宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

『歯車』の主人公が受けた罰は神によるものか (5)

本稿では,前稿3)の課題,つまり『歯車』の主人公が受けた「罰」が「神罰」であったのかどうか検討してみたい。ここで問題にする「罰」とは身体的,精神的,社会的,経済的な「罰」ではなく,神,仏,天など目に見えない超自然の力による「罰」のことである。我々が信じるか信じないかではなく,『歯車』の主人公,つまり芥川自身がキリスト教の〈神〉による「罰」を信じたかどうかを問題にする。

 

『歯車』5章(赤光)で主人公の〈僕〉は聖書会社の屋根裏に居る老人を訪ねている。このキリスト教徒らしい老人とは,以前「なぜ母は発狂したのか」,「なぜ僕の父の事業は失敗したのか」,「なぜまた僕は罰せられるのか」について壁にかけてある十字架のもとで話し合ったこともある。

 

「如何(いかが)ですか,この頃は?」

「不相変(あひかはらず)神経ばかり苛々(いらいら)してね。」

「それは薬では駄目ですよ。信者になる気はありませんか?」

「若(もし)僕でもなれるものなら……」

「何もむづかしいことはないのです。唯神を信じ,神の子の基督(キリスト)を信じ,基督の行つた奇蹟を信じさへすれば……」

「悪魔を信じることは出来ますがね。……」

「ではなぜ神を信じないのです? 若し影を信じるならば,光も信じずにはゐられないでせう?」

「しかし光のない暗(やみ)もあるでせう。」

「光のない暗とは?」

 僕は黙るより外はなかつた。彼も亦僕のやうに暗の中を歩いてゐた。が,暗のある以上は光もあると信じてゐた。僕等の論理の異るのは唯かう云ふ一点だけだつた。しかしそれは少くとも僕には越えられない溝に違ひなかつた。……

「けれども光は必ずあるのです。その証拠には奇蹟があるのですから。……奇蹟などと云ふものは今でも度たび起つてゐるのですよ。」

「それは悪魔の行ふ奇蹟は。……」

「どうして又悪魔などと云ふのです?」

                       (芥川,2004)

 

 

主人公の〈僕〉は老人から〈神〉を信じ,神の子のキリストを信じ,キリストの行った奇蹟を信じるように言われるが,それはできないと答えている。なぜなら,信仰に対する考え方の違いがあるからである。しかし,考え方の違いは「暗(やみ)のない光」の存在を信じるか信じないかの違いだけである。主人公は〈悪魔〉の行う奇蹟(光のない暗)を母の発狂,父の事業の失敗,そして自分が今受けている挫折感で何度も経験しているので信じられるが,「キリスト」の奇蹟(暗のない光)は一度たりとも実経験していないのだ。光のない暗の世界が存在することは信じられても暗のない「光の世界」は信じられない。主人公は老人に,なぜあなたは暗のない「光の世界」を信じられるのか尋ねているが,奇蹟という言葉を繰り返すだけで明確な答えがもらえずに黙ってしまう。つまり,理知的な〈僕〉は老人の言うキリスト教の〈神〉を信じられない。むしろ,老人には〈僕〉の質問に答えられないのだと確信しているようでもある。

 

ただ,〈僕〉も痴呆になれば〈神〉の存在が信じられると思っているふしがある。6章(飛行機)で主人公が早発性痴呆のHと言う人の馬頭観世音へのお辞儀を気味悪がっていた。芥川も自分が「人工の翼」(=知識)を付けなければ「光の世界」が見えると信じたのかも知れない。

 

芥川はキリスト教の信者ではないが,たくさんの切支丹物(15篇)や関連する評論を書いている。『一 ある鞭(むち)』という作品に,「僕は年少の時,硝子画の窓や振り香炉やコンタスのために基督(キリスト)教を愛した。その後僕の心を捉えたものは聖人や福者の伝記だった。僕は彼らの捨命の事蹟に心理的或いは戯曲的興味を感じ,その為に又基督教を愛した。即ち僕は基督教を愛しながら,基督教的信仰には徹頭徹尾冷淡だった。いつも基督教の芸術的荘厳を道具にしていた即ち僕は基督教を軽んずる為に返って基督教を愛したのだった」(芥川,1978)(下線は引用者)とある。

 

つまり,芥川はキリスト教を愛することはあっても,それは聖人・福者の自己犠牲の事蹟に興味があるだけで,むしろ「軽んじている」のだという話をしている。芥川の「慢心の罪」とは「理性」で得られた沢山の「知識」に「慢心」が生じキリスト教を軽んじてしまったという「罪」のことである。

 

