宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

植物から『銀河鉄道の夜』の謎を読み解く(総集編Ⅴ)-なぜカムパネルラは自分を犠牲にしてザネリを救ったのか-

Keywords: 赤い腕木の電信柱,文学と植物のかかわり,蝦夷,ヒバ,薤露青(かいろせい),鬼神,くじら,まっくらな巨きなもの,澪標(みおつくし),石炭袋

 

本稿では,総集編Ⅲと総集編Ⅳに引き続き植物によって解き明かされた難解な用語について総説する。

 

1.くじら,まっくらな島,巨きな黒い野原,石炭袋(空の穴)

1)先住民の共同体意識

「先住民」を暗に示す言葉として『銀河鉄道の夜』では「橄欖の森(エミシの森)」を通過するときに<女の子>とカムパネルラの会話の中に出てくる「くじら」(第一次稿と第二次稿)がある。また「先住民」が「移住者」に示す「疑い」や「反感」・「憎悪」の共同体意識は,渡り鳥の信号手のいる「まっくらな島」(第一次~第四次稿),インディアンが登場してくる「巨きな黒い野原」そして最終章の「そらの穴(石炭袋)」(第一次~第四次稿;石炭袋は天文学的には暗黒星雲のことである)として表現されている。

 

詩集『春と修羅 詩稿補遺』の「境内」にある賢治がどうしても動かすことができなかった「まっくらな巨きなもの」(石井,2018b),童話『双子の星』で双子が箒星(空のくじら)によって落とされた「天の川の落ち口」(石井,2019b),あるいは童話『ガドルフの百合』の「巨きなまっ黒な家」も同様な意味で使われていると思われる。

 

この「先住民」の示す共同体意識(共同幻想)に対して「先住民」と「移住者」は異なった対応をする。『銀河鉄道の夜』の「そらの穴」が出てくる場面で,「先住民」側のジョバンニは,「そっちを見てまるでぎくっと」としてしまうが,「移住者」側と思われるカムパネルラは,「少しそっちを避けるやうにしながら」指さす。すなわち,「移住者」の末裔である賢治は,この「まっくらな巨きなもの」と対決せずに避けているように思われる。

 

賢治のこの「まっくらな巨きなもの」を避ける理由は,「先住民」に対する「嫌悪(あるいは蔑視)」と「恐怖」である。山形県の農村で暮らしたことのあるノンフィクション作家の吉田(2002)も,賢治には「明日なき絶望のために酒を飲んではクダを巻く荒廃農民や小作人の堕落と腐敗への嫌悪と恐怖」があり「足が一歩も花巻の村々の奥に進まない」と言っている。吉田はこの「まっくらな巨きなもの」に相当する言葉として,賢治の「嫌悪」と「恐怖」が地主と小作の階級対立から生まれたものとみなして「封建的暗黒」という言葉を使っている。

 

しかし,賢治の「先住民」に対する「嫌悪」と「恐怖」は,階級対立だけから生じたのではない。宮沢一族は,賢治の父親を含め地域財閥の大地主であるが,京都出身(公家侍)の「移住者」の末裔である。著者は,「東北」に在住していた「先住民(アイヌあるいはエミシ)」の末裔達と彼らを恐れる京都に都を置いた大和朝廷から続く歴代の中央政権との歴史的対立も大きな要因の1つと考えている。

 

この「先住民」に対する「嫌悪」は,第一次稿と第二次稿ではカムパネルラに言わせた「くじらはけだもの」,あるいは第四次稿では後述する活版所で技術者達の「冷たい笑い」で表現されている(石井,2019b)。古代の大和朝廷側の人達が「東北」の「蝦夷(エミシ)」を「毛人」と記して「エミシ」と呼んだこともある。

 

「恐怖」の感情と思われるものは,賢治が制作した詩の中で表現されている。賢治は,1924年の夏に開催された農学校の『種山が原の夜』という劇で,「楢(なら)の樹霊」,「樺(かば)の樹霊」,「柏の樹霊」,「雷神」という「先住民」が信仰する土着の神々を「卑賤(ひせん)の神」のつもりで「滑稽(こっけい)」に,あるいは「笑い」の対象として舞台に移し登場させたことがあった。この後,賢治が青年会に招かれて農事講和(山を切り崩しその石灰岩末で酸性土壌を改良する話)をしたときに,聴衆の老いた権威者(組合のリーダー格)から「あざけるやうなうつろな声で」,「祀られざるも神には神の身土がある」と批判されてしまう。

