宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』-赤い実と悲劇的風景(2)-

Key words:文学と植物のかかわり,橄欖(かんらん)の森, G.マーラー,リンゴ,聖書,タイタニック号遭難

 

前稿では,童話『銀河鉄道の夜』の九章「ジョバンニの切符」で登場してくる「橄欖の森」の「まっ赤に光る円い実(赤い実)」を便宜的に「リンゴの実」とし,この「赤い実」が「瞳」のメタファーになっていることを報告した。また,賢治はこの「赤い実」=「瞳」を英語訳の聖書に出てくる “apple of eye”(瞳の意味)をヒントにして物語に採用した可能性についても報告した(石井,2014b)。

 

しかし,聖書に出てくる果実は「リンゴ」ではなく「イチジク」,「ブドウ」,「オリーブ」,「ザクロ」などである(橋本・八木橋,2011)。そこで,本稿では「リンゴ」以外の可能性を明らかにするため,改めて「赤い実」の植物が何であるかを考察してみたい。また,キリスト教徒と思われる家庭教師の青年が「橄欖の森」の「赤い実」を見たり,そこから流れて来る音楽や讃美歌を聞いたりすると,なぜ顔が青ざめてしまうのかも併せて考察する。 

 

1.「赤い実」の植物名

「瞳」のメタファーとなる果物の候補となるのは,「リンゴ」以外では「オリーブ」と「クダモノトケイソウ」である。

 

「オリーブ」(モクセイ科オリーブ属;Olea europaea L.)は,南米の亜熱帯地域(主にブラジル)を原産とする果物であり,果実は緑色から黄色,やがて赤紫色になり,完全に熟すると黒くなる果物である。オリーブ油は,完全に熟した果肉からとる(鈴木,1994;Smith, 2006)。この果実は,「橄欖山の垂訓」とも関係する。キリストは,オリーブ山の麓にあるゲッセマネ(オリーブ油の搾りの意味)の園で,十字架刑に処される苦悩(受難)を祈ったとされる。

 

「クダモノトケイソウ」(トケイソウ科トケイソウ属;Passiflora edulis Sims)は,トケイソウをpassion flowerと呼ぶことからpassion fruitの名がある。果実の色は黄色,濃紫色あるいは赤色がある。passion flowerは,欧米では,キリストの「受難(passion)の花」を意味する。16世紀に南米に渡ったスペインの宣教師がこの花を見たときの印象からきている。先が3つに分裂した雌しべは処刑時の釘,副花冠は茨の冠,5枚の花弁と萼は合わせて10人の使徒(ペテロとユダを除く),巻きひげは迫害者の鞭(むち),葉は槍であるとみなされた(岩槻ら.1997)。

 

「オリーブ」と「クダモノトケイソウ」は,主な生産地が南欧や南米であることを除けば,キリストの受難と関係する植物の実なので,『銀河鉄道の夜』に登場する「橄欖の森」の「赤い実」の植物として考えてもおかしくはない。また,「瞳」という意味はないが古ヘブライ語の聖書に登場する「イチジク」,「ブドウ」、「オリーブ」,「ザクロ」などの「木の実」を意味する単語も,英訳の聖書では“apple”と表記される。語源上は,「好ましい香りを出す」,「ふくれる」,「丸くなる」を意味している動詞から派生した名詞とされる(橋本・八木橋,2011)。すなわち,『銀河鉄道の夜』の「赤い実」は「リンゴ」が最も相応しいものと考えるが,それに限定するのではなく「赤い実」を「受難」や「瞳」と関係する「リンゴ」,「オリーブ」,「クダモノトケイソウ」などの果実の「総称名」として考えても良いと思われる。

 

2.聞こえて来る曲はG.マーラーの交響曲第6番「悲劇的」と讃美歌の249番

本文引用文(第四次稿)で,孔雀がいる「橄欖の森」の中から「オーケストラベルやジロフォンにまじって何とも云へずきれいな音いろ」が聞こえてくるが,これらの音色は何であろうか。「橄欖の森」は,第一次稿と第二次稿では「琴(ライラ)の森」とも呼ばれていて,その場所で「竪琴を鳴らし」たり「むかしの大きなオーケストラの人たちが集まって」歌を合唱している。また,第三次稿では,「橄欖の森」の中の孔雀に対して,「ハーブのやうに聞こえたのはみんな孔雀よ」と女の子に言わせているので,「橄欖の森」にはあたかも交響曲を演奏したり合唱したりするコンサートホールが有るようである。

