宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

賢治は文語詩「敗れし少年の歌へる」に登場する「びゃくしん」を実際に見たのか(2)

 

前稿で文語詩「敗れし少年の歌へる」に登場する植物は「びゃくしん」であったが,この文語詩の基になった詩「暁穹への嫉妬」には別の植物が記載されていたと述べた。

 

詩「暁穹への嫉妬」(1925.1.6)の後半部は「ぼくがあいつを恋するために/このうつくしいあけぞらを/変な顔して 見てゐることは変らない/変らないどこかそんなことなど云はれると/いよいよぼくはどうしていゝかわからなくなる/……雪をかぶったはひびゃくしんと/百の岬がいま明ける/万葉風の青海原よ……/滅びる鳥の種族のやうに/星はもいちどひるがへる」(宮沢,1985,下書稿手入形,下線は引用者)である。つまり,基になった詩には「びゃくしん」ではなく「はひびゃくしん」になっていたのである。振り出しの戻ってしまったようである。

 

本稿は,賢治が詩「暁穹への嫉妬」に登場する「はひびゃくしん」を実際に見たのかどうか議論するが,その前に,なぜ「はひびゃくしん」から「びゃくしん」に変わったのかについて考察する。

 

賢治研究家の三浦修と平塚明(2004)がはっきりとは言っていないが1つの仮説のようなものを出していた。つまり,賢治の「はひびゃくしん」から「びゃくしん」への変更の理由は,不明としながらも賢治が「ハイビャクシン」の岩手県での自生が疑わしいことに気づいたからかもしれないというものだった。しかし,私は自生が疑わしいからでなく字数の問題だと思っている。「ビャクシン」と「ハイビャクシン」は言葉では似ているが,前者は10~15mにもなる高木で,後者は「ハイ」とあるように地を這う植物で,後述するが1mにもならない低木である。別物である。自生が疑わしいからといって別の植物にすることはできないと思われる。

 

詩「暁穹への嫉妬」の「雪をかぶったはひびゃくしんと」を七五調に変換すると「雪をかぶれるびゃくしんや」ではなく「ゆきをかぶれるはひびゃくしんや」となり,かなりの字余りが生じてしまう。「ゆきをかぶれる」は7文字,「はひびゃくしんや」は「びゃ」を1文字としても7文字で七七調になってしまう。つまり,詩「暁穹への嫉妬」を文語詩化するにあたって,「はひびゃくしん」を「びゃくしん」にしたのは植物名を見誤ったからではなく,七五調を維持するためだったからと思われる。サクラ属の「ヤマザクラ」を単に属名の「サクラ」と言うようなものである。つまり,文語詩「敗れし少年の歌へる」に登場する「びゃくしん」は「はひびゃくしん」のことと思われる。

 

本題に戻る。「はひびゃくしん」とはどんな植物であろうか。多分,「はひびゃくしん」はヒノキ科の「ハイビャクシン」(Juniperus chinensis L. var. procumbens Siebold ex Endl. )のことと思われる。我が国では江戸時代の『大和本草』にも記載されているように,古くから知られていた植物である。「ハイビャクシン」は学名のJuniperus chinensis L.の後に「var. procumbens」とあるように「ビャクシン」の変種(var)である。「var. procumbens」は倒伏形の意味。つまり,「ビャクシン」を母種としているが「ビャクシン」とは異なる植物である。神奈川県藤沢市の長久保公園都市緑化植物園に植栽されている「ハイビャクシン」を第1図に示す。長久保公園では池の周りの置き石の間に植栽されていた。枝の多くは水面に伸びていた。これは「流枝松」(なげしまつ)と呼ばれているもので本種の植え方としては普通に見られるものだという。では,次に賢治が図1のような匍匐(ほふく)する「ハイビャクシン」を実際に三陸海岸で見たのかどうかを検討してみたい。

 

第1図.ハイビャクシン(2024年4月16日 藤沢市長久保公園都市緑化植物園にて) 

A:全景,B:拡大図(葉はほとんどが針状葉で三輪生あるいは十字対生,葉は堅く触ると痛い)

 

