宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

人工の翼を付けた『歯車』の主人公を落下させたのは誰か,シルクハットを被った天使か (6)続き

 

また,「白」は空を飛んでくる〈天使〉の「白い翼」を〈僕〉に連想させているように思える。なぜ〈天使〉の「白い翼」なのか,また,それが〈僕〉に恐怖なのかというと,『歯車』と同時期に書かれた『或阿呆の一生』(40 問答)(1927 遺稿)に登場する「誰にも恥ずる所のないシルクハットをかぶった天使」を連想させるからである。〈天使〉は普通「翼」を「白」にしている。『或阿呆の一生』の主人公の〈彼〉は〈天使〉と問答をしている。〈彼〉にとって〈天使〉が見えているかどうかは定かでないが,〈天使〉の声は聞いている。幻聴と思われる。〈天使〉は,〈彼〉の「なぜお前は現代の社会制度を攻撃するか?」と言う問に「資本主義の生んだ悪を見ているから」と答える。この「白」から連想された〈天使〉は「資本主義が生んだ悪」に執着していること,また「白」が書き込まれた手紙が『資本論』の第1巻が印刷された「ライプツイッヒ」から届いていることから,ブルジョアを憎む〈マルクス〉がイメージされているように思える。ちなみに,2017年に公開された歴史・伝記映画の『マルクス・エンゲルス』はマルクスが26歳だった頃の活動の様子が描かれていた。〈マルクス〉も「シルクハット」を被っていた。

 

ただ,この〈マルクス〉にも「復讐の神」が憑依している可能性がある。ある美術愛好家(2007)のブログに「学生のときに読んだ「資本論」で,マルクスは,経済学の分野で,自由な科学的研究に抗う,最も激しく狭小で悪意ある感情を,「私的利害のフリアイ」,なんて表現している。・・・フリアイを知らなければ,科学に抗うイデオロギーに対する,マルクスの憎悪は,感じ取れまい。が,私は,フリアイに憑かれていたのは,逆にマルクスのほうだったかも,と思う。彼を夢に見たとき,彼は私に,「妻イェニーを通して貴族に,友エンゲルスを通して資本家に復讐した」と言った。そして学説を残すことで,労働者にも復讐した。 ……ま,私の勝手な解釈。」(下線は引用者)とある。ちなみに,フリアイは「復讐の女神」であるエリーニュスのことである。

 

〈僕〉と〈或声〉の主が問答する芥川の類似作品『闇中問答』(1927)(遺稿)にも〈天使〉が登場する。〈或声〉の主も〈マルクス〉がイメージされているように思える。問答中に〈僕〉が「絶えず僕に問ひかけるお前は,目に見えないお前は何ものだ?」と問いかけると,〈或声〉の主が「俺か?俺は世界の夜明けにヤコブと力を争った天使だ」と答える。この〈天使〉は旧約聖書創世記28章にある「ヤコブの梯子」と呼ばれる場面で登場する〈天使〉と関係があると思われる。ヤコブ(別名イスラエル)は夢の中で天に昇る梯子と〈天使〉を見ている。「神」はヤコブに今いる土地を与え,子孫を偉大な民族にするという約束をする。〈天使〉はそれを助ける役割を果たしていた。この場面で重要なのは,ヤコブが梯子の夢を見たことと,「神」と思われるものの言葉を聞いたことで「神」の存在を信じることができるようになったということである。『闇中問答』の〈天使〉がこのヤコブと争ったということは,この〈天使〉は「神」に反逆している。つまり,ヤコブの信仰心を妨害している。この〈天使〉も偽物である。つまり,キリスト教の〈堕天使〉(=悪魔)であると思われる。〈堕天使〉は「神」の被造物でありながら,「高慢」や嫉妬がために神に反逆し,罰せられて天界を追放された〈天使〉である。芥川は〈マルクス〉を〈天使〉(=堕天使)と譬喩しているように思える。〈堕天使〉については芥川の切支丹物『るしへる』(1918)に詳しく書かれてある。

 

「シルクハット」はマジシャンが小道具として使うものでもある。マジックは Make-believe(偽物)である。中世の時代,欧州では「マジックは黒魔術」,「マジシャンは悪魔の手先」とされていた。

 

