宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

植物から宮沢賢治の『よく利く薬とえらい薬』の謎を読み解く(1)

 -清夫が見つけた透き通ったばらの実の正体-

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はじめに 

『よく利く薬とえらい薬』は大正10年(1921)から11年(1922)頃に書かれたとされる短編童話である。この物語は主人公である親孝行の〈清夫〉と偽金使いの〈大三〉が「透き通ったばらの実」を探す物語である。〈清夫〉は森の中で「透き通ったばらの実」を発見し,それを口にすることで視力や聴力が著しく良くなるという体験をする。さらにそれを母親に飲ませると床に伏していた母親の病気までもが治ってしまった。一方,〈大三〉は食事量を減らせという医者の忠告を聞かずに食べ続けて「だるさ」を感じていた。そこで「だるさ」を無くしてさらに旨い物をたらふく食べたいと思っていた。〈清夫〉の話を聞いた〈大三〉は「だるさ」を「透き通ったばらの実」で治そうと考え,ばらの実を森に探しに行くが見つからない。そこで〈大三〉は森で見つけた「不透明なばらの実」にガラスと水銀と塩酸を混ぜて「透明なバラの実」を作ろうとするが,意に反して有毒な昇汞を作って命を落としてしまう。

 

賢治研究家の天沢退二郎は,『宮沢賢治全集5』の解説で,この童話を「賢治童話の中ではやや軽い作品である」と紹介している(宮沢,1985)。そのせいかどうかはわからないが,この童話を真正面から取り上げる賢治研究家もほとんどいない。

 

筆者は,薬学部出身なので,「薬」を扱ったこの童話には非常に興味をもった。しかし,難解な用語がないにもかかわらず,筆者にはこの童話の真意が理解できなかった。だから逆に軽い作品とも思えなかった。例えば,薬用になる植物の果実で「透き通ったもの」を見たこともないし,バラ科の植物の果実を1つ服用しただけで視力や聴力が著しく向上したり,床に臥せっていた病人が直ぐに回復したりという事例も知らないからである。だから,賢治が「ばらの実」の効力に対して医薬品まがいの誇大表示をするとは信じられなかった。筆者の直観であるが,この「透き通ったバラの実」は治療薬の「薬(medicine)」として登場しているのではないと思われた。「透き通ったばらの実」には何か他の深い意味が隠されているように感じた。すなわち,筆者にはこの物語も難解な童話の1つであった。

 

筆者は,多くの研究者に難解と評価されている童話『銀河鉄道の夜』を自分なりに解釈するに当たって,そこに登場する植物から沢山のヒントもらった(石井,2020)。賢治作品に登場する植物は,単に風景描写として配置されているのではない。意味が取りにくい文章に遭遇したとき,その近くに配置されている植物を調べることによって解決したこともある。作品中の植物には,登場する意味が付与されている。この物語には,植物として「ばらの実」以外に「葦」,「かやの木」,「唐檜」,「青いどんぐり」,「栗の木の皮」が登場する。

 

本稿の(1)と(2)では,童話『よく利く薬とえらい薬』や同時期の他の作品に登場する植物を念入りに調べることによって,〈清夫〉が見つけた「透き通ったばらの実」と〈大三〉が作ろうとした「透き通ったばらの実」の正体を明らかにし,(3)では宗教と科学に対する賢治の思想について考察し,(4)ではこの童話に教師時代の賢治の恋物語が〈清夫〉と〈よしきり〉の会話の中に挿入されていることを明らかにする。

 

1. 清夫が見つけた「透き通ったばらの実」の正体

1)ばらの実が「キイチゴ」である可能性について

主人公の清夫は,病気の母に「ばらの実」を食べさせたくて毎日のように森に行っていたので,「ばらの実」がなかなか見つからない。森のツグミ,フクロウ,カケス,ヨシキリから繰り返し「ばらの実まだありますか」という挨拶を受ける。そして,森の中のまっ黒なかやの木や唐檜に囲まれた「明地」(小さな円い緑の草原)の「縁」で不思議な「ばらの実」を見つける。 

