宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』-ケヤキのような姿勢の青年(1)-

Keywords:文学と植物のかかわり,移住者,まっくらな巨きなもの,先住民,スギ,東北,槻(つき),大和朝廷

 

『銀河鉄道の夜』の初期形第一次稿(1924冬)の出だしに登場するのは「橄欖(かんらん)の森」である。この「橄欖の森」には物語の舞台が北米大陸にも関わらず,我が国の「蛇紋岩」や「橄欖岩」を産出する北上山系(「東北」)の大地が二重写しの風景として立ち現われ,その風景の中に「蝦夷(エミシ)」や「アイヌ」といった「先住民」を象徴する在来種の「杉」がイメージされていた(石井,2018)。しかし,このイメージされた「東北」の大地には「先住民」だけでなく,多くの「移住者」やその末裔たちも住んでいた。

 

「杉」が「先住民」を象徴するなら,「移住者」を象徴する植物はなんであろうか。「東北」の大地に先住した「蝦夷」は,奈良や京都の畿内に都を持った「大和朝廷」およびそれに続く歴代の中央政権に対立する「まつろわぬ民」として存在してきた。中央政権にとって「東北」は権力の及ばない別の国であり,「東北」の大地に移住してきた人たちの多くは,両者の対立の中で南からやって来た「大和朝廷」あるいは中央政権側の人たち(近代化をもたらす開拓民)であろう。そこで,「東北」において,「移住者」を象徴する植物があるとすれば,それは「大和朝廷」を象徴する植物と思われる。

 

考古学・歴史学者の辰巳和弘(2009)や植物・植生研究家の有岡利幸(2004,2016)は,「大和朝廷」から続く歴代の天皇を中心とした中央政権を象徴する植物として「ケヤキ」をあげている。童話『銀河鉄道の夜』にもこの「ケヤキ」が「スギ」をイメージできるものと一緒に登場してくる。本稿では「ケヤキ」がなぜ「朝廷」を象徴するようになったのかを説明するとともに,賢治が「先住民」を象徴する「スギ」と「移住者」を象徴する「ケヤキ」を作品の中にどのように描いているのかについて解説する。

 

1.「ケヤキ」は「大和朝廷」を象徴する聖樹

「スギ」(Cryptomeria japonica (Thunb. Ex L.f.) D.Don)は,ヒノキ科スギ属の常緑針葉樹の日本固有種である。一方,「ケヤキ」(欅,Zelkova serrata (Thunb.) Makino )は,ニレ科ケヤキ属の落葉高大木で,我が国(本州)のみならず,台湾,朝鮮半島,中国の温帯地方に分布している。すなわち,「ケヤキ」は,「スギ」のような在来種ではない。また,「ケヤキ」は大木となるばかりではなく,樹冠が扇を開いたようで美しく,樹勢は堂々としている。

 

「ケヤキ(欅)」の古名は「槻(つき)」である。古い時代の文献には「槻」として登場する。我が国最古の歴史書である『古事記』(712年に太安万侶が編集)には,雄略天皇(第21代天皇)が記載されているところに登場する。どのように記載されているのか見てみよう。

 

天皇が長谷(はつせ:今の奈良県桜井市)の朝倉宮の「百枝槻(モモエツキ)」とよばれる枝が四方に広がりよく茂っている大木の「槻」の下に座して豊楽(とよのあかり)の宴会(新嘗祭の翌日)をされたとき,伊勢国から宮につかえていた采女(うねめ)が,天皇に杯を捧げようとした。このとき,「槻(つき)」の葉が杯に落ちて杯に浮いていたが,采女はそれに気が付かずに天皇に献上してしまった。天皇はそれに怒って采女を打ちふせ,刃を首にさしあてて切ろうとした。そのとき采女が,天皇から許しを得るために

 

  新嘗屋に 生い立てる 百足る 槻が枝は 上枝は 天を覆へり

    中つ枝は 東(あずま)を覆へり 下枝は 鄙(ひな)を覆へり

    

