宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

童話『やまなし』に記載されている「うそ」と「ほんとう」を分けて明らかになること (第2稿)

引き続き,自然現象としては起こりえないこと,あるいは「うそ」と思われることについて列挙してみる。

 

5)「五月」に〈魚〉が〈クラムボン〉の廻りを行ったり来たりしたとき,兄の〈蟹〉が「何か悪いことをしてゐるんだよとつてるんだよ」と言ったこと

兄の「何か悪いことをしてゐるんだよとつてるんだよ」という言動は「誤解」に基づく「うそ」である。〈魚〉が鉄いろに変に底光りさせて〈クラムボン〉の廻りを行ったり来たりしているのは,〈魚〉の〈クラムボン〉に対する求愛行動であり,〈魚〉が口を大きく開けたのは婚約指輪を真似たものである(2022b)。

 

寓話『シグナルとシグナレス』では,裕福な本線〈シグナル〉が貧しい軽便鉄道の〈シグナレス〉に婚約指輪を贈るが,このとき〈シグナル〉が渡す婚約指輪は琴座のα,β,γ,δ四星の作る菱形をプラチナリングに,環状星雲M(メシエ)57を宝石に見立てたものである(原,1999)。宝石に相当する環状星雲には「フイツシユマウスネビユラ」(=魚口星雲)のルビが振ってある。すなわち,兄の〈蟹〉は〈魚〉の〈クラムボン〉に対する求愛行動を「何か悪いことをしてゐるんだよとつてるんだよ」と誤解したのだと思われる。ただ,この「誤解」は避けられなかったのかもしれない。

 

〈クラムボン〉は石の下の小さい生き物という意味で,「カゲロウ」の幼虫のことであることはすでに述べた(石井,2021a)。「カゲロウ」の幼虫は英語でnymph(ニンフ)という。妖精という意味である。すなわち,鉄いろに変化した〈魚〉は石の下の美しい妖精に恋をして,婚約指輪を渡そうとしていたのである。寓話『シグナルとシグナレス』でも,〈シグナル〉は〈シグナレス〉のことを「世界中の女の人の中で一番美しい」と言っていた。しかし,「サカナ」と「カゲロウの幼虫」は捕食するもの(強者)と捕食されるもの(弱者)の関係でもある。川底の蟹たちは,〈魚〉が口を開けて〈クラムボン〉に近づこうとしているのを見たとき,食べてしまう,すなわち「何か悪いことをしてゐるんだよとつてるんだよ」と思っても不思議ではない。ましてや,〈魚〉は谷川には蟹たちよりは後からやってきたよそ者である(石井,2021a)。

 

賢治の住むイーハトヴで,当時よそ者が先住の女性に何か悪いことをしたりとったりすると大変な事が起ってしまうことが詩集『春と修羅』の「晴天恣意」(水沢緯度観測所にて)(1924.3.25)に記載されている。 

 

この詩には,「古生山地の谷々は/おのおのにみな由緒ある樹や石塚をもち/もしもみだりにその樹を伐り/あるひは塚をはたけにひらき/乃至はそこらであんまりひどくイリスの花をとりますと/かういふ青く無風の日なか/見掛けはしづかに盛りあげられた/あの玉髄の八雲のなかに/夢幻に人は連れ行かれ/見えない数個の手によって/かゞやくそらにまっさかさまにつるされて/槍でづぶづぶ刺されたり/頭や胸を圧(お)し潰されて/醒めてははげしい病気になると/さうひとびとはいまも信じて恐れます」(宮沢,1985)とある。

 

下線部の「イリスの花」は,植物の「アイリス」のことでアヤメ科アヤメ属の学名である。賢治の詩に登場する「カキツバタ」(Iris laevigata Fisch)や「シャガ」(I. japonica Thunb.)を指す。いずれも「在来種」(その土地に先住しているもの)である。「カキツバタ」は茎先に青紫色の花をつける。「イリスの花」は先住の女性の比喩として使われているように思える。童話『やまなし』では〈クラムボン〉のことである。

 

この詩の「あんまりひどくイリスの花をとりますと・・・/かゞやくそらにまっさかさまにつるされて・・・/槍でづぶづぶ刺されたり・・・」という詩句は,童話『やまなし』の兄弟の〈蟹〉の「魚が何か悪いことしてるんだよとつてるんだよ」という会話を彷彿させる。この詩で乱暴にイリスの花をとってしまうのは先住の者ではない。よそ者(移住者あるいは開拓民)である。先住の者は由緒ある樹をみだりに伐ったり,塚(先住民の墓)を畑にしたりはしないと思われる。

 

