宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

詩「春と修羅」の「のばらのやぶや腐植の湿地いちめんのいちめんの諂曲模様」とはどういう意味か(2)

賢治が母親に気に入られようとしていた可能性のあることはすでに述べた。これを裏付けるものとして賢治の手紙,賢治研究家である堀尾青史の調査資料,文学作品などを紹介してみる。

 

大正7(1918)年6月20日前後の親友である保阪嘉内あての手紙(封書)に母のことが記載されている。これは,保阪の母が亡くなったという知らせを受けての手紙(引用文A)である。

 

引用文A

私の母は私を二十のときに持ちました。何から何までどこの母な人よりも私を育ててくれました。私の母は今年まで東京から向へ出たこともなく中風の祖母を三年も世話して呉れ又仝(とう)じ病気の祖父をも面倒して呉れました。そして居(い)て自分は肺を痛めて居るのです。私は自分で稼いだ御金でこの母親に伊勢詣がさせたいと永い間思ってゐました。けれども又私はかた意地な子供ですから何にでも逆らってばかり居ますこの母に私は何を酬いたらいゝのでせうか。それ処ではない。全体どうすればいゝのでせうか。

 

私の家には一つの信仰が満ちてゐます。私はけれどもその信仰をあきたらず思ひます。勿体のない申し分ながらこの様な信仰はみんなの中に居る間だけです。早く自らの出離の道を明らめ,人をも導き自ら神力をも具(そな)へ人を法楽に入らしめる。それより外に私には私の母に対する道がありません。それですから不孝の事ですが私は妻を貰って母を安心させ又母の劬労(くろう)を軽くすると云ふ事を致しません。     (宮沢,1985;下線は引用者,以下同じ)

 

 

賢治のこの手紙には,母の苦労に酬いるために自分がなすべきことが明確に記載されている。それは,母と伊勢詣に行くことでも,妻も娶って母の苦労を軽減させることでもない。具体的には,手紙に「出離の道」とあるように仏門に入ることである。母の苦労に酬いるためとあるが,母に気に入られるためと書き直しても同じと思われる。

 

賢治の童話『銀河鉄道の夜』にはカムパネルラが「ほんたうにいいこと」をすれば母が幸せになるということが記載されている。カムパネルラには賢治が投影されていると思われる。

 

引用文B

「おっかさんは,ぼくをゆるして下さるだらうか。」

いきなり,カムパネルラが,思い切ったといふやうに,少しどもりながら,急(せ)きこんで云ひました。

ジョバンニは,(あゝ,さうだ,ぼくのおっかさんは,あの遠い一つのちりのやうに見える橙いろの三角標のあたりにいらっしゃって,いまぼくのことを考へてゐるんだった。)と思ひながら,ぼんやりしてだまってゐました。

「ぼくはおっかさんが,ほんたうに幸(さいはひ)になるなら,どんなことでもする。けれども,いったいどんなことが,おっかさんのいちばんの幸なんだらう。」カムパネルラは,なんだか,泣きだしたいのを,一生けん命こらへてゐるやうでした。

「きみのおっかさんは,なんにもひどいことないじゃないの。」ジョバンニはびっくりして叫びました。

「ぼくわからない。けれども,誰だって,ほんたうにいいことをしたら,いちばん幸なんだねえ。だから,おっかさん,ぼくをゆるして下さると思ふ。」カムパネルラは,なにかほんたうに決心してゐるやうに見えました。

   (『銀河鉄道の夜』第四次稿)宮沢,1985

 

 

引用文Bの下線部分の語句は引用文Aの賢治の手紙に記載された下線部分の「この母に私は何を酬いたらいゝのでせうか。それ処ではない。全体どうすればいゝのでせうか。」に対応していると思われる。引用文Bから読み取れる母の求めたものは,母が「ほんたうに幸(さいはひ)になる」ものであり,それは「ほんたうにいいことを」することである。カムパネルラにとって,そのためなら「どんなことでもする」という最上の「ほんたうにいいこと」とは何であろうか。多分,それは自分を犠牲にしてでも他者を救うということであろう。

 

カムパネルラは,級友のザネリが烏瓜の明かりを川に流そうとして川に落ちた時に,すばやく川に飛び込んで助けた。自分よりも「他人の幸せを優先」したことで自らは川の底に沈んだ。カムパネルラのとった自己犠牲の行動は,彼にとって「ほんたうにいいこと」なのだと信じられている。また,カムパネルラは,自分が早く死んでしまって母を悲しませるようなことをしたが,「他人の幸せ」のためにやった行為ということで母から許されると信じた。

 

