宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

人工の翼を付けた『歯車』の主人公を落下させたのは誰か,シルクハットを被った天使か(6)

私は,前稿で芥川の『歯車』(1927)と賢治の詩「「三一四〔夜の湿気と風がさびしくいりまじり〕」(1924.10.5)に認められる「罰」は両者とも「慢心」により「神」を軽視した「罪」による「神罰」である。と述べた。しかし,『歯車』の主人公が受けた「神罰」が「神」によって直接下されたものか,あるいは間接的なものだったのかは不問にしていた。本稿はそれを明らかにしたい。

 

答えを最初に述べておきたい。「人工の翼」を付けた〈僕〉(=芥川)を罰したのは『或阿呆の一生』(40問答)に出てくるシルクハットを被った天使,つまり〈マルクス〉の亡霊であり,また「復讐の神」が憑依した〈ある女性〉である。『歯車』の主人公である〈僕〉はキリスト教の「神」を信じていない。だから,〈僕〉にとってキリスト教の「神」が直接あるいは間接的に「神罰」を下したと言うことは信じられていない。ただ,〈僕〉はキリスト教に関連する「光のない暗(やみ)」と〈悪魔〉,それと『歯車』の第2章に登場する「復讐の神」を信じることができている。シルクハットを被った天使は〈堕天使〉あるいは〈悪魔〉である。つまり,「キリスト教」やある女性を軽んじるという「罪」を犯した〈僕〉は〈悪魔〉のシルクハットを被った天使(マルクスの亡霊)と希臘神話の「復讐の神」によって罰せられたと信じている。

 

「亡霊」などと書くと驚かれるかもしれないが,『歯車』1章ではレエン・コートを着た幽霊の話が出てくる。最後に恐ろしい幽霊が出てくることを予兆させている。技巧家のよくやる手法である。以下に説明する。

 

芥川はキリスト教に関する作品を沢山書いているが,1920 年代後半から 1930 年代前半のプロレタリア文学の高まりの中でマルクスの思想にも関心を寄せていた。日本のプロレタリア文学を代表する小林多喜二の『蟹工船』は1929年に発表されている。〈マルクス〉(Karl Marx;1818~1883)はプロイセン王国時代のドイツの哲学者・経済学者・革命家である。〈マルクス〉は,宗教を否定し,革命思想として科学的社会主義(マルクス主義)を打ちたて,資本主義の高度な発展により社会主義・共産主義社会が到来する必然性を説いた(Wikipedia)。

 

芥川はマルクスの思想に比較的好意的であり,赤木健介宛書簡(1925.5.7)で「ブルジョアジーは倒れるでしょう。ブルジョアジーに取ってかわったプロレタリア独裁も倒れるでしょう。その後にマルクスの夢みていた無国家の時代も現れるでしょう。しかしその前途は遼遠です。何万人かの人間さえ殺せば直ちに天国になると言う訣(わけ)には行きません。」(文教研,2024)と述べている。

 

また,次のようなインタビュー会話も残されている。

記者 社会主義の理論が,実際実現される事が可能だとお信じになりますか。

芥川 それは可能ですね。革命を実現させるような種々な条件が具(そなわ)り,そうして革命を実現させるような人格,例えばレニンのような者が出れば実現できますね。しかし現代の日本にそう言う条件が具(そなわ)っているかどうかは疑問ですね。(「芥川龍之介氏との一時間『新潮』」 1925.2)(文教研,2024)

 

ブルジョア作家を批判する人たちは,ブルジョア作家たちに「社会的意識を持て」と言っている。芥川はこの批判に「僕もその言葉に異存などはない,然し又,所謂プロレタリア作家にも詩的精神をもてと云い度(た)いのである。」と返している(『文芸春秋』 1927.1)。(文教研,2024)

 

ただ,芥川は科学的社会主義(マルクス主義)の思想を築き上げた〈マルクス〉を恐れていたふしがある。この「恐怖」は,芥川の作品には表だって現れていない。むしろ隠されている。

 

『歯車』の5章(赤光)でホテルに滞在している主人公の〈僕〉に何通かの手紙が届いている。〈僕〉が「黄色」の書簡箋に目を通していたとき,〈僕〉は手紙にある「歌集『赤光』の再版を送りますから・・・」という言葉に「何ものかの冷笑」を感じてしまう。「黄色」は『歯車』では注意あるいは不吉なものを象徴している。〈僕〉は不吉な書簡箋に書かれてある「赤光」の「赤」という文字に激しく反応する。この「冷笑」する「何ものか」は,芥川によって隠されたものであり,「赤」,つまり「科学的社会主義思想」と何らかの関係があるものである。

 

主人公の〈僕〉はあるバアを見つけ入ろうとするが雰囲気になじめそうにないと察して引き返そうとする。このとき戸の前で〈僕〉の影が軒に吊してあるランタンの不気味な赤い光で左右に揺らされているのを発見する。また,〈僕〉はホテルのロビーで「赤」のワン・ピースを着た女に見つめられていると思ったり,女の名前と思われる英語が聞えたりする。統合失調症の患者にも認められる被害妄想や幻聴である。そのあと,〈僕〉は発狂することを恐れ自分の部屋に戻ることになる。これら「赤い光」あるいは「赤い服」の「赤」は5章のタイトルの「赤光」とも繋がるので何か重要なものを象徴していると思われる。『歯車』では「緑」が安全を象徴するものとして使われている。「緑」の補色である「赤」は安全の反対で危険を意味しているのかもしれない。

 