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 〈清夫〉が森で見つけた「バラ」とはどんな植物であろうか。物語では見つかった場所がまっ黒なかやの木や唐檜で囲まれた小さな円い緑の草原の縁にあることと,その実が日の光で紫色に焦げるとしか記載されていない。野生の「バラ」は,我が国では「ノイバラ」( バラ科バラ属;Rosa multiflora Thunb. )が一般的であるが,賢治が「野ばら」と表現すると「ノイバラ」だけでなくバラ科キイチゴ属の「キイチゴ(木苺)」を示すことがある。

 

例えば,賢治の『春と修羅』の中の詩「習作」には,「野ばらが咲いてゐる 白い花/秋には熟したいちごにもなり/硝子のやうな実にもなる野ばらの花だ」(1922.5.14)とある。この「キイチゴ」は,我が国でごく普通に見られる「モミジイチゴ」(Rubus palmatus Thunb.var. coptophyllus ( A.Gray) Kuntze ex Koidz.))のようなものである。「モミジイチゴ」の果実は透き通ってはいないが球形で「ガラス」のように透明感のある茶色あるいはオレンジ色をしている。また,「キイチゴ」は日当たりの良い場所を好む。多分,〈清夫〉が「明地」で最初に見つけた「ばらの実」は「モミジイチゴ」あるいはその類縁種のような透明感のある「キイチゴ」と思われる。

 

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 では,〈清夫〉が「すっかりつかれてしまって,ぼんやり」した中で見た「透き通ったばらの実」とは何であろうか。透明感のある「キイチゴ」の中でも飛び抜けて透明度の高いものなのであろうか。〈清夫〉はこの「透き通ったばらの実」を口にすると体がブルブルッと震えてすがすがしい気分になる。また病気の母も回復してしまう。「透き通ったばらの実」の正体は,題名に「よく利く薬」とあるように「薬」と関係があるかもしれない。そこで,「キイチゴ」にどんな薬効が期待できるのか調べてみる。

 

2)「キイチゴ」や「透き通ったばらの実」は「よく利く薬」になるのか

キイチゴ」の実は糖分(ブドウ糖と果糖)を多く含み甘く食用になるが,「薬」としても利用されている。古くは中国の『名医別録』に「覆盆子(ふくぼんし)」として登場する。『名医別録』は,漢方医学の最重要古典の一つ『神農本草経』とほぼ同時代(1〜3世紀頃)に中国で作られた,『神農本草経』と並び称される薬物書である。

 

「覆盆子」はこの薬物書の上品に「味甘平無毒主気軽身令髪不白五月採」(味甘平,無毒。気を益し,身を軽くし,髪を白くしない。五月に採集する)と記載されていて,主として老人性疾患に補薬として用 いられてきた。例えば,強壮,強精薬として,遺精(無意識の状態での射精),遺尿(尿失禁),陽痿(勃起機能障害),昏花(目のかすみ)などに使われたという(難波ら,1986;民俗薬物データベース,2020)。「覆盆子」の基源は中国では主としてバラ科のゴショイチゴ(Rubus chingii HU)の未成熟果実であるとされているが,中国では,本種 以外にモミジイチゴ,トックリイチゴ(coreanus Miq.),朝鮮半島ではクマイチゴ(R crataegifolius Bunge)やナワシロイチゴRparvifolius L.)などの果実も使用するとされている(難波ら,1986)。我が国では,モミジイチゴ(別名キイチゴ),クマイチゴ,ナワシロイチゴは自生しているので,これら「キイチゴ」を食用以外に民間的に強壮薬として利用してきた(難波・御影,1982)。

 

東洋医学中国医学や漢方療法)では,病気は人体が本来持っていなければならないものが不足したときと,人体に本来あってはならないものが有余したときに発症するとされている。前者は虚証で後者は実証である。虚証に対しては不足したものを補う補法が,実証に対しては余分なものを取り除く瀉法が行われる(會川・岡部,1997)。

 

確かに,長らく床に臥せって虚弱体質(虚証)になっている者にブドウ糖や果糖などの糖類を豊富に含む果実は栄養補給になり体力を回復させる手助けになることは確かである。しかし,治療においては補助的なものである。民間薬でしかない「キイチゴ」に短時間で病気を治してしまう力はない。また,「キイチゴ」の透明度で薬効が異なるというエビデンスも報告されていない。だから,〈清夫〉が食生活に透明度の高い「キイチゴ」を加えただけで母の病気が治り「すっかりたっしゃになる」ということは考えにくい。

