宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

賢治は文語詩「敗れし少年の歌へる」に登場する「びゃくしん」を実際に見たのか(1)

 

「びゃくしん」が文語詩「敗れし少年の歌へる」の「ひかりわななくあけぞらに/清麗サフィアのさまなして/きみにたぐへるかの惑星(ほし)の/いま融け行くぞかなしけれ/雪をかぶれるびゃくしんや/百の海岬いま明けて/あをうなばらは万葉の/古きしらべにひかれるを」(宮沢,1985,下線は引用者,以下同じ)という詩句の中に登場してくる。本稿は賢治がこの「びゃくしん」という名の植物を実際に見て詩を創作したのかどうかを考察する。

 

詩「敗れし少年の歌へる」は大正14年(1925)1月6日の日付のある詩「暁穹への嫉妬」を七五調で文語詩化したものである。賢治は大正14年(1925)1月5日から9日までのあいだ,三陸地方へ旅行したとされている。賢治研究家の木村東吉(1994)の推測によれば,賢治は1月5日に花巻から 21時59分発の東北本線夜行列車に乗って北へ向かい,翌日に八戸で八戸線に乗り換え,6時5分に三陸の種市に到着した。その後,徒歩または乗合自動車で三陸海岸を南下し,夜は下安家(しもあっか)の旅館に宿泊したとなっている。ちなみに,宮古測候所のデータによれば1月6日の天候は終日快晴で前日小雪が降っていたということである。また,この日の三陸の薄明開始は5時17分,日の出は6時52分である(加倉井,2024)。つまり,1月6日の日付のある詩「暁穹への嫉妬」は種市から下安家の間の海岸で創作したことになる。野田村あたりとも言われている。

 

賢治は種市から下安家の間の海岸で「びゃくしん」を見たのであろうか。林野庁東北森林管理局(2024)のHPにある管内の樹木一覧(針葉樹)には,三陸に自生する「びゃくしん」と名のつくのはヒノキ科の「ビャクシン」(Juniperus chinensis L.)と「ハマハイビャクシン」(Juniperus chinensis L.var. pacifica (Nakai)Kusaka)の2つとある。

 

また,岩手県環境生活部自然保護課(2024a)の作成した資料によると,「ビャクシン」は樹高15~20m,胸高直径50cmになる常緑高木で,樹皮は赤褐色で剥離しやすく,主幹はねじれることが多いとある。葉は2型で,成長すると鱗片葉,幼時あるいは下枝は針状葉があるとされる。海岸の岩の上で,時には石灰岩上にも生育するとされる。岩手県での分布は久慈市,田野畑村,宮古市,山田町,釜石市,大船渡市などである。岩手県での希少性はCランクに準じるDランクである。Cランクは存続基盤が脆弱な種で環境省レッドデータブックカテゴリーの「準絶滅危惧」の基準に相当する。

 

つまり,文語詩「敗れし少年の歌へる」に登場する「びゃくしん」がヒノキ科の「ビャクシン」(Juniperus chinensis L.)であるなら,たとえそれが希少な植物であっても自生が確認されているので,賢治が三陸地方へ旅行したとき「ビャクシン」を見た可能性は高い。そして,それを見たとすれば,晩年に詩「暁穹への嫉妬」を文語詩にするときに「雪をかぶれるびゃくしんや」と詠ったと思われる。

 

だが,本稿はこれで終わりとはならない。前述したように詩「敗れし少年の歌へる」は詩「暁穹への嫉妬」を基にしたものである。詩「暁穹への嫉妬」の詩句をよく見ると「びゃくしん」という言葉はなく,別の植物が記載されていた。(続く)

 

参考・引用文献

岩手県環境生活部自然保護課.2024a(調べた年).イブキ(ビャクシン).いわてレッドデータブック 岩手の希少な野生生物 web版.https://www2.pref.iwate.jp/~hp0316/rd/rdb/01shokubutu/0551.html

木村東吉.1994.旅の果てに見るものは : 《春と修羅 第二集》三陸旅行詩群考.国文学攷.144:19-32.

加倉井 厚夫.2024(調べた日付).賢治の事務所.「暁弯への嫉妬」の創作1925(大正14)年1月6日 http://www.bekkoame.ne.jp/~kakurai/kenji/history/h4/19250106.htm

宮沢賢治.1985.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.

林野庁東北森林管理局のHP.2024(調べた年).管内の樹木一覧(針葉樹).https://www.rinya.maff.go.jp/tohoku/sidou/jumoku/index_n.html