宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

賢治の文語詩「民間薬」(第1稿)-干泥のわざとは旱魃禍のことである-

はじめに

文語詩「民間薬」は,賢治が最初に発表した2つの文語詩のうちの1つである(もう1つは後述する「選挙」)。「民間薬」には,多田保子編集発行「女性岩手」創刊号(1932.8.15)への発表形,黄罫詩稿用紙に書かれた下書き稿と定稿の3つがある。定稿の下書き稿には「ネプウメリてふ草の[?]葉」となっていて,[?]の箇所は何が書かれてあったのかは分からないが定稿では削除されている。「ネプウメリ」という草を葉にするかどうか迷ったらしい。また,定稿の「干泥」は下書き稿では「水田(みずた)」,発表形では「卑泥」になっている。下記引用文は定稿である。

 

49 民間薬

たけしき耕の具を帯びて,  羆熊の皮は着たれども,

夜に日をつげる一月の,   干泥のわざに身をわびて,

しばしましろの露置ける,  すぎなの畔にまどろめば,

はじめは額の雲ぬるみ,   鳴きかひめぐるむらひばり,

やがては古き巨人の,    石の匙もて出できたり,

ネプウメリてふ草の葉を,  薬に食めとをしへけり。

       (宮沢賢治,1986)下線は引用者 以下同じ

 

「民間薬」は難解な詩の1つであり,研究者によって様々な解釈がなされてきた。この詩の大まかな意味は,1ヶ月続いた「干泥のわざ」に「身をわびて」うとうとしていると夢に「巨人」が現れて「ネプウメリという葉」を薬に食べなさいと教えてくれた。というものである。しかし,これでは何をいっているのか分からない。そこで,多くの研究者は「干泥」を水田あるいは湿田とし,「わざ」を「作業」,「わびて」を「疲れて」と解釈して詩の意味を補足している。例えば,賢治の教え子である小原(1971)は,「ネプウメリ」の薬効には言及していないが,詩の意味を「激しい水田労働に疲れて畔にまどろむと巨人が夢に現れて薬草の名を示す」としている。田口(1993)も,「農作業で疲れてうとうとしていると東北の先住民(縄文人)が夢の中にでてきて疲労回復の薬を教えてくれた」と解釈している。そして,この薬の候補として古代ギリシャ人の用いたネペンテス(nepenthes)という憂(う)さを忘れさせる薬をあげている。多分,「ネプ・nepu」と「ネペ・nepe」の発音の類似性に基づくものと思われる。

 

伊藤(1999)も,「干泥」を氾濫川が残した汚泥や残滓とする以外には,小原や田口とほぼ同じ解釈をしている。さらに田口の発見したネペンテスを「怒りや悲しみ」を癒す「ポリジ」という薬草であるとした。「ポリジ」(和名ルリジサ; Borago officinalis L.)は,地中海沿岸に生育するムラサキ科の1年草で,ハーブとしても知られるものであるという。また,赤田秀子は「ネプウメリ」を「アイヌ」のヌペ草と呼ばれる「ギョウジャニンニク」(ヒガンバナ科:Allium victorialis  subsp.platyphyllum)であろうとしている。賢治が生きていた時代に,日本で「ルリジサ」が使われていた可能性は少ないと思われるが,「ギョウジャニンニク」は「アイヌ」が風邪薬などに民間的に使用していたものである(アイヌ民族博物館,2022)。現在,日本では「ルリジサ」や「ギョウジャニンニク」は医薬品ではなく「健康食品」に分類されている。しかし,国立研究開発法人医薬基盤・健康・栄養研究所がネットで公開している「健康食品」の安全性・有効性情報のデータベースには,「ルリジサ」と「ギョウジャニンニク」が疲労回復に使用されたという記載はない。

 

一方,信時(2007)は,先行研究に敬意を払いつつも,夢の中の話に必ずしもリアリティは必要としないとして,「ネプウメリ」の薬効について言及していない。代わりに,「農作業に疲れ果てた農夫の夢の中に,民間薬のほんたうの精神が語られた」という新しい解釈をしている。ただ,「ほんたうの精神」が何を意味しているのかについては答えていない。

 

このように,薬効を不問にする研究者もいるが,多くは,「ネプウメリ」を農作業の疲労を回復させる薬あるいは疲労を増強するかもしれない「憂(う)さ」や「怒りや悲しみ」の心身状態を癒す民間薬と考えている。しかし,疲労回復や「憂さ」を癒やすのに有効な具体的な薬草を言い当てることができないでいる。