 

これは,祭祀されていない山や土や樹木にも,神としての身と座(いま)す場所があるという意味である。この時の感情表現として,未定稿詩〔夜の湿気と風がさびしくいりまじり〕(1924.10.5)では,「わたくしは神々の名を録したことから/はげしく寒くふるえてゐる」(下線部は引用者による)と「農民(先住民)」に対する「恐怖」で震えている様子が描かれている(石井,2019b)。

 

2)鬼神

当時賢治と交流のあった森(1979)は,詩集『春と修羅』刊行の頃(1924)にこの「まっくらな巨きなもの」と関係すると思われる「鬼神」(卑賤の神)の話を賢治から直接聞いている。賢治が近隣の町から山道を通って帰途中に雨に降られ,あわててトラックの荷台に乗せてもらったが,高熱を出してしまう。このとき,うなされて夢うつつになった賢治は「小さな真赤な肌のいろをした鬼の子のような小人のような奴らが,わいわい口々に何か云いながら,さかんにトラックを谷間に落とそうとしている」幻覚を見たというのである。また,学校劇で「雷神」を演じた生徒が翌日に他の生徒のスパイクで負傷したという話も聞いている。

 

前者は,童話『双子の星』の箒星(空のくじら)によって双子星であるチュンセ童子とポウセ童子が「天の川の落ち口」に落とされる話と似ている(石井,2019b)。このとき二人はどこまでも一緒に落ちようとした。チュンセ童子には賢治が,ポウセ童子には恋人が投影されていると思われる(石井,2019a)。

 

森(1979)は,大正14年(1925)の秋に農学校で賢治から「鬼神の中にも,非常にたちのよくない<土神>がありましてねえ。よく村の人などに仇(悪戯とか復讐とかをひっくるめていうことば)をして困りますよ」という話も聞いている。この話は,ドイツ製の望遠鏡を自慢する南からきた<きつね>(移住者)が「先住民」の女性を比喩する<樺の木>に恋をするという寓話『土神ときつね』(1922年後半~1923年中の作品)を彷彿させる。沼地の祠に住む悪戯好きの「先住民」の神である<土神>が,<きつね>と<樺の木>の恋に嫉妬して,<きつね>を「地べたに投げつけてぐちゃぐちゃ四五へん踏みつけて」殺してしまうという物語である。<きつね>には賢治が,<樺の木>には恋人が投影されていると思われる(石井,2018a,2019a)。

 

詩集『春と修羅 第二集』の詩〔日はトパースのかけらをそゝぎ〕(1924.5.18)には,破局後に賢治が花巻近郊の「アイヌ塚」(現在は「蝦夷塚」)と呼ばれた塚の1本の「スギ」の傍に立ったとき,「おまへはなぜ立ってゐるのか/(杉と並んで)立ってゐてはいけない(括弧内は引用者による)」と声が聞こえたとか,沼の面から「アイヌ」の「鬼神」が覗くといった幻覚を体験したことが描かれている(石井,2018a)。

 

また,詩集『春と修羅』の中の「原体剣舞連(mental sketch modified)」(1922.8.31)には,平安時代に平泉近くの達谷窟を拠点に構えた「蝦夷(エミシ)」の首長・悪路王が京都に都を置く中央政権の軍隊に屈服される様子が描かれている。「蝦夷(エミシ)」は大和朝廷により征伐されるべき「鬼」とされた。踊り子達によって一夜中繰り広げられる剣舞は,「四方の夜の鬼神」(屈服された者達の亡霊)をまねくことになる(石井,2016d)。一夜中剣舞を舞い続けるのは,「鬼神」や亡霊の怒りを鎮めるためともいう。

 

