宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』-カムパネルラの恋(3)-

Keywords: アイヌ神謡集,バルドラの野原,文学と植物のかかわり,カーバイド,化石,蠍の火,先住民,炭酸石灰,ウミサソリ,楊(やなぎ)

 

本稿(2)に続けて童話『銀河鉄道の夜』がいかにして生まれたかについて,この物語に登場する「バルドラの野原の一匹の蠍」と『アイヌ神謡集』の神謡「梟(ふくろう)の神の自ら歌った謡“銀の滴降る降るまわりに”」の関係を検討することによって明らかにする。

 

1.「楊」と「バルドラの野原の一匹の蠍」

1)「楊」と「蠍の火」

銀河鉄道の列車は「コロラド高原」を過ぎると「楊(やなぎ)」に透かし出されたまっ赤に燃える美しい「蠍の火」を見ることになる(第1図)。ここで登場する植物は「楊」である。この「楊」はヤナギ科ヤマナラシ属の落葉高木である「アメリカヤマナラシ(別名;アスペン)」(Populus tremuloides Michx.)であろう。コロラド州西部のロッキー山中に「アスペン」(Aspen)という都市がある。「アスペン」という地名の由来は,1880年に,この周辺に深い「ヤマナラシ」の森があったことによって付けられている。

川の向ふ岸が俄かに赤くなりました。楊の木や何かもまっ黒にすかし出され見えない天の川の波もときどきちらちら針のやうに赤く光りました。まったく向ふ岸の野原にまっ赤な火が燃されその黒いけむりは高く桔梗いろのつめたさうな天をも焦がしさうでした。ルビーよりも赤くすきとほりリチウムよりもうつくしく酔ったやうになってその火は燃えてゐるのでした。

「あれは何の火だらう。あんな赤く光る火は何を燃やせばできるんだらう。」ジョバンニが云ひました。

「蠍の火だな。」カムパネルラが又地図と首っ引きして答へました。 

「あら,蠍の火のことならあたし知ってるわ。」

「蠍の火って何だい。」ジョバンニがききました。

蠍がやけて死んだのよ。その火がいまでも燃えてるってあたし何べんもお父さんから聴いたわ。」

「蠍って,虫だらう」

「えゝ,蠍は虫よ。だけどいゝ虫だわ。」

「蠍いゝ虫ぢゃないよ。僕博物館でアルコールにつけてあるの見た。尾にこんなかぎがあってそれで螫(さ)されると死ぬって先生が云ったよ。」         (宮沢,1985)下線は引用者  

 

我が国のヤナギ科ヤマナラシ属には「ドロノキ」(白楊;Populus maximowiczii A.Henry),「ヤマナラシ」(ハコヤナギ;Populus tremula L. var.sieboldii),ウラジロハコヤナギ(ギンドロ;Populus alba L.)などがある。これらヤナギ科ヤマナラシ属の植物は,賢治に生きた時代ではマッチの軸木として使われた。マッチの軸木になる条件として,白く適当に長く燃え,また小さく細く切断するために材は柔らかく強靭なものでなくてはならなかった。 特に「ドロノキ」(白楊)は3年を経たない稚木が最も白色に成りやすく光沢もあるということで,稚木のうちに盛んに伐採され岩手県では絶滅が危惧されたという。これらヤマナラシ属の植物は,自ら(あるいは種として)の命を絶ち,その体をマッチの軸木に変え「炎」となって人々の生活向上に貢献している。

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第1図.楊の木に透かし出された蝎の火

 

『法華経』の第23章「薬王菩薩本事品」には,薬王菩薩が前世において,日月浄明徳如来という仏のもとで修業し「現一切色身三昧」という神通力をもつ境地を得ることができたので,そのお礼として自ら妙香を服し香油を身に塗って,その身を燃やし仏を供養したという逸話が説かれている。賢治にとって,「楊」は,まさに『法華経』に出てくる薬王菩薩の化身である(石井,2014,2015)。

 

賢治がこの場面で,「法華経」の「焼身自己供養」を象徴する「楊」を登場させたのは,ジョバンニの言う「僕はもうあのさそりのやうにほんたうにみんなの幸のためならばそしておまへのさいはひのためならば僕のからだなんか百ぺん灼(や)いてもかまはない」ということと関係すると思われるが,「蠍の火」が「楊」に透かし出されると美しく燃え上がる意味については後述する。