 

3)「効く」と「利く」の違い

 物語の題名は「よく利く薬とえらい薬」である。〈清夫〉の見つけた「透き通ったばらの実」は「よく利く薬」で,自分は「えらい」と思っている〈大三〉が作ろうとした「ばらの実」は「えらい薬」と思われる。

 

では,この「よく利く薬」の「利く」とはどういう意味であろうか。国語事典では,「利く」とは「能力を十分に発揮できる」,「機能が働く」あるいは「できる」という意味である。

 

一方,「効く」とは「効果が現れる」である。「透き通ったばらの実」が母親の病気を治すぐらいに優れた薬効を持っているなら「よく利く薬」ではなく「よく効く薬」とする必要がある。すなわち,「透き通ったばらの実」が「よく利く薬」であるなら,「透き通ったばらの実」は医薬品としての「薬(medicine)」ではない。では「透き通ったばらの実」とは何であるのか。

 

ヒントが物語の語り手の言葉の中に隠されている。語り手は,「ばらの実」について「その話はだんだんひろまりました。あっちでもこっちでも、その不思議なばらの実について評判してゐました。大かたそれは神様が清夫にお授けになったもんだらうといふのでした。」(下線は引用者)と語っている。すなわち,母の病気が治ったのは人間を「超越」した存在の仕業によるものかもしれないと記している。しかし,この物語には「神」のような存在についての直接的な手がかりはない。そこで,「キイチゴも実」が物語に登場する意味を解明することで,語り手の真意を検証してみたい。  

 

4)「透き通ったばらの実」は眼球のメタファー

茶色の「透き通ったバラの実」は,「まっ黒なかやの木や唐檜に囲まれ」た「小さな円い緑の草原の縁」で見つかる。「かやの木」は童話『どんぐりと山猫』にも登場する。この童話では「まっ黒な榧の木の森」で囲まれた金色の草地という不思議な空間で「どんぐり」の中で誰が一番「えらい」のかを決める裁判が行われる。「かやの木」はイチイ科の常緑針葉樹「カヤ(榧)」(Torreya nucifera (L.) Siebold et Zucc.)のことであろう。『新宮澤賢治語彙辞典』には,暗い「榧」の茂みは「神秘的で異界のシンボルのようである」と記載されている(原,1999)。

 

多分,暗い「唐檜」の茂みにも同じようなイメージがあると思われる。「唐檜」はマツ科の常緑針葉樹「ドイツトウヒ」(Picea abies (L.) Karst.)と思われる。ドイツの「黒い森」(シュヴァルツヴァルト)の主要樹種の1つである。賢治が大正6年(1917年)に作った歌稿には「わがうるはしき/ドイツとうひは/とり行きて/ケンタウル祭の聖木とせん」とある。賢治は「ドイツトウヒ」を神聖な樹木と見なしている。「かやの木」も「唐檜」も異界のシンボルとなる聖樹である。

すなわち,「まっ黒なかやの木や唐檜」に囲まれた場所は「異界」であるとともに「神聖」な場所として設定されているように思える。

 

また,茶色の「透き通ったばらの実」が「円い緑の草原の縁」にあることから,賢治がこの「ばらの実」を人体の「目」と関連付させていることも読み取れる(第1図)。針葉樹の「まっ黒なかやの木や唐檜」は「睫毛(まつげ)」に,「かやの木や唐檜」の脚もとにある茶色の実が成る「野ばらの茂み」は,「円い草原」の縁を形成しているので茶色い「虹彩」に対応している。森の中の「葦(あし)」が生えている小さな水溜まりにいる「よしきり」という鳥は,「さっきから一生けん命歌ってゐる」とあるように「泣いて」いる。この小さな水溜まりは瞼の鼻側の目頭のところにある涙点(涙の排出口)に繋がる「涙嚢」に対応する。また,「よしきり」はしきりに「林」の向こうの「沼」へ行こうとしているが,「林」を「睫毛」の比喩とすれば,その向こうの「沼」は上眼瞼の外側部(目尻)にある「涙腺」がイメージされている(第1図)。