 

オーケストラベル(orchestra bells)は,グロッケンシュピール(glockenspiel)とも呼ばれるコンサート用の金属製の音板をもつ鍵盤打楽器で,いわゆる鉄琴である。一方,ジロフォン(=シロフォンxylophone)は,木製の音板をもつ鍵盤打楽器で,いわゆる木琴である。すなわち,竪琴を小型のハープと考えれば,「橄欖の森=琴の森」から聞こえて来る音色は,ハープ(竪琴),グロッケンシュピール(鉄琴),シロフォン(木琴)といった「琴の音」である。

 

賢治が「橄欖の森」にコンサートホールのイメージを与えているとすれば,このホールで演奏されている交響曲にはどんなものがあるのか。賢治が生きていた時代に,シロフォンなどの鍵盤打楽器を交響曲演奏の楽器に採用することは少ない。私が調べた限りでは(1924年まで),ハープ,グロッケンシュピール,シロフォンの3つの楽器を採用している交響曲は,コネチカット州ダンベリー生まれでニューヨーク市に住居を構えたアイヴス(Charles Edward Ives;1874-1954)の『宇宙交響曲(Universe symphony;1911-16年着手の未完成の遺作)』やチェコのボヘミア生まれのマーラー( Gustav Mahler;1860-1911)が作曲した『交響曲第6番イ短調「悲劇的」』(1903-04)がある(プロジェクトTutti,2013)。

 

後者の交響曲は,マーラーの自叙伝的作品あるいは予言的作品と言われていて,管弦楽の扱いでは打楽器の種類の多さが目立つ。全四楽章から成り,第一楽章はアレグロで軍隊の行進曲風,第二楽章はスケルツォで重々しく(マーラーによれば,2人の子供がたどたどしく遊んでいる様子),第三楽章はアンダンテで悲しく,そして第四楽章フィナーレでは,チェレスタ,ヴァイオリン,ハーブが「悲劇的」な死をイメージする旋律を奏でる。また,交響曲では珍しい巨大木製ハンマーが2発(あるいは3発)打ち鳴らされる(金・玉木,2011)。

 

運命を予兆する一撃と言うことであるなら,1発目は作曲して3年後に遭遇する最愛の子供の死という運命の一撃であり,2発目はそれから2年後の反ユダヤ運動の機運の高まりの中でウイーンを追われアメリカに渡らざるを得なくなった運命の一撃である(タイタニック号の沈没はさらにマーラー死後1年後)。『交響曲第6番イ短調「悲劇的」』の初演は,マーラー自身の指揮によるもので,ドイツのエッセンで1906年5月27日に行われた。初録音は1952年頃である(チャールズ・アドラー指揮ウイーン・フィルハーモニア管弦楽団;平林,2008)。

 

この悲劇的な交響曲が物語に相応しいといっても,賢治は生の演奏もレコードによる演奏も聞いてはいないと思われる。しかし,楽譜は初演と同じ1906年に出版されている。賢治は,植物の珍しい種をイギリスからわざわざ取り寄せたりしたこともあるので,この楽譜を取り寄せた可能性が否定できない。引用文では,「だまってその譜を聞いてゐる」とある。もしかしたら,「橄欖の森」から聞こえて来る音楽は,本当にマーラーの『交響曲第6番イ短調「悲劇的」』だったのかもしれない。さらに,想像をたくましくすれば,賢治は取り寄せた楽譜を見て物語の中ですでに天上人となったマーラー指揮による『交響曲第6番イ短調「悲劇的」』を「橄欖の森」の中で天上のニューヨークフィルハーモニー管弦楽団に演奏させたのかもしれない。

 

この曲のイメージに近いものが,賢治の『春と修羅 第二集』の中の詩「国立公園候補地に関する意見」に記載されている。この詩には「天国行きのにせ免状を売りつける/しまひはそこの三つ森山で/交響曲をやりますな/第一楽章 アレグロブリオはねあがるがごとく/第二楽章 アンダンテ やゝうなるがごとく/第三楽章 なげくがごとく/第四楽章 死の気持ち/よくあるとほりはじめは大へんかなしく/それからだんだん歓喜になって/最後は山のこっちの方へ/野砲を二門かくして置いて/電気でずどんと実弾をやる/Aワンだなと思ったときは/もうほんものの三途の川へ行ってるですな」とある(1925.5.11)。