 

 

2)「バルドラの野原」

さらに,「女の子」は父から聞いた「バルドラの野原の一匹の蠍」の話を続けてジョバンニとカムパネルラにする。

(上記引用文に続く)

「そうよ。だけどいゝ虫だわ,お父さん斯う云ったのよ。むかしバルドラの野原に一ぴきの蠍がゐて小さな虫やなんか殺してたべて生きてゐたんですって。するとある日いたちに見附かって食べられさうになったんですって。さそりは一生けん命遁げて遁げたけどたうたういたちに押へられさうになったわ,そのときいきなり前に井戸があってその中に落ちてしまったわ,もうどうしてもあがれられないでさそりは溺れはじめたのよ。そのときさそりは斯う云ってお祈りしたといふの,あゝ,わたしはいままでいくつのものの命をとったかわからない,そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときあんなに一生けん命にげた。それでもたうとうこんなになってしまった。あゝなんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちに呉れてやらなかったらう。そしたらいたちも一日生きのびたらうに。どうか神さま。わたしの心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかひ下さい。って云ったといふの。そしたらいつか蠍はじぶんのからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えてよるのやみを照らしてゐるのを見たって。いまでも燃えてるってお父さん仰(おっしゃ)ってたわ。ほんたうにあの火それだわ。」

     (『銀河鉄道の夜』初期形第一次稿 宮沢,1985)下線は引用者

 

この「バルドラの野原」の逸話は, 『アイヌ神謡集』の神謡「梟の神の自ら歌った謡“銀の滴降る降るまわりに”」の「昔のお金持ちが今の貧乏人」と「昔の貧乏人が今お金持ち」の話と似ている。しかし,同時にこの逸話は,詩集『春と修羅』の序(1924.1.20)に「修羅十億年」とあるように,「多細胞生物」から「哺乳類」へ進化していく生命10億年の修羅(生存競争)の歴史をも語っているように思える。「バルドラの野原」の「バルドラ」とは,カラコルム山中の氷河の名バルトロ(Baltro)に由来するとする研究者(定方,2009)もいるが,著者はバルト海(Baltic Sea)に浮かぶスウエーデン領ゴトランド(Gotland)島のことで,「Balt」と「Land」を合成して作った賢治の造語であると思っている。ゴトランド島全体が地質時代の一つである古生代の「シルル紀」(Silurian)(約4億年前)の地層からなり,これら地層が海岸沿いに20〜30mの崖になって露出している。昔(1950年頃まで)は,「シルル紀」を「ゴトランド紀」と呼んでいた。地質学者の賢治も知っていたと思われる。

 

「シルル紀」の地層は良質な石灰岩層を有していて,「石灰岩」の中には腕足類や三葉虫類,貝形虫類,軟体動物や棘皮動物の化石群が豊富に含有されている。北上山系の南に位置する一関市東山町でも「シルル紀」〜「白亜紀」の地層が分布している。「女の子」の言う一匹の「蠍」とは,「そこが島でもなかったとき/そこが陸でもなかったとき」,すなわち海の底であったときに生息していた「蠍」すなわち「ウミサソリ」のことである。世界的に有名なゴトランド島は,石灰岩層の中に「ウミサソリ」の化石が多数見つかる。

 

「ウミサソリ(Eurypterida)」は,無脊椎動物(広翼目)に属し,古生代「オルドビス紀」後期に出現し,古生代の「シルル紀」から「ペルム紀」までの約2億年に及ぶ長い年月,太古の浅海の底で暮らしていた生物である。長楕円形の胴体前方に一対のハサミを持ち,後方に長い尾があり,陸の「サソリ」の様に尾を立てて海の底を闊歩していた。「シルル紀」の海は栄養豊富で小さな三葉虫や魚が沢山いて,それを捕食する「ウミサソリ」は大型化し,米国のニューヨーク近郊で発見された化石(Acutiramus macrophthalmus )が示すように体長2メートルを超えるものもいた(福田,2005)。

 