この詩の引用は最後に「さうひとびとはいまも信じて恐れます」と結んでいるように,イーハトヴの先住民の「信仰」とも関係している。すなわち,「見えない数個の手によって/かゞやくそらにまっさかさまに」吊るして槍でづぶづぶ刺すのは先住するものの神である。童話『やまなし』ではこの後に〈魚〉が赤い眼の〈カワセミ〉の槍のような嘴で挟まれて天空に連れ去られる。また,寓話『土神ときつね』では,南から来たよそ者の〈きつね〉が土着の女の「樺の木」を奪おうとしたことで土着の神である〈土神〉に殺されてしまう。

 

6)「五月」に父親の〈蟹〉が子供らに〈かはせみ〉の眼は赤いと言ったこと

「カワセミ」の眼の色(虹彩の色)は生物学的に「黒い」のが「ほんとう」である。ただし,水中で眼は白で半透明の瞬膜で覆われるので灰色と言った方がいいかもしれないが,赤ではない。父親の〈蟹〉の〈かはせみ〉の眼が赤いという発言は「うそ」である。ただ,この「うそ」には谷川の底に先住する蟹たちのあとからやってきた〈魚〉に対する「怒り」と「十二月」に赤い円いものが落ちてくることの予兆の意味が隠されている(石井,2022a)。

 

7)「五月」に父親の〈蟹〉が子供らに眼の赤い〈かはせみ〉は「おれたちはかまわないんだから」と言ったこと

これも自然界にある食物連鎖からすれば「うそ」である。「カワセミ」と「サワガニ」の関係は,自然界では捕食するもとと捕食されるものの関係である。ただ,父親の〈蟹〉は赤い眼をした〈かはせみ〉は自分達を食べたりはしないということを信じている。多分,谷川の川底に棲む別の大人の蟹たちもそう信じているのだと思われる。これは蟹たちの「信仰」と関係すると思われる。

 

赤い眼の〈かはせみ〉は谷川の川底に棲むものたちが信仰する神の化身(守護神)と思われる。寓話『土神ときつね』の〈土神〉も「一本木の野原」に棲む生き物の守護神であるが,南から来たよそ者の〈きつね〉と〈木樵〉には敵対的に対応する。〈土神〉はおだやかなときは眼の色が黒いが,怒ると赤くなる(2022a)。赤い眼の土着の神はイーハトヴでは「鬼神」と呼ばれている。実在の人物と童話に登場するキャラクターとの関係を第1表に示す。

 

 

8)「五月」に父親の〈蟹〉が谷川に流れてきた花に対して「樺(かば)の花が流れてきた」と言ったこと

川底から水面に流れている花(あるいは花びら)を見ただけで即座に「樺の花」と断定できるものであろうか。5月は樺の木以外に花の咲く植物がたくさんあると思われる。植物に精通している者でも難しいと思われる。

 

語り手は「泡と一緒に,白い花びらが天井をたくさんすべって来ました」と言っている。語り手の言う「泡」が子供の〈蟹〉の吐(は)いた「泡」かどうかは定かではないが,何かうそっぽい。「うそ」と一緒に白い花びらが流れてきたとも解釈できる。「樺の花」は東北では「カスミザクラ」や「オオヤマザクラ」などが候補にあがる(石井,2021b)。家族が行う「花見」の対象にもなる美しい花を咲かせる。多分,父親の〈蟹〉の「樺の花が流れてきた」という発言は子供を安心させるためについた「うそ」とも思われる。

 

9)父親の〈蟹〉が子供らに「もうねろねろ」と言ったこと

月夜ではあるが,「カニ」は夜行性なので夜に「寝ろ」と指図するのはおかしい。人間社会なら「早く学校へ行け」とかするところであろう。真逆のことを言っている。ただ,大正時代に「カニ」が夜行性であることが知られていたかどうかは定かではない。賢治や父親の〈蟹〉が知っていたとすれば「もうねろねろ」は父親の〈蟹〉が「うそ」を吐(つ)いているのである。

 

10)「十二月」に〈蟹〉が川底で活動していること

「サワガニ」は冬(12月~3月)に陸上で冬眠することが知られている(荒木・松浦,1995)。童話に登場する〈蟹〉が「サワガニ」であるなら,〈蟹〉が12月に川底にいるのはおかしい。ただ,前述したようにこの物語が動物を擬人化したものとするならおかしくないのかもしれない。

 

11)「十二月」に谷川に落ちてきた果実を子供らの〈蟹〉は頸をすくめて「かはせみだ」と言ったこと

「カニ」が頸をすくめるとあるが,「カニ」には解剖学的に頸に相当するものはない。「うそ」である。同様に,子供の〈蟹〉の「かはせみだ」という発言も「うそ」あるいは「間違い」である。実際は谷川に落ちてきたのは「やまなし」の果実であった。この果実の色は童話では「黒い」となっているが金色のぶち(斑)がある「赤い実」と思われる(石井,2022c)。「やまなし」の果実は他の作品では「赤」あるいは「赤と金色のぶち」となっている。童話『山男と四月』(1922.4.7)では「お日さまは赤と黄金(きん)でぶちぶちのやまなしのやう」とか,また童話『タネリはたしかにいちにち噛んでゐたようだった』(1924年春頃)では「山梨のやうな赤い眼」と表現されている(下線は引用者)。 