 

本ブログでは,薬効を不問にはしない。第1稿と第2稿では,特に「干泥のわざに身をわびて」と「羆熊の皮は着たれども」という詩句の意味について再検討して,詩の大意を明らかにする。第3稿では「ネプウメリ」の正体とその薬効(あるいは効能)を明らかにする。

 

1.文語詩「民間薬」の大意

1)「干泥のわざに身をわびて」とは。

「わびる」(侘びる・詫びる)は,岩波の広辞苑(七版)によれば①気落ちした様子を外に示す。がっかりする。②困り切る。迷惑がる。という意味である。また,特に「詫びる」は,(困惑のさまを示して)過失の許しを求める。謝罪する。という意味である。いずれも身体が「疲れる」という意味を含んではいない。多分,「わびて」を「疲れて」と解釈するのは「干泥のわざ」を「農作業」と解釈するからではないのか。本当に「干泥のわざ」は「農作業」のことを意味しているのだろうか。

 

伊藤(1999)のみが「干泥のわざ」を北上川の氾濫で水田のように冠水した畑の「復旧作業」とし,また「わびて」を「辛酸を強いられた」と解釈している。伊藤によれば,この気象災害は,堀尾青史編『宮沢賢治年譜』に記載されている昭和元(1926)年7月の「18日から雨降り出し1月以上も降り止まらぬ」,「8月5日,豪雨のため被害多し」,また,昭和2(1927)年にも,「4月4日,豪雨,河川大氾濫し,釜石町浸水数百戸,東北本線不通となる」などの記事と関係があると推測している。詩集『春と修羅』(第三集)の「増水」(1926.8.15)には「古川あとの田はもうみんな沼になり/豆のはたけもかくれてしまひ/桑のはたけももう半分はやられてゐる」とある。

 

伊藤が「干泥のわざ」を単なる農作業ではなく,水害によって冠水した畑の復旧作業と見なしていることに注目したい。伊藤は,「干泥のわざ」を水害が原因と見做しているが,私は旱魃を考えている。「干泥」は賢治の造語とも思われる。「干」は文字通り解釈すれば「かわく」とか「ほす」である。すなわち,乾いた泥である。

 

実際に,賢治は農学校・羅須地人協会時代に3年あるいはそれ以上続いた旱魃を経験している(卜蔵,1991;原,1999;佐藤,2000)。大正13年(1924)7月に東北で干魃が起きた。この年,日照りが40日余日続き,各地で水喧嘩が起き,畑作が5割減収になっている(原,1999)。詩「早池峰山巓」(1924.8.17)に「九旬にあまる旱天(ひでり)つゞきの焦燥や/夏蚕飼育の辛苦を了へて」とある。その翌年も旱魃が起きて賢治の親友である佐藤隆房は,「大正14年,岩手県は特記すべき大干魃であった。何しろ,今生きている人たちが一度も経験したこともない大干魃だけに,村という村,家という家,人という人,一人として心配しない者はありません・・・農学校の水田を受け持っていた賢治が暇さえあれば生徒を連れて行って,低い堰(せき)の水を桶で田に掻入れる作業をしていた」と語っている。詩「渇水と座禅」(1925.6.12)にも「さうして今日も雨はふらず/みんなはあっちにもこっちにも/植えたばかりの田のくろを/じっとうごかず座ってゐて」とある。昭和元年(1926)も7月17日まで雨量少なく植え付けが困難となっていた(原,1999)。賢治の童話『或農学生の日誌』の1926年6月14日の日誌にも,これを裏付けるように「何せ去年からの巨(おほ)きなひゞもあると見えて水はなかなかたまらなかった」とか「あんな旱魃の二年続いた記録が無いと測候所が云ったのにこれで三年続くわけでないか。大堰の水もまるで四寸ぐらゐしかない」と記載がある。測候所とは現在の盛岡地方気象台のことで,当時賢治は旱害で何度も相談に訪れていたという。

 

昭和2年(1927)以降であるが,卜蔵(1991)の論文では昭和2年に大きな旱害があったとあるが,原(1999)の『宮澤賢治語彙辞典』では昭和3年と4年に旱魃が記録されている(原,1999)。このように,イーハトヴでは大正末期から昭和の初めにかけて旱害が慢性化していた。

 