しかし,賢治の幻覚の中に「鬼神」が出現するのは,賢治自身が「恋人」あるいは「先住民」の怒りを身体で感じているからであろう。賢治は,先住民達の深層意識の中にある「まっくらな巨きなもの」を恐れている。

 

宮沢家にとって,「鬼神」の話をすることは「タブー」であったという(森,1979;桑原,2001)。

 

2.ヒバのある家に住むザネリ

(カムパネルラはなぜ自分を犠牲にしてザネリを救ったのか)

物語の第四次稿で登場する「えりの尖ったシャツ」を着ているザネリは,「ヒバ」が植えられている家に住んでいて,「らっこの上着が来るよ」と言ってジョバンニを「いじめ」の対象にする。「ヒバ」はヒノキ科の常緑高木で,ネズコ属,アスナロ属の全ての変種を含めた総称であるが,「走るときはまるで鼠のやうなくせに」とジョバンニに言わせているので,材が鼠色に近い陰樹の「ネズコ」(ヒノキ科;Thuja standishii Car.),あるいは葉が「尖っている」ので葉を鼠の通り道に置いて鼠を通れなくするのに使う別名がネズミサシの「ネズ」(ヒノキ科;Juniperus rigida Sieb.et Zucc.)であろう。「ネズコ」も,「スギ」と同様に在来種である(石井,2013c,2019b)。

 

「東北」にかつて住んでいた「先住民」は,最後まで農耕文化を拒否し大和朝廷に抵抗した「まつろわぬ民」としての「蝦夷(エミシ)」以外に「俘囚(フシュウ)」と呼ばれた人達がいた。「俘囚」は7世紀から9世紀まで断続的に続いた朝廷と「蝦夷(エミシ)」の戦争の過程で,朝廷へ帰属した「蝦夷(エミシ)」につけられた名称である。

 

ジョバンニは純粋に「先住民(狩猟民)」の子孫を親に持つ子供として設定されているが,ザネリはジョバンニよりは経済的に恵まれた,多分農耕を受け入れた「俘囚」と呼ばれた「先住民(農民)」の子孫を親に持つ子供というイメージが付与されていると思われる。すでに,賢治研究家の廣瀬(2019)は,ザネリの名が「イネ(稲)」とイネの学名(属名)である「オリザ」を連想させるとして,ザネリを稲作農家の子供と推測していた。すなわち,ザネリとジョバンニが登場する場面は先住民同士の対立が描かれているように思われる(石井,2019b)。

 

賢治の創作メモに「カムパネルラ,ザネリを救はんとして溺る」というのがあるが,実際には第四次稿(1931年以降)で反映させている。なぜカムパネルラは自己を犠牲にしてまでザネリを救ったのか。この答えとなるのが同時期に制作された童話『グスコーブドリの伝記』(1932年執筆とあるが先駆形は1931年)と賢治の仕事にある。

 

前者の童話は,自分を犠牲にして火山島を爆発させて気温を上げて農民を冷害から救うという話である。後者の仕事は,賢治の健康が回復しつつあった昭和4〜5年(1929 ~1930)に,偶然にも北上山系の南にある一関市東山町にある東北砕石工場の鈴木東蔵に出会い,1931年の2月に東北砕石工場の嘱託技師になったことである。

 

鈴木は「石灰岩」とカリ肥料を加えた安価な合成肥料の販売を計画していて,「東北」の酸性土壌の大地を「石灰岩末」で中和することを夢みていた賢治はそれに賛同する。賢治は「石灰岩末」を農民にもわかりやすくするため肥料用の「炭酸石灰」と命名している。賢治は,製品の改良,広告文の作成,重い製品見本をトランクに詰めての製品の注文取りと販売など東奔西走するが,この仕事は賢治の病弱な体には荷が重すぎていたようで,また高熱で倒れ病臥生活に戻ってしまう。昭和6年9月27日に賢治は父に「もう私は終わります」と電話したという(原,1999)。賢治はこの後,健康が回復することはなく2年後に世を去る。 

 

