宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

賢治と赤く変色するリトマス試験紙

Key words:毒蛾,北守将軍と三人兄弟の医者,サルオガセ

 

溶液の酸性度を測る指示薬にリトマス試験紙というのがあります。青色のリトマス試験紙が赤に変色すれば酸性,逆に赤が青に変色すればアルカリです。今では殆ど使われませんが,先生の目を盗んで,身の回りの物の酸性度を手当たり次第測定した理科の授業が懐かしく思いだされます。しかし,これがある植物を原料にして作られるということを皆さんご存知だったでしょうか。

 

赤色と青色の花が咲く「アジサイ」を思い浮かべる人が多いと思いますが,残念ながら違います。確かに「アジサイ」の花にはアントシアニンという色素があり,リトマス試験紙のように細胞液が酸性になると青花が赤花に変化するとされています。賢治の詩「種山ヶ原(先駆形)」(1925.7.19)にも,「花青素(アントケアン)は一つの立派な指示薬だから/その赤いのは細胞液の酸性により」とあります。

 

賢治は,花青素にアントケアンとルビを振っていますが,アントシアニンのことだと思われます。しかし,「アジサイ」はリトマス試験紙の原料にはしません。実は,リトマス試験紙は「リトマスゴケ」とか「サルオガセ」という地衣植物(菌類と藻類の共生してできている生物)から作られます。「リトマスゴケ」は,アントシアニンではなくジフラクタ酸(diffractaic acid)やレカノール酸(lecanoric acid)という色素を含みます(重松,2021)。

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第1図.アジサイの仲間.

「リトマスゴケ」は日本には自生していません。一方,「サルオガセ」は我が国でも比較的標高の高い所で見受けられます。残念ながら大磯では高い山がないので確認の記録はありません。「サルオガセ」の写真はブログ・イーハトーブ・ガーデンで見ることができます(Nenemu8921,2011)。「サルオガセ」は,青白くトロロコンブや仙人の鬚(ひげ)のような形をしていて巨木などの枝に垂れ下がっています。霧などの空気中の水分を強力に吸い取る作用があるので,よく観察するとポタポタと水音が周囲に響くほど水を滴らせていると言われています。「サルオガセ」は,乾燥させて枕のソバガラの代わりに使うとリラックス効果があるということで古くから使われているとありますが,一般の人にはなじみのない植物です。

 

1.北守将軍と三人兄弟の医者

賢治は,一般の人が関心を持たない植物でも自らの作品の中にさりげなく登場させます。『児童文学』(1931年)に発表した『北守将軍と三人兄弟の医者』という作品です。この作品の初期形で,賢治は「サルオガセ」という珍しい植物を登場させていますが,ストーリーも奇抜です。30年間戦場で戦うときも休むときも,一度も馬から降りなかった北守将軍の顔や手に「サルオガセ」がびっしりと付いてしまうというお話です。単に「サルオガセ」を将軍の顎鬚(あごひげ)のようなものとして登場させているのではなく,植物医師(リンポー先生)が巴図(はず)の粉を振りかけるとリトマス試験紙のように「サルオガセ」が赤く変色するというのです。

若いリンポー先生は,将軍の顔をひと目みてていねいに礼をした。

「ご病気はよくわかりました。すぐになほしてさしあげます。おい,巴図(はづ)の粉をもってこい。」

 すぐに黄いろなはづの粉を,一人の弟子がもってきた。リンポー先生はその粉をすっかり将軍の,顔から肩へふりかけて,それから大きなうちわをもって,パタバタバタバタ扇ぎだした。するとたちまちさるをがせはみんなまっ赤にかはってしまいぴかぴかひかって飛び出した。見てゐるうちに将軍はすっかりきれいにさっぱりした。将軍は気がせいせいして,三十年ぶり笑いだした。

(『北守将軍と三人兄弟の医者』 初期形 宮沢,1986)下線は引用者

 

巴図の粉とは,多分トウダイグサ科( Euphorbiaceae )の「巴豆」(はず; Croton tiglium L.)の種子から作られた黄色い粉のことだと思われます。現在では,ほとんど使われていないと思いますが,昔は果実を輸入して乾燥させた種子を下剤薬として使ったものです。「巴豆」の種子には,ハズ油を多く含みます。ハズ油の主成分であるクロトン酸は低分子化合物で水に可溶です。黄色い粉末を水に溶かせば,溶けた部分の溶液は酸性になると思います。

 

すなわち,水をたっぷり吸った青白い「サルオガセ」に,「巴豆」の粉を振りかければ「サルオガセ」が赤く変色することはあり得る話だということです。また,「巴豆」には皮膚刺激作用(多量では水泡形成)もあるため,実際に皮膚に「サルオガセ」がへばり付いたとしても容易に剥がすことが可能だったかもしれません。

 

賢治は,当時「サルオガセ」と「巴豆」について十分な知識も持っていたのでしょうか。賢治研究家で教師でもあった板谷英紀さんが著書の中で,大戦中リトマス試験紙が入手困難になったとき,その代用品として「ヨコワサルオガセ」が使われたということを記載しています(板谷,1988)。『北守将軍と三人兄弟の医者』という作品が書かれたのは大戦前ですから,賢治は「巴豆」に関する知識はあったにせよ,「サルオガセ」からリトマス試験紙が作られるということは知らなかったと思われます。ではなぜ,「サルオガセ」に「巴豆」の粉をかけると赤くなるということを知ったのでしょうか。もしかしたら,好奇心の強い賢治は,実際に実験して確認したのかもしれません。

 