賢治は幼い頃に母から「ひとというものは,ひとのために何かしてあげるために生まれてきたのス」という言葉を子守歌のように繰り返し聞いていた(森,1974)。賢治の自分よりも他者を優先する性格形成と深く関わっていると思われる。

 

賢治は幼かった頃,母から十分に構ってもらえなかったことが知られている。

例えば,イチが質・古着商の政次郎と結婚したころの話しだが,イチは口うるさい魚好きの舅の料理で,三枚におろして刺身と煮物にしてくれといわれても方法がわからず,実家に帰って母や魚屋に教わったりもしていた。親戚の者が,いつ来ても嫁の姿が見えないと笑っていたという。また舅は料理の皿数が少ないと小言も言っていたらしい。姑も体が弱く床についていて,店に良く買ってくれる上客がくると,座敷にあげてもてなす習わしなので,イチは台所仕事にも追われていた(堀尾,1999)。

 

実際に幼い頃の賢治は,忙しい農家の乳幼児のようにオシメの交換が少なくて済む「嬰児籠(えじこ)」の中で育てられている。また,この時期に忙しい母親に代わって子守したのは,事情があってか婚家先から帰り豊沢町の宮沢家に同居していた父の姉・ヤギであり,賢治をひどく可愛がった。6歳の時,賢治は赤痢に罹り花巻の隔離病舎に2週間ほど入っている。このとき看病したのは父や祖母・キンの妹・ヤツであった。ヤツは話上手で賢治に昔話を聞かせたという(堀尾,1999)。

 

このように,賢治が幼かった頃の母・イチは家業の手伝いが忙しいとはいっても祖父,祖母あるいは妹や弟の世話を焼いていた。賢治は,寂しかったにちがいない。弟の清六がこの頃からの賢治について「表面陽気に見えながらも,実は何とも言えないほどの哀(かな)しいものを内に持っていたと思うのである。・・・兄は家族たちと一緒に食事をするときでさえ,何となく恥ずかしそうに,また恐縮したような格好で,物を噛むにもなるべく音をたてないようにした。また,前屈みにうつむいて歩く格好や,人より派手な服装をしようとしなかった」と語っている(宮沢,1991)。

 

幼い頃の賢治は,慈母とされる母が厳格で気難しい父,祖父,祖母を押しのけてまでも常にそばにいて自分を守ってくれる存在とは感じていなかったように思われる。賢治は寂しかっただけでなく,「いじけ」や「ひがみ」の感情を持つようになっていたと思われる。賢治は母に気に入られようとしても,その感情が思わず出てしまい母を困らせる行動をしてしまうこともあったと思われる。賢治は父への手紙で「さて母上とては尚祖父様祖母様の御看病を始め随分と御苦労され,如何にもしても少し明るくゆっくりしたる暇をも作り上げ申さんと,中学一年の時より之を忘れたる事は御座なく候へども,何か言へばみな母上を困らすような事のみにて何とも何とも自分の癖の悪くひがみ勝ちになるには呆れ奉(たつまつ)り候」と述懐している(石井,2022)。

 

母の言葉と前述した賢治と母・イチの関係が事実あるいはそれに近いものだとすれば,母の「ひとというものは,ひとのために何かしてあげるために生まれてきたのス」という言葉は賢治に多大な影響を及ぼしたと思われる。母の言葉を実践しなければ母から愛されないばかりか母から見捨てられるという不安も感じたかもしれない。母に見捨てられないためには母に気に入られる必要がある。賢治は母に気に入られるために自分を犠牲にしてでも「ひとのために何かしてあげる」ことを必死に実践したのであろう。また,賢治は「法華経」の熱心な信者になったもの,母の言葉と「法華経」の教えが一致したからと思われる。

 

賢治は生涯にわたって母に気に入られようとしていた。賢治の臨終にあたって,父は賢治に残されたたくさんの原稿について,どうするのか尋ねている。賢治は,父に「それらは,みんな私の迷いの跡だんすじゃ。どうなったって,かまわないんすじゃ」と答えた。私は,臨終での父への言葉が賢治の本音だと思っている。しかし,母には「この童話は,ありがたい,ほとけさんの教えを,いっしょうけんめいに書いたものだんすじゃ。だから,いつかは,きっと,みんなで,よろこんで読むようになるんじゃ」と話したという(森,1974)。賢治は生涯を閉じようとしているときでも母に気に入られようと振る舞った。

 

賢治にはもう1人気に入られようとした者がいるように思える。詩「春と修羅(mental sketch modified)」創作時の恋人である。不思議なことに,恋人と交わしたであろう手紙は全く残されていない。賢治がこの女性にどのように気に入られようとしていたかは定かではない。残された賢治の作品から推測してみたい。