『西方の人』(1この人を見よ)で,芥川は「わたしの感じた通りに「わたしのクリスト」を記すのである。厳(いかめ)しい日本のクリスト教徒も売文の徒の書いたクリストだけは恐らくは大目に見てくれるであらう。」と断りを入れた後,クリスト,マリア,ヨセフ,羊飼いたち,博士たちなどの聖書の登場人物たちを羅列し,芥川流の評価を下している。クリストは「聖霊」の子でありジャーナリストでありボヘミアンであると説明する。ただし,芥川にとって「聖霊」は「永遠に超えんとするもの」であり〈神〉ではない。つまり,「クリスト」は神の子ではない。「聖霊」が「知識」を意味することは前述した。さらに「クリスト」が十字架に架かったとき最後の言葉として「エリ,エリ,ラマサバクタニ」(わが神,わが神,どうしてわたしをお捨てなさる?)と叫んだが,芥川はこれに対して「十字架の上のクリストは畢(つひ)に「人の子」に外ならなかつた。勿論英雄崇拝者たちは彼の言葉を冷笑するであらう。況(いはん)や聖霊の子供たちでないものは唯彼の言葉の中に「自業自得」を見出すだけである。「エリ,エリ,ラマサバクタニ」は事実上クリストの悲鳴に過ぎない。」(32ゴルゴダ)と説明している。また,芥川の切支丹物の1つである短編『おしの』(1923)では,クリストのこの最後の言葉に対して主人公の女は「臆病者」と言っている。また,クリストの父,大工のヨセフは「どう贔屓目(ひいきめ)に見ても,畢竟(ひっきょう)余計ものの第一人だった」(4ヨセフ)である。

 

芥川は「厳しい日本のクリスト教徒も売文の徒(芥川)の書いたクリストだけは恐らくは大目に見てくれるであらう」(括弧内は引用者)とは言っていたが,本当に大目に見てくれるのであろうか。

 

ヤフー知恵袋で「芥川龍之介はキリスト教を尊敬していたのか,それともバカにしていたのか,どちらでしょうか。また,好いていたのか,嫌っていたのかどちらでしょうか。教えて下さい。」という芥川の読者と思われる人からの質問を見つけた。こういう疑問は至極当然と思われる。答えは「愛していた。が,軽んじていた」である。しかし,ヤフー知恵袋の回答の中に『一 ある鞭』を引用してそのように答えたものはいなかった。『一 ある鞭』は未発表作品であるからと思われる。

 

芥川のキリスト教に対する姿勢を批判する研究者は少なくない。佐々木啓一(1958)は,芥川の受けた「罰」に対して,「神を信ぜず人間の現実を超越しようとする意志に憑かれた人間の宿命の到達点であった」,また,鈴木秀子(1967)は,「歯車」の主人公と老人の会話に対して,「芥川が断絶していると考える暗(やみ)の世界と光の世界を結ぶものこそキリストなのである。暗の世界を他の世界から照らし,根源から変えるのがキリストである。しかし,芥川はこの二つの世界をつなぐものを確信できなかった」と言って批判した。しかし,2人の言っていることは,「光の世界」を信じられる『歯車』の老人が言っていることと同じであるように思える。もし,芥川がこれら評論を読んだら「なぜ,あなた方には「光の世界」が信じられるのか」と逆に疑問を投げかけられるであろう。さらに,佐々木(1959)は,芥川の『おしの』という作品を取り上げ,芥川が「エリ,エリ,ラマサバクタニ」と言ったクリストを「おしの」という女性に「臆病者」呼ばわりさせたことに対して,「一切の人類の罪を背負った人間の苦しみの中の最後の言葉であり,この真意すら理解できていない」と批判する。しかし,芥川は〈神〉の存在と同じく「一切の人類(80億人)の個々の罪を背負った人間」の存在というのも信じていないと思われるので,この批判自体が意味をなさないように思われる。 

 

ただ,芥川はキリスト教の〈神〉を信じてはいないが〈神〉から「罰」を受けたことは信じている。前述した『一 ある鞭』の引用文には続きがある。それは,「僕は千九百二十二年来,基督教的信仰或は基督教徒を嘲る爲に屢短篇やアフォリズムを艸した。しかもそれ等の短篇はやはりいつも基督教の藝術的莊嚴を道具にしてゐた。即ち僕は基督教を軽んずる為に反って基督教を愛したのだった。僕の罰を受けたのは必ずしもその為ばかりではあるまい。けれどもその為にも罰を受けたことを信じている。」(下線は引用者 以下同じ))である。ここで,芥川はキリスト教を嘲るようになったのは1922年以降であると言っている。芥川は前述した『おしの』の前年に『おぎん』(1922)と『神々の微笑』(1922)と言う作品を出している。前者は隠れキリシタンの〈お銀〉がキリスト教を棄てる話であり,後者(1922)は布教にやってきた神父が日本の土着の神々に恐れおののくという話である。ちなみに,1922年は日本の共産主義政党が非合法に結成された年でもある。その前年に芥川は中国に取材旅行をしている。