もう1つ解らないことがあります。なぜ,植物医師のリンポー先生は,凱旋時に将軍の顎鬚のような「サルオガセ」を赤く変色させたのでしょうか。別の言葉で言い換えれば,なぜ「黄色」をした「巴豆」の粉で「赤く」したのでしょうか。多分,賢治は将軍や兵士がこれ以上戦場で戦うのを「止め」たかったからと思われます。これは,交通信号機と関係があると思います。童話が書かれる1年前の1930年に緑(青),黄,赤3色の自動式信号機が,日比谷交差点に設置されました。「黄」の次の「赤」は「止まれ」の合図です。実際に,将軍は王様の「大将たちの大将になってくれ」という要請を断り,郷里に帰って百姓になります。

 

「赤」で象徴される「止まれ」の合図を守らなかったのは,童話『よく利く薬とえらい薬』に登場する大三です。大三は,健康であるにも係わらず,体が健康になると言われている「透き通ったバラの実」を探しに森の中に入っていきます。カケスが大三の足下に「赤茶色」のクリの実の皮を落として,この先に「進むな」と合図します。大三は,これを無視して森の中へ進み,集めた不透明なバラの実(ノイバラの実)をにせ金造りの技術を使って透明にしてしまいます。しかし,大三が作ったのは毒薬の昇汞で,大三はそれを飲んで死んでしまいます。

 

一方,病気の母親のために「透き通ったバラの実」を探している清夫には,カケスは「青色」のドングリの実を落とします。清夫は,森の中に進み「透き通ったバラの実」を発見し母親の病気を治します。この「透き通ったバラの実」が何を意味しているかについては,本ブログ「植物から宮沢賢治の『よく利く薬とえらい薬』の謎を読み解く」で明らかにされているのでご覧ください(shimafukurou,2021)。

 

2.毒蛾

賢治がリトマス試験紙(液)を使っていろいろと実験していたことを窺わせる作品が他にもあります。『毒蛾』という作品です。内容は文部局巡回視学官の主人公がイーハトブへ出かけたとき,触れると皮膚炎を引起こす「ドクガ」という蛾の発生に遭遇したというものです。そして,大学を視察中に,「ドクガ」の毒針毛(作品の中では鱗粉と記載)中に含まれる成分をつきとめる実験現場に立ち会いました。

 校長が,みんなを呼ぼうとしたのを,私は手で止めて,そっとそのうしろに行って見ました。

やっぱり毒蛾の話です。多分毒蛾の鱗粉(りんぷん)を見てゐるのだと私は思ひました。

「中軸はあるにはありますね。」

「その中軸に,酸があるのぢゃないですか。」

「中軸が管になって,そこに酸があって,その先端が皮膚にささって,折れたときに酸が注ぎ込まれるといふんですか。それなら全く模型的ですがね。」

「しかしさうでないとも云へないでせう。たゞ中軸が管になってゐることと,その軸に酸が入ってゐることが,証明されないだけです。」

 (中略)

 青いリトマス液が新しいデックグラスに注がれました。

「顕著です。中軸だけが赤く変わってゐます。」その教授は云ひまいた。

「どれ拝見。」私もそれをのぞき込みました。

 全く槍(やり)のやうな形の,するどい鱗粉が,青色リトマスで一帯に青く染まって,その中に中軸だけが暗赤色に見えたのです。

(『毒蛾』 宮沢,1986) 

 

ここでも,毒針毛の毒の成分を赤で染めて危険なものであることを知らせています。

毒針毛は,ドクガの幼虫と成虫にあり,長さが100ミクロン前後で形は賢治が作品の中で記載しているように細長い槍のような形をしたものです。幼虫では,一匹で600万本くらいが体表に生えているそうです。触ると,容易に脱落し皮膚に付着します。現在でも,「ドクガ」の毒針毛に含まれる内容物の酸性度を測ってみようとしたり,文章にしようとしたりする人など大学の専門家以外にそう多くはいないと思います。

 

このように,賢治は人々から見向きもされないような植物あるいは毛嫌いされる動物を,さりげなく作品に取り上げていますが,賢治の豊富な知識と,鋭くそして科学的な観察力には驚かされます。

 

県立大磯城山公園には,サザンカ(町の木に指定),ツバキ,カンツバキ等のツバキ科の植物が多数植栽されています。このツバキ科の植物には「ドクガ」の仲間である「チャドクガ」が発生することがあります。「ドクガ」と同様に毒針毛を持ちこれに触れると皮膚炎を起こします。発生が確認されたら近づかないようご注意ください。もちろん,リトマス紙(液)で酸性度を測る必要などありません。

 

参考・引用文献

板谷英紀.1988.宮沢賢治と化学.裳華房.東京.

宮沢賢治.1986.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.東京.

Nenemu8921.2011(更新年).イーハトーブ・ガーデン 八千穂高原①サルオガセ.https://nenemu8921.exblog.jp/16637778/

重松聖二.2021.7.23.(調べた日付).植物色素のpHによる色の変化.https://center.esnet.ed.jp/uploads/06kenkyu/04_kiyou_No73/h18_22-02.pdf

Shimafukurou.2021(更新年).宮沢賢治と橄欖の森 植物から宮沢賢治の『よく利く薬とえらい薬』の謎を読み解く.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/05/05/182423

 

本稿は,『宮沢賢治に学ぶ 植物のこころ』(蒼天社 2004)年に収録されている報文「リトマス試験紙」を加筆・修正にしたものです。『北守将軍と三人兄弟の医師』と同様に反戦童話に分類されると思われるものに『烏の北斗七星』があります。興味ある方は,本ブログの「植物から宮沢賢治の『烏の北斗七星』の謎を読み解く」(2021.5.3)もご覧ください。