「ウミサソリ」は「シルル紀」の海の底では食物連鎖の頂点にあり我が物顔で生活していた。まさに「シルル紀」の海は「ウミサソリ」にとってパラダイスであった。しかし,「デボン紀」を過ぎるころには魚類も巨大化し逆に捕食される側になることもあった。「シルル紀」は,また生命進化にとって最も重要な時期でもある。植物と動物の海から陸への上陸である。動物で先陣を切ったのが「ウミサソリ」の仲間だとされる。現生のクモ類と同様の陸上生活可能な呼吸器の書肺を備えた小型の「ウミサソリ」が「シルル紀」中期に陸上へ進出していく。この書肺を備えた小型の「ウミサソリ」はやがて,陸生の「サソリ」へと進化していくが,大型化することもなく現代に至っている。

 

陸生の「サソリ」は昆虫などを捕食するが,天敵も多く「イタチ」などの哺乳動物の格好の餌となってしまう。「サソリ」は夜行性(弱視)で,暗闇や物陰を好む。一方,我々の祖先である脊椎動物の魚(アランダスピス)も「シルル紀」(4億6千万年前)に誕生しているが,「デボン紀」(3億6千万年前)に原始両生類のイクチオステガ(「鎧に覆われた魚」の意)が陸へ上陸している。その後,中生代の「三畳紀」には初期の哺乳類が,そして「白亜紀」の後期頃(1億年前)には「イタチ」など現在も繁栄している哺乳類が誕生してくる。また,哺乳類の頂点に立つ現生人類はたかだか14〜20万年の歴史しかなく,人種や民族は多いが全て祖先は同じであることが知られている(アフリカ単一起源説)(ウオード・カーシュヴィング,2016)。

 

「ウミサソリ」という言葉は,賢治の作品には登場してこない。しかし,農学校時代の教え子の話をまとめた畑山 博の著書(2017)によれば,賢治は土壌学の授業で古生代の海の生物として「フデムシ」,「ウミサソリ」,「オウムガイ」,「ボトリオレピス」を生徒にまるで懐かしい親戚のことでも話すように聞かせたという。

 

このように,童話『銀河鉄道の夜』の「女の子」の「むかしバルドラの野原でサソリが虫などを食べていたが,イタチに見つかって逃げようとして暗い井戸に落ちてしまった」という話は,「昔のお金持ちが今の貧乏人」である「ウミサソリから進化した陸サソリ」と,「昔の貧乏人が今お金持ち」の「魚から進化したイタチ」の地質時代5億年の「生存競争」(修羅)の歴史が語られている。「アイヌ」の「神謡」では,「昔のお金持ちが今の貧乏人」が「梟」の神に対して祈りを捧げると「昔のお金持ちが今の貧乏人」と「昔の貧乏人が今お金持ち」と共に仲良く暮らせる社会が訪れる。

 

一方,『銀河鉄道の夜』では,「サソリ」が井戸の中で「神」に「こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかひ下さい」(下線は著者)と祈ると「サソリ」は,まっ赤な炎(蠍座のアンタレス)になって夜の闇を照らすようになる。この場面での「サソリ」の祈る対象である「神」とは何であろうか。

 

3)「サソリ」が祈る対象としての「神」

賢治は,「サソリ」が祈る対象としての「神」を「アイヌ」の「神」(梟)ではなく,近代化をもたらす「近代科学」に置き換えた。前報で「蠍の火」は,カーバイド工場で「カーバイド」(炭化カルシウム;calcium carbide,CaC2)を作るときにでる工場からの「炎」をイメージできることを報告した(石井,2015)。「カーバイド」は,「石灰」(酸化カルシウム;CaO)と炭素(C)の混合物を電気炉で加熱(約2000℃)することによって作られる化合物である。「カーバイド」は,普通の燃料の燃焼では容易に合成することはできない。反応を容易にするためには,グラファイト電極を具えた電気炉を使い約2000℃に加熱することが必要なのである。「カーバイド」は1862年にドイツの化学者であるヴェーラー(Wohler F. ;1800 - 1882)によって初めて合成され,1892年にカナダ人の化学者であるウイルソン(Willson T.;1860 - 1915) によって工業化がなされた(大塩,2017)。だから,カーバイド合成過程で発生する「炎」は人間による人工的な「近代科学」の「炎」でもある。

 