 

実際の『交響曲第6番イ短調「悲劇的」』をインパル(Eliahu Inbal;1936-)の指揮する東京都交響楽団の生演奏(横浜;2013.11.2)で聴いてみたが,第四楽章では,絶望の底に叩き落とすような巨大な木製のハンマーが2度打ち鳴らされた。しかし,それほどの衝撃は伝わってこない。むしろ,最後の曲が終わるかに思えた静寂の中で,突然とどめを刺すように巨大な音量で,数台のティンパニが容赦なくリズムを刻んで終わる方が強く印象に残った。引用文で「俄かに大きな音がして私たちは水に落ちました」とあるように,遭難船が氷山と衝突後にややしばらくたって轟音とともに二つに折れて沈んだという光景を彷彿させるものである。

 

次に,物語の中で聞こえてくるのは,讃美歌第249(現在では320)番(「主よ御許に近づかん」創世28-10-22;ローウエル・メイソン作曲Bethany 1856)とされる(原,1999)。これは,イギリスからニューヨークへ向かう途中で沈没したタイタニック号を扱った新聞記事(Bisbee Daily Review,1912.4.19)などがヒントになったと思われる。新聞の見出しは「 LACK OF BOATS COST 1601 PRECIOUS LIVES,“NEARE  MY GOD TO THEE”PLAYED TITANIC’S BAND AS THE GIGANTIC SHIP MADE FINAL PLUNGE TO HER DOOM」(救命ボートの不足が1601名の尊い命を奪った。タイタニック号,船上バンドの演奏する讃美歌とともに沈みぬ)である。

 

『銀河鉄道の夜』第二次稿では,実際に讃美歌249番の歌詞「主よみもとにちかづかん/のぼるみちは十字架に/ありともなどもかなしむべき」という文章が入り,さらに「ニヤラーマイゴッドツジーニーラーツゼー」のルビが付いている。しかし,第四次稿では讃美歌249番の歌詞は消され,番号も空欄となった。タイタニック号沈没の際に歌われた讃美歌は第249番が最も有力とは思われるが,別説で讃美歌351番の「オータム autumn」(ヨハネ15-13)も知られているので(スケルツォ倶楽部,2013),もしかしたら第四次稿を書いているときに賢治の脳裏に讃美歌351番も浮かんだのかもしれない。

 

3.「赤い実」が青年の顔を青ざめさせる理由

『銀河鉄道の夜』の「まっ赤に光る円い実がいっぱい」の「赤い実」が悲劇を予知するものたちの「眼差し(瞳)」であることは前報で報告した(石井,2014b)。その「眼差し」は多分,氷山と激突し沈みゆく客船の「たくさん」の乗客たちの「眼差し」であろう。では,なぜキリスト教徒と思われる家庭教師の青年(大学生)は,銀河鉄道の列車の車窓から「橄欖の森」の中の「赤い実(=瞳)」を見たり,マーラー作曲の『交響曲第6番イ短調「悲劇的」』と思われる曲を聞いたりしたとき「ぞくっとしてからだをふるふやうに」なるのか,また,なぜ讃美歌249番(あるいは351番)を聞くと青年の顔が青ざめ,女の子が顔にハンカチを当ててしまうのだろうか。

 

一つは,青年や子供の姉弟が,衝撃的な遭難事故に遭遇したときやがて訪れるであろう死に対する恐怖を,天国と思われた「死後の世界」で再度強烈に呼び起こされたことによると思われる。しかし,これは音楽を聴いての反応の説明にしかならない。「赤い実」のメタファーに使われている「眼差し(=瞳)」は,もっと強烈に青年の「心」に突き刺ささっている。何が「青年」の「心」に突き刺さっているかは,青年が子供の姉弟を「婦人と子供優先」の救命ボートに乗せずに,「死後の世界」を走る列車に乗車させたことへの弁明の中にある。