 

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賢治にとって茶色で透明感のある「キイチゴの実」は,茶色な虹彩を持つ円い「聖」なる「眼(眼球)」がイメージされているように思える。

 

5)「透き通ったばらの実」はある女性の眼も連想させる

なぜ賢治は「キイチゴの実」や「透き通ったばらの実」を「眼」と関係付けさせたのか。それは,茶色な「キイチゴの実」が賢治に女性の「眼」を連想させるからである。賢治は,童話『よく利く薬とえらい薬』(1921~1922)を執筆していた頃に地元の女性と相思相愛の恋をしている(佐藤,1984;澤口,2018)。詩集『春と修羅』の「春光呪詛」はその恋人を詠ったものとされていて,その中に「いつたいそいつはなんのざまだ/どういふことかわかつてゐるか/髪がくろくてながく/しんとくちをつぐむ/ただそれつきりのことだ・・・/頬がうすあかく瞳の茶いろ/ただそれつきりのことだ」(下線は引用者)と,恋人の「瞳(虹彩)」の色が「茶色」だとする記載がある。「虹彩」の色を識別するには肌が触れ合うくらいに接近する必要がある。親密さが伺われる。日本人の「虹彩」の色は「焦げ茶色(濃い茶色)」,いわゆる「黒目」が多く,賢治にとって「茶色」は珍しかったのかもしれない。

 

賢治の羅須地人協会時代(1926年8月に設立)に使用した「MEMO FLORA」ノート32頁に「Tearful eye」(涙ぐむ目)という目(眼)を象(かたど)った花壇設計のスケッチ図(文字は英語)を残している(第2図;スケッチの模写図)。多分,この「涙ぐむ目」とは後述するが恋人の目がイメージされていると思われる。

 

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物を見るとき光は「虹彩」の内側にある瞳孔から眼球内に入って来る。光は透明な角膜,凸レンズ状の水晶体そして眼球内部の大部分を占める硝子体を通過して網膜の視細胞へ到達する。すなわち,「眼球」のほとんどの部分が無色透明である。賢治は,透明感のある茶色い「キイチゴの実」から頭に強烈に焼き付いている恋人の「眼球」が,またその逆である「眼球」から「キイチゴの実」が容易に連想できるのだと思われる。

 

さらに,幻臭などの幻覚を体験できる特異体質の賢治にとっては,茶色い眼の恋人を「気配」で感じただけでも「野ばら(キイチゴ)」の匂いを感じることができたかもしれない。恋人→茶色い虹彩の眼球→野ばら(キイチゴ)の実というイメージ連鎖は童話『銀河鉄道の夜』(第四次稿)の中で表現されている。以下の引用場面は,氷山と衝突して遭難したキリスト教徒の人達(青年,女の子,男の子)が銀河鉄道の列車に乗ってくるところである。〈女の子〉には賢治の恋人が投影されている(石井,2018)。

 

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多分,この『銀河鉄道の夜』に登場する「野茨」も「野ばら(キイチゴ)」のことであろう。すなわち,賢治は『銀河鉄道の夜』の主人公達が,「つやつやした赤いジャケツ」の〈男の子〉と「眼が茶いろ」の〈女の子〉が近づいていることを気配として感じ,赤い「苹果」や茶色い「野茨(実際は木苺)」の匂いを感じたという設定にしたように思える(石井,2013)。賢治が「野ばら」でなく「野茨」としたのは,キリストが処刑されたときの「茨の冠」をイメージしてのことかもしれない。「苹果」はキリスト教の原罪を象徴する。すなわち銀河鉄道の列車に乗ってくる人達はキリスト教徒であることも暗示している。多分,童話『よく利く薬とえらい薬』に登場する「野ばら」も宗教と関係があるのかもしれない。

 