 

詩「春と修羅(mental sketch modified)」創作時の1年後に新聞発表されたものに寓話『シグナルとシグナレス』(1923.5.11~23)がある。本線の信号機である〈シグナル〉と軽便鉄道の信号機である〈シグナレス〉の悲恋物語である。エッセイストの澤口たまみ(2010)はこの作品は大正11年(1922)に賢治が体験した恋愛がモデルになっていると主張している。賢治が投影されている〈シグナル〉は恋人が投影されている〈シグナレス〉に気に入られようと必死に話しかけている。

 

「シグナレスさん,どうかまじめで聞いてください。僕あなたの為なら,次の十時の汽車が来る時腕を下げないで,じつと頑張り通してでも見せますよ」わづかばかりヒユウヒユウ云つてゐた風が,この時ぴたりとやみました。

「あら,そんな事こといけませんわ」

「もちろんいけないですよ。汽車が来る時,腕を下げないで頑張るなんて,そんなことあなたの為にも僕の為にもならないから僕はやりはしませんよ。けれどもそんなことでもしようと云ふんです。僕あなた位大事なものは世界中ないんです。どうか僕を愛してください」

 

「だつてあたしはこんなつまらないんですわ」

「わかつてますよ。僕にはそのつまらないところが尊いんです」

 すると,さあ,シグナレスはあらんかぎりの勇気を出して云い出しました。

「でもあなたは金(かね)でできてるでしよう。新式でしよう。赤青眼鏡を二組みも持もつていらつしやるわ,夜も電燈でしよう。あたしは夜だってランプですわ,眼鏡もただ一つきり,それに木ですわ」

「わかつてますよ。だから僕はすきなんです」

「あら,ほんとう。うれしいわ。あたしお約束するわ」

「え,ありがとう,うれしいなあ,僕もお約束しますよ。あなたはきっと,私の未来の妻だ」

「えゝ,そうよ,あたし決して変らないわ」

「結婚指環(エンゲージリング)をあげますよ,そら,ね,あすこの四つならんだ青い星ね」

「えゝ」

「あのいちばん下の脚もとに小さな環が見えるでしよう,環状星雲(フイツシユマウスネビユラ)ですよ。あの光の環ね,あれを受け取とつてください。僕のまごころです」

「えゝ。ありがとう,いただきますわ」

                            (宮沢,1985)

 

 

引用文で〈シグナル〉は〈シグナレス〉から結婚の承諾を得るためなら何でもやってみせるという覚悟を表明している。〈シグナル〉の「僕あなたの為なら,次の十時の汽車が来る時腕を下げないで,じつと頑張り通してでも見せますよ」という言葉は〈シグナル〉(=賢治)が〈シグナレス〉(=恋人)に媚び諂っている1つの例だと思われる。

 

寓話『土神ときつね』(1923)も賢治の恋愛体験がもとになっていると思われる。この物語では賢治が投影されている〈狐〉が恋人の投影されている〈樺の木〉に好かれようとたくさんの「うそ」を付いてしまう。

 

つまり,賢治作品から推測すると賢治は自分の母だけでなく恋人にも気に入られようとしていたと思われる。

 

詩「春と修羅(mental sketch modified)」の3行目と4行目の「のばらのやぶや腐植の湿地/いちめんのいちめんの諂曲(てんごく)模様」の意味は最初の2行「心象のはひいろはがねから/あけびのつるはくもにからまり」と合わせると以下のようなものになると思う。

 

イライラして憂鬱な気分になっていると,雨雲に伸びるアケビの蔓が1人の女性(恋人)に絡みついてほどけなくなった自分の愛欲のように感じられた。一方,秋に透き通った実を付ける野ばらの藪からは法華経への強い信仰心が,そして腐植の湿地(田畑)にはそこで働く貧しい農民の姿が感じられるようにもなった。恋人に気に入られようと「1人の女性の幸せ」を思う気持ちと,母に気に入られようと農民を含め「みんなの幸せ」を願う気持ちが眼に見える風景をすべて諂曲模様にした。

 

参考・引用文献

堀尾青史.1991.年譜 宮澤賢治伝.中央公論社.

石井竹夫.2022.自分よりも他人の幸せを優先する宮沢賢治 (1)-性格形成に影響を及ぼした母の言葉-.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2022/01/01/125039

宮沢賢治.1985.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.

宮沢清六.1991.兄のトランク.筑摩書房.

森 荘己池. 1974.宮沢賢治の肖像.津軽書房.

澤口たまみ.2010.宮澤賢治 愛の歌.盛岡出版コミュニティー.