宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

『歯車』の主人公は慢心を罪として自覚したか (4)

芥川の切支丹物である『るしへる』(1918)に「七つの恐しき罪に人間を誘さそう力あり,一に驕慢(きょうまん),二に憤怒(ふんぬ),三に嫉妬(しっと),四に貪望(とんもう),五に色欲,六に餮饕(てっとう),七に懈怠(けたい),一つとして堕獄の悪趣たらざるものなし。」(青空文庫)とある。人間を誘う罪を7つあげ,その1番に「驕慢」を挙げている。これは,戦国武将の多胡辰敬が書き残した家訓(『辰敬家訓』)の1つである「身持ちが身の程を超えれば天罰を蒙る」と同じであろう。「身持ち」とは日常の身の処し方のことである。この教訓を和辻哲郎(2024)は「埋もれた日本」というエッセイで「これはギリシャ人などが極力驕慢(きょうまん)を警戒したのと同じ考えで,ギリシャにおいても神々の罰が覿面(てきめん)に下ったのである。」と説明している。「驕慢」は「慢心」と同じ意味である。ちなみに,「色欲」は5番目である。 

 

『歯車』の2章(復讐)にもう一つのギリシャ神話に纏(まつ)わる話がでてくる。〈僕〉が往来でタクシーをつかまえようとするがつかまらずイライラしている。このとき,〈僕〉は「イライラする,―tantalizing―Tantalus―Inferno……」と呟く。Tantalizingは「イライラする」の英訳で,Tantalusがギリシャ神話に出てくる王・タンタルスのこと,つまり「イライラ」の語源になったもので,Infernoは地獄あるいは奈落という意味である。ちなみに,Tantalizingは本来「望ましいものを示しながら与えないことで焦らすまたは苦しめる」という意味で,1650年代に現れた,tantalizeから派生した現在分詞形の形容詞」(ネットから)である。

 

タンタルスはゼウスの子で強大な富をもち,神々に愛されたが,「驕り」が生じ,神々を試すべく,わが子を殺して料理し,これを神々に供したため,あるいは神々の食卓に招かれたあと,その秘密を人間に漏らしたため,「罰」として地獄タルタロスへ落とされた。彼は池中に首までつかり,水を飲もうとすれば水がなくなり,頭上の果実の実った枝を手でとろうとすれば枝が遠ざかり,永遠の飢えと渇きに苦しんだ。と言う。

 

『歯車』の〈僕〉はイライラすると「―tantalizing―Tantalus―Inferno」という言葉が連想され,「驕り」の「罪」で地獄に落とされるという恐怖を感じ不安になっている。

 

つまり,芥川も「慢心」という「罪」を犯している。ギリシャ神話には,理由は定かではないが「神」が人間の「慢心」を「罪」とする話が多い。

 

『歯車』の3章(夜)に「驕慢」という言葉がでてくる。〈僕〉が丸善の2階の書棚で1冊の本の頁を捲っていたとき,目次の第何章かに「恐しい四つの敵,――疑惑,恐怖,驕慢,官能的欲望」という言葉が並んでいるのを見つける。そのとき,〈僕〉はすぐさま「一層反抗的精神の起るのを感じ」,敵と呼ばれるものは少なくとも「感受性や理智の異名」に外ならないと感じてしまう。理智とは理性と知恵である。

 

〈僕〉にとって「理性」は「驕慢」(慢心)という「罪」と同義なのである。つまり,「理性」によって与えられる「知識」を身につけて飛び立とうとすることは「慢心」であり,「罪」なのである。芥川は作品の中で「驕慢」(慢心)=­「罪」であるということを繰り返し記載している。芥川には「慢心」の罪を犯したという自覚があるように思える。

 

芥川は「知識」という「富」によって中流下層階級の世界から脱出を試みた。イカロスが「慢心」によって太陽神から「神罰」を受けたように,芥川も同様の「慢心の罰」を受けて落下することになった。

 

彼は「理性」によって集められた膨大な「知識」を再構築することによって作品を作っているが,多大な努力を強いるだけでなく,資質に合わないものができることにもなり挫折感という報いを味わうことになってしまった。

 

思想家で詩人の吉本隆明(1963)は「芥川竜之介の死」という題の評論で「汝と住むべくは下町の」という詩を引用して芥川の生涯について次のように述べている。

 

芥川の生涯は,「「汝と住むべくは下町の」という下層階級的平安を,潜在的に念じながら,「知識という巨大な富」をバネにしてこの平安な境涯から脱出しようとして形式的構成を特徴とする作品形成におもむき,ついに,その努力にたえかねたとき,もとの平安にかえりえないで死を択んだ生涯であった。」(下線は引用者 以下同じ)としている。

