宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』-アワとジョバンニの故郷(1)-

Keywords: アイヌ神謡集,粟,文学と植物のかかわり,文選作業,蝦夷(エミシ), まっくらな巨きなもの,ピパ,ピンセットで活字を拾う,先住民

 

童話『銀河鉄道の夜』は難解とされているが,この物語に登場する人物を賢治が生きた時代の実在の人物に当てはめて読むと理解しやすくなる。前報(石井,2019)では,難破船の女の子だけでなくジョバンニとその母にも賢治の相思相愛の「先住民」の末裔としての恋人が投影されている可能性のあることを報告した。

 

本稿では,物語の中でジョバンニが「先住民」の末裔として具体的にどのように描かれているのか整理し,恋人のルーツと賢治と恋人の破局へ導いたと思われる「先住民」が示す「まっくらな巨きなもの」の正体について明らかにする。

 

1.なぜジョバンニの生活様式をアイヌ風にしたのか

童話『銀河鉄道の夜』第四次稿の三章(家)で記載されているように,ジョバンニには北の海で漁をする漁師の父と病気で臥せっている(あるいは亡くなっている)と思われる母がいる。父は不在で密漁して牢獄に入っているという噂もある。ジョバンニに「ラッコ」の上着を土産に持ってくる約束をしている。また,第三次稿では,密漁船に乗っていて「アザラシ」や「ラッコ」を獲っていて,「サケ」の皮で作った靴(第1図)をお土産に持ってくる。これらは北海道や樺太の「アイヌ」と呼ばれた人達が13世紀(アイヌ文化期あるいはニブタニ文化期)以降に実際に狩りの対象にしていた動物であり,また生活用具である。多分,賢治は北海道の先住民族である「アイヌ」をイメージして物語でジョバンニの家族を描いている。

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第1図.「サケ」の皮で作った靴

賢治が「東北」あるいはイーハトーブのかつて「蝦夷(エミシ)」と呼ばれた「先住民」の人達の様子を作品の中で描くときに,例えば詩集『春と修羅』の「マサニエロ」や童話『銀河鉄道の夜』のように,なぜ「アイヌ」を連想させるような登場人物や生活用具を出してくるのだろうか。これは,賢治に「蝦夷(エミシ)」と「アイヌ」を同一視する認識があったのと,「蝦夷(エミシ)」という大和朝廷側が付けた呼称を使うことを極力避けているからだと思われる。

 

これはアイヌ研究家である金田一京助や民俗学者の喜田貞吉などの影響を受けている(秋枝,1996)。例えば,金田一(2004)は,賢治の生きた時代に「東北」にかつて住んでいた古代の「蝦夷(エミシ)」は「アイヌ」であるという説を唱えていた。当時,「蝦夷(エミシ)」は日本人という説もあったが,金田一らの唱える「蝦夷(エミシ)=アイヌ」の説が有力(工藤,2018)であり,金田一は1922年の『中央史談』に投稿した「奥州に残った蝦夷残蘖」の中で「蝦夷(エミシ)とアイヌの相違は,つまりは本州にいたアイヌが蝦夷(エミシ)で,北海道に残った蝦夷(エゾ)がアイヌであった。換言すれば,蝦夷(エミシ)とアイヌの相違は根本にあるのではなくして,ただ地方的な差,即ち人種の差ではなくして支流の差でありはしないだろうか。これが私の結論である」と記載していた(金田一,2004)。

 

賢治は,同郷でもある金田一と面識があり,多分この文書を見たかあるいは同様のことを聞いていたと思われる。金田一(2004)は,さらに「東北」の「蝦夷(エミシ)」は,「蝦夷が島(江戸時代まで呼ばれた北海道の旧称の1つ)から本州の北部へ下りて来たアイヌ族に外ならない」とも言っている。北海道の「アイヌ」が「東北」へ移住したのは本州では古墳時代(北海道は続縄文時代)の頃と言われている(高橋,2012;瀬川,2016)。この頃(4〜5世紀頃から場合によっては7世紀頃まで),日本列島は小氷河期に入っていて,気温が1〜2度ほど低下していたとみられ,「東北」まで北上していた稲作も大打撃を受け稲作に携わった住民達も南へ移動したと推測されている(吉野,2009;高橋,2012)。