6)エマソンの「透明な眼球」は普遍的な存在としての神である

19世紀米国の超越主義(transcendentalism)の創始者エマソン(Emerson,R.W.;1803~1882)の著書の中に「透明な眼球(transparent eye-ball)」についての記載がある。エマソンは,キリスト教という教派を「超越」して,何か宇宙全体を統括して支配する「神」のごとき存在を信じてそれを追求した思想家である。ヒンズー教や仏教などの東洋思想の影響を受けたとされる。賢治は中学3年(1911)頃からエマソン哲学書を読んでいて,彼の思想を通して「法華経」,「芸術」,「詩」などの理解を深めたとも言われている(時信,1992;秋田,2005;浜垣,2021)。

 

賢治の『農民芸術概論綱要』(1926年頃)にはエマソンが著書(「芸術論」)の中で述べた言葉がそのまま引用されている。1920年に翻訳されたエマソンの『自然論:附・エマソン詩集』で「透明な眼球」と「神」や「霊」について以下のように語っている。 

 

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筆者なりに要約してみる。人は「森の中」では社会組織によって強制された鬱陶しい人間関係から解放され,「理性と信仰」に立ち戻ることができる。そして,人は「卑しい自愛心(利己心)は消え失せ」て自分と「自然」の本来の姿を直観し得る「透明な眼球」となり,「普遍的な存在」の働きを自分の中に感じ,「私は神の一部である」と自覚するようになる。

 

 人は「森」を動物的な眼で見れば,そこに存在する者達の個々の「輪郭」や「表面」の属性から木,草,鳥,動物などと認識し新緑や紅葉が美しいと感じたりする。しかし,この「透明な眼球」,別な言葉で言えば「理性の眼」で「自然」を見れば「輪郭」や「表面」は消え失せて「透明」になり,今まで見えていた多種多様な存在の背後にある生成の「原因」(あるいは原理)としての「霊」が見えてくる。賢治の言葉を借りれば「ほんたうのこと」が見えたのであろう。

 

エマソンは人間を「自然」や宇宙を「統一」する巨大な霊である「大霊(Over-soul)」すなわち「普遍的な存在」である「神」とつなぐことができる存在と見なしていた。

 

7)賢治にとって普遍的な存在とはなにか 

エマソンが「透明な眼球」から人間を超越した力を持つ存在を自覚したように,賢治も不思議な宗教体験を持っている。賢治の弟の清六は,賢治が盛岡高等農林学校へ進学するための受験勉強をしていた頃(1914年秋,賢治18歳)の兄について,「賢治は,島地大等編纂の『漢和対照妙法蓮華経』にある「如来寿量品第十六」を読んで感動し,驚喜して身体がふるえて止まらず,この感激を後年ノートに「太陽昇る」と記していた」(下線は引用者)。と述べている(宮沢,1991)。下線部分は,〈清夫〉が「透き通ったばらの実」を口にしたときと同じである。

 

如来寿量品」には〈如来〉の寿命の長さは無限ということと,そのことを分かりやすく説明するための「良医治子の誓え」が記載されている。

 

この譬えの中に「良薬(よく効く薬)」(括弧内は坂本・岩本の訳)が登場する。「良医治子の誓え」とは,名医が「巧妙な手段(如来が入滅したという嘘と法華経を良薬と偽った嘘)」を使って毒を飲んで苦しんでいる子供達を「よく効く薬」で助ける話である。「学識があって賢明であり,あらゆる病気の治療に優れた手腕のある医者には,大勢の子供がいた。この名医が外国に行って留守の間に,子供達は毒のために苦しんでいた。そこに父親の医者が帰ってきて,直ちに「良く効く薬」を調合して与えた。子供達のうち,意識の転倒していない者は直ちにその薬を飲んで苦しみから解放されたが,毒が回って意識の転倒している子供は,「良く効く薬」を見ても疑って飲もうとしなかった。そこで名医は巧妙な手段を使って「我今衰老。死時已至。是好良薬。今留在此。汝可取服。勿憂不差。」(下線は引用者;私は老いて死期が近い。ここに良く効く薬を置いておくから飲みなさい。治らないと疑ってはいけない)と言い残して他国に行き,使者を遣わして「父は死んだ」と伝えさせた。意識の転倒していた子供達は,父の死を聞いて頼る人がいない身の上になったことを嘆き悲しみ,意識を取り戻し,ついに良く効く薬を飲んで苦しみから解放された。そこで良医は子供達が苦しみから解放されたことを知って,自分の姿を現した」(坂本・岩本,1967)という譬(喩)え話である。