また,「カーバイド」の合成に使う「石灰」は「石灰岩」(主成分は炭酸カルシウム;CaCO3)を焼いて作る。すなわち,「カーバイド」は「石灰岩」から作られている。「石灰岩」の中には,「シルル紀」に繁栄していた海の生物が化石化されたものも多数含まれている。その中には「ウミサソリ」もいる。「ウミサソリ」は,石灰質の外骨格を持つ三葉虫や貝形虫と違って化石化しにくいが,外被はカブトガニに近い石灰分を含むキチン質でできているためゴトランド島の「ウミサソリ」のように条件がよければ化石として産出する。

 

日本でも,岩手県大船渡市鬼丸砕石所で古生代前期の日頃市層から「ウミサソリ」と見られる化石が発見された(岩手県地学教育研究会,1988)。多くは,形も崩れ識別できるものは少ないのかもしれない。すなわち,カーバイド工場では,「ウミサソリ」を含む「石灰岩」を「近代科学」の技術を使って「カーバイド」を生産しているということになる。『銀河鉄道の夜』で「蠍の火」に対して「女の子」が「蠍がやけて死んだのよ。その火がいまでも燃えてるってあたし何べんもお父さんから聴いたわ。」(下線は著者)と言ったことに対応する。

 

「カーバイド」は水と反応するとアセチレンを生成するので,当時は集魚灯などの照明用のアセチレンランプに使用された。また,窒素と反応するとカルシウムシアミド(calcium cyanamide)が得られるが,これは「石灰窒素」の成分であり化学肥料として使われる。このように,「カーバイド」は,近代漁業や近代農業に多大な恩恵をもたらした。

 

また,「石灰岩」自身も,細かく粉砕すれば酸性土壌の北上山系の土壌を中和することもできる。賢治は,1924年5月に生徒を引率して北海道修学旅行をしているが,そこで「石灰岩抹」が販売されていることを知って,東北の酸性土壌を改良して豊かな牧草地や耕地にするという夢を見たりもした。帰校後に書いた「修学旅行復命書」には,「これ酸性土壌地改良唯一の物なり。米国之を用ふる既に年あり。内地未だ之を製せず。早くかの北上山地の一角を砕き来りて我が荒涼たる洪積不良土に施与し草地に自らなるクローバーとチモシイとの波を作り耕地に油々漸々たる禾穀を成ぜん」と記している。

 

「ウミサソリ」が「神」に祈ったとき,それを聞き入れたのは「梟」ではなく「近代科学」の技術を持つ化学者たちであり,「昔のお金持ちが今の貧乏人」である「ウミサソリ」を「東北」の先住民たちに「幸せ」をもたらす「聖」なる生き物にした。しかし,「近代科学」は人々に物質的な豊かさをもたらすが,様々な弊害(人間の自然征服・商品機械化,自由の喪失,苦痛を強いる労働など;『農民芸術の興隆』より)ももたらす。『農民芸術概論綱要』(1926年頃)にも「宗教は疲れて近代科学に置換され然も科学は冷たく暗い」と記載されている。

 

そこで,賢治は,「近代科学」に「宗教」あるいは「芸術」を一致させようとした。そして,「法華経」の「焼身自己犠牲」の暗喩である「楊」を「蠍の火」の近くに置いた。「楊」で透かし出された「近代科学」の「炎」は美しく燃え上がる。すなわち,賢治は,「近代科学」と「宗教」を融合した「キメラ」を半身半獣の「ケンタウロス」になぞらえて「アイヌ」の「神(カムイ)」である「梟」と入れ替えたのである。このように,賢治は,「ウミサソリ」を含む「石灰岩」をもとに作られた「炭酸石灰」や「石灰窒素」と「法華経」の精神を融合させて「東北」の酸性土壌の大地を農業に適した大地に変えることができれば,「先住民」と「移住者」及びその末裔たちが共に「幸せ」に暮らせるときが訪れると信じたように思える。先述したように,地球上には多くの民族が存在し,互いの争いごとも多いが祖先を人類誕生まで遡れば同じ一族である。『アイヌ神謡集』の「梟」が語る「先住民」も「移住者」も「私共は一族の者なのですから」という「神」の声と重なる。

 

『銀河鉄道の夜』(初期形第一次稿)の中で「蠍の火」の向こうに「三角標」が出現するが,これは前報(石井,2015)でも記したように「カーバイド工場」へ電力を送電するための「送電鉄塔」(三角点)をイメージしている。

 