つまり,「シルクハットをかぶった天使」とは〈天使〉の姿をした〈マルクス〉の亡霊であり,キリスト教における〈堕天使〉あるいは〈悪魔〉である。『歯車』の〈僕〉は〈天使〉の姿をした〈マルクス〉の亡霊〈堕天使〉に付きまとわれている。そして恐れている。〈マルクス〉の亡霊は,現実的には,この亡霊が取り憑いたマルクス主義者やプロレタリア作家たちと言っても良いのかも知れないが。

 

ただ,芥川は〈堕天使〉を悪徳非道な〈悪魔〉とは思っていない。『歯車』6章(飛行機)で「丁度反面だけ黒い犬」,つまりキメラのような犬が登場し,「Black and White」を連想させる場面がある。芥川が描く〈堕天使〉は,切支丹物である『悪魔』(1918)に記載されているように,清いものを堕落させるが,そうさせたくない〈天使〉の心をも持ち合わせている。ただ,それは人間に希望や期待を持たせてしまうので「罰」を受けたことの苦しみは倍増する。〈堕天使〉は吾峠呼世晴の『鬼滅の刃』に登場する十二鬼月の一人である〈魘夢〉(えんむ)のようなものである。〈魘夢〉の得意技は対戦相手の望む偽りの「楽しい夢」を見せたあと,悪夢を見せて殺すというもの。

 

「シルクハットをかぶった天使」は同じ『或阿呆の一生』(50俘)(とりこ)にも登場する。発狂した友人(宇野浩二)が〈彼〉(=芥川)に「君や僕は悪鬼につかれているんだね。世紀末の悪鬼というやつにねえ。」と言っている。この宇野が言う「世紀末の悪鬼」とは19世紀末に科学的社会主義思想を築き上げたマルクスとエンゲルスのことと思われる。『或阿呆の一生』の50(俘)の次は最終章51(敗北)である。40(問答)では〈マルクス〉を〈天使〉と譬喩していたが死の直前には「世紀末の悪鬼」に変えている。50(俘)で,すっかり疲れ切った〈彼〉は「神の兵卒たちは己(おのれ)をつかまえに来る」というラディゲの臨終の言葉を読むと,もう一度「神々の笑い声」を感じる。〈彼〉は「世紀末の悪鬼と戦うにも肉体的に不可能だった。神を信じることは――神の愛を信じることは到底彼にはできなかった。」としている。

 

この「神々の笑い声」は,「ライプツイッヒ」から送られてきた手紙を読んだ〈僕〉が感じた「何ものかの冷笑」を彷彿させる。下線部の次の「神の兵卒」が「何ものか」であり,その「何ものか」が「シルクハットをかぶった天使」なのだと思われる。また,『歯車』2章(復讐)で〈僕〉はコック部屋を通過するとき「白い帽をかぶったコックたちの冷ややかに僕を見ている」のを感じて,堕ちた地獄を感じている。〈僕〉にとって,この「白い帽をかぶったコック」も恐ろしい「シルクハットをかぶった天使」に見えてしまうのだ。

 

『歯車』の〈僕〉(芥川)は『罪と罰』を読もうとしたが製本屋の綴じ違いで,あるいは運命の悪戯か,偶然開いた頁が『カラマゾフ兄弟』の一節であった。やむを得ず読むのだが,1頁も読まないうちに全身の震えるのを感じ出す。そこは〈悪魔〉に苦しめられるイヴァンを描いた一節だった。イヴァンは無神論者である。つまり,「神」を信じない〈僕〉はいずれ「翼」を持つ「シルクハットをかぶった天使」(=世紀末の悪鬼)にイヴァンと同じように苦しめられると思っている。

 

『歯車』5章(赤光)で〈僕〉は煙草を吸うために給仕を呼び「スター」を求めるが,ホテル側は品切れで「エエア・シップ」を勧める。しかし,〈僕〉はそれを拒否する。なぜ拒否したのだろうか。それは,「エエア・シップ」の外箱に飛行船や飛行機が描かれてあるからだ。〈僕〉は犬と同様に「人工の翼」を付けて空を飛ぶものが嫌いなのだ。あるいは恐怖を感じるのだと思われる。

 