 

引用文の下線部分に注目してみる。わかりづらいが,芥川は「神罰」を受けいれたのはキリスト教を軽んじる意外にも「罪」を犯しているからだと言っているように思える。この「罪」は『歯車』に繰り返し出てくる〈神〉という名のつく「復讐の神」と関係があるのかもしれない。「復讐の神」つまり「狂人の娘」(ある女性)である。この「復讐の神」は『歯車』では「僕の背中に絶えず僕を付け狙っている」存在として描かれている。『歯車』3章(夜)では夢の中にまで現れ,目を覚ますと「翼」の音が聞えてくる。この女性は秀しげ子と言われている。また,芥川の遺書に,この女性と29歳のとき「罪」を犯したということも記載されている(森本,1969)。しかし,この「罪」は芥川が犯した「罪」の一部分にしかすぎないように思われる。大きな「罪」は「神」を軽んじたことと考えられている。

 

『一 ある鞭』は『芥川龍之介全集12巻 雑纂』(1978)に〔断片〕として掲載されているものである。出所なども一切不明で,頁末に(大正十五年?)の編者記載があるのみである。執筆時期は大正15年(1926)?とあるが,1926年から1月から自死の直前迄で,『侏儒の言葉』(1923~1927)の続篇の断片草稿であると推測している研究者もいる(藪野,2016)。この〔断片〕には『二 唾』という作品が同じ頁に載せられている。ここには「天に向つて吐いた唾は必ず面上に落ちなければならぬ」という意味深な文が記載されている。

 

 僕は嘗(かつて)かう書いた。―「全智全能の神の悲劇は神自身には自殺の出來ないことである。」恰も自殺の出來ることは僕等の幸福であるかのやうに! 僕はこの苦しい三箇月の間に屢自殺に想到した。その度に又僕の言葉の冷かに僕を嘲るのを感じた。天に向つて吐いた唾は必ず面上に落ちなければならぬ。僕はこの一章を艸する時も,一心に神に念じてゐる。―「神の求め給ふ供物は碎けたる靈魂なり。神よ。汝は碎けたる悔いし心を輕しめ給はざるべし。」    (芥川,1978)

 

『二 唾』もキリスト教に関することである。「天に向つて吐いた唾は必ず面上に落ちなければならぬ」は,「神を軽んじたものは必ず神罰を受ける」という意味であろう。

 

さらに,重要な文言が文末の下線を引いた部分にある。これは『旧約聖書』詩篇第51章第17節にある詩句の一つである。『旧約聖書』新改訳(いのちのことば社)では「神へのいけにえは,砕かれた霊。/砕かれた,悔いた心。/神よ。あなたは,それをさげすまれません。」である。芥川は晩年キリスト教を軽んじたことを悔いていたのだと思う。また,この砕かれて悔いた心を軽くするように祈ってもいる。

 

同様な祈りは『歯車』2章(復讐)でも出てくる。主人公がコック部屋に入ったときコック等の冷ややかな視線を感じ「神よ,我を罰し給え。怒り給うこと勿れ。恐らくは我滅びん」と祈祷する場面である。神の怒りが激しく耐えがたい苦痛の中での祈りだと思われる。ただ,『歯車』の主人公は「神」を信じていなかったのでないのかと,疑問ではあるが。

 

すなわち,芥川の分身と思われる『歯車』の主人公〈僕〉は,〈神〉を信じていないが「慢心」でキリスト教を軽んじる「罪」を犯し,あるいは女性との「罪」をも含めて,「神罰」を受けたということを信じている。芥川が自死したとき枕元には聖書が置かれてあったという。

 

芥川の『歯車』(1927)と賢治の詩「「三一四〔夜の湿気と風がさびしくいりまじり〕」(1924.10.5)に認められる「罰」は両者とも「慢心」により〈神〉を軽んじたことによる「神罰」と思われる。芥川は「神罰」を信じている。(続く)

 

参考・引用文献

芥川龍之介.2004.歯車 他二編.岩波書店.

芥川龍之介.1978.芥川龍之介全集12巻.岩波書店.

佐々木啓一.1958.芥川龍之介のキリスト教観(一) : 切支丹物について.論究日本文学 9 :30-38.

佐々木啓一.1959.芥川龍之介のキリスト教観(二) : 続切支丹物について.論究日本文学 10 :9-25.

森本 修.1969.芥川龍之介をめぐる女性. 論究日本文学 10 :26-39.

鈴木秀子.1967.芥川龍之介とキリスト教-「西方の人」を中心として-.聖心女子大学論叢 30 199-230.

藪野直史.2016.芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) (「侏儒の言葉」続篇 草稿 「一 ある鞭」及び「二 唾」).https://onibi.cocolog-nifty.com/alain_leroy_/2016/06/post-ee87.html