旱魃になると,醜い水争いや農産物の減収だけでなく,場所によっては来年の耕作に備え水漏れ防止工事を行わなければならいこともあったと思われる。岩手で行われたかどうか定かでないが,三重県の伊賀では水漏れ防止の工事として「畦堀」と「底張」があったという。例えば,「底張」は水田の床全面を3~4寸(約9~12cm)掘って,足踏みや槌(つち)で床土を固めたという(吉村,2022)。床はひび割れした硬い土なので掘り起こすのも大変な重労働であったと思われる。多分,農具としては三本鍬が使われたと思われる。文語詩「民間薬」の「たけしき耕の具を帯びて」を彷彿させる。賢治の「雨ニモマケズ」に「ヒドリノトキハナミダヲナガシ」とある。「ヒドリ」は「日照り」の誤記とされている。「日照り」(旱魃)は農民にとって涙が出るくらいつらいものなのである。

 

旱魃が起こった大正13年に,賢治は身の危険も感じていた。森荘已池(1983)の証言によれば,詩集『春と修羅』刊行の頃(1924)に,賢治が近隣の町から山道(盛岡から宮古へ通じる閉伊街道)を通って帰途中に雨に降られ,あわててトラックの荷台に乗せてもらったが,高熱を出してしまう。このとき,うなされて夢うつつになった賢治は「小さな真赤な肌のいろをした鬼の子のような小人のような奴らが,わいわい口々に何か云いながら,さかんにトラックを谷間に落とそうとしている」幻影を見たというのである。トラックは実際に谷に落とされてしまうのだが,幸いに賢治と運転手,そして助手は事前にトラックから飛び降りていて無事だった。この体験を昭和元年(1926)秋とする研究者もいる(佐藤,2000)。 

 

また,大正13年には痘瘡も流行したらしい。賢治の詩「痘瘡」(1924.3.30)には「日脚の急に伸びるころ/かきねのひばの冴えるころは、/こゝらの乳いろの春のなかに/奇怪な紅教が流行する」とある。紅教とはチベット仏教の旧派のことで,僧は紅衣・紅帽を用いるという。習俗的に痘瘡の患者に赤い衣類を用いたことの連想とされる(原,1999)。

 

昭和元年(1926)は,気象災害と関係しているかどうかは定かではないが,賢治だけでなく家族にも大きな出来事があった。3月に賢治は百姓になるといって花巻農学校を依願退職し,父・政次郎は,5月に賢治が嫌っていた質屋をやめ,建築・金物・電導材料・自動車部品を扱う宮沢商会を開業している

 

また,賢治は昭和2年と3年に思想上の問題だと思われるが,警察へ出頭を命じられていたという。賢治はこの時期に羅須地人協会を主宰するとともに無産政党である労農党稗和支部を支援していた。賢治の教え子でもある小原(1985)は,昭和2年6月29日頃に実際に賢治と会って,その話を直に聞いている。賢治は小原の用向きに対して耳もかさず「いまそれどころの話ではないんだ。私は警察に引っ張られるかもしれない」と言ったという。小原は,こんなにも取り乱した姿を後にも先にも見たことはないと述懐している。伊藤(1997)も,昭和3年3月15日に,労農党のシンパということで,賢治が警察の取り調べを受けたと推測している。俗に言う三・一五事件のあった日で,共産党や労農党などに手入れがあり,関係者の検挙,取り調べが全国的に行われた。町会議員を四期務めていた父・政次郎も,賢治の思想問題と関係したかどうかは定かでないが,昭和四年に選挙に初めて落選している。この選挙の様子を文語詩にしたのが「選挙」であるが,この詩が「民間薬」と一緒に「女性岩手」に投稿されている。さらに,昭和2年~5年にかけては,クリスチャンの女性が近づいてきて賢治を悩ませた時期でもあった。このように,昭和元年を前後にして,賢治とその周辺で何か良からぬ出来事が次々と起こっている。

 

多分,「干泥のわざ」とは何か良からぬ出来事と関係しているように思える。「わざ」(行・業・態・技)という日本語を『広辞苑』で引くと,第一義は①神意のこめられた行為,深い意味のある行為。である。それ以外に②すること。しわざ。行為。③つとめとしてすること。職としてすること。しごと。職業。④しかた。方法。技術。芸。そして⑧わざわい。たたり。とある。多くの研究者たちは,「わざ」を③の「しごと」と解釈している。しかし,『広辞苑』には「わざわい(禍)」とか「たたり(祟り)」という意味のあることも記載している。

 