 

現在でも,「蝦夷(エミシ)=アイヌ」説を支持するものは少なくない。宮城生まれの哲学者である梅原(1994)は,黄金の平泉文化を築いた「蝦夷(エミシ)」の流れをくむ藤原三代(清衡,基衡,秀衡)の金色堂に安置されている「ミイラ」が樺太の「アイヌ」の風習を喚起させるとし,また清衡が着ていた小袖が「アイヌ」がつい先ごろまで着ていた袖と似ていることや,棺の中にシカの角で作った刀や「ドングリ」や「クルミ」の類が沢山入れられていたことから藤原一族が狩猟採取民の「アイヌ」の系統を引くものであったと推測している。

 

実際に奥州藤原氏の家系でいうと,清衡の父は京都方面出身の可能性もあるが母は東北系(エミシ;安部氏)であり,その子基衡の妻も東北系(エミシ)である(埴原,1996)。東北文化に魅せられた芸術家の岡本太郎も,基衡の棺の中から出てきたシカの角で作った刀の「針葉樹の杉の葉のような文様」のある柄飾りに注目し,芸術家の直観で「アイヌ的」な匂いを感じ取り,著書の中で「この文様は激しいエゾ模様だ。アイヌ的であり縄文文化の気配でもある」と記載している(岡本ら,2002)。

 

歴史学者の高橋(2012)は,8世紀初め頃の「蝦夷(エミシ)」は,古墳時代に北海道で出土する土器と同じ形式の土器が青森,岩手で出土することやアイヌ語の地名がこの地方に残っていることから,彼らは「アイヌ人か,控えめに言ってアイヌ語を使う人,といってよいだろう」,また「アイヌ語の地名が残っているということはかなり長い間大勢で住んでいた可能性がある」と述べている。梅原(1994)によれば,現代の東北の文化にも,その根底には狩猟採集民である「古代蝦夷(エミシ)」の文化が色濃く残されているという。

 

賢治は「先住民」の自分に示す「疑い」や「反感」の共同体意識(「まっくらな巨きなもの」)と同じ意味のことを童話『銀河鉄道の夜』では「そらの穴」である「石炭袋」として表現しているが,この「そらの穴」に対して,先住民側であるジョバンニは「そっちを見てまるでぎくっと」してしまうが,移住者側のカムパネルラは「そっちを避ける」ようにしながら指さす。カムパネルラに賢治が投影されているとすれば,賢治は明らかに「先住民」の示す「疑い」や「反感」の共同体意識を避けている。

 

賢治の作品には頻度は少ないが「アイヌ」という言葉はでてくるが,「蝦夷(エミシ)」という言葉はまったく登場しない。賢治は,「東北」のかつての「先住民」であった「蝦夷(エミシ)」が,北海道や樺太の「アイヌ」とルーツを同じにしていると信じていて,賢治が「東北」あるいはイーハトーブのかつて「蝦夷(エミシ)」と呼ばれた「先住民」を描くときに,「蝦夷(エミシ)」の代わりに「アイヌ」という言葉やそれを匂わせる登場人物を使ったと思われる。

 

ただ,賢治に限らず当時の「東北」の人は,現在でもそうかもしれないが,「アイヌ」や「蝦夷(エミシ)」という言葉が侮蔑感を伴うものとして,あるいは「忌み言葉」と感じていて,「蝦夷(エミシ)」のみならず「アイヌ」という言葉を使うのも避けていたように思える(梅原,1994;秋枝,1996)。 

 

