宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』-赤い実と悲劇的風景(1)-

 

『銀河鉄道の夜』は,夢の中で主人公のジョバンニと水死したカムパネルラが銀河鉄道の列車に乗って天上(死後の世界)を旅する物語である。最初に到着する天の野原には,南欧(イタリア)を彷彿させるロマネスクやゴシック様式の教会堂(=三角標)と光り輝く植物が混在する明るく美しい風景が広がっている(石井,2014)。やがて,列車は,西へ進路をとり,イギリスの化石発掘場所を経由したのち大西洋を横断して北米へ向かうことになる。しかし,北米北東部の教会堂や近代国家を象徴する工場群の煙突(=三角標)のあるコネチィカット州周辺を通過した辺りから物悲しい悲劇的な風景が出現してくるようになる。

 

車窓の外には「黒い鳥」が現れ,「まっ白な蠟のやうな露が太陽の面を擦めて行く」とあるように薄暗く濁って淀んだ景色が広がっている。これは,銀河鉄道が大西洋を横断中に,氷山と衝突して沈没した客船の乗客3人(キリスト教徒と思われる家庭教師の青年と姉弟)が列車に乗りこんでくることと関係している。また,このとき青年は,車窓から見える「橄欖(かんらん)の森」の木々の枝にたくさん付いている「まっ赤に光る円い実」(赤い実)と,そこから聞こえてくるオーケストラの奏でる音楽や讃美歌を聴いたとき,突然身ぶるいがして顔を青ざめてしまう。また,女の子は顔をハンカチで覆ってしまう。本稿では,「赤い実」の付く「橄欖の森」の場所と,なぜ家庭教師の青年と女の子がこの「赤い実」と音楽で悲壮な表情になるのかを考察してみたい。

 川下の向ふ岸に青く茂った大きな林が見え,その枝には熟してまっ赤に光る円い実がいっぱい,その林のまん中に高い高い三角標が立って,森の中からはオーケストラベルやジロフォンにまじって何とも云へずきれいな音いろが,とけるやうに浸みるやうに風につれて流れて来るのでした。

 青年はぞくっとしてからだをふるふやうにしました。

 だまってその譜を聞いてゐると,そこらにいちめん黄いろやうすい緑の明るい野原か敷物かがひろがり,またまっ白な蠟(らう)のやうな露が太陽の面を擦(かす)めて行くやうに思はれました。

 「まあ,あの烏(からす)。」カムパネルラのとなりのかほると呼ばれた女の子が叫びました。 

         (中略)

 向ふの青い森の中の三角標はすっかり汽車の正面に来ました。そのとき汽車のずうっとうしろの方からあの聞きなれた〔約二字分空白〕番の讃美歌のふしが聞こえてきました。よほどの人数で合唱してゐるらしいのでした。青年はさっと顔いろが青ざめ,たって一ぺんそっちへいきさうにしましたが思ひかへしてまた座りました。かほる子はハンカチを顔にあててしまひました。ジョバンニまで何だか鼻が変になりました。けれどもいつともなく誰ともなくその歌は歌ひ出されだんだんはっきり強くなりました。思はずジョバンニもカムパネルラも一緒にうたひ出したのです。

 そして青い橄欖の森が見えない天の川の向こふにさめざめと光りながらだんうしろの方へ行ってしまひそこから流れて来るあやしい楽器の音ももう汽車のひゞきや風の音にすり耗(へ)らされてずうっとかすかになりました。

 「あ孔雀がいるよ。」

 「えゝたくさん居たわ。」女の子がこたへました。

 ジョバンニはその小さく小さくなっていまは一つの緑いろの貝ぼたんのやうに見える森の上にさっさっと青じろく時々光ってその孔雀がはねをひろげたりとぢたりする光の反射を見ました。

 「さうだ,孔雀の声だってさっき聞こえた。」カムパネルラがかほる子に云ひました。

 「えゝ,三十疋ぐらゐはたしかに居たわ。ハープのやうに聞えたのはみんな孔雀よ。」女の子が答えました。

 (九,「ジョバンニの切符」)宮沢,1986 下線は引用者 

 