『歯車』の「冷笑する何ものか」は〈マルクス〉の亡霊である。〈僕〉は見えざる影,つまり「科学的社会主義思想」を築き上げた〈マルクス〉の亡霊や「復讐の神」が憑依した〈ある女性〉あるいはその「生き霊」に常に付け狙われているのである。〈僕〉は,「ライプツイッヒ」からの手紙を書かせたのも,ホテルのロビーで〈僕〉を見つめている「赤」のワン・ピースを着た女も,バーの戸の前の赤いランタンを揺らしているのも,〈僕〉を付け狙っている〈天使〉の姿をした〈マルクス〉の亡霊の仕業であると思っている。また,〈僕〉は本屋に置いてあった『希臘神話』の偶然明けた頁の1行「一番偉いツオイスの神でも復讐の神にはかないません。・・・」に恐怖するのも,〈僕〉を付け狙っている「復讐の神」が憑依した〈ある女性〉の仕業だと思っている。ちなみに,ツオイスは最高神ゼウスのドイツ語読みである。

 

また,『歯車』2章(復讐)で金鈕(きんぼたん)の青年から「先生,A先生」と呼ばれることに不快になり,僕を「嘲る何ものか」を感じてしまう。この「何ものか」も〈マルクス〉の亡霊である。なぜなら,〈僕〉は「あらゆる罪悪を犯している」と信じているのに「シルクハットをかぶった天使」は『或阿呆の一生』(40問答)で説明されているように「誰にも恥ずる所」がないからである。

 

『歯車』の〈僕〉はウイスキー「Black and White」を飲んだ後,対価を1枚の「銀貨」で支払う。これが最後の1枚だという。この「銀貨」も意味がある。「銀貨」の「銀」は次の最終章(飛行機)で現れる「銀の翼」に繋がるからである。〈僕〉にとって「銀の翼」は「理性」や「知識」であり,またそれによって書かれた作品は,「銀貨」と交換され,主人公の〈僕〉やその家族あるいは夫を亡くした姉の生活費にするためのものでもあった。その大切な「銀貨」(=銀の翼)が無くなってしまうかもしれないのだ。

 

芥川は『歯車』を執筆し始める3ヶ月前に『彼』(1926.11.13脱稿)という作品を書いている。彼のモデルになったのは平塚逸郎とされている。芥川はこの作品で彼をマルクスやエンゲルスの本に熱中している学生として描いている。この作品に登場する〈僕〉は「勿論社会科学に何の知識も持っていなかった。が,資本だの搾取だのと云う言葉にある尊敬――と云うよりもある恐怖を感じていた。彼はその恐怖を利用し,度たび僕を論難した。ヴェルレエン,ラムボオ,ヴオドレエル,――それ等の詩人は当時の僕には偶像以上の偶像だった。が,彼にはハッシッシュや鴉片(あへん)の製造者にほかならなかった。」(下線は引用者)と記している。ここで初めて芥川は科学的社会主義(マルクス主義)の思想に「恐怖」を感じると言った。

 

つまり,芥川は死の直前に科学的社会主義の思想に「恐怖」していたのだと思う。科学的社会主義を信奉する〈彼〉(=マルクス主義者)にとって,〈僕〉(=芥川)が崇拝する「ヴェルレエン,ラムボオ,ヴオドレエル」の作家たちは覚醒剤や阿片の製造者にすぎなかったからである。〈彼〉は〈僕〉にヴオドレエル(ボードレール)の詩の100行は人生の1コマに若(し)かない。君は君の憎んだ中流下層階級の民衆が資本家から搾取され苦しむ姿を作品に描くべきだと言っているように思える。作品の行間からはそう読める。芥川自身も〈マルクス〉の亡霊に脅かされた晩年には自分が「知識」という麻薬を切り売りして生活費を稼いでいる小ブルジョアに過ぎないと自覚するようになってしまったのかもしれない。さらに,その麻薬さえも失うことになるかもしれない。(続く)

 

参考・引用文献

ある美術愛好家.2007.ギリシャ神話あれこれ:復讐の女神たち.魔法の絨毯 -美術館めぐりとスケッチ旅行-.https://blog.goo.ne.jp/chimaltov/e/57e99b803892232f986df65d8377cdef

芥川龍之介.2004.歯車 他二編.岩波書店.

芥川龍之介.1978.芥川龍之介全集12巻.岩波書店.