宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

詩「蠕虫舞手」考-燐光珊瑚の環節に正しく飾る真珠のぼたんとは何か-

宮沢賢治の詩「蠕虫舞手」(1922.5.20)に「赤い蠕虫(アンネリダ)舞手(タンツエーリン)は/とがつた二つの耳をもち/燐光珊瑚の環節に/正しく飾る真珠のぼたん/くるりくるりと廻つてゐます/(えゝ 8(エイト)γ(ガムマア)e(イー)6(スイツクス)α(アルフア)/ことにもアラベスクの飾り文字)」(下線は引用者)という詩句がある。赤い小さな生き物は詩の中では「ナチラナトラのひいさま」と呼ばれている。本稿では「ナチラナトラのひいさまは」の「燐光珊瑚の環節」に「正しく飾る真珠のぼたん」が何を意味しているのか考察する。

 

1.燐光とは

「燐光」は,燐(リン;P)の自然発火による青白い光。または外部エネルギーを吸収した物質が熱を伴わない光を放出し,エネルギー補給をやめてもしばらく残る青白い光とある(原,1999)。

 

「燐光」は人の死と結びつけられてきた。人魂(ひとだま)というのがある。主に夜間に空中を浮遊する火の玉(光り物)である。古来より人魂は死人のからだから離れた魂と言われてきた。鬼火(おにび)とか狐火というのもある。人魂の正体については諸説があるが,死体が腐敗して発生したリン化水素(PH3)が空気中の酸素と反応して自然発火するというのもその1つである(Wikipedia)。

 

産経新聞電子版(2013)で,ある種の線虫(蠕虫)は死にゆく過程で紫外線照射により青い蛍光を発するという記事が紹介されていた。『PLOS Biology』という生物の学術雑誌に発表されたものである。この線虫は線形動物門(Nematoda)のシー・エレガンス(Caenorhabditis elegans)で,青い蛍光は自然死だけでなく,極端な暑さや寒さにさらされるなどのストレスが原因で死ぬときでも認められるという。この青白い光は自然発火によるものではないが,新聞の見出しに「ヒトも,死ぬときに「青い光」を放つ?」とあるように,人の死と関連付けようとしている。

 

賢治も青白い「燐光」を死と関連付けて使うことがある。童話『なめとこ山の熊』(制作年不明)では「青い星のような光がそこらいちめんに見えた。「これが死んだしるしだ。死ぬとき見る火だ。熊ども,ゆるせよ」と小十郎は思った。」とある。童話『よだかの星』(1921)では「これがよだかの最後でした。それからしばらくたってよだかははっきりまなこをひらきました。そして自分のからだがいま燐の火のような青い美しい光になって,しずかに燃えているのを見ました。」とある。また,童話『銀河鉄道の夜』で死後の世界を走る銀河鉄道の列車は「燐光の三角標」や「三角点の青じろい微光の中」を走る。

 

詩「蠕虫舞手」でも前記引用詩句に「おどつてゐるといはれても/真珠の泡を苦にするのなら/おまへもさつぱりらくぢやない・・・それに第一おまへのかたちは見えないし/ほんとに溶けてしまつたのやら」と続きがある。蠕虫の死にゆく過程を詠っているともとれる。ただ,死につきまとう重苦しさや深刻さは感じられない。

 

むしろ,詩「蠕虫舞手」の「燐光」は太宰治の短編小説『フォスフォレッスセンス』(1947)に登場する「フォスフォレッスセンス」という花のイメージに近い。「フォスフォレッスセンス」は「燐光」(phosphorescence)という意味である。

 

 私は,それ以来,人間はこの現実の世界と,それから,もうひとつの睡眠の中の夢の世界と,二つの世界に於いて生活しているものであって,この二つの生活の体験の錯雑し,混迷しているところに,謂いわば全人生とでもいったものがあるのではあるまいか,と考えるようになった。

「さようなら。」

 と現実の世界で別れる。

 夢でまた逢う。

「さっきは,叔父(おじ)が来ていて,済みませんでした。」

(中略)

「あたし,花束を戴(いただ)いたの。」

「百合(ゆり)でしょう。」

「いいえ。」

 そうして私のわからない,フォスフォなんとかいう長ったらしいむずかしい花の名を言った。私は,自分の語学の貧しさを恥かしく思った。

「アメリカにも,招魂祭があるのかしら。」

 とそのひとが言った。

                (『フォスフォレッスセンス』太宰 治,1947) 

 

 

太宰の小説で「フォスフォレッスセンス」(燐光)は夢と現実の混迷する場所に咲く花の名前を指している。詩「蠕虫舞手」でも最後の詩句は「みんなはじめからおぼろに青い夢だやら」である。多分,詩の主人公は夢と現実の混迷する白日夢の中で青い光を見ているのだと思う。 

 

