宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

詩「春と修羅」の「のばらのやぶや腐植の湿地いちめんのいちめんの諂曲模様」とはどういう意味か(1)

詩「春と修羅(mental sketch modified)」(1922.4.8)の特に出だしの4行は難解である。前稿で,最初の2行「心象のはひいろはがねから/あけびのつるはくもにからまり」は「イライラした憂鬱な気分になっていると,あけびの蔓のように自分の愛欲が1人の女性に絡まってしまい解けなくなってしまった」という意味のようだと報告した。本稿では3行目「のばらのやぶや腐植の湿地」と4行目「いちめんのいちめんの諂曲(てんごく)模様」の意味について考察する。

 

3行目の「のばら」は「ノイバラ(野茨)」ではなく,1ヶ月後の詩「習作」(1922.5.14)に「野ばらが咲いてゐる 白い花/秋には熟したいちごにもなり/硝子(がらす)のやうな実にもなる野ばらの花だ・・・」(宮沢,1985;下線は引用者)とあるように「苺(いちご)」の実を付ける「木苺」と思われる。「木苺」は,我が国では「モミジイチゴ」(Pubus palmatus var. coptophyllus )のようなものが知られている。弓なりに伸びる枝にはトゲが多い。花期は3~5月で,果実は球形で透明感のある「茶色」である(第1図)。ただし,透き通ってはいない。

 

第1図.モミジイチゴの花と実.

 

詩「春と修羅(mental sketch modified)」に登場する「のばら」は単なる「木苺」ではない。賢治はこの「木苺」に特別な意味を付加しているように思える。賢治はこの「木苺」である「のばら」の正体を童話『よく利く薬とえらい薬』(1921~1922)で明らかにしている(石井,2021)。この童話は,主人公である〈清夫〉が自分と病気の母を元気にしてしまう不思議な「ばらの実」を見つけるという物語である。

 

〈清夫〉は「森」の中で最初一生懸命に茶色の「ばらの実(木苺の実)」を探すが少ししか見つからず疲れてしまう。しかし,〈清夫〉は採取したその「ばらの実」を口にすると「唇がピリッとしてからだがブルブルッ」とふるえ,疲れも吹き飛んでしまい,すがすがしい気分になる。また,採取した茶色の「ばらの実」は「透き通ったばらの実」に変貌していた。この「茶色のばらの実」が見つかる場所は「まっ黒なかやの木や唐檜」に囲まれた「小さな円い緑の草原の縁」である。「まっ黒なかやの木」や「唐檜」は,神聖な樹木であり,解剖学的に言えば「睫毛(まつげ)」がイメージされている。これら神聖な「森(睫毛)」に囲まれた「小さな円い緑の草原の縁」は眼球の「茶色の虹彩」がイメージされている。

 

〈清夫〉は疲れて幻影としての「透き通ったばらの実」を見たと思われるが,この「ばらの実」は,賢治が中学時代に読んだラルフ・ウォルドー・エマーソン(1803~1882)の『自然(Nature)』という著書の中の「透明な眼球(transparent eye-ball)=神」と同じようなものと思われる。仏教徒の賢治にとってエマーソンの「神」に相当するものは「如来」と思われる。すなわち,〈清夫〉が見た茶色く透明感のある「木苺」の実は「茶色の虹彩を持つ眼球」→エマーソンの「透明な眼球」→「神」→「如来」とイメージされていく。賢治は「法華経」の如来寿量品十六を読んで感動し,驚喜して身体がふるえたと言われている。〈清夫〉もまた「透き通ったばらの実」を口にすると「唇がピリッとしてからだがブルブルッ」とふるえた。すなわち,〈清夫〉が見つけた「透き通ったばらの実」は「みんなの幸せ」をもたらす手段としての「宗教」でありその「信仰」を手助けする「法華経」のことと思われる。また,この「透き通ったばらの実」を病気の母に与えると,母も元気になる。つまり,「透き通ったばらの実」は母が〈清夫〉に求めていたもののようにも思える。

 

「ばらの実」はエマーソンの「透明な眼球」であり「法華経」のメタファーでもある。童話『よく利く薬とえらい薬』は賢治が投影されている〈清夫〉が「みんなの幸せ」を叶えるために絶対者である神の教え,すなわち「透明な眼球」(=ばらの実)を探していたら「法華経」に出会うことができたという物語でもある。

 

では「のばらのやぶ」の「やぶ」とは何であろうか。「やぶ」とは草木が生い茂っている場所を指す。前述した詩「習作」(15~20行目)には「このやぶはずゐぶんよく据ゑつけられてゐると/かんがへたのはすぐこの上だ/じつさい岩のやうに/船のやうに/据ゑつけられてゐたのだから/・・・仕方ない」(下線は引用者)とある。つまり,賢治にとってこの「やぶ」は,「かんがへたのはすぐこの上だ」とあるように「頭の中」にもあるようだ。そして,この「やぶ」は錨を降ろした船のようにしっかり「頭の中」で固定されている。「のばら」を「法華経」の経文あるいは教えとすれば,賢治にとって「法華経」への信仰心は不動なもので強固である。「法華経」の経文はたくさんの文字で構成されている。「やぶ」のように見えたのかも知れない。つまり,詩「春と修羅(mental sketch modified)」に登場する「のばらのやぶ」とは「法華経」に対する強い信仰心を言っているのだと思われる。法華経の教えには苦しみ悩むすべての衆生を救うというのがある。これは賢治の母イチが幼かった頃の賢治に毎晩「ひとというものは,ひとのために何かしてあげるために生まれてきたのス」という教えにも通じる。すなわち,この「法華経」への強い信仰心は母親に気に入られるためでもあったとも思われる。

 

「腐植の湿地」とは何であろうか。断片二枚の対話劇「蒼冷と純黒」で「蒼冷」が「俺は只一人で其処に畑を開かうと思ふ」と言うと,「純黒」が「そんならもう明日から君はあの湿った腐植土や,みゝづ,鷹やらが友達だ」と応える。それゆえ,「腐植の湿地」とは畑のことを言っていると思われるが,詩「春と修羅(mental sketch modified)」では単に畑という意味だけでなく,そこで働く農民たちもイメージされているように思える。

 

「諂曲」とは仏教語で,自分の意志を曲げて他者に媚(こ)び諂(へつら)うことである。媚び諂うとは気に入られようとして,相手の機嫌を取ることである。

 

賢治が人に媚び諂うような態度をとるとは到底思えないとする研究者もいる。媚び諂う対象は自分自身に対してであるとしたり,「諂曲」を「邪(よこしま)」と本来の意味とは異なる解釈をしたりする者もいる(浜垣,2019)。しかし,私は賢治が日常的に色々な人たちに媚び諂うことをしてきたと思っている。特に,自分の母親や恋人には随分と気に入られるようなことをしてきた。(続く)

 

参考・引用文献

浜垣誠司.2019.宮澤賢治の詩の世界-諂曲なるは修羅の世界.https://ihatov.cc/blog/archives/2019/07/post_945.htm

石井竹夫.2021,植物から宮沢賢治の『よく利く薬とえらい薬』の謎を読み解く(1).https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/05/05/182423

宮沢賢治.1985.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.