    「いえ,氷山にぶつかって船が沈みましてね,わたしたちはこちらのお父さんが急な用で二カ月前一足さきに本国へお帰りになったのであとから発ったのです。私は大学へはひってゐて,家庭教師にやとはれてゐたのです。ところがちょうど十二日目,今日か明日のあたりです,船が氷山にぶつかって一へんに傾きもう沈みかけました。月のあかりはどこかぼんやりありましたが、霧が非常に深かったのです。ところがボートは左舷の方半分はもうだめになってゐましたから,とてもみんなは乗り切らないのです。もうそのうちには船は沈みますし,私は必至となって,どうか小さな人たちを乗せてくださいと叫びました。近くの人たちはすぐみちを開いてそして子供たちのために祈って呉れました。けれどもそこからボートまでのところにはまだまだ小さな子どもたちや親たちやなんか居て,とても押しのける勇気がなかったのです。それでもわたくしはどうしてもこの方たちをお助けするのが私の義務だと思ひましたから前にゐる子供らを押しのけようとしました。けれどもまたそんなにして助けてあげるよりはこのまゝ神のお前にみんなで行く方がほんたうにこの方たちの幸福だとも思ひました。それからまたその神にそむく罪はわたくしひとりでしょってぜひとも助けてあげようと思ひました。けれどもどうして見てゐるとそれができないのでした。子どもらばかりボートの中へはなしてやってお母さんが狂気のやうにキスを送りお父さんがかなしいのをじっとこらへてまっすぐに立ってゐるなどとてももう腸(はらわた)もちぎれるやうでした。そのうち船はもうずんずん沈みますから,私はもうすっかり覚悟してこの人たち二人を抱いて,浮かべるだけは浮かぼうとかたまって船の沈むのを待ってゐました。誰が投げたかライフブイが一つ飛んで来ましたけれども滑ってずっと向ふへ行ってしまひました。私は一生けん命で甲板の格子になったとこをはなして,三人それにしっかりとりつきました。どこからとなく〔約二字分空白〕番の声があがりました。たちまちみんなはいろいろな国語で一ぺんにそれをうたひました。そのとき俄かに大きな音がして私たちは水に落ちました。もう渦に入ったと思ひながらしっかりこの人たちをだいてそれからぼうっとしたらと思ったらこゝへ来てゐたのです。この方たちのお母さんは一昨年亡くなられました。えゝボートはきっと助かったにちがひありません,何せよほど熟練の水夫たちが漕いですばやく船からはなれてゐましたから。」(九,「ジョバンニの切符」)宮沢,1986 下線は引用者

 

子供の姉弟は,救命ボートが不足していたにも関わらず家庭教師の青年が「乗せてください」と頼んだときに,乗客たちはすぐ「みちを開けて」とあるので,そのまま青年が誘導して「みちを開けて」行けば救命ボートに乗れたはずだ。実際のタイタニック号では,この「女性と子供優先」のルールがあったので,女性(402名)と子供(109名)の乗客の生還者はそれぞれ74%と51%で,成人男性の乗客(805人)の生還者18%を率の点で大きく上回っていた(安藤,2011)

 

しかし,青年は,子供たちを「をお助けするのが私の義務だと思ひました」が,「ボートまでのところにはまだまだ小さな子どもたちや親たちやなんか居て,とても押しのける勇気がなかったのです」と,救命ボートへ乗せなかったことに対する弁明(言い訳)をしていて助けなかった。

 

しかし,助けることができなかったからと言って,極限状況の中で家庭教師の青年がとった行動を誰も非難することは出来ないように思える。客船に残ったものたち,あるいは救命ボートに乗り移ったものたちの「眼差し(=瞳)」は,青年に対する非難の眼差しではない。問題は青年側にある,青年の「助けること」が「義務」とか「押しのけること」が神に背く「罪」だとかいう考え方が問題なのだ。

 

青年が青ざめたのは,自分が信じたキリスト教の理念と行動のギャップの大きさによるものと思われる。キリスト教では,讃美歌351番の基となった聖書(新約聖書ヨハネによる福音書第15章第13節)の中の聖句「人がその友のために自分の命を捨てること,これより大きな愛はない」にあるように,「自分の肉親」よりも「友」のための「自己犠牲」の方が大きな「愛」であるというのがキリスト教の理念の一つになっている。青年は,キリスト教の「愛」の理念を赤く燃える「心」で学びそして理解していたはずだ。しかし,理解することイコール行動ではない。「心」を宿す「肉体」がその理念に付いて行けないこともある。

 

これは,新約聖書のマルコによる福音書14章第32節(ゲッセマネの祈り)でキリストが処刑される前夜に弟子たちに言った言葉の「誘惑に陥らぬよう,目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても,肉体は弱い」(共同訳聖書実行員会,1987)に対応する。「愛」が「義務」になった時,あるいは「押しのけること」が神に背く「罪」になった時,極限状況では「心」と「肉体」は分離する。

