宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

自分よりも他人の幸せを優先する宮沢賢治 (1)-性格形成に影響を及ぼした母の言葉- 

賢治は,自分よりも他人の幸せを優先するという性格を有している。この性格は幼い頃から持っていたようで,18歳で島地大等編纂の『漢和対照妙法蓮華経』を読んで感動し,やがて法華経の世界にのめり込んでいく。賢治は,法華経の教えを童話の形にした作品を数多く残した。例えば,『銀河鉄道の夜』(石井,2021a,b),『若い木霊』(石井,2021c),『よく利く薬とえらい薬』(石井,2021d),『マリヴロンと少女』などがある。また,『農民芸術概論綱要』の序論でも「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない・・・われらは世界のまことの幸福を索(もと)めよう 求道すでに道である」と記載している。また,東北の農民を救済するための菩薩行も実践した。

 

では,賢治の作品や菩薩行に影響を及ぼした他者を優先する性格はどのようにして形成されたのであろうか。性格形成において一番重要なのは産みの親である母(あるいは母の代理)との関係であり,大部分は幼少期に形成されるということが知られている。本稿(1)では,賢治が幼少期に母から聞いたとされる言葉,母を回想した賢治自身の手紙,そして残された多くの童話をもとに,賢治の自分よりも他人の幸せを優先する性格に導いた母の影響について考察する。次稿(2)では法華経との運命的な出会いとそれを読んで感動した理由を賢治の性格と結びつけて考察する。また,次次稿(3)では他者優先によって築いたものが賢治の言う蜃気楼にすぎなかったのかどうかについて考察する。

 

1.乳幼児期に母が語ったとされる言葉

幼かった頃の賢治と母・イチの関係を記載している資料はわずかしか残されていないが,賢治と母との関係は希薄なものであったように思える。賢治研究家の堀尾青史の作成した年譜(堀尾,1991;宮沢,2001)や賢治の親友である森 荘已池の賢治の家族からの聞き取り(森,1974)によれば,賢治の母・イチは慈母と伝えられていて,愛憐の情に充ち,自分の子だけでなく人々の幸せを祈り,変わらぬ明るさで人に接したという。しかし,病弱でもあり,次々に生まれる妹弟の世話,舅と姑の看病あるいは家業の手伝いに忙殺されていたともある。

 

例えば,イチが質・古着商の政次郎と結婚したころの話しだが,イチは口うるさい魚好きの舅の料理で,三枚におろして刺身と煮物にしてくれといわれても方法がわからず,実家に帰って母や魚屋に教わったりもしていた。親戚の者が,いつ来ても嫁の姿が見えないと笑っていたという。また舅は料理の皿数が少ないと小言も言っていたらしい。姑も体が弱く床についていて,店に良く買ってくれる上客がくると,座敷にあげてもてなす習わしなので,イチは台所仕事にも追われていた。

 

実際に幼い頃の賢治は,忙しい農家の乳幼児のようにオシメの交換が少なくて済む「嬰児籠(えじこ)」の中で育てられている。また,この時期に忙しい母親に代わって子守したのは,事情があってか婚家先から帰り豊沢町の宮沢家に同居していた父の姉・ヤギであり,賢治をひどく可愛がった。6歳の時,賢治は赤痢に罹り花巻の隔離病舎に2週間ほど入っている。このとき看病したのは父や祖母・キンの妹・ヤツであった。ヤツは話上手で賢治に昔話を聞かせたという。

 

また,イチは夫・政次郎にも従順な姿勢はみせていた。イチが子供,特に娘達に着物を作ってやりたいと訴えたが,政次郎は身を飾るより心を磨けと答えたという。多分,イチは政次郎に反論できなかったのであろう。忙しい体にむち打って養蚕に励み,繭を売り,あるいはつむぎ,その金で娘達に着物をととのえた。店で売る古着は農民たちのもので,町娘の着られるものではなかったのだという。結局,この労働と気苦労で,心臓病や神経痛に苦しむことになる。

 

母・イチが子供たちだけでなく,それ以外の人たちの世話も積極的に行うのは,イチの母・サメの影響だと言われている。サメもまた「姑に仕え,夫の弟妹の世話をし,七人の子を生み,まめまめしく働いた」という。性格は「生まれたままのようにうぶな,純な心をもち,仏心篤(あつ)く多くの人を助けた」という。

 