賢治は,「東北」への南からの「移住者」の末裔達(町の人など)が「先住民」である「蝦夷(エミシ)」の末裔達(賢治の生きた時代の農民,漁労民,狩猟民である「マタギ」になった者など)をどのように理解していたのかを童話『銀河鉄道の夜』から推測してみる。

 

2.「移住者」は「先住民」をどのよう見たか

1)ピンセットで拾う粟粒のような活字

「移住者」が「先住民」(「蝦夷」=「アイヌ」として)をどのように見ていたかを知るヒントは,童話『銀河鉄道の夜』の中では,ジョバンニがアルバイト先の活版所で靴を脱いで粟粒のような活字をピンセットで拾う動作の中に隠されているように思える。なぜなら活版所で働く高度な先端技術を有する技術者達(移住者側)がジョバンニのこの行動に対して「冷たく笑う」からである。『銀河鉄道の夜』(第四次稿)の二章「活版所」には以下の記載がある。

  ジョバンニはすぐ入口から三番目の高い卓子(テーブル)に座った人の所へ行っておじぎをしました。その人はしばらく棚をさがしてから,

「これだけ拾って行けるかね。」と云ひながら,一枚の紙きれを渡しました。ジョバンニはその人の卓子の足もとから一つの小さな平らな函(はこ)をとりだして向ふの電燈のたくさんついた,たてかけてある壁の隅の所へしゃがみ込むと小さなピンセットでまるで粟粒ぐらゐの活字を次から次と拾ひはじめました。青い胸あてをした人がジョバンニのうしろを通りながら,

「よう,虫めがね君,お早う。」と云ひますと,近くの四五人の人たちが声もたてずこっちも向かずに冷たくわらひました。

(中略)

 ジョバンニはおじぎをすると扉をあけてさっきの計算台のところに来ました。するとさっきの白服を着た人がやっぱりだまって小さな銀貨を一つジョバンニに渡しました。ジョバンニは俄かに顔いろがよくなって威勢よくおじぎをすると台の下に置いた鞄をもっておもてへ飛びだしました。(二,活版所;宮沢,1985) 下線は引用者

 

この引用箇所では,現在では殆ど見ることができない活版印刷における文選作業の様子が記載されている。この作業は,「活字ケース架(ウマ)」に向かって「平らな函」すなわち「文選箱」に,多分「粟粒」とあることから活版印刷用の漢字の振り仮名の「ルビ」の活字を「しゃがみ込む」姿勢で「ピンセット」で拾っているのだと思われる。

 

明治時代 新聞記事に使用されていた活字のサイズは5号(10.5ポイント;3.7mm)で,「ルビ」のサイズは7号活字(5.25ポイント;1.8mm)である。この引用箇所は素人が読めば何も不思議ではないのだが,活版印刷に携わったことのある技術者には異様な動作に見えるという。現在でも活版印刷を行っている者によれば,第1に「ルビ」を含む多くの活字を「しゃがみ込む」動作で拾うことはあまりないそうである。文選作業で,「活字ケース架」の最下部には特殊な人名,地名,省略文字など使用頻度の少ない活字が配列されるので,使用頻度の高い「ルビ」などをしゃがみ込んで拾うことはほとんどない。

 

第2に,これが最も重要なことであるが,活字は「鉄」よりも軟らかな「鉛」を主成分とするので「鉄」の「ピンセット」を用いると面ズラを傷つける恐れがあるので文選作業は素手で行うのが普通という。活版印刷全盛の時代には床に落とした活字を拾うことすら禁じられていた。すなわち,活字を「鉄」の「ピンセット」で拾うことはしない(朗文堂,2018)。また,農作業でもないのに靴を脱いで輪転機の在る所を素足で歩くということ,文選作業を素足で行うということも考えにくい。

 

活版印刷で活字を「ピンセット」で拾わないことが事実なら,ジョバンニが活字を「ピンセット」で拾う動作に対して,活版所の技術者の一人が朝でもないのに「よう,虫めがね君,お早う。」と挨拶を送ったりするのは可笑しな話である。本来なら技術者達はアルバイトのジョバンニに「ピンセットで活字を拾ってはいけない」と注意すべきである。