岩手県環境生活部自然保護課(2024b)の作製した資料によると,「ハイビャクシン」は高さ1m以下の匍匐性の常緑針葉低木で,幹や枝は地面を這って広がり,横走する枝の多くは先端を上向きに伸ばし,マット状になるとある。見た目も高木である「ビャクシン」とは異なる。また,葉はほとんどが針形状で,三輪生から十字対生になるとある。海岸の崖や砂丘に生育し,県内の個体は蛇紋岩の露岩地に生育するとある。岩手県ではCランクで「ビャクシン」よりも希少な植物である。県内では正法寺及び黒石寺環境緑地保全地域にあるとされる。ちなみに,黒石寺の「黒石」とは賢治が好きな蛇紋岩のことである。この石は暗緑色をしている。しかし,三陸地方に自生するとは記載されていない。2024年版の林野庁東北森林管理局(2024)のHPでも三陸に「ハイビャクシン」は記載されていない。つまり,文語詩「敗れし少年の歌へる」に出てくる「びゃくしん」が「ハイビャクシン」だとすると,賢治が三陸地方へ旅行したとき自生している「びゃくしん」を見たことが疑わしくなるのである。

 

しかし,賢治が生きた時代には三陸に「ハイビャクシン」が自生していた可能性もあるので,大正あるいは昭和初期の論文あるいは著書などにそのことを伺わせる情報があるかどうか調べてみた。運良く,植物学者で岩手大学の教授でもあった菊池政雄(1908~1969)の論文「北上山系の植物相とその植物地理学的考察(I)」(1964)に興味深い記載を見つけた。この論文には,賢治と同じ盛岡高等農林学校出身(現在の岩手大学農学部)でのちに植物学者になった村井三郎(1909~1982)が昭和5年(1930)に陸中野田,種市,船越海岸から,また植物学者の館脇 操が昭和27年(1952)に宮城県の金華山島からそれぞれ「ハイビャクシン」を記録していた と記載されていた。村井が記録したのは『岩手植物誌』(1930)である。種市と船越海岸は賢治の三陸地方への旅行の行程に含まれると思われる。つまり,賢治は旅行先で村井が見つけた「ハイビャクシン」を見た可能性が出てきた。

 

しかし,疑問が生じる。村井が昭和初期に見つけた「ハイビャクシン」は令和の時代になってすべて消滅してしまったのであろうか。ということである。前述したように,林野庁が公表する資料の中に三陸の「ハイビャクシン」は存在しない。

 

この疑問に答えるものが昭和34年(1959)に出版された上原敬二の『樹木大図説』に記載されていた。この植物図鑑には「ハイビャクシン」(Juniperus chinensis L. var. procumbens Siebold ex Endl.)の分布に関して,「自然生のものは岩手県本吉郡宮古港附近,伊豆半島,伊豆大島等にありと報ぜられているがこれはビャクシン属の研究に打ち込んでいる草下正夫氏によれば果たして本種であるかどうか疑わしいとされ,また壱岐,対馬に産するものも中井博士はイハダレネズ(Sabina pacifica Nakai)であるとしている。大井理学博士はイハダレネズとハイビャクシンを同一としているし,草下氏は中井説によって別種としている。こうなると本種の産地は未だ確認されないことになる」と記載されている。

 

前述した菊池政雄の論文には,「岩田草下両氏は北海道や本州北中部海岸産の匍匐性の型に対してハマハイビャクシン(Sabina chinensis var.Sargentii form.glauca(=Sabina Sargentii var.pacifica)と考えた」と記載されている。これは草下正夫の『樹木学談話会報No1』(1956)と岩田利治・草下正夫の『増訂邦産松柏類図説』(1959)に記載されているらしい。菊池の「ハマハイビャクシン」の学名が前述した林野庁のJuniperus chinensis L.var. pacifica (Nakai)Kusaka)と異なるのは,「ハマハイビャクシン」の属名を菊池はビャクシン属(Sabina)と見做しているのに対して林野庁はネズミサシ属(Juniperus)としているからであり,また菊池は「ハマハイビャクシン」を「ミヤマビャクシン(Juniperus chinensis L. var. Sargentii Henry)の1品種(form)と見做しているのに対し,林野庁は「ビャクシン」(Juniperus chinensis L.)の1変種(var)としているからである。つまり,学名は異なるが同じ植物のことである。ちなみに,「ミヤマビャクシン」は早池峰山や安家で見つかる。さらに菊池は論文で「恐らく本州の日本海及び太平洋沿岸に自生し,伏臥性(ふくがせい)を示す本属植物で従来ハイビャクシン或いはミヤマビャクシンとして記録されたものの大部分は本型を指したものであろうと考えられる」と記載し草下の説を支持した。本型とは「ハマハイビャクシン」のことである。菊池は三陸で見つかった「ハマハイビャクシン」を「北方経由のものか或いは氷河期に於けるミヤマビャクシンの低地下降型の子孫と認むべきものではないかと思われる」と考察している。