このように,賢治が幼かった頃の母・イチは家業の手伝いが忙しいとはいっても祖父,祖母あるいは妹や弟の世話を焼いていた。賢治は,寂しかったにちがいない。弟の清六がこの頃からの賢治について「表面陽気に見えながらも,実は何とも言えないほどの哀(かな)しいものを内に持っていたと思うのである。・・・兄は家族たちと一緒に食事をするときでさえ,何となく恥ずかしそうに,また恐縮したような格好で,物を噛むにもなるべく音をたてないようにした。また,前屈みにうつむいて歩く格好や,人より派手な服装をしようとしなかった」と語っている(宮沢,1991)。清六が使っている「哀しい」は「寂しい」「かわいそう」といったニュアンスが含まれていると思われる。

 

幼い頃の賢治は,慈母とされる母が厳格で気難しい父,祖父,祖母を押しのけてまでも常にそばにいて自分を守ってくれる存在とは感じていなかったように思われる。賢治は寂しかっただけでなく,「いじけ」や「ひがみ」の感情を持つようになっていたことは容易に想像がつく。

 

それでも,忙しかった母・イチは幼い頃の賢治を寝かしつけながら「ひとというものは,ひとのために何かしてあげるために生まれてきたのス」と毎晩のように語り聞かせたという。また,後年イチが,「どうして賢さんは,あんなに,ひとのことばかりして,自分のことはさっぱりしないひとになったベス」と深いなげきをこめて言ったときに,賢治の弟の清六が「なにして,そんなになったって言ったってお母さん,そう言って育てたのを忘れたのスか」と母の言葉に答え,二人で笑ってしまうのであった,というエピソードも残されている。

 

母の言葉とこれまでの述べた,賢治と母・イチの関係が事実あるいはそれに近いものだとすれば,母の「ひとというものは,ひとのために何かしてあげるために生まれてきたのス」という言葉は賢治に多大な影響を及ぼしたと思われる。母の言葉を実践しなければ母から愛されないばかりか母から見捨てられるという不安も感じたかもしれない。もし不安に感じていたなら,その不安が自分よりも他者を優先するという性格形成に影響を及ぼした可能性は大きい。

 

2.手紙に書かれてある賢治の母への思い

幼い頃の母の言葉が賢治に大きな影響を及ぼしたかもしれないということを裏付けるものが賢治の手紙の中にも記載されている(宮沢,1985)。

 

賢治は,大正7(1918)年1~2月頃に,盛岡高等農林学校を出てから自分の今後の生活,特に信仰生活についてどうするのか決めなければならなくなっていた。2月2日に父・政次郎あての手紙(封書)に母のことが記載されている。この手紙は厳格な父にあてたということもあり「候」を使う丁寧な文章になっている。

 

引用文A

・・・・・さて母上とては尚祖父様祖母様の御看病を始め随分と御苦労され,如何にもしても少し明るくゆっくりしたる暇をも作り上げ申さんと,中学一年の時より之を忘れたる事は御座なく候へども,何か言へばみな母上を困らすような事のみにて何とも何とも自分の癖の悪くひがみ勝ちになるには呆れ奉(たつまつ)り候

・・・・願はくば誠に私の信ずる所正しきか否や皆々様にて御判断下され得る様致したく先ずは自ら勉励して法華経の心をも悟り奉り働きて自らの衣食をも得られるようにし,進みては人々にも教え又ほどこし若し財を得て志那印度にもこの経を広め奉るならば誠に誠に父上母上を初め天子様,皆々様の御恩をも報じ折角御迷惑をかけたる幾分の償(つぐない)をも致すことと存じ候

 

引用文Aで,賢治は母が祖父や祖母の世話で大変だった幼い頃のことを述懐している。中学生になった頃から母に楽をしてもらうことを心がけていたが,「ひがみがち」にもなり,逆に母を困らせるようなこともしてしまったということが記載されている。また,自ら勉強して法華経の心を悟り働いて自活できるようになったら,蓄財して,母への償いのために法華経の教えを中国や印度に広めたいとも言っている。

 

