種だけでなく,国内外来種(移入種)が混入している。また「ヤマメ」も移入種が入っている可能性がある。

 

移入種とは日本固有種であるが,本来の生息域ではない場所に人為的に持ち込まれたものである(移植放流など)。例えば,数十メートルもあるような滝上で「イワナ」や「ヤマメ」を見かけることも珍しいことではない。鈴野(1993)は,「今日の渓流魚の分布域の過半は,山中の自然採取・加工に従事したマタギ,木地屋(きじや),木樵(きこり),炭焼き,山菜採り,職漁(しょくりょう)などの山村住民の幾重なる移植や放流-漁場の深耕により形成されたもの」としている。特に,「マタギ」はこの移植や放流に積極的であったという。すなわち,童話『やまなし』に登場する〈魚〉は谷川に先住する生き物(蟹,クラムボン)にとっては「よそ者」(移住者)と思われる。

 

〈魚〉には京都からの「移住者」の末裔であり花巻で財を成して地主となった家の息子としての賢治が,〈クラムボン〉には東北に先住している恋人が,そして〈蟹〉には貧しい農民(小作人)や〈クラムボン〉の近親者が投影されていると思われる(石井,2021a)。宮沢家の始祖は京都の公家侍である。都からの「移住者」と東北の「先住民」の間には,京都に都を置いた大和朝廷やそれに続く中央政権と東北の「先住民」の間で行われた歴史的対立(蝦夷征討や戊辰戦争)も深い影を落としている。蝦夷征討とは,朝廷軍が東北を侵略したことを指す。

 

農学校時代の同僚・白藤慈秀の話として,「宮澤さんの生涯の仕事は,大きい構想を立ててやられたものです。農村と農民に味方して,あらゆることの,土台になっています。「町の人たちが,農村をバカにしているのは怪(け)しからない」と,言い言いしておりました。・・・・花巻黒沢尻あたりの財閥は,農村を搾取してできたものだ。これをまた農村に返させるのが自分の仕事だといっていました。」という逸話が残っている(堀尾,1991)。賢治は地主であることや質・古着商の家業を嫌っていたし,農学校を退職してから農業に専念したり農民のために無償で肥料相談所を開設したりもしていたが,必ずしも農民(先住民)から受け入れられていたとは思えない。多分,賢治の本当の思いを知らない農民の眼には,賢治の行いは金持ちの道楽くらいにしか見えていなかったと思える。すなわち,賢治は農民からは農村を搾取する側の人間と見做されていたと思える。

 

童話『やまなし』を発表してから4年後の『春と修羅 第三集』〔土も掘るだらう〕(1927.3.16)には「土も掘るだらう/ときどきは食はないこともあるだらう/それだからといって/やっぱりおまへらはおまへらだし/われわれはわれわれだと/・・・山は吹雪のうす明り・・・/なんべんもきき/いまもきゝ/やがてはまったくその通り/まったくさうしかできないと/・・・林は淡い吹雪のコロナ・・・/あらゆる失意や病気の底で/わたくしもまたうなづくことだ」とある。農民たちは頑として百姓としての賢治を受け入れようとはしないのである。この農民が示す「疑い」や「反感」は「やっぱりおまへらはおまへらだし/われわれはわれわれだ」とあるように,賢治を含む宮沢一族あるいは賢治が密接に生活を共有している共同体組織すなわち「移住者」に対して向けられているように思われる。

 

童話『やまなし』の第一章「五月」では谷川に飛び込んでくる〈カワセミ〉の眼は,生物学的には黒あるいは灰色のはずなのだが,川底にいる父親の〈蟹〉にとっては「赤い眼」をしていると認識されている。〈カワセミ〉は川底に先住する〈蟹〉や〈クラムボン〉が崇拝する神の化身であり,「赤い眼」は後から谷川にやってきて川底に棲むものたちを捕食したり〈クラムボン〉を奪おうとしたりする〈魚〉あるいは魚の一族に対する「怒り」を象徴している。

 

参考・引用文献

原 子郎.1999.新宮澤賢治語彙辞典.東京書籍.

堀尾青史.1991.年譜 宮澤賢治伝.中央公論社.

石井竹夫.2021a.宮沢賢治の『やまなし』-登場する植物が暗示する隠された悲恋物語(1)-.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/08/08/095756

石井竹夫.2021b.宮沢賢治の『やまなし』-登場する植物が暗示する隠された悲恋物語(3)-.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/08/10/122017

宮沢賢治.1985.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.

大塚常樹.1999.宮沢賢治 心象の記号論.朝文社.

鈴野藤夫.1993.山漁 渓流魚と人の自然史.農文協.