 

これは,賢治が活版印刷所の現場を知らなかったということではない。賢治は,『銀河鉄道の夜』(第一次稿)執筆前に詩集『春と修羅』(1924.4.20)を自費出版しているが,この印刷は花巻の「大正活版所」で行われている。この印刷所は盛岡にある「山口活版所」の支店のようなもので,当時はまだ設備が十分ではなかった。賢治は,出版に当たっては印刷の段階でも介入していて,校正刷りで,指定した活字がないと「ゲタ」(とりあえず入れておくダミーの活字)を履かせた活字を書き上げて,必要な活字を盛岡の「山口活版所」まで何度も取りにいったという(森,1979)。

 

賢治は,活版印刷の現場を十分知っていた。では,なぜ賢治はジョバンニに活字を「しゃがみ込む」姿勢で「ピンセット」で拾わせたのだろうか。童話『銀河鉄道の夜』は譬喩の文学である。この引用文で賢治は何か重要なメッセージを我々に伝えようとしている。ここで「ピンセット」で拾う活字の形容語句である「粟粒ぐらい」の「粟」という植物に注目してみる。

 

2)粟とはどんな植物か

「アワ(粟)」は背丈が1〜1.5m程になるイネ科エノコログサ属の多年草である。学名は二名法で付けられ「Setaria itarica(L.)P.Beauvois」(命名者のP.Beauvoisはフランスの植物学者)で,属名(setaria)はラテン語の「剛毛(あるいは刺毛)」(「アワ」の枝穂の基部に「剛毛」がある)に,種小名(種形容語)は「イタリア」に由来していて「イタリアの剛毛」というほどの意味である。イギリスでは,「Foxtail millet」と呼び,「アワ」の穎果(えいか;果実)が成熟して複数集まって狐の尻尾状に大きく垂れ下がった穂(長さ10〜40cm)をうまく表現している(藤井,2018)。

 

穎果の形態はやや球形で,粒の長さは1.3〜1.5mm, 幅1.7〜2mm,千粒重は1.5〜2.5gで米の1/10前後と小さい。1つの穂に1万粒くらい穎果がつくという(盛口,1997)。

 

種小名は「イタリア」であるが,なぜ「イタリア」という国名が付くのか調べてみたがよくわからない。「アワ」は,祖先野生種のエノコログサ(ネコジャラシ)<Sviridis (L.)P.Beauv.>を起源として栽培化された作物の1つである。エノコログサはユーラシアの温帯域に広く分布していて,「アワ」の起源を確定することを困難にしている。中国や日本を含む東アジアが起源地であるとする説や,中国と欧州で独立に栽培されたとする説などがある(福永,2017)。

 

「アワ」は耐寒性に優れていたためイタリア,ドイツ,ハンガリーなどの欧州でも古くから栽培されていたという(藤井,2018)。同じ種小名を国名にした「シャガ」の学名は「Iris japonica Thunb」で,「日本(あるいは日本産)のアイリス」というほどの意味であるが,「シャガ」は中国原産で日本の固有種ではない(帰化植物)。種小名に国の名をつける時には,特に原産地や起源地でなければいけないという決まりはないようである。多分,命名者の植物学者がフランス人(P.Beauvois;1752-1820)なので,「イタリア」でよく栽培されていることを知っていて「アワ」の種小名に「イタリア」を付けたのかもしれない。

 

学名でもう1つ注目すべきことは,種小名の形容詞はその「性」を属名の名詞に一致しなければならない。例えば「Iris japonica」の「iris」(アイリス)は女性名詞なので,種小名の語尾には「-ica(女)」を付けて「japonica」(japonica)となる。同じく,「アワ」の「setaria」(剛毛)も女性名詞なので,種小名は「itarica」となる(田中,2018)。 