引用文Aには,母を困らせたとあるがどのように困らせたかについて記載はない。「ひがみがち」とあるから,自分はあまり構ってもらえなかったという思いによるのかもしれない。時期が異なるが,賢治が農学校を退職したあと実家を離れて「桜」で暮らすようになったときのエピソードとして次のようなものがある。賢治が「桜」で暮らすようになってから,食べるものも食べないで畑仕事に精を出しているのを心配して,母が娘のクニ(賢治の妹)に「ひっつみ」(スイトンのようなもの)をもたせてやったが,賢治は「置いていっても食わねえんがな」と言ったという。泣きながら持ち帰ったクニを見かねて,母は「桜」を訪れ「せっかく食べさせたいと思ってこさえたもンだから,よこしたら,だまって食べてござい」と言ったという。すると,賢治は「ひっつみかえしてから,俺もないたンすじゃ。かえされたひっつみを見て,お母さんは,きっと泣くだろうと思って,クニ子をかえしてから,お母さんよりも,オレの方がもっとうんと泣いたンすじゃ」と答えたという(宮沢,1991)。賢治の母への屈折した愛情表現を伺わせるエピソードである。多分,賢治は母に対して素直になれず母を困らせることを繰り返したのだと思う。

 

大正7(1918)年6月20日前後の親友である保阪嘉内あての手紙(封書)にも母のことが記載されている。これは,保阪の母が亡くなったという知らせを受けての手紙である。(引用文BとC)

 

引用文B

私の母は私を二十のときに持ちました。何から何までどこの母な人よりも私を育ててくれました。私の母は今年まで東京から向へ出たこともなく中風の祖母を三年も世話して呉れ又仝(とう)じ病気の祖父をも面倒して呉れました。そして居(い)て自分は肺を痛めて居るのです。私は自分で稼いだ御金でこの母親に伊勢詣がさせたいと永い間思ってゐました。けれども又私はかた意地な子供ですから何にでも逆らってばかり居ます。この母に私は何を酬いたらいゝのでせうか。それ処ではない。全体どうすればいゝのでせうか。(下線は引用者,以下同じ)

 

引用文C

私の家には一つの信仰が満ちてゐます。私はけれどもその信仰をあきたらず思ひます。勿体のない申し分ながらこの様な信仰はみんなの中に居る間だけです。早く自らの出離の道を明らめ,人をも導き自ら神力をも具(そな)へ人を法楽に入らしめる。それより外に私には私の母に対する道がありません。それですから不孝の事ですが私は妻を貰って母を安心させ又母の劬労(くろう)を軽くすると云ふ事を致しません。

 

引用文Bは,引用文Aの手紙内容とほぼ同じで,母がとても苦労をしていたということが記載されている。また,引用文Aで「ひがみがち」で「困らせる」と表現しているところとを,引用文Bでは「かた意地」なので「逆らう」と表現している。同じ意味だと思われる。引用文Cでは,母の苦労に酬いるために自分がなすべきことが明確に記載されている。それは,母と伊勢詣に行くことでも,妻も娶って母の苦労を軽減させることでもない。「ひとのために何かしてあげる」ことである。具体的には,手紙に「出離の道」とあるように仏門に入ることである。しかし,仏門に入るといっても,宮沢家が信仰する浄土真宗ではなく引用文Aにあるように法華経に帰依することである。

 

父・政次郎は浄土真宗の熱心な信徒で,花巻仏教会などを組織して講習会や勉強会などを開催していた。賢治も家に居るときは浄土真宗の信徒であることを装っていた。しかし,この手紙では,これからは父の意に反して法華経教徒として生きていくと強く主張している。

 

3.童話の中の母と子の物語

賢治が書いた童話の中にもイチと賢治が投影された母と子が登場する。『よく利く薬とえらい薬』は大正10(1921)年から11年頃に書かれたとされる短編童話である。

 

この童話は,賢治が投影されている主人公の清夫が「森」の中で不思議な「透き通ったばらの実」を探す物語であるが,読み手にそれが何を意味しているのか読み解かせる物語でもある。清夫は「森」の中で「透き通ったばらの実」を見つけて口にすると体がブルブルッと震えてすがすがしい気分になる。また,それを持ち帰って病気の母に食べさせると母の病気が回復してしまう。

 

バラの実がノイバラの実あるいはキイチゴとしても,これらバラの実を食べたからと言って病気の母が回復するとは思えない。清夫がこの「透き通ったばらの実」に触れると「ブルブルッと震えてすがすがしい気分になる」が,この記載は賢治が3~4年前に「法華経」の「如来寿量品第十六」を読んで感動し,驚喜して身体がふるえてしまったという実体験に基づいているように思える。すなわち,このバラの実の正体は,食用にするキイチゴなどのバラの実ではなく「みんなの幸い」をもたらす手段としての「宗教」でありその「信仰」を手助けする「法華経」のことであろう。

 