 

「ハマハイビャクシン」の特徴としては「鱗片葉の合せ目に近い部分に白色を帯びた気孔帯が認められる」とのことである(菊池,1964)。この気孔帯は私が長久保公園で見た「ハイビャクシン」の鱗片葉では,10倍のルーペで観察してもはっきりとは観察できなかった。ただ,針状葉の上面には2列の白色の気孔帯が観察できた。これは植物図鑑にも記載されている。つまり,私が長久保公園で見たのは「ハマハイビャクシン」ではなく「ハイビャクシン」である。

 

現在,国土交通省のHPには「ハマハイビャクシンは三陸地方を代表する海岸植物の一つです」とさえ記載されている。久慈市侍浜(さむらいはま)には「ハマハイビャクシン」の群落(15ha)が見られる。ちなみに,侍浜は種市と野田村の中間にある。「ハマハイビャクシン」は希少種にはされていないので,場所によってはごく普通に見られるのかもしれない。

つまり,賢治は詩「暁穹への嫉妬」の中で「雪をかぶったはひびゃくしん」と詠っているが,この「はひびゃくしん」は,賢治自身が三陸で実際に見たものとすれば,Sieboldらが発見・命名した「ハイビャクシン」ではなく草下正夫らが発見・命名した「ハマハイビャクシン」であった可能性が高い。つまり,賢治は三陸旅行で本物の「ハイビャクシン」を見ていなかった可能性が高い。ただ,これは仕方の無い話である。「ハイビャクシン」と「ハマハイビャクシン」は植物学者でも見分けが付きにくいものである。また,賢治が生きていた時代には「ハマハイビャクシン」の存在は知られていなかったからである。

 

賢治は,見間違ったにせよ,どのようにして三陸の「びゃくしん」を「ハイビャクシン」と同定したのであろうか。可能性は3つある。1番目は賢治が旅行に「ハイビャクシン」が記録されている植物図鑑を持っていった。2番目は賢治が当日に植物をスケッチあるいは標本にして持ち帰って自宅あるいは図書館の植物図鑑などで調べた。3番目は賢治が最初から三陸に「ハイビャクシン」(ハマハイビャクシンの可能性あり)という名の植物があるのを知っていた。である。1番目は自分の体験から考えれば可能性としてはかなり低い。図鑑は重いしかさばるからである。2番目の可能性が一番高いと思われるが,3番目の可能性も十分に考えられる。ただ,ある疑問をクリアーしたらの話である。

 

前述したように村井三郎が三陸にある「ハイビャクシン」を『岩手植物誌』に記録したのは1930年である。賢治が詩「暁穹への嫉妬」(下書稿手入形)を書いたのが1925年なら,賢治は村井の『岩手植物誌』を読むことはできない。これがクリアーしなければならない疑問である。

 

しかし,村井三郎は1930年に『岩手植物誌』を作成するにあたって植物を同定するときに図鑑など以外に盛岡高等農林学校農学科で管理していた植物標本を使い,さらに分類学や樹木学が専門の教授の指導を受けたとされている(室谷,2019)。植物標本には植物名とともに採取日と採取した場所が書き込まれる。賢治も大正4年(1915)に村井と同じ盛岡高等農林学校農学科に入学しているので岩手県の植物標本や植物分布に関する資料を見ることができたし,分類学や樹木学の講義も受けていたはずである。また,賢治の三陸旅行は大正14年(1925)1月が初めてではない。盛岡高等農林学校時代にも行っている。大正6年(1917)7月25日~29日に渡って花巻の実業家による「東海岸視察団」に加わり三陸地方へ出かけている。釜石,大槌町,山田町,宮古町を訪れ,浄土ヶ浜一遊もしている(堀尾,1991)。海岸の植相がどのようなものか知っていたはずである。つまり,1925年の段階で賢治が三陸に「ハイビャクシン」という植物が存在することを知っていたという可能性は十分に考えられるのである。

 

詩「暁穹への嫉妬」(下書稿手入形)を書いたのが1925年ではない可能性もある。『春と修羅 第二集』は同一作品でも3種の清書稿があることから三度に渡って編集し直されたとされている。本稿で引用した詩「暁穹の嫉妬」(下書稿手入形)は二次清書の段階で追加されたものであると推定されているもので,校本宮沢賢治全集に記載されているように二次清書段階の下書稿手入形である。また,二次清書稿がまとめ直されたのは1930年から1932年の間とされている(木村,1994)。これが本当なら,詩「暁穹への嫉妬」を心象スケッチしメモしたのが1924年1月6日でも,それを推敲し二次清書段階の下書稿手入形にしたのは1930年以降ということになる。賢治は,このとき三陸海岸で見た植物を村井の『岩手植物誌』から最終的に「ハイビャクシン」と自信持って確認できたと思われる。