 

「喩え」とあるので本意が隠されている。引用箇所の「是好良薬」とは「法華経」のことで「汝可取服」とは「南無妙法蓮華経」と題目を唱えることと言われている。日蓮宗の宗祖・日蓮の主著『観心本尊抄』には,「是好良薬」とは「寿量品の肝要たる名体宗用教の南無妙法蓮華経是なり」と記載されている。日蓮は「良薬」とは「南無妙法蓮華経」のことであり,「取服」とは「唱える」ことであると解釈した。

 

日蓮を信奉した賢治も「良薬」を「南無妙法蓮華経」のことだと理解していたと思う。ちなみに,「良医」とは「仏(如来)」で,「毒」で苦しむ子供達とは「衆生」である。また,「毒」とは三毒のことで,仏教において克服すべき最も根本的な三つの煩悩,すなわち「貪(とん)」・「瞋(じん)」・「癡(ち)」を指す。「貪」とは必要以上に求める心で,「瞋」は怒りの心で,「癡」は心理に対する無知の心である。

 

仏教では,これら三毒が人間の諸悪・苦しみの根源とされている。また,「巧妙な手段」とは如来が入滅したという嘘と法華経を良薬と偽った嘘のことである。すなわち,人間は煩悩を捨てきれずに苦しむ存在であり,いつでも如来の力を必要としている。人間が如来の寿命が永遠であると知ってしまうと怠惰になり信仰心が薄れてしまう。また法華経を勧めても,難解で多大な労力を必要とするからといって敬遠されてしまう。だから如来の寿命は永遠であるとしながらも入滅したと言ったり,良薬だからと嘘をついたりしたというのである。苦しい時には誰もがとは言わないが多くの者達は摂取するだけで楽になれる「薬」をほしがるものである。社会問題ともなっている麻薬や覚醒剤の薬物乱用はこれを物語っている。

 

すなわち,「如来寿量品」にある「良薬」は病気治療に使う「医薬品」のことではない。同様に,童話『よく利く薬とえらい薬』に登場する「透き通ったばらの実」も医薬品ではなく「法華経」の暗喩であろう。〈清夫〉は森の中の「明地」で宇宙の根源(あるいは真理)とされる「大日如来」の存在を感じ取ったのであろう。森の中で「大日如来」は信仰心を強く持っている〈清夫〉に「透き通ったばらの実(=法華経)」を見せて,これで母の苦しみを解放するように伝えた。そこで〈清夫〉は家に帰って「法華経」の「観世音菩薩普門品第二十五」を読経したのだと思う。

 

大日如来」は,曼荼羅図として有名な「胎蔵曼荼羅」の中心に配置されている。「大日」は「偉大なる太陽」という意味である。「大日如来」の化身とされるのが青い「不動明王」である。賢治は「あき地」を「明地」と「空地」の漢字を使って使い分けている。「明地」という造語はこの「明王」の「明」をヒントにしたのかもしれない。曼荼羅図で「大日如来」の周りには円を描くように8体の菩薩が配置されているが,その1体である「観世音菩薩」は身体が紫金色であるとされる。まっ黒なかやの木や唐檜に囲まれた「小さな円い緑の草原」の「縁」にある「お日さまで紫色に焦げたばらの実」を「胎蔵曼荼羅」に喩えれば,「明地」の「緑(青)の草原」は「青い明王」である「大日如来」で,「紫色に焦げたばらの実」は一切衆生を救済するとされる「観世音菩薩」である。この物語で〈清夫〉を菩薩になりたかった賢治とすれば,「母」イーハトーブの農民であろう。

 

以上のように〈清夫〉が幻影の中で見た「透き通ったばらの実」の正体は,童話『よく利く薬とえらい薬』や同時期の他の作品に登場する植物を読み解くことによって,「みんなのさいはひ」をもたらす手段としての「宗教」でありその「信仰」を手助けする「法華経」のことであることが明らかになった。次編では,〈大三〉が作ろうとした「透き通ったばらの実」の正体を明らかにする。(続く)

 

引用文献

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