 

青年は,「橄欖の森」のたくさんの「赤い実」から,半狂乱になって自分の子供を救命ボートに乗せ自らは客船に残った母親たちや,あるいは一緒に救命ボートに移った母親たちや,そばでじっと悲しみに堪えている父親たちの「まっ赤な眼」の視線を感じ,それが非難の視線ではないのに関わらず,自ら学んだキリスト教の「愛」(自己犠牲)の理念が,子供を助けるという直接の行動に結びつかなかったことに恥じて「ぞくっとしてからだをふるふやうに」なり,また,顔が青ざめたのだ。青年の「義務」で形づけられた「愛」や「信仰心」は,極限状況では本能的ともいえる親の子供に対する「愛」にも及ばなかったことに恥じたのだ。そして,女の子は,天上の母親と会えるけれども,まだ生きていたかったという思いから「赤い実」の視線をハンカチで覆ったのだと思う。

 

一方,カムパネルラは,友人のジュバンニをいじめるザネリが船から落ちたとき,即座に飛び込みザネリを船に引き揚げ,自らは川の底に沈んだ。カムパネルラが「より聖なるもの」として青年たちよりも後に下車することは前報で述べた(石井,2014a)。カムパネルラは,物語の中だけに居るのではない。第三次稿のセロの声の人が言うように「みんながカムパネルラ」なのだ。最近,電車の踏切内の線路上でうずくまる老人を,父親の制止を振り切って(押しのけて)踏切内に飛びこみ助けたが,自らは命を落とした女性がいた(JR横浜線踏切事故:2013年10月2日新聞報道)。

 

引用文献

安藤健二.2011.ミッキーマウスはなぜ消されたか-核兵器からタイタニックまで封印された10のエピソード.河出書房.東京.

橋本 功・八木橋宏勇.2011 .聖書と比喩-メタファで旧約聖書の世界を知る.慶應義塾大学出版会.東京.

原 子朗.1999.新宮沢賢治語彙辞典.東京書籍.東京.

平林直哉.2008.クラシック名曲初演&初録音辞典.大和書房.東京。

石井竹夫.2014a.宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に登場する聖なる植物(前篇).人植関係学誌.13(2):27-30.

石井竹夫.2014b.宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に登場する赤い実と悲劇的風景(前篇).人植関係学誌.14(1):53-56.

岩槻邦男・大場秀章・清水建美・掘田 満・ギリアンフランス・ピーターレーヴン(監修).1997.植物の世界 第6巻.朝日新聞社.東京.

金聖響・玉木正之.2011.マーラーの交響曲.講談社.東京.

宮沢賢治.1986.文庫版宮沢賢治全集10巻.筑摩書房.東京.

プロジェクトTutti(インターネット上のボランティアグループ).2013.10.1.(調べた日付).管弦楽編成表Ver.2. http://horn.philharmonic.jp/henseihyo/

Smith W.(藤本時男訳). 2006. 聖書植物大辞典.国書刊行会.東京.

スケルツォ倶楽部.2013.10.1.(調べた日付).タイタニック船内サロンにおけるグスタフ・マーラーを追悼する架空の音楽会.http://scherzo111.blog122.fc2.com/blog-category-13.html

鈴木庸夫(写真)・畔上能力・菱山中三郎・鳥居恒夫・西田尚道・新井二郎・石井英美(解説).1994.山渓ポケット図鑑 秋の花.山と渓谷社.東京.

 

本稿は人間・植物関係学会雑誌14巻第1号55~58頁2014年に掲載された自著報文(種別は資料・報告)を基にしたものである。原文あるいはその他の掲載された自著報文は人間・植物関係学会(JSPPR)のHPにある学会誌アーカイブスからも見ることができる。http://www.jsppr.jp/academic_journal/archives.html

 

補足:「赤い実」が青年の顔を青ざめさせる理由に関して,人間・植物関係学会雑誌18巻第1号19~23頁2018年の「宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の発想の原点としての橄欖の森-ケヤキのような姿勢の青年 後編-」では,新しい情報をもとに別の解釈を試みている。興味ある方は雑誌あるいは本ブログの「宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』-けやきのような姿勢の青年(2)-」をご覧下さい。