 

ジョバンニに賢治の相思相愛の恋人が投影されているとすれば,「アワ」の学名の種小名が「イタリア」で,さらにラテン語の女性名詞の「setaria」(剛毛)に合わせて「itarica」になっているので,多分賢治はこの学名の付け方から主人公を命名するときに「イタリア」の最もポピュラーな女性名である「ジョバンナ;Giovanna」としたかったと思われる。1970年に公開されたイタリアの名作『ひまわり(原題:I Girasoli)』の主人公は,ソフィア・ローレンが演じたジョバンナである。しかし,恋物語は隠したので,男性名である「ジョバンニ;Giovanni」にしたように思える。

 

3)アイヌと粟の収穫

「アワ」は北海道の「アイヌ」にとって「ヒエ(稗)」に次ぐ重要な作物であった。「アイヌ」の神話の中にも登場するので相当古い時代から栽培されていたようである。「アイヌ」の栽培する「アワ」はアイヌ語でムンチロと呼ばれていて,穂が長い「赤い粟」に相当するフレムンチロなど5~8種類くらいがあったという(林,1969)。

 

「アイヌ」の農業技術の中で最も特徴的なのは収穫技術であるという。「アイヌ」は「アワ」や「ヒエ」を収穫するとき鎌で根刈をするのではなく,「イチャセイ」と呼ばれる「ピパ」という「カワシンジュガイ(川真珠貝)」の貝殻を用いて穂だけを摘み取り,それをそのまま高床式の穀物倉に貯蔵した(林,1959)。

 

「カワシンジュガイ」(Margaritifera laevis (Haas,1910))は貝殻の殻長が10cm以上,高さ5cm,厚みも3cmを超えることのある淡水にすむ二枚貝である。「ピパ」に類似したものに「沼貝」や「烏貝」があるが,これらは「ピパ」に比べ殻が薄くて脆いため,「ピパ」の様に穂摘みの用具としては利用されなかった。「カワシンジュガイ」は二枚貝なので殻は2枚あるが,「ピパ」にして穂摘みをするときは,その一方側だけを使い,その殻の上部に2つの穴を開けてから紐を通し,下端を砥石で鋭く磨く。そして,中指と薬指を紐に通し,貝殻を手のひらに握るように持って穂先を貝殻と手のひらの間に「ピンセット」のように挟んで,刃の部分で切り取る。朝の9時,10時から夕方4時,5時頃まで1日がかりでもポロサップ(5~6斗の容量の袋)2つに収穫するのがやっとであった。

 

「アイヌ」は元来狩猟採取民であったので農業を知らなかったとも言われている。よって栽培方法は極めて粗放で,作物の生育が一様でなく草丈に長短があったり,穂の生育にも遅速があり収穫時期も長期になったりすることもあった。このように「アイヌ」の収穫方法は,鎌を使って根刈する方法よりも手間がかかり非効率的な作業であった。

 

この「ピパ」を用いる穀物の収穫方法の起源は,本州の弥生時代(後期)の農耕文化(石包丁)に影響を受けたものと推測されている(林,1964)。しかし,「アイヌ」は明治以後開拓の進歩に伴う農業技術が発達し,「アイヌ」の耕耘用具である「シタップ」(鹿角や樹枝で作った原始的農具)や鍬が捨て去られ「プラウ」などの土壌を耕起する近代的農具が用いられるようになっても,「アワ」や「ヒエ」の収穫に関しては,「ピパ」が使用され,この慣習は場所によっては賢治が生きていた昭和初期ごろまで続けられたともいう。

 

穀物の収穫に鎌を使わなかったのは,鎌の使用が「タブー(禁忌)」であったからで,「アイヌ」にとって鎌で切られると,切られたものが「再生」できないからだとも言われている(計良,2008)。類似の事例として,「縄文人」の魚の食べ方がある。例えば,「縄文人」はサケの骨を全部残して,特に「骨を折らない」(禁忌)ようにして身の部分を食べ,その後特別の水へ沈めたという。骨を水の世界に丁寧に返すことによって,また魚が骨に身を着けて人間の世界へ戻ってくることを願ったのだという(中沢,2018)。