カムパネルラに賢治自身が,またザネリに「先住民」の子孫の農民が投影されているとすれば,賢治は「先住民」に「嫌悪」と「恐怖」を感じながらも第四次稿執筆の時点では,自分を犠牲にしてでも「先住民」の農民を救うという決意を示したことになる。「石灰岩末」に「ウミサソリ」の化石が含まれることがあるということと,賢治が高熱で倒れたことを考えると,賢治自身が法華経の「薬王菩薩本事品第二十三」の「焼身供養」を象徴する「蝎の火」(一切衆生憙見菩薩)になったのである。 

 

この決意には伏線がある。詩集『春と修羅』の「雲とはんのき」(1923.8.31)に「(ひのきのひらめく六月に/おまへが刻んだその線は/やがてどんな重荷になつて/おまへに男らしい償ひを強ひるかわからない)/手宮文字です 手宮文字です」(下線部は引用者による)という詩句がある。

 

「手宮文字」とは,北海道小樽市の洞窟遺跡に「先住民」が刻んだ線刻で,これが文字なのか彫刻なのか謎とされているものである。多分,このとき賢治は,破局した恋人に対して何らかの決心をせまられていたと思われる(澤口,2010;石井,2018a)。すなわち,創作メモに「カムパネルラ,ザネリを救はんとして溺る」と記したのは,1つには破局して米国へ行ってしまった恋人への「男らしい償ひ」を実践しようとしたからかもしれない。詩「雲とはんのき」の最後は「わたくしはたったひとり/つぎからつぎと冷たいあやしい幻想を抱きながら/一挺のかなづちを持って/南の方へ石灰岩のいい層を/さがしに行かなければなりません」(下線部は引用者による)という詩句で終わる。

 

そして,恋人の死(1927年),羅須地人協会の活動(1926~1927)の挫折を経験したのち,健康の回復と1931年に東北砕石工場の嘱託技師になったのを機会に,イーハトーブに暮らす沢山の農民を救うための捨て身の菩薩行を開始したと思われる。童話ではカムパネルラ(賢治)はジョバンニ(恋人)の「どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行かう」という願いには応えることはできなかったが,川に落ちたザネリ(痩せた土地で冷害に苦しむ「先住民」の農民)を自らの命と引き換えに救出しようとした。 

 

賢治は,「先住民」が示す「まっくらな巨きなもの」の中に突入する勇気はなかったが,先住民側に立とうとしたのである。活動最盛期に当たるときに詠んだ文語詩未定稿〔せなうち痛み息熱く〕(1931年頃)の下書稿には,当時の賢治の心境が克明に描かれている。痛みや熱を押しての訪問販売を終えて帰宅しようとした午後の一関駅辺りの待合室の風景描写である。下書稿の一部には「営利卑賤の徒にまじり/十貫二十五銭にて/いかんぞ工場立たんなど/よごれしカフスぐたぐたの/外套を着て物思ふ/わが姿こそあはれなれ」とある。ここでは,「よごれしカフスぐたぐたの外套」を着て,製品である「炭酸石灰」を十貫二十五銭で売っては商売が成り立たないなどと思案している賢治の姿がある。そして,そのような自分を「わが姿こそあわれなれ」と表現している。

 

「営利卑賤の徒」とは,詩ノートの〔わたくしどもは〕(1927.6.1)の仮想の妻が,夫が美しいという理由から二十銭で買った花を二円で売った話にも通じるが,かつては賢治自身が忌み嫌っていた生活者(営利卑賤の徒)の金銭感覚がいつのまにか自分自身にも身についてしまったというのである。しかし,自分自身が「哀れ」なのだということを訴えているのではない。賢治はこのとき,恋人の側にやっと並んで立つことができたのだということを実感したのだと思う。 

 

3.寄り添うように見える2本の赤い腕木の電信柱

第一次~第四次稿でジョバンニが夢から覚める時に「丁度両方から腕を組んだ」ように見える「赤い腕木」の2本の「電信柱」が出現するが,この「電信柱」はアルファベットの「A」の字形の高圧送電線用の「電力柱」(「A柱」あるいは支柱をもつ単柱)である可能性が高い(第1図A;石井,2017c)。「電力柱」には「木柱」,「鉄筋コンクリート柱」,「鉄柱」があるが,『銀河鉄道の夜』の「電信柱」は「赤い腕木」とあるように木材の「腕木」が取り付けられるので「木柱」であろう。「木柱」の場合には,真っ直ぐに伸びるもので長さも10〜20mは必要で,また資材の入手が比較的容易であるものが求められる。