賢治の童話『銀河鉄道の夜』で死後の世界を走る銀河鉄道の列車は宗教的な荘厳な雰囲気をかもし出す白鳥の停車場を後にして離れていくが,このとき主人公たちは赤い点々を付けた測量旗を見ることになる。私はこの「赤」の点々が,「国際信号旗」のU旗を真似たものであり「この先の進路に危険あり」という意味であると述べたことがある(石井,2021a)。銀河鉄道の列車が行く先には青や橙やもうあらゆる光でちりばめられた「十字架」と一緒に「蠍の火」が見えてくる。宝石で散りばめられた「十字架」は宗教の堕落を象徴していて,「蝎の火」は「化学(科学)の火」を象徴している(石井,2021b)。つまり,「赤」は宗教の堕落や科学の恐ろしさを警告している。

 

『歯車』の「赤」も科学(化学)が危険であることを知らせているように思える。『歯車』の4章(まだ?)で応用化学の教授も片目だけまっ赤の血を流していた。また,「赤光」は斎藤茂吉の歌集の名でもある。斎藤は芥川に睡眠薬を渡したとされている。

 

5章(赤光)は最終章の「銀の翼」が出てくる前の章であることにも注目しなければならない。理知的で技巧的な芥川は「赤い光」や「赤い服」に「危険」と言うこと以外にも重要な意味を持たせている可能性がある。「赤(あか)」は科学的社会主義の象徴である「赤旗」の色であることから,マルクス主義者(マルキスト)や共産党を指す隠語として使われることがある。つまり,「赤い光」や「赤い服」は「科学」に基づくとされる社会主義思想を暗に示しているようにも思える。さらに,それは危険な思想でもある。『歯車』には「鼹鼠」(もぐらもち=モグラ)が繰り返し出てくるが,この「鼹鼠」は検挙されるのを恐れて地下に潜った非合法政党の党員を暗示しているようにも思える。

 

科学的社会主義思想は5章(赤光)に出てくる「黒」と「白」という色とも関係する。ホテルに滞在している〈僕〉に何通かの手紙が届いていたが,最初に見るのが「ライプツイッヒ」(Leipzig)からの英文の手紙である。「ライプツィヒ」はドイツでは書籍・印刷の町として有名である。1813年にナポレオン戦争で最大規模の戦い「ライプツイッヒの戦い」があった場所でもある。プロイセン軍にとってこの戦いは長年国土を踏みにじってきたナポレオンに対する「復讐」の戦いであった。森鴎外が留学したライプツイッヒ大学は東ドイツ時代(1949~1990)にはカール・マルクス大学と呼ばれていた。マルクスは「ライプツィヒ」で20代の頃,バウアーと一緒に匿名のパロディー本『ヘーゲル この無神論者にして反キリスト者に対する最後の審判のラッパ』(1841)を出版している(Wikipedia)。また,『資本論』(第1巻)(1867)ドイツ語版はここで印刷されている(ロルフ,2017)。

 

エアーメールかどうかは分からないが海を渡ってくる手紙には,「近代の日本の女」についての小論文を書くようにとの要請文の他に,「日本画のように黒と白の他に色彩のない女の肖像画でも満足である」というP・Sが加えられてあった。〈僕〉は最後の1行にウイスキーの銘柄「Black and White」を思い出して手紙をずたずたに破ってしまう。なぜ〈僕〉は手紙を破ったのであろうか。「Black and White」の瓶には「黒」と「白」の犬の絵が描かれている。芥川は大の犬嫌いで有名であるが,理由はそれだけではない。芥川は「黒」と「白」からイメージされるものが嫌いなだけでなく恐怖なのだ。手紙は海を渡って〈僕〉の所にきているので,「黒」は〈僕〉に「黒い翼」を付けて飛んでくるものを連想させる。多分,「黒」は『歯車』2章(復讐)に登場する絶えず〈僕〉を付け狙っている「復讐の神」の「黒い翼」がイメージされている。ギリシャ神話の「復讐の女神」であるエリーニュスは蝙蝠(こうもり)の「黒い翼」をもち,罪を犯した者をどこまでもしつこく追跡し,情け容赦なく罰する「神」として知られている。晩年の芥川は,前稿でも述べたがある女性(秀しげ子)にしつこく付きまとわれていたので,『歯車』や『或阿呆の一生』でこの女性について触れるときは「復讐の神」と呼んだのだと思われる(石井,2024)。〈僕〉は知識の「翼」で高く飛び上がっているので,空中を飛んでいる「黒い翼」を持つものは恐怖なのである。(続く)

 

参考・引用文献

芥川龍之介.2004.歯車 他二編.岩波書店.

芥川龍之介.1978.芥川龍之介全集12巻.岩波書店.

石井竹夫.2021a.宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』-赤い点々を打った測量旗とは何か-.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/07/07/160923

石井竹夫.2021b.宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』-「ほんたうのさいはひ」と瓜に飛びつく人達(2)-.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/06/17/083120

石井竹夫.2024.『歯車』の主人公が受けた罰は神によるものか (5).https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2024/02/15/072218

文教研.2024(調べた年).《資料》文学の仕事 ― 諸家の文学観に学ぶ.芥川龍之介 著作より――語録風に(1917~1927 発表年代順)https://bunkyoken.org/78siryo-bungakunosigoto/bungakunosigoto_akutagawa.html

ロルフ・ヘッカー(HECKER, Rolf).2017.ハンブルクにおけるマルクスと『資本論』の印刷.日本の科学者.52 (9):40-43.