『アイヌ神謡集』は,大正11年(1922)年後半から12年(1923)中に書かれたとされる寓話『土神ときつね』に影響を及ぼしたとされている(秋枝,2017)が,童話『銀河鉄道の夜』にも多大な影響を及ぼしている。賢治は,『アイヌ神謡集』を1923年8月の出版後すぐに読んだと思われる。そして,1924年5月に生徒を引率して北海道修学旅行をして王子製紙の苫小牧工場を見学している。賢治は,苫小牧で一泊しているので,夜に宿泊所から苫小牧工場に隣接している北海カーバイド工場(1912-1924)の夜空を焦がす「炎」も見ている。多分,賢治がその「炎」が何を燃やしてできているのかを確認できたとき,賢治の頭の中で,恋の破局からくる「怒り」あるいは「焦燥感」から導かれた『銀河鉄道の夜』(初期形一次稿)の基本骨格は出来上がったと思う。

 

2.賢治の償い

賢治の詩集『春と修羅』の「雲とはんのき」(1923.8.31)に「(ひのきのひらめく六月に/おまへが刻んだその線は/やがてどんな重荷になつて/おまへに男らしい償ひを強ひるかわからない)/ 手宮文字です 手宮文字です」という詩句がある。澤口(2011)は,賢治が1923年という年に恋人に対して何らかの決心をせまられていたのではないかと推測している。

 

「手宮文字」とは,北海道小樽市の洞窟遺跡に「先住民」が刻んだ線刻で,これが文字なのか彫刻なのか謎とされているものである(原,1999)。 また,引用詩句の「ひのきのひらめく六月」とは,澤口(2011)によれば,この詩を詠んだ前年の六月二十七日のことだと推測している。この日に書かれた詩集『春と修羅』の有名な詩「高原」に「海だべがど おら おもたれば/やつぱり光る山だたぢやい/ホウ/髪毛風吹けば/鹿(しし)踊りだぢやい」とあるように,恋人の「心」を暗喩する長い髪の毛が「種山ヶ原」の透明な風に吹かれて鹿踊りの鹿の長いたてがみのように乱れた(下書稿では「高原」は「叫び」になっている)。

 

詩「雲とはんのき」の「おまへに男らしい償ひを強ひる」とは何だろう。多分,「おまえ」を「自分へ」と読み替えれば,賢治は恋人に何らかの償いをすることを考えていたようである。この詩の最後の五行は,「わたくしはたつたひとり/つぎからつぎと冷たいあやしい幻想を抱きながら/一挺(ちょう)のかなづちを持つて/南の方へ石灰岩のいい層を/ さがしに行かなければなりません」とある。多分,この「男らしい償ひ」は「石灰岩」から作られる肥料の仕事と関係しているように思える。

 

大正15(1926)年,賢治は,花巻農学校を依願退職し,「ほんとうの百姓になる」ことを決意し,昼間は周囲の田畑で農作業を,夜は私塾(羅須地人協会)などで農民に稲作指導をしたり,無料肥料設計事務所を開設して農民の肥料相談に乗ったりするようになる。しかし,肥料相談や農業指導に奔走したことで,昭和3(1928)年の夏に倒れ(両側肺浸潤),以後実家で病臥生活となる。 

 

なぜ安定した給料が得られる農学校を辞め,ここまでやらなければならないのかに対して,農学校の同僚白藤慈秀の話として,「-宮澤さんの生涯の仕事は,大きい構想を立ててやられたものです。農村と農民に味方して,あらゆることの,土台になっています。「町の人たちが,農村をバカにしているのは怪(け)しからない」と,言い言いしておりました。糞尿(こえ)をくまないで町の人たちをこまらしてやれといった事も言ったりしておりました。化学肥料を使えば,いっこう町のコエを使わなくてもいいと言うのです。花巻黒沢尻あたりの財閥は,農村を搾取してできたものだ。これをまた農村に返させるのが自分の仕事だといっていました。-」という逸話が残っている(堀尾,1991)。

 

この逸話の「町の人たち」を「昔の貧乏人が今お金持ち」の「移住者」,「農民」を「昔のお金持ちが今の貧乏人」の「先住民」とすれば理解しやすいかもしれない。しかし,賢治の努力も資金が親頼みということもあって,農民からは金持ちの道楽と受け止められるようなこともあった。

 