 

4)「ピンセットで活字を拾う動作」はアイヌの粟を収穫する方法の暗喩 

多分,賢治が物語の中で靴を脱いだジョバンニに活字を「しゃがみ込む」姿勢で「ピンセット」で拾わせたのは,「アイヌ」の人達(女性)が「アワ」や「ヒエ」などの穀物を朝の早いうちから収穫する方法を暗喩の形で示したかったからであろう。

 

「アワ」と「ヒエ」は背丈が前述したように1〜1.5mほどで,「ヒエ」は1mほどである。「ピパ」で穂摘みする場合,穂ばかりを摘み取るのではなく,穂を束ねる必要があるので茎稈を4〜5寸(12〜15cm)つけて,また種穂の場合はさらに長く8寸〜1尺(24〜30cm)ほどつけて切り取る(林,1959)。穂の長さが10〜40cmとすれば,「アイヌ」の女性達は「アワ」を地表から70〜80cm位の所で,「ヒエ」の場合はさらに低い位置で茎稈を「ピパ」で刈り取ったことが予想され,さらに茎稈が穂の重みで傾くことも考慮に入れれば「しゃがみ込む」という動作もあり得たと思われる。

 

賢治は,恐らく「アイヌ」の「アワ」の収穫方法に関する情報を知里(1978)の『アイヌ神謡集』(初版本;1923年8月)と,盛岡中学在籍中や花巻農学校教諭時代の修学旅行(あるいはその引率)で訪れた白老のアイヌ集落などから得ていたと思われる。『アイヌ神謡集』の神謡「沼貝が自ら歌った謡“トヌペカ ランラン”」には,穀物の穂を摘むとき「沼貝」(カワシンジュガイの誤記)の殻を使うという謂れが神(カムイ)である「沼貝」の言葉として語られている。

 

5)冷たく笑った理由

では,なぜ活版所の従業員達はジョバンニの「ピンセット」で活字を拾う行為に対して「声もたてずこっちも向かずに冷たく笑う」という対応をしたのであろうか。ジョバンニの父親に北方の海で密漁しているという噂があるからということもあるが,それだけではない。これは,この物語を理解する上で最も重要な問(とい)でもある。

 

多分,合理主義と高度な科学技術を身に着けた活版所の技術者達(移住者側である町の人)は,「アイヌ」の女性が「アワ」を収穫する様子をジョバンニの文選作業の様子に重ね,「先住民」の時代の流れについてゆかず,古くからある慣習を守り続ける姿を理解することができないばかりか見下し蔑視したのである。合理主義や高度な科学技術を有する人が立派な人とは必ずしも言えないが,少なくとも活版所の技術者達は自分達の方が「上位」であると思っている。

 

上記引用文でジョバンニが活版所の技術者に繰り返し「おじぎをする」のも,ジョバンニ側の「先住民」が階層的に「下位」に置かれているからである。賢治が生きた時代,北海道の「アイヌ」は,国内統一と近代化を推し進める明治新政府によって「平民」として戸籍制度の中に組み込まれるが,公的には日本人と同等とは思われない身分の名称が与えられていて,「アイヌ」は日本の新社会に溶け込むことができなかった。さらに,土地と資源が奪われシカ猟やサケ漁が禁止され困窮の一途をたどっていた(計良,2008)。

 

3.「先住民」が示す「疑い」や「反感」

童話『銀河鉄道の夜』の活版所の従業員(移住者側の町の人)の狩猟民(「先住民」)であるジョバンニあるいはその家族を蔑視する関係は,「東北」の賢治(「移住者」の末裔)と「先住民」の末裔としての農民との関係についても言える。賢治は表立って「先住民」(農民など)を蔑視するような言葉を作品に残してはいない。しかし,賢治が関わった農民を題材にした作品には,農民が示す賢治への「疑い」や「反感」の形でそれが表現されているように思える。「反感」とは同意できず,また不快で,反発・反抗したくなる感情である。農民から「反感」を買っている以上,賢治は,直接ではないかもしれないが農民から同意されない何かをしている。