と歌った。この歌の意味は,「新嘗(にいなめ)の御殿の傍に生い立っている枝葉のよく茂った大木の槻は,上枝は高く天上を覆い,中枝は遠く東の国を覆い,下枝は田舎の国(西の国)を覆っている」と言うことで,天皇が座しているところの「槻の大きさ(=天皇の勢力範囲の大きさ)」を称えたものである。そして,この歌により采女の無礼が許されたという。

 

雄略天皇の頃の勢力範囲は,畿内を中心に東は現在の埼玉県から西は熊本県に及んでいた(有岡,2016)。京都を含む畿内と東方の地の境には「逢坂関(おうさかのせき)」という関所がある。新嘗祭は統治者(天皇)としては最も象徴的な王権の祭儀である。天皇がその年に収穫された新米を天神地祇(天津神・国津神)にお供えし,また同時に天皇がこれを神とともに食する祭儀である。その祭儀が行われる新嘗屋の傍に聳え立つ「槻」は,単なる樹ではない。辰巳(2009)によれば「古代人は,「槻」を天から地の果てまですべての空間を覆う世界の中心に立つ聖樹,すなわち世界樹(宇宙樹)として認識していた」と考えている。

 

歴史書『日本書紀』の皇極天皇(飛鳥時代,第35代天皇)が記載されているところにも「槻」が登場する。『日本書紀』によれば,蘇我入鹿(そがのいるか)が暗殺され蘇我氏が滅亡した乙巳の変(いっしのへん;大化元年;西暦645年)の首謀者は,中大兄皇子と中臣鎌足で,二人の最初の出会いが「槻」の下ということになっている。

 

この頃は,天皇の力が弱体化して豪族の蘇我氏が政治の中心にいた。蘇我蝦夷を父にもつ蘇我入鹿が国家をかすめようとしていることに憤慨した政治家の中臣鎌足は,天皇家を守るため天皇家の人々に接触してこの企てを阻止するべく明主を探していた。そして,中臣鎌足は,法興寺の「槻」の下で蹴鞠(けまり)をしていた中大兄皇子の脱げ落ちた靴を拾って跪いて手渡したということが縁で,天皇家の中大兄皇子に近づき,二人で協力して蘇我入鹿を討ち果たした。蘇我一族が滅ぼされ天皇中心の政権が復活すると,すぐに新政権は飛鳥寺(奈良)の「槻」の下に群臣を集め孝徳天皇への忠誠を誓わせる。このように,古代の歴史書に天皇家と「槻」が長い間密接な関係を保っていたことが記載されている。

 

蘇我蝦夷の下の名である蝦夷は,「東北」の「蝦夷」とは直接的な関係はなく,勝者が歴史を残すとき敗者の名前を蔑称に書き換えたともいわれている。賢治の童話『よだかの星』において,「ヨタカ(夜鷹)」(ヨタカ科;Caprimulgus indicus Latham)がオオタカ(タカ科;Accipiter gentilis 〔Linnaeus〕)などの「タカ(鷹)」の仲間から容姿が醜いといっていじめられ,「タカ」の名前を使うな「市蔵」に改名せよと強要されるのに似ている。

 

2.「大和朝廷」と「東北」の対立

「天皇を中心とした中央政権」と「蝦夷(エミシ)」との対立は,朝廷側からすれば蝦夷征討とも呼ばれ,京都に都を置いた平安時代まで続く。さらに,その対立の影響は鎌倉,江戸時代の武家中心の時代および明治維新後の賢治の生きた時代にまで及んだ(梅原,2011;高橋,2012;高橋,2017)。

 