 

最も多く使われる木材の樹種はヒノキ科常緑針葉樹の「スギ」である。また,この「電力柱」には「碍子」を介して電線を支えるための「腕木」が取り付けられるが,この「腕木」に用いるのは,材が硬く「曲げ」と「割裂」に対する抵抗が大きい「ケヤキ」が用いられてきた。「腕木」(あるいは「碍子(がいし)」)が「赤い」のは高圧送電線用の「電力柱」であることを示す。この木で作られた高圧送電線用の「電力柱」は,物語(第四次稿)の最終章で「蠍の火」と一緒に登場する高圧送電線用の巨大な「鉄塔」をイメージできる「三角標」の原型である(第1図B)。賢治は,この「赤い腕木」の「高圧送電線用A柱」の列を実際に北上川にも隣接する石鳥谷駅近く,あるいは後で述べる賢治らがイギリス海岸と命名した北上川の川岸で見たと思われる(石井,2017c)。

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第1図.赤い腕木の電信柱(A)とスケールアップされた鉄塔のイメージ図 (B).

 

賢治は,「みんなのほんたうのさいはひ」をどこまでも一緒に求めていくはずであった死んだ妹のトシ,生き別れた親友の保阪嘉内あるいは破局したが相思相愛の恋人への思いを馳せながら,その果たせなかった願いを二人が寄り添うようにも見える「高圧送電線用A柱」(スケールアップしたのが「三角点」にもなる「送電鉄塔」)に乗せ,「みんなのほんたうのさいはひ」を求めるための「道標」の「三角標」(宗教や「近代科学」の象徴物としての「三角形」をした教会の尖塔や送電鉄塔)として表現したものと思われる。

 

1)三角形をした電信柱にこだわる理由

なぜ,賢治はアルファベットの「A」の字形や「三角形」の形状にこだわるのかというと,それは,特に相思相愛の恋人との思い出を想起させるからと思われる。賢治の詩集『春と修羅』の「アイルランド風」というメモ書きのある「島祠」の下書き稿(二)(1924.5.23)は,「うす日の底の三稜島は」から始まり,「そこが島でもなかったとき/そこが陸でもなかったとき/鱗をつけたやさしい妻と/かつてあすこにわたくしは居た」で終わる。これは,賢治が遠い昔,海の底で「鱗」をつけた妻(仕事で手が「鱗」のように荒れていた恋人を人魚と表現した)と一緒だったかもしれないという歌である。

 

この詩の最初に出てくる「三稜島」は,架空の島で最初の下書き稿(一)では「三角島」となっている。賢治研究家の浜垣(2019)によれば,「三稜島」のモデルになった島は,陸奥湾(青森県下北半島,夏泊半島,津軽半島に囲まれた湾)に浮かぶ「三角形」の形をした「湯の島」のことだという。最近,賢治研究家の米地(2019)が,相思相愛の二人の逢瀬の場所の1つとして青森の浅虫温泉をあげて,沖に浮かぶ「三角形」の「湯の島」は二人にとって懐かしい景観だったと推測している。

 

著者はまた,高圧送電線用の「A」の字形の「電信柱」が近くにあるイギリス海岸の青白い泥岩が露出した北上川の川岸も二人の逢瀬の場所の1つと思っている。

 

随筆風の童話『イギリス海岸』では,夏休みの農場実習の間に「私どもがイギリス海岸とあだ名をつけてよく遊びに行った」とある。この文章の「私どもは」という表現は,詩ノートの詩〔わたくしどもは〕の「わたくしどもは/ちゃうど一年いっしょに暮らしました」という詩句を思い起こさせる。ただし,地元ということもあり,二人が寄り添うということはなく,この童話に記載されている語句を借りれば「その南のはじに立ちますと,北のはづれに居る人は,小指の先よりもっと小さく見えました」(「南」は賢治、「北」と「小指」は恋人の比喩)という距離感であったと思われる。

 

