宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

賢治の文語詩「民間薬」(第2稿)-羆熊の皮は魔除けか-

前稿で文語詩「民間薬」の「干泥のわざ」は,農作業という意味ではなく,旱魃の「禍」,すなわち「旱魃禍」であるということを述べた。本稿では「羆熊の皮」について考察する。

 

2)「たけしき耕の具を帯びて,羆熊の皮は着たれども」とは

「たけしき耕の具」とは,柄の先に刃が3本ある「三本鍬」や「レーキ」のことであろう。「羆熊の皮を着たれども」とあるが,農民あるいは賢治が通常の農作業に毛皮を着ることはないと思われる。熊の皮を着るとすれば「マタギ」などの狩猟民である。また,「ヒグマ」は北海道に生息する動物である。この詩が東北地方を意識して書かれていたとすれば,かなり特殊な場合が予想される。前述したように「わざ」を「禍(あるいは祟り)」と解釈すれば,「三本鍬」や「レーキ」と「ヒグマ」の毛皮は何を意味しているのであろうか。

 

2つのことが考えられる。1つは魔除けに使ったのではないかということである。「アイヌ」の男は熊送りなどの儀礼時に装身具としてサパウシペ(Sapaumpe;礼冠)をかぶるが,これには熊の彫刻が施される。またマキリ(Makiri;小刀)の鞘の根付けとして熊などの獣の身体の一部(歯や牙が付いた顎の骨や爪)を使用する。欠ヶ端(2018)は,「アイヌ」にとって動物の身体の一部を「お守り」として身につけるということは,そこにはカムイ kamuy の力(巫力)や魂そのものが宿っていると考えられ,それに守ってもらうという 意義があるのだろう。と考えている。「アイヌ」にとって熊は最も強い動物であるとともに「神」でもある。大正十五年の災害の復旧作業の様子を描写している詩「休息」(1926.8.27)に「羆熊」が登場する。詩「休息」には/あかつめくさと/きむぽうげ/おれは羆熊だ 観念しろよ/遠くの雲が幾ローフかの/麺麭にかはって売られるころだ/あはは 憂陀那よ/冗談はよせ/ひとの肋を/抜身でもってくすぐるなんて」とある。

 

この詩で「アイヌ」の神を宿した人物が「おれは羆熊だ 観念しろよ」と言っているが,「観念しろよ」とは誰に言っているのだろうか。「アカツメクサ」や「キンポウゲ」ではない。一週間前の「ジシバリ」を除去しているときの詩〔黄いろな花もさき〕下書稿(1926.8.20)では,「畦いっぱいの地しばりを/レーキでがりがり掻いてとる/(どうしてですか うらむことなどない)・・・(たゞ済まないと 思ふだけです)」とあり,すくなくとも植物を除去することには罪悪感をもっている。羆熊になりきっている人物が「観念しろよ」と言っている対象は,災害をもたらした「怨霊(鬼神)」に対してであろう。「憂陀那(うだな)」は,『新宮澤賢治語彙辞典』(原,1999)によれば,南風のことだという。すなわち,羆熊になりきっている人物が「鬼神」を威嚇しても,南風に姿を変えた「鬼神」から逆に抜き身で脅されているのかもしれない。

 

詩「休息」と同じ日付である〔青いけむりで唐黍を焼き〕(1926.8.27)の下書稿(二)に「祟り」をもたらすもののヒントが隠されているように思える。

 

〔青いけむりで唐黍を焼き〕

たのしく豊かな朝餐な筈であるのに

こんなにもわたくしの落ち着かないのは

昨日馬車から崖のふもとに投げ出して

今日北上の岸まで運ぶ

廐肥(きゅうひ)のことが胸いっぱいにあるためだ

エナメルの雲鳥の声

熱く苦しいその仕事が

一つの情事のやうでもある

 ……川もおそらく今日は暗い……

  (宮沢,1986)下線は引用者 以下同じ

 

この詩を基に創作された文語詩〔厩肥をになひていくそたび〕にも「熱く苦しきその業に,遠き情事のおもひあり」と「情事」の記載がある。ある女性の影が見え隠れする。「廐肥」とは,厩の家畜などの糞尿と藁などを混ぜて腐らせ,堆肥にしたものである。この厩肥を運ぶ「熱く苦しいその仕事が/一つの情事のやうでもある(あるいは遠き情事のおもひ」とするのは,農業経験もある儀府(1972)によれば,情事そのものが「熱く苦しい」身を焼くようなものであり,また賢治が鼻を刺すような厩肥の強い臭いの中にわずかに混ざっているかもしれないスペルマの臭いを敏感に感じとっているからだという。すなわち,厩肥を運ぶ熱く苦しい仕事→スペルマの臭い→遠き情事の思いとなるようである。

 

もう1つ考えられる。それは,以下に示す口語詩稿「地主」にあるように,「たけしき耕の具を帯びて,羆熊の皮」を着た人物が狩猟と農作業を掛け持ちしていたのかもしれないということである。

 