1 .「赤い実」と音楽が聞こえる場所は北米のニューヨーク州辺り

第四次稿で初めて登場してくる「赤い実」のある「橄欖の森」は,『新宮澤賢治語彙辞典』(原,1999)によれば,第二次稿と三次稿で登場する「琴(Lyra)の宿」のことであるという。「赤い実」は,琴座β星近くにある環状星雲(M57)をイメージした「リンゴ」であり,「橄欖の森」は賢治が愛した早池峰山の緑色の「橄欖岩のある森」のこととされる。また,「琴(Lyra)の宿」は,ギリシャ神話で亡き妻を冥府に訪ね,連れ戻そうとして失敗した楽人オルフェウスの嘆きの琴に由来するともいう。最愛の妹を亡くし悲しみの中にいる賢治と重ね合わせると興味深いものがある。

 

「赤い実」は,悲劇的風景がキリスト教と関係することから聖書の「橄欖山の垂訓(すいくん)」をイメージできることから,オリーブ(モクセイ科;Olea europaea L.)であると解釈する研究者もいる。しかし,ここでは原(1999)の解釈に従って「赤い実」を「リンゴ」(バラ科;セイヨウリンゴMalus pumila Mill)と仮定して話を進める(詳細な検討は次稿で紹介する)。北米東部で橄欖岩を産出し,「リンゴ」を栽培しているところといえば,コネチカット州の西に位置しほぼ正三角形をしたニューヨーク州が挙げられる。

 

角閃石(かくせんせき)と橄欖石を主成分とする石をコートランド岩と呼ぶ。これはニューヨーク州コートランド(Cortland)で産出することに由来する。また,戦後我が国で一世を風靡した紅玉(英名はJonathan)は,1800年頃にニューヨーク州 のPhilip Rick農場で偶然見つけられた品種である(Wikipedia)。また,州最大の都市ニューヨーク市のニックネームが「ビッグ・アップル(the big apple)」と呼ばれていることも忘れてはいけない。「ビック・アップル」の由来には,諸説がたくさんあるが,ニューヨーク州を含むニューイングランド地方がリンゴの名産地だとするのもその一つである。

 

賢治は,1922年頃に農学校の教え子に「おれはアメリカへ行って百姓をするんだ」(実現はしなかった)と言って,机の上にアメリカの地図を広げ,農業に適した土地の探し方について説明したという逸話が残っている(萩谷,2013)。多分,賢治は北米の地誌には詳しかったと思われる。すなわち,「赤い実」が「リンゴ」の実とすれば,「赤い実」と音楽が聞こえてくる場所は,ニューイングランドの中のニューヨーク州辺りと思われる。

 

また,リンゴ林の中の「高い高い三角標」は,ニューヨーク市ブロードウエイ(Broadway)にそびえ立つ三角形の尖塔を頭頂部に持つネオゴシック様式で「商業の大聖堂」と呼ばれたウースワースビル(Woolworth building;57階建て高さ241.4m)をイメージしたものであろう。数ブロック離れた所の1972~73年に建設された超高層のツインタワーWorld Trade Centerは2001年9月11日にハイジャックされた民間機二機により次々に自爆突撃され爆発炎上し崩壊した。

 

ウースワースビルは,1913年から1930年まで世界一高い建造物であり,テナントとしてコロムビア・レコード(Columbia records)が入っていた(Wikipedia)。さらに,1893年にマンハッタンにあるカーネーギー・ホールでニューヨークフィルハーモニー管弦楽団がチェコのボヘミア出身のドヴォルザーク(チェコ語;Antonín Leopold Dvořák )の『交響曲第9番ホ短調「新世界より」』を世界で初めて演奏したことも加えておく。

 

交響曲第9番は,アメリカインディアンの民族音楽や黒人霊歌を素材にしたものと言われている。賢治は,この交響曲9番のレコードを『銀河鉄道の夜』を推敲しているときにすでに所有していたと思われる。羅須地人協会時代に催した「レコード交換会」の際に作成し,自ら記入した「レコード交換用紙」の最初の欄にその名前を見いだすことができる。

 