もしかしたら,「民間薬」にある「干泥のわざに身をわびて」という詩句の「わざ」とは伊藤が「災害」と解釈したように「禍」や,さらに深読みして「祟り」のことではないのか。国語学者の大野晋(2002)によれば,「わざ」は単に技術とか芸とかいう意味だけでなく,昔は「禍」に導く「祟り」という意味で使われていたという。「人間わざ」という言葉は「人間業ではない」と否定の形で使われる。「神わざ」といえば超人的な技術である。「わざ」はそうした,凡俗でない神のような何かの力に関係することが多いという。大野は,室町時代に来朝したキリシタンが日本語に訳した『イソップ物語』の中の「われ五穀にわざをなさず,人に障(さは)りすることなし」(自分は五穀の実りに対して,害をなす祟り,悪意ある行為を何もしていない)という文章を例にあげて,「わざ」には相手を害したいという秘められた意向を表す意味もあったと言っている。

 

「祟り」とは何であろうか。通常,日本では,人は死後に肉体から離れ死者の霊(死霊)となるとされてきた。「死霊」は,穢れを有し,供養を必要とするし,祟る存在でもあり,特に不遇のうちに死をとげた者の「死霊」は,通常の死を迎えたものの死霊とは異なり,「怨霊(おんりょう)」として祟り,不遇の死の原因となった者ないし場所などに対して,災厄・災害・病気などを惹起するものとして恐れられるものであるという(櫻井,2003)。賢治はこの「怨霊」という言葉を後述する「地主」という作品の中で使っているが,これ以外の作品では見られない。「鬼神」という言葉が「怨霊」と同じ意味で使われていると思える。

 

我が国には「御霊(ごりょう)信仰」というのがある。御霊信仰は,天災や疫病の発生を,怨みを持って死んだ人間の「怨霊」の仕業と見なすもので,奈良時代から平安初期に広まったとされる。以後さまざまな形をとりながら現代にいたるまで祖霊への信仰と並んで日本人の信仰体系の基本をなしてきた。政治的に抹殺され,非業の最後を遂げた人々の怨霊の復讐に,平安初期の朝廷の周辺の人々は恐れた。有名なものが早良(さわら)親王の「祟り」である。どのような「祟り」であり,またどのように対処したかについては伊藤(2022)の論文によれば以下のようなものである。

 

早良親王は,延暦四年(785)に,藤原種嗣が暗殺された事件に関わっていたとされ,乙訓寺に幽閉された。しかし,彼は罪を認めず,飲食を断ち,無実を主張,流罪地淡路国へ配される途中死亡,遺体は淡路で葬られた。その後,桓武天皇の夫人藤原旅子,母の高野新笠,皇后の藤原乙牟漏が相次いで死亡し,皇太子の安殿も病気に罹る。占いによって,延暦11年(792)6月10日,早良親王の祟りと出たため,親王への陳謝を行った。平安京への遷都の理由の一つが,この親王の祟りから逃れるためともされている。また延暦4年(785)から延暦10年(791)にかけて大風による水害旱魃による飢饉痘瘡などの疾病が大流行した。延暦7年(788)には,大隅国の曾乃峯(霧島山)の噴火,延暦19年(800)には,富士山が噴火し,災禍が続いたため,同年早良親王に対し,崇道天皇と追称した。(このような追尊の例は他に存在しない。)            (伊藤,2022)

 

このように,朝廷は「禍」が早良親王の「祟り」と知ると陳謝し,亡くなった後だが早良親王に天皇の称号を付与している。当時,「祟り」や「物の怪」に直面したときには常に僧侶たちの読経も行われた。なかでも「法華経」は「怨霊」の救済にもっとも効果があるとされていた。法華経を拠り所にしていた最澄の天台宗による護国国家の主たる目的の一つはこれら「祟り」や「物の怪」から国家の支配者を擁護することにあるとされていた(櫻木,2002)。最澄は桓武天皇から篤い庇護を受けていた。

 

「干泥のわざ」の「わざ」が「禍(あるいは祟り)」なら「干泥のわざ」は農作業という意味ではなく,旱魃の「禍」,すなわち「旱魃禍」である。

 

「干泥のわざに身をわびて」の「わびて」は前述したように2つの意味がある。「侘びる」は気落ちした様子を外に示す言葉で,がっかりするという意味である。また,「詫びる」は,過失の許しを求める。あるいは謝罪する。という意味である。多分,「干泥のわざに身をわびて」は,「旱魃禍ですっかり気落ちして」という意味だと思われるが,「旱魃禍」が自分の引き起こした「禍」という認識もあることから「旱魃禍に身をもって謝罪して」という意味も含まれていると思われる。(続く)

 

参考文献

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