例えば,奈良時代に始まった三十八年戦争(774~811年),平安時代初期の朝廷軍を率いる征夷大将軍の坂上田村麻呂と蝦夷の指導者アテルイ,モレの戦い,朝廷の命を受けた源頼義・義家と阿部一族の戦い(前九年の役;1051~1062年),さらに権力が朝廷から武家へ移行する時期の1189年の源頼朝による奥州藤原氏征討,そして明治新政府との戊辰戦争(1868~1869年)などがあげられる。最近では1988年,首都機能移転の議論の中で大阪商工会議所会頭であった佐治啓二が起こした東北熊襲発言(「東北は熊襲の産地。文化的程度も極めて低い」)に見られる舌禍事件があげられる。「熊襲」は,古代の日本において九州南部にいた反朝廷勢力を指す言葉である。

 

このように「東北」は「中央」(京都あるいは東京)にいる支配者に対立してきたが,それだけでなく「中央」よりは地理的に遠く,「寒さ」と「貧しさ」の「辺境の地」というイメージも持っている。この支配者側のイメージが殆どの日本人の「東北」に対するイメージにもなっているという(梅原,2011)。

 

3.賢治作品に登場する「スギ」と「ケヤキ」 

詩集『春と修羅』の「天然誘接」(1922.8.17) という詩の「東北」と思われる大地には「スギ(杉)」(=先住民)と「ケヤキ(槻)」(=移住者)が一緒に並んで登場する。

    北斎(ほくさい)のはんのきの下で

    黄の風車まはるまはる

    いつぽんすぎは天然誘接(てんねんよびつぎ)ではありません

    槻(つき)と杉とがいつしよに生えていつしよに育ち

    たうたう幹がくつついて

    険しい天光(てんくわう)に立つといふだけです

    鳥も棲んではゐますけれど

                  (宮沢,1985)下線は引用者

 

詩「天然誘接」の「誘接」とは「寄せ接ぎ」のことで人工的に作る「接ぎ木」の方法の1つである。接ぎ穂を台木に寄り合わせて植え,台木と接ぎ穂が接するところを削り合わせてしばり,十分に融合させたのちに,台木の上部と接ぎ穂の下部を切るものである。「誘接」だと片方の木(接ぎ穂)の下部は切り離されるので1本の木になるが,詩の中の「いっぽんすぎ」は自然に「スギ」と「ケヤキ」が接合しただけのもので,詩に書かれてあるように植物学的な意味での「誘接」ではない(石井,2017)。

 

この詩の最初の2行は,浮世絵師である葛飾北斎(1760~1849年)の富嶽三十六景「駿州江尻(すんしゅうえじり)」を参考にしたものと思われる。浮世絵「駿州江尻」では,絵の左側に2本の木(種名は特定できない)が強風に吹かれながら「天然誘接」のようにくっつく様に2本並んで立っている。木の下の旅人の菅笠が風に吹き飛ばされ「黄の風車」のようにくるくる回っているように見える。詩ではこの浮世絵の2本の木のイメージに重ね合わせるように,「東北」の大地に「スギ」(=先住民)と「ケヤキ」(=移住者)が一緒にくっつくように立っている(住んでいる)様子が記載されている。

 

この詩の最後に「鳥も棲んではゐますけれど」とあるが,これは「東北」の大地に両者がただ一緒に住んでいるというだけでなく,例えば婚姻の形で「先住民」と「移住者」が一緒になり家族を形成することもあるということを言っているように思える。これを賢治と恋人に当てはめることもできる。制作時期は明らかではないが「文語詩未定稿」の〔まひるつとめにまぎらひて〕という仮の題名のついた作品に二人の恋愛に絡ませて「移住者」を象徴する「ケヤキ」が登場する。

 

短い作品なので全文を紹介すると,「まひるつとめにまぎらひて/きみがおもかげ来ぬひまは/こころやすらひはたらきし/そのことなにかねたましき/新月きみがおももちを/つきの梢にかゝぐれば/ 凍れる泥をうちふみて/さびしく恋ふるこゝろかな」(宮沢,1985;下線は引用者)というものである。

 

