宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

賢治は雲をなぜカルボン酸に喩えるのか

詩集『春と修羅』の「風景」(1922.5.12)に「雲はたよりないカルボン酸/さくらは咲いて日にひかり/また風が来てくさを吹けば/截られたたらの木もふるふ・・・」とある。また,「冬のスケッチ」十七には「きりの木ひかり/赤のひのきはのびたれど/雪ぐもにつむ/カルボン酸をいかにせん」とある。

 

賢治はなぜ雲をカルボン酸に喩えるのか。

 

カルボン酸(carboxylic acid)とは,少なくとも1つのカルボキシ基(arboxyl group ;−COOH)を有する有機酸である(Cは炭素,Oは酸素,Hは水素)。蟻酸,酢酸,シュウ酸,脂肪酸などがある。分子量が最小なのは蟻酸(HCOOH)である。カルボキシ基は,カルボニル基(RR'C=O)とヒドロキシ基からなる官能基で,化学式は-C(=O)OH になるが,慣例的に-COOHと書く(Wikipedia)。「-」は単結合を「=」は二重結合を意味する。

 

カルボン酸や脂肪酸が雲の形容に用いられことに関して,『新宮澤賢治語彙辞典』に2つの説が紹介されている。1つはその化学構造式が雲の形に似ているからというもので,もう1つは高級脂肪酸特有の白蠟色から雲を連想したというものである(原,1999)。そうなのかもしれない。

 

ただ,別の解釈もできる。

 

カルボン酸が雲の分類と関係すると思われるからである。例えば,賢治は童話『グスコーブドリの伝記』(1932)で工場の煙突からでる「けむり」を細かく分類している。

 

ブドリはクーボー大博士から「けむり」にはどのような種類があるか尋ねられたとき,「無風で煙が相当あれば,たての棒にもなりますが,さきはだんだんひろがります。雲の非常に低い日は,棒は雲までのぼって行って,そこから横にひろがります。風のある日は,棒は斜めになりますが,その傾きは風の程度に従います。波やいくつもきれになるのは,風のためにもよりますが,一つはけむりや煙突のもつ癖のためです。あまり煙の少ないときは,コルク抜きの形にもなり,煙も重いガスがまじれば,煙突の口から房ふさになって,一方ないし四方におちることもあります。」(下線は引用者)と答える。

 

ブドリは「雲の非常に低い日は,棒は雲までのぼって行って,そこから横にひろがります」と答えたように,雲の位置や動きを参考にして「けむり」を分類しているように見える。多分,ブドリ(あるいは賢治)は雲の分類でもかなりの知識を有しているように思える。

 

賢治が生きた時代には,すでに雲の分類(雲形分類)の基準を示した国際雲図帳(こくさいうんずちょう,英:International Cloud Atlas)というのがあった。世界気象機関(WMO)発行の書籍・学術資料で,1897年に最初の版が発刊(1896年作成)され,その後改定が重ねられている。1932年版や2017年版などがオンラインで公開されている(International Cloud Atlas , 1932)。気象予報士・岩槻秀明(2021)はこの国際雲図帳を日本語で分かりやすく紹介している。

 

雲は上層にある巻雲,巻積雲,巻層雲と,中層にある高積雲,高層雲,乱層雲と,下層にある層積雲,層雲,積雲,積乱雲の10種に分類される。さらに,国際雲図帳では雲の状態を符号で表している。例えば上層の雲の状態(CH)はCH=9からCH=0まで10種に分類されている。ちなみに,「C」はCloud(雲)で,「H」はHigh(高い)で,0~9は算用数字である。ちなみに,「=」は助詞の「は」のような使い方をしていると思われる。CH=9は上層の雲は巻積雲のみか巻積雲が巻雲,巻層雲よりも多い状態のことをいう。CH=7は上層の巻積雲が少なく,巻層雲が空全体を覆っている。CH=0は上層に巻雲,巻層雲,巻積雲ともに存在しない場合をいう。同じく,中層の雲の状態(CM)はCM=9からCM=0に,下層の雲の状態(CL)はCL=9からCL=0のそれぞれ10種に分類される。ここで注目すべきは雲の状態を表しているCH=0,CM=0,CL=0の符号である。

 

すなわち,国際雲図帳の雲を符号化したものの中にはカルボン酸の化学式-C(=O)OHに類似しているものがある。例えば,蟻酸(HCOOH)はHC(=O)OHと書くこともできる。すなわち,国際雲図帳の雲を符号化したCH=0は蟻酸の構造式の一部に似ている。賢治は言葉遊びが好きである。多分,賢治は国際雲図帳の雲の状態を示す符号から雲をカルボン酸に喩えたのであろう。ちなみに「雲はたよりないカルボン酸」は上空に雲がほとんどない状態のことを言っていると思われる。 

 

参考・引用文献

原 子朗.1999.新宮澤賢治語彙辞典.東京書籍.

岩槻秀明.2021.あおぞらめいと-雲の符号化.http://wapichan.sakura.ne.jp/cloud-coding_instructions.html

International Cloud Atlas (PDF) , 1932.https://cloudatlas.wmo.int/docs/ICA1930-optimized-for-web.pdf