2)澪標は電信柱の川面に映った影
 詩「薤露青」は,「みをつくしの列をなつかしくうかべ/薤露青の聖らかな空明のなかを/たえずさびしく湧き鳴りながら/よもすがら南十字へながれる水よ」という美しい詩句で始まる。「みをつくし(澪標)」は逆三角形(あるいは恋人の名の頭文字「Y」の字の形)の板を棒の上につけて水深を示した航路標識のことを言うが,この詩の中の「みをつくしの列」は,「電信柱」である「高圧送電線用A柱」の列が「逆さ富士」のように上下反転した形で川面に映し出された影と思われる。 

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第2図.Aはニラの葉についた露.Bはその拡大図.

 

「薤露」はニラの葉についた露で人命のはかなきことを意味するが,第2図のように実際の「薤露」をみると,葉の表面にある白い無数の小さな気孔が凸レンズ状になった露で拡大され,楕円あるいは三角形の無数の星にも見え,あたかも望遠鏡で銀河宇宙の覗いたようにも錯覚する。また,「空明」は清らかな水に映る「月影」あるいは「空中」という意味である。詩「薤露青」の全文を記載する。

166  薤露青 1924.7.17

みをつくしの列をなつかしくうかべ

薤露青の聖らかな空明のなかを

たえずさびしく湧き鳴りながら

よもすがら南十字へながれる水よ

岸のまっくろなくるみばやしのなかでは

いま膨大なわかちがたい夜の呼吸から

銀の分子が析出される

   ……みをつくしの影はうつくしく水にうつり

      プリオシンコーストに反射して崩れてくる波は

     ときどきかすかな燐光をなげる……

橋板や空がいきなりいままた明るくなるのは

この旱天のどこからかくるいなびかりらしい

水よわたくしの胸いっぱいの

やり場所のないかなしさを

はるかなマヂェランの星雲へとゞけてくれ

そこには赤いいさり火がゆらぎ

蝎がうす雲の上を這ふ

   ……たえず企画したえずかなしみ

      たえず窮乏をつゞけながら

     どこまでもながれて行くもの……

この星の夜の大河の欄干はもう朽ちた

わたくしはまた西のわづかな薄明の残りや

うすい血紅瑪瑙をのぞみ

しづかな鱗の呼吸をきく

    ……なつかしい夢のみをつくし……

声のいゝ製糸場の工女たちが

わたくしをあざけるやうに歌って行けば

そのなかにはわたくしの亡くなった妹の声が

たしかに二つも入ってゐる

    ……あの力いっぱいに

       細い弱いのどからうたふ女の声だ……

杉ばやしの上がいままた明るくなるのは

そこから月が出ようとしてゐるので

鳥はしきりにさはいでゐる

    ……みをつくしらは夢の兵隊……

南からまた電光がひらめけば

さかなはアセチレンの匂をはく

水は銀河の投影のやうに地平線までながれ

灰いろはがねのそらの環

    ……あゝ いとしくおもふものが

    そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことが

    なんといふいゝことだらう……

かなしさは空明から降り

黒い鳥の鋭く過ぎるころ

秋の鮎のさびの模様が

そらに白く数条わたる

               (宮沢,1985)下線部は引用者による

 

「薤露青の聖らかな空明のなか」の意味は,木村(1987)によれば「北上川が夜空に浮かび上がるように南十字に向かって流れるさま」である。月光や星明りの中では,周辺が暗い場合,川面が光って空中に浮かび上がって見えるからだという。著者は,「薤露」が銀河宇宙のメタファーであると仮定して,この詩句は「南北に走る北上川の川面に青く映る銀河,電信柱あるいは月の影が月光や星明かりで浮かび上がっているさま」と解釈する。


 

すなわち,著者なりに「薤露青」の冒頭部分を翻訳すれば,「恋人を思い起こさせる電信柱(高圧送電線用A柱)の列を,銀河を投影している川面になつかしく浮かべ,たえずさびしく湧き鳴りながら,夜空に浮かび上がるようにして南十字星に向かって流れる水よ」であろう(第3図)。童話『銀河鉄道の夜』(第四次稿)でこの「薤露」に相当するものは,一章「午後の授業」で学校の先生がジョバンニ達にみせる沢山の光る砂粒の入った両面が凸レンズの模型である。

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第3図.「薤露青」制作時の花巻南の空(イメージ図).Aは赤い腕木の電信柱と北上川の川面に映った影.Bは逆三角形の形をした澪標.