このレコードは,コロムビア・レコードの青盤で「ヅヴォルジャク『新世界交響楽』,ハミルトン・ハーティー指揮,ハルレ・オーケストラ」による十二吋(インチ)盤の五枚組(録音1924年;萩谷,2013)である。この曲をイメージしたものが『銀河鉄道の夜』では,列車が北米東部のコロラド高原を通過する辺りでインディアンとともに「新世界交響楽はいよいよはっきり地平線のはてから湧き」という表現で登場してくる。賢治は,この曲が気に入っていて,第二章のラルゴの曲に独自の歌詞をつけ(日本で最初),曲「種山ヶ原」(1925)とした(宮沢,1986;萩谷,2013)。

 

2.「赤い実」は「瞳」のメタファー

では次に,なぜ家庭教師の青年は,「赤い実」を見たり音楽を聴いたりすると顔が青ざめてしまうのかを考察してみる。「赤い実」は,賢治の『銀河鉄道の夜』以外にも『ひかりの素足』や『なめとこ山の熊』という童話に登場してくる(宮沢,1986)。興味あることに,両作品とも主人公たちは,「赤い実」(マユミ,ニシキギ科;Euonymus sieboldianus Blume )を見たあとに遭難し命を落とすのである。童話『水仙月の四日』では,ヤドリギが復活のシンボルとして登場するのとは対照的である。偶然の一致かもしれないが,賢治が意図して「赤い実」を遭難や死の予兆の小道具に使ったものと思われる。『ひかりの素足』では,主人公として一郎と楢夫(ならお)の兄弟が登場する。兄弟は,真冬の雪道を山小屋から家へ帰る途中に,馬の鈴の音とともに「マユミ」の木のそばを通る。

  そのとき向ふから一列の馬が鈴をチリンチリンと鳴らしてやって参りました。

 みちが一(ひと)むらの赤い実をつけたまゆみの木のそばまで来たとき両方の人たちは行きあひました。兄弟の先に立った馬は一寸みちをよけて雪の中に立ちました。兄弟も膝まで雪にはひってみちをよけました。

 「早いな。」

 「早がったな。」挨拶をしながら向ふの人たちや馬は通り過ぎて行きました。

 ところが一ばんおしまひの人は挨拶をしたなり立ちどまってしまひました。馬はひとりで少し歩いて行ってからうしろから「どう。」と云はれたのでとまりました。兄弟は雪の中からみちにあがり二人とならんで立ってゐた馬もみちにあがりました。ところが馬を引いた人たちはいろいろ話をはじめました。

       (中略)

 「疲(こは)いが。」一郎もはあはあしながら云ひました。来た方を見ると路は一すぢずうっと細くついて人も馬ももう丘のかげになって見えませんでした。いちめんまっ白な雪,(それは大へんくらく沈んで見えました。空がすっかり白い雪でふさがり太陽も大きな銀の盤のやうにくもって光ってゐたのです)がなだらかに起伏しそのところどころに茶いろの栗や柏の木が三本四本づつちらばってゐるだけじつにしいんとして何ともいへないさびしいのでした。けれどの楢夫はその丘の自分たちの頭の上からまっすぐに向ふへ「かけおりて行く一疋の鷹を見たとき高く叫びました

 「しっ,鳥だ,しゅう。」

 一郎はだまってゐました。けれどもしばらく考へてから云ひました。

 「早く峠越えるべ。雪降ってくるぢょ。」

 (『ひかりの素足』宮沢,1986)下線は引用者

 

このあと,兄弟は吹雪に遭遇して遭難してしまう。二人は眠ってしまい,夢の中で,「赤い眼」をした恐ろしい鬼に出会うが,白く光る素足のひと(=仏)が現れ勇気づけられる。しかし,翌日,兄の一郎は眼が覚めて助かるが,弟の楢夫は死んでしまう。この場合,「赤い実」は子供たちの遭難の予兆として,あるいは「鬼の眼」のメタファーとして使われている。

 