「かかぐる」は「手探りで探し求める」とか「たどる」の意味である。昼,勤めている間は気持ちが紛れて恋人を忘れていられるが,新月の夜は,「つきの梢」に恋人の面影を探し求めて寂しくなるという意味である。この「つき(=ケヤキ)」を「移住者」の末裔としての賢治自身として深読みすれば,賢治は,恋人が去ったあと自分の腕(「つきの梢」)の中に残る恋人の温もりが思い出されて無性に寂しくなると言っている。

しかし,恋人と賢治だけでなく,「先住民」と「移住者」がうまく共存して天然ではなく「ほんとう」の「誘接」のように1本にはなかなかなれない。

 

制作時期は不明だが『春と修羅 詩稿補遺』の「休息」には,「東北」の大地に生える(住む)「スギ(杉)」(=先住民)と「ケヤキ(槻)」(=移住者)の対立が描かれている。

  地べたでは杉と槻の根が、
  からみ合ひ奪ひ合って
  この痩せ土の草や苔から
  恐ろしい静脉のやうに浮きでてゐるし
  そらでは雲がしづかに東へ流れてゐて
  杉の梢(ウラ)は枯れ
  槻のはずゑは何か風からつかんで食って生きてるやう
    ……杉が槻を枯らすこともあれば
      槻が杉を枯らすこともある……
     (米穫って米食って何するだぃ?
      米くって米穫って何するだぃ?)
  技手が向ふで呼んでゐる
  水はうるうるとはんぶんそらに溶けて見え
  またむっとする青い稲だ       (宮沢,1985)

 

賢治は,「ほんとうの百姓になる」ことを決意する。大正15(1926)年に花巻農学校を依願退職し,昼間は周囲の田畑で農作業を,夜は私塾(羅須地人協会)などで農民に稲作指導をしたり,無料で肥料設計事務所を開設して農民の肥料相談に乗ったりするようになる。最初は「ほんとうの百姓になった」つもりでいたかもしれないが,農民(多くは先住民)たちがそれを認めているわけではない。

 

その当時に作った賢治の『春と修羅 第三集』〔土も掘るだらう〕(1927.3.16)には「土も掘るだらう/ときどきは食はないこともあるだらう/それだからといって/やっぱりおまへらはおまへらだし/われわれはわれわれだと/……山は吹雪のうす明り……/なんべんもきき/いまもきゝ/やがてはまったくその通り/まったくさうしかできないと/……林は淡い吹雪のコロナ……/あらゆる失意や病気の底で/わたくしもまたうなづくことだ」とある。農民たちは頑として百姓としての賢治を受け入れようとはしないのである。この農民が示す「疑い」や「反感」は「やっぱりおまへらはおまへらだし/われわれはわれわれだ」とあるように,賢治個人というよりは,宮沢一族あるいは賢治が密接に生活を共有している共同体組織すなわち「移住者」の共同体意識に対して向けられているように思われる。たとえ賢治が農民のために最善を尽くしたとしても同じであろう。

 

大概は,賢治のようにはならなくて,逆に「移住者」が「先住民」を蔑視することが多いように思われる。童話『銀河鉄道の夜』で,裏町に住み北の海で「ラッコ」を密漁する「先住民(狩猟民)」と思われる父をもつジョバンニは,アルバイト先の活版所で大人たち(町の人)から冷たい目線を浴びせられる。

 

農民(先住民)の中に入り込めない挫折感は『春と修羅 詩稿補遺』の「境内」という作品の中でも見られる。詩の中の「おれ(=賢治)」が学校前の荒物屋で昼飯にと思ってパンはありませんかと尋ねると,朝から酒を飲んでいる農民らしい爺さんが主人の代わりにパンを店の棚の中から親切そうに探してくれる。しかし,それは親切からではなく「おれ」をからかうものであった。詩は以下のように続く。「それから大へんとぼけた顔で/ははあ食はれなぃ石バンだと/さう云ひながらおれを見た/主人もすこしもくつろがず/おれにもわらふ余裕がなかった/あのぢいさんにあすこまで/強い皮肉を云はせたものを/そのまっくらな巨きなものを/おれはどうにも動かせない/結局おれではだめなのかなあ」(下線は著者)とある。