賢治の母との関係は童話『銀河鉄道の夜』(大正から昭和にかけての作品)でも取り上げられているように思える。この童話には主人公であるジョバンニの親友であり,賢治自身が投影されているカムパネルラという少年が登場する。銀河の祭の日に,カムパネルラは級友たちと一緒に「烏瓜の明かり」(流し燈籠のようなもの)を川に流しに行くが,誤って川に落ちた級友を助けようとして溺れてしまう。川に溺れ瀕死の状態でいるカムパネルラは,このとき走馬灯とも言われる溺死した者や交通事故死した者が体験するような夢をみる。この夢にはジョバンニも登場してくる。夢の中で二人は銀河鉄道の列車に乗って北十字(白鳥座)から南十字に向かって旅をする。旅が始まろうとした頃,カムパネルラは親孝行も満足に出来ずに母よりも先に死んでしまうことの自責の念ともとれる悲しい思いをジョバンニに表白する。

 

引用文D 

「おっかさんは,ぼくをゆるして下さるだらうか。」

いきなり,カムパネルラが,思い切ったといふやうに,少しどもりながら,急(せ)きこんで云ひました。

ジョバンニは,(あゝ,さうだ,ぼくのおっかさんは,あの遠い一つのちりのやうに見える橙いろの三角標のあたりにいらっしゃって,いまぼくのことを考へてゐるんだった。)と思ひながら,ぼんやりしてだまってゐました。

ぼくはおっかさんが,ほんたうに幸(さいはひ)になるなら,どんなことでもする。けれども,いったいどんなことが,おっかさんのいちばんの幸なんだらう。」カムパネルラは,なんだか,泣きだしたいのを,一生けん命こらへてゐるやうでした。

「きみのおっかさんは,なんにもひどいことないじゃないの。」ジョバンニはびっくりして叫びました。

「ぼくわからない。けれども,誰だって,ほんたうにいいことをしたら,いちばん幸なんだねえ。だから,おっかさん,ぼくをゆるして下さると思ふ。」カムパネルラは,なにかほんたうに決心してゐるやうに見えました。

(『銀河鉄道の夜』第四次稿)宮沢,1985

 

引用文Dの下線部分の語句は引用文Bの手紙に記載された下線部分の「この母に私は何を酬いたらいゝのでせうか。それ処ではない。全体どうすればいゝのでせうか。」に対応していると思われる。引用文Dから読み取れる母の求めたものは,母が「ほんたうに幸(さいはひ)になる」ものであり,それは「ほんたうにいいことを」することである。カムパネルラにとって,そのためなら「どんなことでもする」という最上の「ほんたうにいいこと」とは何であろうか。多分,それは自分を犠牲にしてでも他者を救うということであろう。これは,賢治の母の言葉「ひとというものは,ひとのために何かしてあげるために生まれてきたのス」に通じるものがある。

 

カムパネルラは,級友のザネリが烏瓜の明かりを川に流そうとして川に落ちた時に,すばやく川に飛び込んで助けた。自分よりも「他人の幸せを優先」したことで自らは川の底に沈んだ。カムパネルラのとった自己犠牲の行動は,彼にとって「ほんたうにいいこと」なのだと信じられている。また,カムパネルラは,自分が早く死んでしまって母を悲しませるようなことをしたが,「他人の幸せ」のためにやった行為ということで母から許されると信じた。賢治もまた,カムパネルラが実行した行動を母・イチが自分に望んでいたものであると信じている。

 

このように,賢治が幼い頃に聞いた母の「ひとというものは,ひとのために何かしてあげるために生まれてきたのス」という言葉は賢治の性格形成と深く関わっていると思われる。(続く)

 

参考にしたブログと引用文献など

石井竹夫.2021a.宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』-仏教と異界の入口の植物-https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/06/17/103821

石井竹夫。2021b.宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』-リンドウの花と母への強い思い-https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/06/13/085221

石井竹夫.2021c.宮沢賢治の『若い木霊』(4)-鴾の火と法華経・如来寿量品の関係について- https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/09/16/061200

石井竹夫.2021d.植物から宮沢賢治の『よく利く薬とえらい薬』の謎を読み解く(1) https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/05/05/182423

堀尾青史.1991.年譜宮澤賢治伝.中央公論社.

宮沢賢治.1985.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.

宮沢賢治.2001.新校本宮澤賢治全集第十六(下)補遺・資料 年譜篇.筑摩書房.

宮沢清六.1991.兄のトランク.筑摩書房.

森 荘己池. 1974.宮沢賢治の肖像.津軽書房.