 

「みをつくし」や「月」は前述したように恋人のことである。賢治は,恋人の名を隠していて,作品の中では逆三角形の形をした「みをつくし」あるいは「月」の影としか表現することができなかった。

 

また詩「薤露青」の中頃には,「わたくしはまた西のわづかな薄明の残りや/うすい血紅瑪瑙をのぞみ/しづかなの呼吸をきく/・・・・なつかしい夢のみをつくし・・・・/声のいゝ製糸場の工女たちが/わたくしをあざけるやうに歌って行けば/そのなかにはわたくしの亡くなった妹の声が/たしかに二つも入ってゐる」(下線部は引用者による)と記載されているが,「鱗」あるいは妹以外の「もう一つの声」も相思相愛の恋人のことであろう。

 

「瑪瑙(メノウ)」は,縞模様が入る二酸化ケイ素を主成分とする鉱物(宝石)である。それゆえ西の空の「うすい血紅瑪瑙」は,「薤露青」の最後の2行「秋の鮎のさびの模様が/そらに白く数条わたる」との関連から,サケやマスの繁殖時期の腹側にできる薄赤い縞模様(「婚姻色」)の空がイメージできる。多分,賢治あるいは恋人の結婚願望(駆け落ち)を示したものと思われる。

 

この詩に「しづかな鱗の呼吸をきく」とあるが,何を恋人から聞いたのであろうか。恋人が亡くなった1か月後に詠んだ文語詩〔古びた水いろの薄明窮のなかに〕(1927.5.7)で,花巻農学校の宿直室に「恋人が雪の夜何べんも/黒いマントをかついで男のふうをして/わたくしをたづねてまゐりました/そしてもう何もかもすぎてしまったのです」(1922年冬~1923年春頃の出来事)とあり,1931年頃の「雨ニモマケズ手帳」にある有名な文語詩〔きみにならびて野にたてば〕の下書稿には,恋人と思われる「きみ」の言葉として「「さびしや風のさなかにも/鳥はその巣を繕はんに/ひとはつれなく瞳(まみ)澄みて/山のみ見る」ときみは云ふ」が挿入されていた。

 

この「しづかな鱗の呼吸をきく」という詩句の中には,恋人が強く望む結婚(あるいは駆け落ち)に躊躇する賢治がいる。晩年に書かれた未定稿文語詩〔猥れて嘲笑めるはた寒き〕では,「猥(みだ)れて嘲笑(あざ)めるはた寒き,/凶つのまみをはらはんと/かへさまた経るしろあとの,/天は遷ろふ火の鱗」。(下線部は引用者による)と城跡から見えたかつての「しづかな鱗」は「怒り」を示すと思われる「火の鱗」になっている。賢治は,いつも城跡から「名を明かせない」恋人がいた小学校を見つめていた。

 

「北上川」の川岸に立つ「高圧送電線用A柱」(赤い腕木の電信柱)の列は,詩「薤露青」では銀河が投影されている「北上川」に浮かぶ「澪標」の列になり,童話『銀河鉄道の夜』に登場する「三角標」の列に繋がる。それゆえ『銀河鉄道の夜』の先駆的作品として知られている「薤露青」の詩句のそれぞれは,そのまま恋人との思い出が詰まる「三角形」の「電信柱」の影と一緒に『銀河鉄道の夜』に注ぎ込まれることになる。

 

4.最後に

思想家で文芸評論家の吉本(2012)によれば,賢治は,宗教と科学,文学,芸術を一致させようとして,生涯あるいは生涯の作品を費やして追い詰めた人であるという。また,宗教と科学の一致に関しては,その追い詰めた思想の最後のところが童話『銀河鉄道の夜』の中で表現されているとし,ここまで追い詰めた人はいないということから,この物語は難解であるが20世紀に世界中で書かれた文学作品中でも指折りの1つに入る傑作であると述べた。