 

私は,賢治の植物を同定する力は相当なものであると思っている。賢治は,三陸地方への旅で1月7日に創作したとされる詩「発動機船 一」に「カヤ(榧)」を「日はもう崖のいちばん上で/大きな榧の梢に沈み」という詩句の中に登場させている。イチイ科の「カヤ」(Torreya nucifera L. Siebold et Zucc.)も岩手県では希少植物(Dランク)である。林野庁の作成した樹木一覧(針葉樹)によれば「カヤ」は北上市国見山が北限とされ,三陸にも産するとある。また,岩手県環境生活部自然保護課(2024c)の作製した資料によれば釜石市,住田町,陸前高田市,奥州市,一関市などに分布するとある。また,1月9日の詩「峠」には「白樺はみな,/ねぢれた枝を東のそらの海の光へ伸ばし」,「あたらしい風が翔ければ/白樺の木は鋼のやうにりんりん鳴らす」と「シラカンバ(白樺)」が登場する。「シラカンバ」も三陸に自生が知られている。つまり,賢治は三陸の「カヤ」や「シラカンバ」も実際に見たと思うが,「カヤ」の存在に関しては「ハイビャクシン」と同様にあらかじめ知っていた可能性が高い。「カヤ」も現場での同定は難しいと思われるからである。

 

多分,当時の植物図鑑に「ハイビャクシン」と一緒に「ハマハイビャクシン」も載っていれば,賢治は詩「暁穹への嫉妬」を創作するとき「ハイビャクシン」ではなく「ハマハイビャクシン」と記載し,文語詩にするときは「ビャクシン」としたと思われる。

 

賢治が文語詩「敗れし少年の歌へる」に登場する「びゃくしん」という植物を実際に見たかどうかについて私なりに考察してきた。「ビャクシン」,「ハイビャクシン」,「ミヤマビャクシン」,「ハマハイビャクシン」など似たような名前の植物がたくさん記載してきたので混乱しそうになる。まとめると以下のようなる。

 

賢治は実際に文語詩「敗れし少年の歌へる」の基になった詩「暁穹への嫉妬」を創作した日に三陸で「びゃくしん」と名がつく植物を見た。だけれど,それは「ビャクシン」(Juniperus chinensis L.)でも「ハイビャクシン」(Juniperus chinensis L. var. procumbens Siebold ex Endl.)でもなく「ハイビャクシン」に似た低木で海岸などに見られる「ハマハイビャクシン」(Juniperus chinensis L.var. pacifica (Nakai)Kusaka)だった可能性が高い。と思われる。また,賢治は三陸地方に旅行する前に当時まだ知られていない「ハマハイビャクシン」が「ハイビャクシン」という名で三陸に自生しているのを事前に知っていた可能性も考えられる。

 

参考・引用文献

堀尾青史.1991.年譜宮澤賢治伝.中央公論社.

岩手県環境生活部自然保護課.2024b(調べた年).ハイビャクシン.いわてレッドデータブック 岩手の希少な野生生物 web版.https://www2.pref.iwate.jp/~hp0316/rd/rdb/01shokubutu/0407.html

岩手県環境生活部自然保護課.2024c(調べた年).カヤ.いわてレッドデータブック 岩手の希少な野生生物 web版.https://www2.pref.iwate.jp/~hp0316/rd/rdb/01shokubutu/0553.html

木村東吉.1994.旅の果てに見るものは : 《春と修羅 第二集》三陸旅行詩群考.国文学攷.144:19-32.

菊地政雄.1964.北上山系の植物相とその植物地理学的考察(I).岩手大学学芸学部研究年報.22:11-44.

三浦 修・平塚 明.2004.宮沢賢治作品の希少植物にみる里山の変化.総合政策.5(3):411-428.

宮沢賢治.1985.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.

室谷洋司.2019.青森県の植物研究先覚者 村井三郎博士の年譜,著作目録など.やぶなべ会報.40:50-64.

林野庁東北森林管理局のHP.2024(調べた年).管内の樹木一覧(針葉樹).https://www.rinya.maff.go.jp/tohoku/sidou/jumoku/index_n.html

上原敬二.1959.樹木大図説.有明書房.

吉本隆明.2012.宮沢賢治の世界.筑摩書房.