 

賢治は,1924年10月5日に地元の会合に招かれて農事講和をしたとされていて,このときの様子を詩集『春と修羅 第二集』の「産業組合青年会」(1933年『北方詩人』に投稿)という詩に記載している。賢治は,この会合で「山地の稜をひととこ砕き」,「石灰岩末の幾千車か」を得て酸性土壌を改良するという話をしたようだが,聴衆の中の老いた権威者(組合のリーダー格)から「あざけるやうなうつろな声で」,「祀られざるも神には神の身土がある」と批判されてしまう。

 

「祀られざるも神には神の身土がある」の意味は,祠で祀られていないなど,祭司されていない山や土や樹木にも,神としての身体と座(いま)す場所があるということであろう。なぜ賢治の講和内容が批判されたかについては伏線があって,賢治研究家の浜垣(2018)によれば,約2か月前に農学校で上演された『種山ヶ原の夜』という劇で,賢治が「楢の樹霊」,「樺の樹霊」,「柏の樹霊」,「雷神」という土着の神々を「滑稽(こっけい)」に,あるいは「笑い」の対象として舞台に移し登場させたことと関係があるという。劇を見たと思われる会合の聴衆(多分「先住民」の末裔)にとって,賢治の農業を発展させるための大規模な自然開発に関する講和は,農民の古くからの慣習を損なうだけでなく「神の領域への侵犯」であり,「先住民」あるいは「先住民」の信仰する土着の神(精霊)を冒涜するものと同じだったのかもしれない。

 

当時は「身」と「土」(身が拠り所にしている環境)は分けられないという「身土不二」の考え方があり,神の「身」とその座すべき場所を壊したり,分けて移動させたりすることは神への冒涜と見做されたのであろう。実際に,神の怒りをかったのか,「雷神」を演じた生徒が次の日に災難に見舞われたという。賢治は科学者でありながら,この災難を偶然の出来事とは思っていない。

 

賢治は,自信作の学校劇が批判され,また「自然開発」と「自然保護」の間で葛藤していただけに,土着の神を劇に登場させたことに対して激しく後悔することになった。同日に書かれた未定稿詩〔夜の湿気と風がさびしくいりまじり〕では,『種山ヶ原の夜』の学校劇について述懐して,「わたくしは神々の名を録したことから/はげしく寒くふるえてゐる」とある。  

 

また,賢治が1926年に花巻農学校を依願退職し,私塾の羅須地人協会で農民に稲作指導したり無料で肥料相談に応じていたりした頃の作品として,詩集『春と修羅 第三集』の〔同心町の夜あけがた〕(1927.4.21)というのがある。この詩は,自分で栽培した野菜や花を売りに町へ向かう道すがら,程吉という名の農民の向ける眼差しに自分に対する「疑い」や「反感」を敏感に感じ取っている。

 馬をひいてわたくしにならび

町をさしてあるきながら

程吉はまた横眼でみる

わたくしのレアカーのなかの

青い雪菜が原因ならば

それは一種の嫉視(しっし)であるが

乾いて軽く明日は消える

切りとってきた六本の

ヒアシンスの穂が原因ならば

それもなかばは嫉視であって

わたくしはそれを作らなければそれで済む

どんな奇怪な考が

わたくしにあるかをはかりかねて

さういふふうに見るならば

それは懼(おそ)れて見るといふ

わたくしはもっと明らかに物を云ひ

あたり前にしばらく行動すれば

間もなくそれは消えるであらう

われわれ学校を出て来たもの

われわれ町に育ったもの

われわれ月給をとったことのあるもの

それ全体への疑ひ

漠然とした反感ならば

容易にこれは抜き得ない

(宮沢,1985)下線は引用者

 