詩「地主」には「・・・この山ぎはの狭い部落で/三町歩の田をもってゐるばかりに/殿さまのやうにみんなにおもはれ/じぶんでも首まで借金につかりながら/やっぱりりんとした地主気取り・・・一ぺん入った小作米は/もう全くたべるものがないからと/かはるがはるみんなに泣きつかれ/秋までにはみんな借りられてしまふので/そんならおれは男らしく/じぶんの腕で食ってみせると/古いスナイドルをかつぎだして/首尾よく熊をとってくれば/山の神様を殺したから/ことしはお蔭で作も悪いと云はれる/その苗代はいま朝ごとに緑金を増し/畔では羊歯の芽もひらき/すぎなも青く冴えれば/あっちでもこっちでも/つかれた腕をふりあげて/三本鍬をぴかぴかさせ/乾田を起してゐるときに/もう熊をうてばいゝか/何をうてばいゝかわからず/うるんで赤いまなこして/怨霊のやうにあるきまはる」とある。

 

この詩「地主」のモデルは,賢治と小学校時代同級であった笹間村横志田の高橋耕一で,大正13年(1924)の大干魃のときに水不足の打開のために賢治の指導を受けていたのだという(吉見,1982)。高橋の家は小規模な地主であったが,三町地主など小作農民とたいした差はなく貧しいままであった。この詩には,1ヵ月続いた旱魃で不作に見舞われ高橋自らも農作業だけでなく古いスナイドル銃を担ぎ出して狩猟で身銭を稼がなくてはならなかった。しかし,熊を仕留めれば農民から不作なのはそれが原因だと悪く言われ,「もう熊をうてばいゝか/何をうてばいゝかわからず」途方に暮れ「怨霊」のように歩き回っている。ということが記載されている。

 

この詩「地主」は,文語詩「民間薬」の前半部「たけしき耕の具を帯びて,・・・すぎなの畔にまどろめば」の内容に似ている。しかし,「民間薬」に登場する羆熊の皮を着ている者は横志田の高橋がモデルとは思えない。多分,詩「休息」(1926.8.27)に登場する「羆熊」になりきっているのは賢治自身であろう。なぜなら,この頃,賢治自身も水不足で辛酸を強いられていたからである。賢治は教職員時代に農学校の水田管理をしていたときがあった。教え子の小原(1971)によれば,「水源は遠く豊沢川の上流から分岐する水で,田は灌漑路の末端にあるため水の切れることが屢々(しばしば)あった。水田担当の賢治は昼も夜も上流に出かけて水引に苦労した」とのことであった。

 

3)「石の匙」とは

「石の匙(さじ)」とは,つまみ部と刃部を持つ打製石器の「石匙」のことであろう。弥生時代にもあったが,主に縄文時代草創期から晩期にいたるまで存在した縄文時代を代表する石器である。東北地方の縄文遺跡に多く出土する。「匙」とあるがスプーンとして使ったのではない。発見当初は,何に使用したのか分からず,明治の初め頃までは天狗の飯匙(めしがい)の俗称が与えられていた。この飯匙を多少修正したのが「石匙」である。「石匙」と言う名称は,その後修正されずに学術用語となってしまった。実際の用途として,賢治が生きた時代の考古学の書物には,鳥獣の皮を剥ぐための「ナイフ」とされている(高橋,1913)。賢治も「石匙」を「ナイフ」として認識していたはずである。現在の研究では,さらに刃部が詳細に分析されていて,「石匙」の用途の多くは草本植物の切断・鋸引きであるとされている。いわゆる携帯型の万能ナイフである。

 

詩集『春と修羅 第三集』の1048〔レアカーを引きナイフをもって〕(1927.4.26)には,ナイフを持参して災害後の畑の「雪菜」を収穫に行く情景が描かれている。「雪菜」が米沢特産の「ユキナ」であるなら,学名はBrassica Campestris L. var. Chinensis L.であろう。アブラナ科の耐寒性の野菜で花茎(薹)が立ってから収穫する。多分,「ネプウメリという草の葉」も花茎が立つような植物であり,ナイフで切り取れるようなものかもしれない。

 

4)東北イーハトヴに「禍」をもたらしているものは

賢治は,大正11年頃に1年間だが地元の女性と恋愛を経験している(佐藤,1984;澤口,2018)。相思相愛の熱烈な恋であったらしい。しかし,大正13年夏賢治の恋に終止符が打たれ恋人は渡米(6.14)し,そして3年後に異国の地で亡くなっている(1927.4.13)。この女性は賢治の家の近くの飲食業を営む家の娘だという。東北の20代半ばの一女性が家族や一族と一緒ならまだしも単身で異国(米国)の地へ嫁ぐとはとても考えにくいことである。東北の旱魃は恋人が渡米した年を入れて3年あるいはそれ以上続いた。賢治が生きた時代には,東北の旱魃は2年続くことはないとされていた。だから,3年続いた旱魃も自然現象としてほとんど起こりえないことである。これは,私の単なる推測にすぎないが,賢治は大正13年から3年続いた旱魃(禍)と破局に終わった恋が関係していると感じていたのではないだろうか。すなわち,賢治は旱魃が起こったのは自分が原因の「禍」あるいは「祟り」だと思っているのではないだろうか。