 

 この詩の中の「石バン」とは「石盤」のことで,荒物屋に置いてある「石盤」をパンと言って,酒を飲んでいるということもあるが「金持ちが俺らをばかにして」という意味も込めて「おれ(=賢治)」を嘲っている。賢治の生きた時代には,パンは西洋から来たもので近代化を象徴する食べ物であり,まして農村などでは口にされることもまれであった(原,1999)。ここで賢治は,近代という時代に取り残されて「貧しさ」の中にある「先住民(農民)」の集団あるいは「先住民」の「移住者(宮沢一族あるいは町の人)」に対する「疑い」や「反感」の共同体意識を動かしがたい「まっくらな巨きなもの」と呼んでいるように思える。

 

同じく,『春と修羅 詩稿補遺』の「会見」でも,農学校時代の教え子の父親から言われたであろう同様の皮肉の言葉が綴られている。詩「会見」には,「(この逞ましい頬骨は/やっぱり昔の野武士の子孫/大きな自作の百姓だ)/ (息子がいつでも云ってゐる/技師といふのはこの男か/も少しからだも強靱(シナ)くって/何でもやるかと思ってゐたが/これではとても百姓なんて/ひどい仕事ができさうもない/だまって町で月給とってゐればいゝんだが)」とある。

 

先住民」の共同体意識に基づく「移住者」への皮肉は,賢治の作品の中では「怒り」となって現れることもある。寓話『土神ときつね』では,「先住民」を象徴するボロ服を着た「土神」と,南から来たハイネの詩を愛読し,ドイツ製の望遠鏡を取り寄せるという近代的な文化人風の「移住者」の「狐」が登場してくるが,「土神」は「狐」の自慢話に腹が立ち,「むらむらっと怒りました。顔も物凄くまっ黒に変わったのです。美学の本だの望遠鏡だのと,畜生,さあ,どうするか見ろ,といきなり狐のあとを追ひかけました」(下線は著者),そして最後には「狐」を殺してしまう。

 

童話『銀河鉄道の夜』でも,北米大陸の「先住民」であるインディアンは「巨きな黒い野原」から登場し近代を象徴する列車を追ってくる。また,夢から覚めかけた時に,先住民側のジョバンニはぎくっとし,また移住者側のカムパネルラは避けるようにしながら指さす「大きなまっくらな孔」(石炭袋)も登場してくる。このように,賢治は,「移住者」にとって理解しがたく,また自分に向かってくる「先住民」の集団あるいは「先住民」の共同体意識(まっくらな巨きなもの)を作品で繰り返し取り上げている(続く)。

 

引用文献

有岡利幸.2004. 日本植物文化誌.八坂書房.東京.

有岡利幸.2016. ものと人間の文化史 176. 欅(けやき).法政大学出版局.東京.

原 子朗.1999.新宮沢賢治語彙辞典.東京書籍.東京.

石井竹夫.2017.宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に登場する赤い腕木の電信柱(前編).人植関係学誌.17(1):23-27.

石井竹夫.2018. 宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の発想の原点としての橄欖の森-カムパネルラの恋 前編-.人植関係学誌.17(2):27-30.

宮沢賢治.1985.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.東京.

高橋克彦.2017.東北・蝦夷の魂.現代書館.東京.

高橋 崇.2012.蝦夷.中央公論新社.東京.

辰巳和弘.2009.聖樹と古代大和の王宮.中央公論新社.東京.

梅原 猛.2011.日本の深層-縄文・蝦夷文化を探る.集英社.東京.

 

本稿は人間・植物関係学会雑誌18巻第1号15~18頁2018年に掲載された自著報文(種別は資料・報告)を基にしたものである。原文あるいはその他の掲載された自著報文は人間・植物関係学会(JSPPR)のHPにある学会誌アーカイブスからも見ることができる。http://www.jsppr.jp/academic_journal/archives.html