賢治研究家で文学者の入沢康夫と天沢退二郎も,『銀河鉄道の夜』や『ひかりの素足』の「赤い実」が出てくる引用文には不吉な匂いを感じている。しかし,「赤い実」に対してではなく「赤い実」のあとに出てくる「まっ白な蠟(らう)のやうな露が太陽の面を擦(かす)めて行く」や「空がすっかり白い雪でふさがり太陽も大きな銀の盤のやうにくもって光ってゐたのです」という表現に,不吉な音色や遭難の前兆を感じ取っている(入沢・天沢,1979)。確かに,賢治にとって,濃霧発生による冷夏を何度も経験してきたので,太陽が雲や霧で隠れることは凶作の様子(飢餓)が目に浮かび恐怖を感じたものと思われる。

 

「赤い実」の「実」が「眼」であることは童話『なめとこ山の熊』でも同様である。『なめとこ山の熊』の主人公は,淵沢小十郎という熊捕りの名人である。小十郎は,ある朝,「婆さま,おれも年老ったでばな,今朝まづ生れで始めて水へ入るの嫌(や)んたよな気するじゃ」と今まで言ったことのないような弱気(不吉)な言葉を残して狩に出かける。そして,その途中でマユミの「赤い実」に出くわす。本文では,出くわすというよりは「まゆみの実がのぞいた」となっている。

  小十郎は白沢の岸を溯(のぼ)って行った。水はまっ青に淵(ふち)になったり硝子(ガラス)板をしいたやうに凍ったりつらゝが何本も何本もじゅずのやうになってかゝったりそして両岸からは赤と黄いろのまゆみの実が花が咲いたやうにのぞいたりした。小十郎は自分と犬との影法師がちらちら光り樺(かば)の幹の影といっしょに雪にかっきり藍(あゐ)いろの影になってうごくのを見ながら溯って行った。

(『なめとこ山の熊』宮沢,1986 )下線は引用者 

 

このあと,小十郎は栗の木の近くでばったりと熊に出くわしてしまう。鉄砲で撃つのだが,不意を突かれたので撃ち損じてしまい,逆に熊に襲われて命を落とす。物語は,小十郎の亡骸が山の上の一番高い所に置かれ,その周りに熊たちが環になって座り祈りをささげるという神秘的な描写で終わる。この作品では,「赤い実」がはっきりと「眼」をイメージしているように「のぞいた」と言っている。この場合の「のぞく=覗く」には,「マユミの実が割れて赤い種子が覗く(現れ出る)」という意味だけでなく,メタファーとして「赤い眼の熊が物影から小十郎を覗く(様子を伺う)」という二重の意味が込められている。

 

「マユミの実」(大きさは1cmほど)は,形態的に動物の眼に似ている。「マユミの実」は,秋になると淡紅色のさく果が4つに裂け中の赤い仮種皮(やがて黒くなる)に包まれた瞳のように見える種子が現れる(鈴木ら,1994)。面白いことに,「様子を伺う」の英語は,“to take one’s bearing”である。 “bearing”は “bear”という動詞の動名詞に由来するが ,“bear”には動詞(支える,運ぶ,生む,押す)としての使い方以外に,「熊」という動物名を表す名詞の使い方がある。すなわち,熊(眼=赤い実)はあたかも物影から小十郎を覗いていて,小十郎を確認したのち先回りして襲ったという予兆のメタファーとして設定してある。

 

「マユミ」の「赤い実」が主人公たちの遭難を予兆すること,および「鬼の眼」や「熊の眼」のメタファーとして使われていると説明してきたが,『銀河鉄道の夜』に登場する「赤い実」も「眼」のメタファーとして使われているのだろうか。ヒントは聖書にある。聖書にも果実にまつわる表現がいくつか出てくる(Smith,2006;橋本・八木橋,2011)。聖書は,もともと古ヘブライ語(一部はアラム語)で記載されているが,例えば1611年の英国の欽定訳旧約聖書(Authorized Version of the Bible)の英語訳の申命記32:10には“He found him in a desert land, and in the waste howling wilderness; he led him about, he instructed him, he kept him as the apple of his eye.”と “the apple of his eye”という表現が出てくる(Wikipedia)。しかし,この“the apple of his eye”の“apple”は「リンゴ」という意味では使われていない。

 