 

子供の〈蟹〉が「かはせみだ」と言ったことには重要な意味が隠されているように思える。子供の〈蟹〉は親の「うそ」あるいは「間違い」の情報をそのまま信じてしまっているのである。

 

子供の〈蟹〉が「かはせみだ」と言ったのは,飛び込んできた「円いもの」が「赤い眼」に見えたからである。子供らは,「五月」に父親から谷川に飛び込んでくる「赤い眼」すなわち「赤い円いもの」をしたものは〈かはせみ〉と教わっていた。

 

鳥である「カワセミ」が赤い眼をしていないことは前述した。子供の〈蟹〉は丸い(円い)ものが谷底に落ちてきたとき,それが「赤い眼」に見えたので〈カワセミ〉だと思ったのである。すなわち,子供の〈蟹〉は親の「うそ」の情報を信じていたのである。谷川の底は次稿で述べる「ほんとう」のこともあるが,「うそ」あるいは「間違い」の情報が親から子供にも伝わっていて,「うそ」と「ほんとう」が区別できなくなっているように思える。

 

12)「十二月」の月夜の晩に谷川に落ちてきた「やまなし」の実の色を語り手が「黒い」と言ったこと

「やまなし」の果実の色が「赤」あるいは「赤と黄金(きん)」のブチ(斑)と思われることはすでに述べた。語り手は「ドブン」と落ちてきた「やまなし」に対して「黒い円い大きなものが,天井から落ちてずうっとしずんで又上へのぼって行きました。キラキラッと黄金のぶちがひかりました」と説明する。なぜ,語り手は赤や金色の「やまなし」の果実を「黒い」と言ったのであろうか。自然界にも,腐敗したものを除けば,黒い「やまなし」は存在しないと思われる。多分,語り手(賢治)には月明かりで見た赤い「やまなし」が黒く見えたのかもしれない。暗くなると,「赤」などの長波長色が暗く見えるということが知られている(プルキンエ現象)。

 

月明かりのみという環境を再現できないので,常夜灯のもとで手元にあった不透明の赤いボールペンを床に置いて見てみた。確かに,黒くくすんで見えた。しかし,赤とは識別できた。面白いことに天井の常夜灯をバックにこの赤いボールペンを手に持って見るとまっ黒であった。多分,語り手も〈蟹〉も川底から見ている。語り手は月をバックに落ちてくる果実を逆光で見たので黒いと認識し,〈蟹〉は川底に向かって沈んでいく果実を月の光でみたので赤いと認識したのかもしれない。

 

童話『やまなし』では月明かりの中で「赤い」ものが「黒く」見えていたが,童話『おきなぐさ』(1922)では逆に「黒い」ものが「赤く」見えたりする。童話『おきなぐさ』で,語り手が自分には黒く見える「おきなぐさ」の色を〈蟻〉に尋ねると,〈蟻〉は「黒く見えるときもそれはあります。けれどもまるで燃えあがってまっ赤な時もあります」と答える。語り手が再度「お前たちの眼にはそんな具合に見えるのかい」と尋ねると,〈蟻〉は「お日さまの光の降る時なら誰にだってまっ赤に見えるだらうと思います」と答える。植物図鑑では「オキナグサ」の花の色は焦げ茶色に近い濃い赤紫色とある。この花を〈蟻〉が下から見上げるように太陽に透かして見るとまっ赤に見えるというのも面白い。(続く)

 

参考・引用文献

荒木 晶・松浦修平.1995.サワガニの成長.九大農学芸誌.49(3/4):125-132.

原 子郎.1999.新宮澤賢治語彙辞典.東京書籍.

石井竹夫.2021a.宮沢賢治の『やまなし』-登場する植物が暗示する隠された悲恋物語(1)-.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/08/08/095756

石井竹夫.2021b.宮沢賢治の『やまなし』-登場する植物が暗示する隠された悲恋物語(3)-.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/08/10/122017

石井竹夫.2021c.植物から『銀河鉄道の夜』の謎を読み解く(総集編Ⅰ)-宗教と科学の一致を目指す-.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/06/04/145306

石井竹夫.2022a.童話『やまなし』の第一章「五月」に登場する〈カワセミ〉の眼は黒いはずなのになぜ赤いと言うのか.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2022/12/24/083020

石井竹夫.2022c.童話『やまなし』に登場する「やまなし」が「イワテヤマナシ」である可能性について (1).https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2022/12/10/094359

宮沢賢治.1985.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.