ここで賢治は,「疑い」や「反感」の原因が,自分の作った野菜や花にあるなら「作らない」などして対応もできるが,自分の「出自」に関するものや漠然とした「反感」に対しては手の打ちようがないと言っている。

 

また,詩集『春と修羅 詩稿補遺』に「火祭」という詩があるが,この詩の前半部には,前詩と同様に農民の賢治に対する「反感」が描かれていて,「火祭りで,/今日は一日,/部落そろってあそぶのに,/おまへばかりは,/町へ肥料の相談所などこしらへて,/今日もみんなが来るからと,/外套など着てでかけるのは/いゝ人ぶりといふものだと/厭々(いやいや)ひっぱりだされた圭一が/ふだんのま々の筒袖に/栗の木下駄をつっかけて/さびしく眼をそらしてゐる」とある。

 

祭りを実施している農村風景の中で,花巻農学校時代の教え子か知り合いの農民(先住民側)と思われる者が眼をそらしたのを見て農民の深層心理を探っている。この農民の賢治への「反感」は,賢治研究家の木嶋(2005)によれば,賢治の「出自」や「経歴」に対してではなく,農村活動への反感であるとしている。しかし,それだけではない。

 

後半部では,この「反感」の具体的な内容を賢治が実際に聞いたかもしれない農民の言葉として,「くらしが少しぐらゐらくになるとか/そこらが少しぐらゐきれいになるとかよりは/いまのまんまで/誰ももう手も足も出ず/おれよりもきたなく/おれよりもくるしいのなら/そっちの方がずっといゝと/何べんそれをきいたらう/(みんなおなじにきたなくでない/みんなおなじにくるしくでない)」と続く。

 

これは,前半部の「町へ肥料の相談所などこしらへて」に対応している。自分(賢治)は,皆(農民)の生活を楽にするために無料で肥料相談所を開設しているのに,農民の中にはこれを望まない者(あるいは批判するもの)もいるということを言っている。これに対して,賢治は括弧内の内省の言葉として「みんな同じに苦しまないようにとやっているのに」と発し「なぜ理解してくれないのか」という苛立ちや不満の気持ちを述べている。

 

賢治のこの農民側への苛立ちや不満には,農民すなわち「先住民」の賢治や町の人に「疑い」や「反感」を示す共同体意識(「まっくらな巨きなもの」)が関係しているように思える。だから,最後に「(ひば垣や風の暗黙のあひだ/主義とも云はず思想とも云はず/たゞ行はれる巨きなもの)」と呟くのである。賢治も言葉では嘆くだけだが心の底の方では町の人と同様に「先住民」を「下位」と見做すあるいは蔑視する気持ちがあったと思われる。すなわち,賢治を含む「移住者」の末裔達は「先住民」を蔑視し,逆に「先住民」は「移住者」に対して「疑い」と「反感」・「憎悪」でこれに応じている。

 

木嶋(2005)は,著書の中で農民の賢治への「反感」の下層に,この「主義とも云はず思想とも云はず/たゞ行はれる巨きなもの」が動かしがたく横たわっているように感じられた」と述べている。しかし,賢治に対する「先住民」の「疑い」や「反感」の根底にあるのは,大和朝廷側が「東北」の「まつろわぬ民」としての「蝦夷(エミシ)」に抱いた感情と同じで,「東北」へ移住した人達の「先住民」に対する蔑視もあることを忘れてはいけない。(続く)

 

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本稿は人間・植物関係学会雑誌18巻第2号53~59頁2019年に掲載された自著報文(種別は資料・報告)を基にしたものである。原文あるいはその他の掲載された自著報文は人間・植物関係学会(JSPPR)のHPにある学会誌アーカイブスからも見ることができる。http://www.jsppr.jp/academic_journal/archives.html