賢治は,健康が回復しつつあった昭和四〜五年(1929 - 1930)年に,偶然にも北上山系の南にある一関市東山町にある東北砕石工場の鈴木東蔵に出会うことになる。鈴木は「石灰岩」とカリ肥料を加えた安価な合成肥料の販売を計画していて,「東北」の酸性土壌の大地を「石灰岩末」で中和することを夢みていた賢治はそれに賛同する。翌(1931)年の二月には,東北砕石工場の嘱託技師になり,製品の改良,広告文の作成,製品の注文取りと販売など東奔西走する。賢治は「石灰岩末」を農民にもわかりやすくするため肥料用の「炭酸石灰」と命名している。仕事に対する報酬も現物支給の形だがもらっている(佐藤,2000)。しかし,この仕事も賢治の病弱な体には荷が重すぎていて,また高熱で倒れ病臥生活に戻ってしまう。

 

賢治にとって「男らしい償ひ」とは,「炭酸石灰」で「東北」の大地を豊かにするという捨て身の菩薩行だったのかもしれない。活動最盛期に当たるときに詠んだ文語詩未定稿〔せなうち痛み息熱く〕(1931年頃)の下書稿には,当時の賢治の心境が克明に描かれている。痛みや熱を押しての訪問販売を終えて帰宅しようとした午後の一関駅当たりの待合室の風景描写である。下書稿の一部(宮沢,1985)を紹介する。

(前略)営利貴賤の徒にまじり/十貫二十五銭にて/いかんぞ工場立たんなど/よごれしカフスぐたぐたの/外套を着て物思ふ/わが姿こそあはれなれ(後略)

 

ここでは,「よごれしカフスぐたぐたの外套」を着て,製品である「炭酸石灰」を十貫二十五銭で売っては商売が成り立たないなどと思案している賢治の姿がある。そして,そのような自分を「わが姿こそあわれなれ」と表現している。「営利貴賤の徒」とは,詩ノートの〔わたくしどもは〕(1927.6.1)の仮想の妻が,夫が美しいという理由で二十銭で買った花を二円で売った話にも通じるが,かつては賢治自身が忌み嫌っていたものがいつのまにか自分自身も同じになってしまったというのである。

 

しかし,自分自身が「哀れ」なのだということを訴えているのではない。賢治はこのとき,恋人の側にやっと並んで立つことができたのだということを噛みしめているのだと思う。同様に,昭和6(1931)年頃と思われる「雨ニモマケズ手帳」に記載された文語詩〔きみにならびて野に立てば〕の下書稿には以下のような詩句が並ぶ。

 きみにならびて野にたてば/風きらゝかに吹ききたり/柏ばやしをとゞろかし/枯葉を雪にまろばしぬ(中略)<「さびしや風のさなかにも/鳥はその巣を繕(つぐ)はんに/ひとはつれなく瞳(まみ)澄みて山のみ見る」ときみは云ふ>/あゝさにあらずかの青く/かゞやきわたす天にして/まこと恋するひとびとの/とはの園をば思へるを (宮沢,1985)

この詩の「きみ」が誰を指しているのかについては諸説がある。著者は,この「きみ」は,賢治の相思相愛で異国の地で亡くなった恋人であると思っている。詩「雨ニモマケズ」が賢治のそうありたいという願望が表現されているなら,この詩〔きみにならびて野に立てば〕も賢治の願望が表現されているように思える。もしも,恋人と再び「イーハトーブ」の大地に立てるなら,賢治は,「とはの園(ドリームランド)」を目指して恋人と並んで立つこともできると誓ったのであろう。

 

童話『銀河鉄道の夜』で夢から覚めかける時に「二本の電信柱」が「丁度両方から腕を組んだやうに赤い腕木をつらねて立ってゐました」と登場してくるが,著者は,前報(石井,2018)でこの2本は,1本が賢治でもう1本は妹のトシあるいは友人の保阪嘉内ではないかと推定したが,決して名を明かしてはいけない賢治の相思相愛の恋人も忘れてはならない。

 

引用文献

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本稿は人間・植物関係学会雑誌17巻第2号27~32頁2018年に掲載された自著報文(種別は資料・報告)を基にしたものである。原文あるいはその他の掲載された自著報文は人間・植物関係学会(JSPPR)のHPにある学会誌アーカイブスからも見ることができる。http://www.jsppr.jp/academic_journal/archives.html