 

ちなみに,「汝と住むべくは下町の」は佐藤春夫がまとめた遺稿『澄江堂遺珠』にある詩「汝と住むべくは下町の/水どろは青き溝づたい/汝が銭湯の行き来には/昼もなきつる蚊を聞かん」である。下町に住んだものなら「青き溝づたい」でどんな匂いがしてくるのか容易に想像できるであろう。フォークグループの「南こうすけとかぐや姫」が歌った「神田川」(1973)の世界である。「・・・2人で行った横町の風呂や 一緒に出ようねって言ったのに・・・洗い髪が芯まで冷えて・・・小さな石鹸カタカタなった・・・」である。 懐かしい。私は東京下町(深川)に20年以上住んだことがあるが,材木の浮かぶ堀とその周辺に木材問屋,製材業の町工場が立ち並ぶようなところであった。材木や木くずとドブの入り交じった独特の匂いのするところであった。この匂いは嫌いではなかった。

 

私は,吉本の「その努力にたえかねたとき,もとの平安にかえりえないで死を択んだ」には共感する。なぜなら,自死する直前に書かれた『西方の人』(1927)の31(クリストの一生)に出てくる有名な一文を思い出させるからである。その一文とは「クリストの一生はいつも我々を動かすであらう。それは天上から地上へ登る為に無残にも折れた梯子である。薄暗い空から叩たたきつける土砂降りの雨の中に傾いたまま。……」である。この引用文の「登る」は「降りる」の誤記ではないかと指摘する研究者がいる。しかし私は訂正する必要はないと思っている。

 

『西方の人』には「聖霊」,「クリスト」,「マリア」とい3つの重要な言葉が繰り返しでてくる。『西方に人』では,「聖霊」は「永遠に超えんとするもの」,「クリスト」は「聖霊の子」,「マリア」は「永遠に守らんとするもの」と説明されている。3つの言葉が意味しているのは何かということでたくさんの研究者がそれぞれの解釈を提出している。私が目を引いたのは梶木剛の「聖霊」=「知識」,「クリスト」=「知識にひかれた人間を象徴」,「マリア」=「自然」である(小澤,2007)。つまり,梶木の説に従うと「クリスト」は「知識」にひかれた芥川自身のことをも指している。芥川は「知識」でクリストと同様に天上の高みに登ったが,「知識」が「罪」だと解ったとき,「天上」だと思っていたのが「地上」であり,「地上」と思っていたのが「天上」に逆転した。だから,芥川は「梯子」で「地上」に降りるのではなく,汝と住むべくは下町の「地上」に登ろうとしたのだ。しかし,無残にもその「梯子」は折れていた。十字架にかかった「クリスト」のように撃墜死するしかなかった。これが芥川にとっての「罰」でもあった。

 

『或阿呆の一生』の1(時代)に出てくる20歳の彼は書棚にかけた西洋風の「梯子」に登り,みすぼらしい店員や客を見下ろしていた。『歯車』6章(飛行機)でも「銀色の翼」が2階にいた主人公に見えたとき,妻が「梯子段を慌しく昇って来たかと思ふと,すぐに又ばたばた駈け下りて」行った。妻は『西方の人』の「マリア」である。「永遠に守らんとするもの」は間違って天上に行っても「階段」で降りることができるが,「永遠に超えんとするもの」は降りられないのだ。同6(飛行機)には「永遠に超えんとするもの」を象徴するパイロットが操縦する飛行機が登場する。主人公が松の梢に触れないばかりに舞い上がった黄色の翼の珍しい飛行機を発見する。主人公が「落ちはしないか」と心配すると,妹は「ああいう飛行機に乗っている人は高空の空気ばかり吸っているものだから,だんだんこの地面の上の空気に耐えられないようになってしまう」という飛行機病の話をする。妹には,この飛行機は燃料がなくなっても降りられないから墜落するしかないと見做されている。ちなみに,「黄色」は不吉な色として使われている。

 

つまり,『歯車』の主人公〈僕〉は賢治と同じように「慢心」の「罪」を犯し「罰」を受けた。多分,そのことによって主人公の瞼の裏に「銀色の翼」が幻影となって現れたのであろう。この「銀色の翼」は「知識」を意味している。(続く)

 

参考・引用文献

芥川竜之介.2004.歯車 他二編.岩波書店.

小澤保博.2007.芥川龍之介「西方の人」「続西方の人」論.琉球大学教育学部紀要.37:57-84.

吉本隆明.1963.芸術的抵抗と挫折.未来社.

和辻哲郎.2024(調べた年).埋もれた日本-キリシタン渡来文化前後における日本の思想的情況-.https://www.aozora.gr.jp/cards/001395/files/49881_46723.html