2.珊瑚とは

「珊瑚」(サンゴ)は,刺胞動物門(Cnidaria)に属する動物のうち,固い骨格を発達させるものである。宝石になるものや,サンゴ礁を形成するものなどがある(Wikipedia)。 

 

童話『ビヂテリアン大祭』(1923)に「動物の中にだってヒドラや珊瑚類のやうに植物に似たやつもあれば・・・・」とある。賢治は珊瑚を植物のようだと言っている。賢治が「珊瑚」でイメージしているのは,動物のような動きを見せずに樹枝状の群体を作るアカサンゴやベニサンゴなどの美しい宝石珊瑚なのかもしれない。樹枝状の宝石珊瑚は見ようによっては人の「手」にも見える。賢治は御影石の手水鉢(ちょうずばち)の中で踊る「蠕虫」に「手」あるいは「指」のイメージを重ねているように思える。

 

3.燐光珊瑚の環節とは

「環節」とは体節(Segment)のことで,は生物学的には動物体の前後軸に沿い周期的に繰り返される立体的構造単位と説明されている。環形動物や節足動物に認められる(巌佐,2013)。

 

童話『銀河鉄道の夜』で銀河鉄道の列車は死後の世界あるいはジョバンニの夢の中を走る。童話では「燐光の三角標」は以下のように説明されている。

 

燐光の三角標が,うつくしく立ってゐたのです。遠いものは小さく,近いものは大きく,遠いものは橙や黄いろではっきりし,近いものは青白く少しかすんで,或(ある)いは三角形,或いは四辺形,あるいは電(いなずま)や鎖の形,さまざまにならんで,野原いっぱい光ってゐるのでした。ジョバンニは,まるでどきどきして,頭をやけに振ました。するとほんたうに,そのきれいな野原中の青や橙や,いろいろかがやく三角標も,てんでに息をつくやうに,ちらちらゆれたり顫(ふる)えたりしました。  

                             (宮沢,1985)

 

 

真珠のぼたん(空気玉)と青白い光を放つ「環節」を持つ「蠕虫」が水の中で踊っている様子を童話『銀河鉄道の夜』の「燐光の三角標」の記述になぞらえてみる。

 

青白い光を放ち環節に正しく真珠のぼたんが飾られている小さな赤い蠕虫が水の中で踊っています。深く潜っているのは小さく,浮き上がって近いものは大きく,深いいものは赤や影の黄いろではっきりし,近いものは青白く少しかすんで,或いは8(エイト),或いはγ(ガンマア),あるいはe(イー)やスイックス・アルファの形,さまざまで,水の中いっぱい光ってゐるのでした。わたしは,まるでどきどきして,頭をやけに振ました。するとほんたうに,そのきれいな水中の青や赤や,いろいろかがやく環節をもつ生き物も,てんでに息をつくやうに,ちらちらゆれたり顫(ふる)えたりしました。となる。

 

4.燐光珊瑚の環節に正しく飾る真珠のぼたんとは何か

では,「燐光珊瑚の環節に正しく飾る真珠」の「正しく飾る」とは何を意味しているのであろうか。別の言葉で言い換えれば,青白い光を放つ「環節」を持つ「蠕虫」に真珠が正しく飾られているとはどういうことであろうか。真珠を気泡と置き換えてみてもよく分からない。「蠕虫」の体に付く気泡に正しい付き方などあるのであろうか。

 

前稿で私は詩「蠕虫舞手」の「蠕虫」(赤い小さな生物)はプラナリアやイトミミズやボウフラのキメラがイメージされていることを述べた(石井,2023)。これは,私の憶測でもあるが「赤い小さな生き物」にはこれら小さな生き物以外にも何か得体の知れない物がキメラ化されているような気がする。例えば人間の「手の指」のようなものである。指でも特に左手薬指である。薬指には「環節」とは呼ばないが第1関節(DIP関節)と第2関節(PIP関節)と第3関節(MP関節)がある。「環節」のように,指の先端から付け根(第3関節)に沿い周期的に繰り返される立体的構造単位がある。

 

珊瑚が「手」の暗喩になっているなら,「環節」は「手」の「指の関節」の暗喩でもある。すなわち,燐光珊瑚の「環節」とは白日夢の中で賢治が見た青白い光を放つ赤い美しい「環節」を持つ生き物であるが,赤みを帯びた「手」の「指の関節」をも暗に示しているようにも思える。詩のタイトルにも「踊り子」あるいは「舞姫」ではなく「舞手」と記載している。踊っている赤い小さな生き物は「ナチラナトラのひいさま」なのだから「舞姫」の方が相応しいように思える。しかし「舞手」なのである。

 

日本心臓財団のHPに『心臓に直結した薬指』という記事が掲載されていた。要約すると,「手指のうち一番動きの悪い第4指は,薬を混ぜたり紅をつけたりするのに好都合なことから薬指(くすりゆび)あるいは紅差し指(べにさしゆび)と呼ばれ,西洋ではこの指から心臓に直結する静脈がでて愛情や誠心にも通じているという言い伝えから,愛の印である結婚指輪をつける「環指」(ring finger)になった。また,医学では薬指(やくし)あるいは環指(かんし)と呼ぶ。」である(川田,2023)。