 

著者も10年に渡って,『銀河鉄道の夜』に登場する植物を読み解くことによって賢治の追い詰めた思想の最後のところに迫ろうとしたが,その場所に到達したかどうか分からない。なぜなら,詩集『春と修羅』の「序」(1924.1.20)で,賢治は2000年後に「橄欖の森」の「青ぞらいっぱいの無色な孔雀」(恋人)や,修羅の渚(イギリス海岸)である白亜紀砂岩の層面に「透明な人類の巨大な足跡」(まっくらな巨きなもの)が発見されるかもしれないと言っているからである。賢治がこの予言ともとれる「序」を書いてからまだ95年しかたっていない。

 

しかし,著者は賢治の宗教と科学を一致させようとする思想には強く心を動かされた。著者は大学で漢方医学を学んだが,漢方は前漢・後漢時代に発達した中国医学の流れをくむもので,科学ではとうてい説明できない陰陽五行論など難解な用語あるいは概念が沢山あった。漢方医学はエビデンスが弱く,非科学的と言われた時代もあった。大学の恩師でもある漢方研究家の原田正敏(1930~1997)は漢方を学生に話すとき,最初に「漢方は,科学よりも前の学問なのだから,今までの教育によって培われてきた自分の中の科学を捨ててとりかかりなさい」,また「科学で解明されたから真実なのではなく,科学は真実のほんの一部なんだよ。」と諭したという(藤本,1999)。原田もまた,賢治と同様に漢方と科学を一致させようと生涯を費やして追い詰めた人であると思う。

 

賢治がこの物語を書いたのは,「東北」に住む「アイヌ」あるいは「蝦夷(エミシ)」と呼ばれていた「先住民」の末裔達と和人(大和民族)である「移住者」の末裔達の対立があり,この対立が主な要因となって賢治の恋が破局したことによるところが大きい。賢治はこの対立を解消するためには,「ほんたう」と「うそ」を分けて,「先住民」の持つ信仰(宗教)を普遍宗教まで高め,この普遍宗教と「移住者」が持ち込んだ科学を一致させ,「先住民」と「移住者」の間に対立のない両者の「共生・共存」を願った。

 

現在も,世界は異なる宗教間あるいは民族間での相互殺戮にまで及ぶ悲惨な紛争が絶えない。例えば,北アイルランド紛争,アフガニスタン内戦,カシミール紛争,パレスチナ紛争,チェチェン紛争,チベット問題などがある(山野,2010)。また最近では新疆ウイグル問題が大きく報道されるようになった。賢治が生きた時代には,当時イギリス領であったアイルランド島(北海道よりも大きな島)でアイルランド独立戦争(1919~1921)が起こった。アイルランド島の住民の多くは,ケルト系民族で,隣のブリテン島とは異なる文化と歴史を持っていた。ケルト民族の宗教はキリスト教に改宗するまでは,アイヌ民族に類した自然崇拝の多神教で,ケルト人は霊魂の不滅を信じていた。また近年,近代科学技術がもたらした物質文明の危機も叫ばれている。

 

本稿で著者の植物によって『銀河鉄道の夜』の謎を解くシリーズを終えるが,最後に「みんなのほんたうのさいはひ」をメインテーマにした『銀河鉄道の夜』が今後も多くの人達に読み続けられることを,またその中から新しい時代のコペルニクス,ダーウイン,マルクスらがでて賢治の到達点のさらなる先に行くことを,さらにそれによって「ほんたうの考え」と「うその考え」が区別され日本を含め世界の宗教戦争や民族紛争が解決され新しい「ほんたう」の社会が訪れることを願う次第である。 

 

「世界ぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」(完)。

 

引用文献

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(2019年迄の著者文献の年号に付く記号は総集編Ⅰ(石井,2020a)に準じる)

 

本稿は人間・植物関係学会雑誌20巻第1号25~32頁2020年に掲載された自著報文(種別は資料・報告)を基にしたものである。掲載された自著報文は人間・植物関係学会(JSPPR)のHPにある学会誌アーカイブスからも見ることができる。http://www.jsppr.jp/academic_journal/archives.html