 

賢治は,恋人が亡くなって2ヵ月後に「囈語(げいご)」(1927.6.13)という詩を作っているが,そこには「罪はいま疾(やまひ)にかはり/わたくしはたよりなく騰(のぼ)って/河谷のそらにねむってゐる/せめてもせめても/この身熱に/今年の青い槍(やり)の葉よ活着(つ)け/この湿気から/雨ようまれて/ひでりのつちをうるおほせ」(囈語とはうわごとのこと)と記載されている。実際に,翌年8月に発熱して40日間床に臥せっている。両側肺浸潤と診断されている。12月にも急性肺炎を患っている。「罪はいま疾にかはり」の「罪」は下書稿では「瞋い」あるいは「憤懣(ふんまん)」となっている。「瞋(しん)」とは仏教用語で「怒り」とか「恨み」を指す。「瞋」とか「憤懣」とかは自分のものなのか,それとも恋人のものなのだろうか。賢治はまるで自分を犠牲にしてでも罪を償うから,雨を降らせてくれと願っているようにも思える。 

 

賢治は,健康が回復しつつあった昭和4~5年(1929 -~1930)年に,偶然にも北上山系の南にある一関市東山町にある東北砕石工場の鈴木東蔵に出会うことになる。鈴木は「石灰岩」とカリ肥料を加えた安価な合成肥料の販売を計画していて,「東北」の酸性土壌の大地を「石灰岩末」で中和することを夢みていた賢治はそれに賛同する。翌(1931)年の2月には,東北砕石工場の嘱託技師になり,製品の改良,広告文の作成,製品の注文取りと販売など東奔西走する。すなわち,捨て身の菩薩行である。しかし,この仕事も賢治の病弱な体には荷が重すぎていて,また高熱で倒れ病臥生活に戻ってしまう。

 

賢治の未定稿の文語詩の中に「製炭小屋」というのがある。製作時は不明であるが文語詩なので賢治の晩年の作であろう。自分自身を林業従事者の「そま(杣)」に投影させて,肺結核に病み死に直面した晩年の心境を吐露しているように思える。この詩は,歌稿〔B〕第七葉,短歌34の下部余白に「岩手山麓の谷の炭焼き小屋,その老人,カラフトの話・・・・」という題材メモを基にしている。「製炭小屋」の下書稿(一)の「谷」と表題がついている作品には「・・・ぜんまいの茂みの群も/いま黒くうち昏れにつゝ/焼石の峯をかすむる/いくひらのしろがねの雲/「いま妻も子もかれがれに/サガレンや 夷ぞ(えぞ)にさまよひ/われはかも この谷にして/いたつきと 死を待つのみ」(宮沢,1986)とある。

 

賢治は,詩の後半部の括弧内で「いま妻も子もかれがれに/サガレンや 夷ぞ(えぞ)にさまよひ」と独白している。賢治は,米国で亡くなった恋人の「魂」と,ありえたかもしれない結婚とその結果生まれたであろう子供の「魂」が成仏できずに「サガレン(樺太)」や「蝦夷(エゾ)」に彷徨っている姿を岩手山麓の谷に住む「杣(そま)」(林業従事者)に重ねて想像しているように思える。

 

「わざ」を「禍」あるいは「祟り」とし,「わびて」を「侘びて」とすれば,文語詩「民間薬」の大意は次のようになる。

 

旱魃という「禍」をもたらしたのは怒りを持った「怨霊(鬼神)」による「祟り」であるから,三本鍬を手に魔除けとしての「羆熊の毛皮」も着て硬くなった干泥を耕していた。しかし,今年も旱魃が1ヵ月も続き,田植えも思うようにならずにすっかり気落ちしてしまった。スギナの生えている畦でうとうとしていると,額の上の雲が形を変えはじめてきて,村人が「禍」に対して噂する声も聞こえてきた。やがて,雲は「ナイフ」を持った古の巨人の姿になり,その巨人が「ネプウメリ」という草の葉を「ナイフ」で切り取って薬として食べなさいと教えてくれた。

 

では,「ネプウメリ」とは何であろうか。次稿ではこの「ネプウメリ」について考察する。

 

参考文献

儀府誠一.1972.宮沢賢治・その愛と性.芸術生活社.

原 子郎.1999.新宮澤賢治語彙辞典.東京書籍.

欠ヶ端和也.2018.アイヌの器物の具体的な表象・形象 1 ―アイヌが用いる動物・植物意匠―.千葉大学大学院人文公共学府 研究プロジェクト報告書 第326集.11-42.

宮沢賢治.1986.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.

小原 忠.1971.『女性岩手』と賢治作品.賢治研究 8.1-5.

佐藤勝治.1984.宮沢賢治 青春の秘唱“冬のスケッチ”研究.十字屋書店.

澤口たまみ.2018.新版 宮澤賢治愛のうた.夕書房.茨城.195-215頁.

高橋健自.1913.考古学.聚精堂.

吉見正信.1982.宮沢賢治の道程.八重岳書房.