 

薬指に結婚指輪をはめる習慣は現在ではキリスト教国のほとんどでみられる。ローマ・カトリック教会では親指と隣の二本の指は三位一体trinityを表すといい,ゆえに花婿は「父の名において」といって親指に触れ,「御子の名において」といって人差し指に触れ,「聖霊の名において」といって中指に触れる。そして最後に「アーメン」という言葉とともに指輪を薬指に固定する(川田,2023)。婚約時に固定する場所は左手の「環指」(ring finger)の第2関節(PIP関節)と第3関節(MP関節)の間である。

 

つまり,「燐光珊瑚の環節」とは白日夢の中で賢治が見た青白い光を放つ赤く美しい「環節」を持つイトミミズやプラナリアなどが合体したキメラの生き物であるが,宝石珊瑚のような赤みを帯びた人の左手の薬指の「関節」をも意味しているように思える。「正しく飾る真珠のぼたん」の「正しく」とは,婚約時に指輪を左薬指の第2関節(PIP関節)と第3関節(MP関節)の間に固定することを言っているのだと思われる(第1図)。

 

第1図.左薬指の第2関節と第3関節の間に固定された真珠の指輪.

 

詩「蠕虫舞手」には1922年5月20日の日付が付いている。この頃,賢治には恋人がいた。いつ頃かは定かでないが結婚の約束もしていた。寓話『シグナルとシグナレス』(1923.5.11~23)では賢治が投影されているシグナルが恋人のシグナレスに婚約指輪を贈っている。この指輪は琴座の環状星雲M(メシエ)57を宝石に見立てたものである。童話『銀河鉄道の夜』(第二次稿)にキリスト教徒らしき〈女の子〉の姉が細い銀色の「指輪」をいじっているシーンもでてくる。多分,賢治は恋人に婚約指輪を贈ったのだと思われる。恋人は賢治の前で左薬指にはめたこの指輪をくるりくるりと廻していたのかもしれない。

 

結婚というテーマで作った詩も残されている。詩集『春と修羅 第二集』のアイルランド風というメモ書きのある「島祠」(1924.5.23)には,「鷗の声もなかばは暗む/そこが島でもなかったとき/そこが陸でもなかったとき/鱗をつけたやさしい妻と/かってあすこにわたしは居た」とある。前世では海の底で「人魚」(妖精;Nymph)の妻と結婚していたかもしれないという切ない恋歌である。恋人を「妖精」の「人魚」に喩えたのは,恋人が飲食業を営む実家の手伝いをしていて手が魚の鱗のように荒れていたからだという(米地,2015)。恋人の「手」が荒れていたのは澤口(2010)がすでに指摘していた。澤口は文語詩〔なべてはしけく よそほひて〕の下書稿にある「フェルトの草履 美しく/なべての指は 荒みたり/さもいたいけの をみなごの/オペラバックを 振れるあり」(下線は引用者)の荒れた指は恋人のものだという。

 

もしかしたら,詩「蠕虫舞手」創作時にも恋人の「手」は荒れていて,左薬指には「ささくれ」ができていたかもしれない。「ささくれ」とは手の爪の根元を覆う後爪郭の表皮が剥けた状態やその表皮のことをいう(Wikipedia)。「ささくれ」のできた薬指に固定された真珠の指輪を第1図に示した。指は「環節」を持つ「蠕虫」のように見え,また「ささくれ」は「尖った二つの耳」のように見える。賢治は白日夢の中で,手水鉢の中で空気玉を付けて踊る「尖った二つの耳」を持つ「蠕虫」を見て,恋人の左薬指を思い浮かべているのだと思う。

 

参考・引用文献

石井竹夫.2023.宮沢賢治の詩「蠕虫舞手」に登場するナチラナトラのひいさまはどんなお姿をしているのか.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2023/04/26/095000

巌佐 庸 他.2013.岩波生物学事典 第5版.岩波書店.

宮沢賢治.1985.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.

川田志明.2023(調べた日付).日本心臓財団-耳寄りな心臓の話(第29話)『心臓に直結した薬指』. https://www.jhf.or.jp/publish/bunko/29.html

澤口たまみ.2010.宮澤賢治 愛にうた.盛岡出版コミュニティー.

産経新聞.2013.ヒトも,死ぬときに「青い光」を放つ?https://www.sankei.com/article/20130730-EZ4CXQ74A5NSBF2NMGUZA4NMAM/2/

米地文夫.2015. 宮沢賢治の詩「島祠」における架空地名・三稜島の時空間の謎-人魚 の棲むアイルランド風の島と東北地方との関わり-.季刊地理学 67(2):149-150.