旧約聖書によれば,古代パレスチナ人が常食した果物は,「イチジク」,「ブドウ」,「オリーブ」,「ザクロ」などで「リンゴ」は見当たらないからだ(橋本・八木,2011)。この文章の日本語訳は,「主は荒れ野で,/獣のほえる荒地で彼を見つけ,/これをいだき,世話をして,/ご自分のひとみのように,/これを守られた。」(新日本聖書刊行会,2003)であり,“the apple of his eye”は「ひとみ(瞳)」と訳されている。

 

もともと,ヘブライ語の聖書の “the apple of his eye”に相当する「瞳」を意味する単語は,「眼の娘」,「眼の小さい男(と娘)」である(橋本・八木,2011)。これは,眼の前にいる人の「瞳」をじっと見つめていると,見ている人の顔が相手の「瞳」に映ることによるらしい。「瞳」を「子供」や「娘」が映る場所と呼ぶのは,古代ギリシャ語やラテン語でも同じ。日本語の「瞳」という漢字も,「目」と「童=子供(娘)」でできている

 

多分,「瞳」を “apple”とするのは英語圏の文化の特徴とも思われる。また,「瞳」という意味はないが古ヘブライ語の「木の実」も,英訳では“apple”である。英語で「瞳」を“apple ”と呼ぶのは,『オックスフォード英語辞典』では「瞳」と「リンゴ」の形状が似ているからと説明される。英語の“apple of eye”には「大切なもの」と言う意味もある。これは日本語の「眼の中にいれても痛くないほどかわいい」と同じである。

 

すなわち,賢治はこれらのことを知っていて,銀河鉄道が英語圏の北米を通過しているとき,「リンゴ」の「赤い実」を「瞳」のメタファーとして使っているように思える。「赤い実」=「赤い眼(瞳)」とすれば,この物語にはたくさんの「赤い眼」が登場してくる。最初は,地上の時計屋に置いてあった「ふくろうの赤い眼」であり,次に「牛乳屋の年老いた女の人の赤い眼」が現れ,本稿の引用文にある「赤い実」となる。これらはみな,「悲劇性」を予兆するものであり,最後は自己犠牲の象徴になっている「まっ赤なうつくしいさそりの火(眼)」となる。

 

「赤い実」=「赤い眼(瞳)」は,『銀河鉄道の夜』へと直接繋がる「青森挽歌」の中の有名な詩句「きしゃは銀河系の玲瓏(れいろう)レンズ/巨きな水素のりんごのなかをかけている」(1923.8.4)とも関係している。私なりにこの美しい詩句を解釈すれば,「汽車が,大切な妹(娘)の魂が散らばった凸レンズ状の銀河,すなわち同じ形をした水素のように透明な眼の水晶体を覆う瞳(=リンゴ)の中に映し出されている」であろう。では,『銀河鉄道の夜』に登場する「まっ赤に光る円い実がいっぱい」の「赤い実」は,誰の「瞳」(=眼差し)であろうか。(続く)。 

 

引用文献

萩谷由美子.2013. 宮澤賢治の聴いたクラシック.小学館.東京.

橋本 功・八木橋宏勇.2011 .聖書と比喩-メタファで旧約聖書の世界を知る.慶應義塾大学出版会.東京.

原 子朗.1999.新宮沢賢治語彙辞典.東京書籍.東京.

入沢康夫・天沢退二郎,1979.討議『銀河鉄道の夜』とは何か.青土社.東京.

石井竹夫.2014.宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に登場するススキと絵画的風景(後篇).人植関係学誌.14(1):45-48.

宮沢賢治.1986.文庫版宮沢賢治全集10巻.筑摩書房.東京.

新日本聖書刊行会.2003.旧約聖書 新改訳.いのちのことば社.東京.

鈴木庸夫(写真)・畔上能力・菱山中三郎・鳥居恒夫・西田尚道・新井二郎・石井英実(解説).1994.山渓ポケット図鑑 秋の花.山と渓谷社.東京.

Smith W.(藤本時男訳). 2006. 聖書植物大辞典.国書刊行会.東京.

 

本稿は人間・植物関係学会雑誌14巻第1号51~54頁2014年に掲載された自著報文(種別は資料・報告)を基にしたものである。原文あるいはその他の掲載された自著報文は人間・植物関係学会(JSPPR)のHPにある学会誌アーカイブスからも見ることができる。http://www.jsppr.jp/academic_journal/archives.html